その日、比企谷八幡は自ら命を絶った。   作:羽田 茂

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こうして、私達の青春ラブコメは幕を閉じる。中

 キンッと高い接触音が部屋に落ちる。

 金属製のスプーンが枯茶の液体の水面に波を作り、垂らされた白がその表面に歪んだ円を(えが)いていた。

 

「あ、砂糖いりますか?」

「え?……あ、うん。……お願いします」

 

 比企谷家のリビングのカーテンは堅く閉じられ、外界から光を可能な限り遮断している。

 しかし、雑音まで消す事は出来ない。外から聞こえる不特定多数、大勢の声が私の耳を穿つ。

 それが少しずつ私の精神を削っていくのを感じていた。

 

「どうぞー」

 角砂糖の入った透明なガラスの瓶を、コップの横に置かれる。

 

 

「……ありがとう、…小町ちゃん」

「いえいえ、お気になさらずに!」

 薄く、薄く笑いながら、小町ちゃんが胸元で小さく手を振った。

 

 白い四角を多めに4つ程落とすと、水面にぽちゃんと丸い波紋をつくっていく。それはコップの縁に伝わると跳ね返り、他の波紋とぶつかり合い消えた。

 私はその光景を、ただジッと見つめる。部屋を沈黙が支配する。

 時計の長針の動く音が微かに聞こえる。

 

「五月蝿いですよねー、アレ」

 不意に小町ちゃんが呟く。

「…うん」

 私はそれに首を小さく振るだけ。

「冷めますよ?」

「…うん」

 短く返し、両手を使いコップを持ち上げ中身を喉に流し込む。

 喉を焼くような甘さが口内に容赦無く広がっていく。思わず咳き込んでしまいそうになるのを必死で我慢し、顔を俯かせる。

「………ッ」

 全て流し込み終えると、鼻の奥がツンとした。

 

 

 私が先輩に何か奢ってくださいとせがむと、彼は必ずと言っていいほど嫌そうな顔をしていたのを思い出す。

 それでも渋々といった感じで奢ってくれたところがポイント高かった。

 

 先輩に対して、何を買って欲しいか注文しない日がたくさんあった。そんな日彼は必ず甘い、甘いコーヒーを私に買って来た。

 その度、私は彼にぶーぶーと文句を垂れていたっけ。

 そして、一口だけ口を付けるとすぐに、これ以上飲めないと言い、彼にまだ中身のたっぷりと入っている黄色い缶を突き返していた。

 

 間接キス。

 

 我ながら乙女なものだと思う。

 その度、顔を真っ赤にしながらドギマギする先輩の姿が、可愛くて大好きでした。

 先輩は気付いてなかったと思いますけど、私もすっごく恥ずかしかったんですよ。そして、気付いて欲しかったです。

 

 ……気付いてほしかったです。

 

「………ウッ……ッ……」

 涙が再び頬を伝う。

 私が嗚咽を漏らしている間、小町ちゃんは何も喋らず、何も聞かずじっと座っていた。

 

 どれ位経っただろう。

 空になったコップを机の上に置き、顔を上げる。

 

「落ち着きましたか?」

「…うん」

 勿論嘘だ。

 気を抜けば今にも涙が流れてしまいそうなのを、意志の力で抑えつけている。内側に溜まった涙が枯れる気配はない。

 

「あ、どうです?おかわり注ぎましょーー」

 

「どうして……」

「はい?」

「……どうして、泣かないの?悲しく…哀しくないの?」

 私の問いに、彼女の動きが一瞬だけだがピタリと静止する。

 

「どうして、そう思うんですか?」

 小首を傾げながら彼女はそう私に問う。

「それは……」

 

 泣いた跡が少しもなかったから。そして、態度が思っていたよりずっと落ち着いていたから。

 

 黙りこくった私に小町ちゃんはまたも静かに薄く、それでいて苦く微笑んだ。

 

「まぁ、なんていうかですね。実感が沸かないんですよ」

「じっ……か…ん?」

 私の拙い鸚鵡返しに小町ちゃんは「はい」と返す。

 

「だってです、数日前まで兄は確かに居たんですよ…。ここに、居たんですよ。」

 彼女は言葉を止め、そっとカップに視線を落とした。そして、意味もなくその中身を掻き混ぜ始める。

 

「それが突然行方不明で自殺の可能性が高い、なんて言われてすぐに『はいそうですか』って呑み込めるわけないじゃないですか」

「……」

「頭の中がぐちゃぐちゃなんです。分からないんです」

 顔を上げ、虚空を見つめる彼女の顔はやはり微笑んだままだ。

 それが、酷く悲しかった。

「それ以上先を。あるところから先を考えようとすると、頭の中が真っ白になっていくんですよ。だから……。だからですかね」

 そこまで言い終えると彼女はカップを持ち上げ、ぐっとその中身を呷る。

 

 そして一息吐くと

「いろはさんは、どこまで知っているんですか?」

 私にそう問い掛けてきた。

「え?」

 どこまで……って何が?

 それがそのまま顔に出ていたのか、小町ちゃんが顔を上げながら「あー……」と声を出す。

「すいません。少し言葉足らずでした」

 自分で自分の頭をてへっと小突き、えーと、ですね。と付け足す小町ちゃん。

「いろはさんは今回の事件、兄の行方不明についてどこまで知っていますか。……どこまで情報を得れていますか?」

「……どうして、それを?」

「まぁ、疑問もいろいろあると思いますが、そこをなんと」

 彼女が言葉を発している最中、突然音楽が鳴り響いた。

 音源は小町ちゃんのポケットからのようで、重苦しい空間を嘲るように陽気な曲が鳴り響く。

 彼女はそれにはぁっと息吹くと、ポケットの中から携帯電話を取り出した。

 

「すいません、ちょっと電話出ていいですか?」

「…え、うん」

 

 疑問の声をあげる私に、彼女は小さく頭を下げる。

 そして、私がそれ以上何か言うよりも早く、リビングから出て行ってしまった。

 パタンと薄い音を立てながら扉がしまる。

「………」

 私は椅子の上で膝を抱え、膝の間に顔を埋める。

 そして、彼女の帰りをじっと待つ。ジッと。じっと。

 

 

 

 廊下を歩く音が聞こえてくる。帰ってきたのだろうか。

 顔を上げ時計を見ると、小町ちゃんが出て行ってから20分程時間が経過していた。

 〝いつの間に〟と思いながら、私はゆっくりと頭を上げ、脚を椅子から下ろす。

 

 足音が近付いてき、扉の前でピタと止まる。そして、ゆっくりと扉が開いた。

「小町ちゃん…、おかえ…」

 そこまで言いかけた所で、小町ちゃんの後ろに他の人影がある事に気付いた。

 

 

 首を垂れ、その顔全てを視認できなくとも私には分かる。

 いや、きっと総武校の生徒であれば、誰でも分かるだろう

 

 ″雪ノ下雪乃〟″由比ヶ浜結衣〟

 

 学校一の秀才。極め付けに美少女。

 学校一のトップカーストに所属。そして、やはり極め付けに美少女。

 

 彼女たちの顔を見て思う。

 

 酷い顔。

 

 垂れ下がった眉尻。二人とも憔悴仕切った顔をしており、目に絶望を湛えている。その眼は真っ赤に充血しており、まるで兎のようだ。

 隠し切れない嗚咽が二人の間から漏れ出し、涙が重力に従いぼたぼたと落ちている。

 

「ただいまです、いろはさん。あ、お二人もどうぞお好きな所に掛けてください」

 

「うん…ッ……ありがとう、小町ちゃ……」

 そこで由比ヶ浜先輩が私の存在に気付いた。肩がピクリと小さく跳ねる。

 その反応は、どうやら私のことを知っているようだった。だが、考えてみれば当たり前だ。私は総武校の生徒会長なのだ。

 

「……こんにちは」

 私は座ったまま小さく頭を下げる。

 

 

「すいませんいろはさん。えーこの二人はですね」

「あ、だ、大丈夫。知ってるから。……雪ノ下、雪乃先輩と由比ヶ浜結衣先輩……ですよね?」

 私の問い掛けに二人は首を縦に振る。

 それを見て小町ちゃんが、″面識があるのなら自己紹介は必要ないですね〟と言った。

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 目の前にコップが置かれる。

「……ありがとう、小町さん」

 微かに白い湯気を表面から流すコーヒーカップに冷え切った手を当てた。

 

 何故一色さんがここにいるのかが分からない。

 彼女は暗く陽の翳った様な表情をしており、目元は酷く腫れ上がっている。そして強く噛み締めたのだろう、唇から微かに血が流れた跡があった。

 

 彼の長所は、優しさは他人には理解されにくい、その優しさに気付くには長い時間を要する。薄い関係の人物ならば、ここまで取り乱す事は無い。

 なら、彼女は彼の一体。

 

 頭の中に湧く疑問を打ち消すように唇をコップに付け、苦味に舌を委ねる

 それにより、頭のゴチャゴチャが少しだけ(おさま)った。

 

「…小町さんはどうしてあそこに?」

「あそこ?」

「道の途中で私達を待っていたわよね?」

 私達が比企谷君の家にだいぶ近付いてきていた道すがら、彼女が立っていた。

 当然、と言うとあれだけれど、私達は小町さんに連絡など入れていない。

 けれど彼女は、まるで最初から私達がくるのを分かっていたかのようにそこに立っていた。

 

 私の言葉に小町さんは「あー」と声を発っし、

「連絡を頂いたんですよ、平塚先生から」

 彼女の言葉に、一色さんの肩がピクリと動いた。そして、マジマジと小町ちゃんの顔を見る。

「……そう」

 疑問も解け、私はカップを一気に呷りその中身を飲み干す。

 別に疑問であればなんでも良かったのだ。ただ、少しでも頭を落ち着かせたかっただけ。

 しかし、依然鼓動は荒く、コップの縁を持つ手は震えている。

 

「どうやらみんな飲み終わったようですね。それじゃあ、そうですね本題に入りましょう」

 小町ちゃんはそう言うと、ポケットからスマホを取り出し、指を動かす。

 そして、

「コレをご存知ですか?」

 ひょいっと私達の目の前に、画面を突き出してきた。

 

 ……?

 

 私は身を乗り出すようにして画面を見る。

 映し出されているのは男性の背中。一人の男性の背中だ。

 

 

 それを目に映した瞬間。世界が茫と滲んだ。

 拒否。拒絶。

 

 

 脳の回転が急に鈍くなっていき、意識が緩やかになってゆく。

 

 例えるならば、貧血。

 例えるならば、目が覚めたばかりの暖かな朝。

 例えるならば、柔らかな脳を優しく掴まれたような。

 

 まるで境目に薄い膜が張られているようだった。

 

 高い。けれど決して不快ではない、こういうと矛盾を孕んでいる様に聞こえるが、静かな耳鳴りが頭の中を掻き混ぜる。

 耳鳴りに続くように、遠くで女性の…由比ヶ浜さんの悲鳴が聴こえた。

 

 私は机から身を乗り出すようにしながら画像を見る。

 

 写真の中の景色は冬。

 背景に並ぶ、寒々とした葉の生えていない樹々が私に教えてくれた。

 

 写真の中の舞台は学校。

 写真の端に映っている、見慣れた体育館の壁の色調が私に教えてくれた。

 

 写真の中の人物は学生。

 皺くちゃに汚れはだけた、写真の人物が着ている衣服が私に教えてくれた。

 

 写真の中の人物は。写真の中の人物は。

 

「誰……?」

 

 顔は見えている。横顔が見えている。目がこちらを見ている。

 なのに誰か分からない。……分からない…?

 

 いろはさんが口元を押さえながら、何処かに駆けて行く。

 

 

「あッ……」

 唇が細々と震える。

 …え?誰?…この人物は誰なの?

 

 私は口元を押さえる。目が潤む。

 

 背中に大きく書かれた文字。

 ただ、絵の具に水を含ませ過ぎたのか。

 重力に沿って、赤い線が下へ、下へと何本も。何十本も伸びている。

 

 真っ赤な背中。

 

「ヒッ…ィ…が……」

 喉が乾く。舌の湿り気が無くなって乾燥していく。

 

 

 痣。何故今まで気付かなかったのだろう。

 紫檀(したん)。葵。紫式部(むらさきしきぶ)。葡萄。燕脂(えんじ)色。朱殷(しゅあん)(しんく)(あかね)(あけ)栗梅(くりうめ)葡萄(えび)柘榴(ざくろ)深緋(こきあけ)

 

 赤黒く変色した皮膚が、彼が尋常では無い期間暴力を振るわれていた事を物語っていた。

 剥げた皮膚はピンク色に。その内側にはポツポツと雨粒のように照る血液が。

 

「あ…ッあ……」

 

 柔らかな脳に優しく触れていた指が、突然狂気をもって私の脳に爪を掻立てた。

 靄のかかった様な思考が嫌に透き通ってゆく。澄んでゆく。

 逃避をした私を逃さぬ、現実への片道切符。

 

「比企……が…君……」

 彼の表情。

 

「ああッ……」

 

 

 

 現実が私に追いついた。

 

 

 

「い…いや……ッ」

 

 膝が仔鹿の様に震える。

 私はその場から逃れようと、椅子から立ち上がり走り出そうとする。

 けれど脚がいう事を聞かず、私は椅子から転げ落ちた。受け身を取ることさえ忘れ、身体を冷たい床に打ち付ける。

「や……」

 瞳からボタボタと涙が溢れ、視界がグチャグチャになる。

 そこまで強く打ち付けたワケではないにも関わらず、そこはまるで熱釘を打ち込まれたかのような激痛を私に伝えてくる。

 

「イヤぁああ″あああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

 

 喉から疳高い叫び声が発せられた。

 一瞬それが、本当に自分の喉から発せられたものだったのか分からなかった。

 喉がギチギチと音を立て、果てしない嘔吐感が襲ってくる。

 

 酷使される事に慣れていない喉はあっという間に熱を帯び、掠れた声しか出さなくなってしまう。

「ーーーーあああーーーーあ″ああーーーッ」

 それでも私は唾液を垂らしながら絶叫し続ける。

 

 不快感が私を窒息させようと、実体のない黒い液体で喉を満たそうと溜まっていく。

 ″怖い〟

 声を出さなければ、叫ばなければそれがあっという間に溺れ、窒息してしまいそうだった。

 

「ゥ゛あ……ぅッぅうあ゛ーーーーーーーーーーッ」

 

 知らなかった。何も知らなかった。彼が。彼がこんなになっているだなんて。

「やっぱりなにも知らなかったんですね」

 

 平坦な声を出しているにも関わらず、彼女の表情は笑みを浮かべている。そのアンバランスな光景が、腸を引き摺り出すように私の記憶を刺激した。

 

『もうボケたのか?』

 

 あの日の放課後、夕暮れに沈んだ部室。小町さんの表情は、あのときの比企谷君とどこか似ている。

 自然に吊り上がった口角。その表情は柑橘系のように爽やかな笑みにも関わらず、私にはそれがいっそ実体を持った悪意の様に感じられた。

 優しかった彼と同じ顔を模した別人のようだった。

 それを比企谷君だと認めたく無い、彼からは微塵も優しさなど感じられないから。

 

「羨ましいですよ先輩達が。内を吐き出せて」

 ″小町はそのやり方すら忘れちゃったみたいですから〟

 

「コレでこうなっちゃうんじゃ、今日はもう無理そうですね」

 私を、私達を見下ろしながら小町ちゃんが呟く。

 彼女がどこかに去ってゆき、足音が遠ざかっていく。

 

 ーー否、違う。コレは。

 

 

 

 そこで私の意識はプツリと途切れた。

 

 

 

    ×   ×   ×

 

 

 私の前を一人の男性が歩いている。

 

 

 だるそうにポケットに手を突っ込みながら歩む、猫背気味の背中。身長はごく平均的で体型は肥り気味でもなく、痩せ気味でもない。ごく一般的な中背中肉というものだ。

 頭からはぴょんとアホ毛が垂れており、それが彼の動きに合わせるようユラユラと揺れていた。

 

「比企谷……くん」

 

 彼との距離はかなりある筈にも関わらず、私の呟きが聴こえたのか、歩みを進めていた彼の足がピタと止まる。

 そして、ゆっくりとこちらを振り向いた。

 比企谷君の顔は夕焼けの逆光によって黒く染まっており、その表情を伺うことが出来ない。

 ただ、ただ……笑っている様だった。

 

「雪ノ下」

 

 彼は私の名前を呼ぶと体の向きを変え、こちらに歩いてきた。

 背の低い雑草が音を立てながら潰れる。

 

 彼が私の目の前に立つ。

 その距離は僅か10センチ程度のものになっている。しかし、依然その顔は深い影を落としその表情を隠す。

 いえ、影という言い方は的確ではないかもしれない。

 

 穴だ。彼の顔に真っ黒な空洞が空いているようだった。なのに、

 

「……どうして笑っているの?」

 

 私には彼が笑っている様に感じてならない。

 

 彼は私の背中に手を回し、ぎゅぅと私を抱き締める。

 すると、身体が触れ合った部分から″ぐちゃり〟と音が鳴り、そこから液体が垂れ出した。

 

 ぼちゃ、ぼちゃ、ぼちゃりと地面に衝突した赤は土に吸収されることなく、辺りに小さな水溜りを作っていく。

 

「憎い」

 

 彼がポツリと漏らす。

「憎いよ、雪ノ下」

 

 ぼちゃ、ぼちゃ、ぼちゃり。血溜まりは少しずつ少しずつその領土を広げていく。

 

 足元が全て真っ赤に染まった頃。

 突然、彼の身体がズルっと地面に落ち、熟れ過ぎたトマトのように外側が剥がれ、その内側を地面に散らした。

 飛び散った赤が、すでに真っ赤になった私の頬を更に赤く染める。

 そこに抽象性は一切無い。いっそ嫌悪感を感じるほどリアルな臓物が、あたり一面にまた違った色の水溜りを作った。

 

 ジッと下を見る。

 視線の先にあるのはただの肉塊。そこに比企谷八幡の尊厳は何一つ遺されていない。

 

 背中が熱を持つ。それに続く様に次々と身体中が熱を帯び始める。

 

 痛い。痛い、いたい。

 

 自分の皮膚がズルズルと垂れ落ちていく。

「あ……あッ……」

 それはなんの警告も無く、あまりにも突然の出来事だった。

 

 垂れ落ちていく部分から赤い肉が覗き、それが先程感じた嫌悪感を上回る嫌悪感を私に糊塗する。

「……イ…やぁ……」

 腕が″ぐじょっ〟と音を立て地面に落ち、そこから流れ出す鉄分と赤血球が、ジワジワと赤の面積を広げていく。腕から白い塊が 剥き出しになった。

「イヤぁああ………」

 目の前で比企谷君が嗤っている。

 

 彼はぐちゃぐちゃになった私に、人差し指を突き出しながら言う。

「もう、壊れたのか?俺はまだ保ったぞ?もう狂ったのか?俺はまだ保ったぞ?」

 

「あ……ああ″…ああ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

「あぁああ″ああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

 

「雪乃ちゃん!?」

 

 手を滅茶苦茶に振り回し奇声を発する。何処からか声がする。

 

 必死でそれに縋り付こうとするが、涙で歪んだ視界ではそれを探し出す事すら困難で、その手は空を切る。

 その度に焦燥が、恐怖が私の息を詰まらせる。

「誰かぁあッ!!誰かぁあああーーーーーーッ!!」

 瞼の内側を孤独感が埋め尽くす。

 

「誰かぁ…………」

 無意識の内に手を前へ前へと突き出す。何にでもいい、何かに触れなければ心が壊れてしまいそうだった。悪夢に囚われてしまいそうだった。

 

 突然、身体が暖かいものに包まれた。

「大丈夫だよ。大丈夫」

 柔らかい声に頭の中が一瞬真っ白になったが、すぐにそれを離さぬように力の限り抱き締める。

 爪を突き立て離さぬように、存在を確認するように手をせわしなく動かす。突き立てた爪がガリガリと音を立てた。

 

「雪乃ちゃん、大丈夫だから……」

 頭を撫でられる。優しい手付きだ。良い匂いがする。

 

 荒かった自分の息が、鼓動が少しずつ落ち着いていくのを感じ、身体から力が抜けてゆく。

 そこでやっと、私は自分の頭を撫でている人物が誰なのか気付いた。

 

「姉さん……」

「うん。落ち着いた?雪乃ちゃん」

 

 雪ノ下陽乃。私の実の姉で、私のずっと先を行く人。そして、常に余裕を崩さなーー。

 

「姉さん……?私はその、あの……」

 ″どうしてここに?〟そこまで言いかけたとき、喉が鋭く痛んだ。そのせいで最後まで言葉を言うことが出来なかった。

 私は姉さんの胸から顔を上げ、辺りを見渡す。

 

 白いシーツの敷かれたベット。本棚、机。そして、それぞれの上には大量のパンさんの人形が置かれている。

 見紛う筈もない、ここは私の部屋だ。

 しかし記憶では、私は比企谷君の家にいた筈だ。それが……何故。

 

「雪乃ちゃんは倒れたんだよ、比企谷君の家でね」

「倒れ…た?」

「そう、小町ちゃんから連絡があってね。迎えに来て欲しいって」

 

 あ……確か。私は……。

 

 呼吸と鼓動が再び速くなっていく。

 部屋の温度が酷く冷たい。身体中が粟立ち、細々と震えた。

 

「私は…わたしは………」

 抱きしめられる力が強くなる。

「大丈夫。雪乃ちゃんは何も悪くない。だから、大丈夫なの」

 私の背中を摩りながら、彼女は繰り返し″大丈夫、大丈夫〟と呟く。

 

 どれくらいそうされていただろうか、20分。1時間?いえ、もしかしたらもっとかもしれない。

 身体の震えと呼吸も落ち着き、ただ姉の温もりに身を委ねていた。

 

 そんな中突然姉が口を開いた。

 

「ねぇ……あの日、覚えてる?私と彼が初めて会った日」

 由比ヶ浜さんへの誕生日プレゼントを買いに行った日。

 

「私ね、羨ましかったの。私の側には現れなかったから彼みたいな人は。私の舞台に現れるのは、いつまで経っても上辺のみで人を判断する事しかできないモブばかりだった」

 でも……

「彼は、比企谷君は。人の本質を見抜くことは出来なくても、偽りだけは見抜くことができた。私の外側を否定した。…彼は偽りを、偽物を…いっそ憎んですらいたんだろうね」

 

「私みたいなのが言うのはなんだけど、……″不平等〟だって思ったよ。雪乃ちゃんの隣に私がずっと求めてたモノがいるって知った時。どうしようもない位妬ましかった」

 

 ″でも〟と彼女は言葉を区切る。

 

「それと同じ位、嬉しかった」

「…え?」

「安心したの。彼なら、彼ならもしかしたら雪乃ちゃんの理解者になってくれるかもしれないって……。本物になってくれるんじゃないかって…」

 そこで言葉を切り、深く息を吸う姉。

 

「それでも確信には程遠かった。だから、文実で彼を試した」

 

 それはきっと相模さんを怠惰の方向に焚き付けた事で。

 

「その顔、もう雪乃ちゃんも気付いてるみたいだね。なら、言うよ。いや、もしかしたらもう結論に辿り着いてるかな?」

 

 ーー尾に、″だったら私が憎いよね〟と付け足す姉。

 

「私が比企谷君を殺したんだよ」

 

 

 突然視界が真っ暗になる。

 姉が私の眼を自分の手で覆ったのだ。

 

「え……」

 私が掠れた声が出を出すと、姉さんは深く息吹いた。

 その息が酷く冷たく感じ、身体がブルッと震える。

 

「そのままの意味だよ。私が比企谷君を殺した。……間接的に…は私が殺したも同然なの。あの日、私が文実を掻き乱さなければ、比企谷君は周囲からヘイトを集めずに済んだ、目を付けられずに済んだーー死なずに済んだんだーーよッ!」

 

 次の瞬間。

 突然ベットに押し倒された。

 

 予想しなかった出来事に、私は反射的に眼を瞑ってしまう。

 そんな目蓋を再び姉の手が乱暴に覆った。

 

「…ッ!なに…を…」

「まだ彼は行方不明って事になってるみたいだけど……。まぁ、生存は絶望的だよね。いや、取り繕うのは悪い事だよね。彼、死んだんじゃない?」

 

 姉がハッと嘲笑を漏らす。さっきまでの暖かさは無く、底冷えするような声。

 けれど、その奥に確かな激情が渦巻いているのを感じる。

 

「なんで雪乃ちゃん達は気付いてあげられ無かったのかな?彼の家族を除いて、比企谷君の一番近くにいたのは雪乃ちゃん達だったよね?彼と同じ部活にいる時間、二人は一体何をしていたのかなぁ?」

 

 頭が冷水を浴びせられたように冷えていく。

 

「小町ちゃんも小町ちゃんだよね。今更どれだけ後悔したって壊れたって彼は戻ってこないのに。本当は叫びたいくらい、狂いたいくらいな癖にさ、自分を嘯いて壊れたフリしてるんだよ?あの()

 

 気付くのが遅すぎたのだ。

 頬が濡れていく。

 

「……あ…」

「見てて滑稽だったよ。ホント、いざとなったら何も出来ないくせに、失ってから嘆いて……。手の中にあるうちに、それの価値に気付かないんだもの。愚図ばかりよねッ!笑っちゃうわよ!!本当に大した悲劇……いや、いっそ一周回って喜劇かな!?」

 

 姉が叫ぶように笑った。私の目蓋を覆う手に力が増す。

 それと比例する様に、頬に湿り気は増していった。

「やめて……」

 

「由比ヶ浜ちゃん…だっけ?雪乃ちゃん見てた?迎えに来た母親に連れられてた時の、比企谷君の家から連れ出されてた時のあの子の姿。″ヒッキー、ヒッキー〟ってまるで何もかも喪った仔犬みたいな顔でブツブツ…ブツブツとさ!!本当に見てて笑っちゃうくらい憐れで、哀れで!」

 

 それはきっと近視感というもので。

 

「やめて…」

「やめて…?なにが!?そんなに友達が、比企谷君が悪く言われるのが嫌だった!?あんな自分自身の面倒も見ることすら出来ない凡俗共が何!?」

 

「やめて……姉さん、本当にそう思ってるのならーー」

 

 ーーどうして泣いているの?

 私はそう彼女に問う。

 

 ずっと私の頬を濡らしていた涙。それは姉のもので。

 

 彼女が息を呑んだのが分かった。

 

「は!?この私がなんでーー」

「演技が下手すぎよ、感情が全部表にでてるわ。……彼ならもっと上手く演じたわ」

 目蓋に掛けられていた圧迫感が緩まる。

 

 

 部屋に静寂が落ちる。

 

「それと、似ていた。重なったわ。比企谷君と姉さんが」

 重なったのだ、姉の姿と比企谷君の姿が。

 片や自らを上に見せる事でヒール役を務め、片や自らを下に見せる事でヒール役を務めた。

 方向は、ベクトルは真逆だったが本質は全く同じもの。

 

 姉がしたかったこと。それは自分に全てのヘイトを向けさせる事だった。何故その結論に至ったのか私には分からない。だが、彼女は確かにそれを実行した。

 

 ただーー。

 

「優しすぎたわ。私を抱き締めたのは明らかな悪手だったわね」

「そっか……はは…」

 姉の口から震える笑い声が漏れた。

 

 私は姉の手をそっとどける。

 暗闇が解け、姉の顔が映し出される。

 

「みな…いで…」

 

 文字通りぐちゃぐちゃになった顔。

 どうしてこんなに嬉しいのだろう。どうしてこんなに悲しいのだろう。

 

「……そっくりね、姉さんと比企谷君は」

 本当に二人は似ている。

 それが少しだけ、羨ましい。

 

「雪乃…ちゃ…」

「でも、そうやって全て自分に向けようとするのは、……二度と、二度とやめて」

 

 姉から「ヒュッ」と息が漏れた。

 

 彼女が何故あんな事を告白したのか。文実の事を思い出させようとしたのか。

 簡単な事だった。ただそれはとても難しい事で。

 とても悲しい事で。

 

「雪乃ちゃん……ッごめん……」

 声に嗚咽が混ざり始める。

 

 開けた視界でふと思う。

 今までの人生で、初めて姉の涙を見たかもしれない、と。

 

 そこに大胆不敵な姿は無く、…軒並みな言葉だが、弱々しい少女が一人いるだけだ。

 十数年間私の中で築かれた姉のイメージが、ずっと追い駆け続けていた背中が音を立てて崩れていった。

 

「……雪乃ちゃんの前じゃ、泣かないって決めたのに」

 私は姉をそっと抱き締めた。そしてまるで壊れ物を扱うようにゆっくり、ゆっくりと頭を撫でる。

 

「ねぇ…、どうして彼が、…ッ比企谷君があんな目に会わなきゃ…、ならなかったのかな?」

 嗚咽を交えながら姉が呟く。私はその問いに答えることが出来ない。

「酷すぎるよ…、あんな…あんな傷…」

 

 完成された一つの彫像。陶器のように真っ白な肌。しかし今その顔には、目元には深い深いクマが掘られていた。

 それが彼女が長らく眠れていない事を物語っている。

 

「あの写真がね、瞼にこびり付いて離れないの。悪夢を見る。……眠れない」

 

 悪夢。その単語が背筋を凍った舌で舐めた。ぐちゃぐちゃになった赤い肉片が頭の中で鮮明に浮かぶ。

 

「……眠るのが怖い。この雪ノ下陽乃がだよ?……笑っちゃう?それとも失望したかな?」

 眉尻を下げ、瞳からぼろぼろと涙を流しながら彼女は私に問う。しかし、その口元は引き攣るように笑っていた。

 しかしその顔を見せたのも一瞬の事で、彼女は私の首元に顔を埋め、

 

 ″……見捨てないで〟

 それは今にも消えてしまいそうな声で。弱々しく……けれど恐ろしい程重かった。

 

 

「ねぇ、もう分からなくなっちゃったの。どうしてーー……。比企谷君…ひがや…く、ん」

 

「……だいじょうぶ、だいじょうぶーー」

 私は一体誰に向かってその慰めを唱えているのだろう。

 それは姉に向けられたものであり、そして自分に向けられたものであり。

 

「…き…だったの、…なんで消えちゃうの……!?ど、なんでぇ…!?」

 

 支離滅裂に、要領を得なくなってゆく言葉に耳を傾ける。

 

「…ウッ……あぁッ……」

 感情が決壊したかのように泣き噦るその姿が、とても愛おしく感じた。

 

 私は自分の頬から涙が伝っている事にも気付かず、ずっと。ずっと頭を撫で続けた。

 

 

 ーーずっと。ずっと。

 

「大丈夫…大丈夫ーー」

 

 頭を撫で続けた。

 

 

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 雪乃ちゃんの罪悪感を少しだけでも和らげて、取り除いてあげたかった。

 私だけが苦しめば良いと思った。

 でも、結局。救われたのは私のようで。

 

 私に抱き着きながら眠っている妹の髪をそっと撫でる。

「ん……」

 外はまだ陽が昇ってないようで、部屋は薄暗いままだ。

 

「比企谷君……」

 私は一人呟くと雪乃ちゃんを抱きしめ返す。

 彼女の瞼から頬にかけては、涙の通った赤い線がまだ薄っすらと引いている。

 

 

 今日は悪夢を見なかった。

 

 

 私は再び目蓋を閉じる。

 

 

 

 

 

 

 ーーーーー。

 

 

 

 

 

 比企谷君が行方不明になって一ヶ月後。彼の自転車が発見された。

 その日から数日後、彼の″行方不明〟は″死亡〟に変わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




遅くなって大変申し訳ありません。
そして、長々とした言い訳の前に感謝を。

GINさん、マークさん、FOOLさん、霧亜さん……誤字脱字報告本当にありがとうございました!
GINさんに至っては、10話まで全ての誤字脱字報告を頂きました。もう、本当にありがとうございます。

次に言い訳を。

実は先週日曜時点で陽乃さんのとこまでいっていたのですが、そこからいろいろ苦労しまして…。
シリアス陽乃さんの扱いの難しさを痛感させられる回となりました。没案だけで余裕にもう1話分くらいあります。ハハッ☆

さて、現在土曜11時。この後書きを空港で書いております。
それで、これから月曜午後までインターネットの使えない環境で過ごさねばならないので、誤字脱字手直し等遅れると思います。

とりあえず、鹿児島に帰ってきたら感想等目を通させて頂きますので、それまでの無反応はお許しください。



最後に、次回 幕章は最後になります。皆様のお待ちかねはここで。

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