(中略)
来年には、新幹線が開通いたします。列車方式から電車方式への、偉大なる転換であります。これは、鉄道史を塗り替える、歴史を変える一打となりましょう。
民法も、国会議論も、このご時世でございますから一段の進歩が必要でしょうということを申し上げる次第であります」
民法改正にかかる国会質疑
答弁者:寺田幸喜議員
詰所の扉を開いて外に一歩踏み出したところで、三田恵子は悲鳴を上げた。目の前に、久留米が立っていたからだ。
久留米は優しい笑みを浮かべていた。とても懐中にナイフやら拳銃だのを隠し持っているようには見えない。「発鉄職員」としての久留米の姿であった。
久留米は、作戦通り直接三田の前に現れた。だが、その胸には約束が刻まれている。越谷と交わした、“三田不殺”の誓いである。
そしてわざわざ、ただの呼び出しと見紛える事が出来るように、発鉄で見せる“A面”の人格でやってきた、というのにである。
三田はおびえている。心臓が早鐘の様に打ち鳴らされている。冷や汗が吹き出て、目が回りそうだ。久留米はそんな三田に、声をかける。
「三田恵子さん。ですね?」
その一言で三田は震えあがる。この様子をみて、久留米は三田が先日の「書き換え犯」であることを半ば確信した。
久留米は三田の首筋に顔を近づけ、鼻を鳴らした。そして耳元でささやいた。
「大丈夫。貴方からは“臭い”がしない……。話を聞きたいわ。時間を作っていただけないかしら?」
久留米は、これでも精一杯配慮したつもりである。いつも通りの柔和な笑み。保母のようだと評された風体。眼元は細く垂れている。口元は淡い紅がさしてあり、顔色も明るめの色で整えてある。精一杯の、“発鉄職員・久留米千佳子”である。
だが、そんな久留米の努力甲斐なく、その雰囲気にどうしようもなく恐怖を感じるのか、三田は腰砕けになりかけながら小鹿の様に必死に姿勢を維持していた。目元には雫が浮かび、瞳はきらきらとうるんでいる。
「すみません、乗務の時間なので」
三田は必至にそれだけを絞り出す。もはや言葉になっているかさえ怪しい。三田は言葉と共に久留米を押しのけて外へ出ようとする。が、久留米は肩に優しく触れることでそれを止めた。
「待って三田さん。お話だけでいいから……」
「やめて!」
触れられた三田はその久留米の手を振りほどき、その勢いをもってついに尻もちをついた。詰所の前の犬走の粗雑なコンクリートの上を、足を引きずりながら後ずさりしている。
「やめて……さわらないで……!」
その声の中に、久留米は彼女の死に対する恐怖の感情を察した。断末魔にも近い、何度も聞いた耳障りな音だ。大方、あの戦闘の行方を知っていたか、見ていたかであろう。久留米は困ったような顔をみせながら、少しづつ間を詰めていった。
その心の中では、作戦の失敗を悟りつつあった。
「そんなに怖がらないで? だって私たち、初めて会う同士で、何も知らない間柄じゃない。まずは自己紹介しましょう?」
久留米がもう一歩足を進めたところで、詰所の中から区長と大宮が飛び出してきた。
「大宮君、A36行路、三田君の代わりに入ってくれ。久留米部長、一体どうされましたか」
区長は三田と久留米との間に割り込むようにして久留米と相対した。大宮は、仕業前の点検の為に詰所に引っ込んでいった。
「尾羽運輸区長。いえ、三田恵子さんにお話を聞きたいと思ったので……」
「すみません部長、御多忙であるとは存しておりますが、三田は少々健康が優れないようです。また次の日にしては頂けませんかね」
「ええっと、どうしましょう……」
そう言いながら久留米は懐に手を伸ばす。
これは、彼女をかばっているのか、それとも。どっちだ?
久留米は迷いながら、懐の
そこに急いで出区の点検を受けた大宮がやってきた。
「久留米部長。
大宮はそう言いつつ、久留米に目配せした。
大宮……。越谷の話の中に出てきた、今回の通報者の一人である。なるほど。久留米は大宮の目配せの意味を正確に理解した。
「……そうですね。そんなに心身が優れていないとは存じ上げませんでした。ああ、大宮君、でしたね。
「美人の久留米部長でしたら、いつでも歓迎ですよ」
大宮に、わざとらしくまぜっかえされた。久留米は、苦笑しながら目で合図した。大宮は、小さく頷いた。
久留米は、それで十分だと判断した。
「お騒がせしてすみません。今日のところは失礼いたしますわ」
そう言って久留米は去る。三田は、その場で起こしていた上体を崩れさせた。
あとに残された三人は、ホッと胸をなでおろした。目の前で刃傷沙汰は勘弁だ、というのは人間共通の感情であろう。区長と大宮は目を見合わせて笑った。
その後で二人は三田をみやる。やはり、尋常ならざる気配がある。区長は何事かを言おうとしたが、越谷の指示を思い出して留まった。
「三田君、調子が悪いなら奥で休むか、今日は帰るかしていいぞ。……訳は聞かないでおいてやるから、話したくなったら話しなさい」
区長は代わりにそう言うと、詰所に戻っていった。
あとに残された大宮は、三田を助け起こした。三田は恐怖のあまり失禁していた。大宮はそれを見ないふりをした。
「三田さん。最近、様子がおかしいですよ。僕じゃ力になれないと思いますけど、何かあったら僕でも区長でも社長でも、相談してくださいよ」
時計が出区の時間を知らせる。大宮はそれを見ると、三田の肩をぽんぽんと叩いて走り去った。あとに残された三田は、まだ幽かに震える足で詰所の休憩室へと向かった。
「なんで、なんで……!」
三田はロッカーを殴りつけた。そこには、いつもの余裕しゃくしゃくの笑みはない。何かにおびえるような、自分の運命を呪うような、そんな顔をしていた。
動悸が早まる。呼吸が早まる。目の前の視界が歪む。
三田は財布を取り出した。その財布の中に入っている一枚のスピード写真を取り出した。
その褪せた写真の中に、遠くに劇場があり、香里園の文字が見える。その前に、幸せそうな家族が佇んでいる。
母がいる。父がいる。そして、気障な顔をした兄と、その兄に抱き着く幼気な少女がいる。その少女は、まぎれもなく三田自身だった。
三田は、写真の中の彼女がだんだんと霞んでいくような気がしていた。
それと同時に、下腹部に痛みが走る。吐き気がする。この身体の全てが汚いもののような気がして、気が狂いそうになる。
首元がかゆくなる。かきむしるように絆創膏を外す。あざを、まるでかき消そうとするかのように、こする、こする、こする。
喉元まで嗚咽が、ある種の酸っぱさと共に昇ってくる。それを必死に飲み込む。目頭がうっすらと濡れてくる。
必死に涙を貯めながら、それでも決して三田は泣かない。三田恵子。自分は三田恵子。うざったいぐらいに明るく、気のいいそろそろ婚期が危ない何事にも闊達であけすけなお姉さん。
それが三田恵子。そうでなくてはならない。
口が酸っぱくなる。三田はついに風呂場へ駆け込んだ。
なんでこんな目に合わなきゃいけない。なんでこんなことをしなくちゃならない。絶望とも怒りともとれる感情がふつふつと湧いてくる。
「助けてよ、
三田は、写真の中の兄に向ってつぶやく。返事など、あるはずがない。
三田はシャワーの水音に隠れるようにしてか細い声で叫んだ。
「助けて、大宮君」
細かい水流が床を打つ音と、浴場の反響音だけが、無人の更衣室に響き渡る。
樺太にも、遅い遅い春がやってきた。クモリガラスごしに自然光が入るだけの薄暗い部屋の中に、トートバッグと財布が転がっていた。そして、凡そ尋常ならざる薬瓶が並んでいた。
その部屋に向かって、今一つの足音がやってきた。
一段一段、しっかりとした足取りでやってくるそれは、まさしく“英雄”の足音であった。
英雄はやってくる。かならずやってくる。他でもない、
明治民法(明治二十三年制定)
・第七百三十五条 家族の庶子及び私生児は戸主の同意あるに非ざれば其家に入ることを得ず。
庶子が父の家に入ることを得ざるときは母の家に入る。
私生児が母の家に入ることを得ざるときは一家を創出す。
・第七百四十九条 家族は戸主の意に反してその居所を定るところを得ず。
・第七百五十条 家族が婚姻又は養子縁組を為すには戸主の同意を得ることを要す。