このすば*Elona 作:hasebe
ざあざあと屋内にまで届く大きな音を響かせ、天から降り注ぎ続けるにわか雨。
もしかしたら割れてしまうかもしれない。そんな心配をしてしまうほどに激しい勢いで風と水滴が叩きつけられている両開きのガラス窓の向こう側に広がっているのは、どこまでも続く鈍色の空。
たまに思い出したように空の彼方が明るく光り、少しの間を置いて雷音が耳に届く。
偉大な大自然の恵みとも脅威とも呼べる激しい雷雨を眺める二人の少女は、荒れた天気とは正反対の和やかな雰囲気で交流に興じていた。
「ちょっとタイミング悪かったですね」
「冒険者さんは大丈夫かしら。まさかこんなに天気が崩れるなんて」
「心配いらないと思いますよ。すっごく旅慣れてる人ですから」
二人の言葉が示すように、今現在、フィーレの街にあなたの姿は無い。
あなたは今日の早朝に単身で街を発ち、帝都トリフにあるカイラムの大使館に向かっていた。
カルラはまだベッドから自力で起き上がって歩き回ることすらできない。体を起こしてもらってベッドの上で飲食をしたり、肩を貸してもらうことで辛うじてトイレには行くことはできるが、限りなく絶対安静に近い状態であることに変わりはない。無理をさせるわけにはいかなかった。
かといって回復するまでのんきに待っていては目的の一つである闘技大会が終わってしまうし、間違いなくカイラムの上層部で起きているであろう混乱を収めるため、一刻も早い生存報告を行いたいというカルラの願いもあった。
最も手っ取り早いのは帝都へのテレポートだったのだが、フィーレではテレポートサービスが営業しておらず、またカルラもテレポートが使える職業ではなかったため、あなたが徒歩で向かった次第である。
国営の機関である冒険者ギルドを通じて大使館に手紙を送るという案もあったのだが、事が事なだけにあまり大っぴらにしたくないというカルラの意向を汲んだ形になる。
「こう言ったら悪いかもしれないですけど、正直、ちょっと意外でした。カルラさんをここに一人で置いていくわけにはいかないからって、私に一人行動を許してくれるとは思わなかったので」
どういう意味だろうと首を傾げるカルラ。
彼女は定めた方針に問題があるとは思っていなかった。
ベストではないのかもしれないが、考える時間も惜しい現状においては間違いなくベターな選択肢と言える。
「私達がパーティーを組んでいる時、危ないからあんまり一人で行動しないようにって言われてるんですよ。今日だってこんなメモを渡されたくらいですし」
そう言ってゆんゆんが取り出したメモ書きに記載されていたのは、五つの約束事。
一人で依頼を受けないこと。
知らない人についていかないこと。
困った時はカルラと相談すること。
渡した物は決して手放さず、その取り扱いには細心の注意を払うこと。
最後の最後に頼れるのは自分の力だけだと理解しておくこと。
「冒険者さんはゆんゆんのことを大切に思っているのよ」
「いいんですよ、子供扱いされてるって正直に言っちゃっても」
メモを読み終えたカルラがにっこりと微笑んで感想を述べるも、ゆんゆんは力のない微苦笑を返すことしかできない。
本人の恵まれた資質と一足飛びで至った高レベル化の恩恵により、ゆんゆんの冒険者としての経験は、質という点で見れば既にベルゼルグ王都の冒険者と比較しても遜色ないものとなっている。
しかし経験の量では駆け出しに毛が生えたも同然であり、それを本人も理解していた。
そういう意味でもまだまだ二人の師には遠く及ばないという自覚がゆんゆんにもあったが、それはそれ、これはこれだ。
「私ってそんなに危なっかしく見えるのかなあ……」
しばしばあなたからゲロ甘でチョロQと称される少女の呟きは、友人であるめぐみんを筆頭にゆんゆんの
あのウィズですら、アクセルの外ではあまりゆんゆんに一人で行動させないようにとあなたに言い含めるほどである。
「でもほら、ゆんゆんは荷物を任されているんでしょう? わざわざ絶対に手放しちゃいけないって書くくらいに大事なものを。それって貴女が信頼されている証拠だと思うの」
「任されたというか、お守り? みたいなものらしいです。私とカルラさんのどちらか、もしくは両方が命にかかわる状況に陥った時にだけ封を壊して開いていいって言われました」
何日もかからない予定なのに大袈裟すぎますよね。
笑いながらそう言ってゆんゆんが荷物袋から取り出したのは、一冊の赤い装丁の本。
縦横に細い緑のリボンが結ばれているそれは、立派で手触りのいい表紙の上から鍵付きの鎖でガチガチに縛られており、呪いの品を彷彿とさせる異様な気配を発していた。
「随分と雰囲気のある品ね。魔法がかかっているのかしら」
「…………」
「ゆんゆん、どうしたの? 顔色が悪いわ」
「……これ、動いてます」
笑顔から一転、青い顔になったゆんゆんが恐る恐る本をテーブルの上に置いてみると、小さく、しかし確かに振動していることがわかった。
耳を澄ませば地鳴りのような異音も聞こえてくる。本の中から。
「…………」
うるさいほどの雨音を容易く掻き消す、深く重い沈黙の帳が室内に降りる。
粘ついた空気を敏感に感じ取った二人が自分の腕を見やれば、雨が降っているとはいえ蒸し暑さを感じずにはいられない環境の中、そこには真冬の寒空の下でしかお目にかかれない量の鳥肌が。
人為的に潜在能力を解放された紅魔族の中でも指折りの優秀さを持つゆんゆんは勿論、カルラもまたこの世界の王族の例に漏れず、世界最高水準の血統と教育と食材によって非常に高いレベルと戦闘力を持つに至った一廉の人物だ。
あまりにも節操の無い血の取り込みっぷりから家系図を見た者からこれだけで分かる英雄と勇者の歴史、日本人からは人間ダビスタと揶揄されるベルゼルグ王族ほどではないが、連綿と受け継がれ研磨されてきたカイラム王家の血は確かにカルラを世界有数の強者たらしめている。
そんな二人をして畏れを抱かせる赤い魔本。本能が潜在的な脅威を感じ取ったがゆえの反応である。
「お守りなのよね?」
「本人はそう言ってました。本人は」
含みを持たせた答えをしつつ、ゆんゆんは恐る恐る本を仕舞う。
望むべくもないが、仮にこの場にあなた以外のノースティリスの冒険者がいた場合、その者は有無を言わさずに本を奪い取って地面に埋めるか、あるいは川に投げ捨てに向かっていただろう。
ゆんゆんも今すぐ窓から投げ捨てたかったのだが、そうもいかない。
露骨なまでに危機感を抱かせるものを持たせたあなたを内心で軽く呪わずにはいられないのだった。
■
夕刻。
カルラが眠りについたタイミングを見計らい、ゆんゆんは自身に宛がわれた別室で日記を書いていた。
☆月∵日(大雨)
今日は昼前から物凄い雨が降り始めたせいで、私はずっと宿の中。
これを書いてるのは夕方だけど、今も湿気が強くて嫌な感じ。
やることもないのでずっとカルラさんとお喋りしていたんだけど、そこで明らかになった驚愕の事実……と書くのは少し失礼になっちゃうんだろうか。
なんとカルラさんは竜の谷に行っていたんだって。話を聞いて凄くビックリした。私達が竜の谷を目指してるって聞いたカルラさんも凄くビックリしてた。自分が死にかけるほどの大怪我をした場所に行くっていうんだから当たり前だと思う。危険だから絶対に止めた方がいいって言われちゃった。私がカルラさんの立場でも絶対に同じことを言う自信がある。
……うん、日記を書いてるとカルラさんの話を思い出しちゃって私も行くのを止めたくなってきた。正直怖気づいてる自分がいる。でも今更あの人は止めないよね。知ってた。だってウィズさんも凄く楽しみにしてたもん。ウィズさんも凄く楽しみにしてたもん。別に大事なことじゃないけど二回書いておく。あの人本当にウィズさんのこと大好きすぎる。いや分かるけども。ウィズさん優しいし綺麗だし包容力があるし魔法の腕も凄いしおっぱい大きいし。私も大人になったらウィズさんみたいになりたいなあって思う。特に温泉で見たウィズさんのおっぱ……私は何を書いているんだろうか。本当に何を書いているんだろうか。ここの部分は後で消しておこう。
気を取り直して続き。
カルラさんが竜の谷に行った理由だけど、なんでもカルラさんのお母さんが重い病にかかってしまい、このままじゃ死んでしまうので海を越えて他国から竜の谷のエリー草を求めてやってきたとのこと。
エリー草のことなら私も知っている。
様々な英雄譚や御伽噺に出てくるこれは、あらゆる怪我や万病をたちどころに癒し、死の淵から掬い上げるという伝説の霊草だ。一説には神様が人間に与えた奇跡の一つだとかなんとか。
ウィズさんがお店を開いて間もないころに大金を使って仕入れたはいいけど、近所のおばあさんが病に倒れた時に無償で使ってしまったと言っていたのを覚えている。
似たような効能を持つ霊薬としてエリクサーがあるのだけど、エリー草の効能はエリクサーを上回る。エリクサーの語源がエリー草から来ているのは有名な話。
昔は色々なところに群生していたらしいのだけど、戦乱や乱獲でそのことごとくが消え失せてしまい、今では野生のエリー草が確認されているのは竜の谷だけ。
人の手による栽培も試みられており、実際にある程度は成功しているのだけど、コスト面の問題が解決できてない上に野生のものと比べると効力が数段落ちる。具体的にはエリクサーと同じくらい。竜の谷のエリー草は今ではラストエリー草と呼ばれているんだとか。
そしてカルラさんのお母さんは普通のエリー草やエリクサーでは治療できず、竜の谷に赴くことになったのだという。
ここで突然なんだけど、私は実はカルラさんが貴族なんじゃないかなって思ってる。所作の一つ一つがなんかもう優雅あっ! って感じでオーラが漂っている。深窓の姫君っていう言葉がこんなにも当てはまる人を私は初めて見た。見た目の割に本人は凄く活動的みたいだけど。
そもそもいくら他国の人間だからって、危急とばかりに大使館に生存を報告しに行くとか普通はしない。っていうか家臣と一緒に竜の谷に行ったって本人が口にしてた。
今のところカルラさんは何も言ってこないので大丈夫だと思うけど、後で家臣の人に不敬罪で死刑とか言われないか私はちょっとだけ心配に思ってたり。
以前、カズマさんが散々無礼な口を利かれた挙句祝いの場で殺されかけた、貴族はクソだ爆裂魔法をぶち込んでやりたいってめぐみんが滅茶苦茶怒ってたし。怖すぎる。気をつけておこう。
そうそう、怖いといえば赤い本のこと。
渡してきた本人はお守りって言ってたけど、なんか震えてるし中から音がするしで怖すぎる。普通に貴族より怖い。いや本気で。
もしかして私は呪いの本を押し付けられ『こんなにプリティーラブリーアルティメットシスターな私を呪いの本呼ばわりするなんてありえないでしょ、常識的に考えて。礼儀がなってないよね礼儀が。これだから紅魔族は』
■
「ひいっ!?」
自分の書き込みを上書きするような形で浮かび上がってきた文字列を見てしまった少女は、突然の恐怖体験に震え上がって悲鳴をあげる。激しすぎる動揺でペンが手から零れ落ち、小さな音をたててテーブルの上に転がった。
ゆんゆんが普段使いしている日記帳は、四つで一つの交換日記とは違い魔法がかかったりギミックが搭載されていたりはしない、ごくごくありふれた市販の手帳だ。断じてこのような出来事が発生していい代物ではない。
日記に滲むのはどす黒い赤字。血で描かれているとしか思えないそれを注視してみれば、おぞましくも恐ろしいことに紙の上でうぞうぞと蠢いている。
さらにゆんゆんは文字列が無数の極小の文字で構成されているのに気が付いた。
小文字はイルヴァ語で『お兄ちゃん』と書かれていたのだが、異世界言語を知らないゆんゆんにとっては不気味な記号にしか見えなかった。
見えなかったのだが、しかし。
ゆんゆんは、その文字列を読むことが叶わずとも、文字列の意味を理解することができていた。
(何これ、お兄ちゃん? 気持ち悪い……)
それは、普通なら決して気が付かないものだった。
同時に決して気が付いてはいけないものでもあった。
彼女の身に何が起きたのか。それを簡潔に説明するとこうなる。
──ゆんゆんは妹を理解してしまった!
意味が通じるものにとっては絶望的な一文である。
誰もが痛ましい表情で力なく首を横に振るだろう。
これは別に特定の誰かが悪かったというわけではない。
ただ単に、今日はたまたまそういう星の巡りだった。それだけの理由。
身も蓋もない言い方をすると運が悪かった。
それでも諸悪の根源を探すというのであれば、そういうものを持たせたあなたが該当するだろう。
(この、お兄ちゃんって、あれ、お兄ちゃん? ちょっと待って。なんで私はこれが読め……お兄ちゃん? ……お兄ちゃん。お兄ちゃん♪ お兄ちゃん! お兄ちゃん!!)
ゆんゆんの思考と精神が侵されていく。
狂気的で冒涜的な光景であるにもかかわらず、不思議と文字列から目が放せない。
お兄ちゃん。今のゆんゆんにはたったそれだけの文字が何よりも輝かしく、愛おしい。
お兄ちゃんは私の愛。お兄ちゃんは私の夢。お兄ちゃんは私の奇跡。お兄ちゃんは私の希望。お兄ちゃんは私の理想。お兄ちゃんは私の絆。お兄ちゃんは私の摂理。お兄ちゃんは私の星。お兄ちゃんは私の月。お兄ちゃんは私の地。お兄ちゃんは私の空。お兄ちゃんは私の海。お兄ちゃんは私の宇宙。お兄ちゃんは私の命。お兄ちゃんは私の真理。お兄ちゃんは私の光。お兄ちゃんは私の揺り篭。お兄ちゃんは私の木漏れ日。お兄ちゃんは私の家。お兄ちゃんは私の願い。お兄ちゃんは私の祈り。お兄ちゃんは私の永遠。お兄ちゃんは私の至尊。お兄ちゃん。お兄ちゃん。お兄ちゃんは。お兄ちゃんは。
お兄ちゃんは
百面ダイスを三個振って全てで
「おに、いちゃ……あなたが、わたしの……」
それはゆんゆんが生まれ持った類稀なる才能という名の悪運が発露した瞬間でもある。本人からしてみれば災厄以外の何物でもなかったが。
悟りにも似た安らかな心地の中、深遠の扉を開いた少女の肉体と魂が大いなる一に還っていく。
「ふうん、こういうことが起きるものなんだ」
ゆんゆんでもカルラでもない、幼さすら感じる少女の冷え切った声。
「でもお兄ちゃんはお前のお兄ちゃんじゃない。私だけのお兄ちゃんだよ」
刹那、バチンッという音が部屋の中に響き、ゆんゆんの額に強い衝撃と痛みが走る。
「痛ったああああ!? 割れてる割れてる何これ凄く痛い絶対頭割れてりゅのほおおおおおごごごご」
椅子から転げ落ち、赤くなった額を押さえる次期紅魔族族長。床を転がって奇声を発する姿は女子力というものが根本から死滅していた。
そのおかげか、彼女は今の今まで自分が何に魅入られて何を考えていたかなど綺麗さっぱり忘れ去っていた。紅魔族特有の美しく黒い髪が先端から緑に変わっていたことなど露知らず。
「無駄な親和性の高さを発揮しないでくれる? 色々と面倒なことになるのが目に見えてるし、何よりお前と一緒になるなんて私は死んでも御免だよ」
聞こえてきた誰かの声に涙目でゆんゆんが顔を上げれば、そこには呆れ果てた表情で見下ろしてくる緑髪の少女の姿が。
「いっ、妹ちゃん!?」
そう、今はここにいないあなたの妹にして船旅の途中でゆんゆんを殺しかけた相手である。
無論妹の名前はあなたが命名したものがあるのだが、本人がそれをゆんゆんに教えて呼ばれることを強く拒否したため、このような呼称となっていた。
テーブルの対面に座った妹は右手でデコピンを作っており、素振りをするようにゆんゆんの額を狙って中指を空撃ちしている。
自身を襲った痛みの理由を悟ったゆんゆんは額に手を当てて思わず尋ねた。
「えっ、なんで? なんで私デコピンされたの?」
「お前を助けてあげたつもりだけど」
「えぇ……」
理不尽大魔王かな?
自身の陥った危機を理解していないゆんゆんは、ほんのりとそんな感想を抱いた。
しかし彼女とて然る者。親友を筆頭とした同族のおかげで理不尽には慣れっこである。
すぐに気を取り直してイスに座りなおす。そして部屋の中を見渡すも、どこにもあなたの姿は無い。
「もう帰ってきたの? 早かったね。お兄さんは自分の部屋?」
「まだだよ。私はお前のお守りのために置いていかれたの。隣の部屋で寝てるエルフじゃなくって、お前のね」
壁越しに隣の部屋を一瞥した後、ゆんゆんの荷物袋に目を向けて手を伸ばす。
中からゆんゆんが呪いの本と称した赤い本が浮かびあがり、妹の手に収まった。
本の名前を、妹の日記という。
「具体的な説明は面倒だからしないけど、これが私。私がこれ。まあこの体は時間制限つきで、本を開かない限り本当の意味では出てこれないんだけど」
「そっかあ……それかあ……絶対に開くなってそういう……」
「お兄ちゃんには困っちゃうよね」
「本当に困っちゃうなあ……」
零れ落ちる本音。
自分を心配してのことなので、流石にありがた迷惑と思いはしない。
思いはしないが、それはそれとしてもう少しなんとかならなかったのかと頭を抱えたくはなった。
「でもその、よかったの? お兄さんと離れ離れになって」
「は? いいわけないでしょ。私はお兄ちゃんの頼みだからしょーがなく、本当にしょーがなく、断腸の思いでここにいるだけ。お前はお兄ちゃんの空より広くて海より深い慈悲に感謝するべきだよ」
横柄な態度を隠そうともしない妹に、ゆんゆんはつい苦笑いを浮かべる。
一度は襲われこそしたし本は色々と恐ろしかったものの、こうして出てきた妹の外見年齢は十歳前後と非常に幼い。ゆんゆんから見た彼女は子供でしかなく、あなたのことが大好きでしょうがない女の子だ。
辛辣といえば非常に辛辣だが、悪辣でも陰湿でもないことを思えばそこまで気にならないし、若干の微笑ましさすら感じられた。たった今妹と同化しかけた影響かもしれない。
そして妹だが、今の彼女にゆんゆんを害する予定は無い。
主にあなたが妹分と認識しているめぐみんのせいで紅魔族のことを蛇蝎の如く嫌っている妹だが、今この瞬間、本気でめぐみんやゆんゆんを
何故ならあなたが止めたから。それ以外の理由など存在しようはずもない。
後先考えずに本気で殺すつもりなら暗殺という形でとっくにやっているし、それが容易く実行可能なだけの能力が今の妹にはある。
確かに
二度ほど地雷を踏まれた際に暴れたのも、あなたが止めるなら
無論殺意自体は本物なので、あなたが止めなかった場合の結果はお察しである。
■
三分という瞬きのような現界可能時間が終わり、妹は姿を消した。
にもかかわらず、ゆんゆんは妹との対話を続行していた。
どんなに相手が自分に刺々しくてもめげずに頑張って歩み寄っていく彼女の姿勢と善性は、人によっては鬱陶しいと煙たがられるものだが、得難く尊いものだ。
しかし同時に、テーブルの上に妹の日記と自分の日記を置いてごく自然に自分の日記の白紙のページに向かって話しかける姿は完璧に独り言を極めており、およそ正視に堪えがたい痛ましいものだったわけだが。
「ねえ妹ちゃん。妹ちゃんはお兄さんの仲間なんだよね? 元々いた世界の」
かつてゆんゆんがあなたに本格的なパーティー結成を打診した際、力不足を理由に断られたことがある。
そんなあなたが仲間だと口にしていた妹は、ウィズとはまた違う形のゆんゆんの目標と呼べた。あなたが知れば即座に止めに入るだろう。
『そうだね』
ゆんゆんの問いかけに答えるように白紙のページに文字が浮かびあがる。
今度はおぞましい血文字ではなく、普通の黒である。
『私はお兄ちゃんの一番の仲間だよ。お兄ちゃんの! い、ち、ば、ん、の! 仲間だよ!!』
書き込みからドヤ顔が透けて見える妹の言葉だが、嘘を言っているわけではない。
内面に色々と難点を抱えてこそいるものの、それでも妹はあなたの最初の仲間である少女と並んで重用されていた。内面に色々と難点を抱えているが。
「ってことはやっぱり強いんだよね」
『そりゃまあね。今の私は全力の25%しか出せないけど、それでもお前よりは確実に強いよ。気になるっていうなら硬貨を一枚上に軽く投げてみて』
言われるままに放り投げられ空を舞う1エリス硬貨。
硬貨が重力に囚われて空中で止まった瞬間、ゆんゆんの目と耳が硬貨に奔る赤い閃光と微かな金属音を捉える。
閃光の正体は包丁だ。ゆんゆんは一瞬先の硬貨の無惨な最期を幻視する。
だが硬貨はそのまま何事も無かったかのようにテーブルに落下した。
てっきり硬貨がバラバラになっているか硬貨を刻んで何かを作ると思っていたゆんゆんは、何をしたのだろうと内心で首を傾げつつも硬貨を拾い上げ、言葉を失った。
『1エリスあらため、1お兄ちゃんってとこかな』
なんと硬貨には精巧なあなたの似顔絵が刻まれていた。
それもゆんゆんが見たことの無いほどの眩しいキメ顔と笑顔の両面刻印仕様だ。
投げられた硬貨自体は不自然な動きを一切見せなかった。
空中で停止した一瞬の間に妹はこれを作り上げたのだ。
繊細にして大胆極まりない妙技によって生み出された一種の芸術品だが、妹はこれこそがあなたへの愛の力だと高らかに謳う。
愛の力はさておき、妹の技量は最早疑いようが無い。
ここ最近密かに抱えるようになっていた思いを打ち明けるべく、ゆんゆんは口を開いた。
「妹ちゃん。ちょっと聞いてもらいたい話があるんだけど、いいかな?」
『は? そういうのはお兄ちゃんかウィズお姉ちゃんにしなよ。何のために二人がいると思ってんの。そもそもなんで私がお前の相談に乗ってあげないといけないわけ? どうせつまんない話なんでしょ?』
「うん、ほんとそう言われるとその通りなんだけど。でも妹ちゃんはあの人の仲間だから」
『ふぅん?』
くだらない理由だったら即座に会話を打ち切ろうと思っていたが、あなたが関係しているとあって少しだけ興味が湧いた妹は続きを促した。
あなたと離れた彼女は手持ち無沙汰だったのだ。
「ほら、私って弱いでしょ? これでも結構強くなった自信があるけど、ウィズさん達と比べるとどうしても」
『お兄ちゃん達の家の周辺の関係者の中だと最弱だろうね』
なおゆんゆん以外のラインナップは廃人とそのペット、リッチー(魔王軍幹部)、デュラハン(元魔王軍幹部)、大悪魔(元魔王軍幹部)、邪神(魔王軍幹部)となる。
類が友を呼び続けた結果、実に豪華な顔ぶれが揃っていた。
アクセルが第二の魔王城と化していることを女神エリスが知れば、即座に自身の信者全てに号令を出して聖戦が始まることだろう。
『で、それがどうしたの?』
「始まりはフィオとクレメアさん……あ、二人は私の知り合いなんだけど」
『知ってるし見てたから紹介はいらない。基本的にお兄ちゃんが見たものは私も見てると思っていいよ』
これはあなたに子供が欲しいと宣言した時のような、ゆんゆんが羞恥と後悔のあまり涙目でぷるぷるする過去すら知っていることを意味するのだが、幸いにしてゆんゆんはそこまで気付かなかった。
「そっか。それでフィオさん達、レベル1になっちゃったでしょ? その時に言ってた足手纏いにすらなれないって言葉を聞いて、私と似てるなあって思っちゃったんだ」
『そうだね。お前もお兄ちゃんのお情けでパーティー組んでもらってるもんね』
あまりにも忌憚の無い言葉だが、今のゆんゆんには明け透けなそれがかえって心地よかった。
彼我の力量に大きな隔たりがあることは強く自覚していたから。
『で? まさかこの先強くなれる自信が無くなったとか言わないよね。私は別にどうでもいいけど』
それこそまさかである。
自らの無力を心の底から嘆いたあの日、ゆんゆんは強くなると決めたのだから。
だが、しかし。
それでも、たとえフィオとクレメアのように自分のレベルが1になってしまったとしたら。
足手纏いにすらなれなくなってしまったとしたら。
たとえあなたがそれを受け入れたとしても。
「私は……これ以上迷惑をかけることになる自分を許せるのかな……」
雨音に掻き消される小さな呟き。
それを受け、日記にやれやれとため息をついているようにしか見えない妹の絵が出現する。
『死ねばいいんじゃない? さしあたっては十回くらい。そんなつまんないこと気にならなくなるよ』
突如として突きつけられた理不尽すぎる要求に、紅魔族の少女は震え上がった。
「妹ちゃん!? 私はそこまで言われないといけないようなことを言ったの!? それとも馬鹿は死ななきゃ治らないとかそういう話!?」
『は? 誰が聞いてもそうだねその通りだねって頷く立派なアドバイスでしょ』
嘘ではない。妹のアドバイスは確かに正鵠を得たものだった。あなたも妹に同意する程度には。
惜しむらくは、そのアドバイスが通じるのはノースティリスだけ、もしくは残機無限の場合に限る、という但し書きが付くものだったことだろうか。見てくれこそ可憐な少女にすぎない妹もまた、立派な廃人の仲間である。
妹も最初からそれを理解して発言しているし、ゆんゆんの勘違いを訂正する気も無かった。だがそれはそれとして言いたいことはあった。
『お兄ちゃんは優しすぎるからあんまりこういうこと言わないんだよね。だから私が言う。お前には決定的に図々しさが足りてない。その癖自分の弱さが許せていない。殊勝なのは大変結構だけど、私から言わせてもらえばお前のそれは意味の無い悩みでしかないよ。余計なことに気を取られて実際にお兄ちゃんを心配させる前にさっさと忘れるべきだね。別にお前がミジンコ並のクソ雑魚だとは言わないけど、それでも今のお前とお兄ちゃんにはあの三人以上の力の差があるんだから、今更足手纏いにすらなれないもクソもないわけ。乱暴な言い方をすれば私達にとっては同格未満の全てが等しく足手纏いになる。今の私ですら本当の意味でお兄ちゃんの役には立てない。だからお前がレベル1になったところでお兄ちゃんにとっては誤差同然っていうか。迷惑をかけたくないって言うならさっさと強くなってお兄ちゃんを楽しませてあげてよ。お兄ちゃんの趣味の一つは仲間を強くすることなんだから』
長い文章を読み終えたゆんゆんは、その特徴的な赤い目をぱちくりと瞬かせる。
「もしかして妹ちゃん、励ましてくれてる?」
問いかけに対する答えは無く、話は終わりだと言わんばかりに全ての文字が消失した。
妹の日記を含め、ゆんゆんが声をかけてもうんともすんとも反応しない。
静寂に包まれた部屋の中、いまだ降り止まない雨の音が大きくなった気がした。
「……その、妹ちゃん。ありがとうね。私これからも頑張るよ」
感情の整理はついていない。
ただ、自分が思い悩んでいたのは全くの無駄であることだけはなんとなく分かった。
反応こそなくとも声は聞こえているだろうと礼を言い、二冊の日記を仕舞いなおす。
「もっと強くなりたい……いや、ちょっと違うかな。レベルだけじゃなくて、めぐみんみたいに、もっと自分の強さに自信が持てるようになりたいな。今すぐは無理でも、少しずつ」
決意を新たに。自身の動機を明確に。
また一つ大人になった少女は、そろそろ夕飯の時刻であることに気が付き、カルラの様子を見に行こうとして──。
とても文字に書き起こすことが出来ないような、落雷の如き激しい絶叫、そして宿全体を揺るがす物音がした。カルラの部屋から。
「カルラさん!?」
果たして何が起きたのか。
いてもたってもいられず部屋を飛び出すゆんゆん。
「──あがっ!?」
全速力で駆け出した少女は、ちょうど扉の前に立っていたあなたに激突した。
■
物凄い勢いで頭から突っ込んできたゆんゆんに、あなたはいささかばかり驚かされた。
カルラの部屋にいなかったので外出中かと思いきや、自分の部屋にいただけのようだ。
「おごごごご……そこはさっきデコピンされたところ……!!」
あなたの鍛え上げられた腕に額を思い切りぶつけてしまい、うずくまって痛みに呻く少女の姿は、あなたをしてなんとも言えない気持ちにさせるものだった。気をつけよう。紅魔族は急に止まれない。
赤くなった額をさすり、涙目で見上げてきたゆんゆんにあなたはただいまの挨拶をする。
「あ、お帰りなさい……って大変です! カルラさんが!」
焦燥を滲ませるゆんゆんに、カルラの家族が迎えに来ただけなので大丈夫だと答える。
嬉しさのあまり少し、いや、かなりうるさくしてしまったようだが、何かしらの害があるわけではない。
「なんだ、そうだったんですか。また一大事かと」
ほっと息をつくゆんゆんには申し訳ないが、これはある意味超の付く一大事である。
なんせやってきたのは
「カルラ! おおおお、カルラ、カルラあああああああ!!!!」
「陛下! お気持ちは我らも重々承知の上ですがどうかお気を静めになられてください! 騒ぎになりますし姫のお体に障ります!」
ベッドに縋りつき、滂沱の涙を流すエルフの偉丈夫。
偉丈夫を必死に諌める線の細いエルフの老人。
感無量とばかりに天井を見上げ涙を堪える筋骨隆々の武装した壮年のエルフの男。
エルフ尽くしという点を除いても、異様としか表現できない顔ぶれである。
誰も彼もが緑を基調とした品の良いローブや鎧に身を包んでおり、こんなそこそこの値段がする程度の宿にいていい人種ではない。
こんな起動直前の核爆弾じみた連中を抱えてテレポートで飛んできたあなたとしては、さっさと今までいた場所にお帰り願いたいところだった。カルラといい偉丈夫といいフットワークが軽すぎて困る。
「あの……」
控えめに服の袖を引っ張ってくるゆんゆんが頬を引きつらせて恐る恐る問いかけてくる。
「今、カルラさんのことを姫って言ってた気が……陛下って……わ、私の聞き間違いですよね?」
あなたはヤケクソじみた笑顔とサムズアップをもって答えた。
実はカルラがエルフの国の第一王女であること、そこで泣いている偉丈夫がカルラの父にして国王であること、残りの二人はこれが罠だった場合を見越して投入された国の最高戦力にして重鎮であること、カルラが助かったのはゆんゆんが救助を提案したから、つまりゆんゆんのおかげであることはばっちり彼らに教えており、ゆんゆんは既にエルフの国の大恩人だと認識されているということを。
「…………」
ある意味死の宣告とも呼べるあなたの言葉を受けて顔色を蒼白にしたゆんゆんは、悟りを開いたかのごとく真顔になった。
そして。
「すみません私ちょっと人生の具合が悪いみたいなので一週間くらいアクセルに帰らせてもらいます。テレポッ──ぐふっ」
あなたと違って何の覚悟も無しに襲い掛かってきた事実に色々と考えすぎた結果、精神的にいっぱいいっぱいになってしまったのだろう。
即座に逃走を図ったゆんゆんに当身を食らわせる。
気持ちは痛いほどに理解できるが、世の中には逃げてはいけない戦いがある。
死なば諸共、一緒に幸せになろう。
ウィズのため、ひいては世界の平和のため。少しでも責任や功績を分割して擦り付けようと画策するあなたの姿がそこにはあった。