井之頭五郎は、ただただ腹が減っていた。そんな彼が、ただ飯を食うお話。
……とにかく腹が減っていた。
俺は井之頭五郎。個人で輸入業を営んでいるしがない男だ。今日もその仕事を終えたばかりで、ただただ腹が減っていた。仕事の途中からそればかり考えてしまいしょうがなかった。
そうして、この町の住宅街を彷徨っている訳だが───
開けた空。飛び交う鴉。階層の低い建物。古き良き時代を思い起こさせる町だ。田舎の土地が余るという特徴を顕著に現した町並みが、どこか俺の心に懐かしさのようなものを齎してくる。だが、俺の心はそれを撥ね退けた。今考えることはただひとつ。
───どこかに飯を食べれるところはないのか?
歩けど歩けど民家ばかりだ。食事処のしの字も見当たらない。それどころか出歩く人も少なく、まるで俺はこの街と共に時代から取り残されてしまったように錯覚する。
そんな妙に気味の悪い感覚と共に彷徨い歩き数十分。
───どうやら俺は路に迷ったらしい。
開けた交差点に立つ。白い大きな建物がその角にあるが、あれは石材加工場か何かだろう。白い大きな石が疎らに並べてある。……あるのだが───そこで働いている人間はいないのだろうか? 閉められておらず、開けっ放しだというのに、人の気配はなくただただ閑静な場所だった。
道を聞こうにも誰もいない。俺は取り敢えず、来た道通り進んでいくことにする。
あれは───
点灯している黄色のランプが目に入った。おそらくあれは営業中を表すものではないか。ああ、そうだ。如何にもよくある街角の食事処と言った感じの場所だ。
ここだ、こういうのを俺は探し求めていたのだ……。
そこは住宅に身を屈めるように紛れ込んだ麵屋だった。ランプは店の看板に取り付けられており、それには『嬉家』と書かれている。この店の名前だろうか。
……まぁ、そんなことはいい。今は腹が減っている。それだけなんだ。
「らっしゃ~い」
店に入れば木造の床・テーブルなどが目に入ってきた。左手のカウンター型の厨房から髪の短い朗らかそうな男性が、気前よく迎えてくれる。
俺は手前に会った椅子に座った。この店は壁にメニューが書かれておらず、テーブルに立てかけられた注文表を見るしかないようだ。その注文表に手を伸ばし、やや肌触りの悪いそれをパラパラと開く。
さて……何を食べようか。
この店はうどんやそばを中心に扱っている店だ。丼ものもあるが、ここに来たからにはやはり麺が食べたい。俺の腹は今は麺しか受け付けない。
……ん?
ふと目に付いたメニューの文字。そこには、セットメニューという魅惑的な文字が静かに寝そべっている。
なんだ、丼ものと麺のセットもあるじゃないか。そうなれば話は違うな。麺は俺の腹に生気を吹きかけ、丼ものはその腹を優しく癒してくれるだろう。ならば……ここは親子丼にうどんがいいだろう。
「すみません」
「はい、ただいま!」
先程の男性が足早に向かってくる。手にはメモ帳のようなものが収まっており、手には何の変哲もないボールペンが握られている。何ともアナログな手段だ、この店らしい気もするが。
「親子丼のうどんセットで」
そんな彼に向けて、俺はなるべくはっきり、相手に聞き直されないように伝えた。何度も言い直すのは好きじゃないからだ。
ところが、彼は俺の言葉を聞くや否や少し苦い笑みを浮かべた。言葉はしっかり伝わっていると思うのだが……。
「あー、お客さんすみません。親子丼、今やってないんですよ」
「あ、そうなんですか…」
なんだ、やってないのか。そういうことははっきり注文表に書いておいて欲しい。
しかし参ったな。すっかり親子丼にしようと思っていたのに、今の俺の腹は親子丼以外の丼ものを受け付けないぞ……。
───ん?
腹の中で詰まる思いを抑え込みながら、そっとメニュー表に視線をずらす。その思いを誤魔化すようなつもりだったそれなのだが───そうはならなかった。その思いなど、すぐさま忘れてしまった。……これまた妙なメニューが俺の目に飛び込んできたからだ。
……黒唐揚げとは一体なんなのだろうか?
メニューの一部を大きく独占している黒唐揚げと言うもの。それは不思議なことに俺の目を引き付けた。
「あの……すいません。黒唐揚げってどんなものなんですか?」
「はい、そちらはこのあたりの名物です。ヒジキや椎茸を混ぜて作られていまして、ヘルシーなんですよ?」
「はぁ……」
そんな黒いものを混ぜたら確かに黒くなってしまうな。しかしなんだ、俺の腹はその一風変わった唐揚げに興味を示したらしい。ここは少し冒険してみようじゃないか。
「じゃあ……黒唐揚げ定食を」
「はい、ビーテイ一丁!」
快活な声で男性が厨房に入っていった。ビーテイとは黒唐揚げ定食の略か何かだろうか。
……さて、注文さえすれば余裕が生まれるものだ。少し店内を見渡してみれば今俺が座っている一人客用席の他に4人用テーブル席が3つ、その奥に座敷があるのが見える。座敷の奥は庭でもあるのだろうか。微かに緑が目に入る。
訪れている客もまたこの辺の住人のようで、部屋着のようなものを着ている中年女性の集まりや、作業着を着ている男性などが椅子に腰かけていた。もしかするとあの男性は先程の工場の職員かもしれないな。
さながら集会所のように、この辺りで暮らす人々が集まる店のようだ。そういう店らしい雰囲気を感じる。
「お待たせしましたー」
お、来た来た。先程の男性が運んできてくれる黒唐揚げ定食。注文からそこそこの時間が流れたな、どうやらこの店は準備にそれなりの時間を掛けるらしい。……つまり、それだけ手が込められているんじゃないだろうか?
さて、実物の黒唐揚げとはどんなものなのだろう。
『黒唐揚げ』……揚げたてで、油が光っている。色は黒一色。
『うどん』 ……お椀が大きく、その分汁も多い。麺はほどほどの太さ。
『ご飯』 ……茶碗一杯に盛られている。唐揚げの良いお供。
『漬物』 ……沢庵ときゅうり。至ってシンプル。
『サラダ』 ……千切りにされたキャベツに、カットされたトマトが2つほど。
───これが黒唐揚げか。想像以上に真っ黒だな。……焦がした唐揚げとは違うのだろうか? そんな少しの疑念を抱きながらも箸で1つ摘まみ、口に運んでみる。
カラッとした揚げ具合に普通の唐揚げに比べると少し落ち着いた味。別段焦げている訳でもなく、揚げたてらしい味だ。
「ウン、うまい」
ヘルシーといってもやはり唐揚げだ。唐揚げらしい味はしっかり残しており、ご飯にもよく合う。米のお供には十分だ、漬物もあるため味の切り替えにも応用が効く。
「ここの麺は手打ちらしいが……」
米を飲み込んだら、うどんに手を付ける。伸びる前に食べなければ。
ズズズゥ
3,4本掴み、啜れば腰の強い太麺がスルリと口の中に滑り込んできた。茹で具合もなかなかよく、のど越しも悪くない。
いいじゃないか、唐揚げもうどんもうまい。そして漬物やサラダ。こちらは唐揚げやうどんという重いものを優しく宥めるようで、いい塩梅を醸し出している。口当たりも爽やかだ。
「すいません、天ぷらうどん」
「あと、おろしにしんのそばも!」
他の客の注文が聞こえてくる。疎らに飛び交う注文を聞いていたが、黒唐揚げを頼む客はあまり多くないようだ。やはり名物と言うだけあって地元の人間はあまり頼まないのかもしれないな。それともやはり黒というイメージのせいだろうか?
確かに味も栄養分も悪くないが、如何せん見た目が微妙だ。黒一色では焦げているようにしか見えないのだが……。注文表にもっと詳しく書いておけばいいのではないだろうか。黒唐揚げ───名前もあまり興味をそそらないな。そのあたりを改善すればもっと売れるだろう。
「……ふぅ、うまかった」
しっかり完食し、うどんの汁もよく味わった。俺の腹も満足したようだ。もう十分、仕事上がりの飯としては中々の高得点だ。
「すみません、勘定を」
「うぅ、少し食いすぎたかな」
うどんの量が多かったので少し腹が重い。どんぶり自体も大きかったし、汁も些か飲み過ぎたのかもしれない。しかしまぁ、すっかすかの状態に比べればマシだな。
……ん、あれは───
腹を押さえる俺の視界に入り込んで来たのは、シンプルな作りの案内図。
なんだ、道案内表があるじゃないか。……うん、バス停にはここまで来た道の反対方向へ行けばいいのんだな。
「おい、嬉家行ってたのか」
「ああ、きつね食ってたよ」
男の声が先程の工場から聞こえる。やはり先程の男性だ。
……空腹に苛まれている時には分からないものが多いな。やはり腹が減ると焦る。焦ると周りが見えなくなる。
俺はこの満腹感を味わいながら、ゆったりとバス停に向けて歩きだす。やって来たバスに乗ればいいだろう。そう思った。
お目汚し失礼しました。
1年近く前に書いたこの小説ですが、色々ありまして非公開にしておりました。何だかもったいなかったので、これだけ短編として投稿した所存です。元々が変なオリジナル要素があったので、それを取っ払ってなるべくオリジナルに近づけたつもりです……。
この作品もモンハン飯実行までのプロセスだと思うと、何だか感慨深かったり。それでは失礼します!