「縁起がいいわけあるかよい。茶柱は不吉の証じゃ」
三峰土竜太郎・天太郎物語
新参社 昭和38年
尾羽営業所前駅。ここは尾羽運輸区・車庫に併設された駅で、列車の入出庫の他に乗務員の交代を行う。
尾羽運輸区に用がある越谷と、今から列車に乗り込む大宮とは、ここで出会うこととなった。
「大宮君、今からかい」
「ええ。三田さんの代わりで」
それから大宮はちょっと言い淀み、ひそひそ声で続ける。
「今、三田さんのところに久留米部長が来ましてね。なんだか三田さん、だいぶおかしかったですよ」
「そうか……。彼女は今どこに?」
「今なら詰所にいると思います。実は、今からの乗務は三田さんの当番だったんですが、あまりにも様子がおかしいので、予備待機の俺がスクランブルに上がったんです」
これはただ事ではない。越谷はそう思った。
列車がやってきた。二人で安全確認をする。交代の運転士は佐々木という女性だった。
大宮は、反射する運転台の窓ガラス越しにその姿を認めると、一瞬浮足立った。当然越谷はそれを感じ取ったわけだが、見ないふりをした。
列車が到着すると、大宮は乗務員窓から車内に身を乗り出して車掌スイッチを操作し、客用ドアを開けてやった。そして佐々木が帰り支度をしている間に乗務員扉を開けてやり……。と、持ち前の気が利く優しさをいかんなく発揮する。越谷は思わず苦笑いしてしまった。
「ありがとう大宮君。732M、定時で異常なしです」
大宮の鼻は伸びきっている。
「732M定時了解です! 今日もお疲れ様です、佐々木さん」
「うん。じゃあ、気を付けて行ってらっしゃい」
大宮はにっこにこの笑顔で扉を閉めると、こちらに手を振りながら電車を発車させた。これには越谷もとうとう耐えきれず、吹き出してしまった。
「失礼……。佐々木君、だったよね。彼はいつもこうなのかい?」
佐々木は困ったような笑みを浮かべる。
「ええ……。なんというか、こう。いい人なんですよ。大宮君は」
「それは嫌というほど伝わってくるね」
大宮、“良い奴”である。人一倍よく働くし、人一倍気が回る。……願わくばもう少し、女性の機微についても気が回らんものかねと越谷も佐々木も思うのだが、こればっかりは経験である。
「ちなみに、君としては大宮君はどうなんだい?」
大宮の“意図”を察し取った越谷は、お節介にもこんなことを聞いてみる。佐々木の反応は芳しくなかった。
「うーん、いい人なのはわかるんですが、なんというか……。あそこまで好意が駄々洩れだと、私としてもいかんともしがたいというか……」
越谷は胸に小さく痛みが走った気がした。かわいそうに、がんばれ、大宮君! 心の中でそう思う。
「それに、彼が本当に好きなのは、三田さんなんじゃないかって思うんですよね」
「……それは、どうしてだい?」
「なんというか、三田さんといるときの大宮君はすごく自然体ですし、三田さんのことをとても心配していますし……」
そこまで言って、佐々木はしまった、という顔をした。
「ああ、三田君が変だという話は私も聞いているよ。大丈夫だ、そんなことで私は人の評価を変えない」
そう言うと佐々木は安心したのか、色々なことを越谷に聞かせた。
「普段は快闊な笑顔を見せる人で、大声で笑うし冗談も言う賑やかな人だったのですが、最近は苦しそうな顔をすることが多く、態度も煮え切らないことが増えてきて……。何があったのかと心配していたところなんです」
快活で賑やか。確かに、三田という人物の話を聞くときに必ず出てくる言葉である。
「教えてくれてありがとう。なに、私は社長だ。必ず何とかするよ」
ありがとうございます。そういう佐々木と別れて、越谷は詰所に入った。
「おお、社長! 今日もおいでになりましたか」
詰所に入ると、新聞を読んでいた尾羽運輸区長が出迎えてくれた。
「やあ区長。先週ぶりですね」
「ええ先週ぶりです。して、今日はなにかございましたか?」
「いや、いつもの見回りだよ。何か困ったことはないかい」
「そうですね、やっぱり人員が足りんですよ。各所から散々聞いているでしょうが、しかしこればっかりはねえ」
越谷は苦々しい表情になる。
「今、こちらでも方策を練っているところです。もうしばし、お待ちを……」
「ああいえ、それも聞き及んでますよ。いやはや、こっちの話を聞いてくれる人間は貴重でね」
ガハハと笑う区長に救われたような気持ちになった越谷は、他の職員にも挨拶を済ませて詰所の休憩室へと向かった。
休憩室は珍しくがらんどうだった。が、そこには三田のものと思しき手荷物が置かれていた。
「きっと、三田君を案じてみんなここに入らないように配慮したのだろう」
越谷は独り言ちると、部屋に入るのを少しためらった。自分も配慮するべきなのではないのだろうかという葛藤の末に、どうせ邪魔するなら三田にお茶の一つでも入れてやろうという結論に至った。
じゃまするぞー、と小さくつぶやいてから、越谷は休憩室へと足を踏み入れた。
休憩室には、いつも静岡から特急便で運ばれてくる茶葉や抹茶が常備されている。越谷はそれを目ざとく見つけだした。
越谷は流し台の下から薬缶と湯飲みを出した。薬缶に水を入れ、隣のコンロで火にかける。休憩室に一通りの台所回りがあったことは、僥倖であった。
シュンシュンと湯が沸きたったら、急須に茶葉を入れ、お湯を入れ……。クモリガラス越しに自然な明りが心地いい部屋に、良い香りの湯気が立った。
それと同じ頃に、三田は休憩室へと戻ってきた。三田は、休憩室に一人っきりで何事かをしている越谷を見咎めて、ひどく驚いた。
越谷も意地が悪く、わざと邪悪な面を作って“おいでおいで”と手招きをした。三田は涙目になって後ずさり。越谷はここらでやっと自らの度が過ぎた悪ふざけに気が付き、あわてて笑顔を作った。
「茶が入ったんだ。三田君、飲んでいきなさい」
飲んでいきなさいも何も、ここは越谷の部屋ではない……。喉元まで慟哭と共に上がってきた言葉を飲み込み、三田は休憩室に入った。
三田が席に着くと、そっと目の前に湯飲みが差し出された。それをどうしたものかとあぐねていると、越谷が口を開いた。
「……熱いのは嫌いかい?」
何事を言い出すのかと思えば、そんな言葉だった。拍子抜けして三田が無言でいると、越谷は台所へと向かった。
「ちょっと待ちたまえ。私はお茶の心得もあるのだよ」
そんな事を口走りながら、越谷は席を立つ。台所の下から抹茶と容器と茶筅を取り出して、神妙な顔で戻ってきた。
「では」
越谷は茶杓で器に二杯ほど抹茶を入れると、そこに水を注いだ。そこからさらに仰々しく額にシワを寄せると、シャコシャコと茶筅でかき混ぜ始めた。
三田がどんな表情で見つめればいいのかわからず真顔でいると、それはすぐに終わり、越谷は器を二回手で回して三田へささげた。
三田は当惑しながら器を持ち上げる。越谷の方を見やると、越谷は静かに頷いた。
三田は越谷につられて神妙な顔で器に口付けた。緊張のあまり、三田は味が分からない。が、からからに乾いた喉を潤すように一気に飲み干した。
「え、えと、見事なお点前……です?」
「いや、それはよかった!」
越谷は顔をほころばせた。結局何をしに来たのだろうと、三田の疑念は膨らむばかりだ。
「さて、三田君。君に言っておきたいことがある」
越谷の言葉を聞いて、三田は身体を硬直させる。
それを見て、越谷は努めて笑顔を見せるようにして、話を続ける。
「我々は、家族だ。すなわち私は家長である。から、君の全てにおいて、私が責任を取ろう」
三田はうつむく。その垂れた
「すなわち、君が何ごとかを行い治安維持機関が出動し、そして君の命を狙ったとしても、首が落ちるのは私だということだ。もっとも、この
ガハハ。そんなわざとらしい乾いた笑いが静かな部屋に響き渡る。越谷は咳ばらいをひとつ、そして話を再開した。
「そして私は家長であるから、君を守る責任がある。だから必ず私は君を守ろう」
その言葉に、三田はやっと口を開いた。諦観ともとれる口角をもって。
「男の人って、いつもソレ、言いますよね」
歯がギリリと音を立てる。美しい口元が歪む。
「昔付き合ってたボーイ・フレンドも、死んだ父も、兄もそう言いました。でも、守ってくれたことなんてなかったですよ。最後には決まって、私を殴るんです。『お前が悪いんだ』って」
髪の毛が頬を伝う。突如として露わになった首元に、真新しい
「男の人は信用できません。たとえそれが、“大英雄”越谷卓志」だとしても。私は、自分しか信じません」
その言葉を聞いて、越谷はしばらく押し黙った。何事かを言い出そうと口をパクパクと注せていたが、しかし諦めて口をつぐんだ。
越谷は、静かに席を立った。椅子のきしむ音が響く。
「君の境遇を、甘く見ていたようだ。こちらの認識が甘かった。すまない」
越谷は頭を下げた。三田は驚いて見上げた。その三田に、越谷は頭を下げたまま、続けた。
「久留米君には、何があっても君を守る様に命令している。これは、海軍情報局の命令を超越するものであると認識している。海軍情報局員が君を保護している限りにおいて、各機関は君に手出しできない。だから……」
越谷は短く息を吸い込んで、一息に言い切る。
「どうか、久留米君だけは信用してほしいと思う。それか、同僚の佐々木君か……。男だが、大宮君なんかもいい奴だ。もちろん、区長や主任、運輸部長も。この鉄道ではみな家族だから、君の知っている家族とは違う形の家族であるから、彼らだけでも信じてやって欲しい」
越谷は大きく息を吸う。上体を起こして、三田と目が合う。越谷は頷いてから、休憩室を後にした。
三田はすっかりぬるくなった湯飲みを手にした。
茶の表面がキラキラとひかりを反射している。窓が、窓辺に置かれた小物が、部屋の中が鏡の様になった水面に反射されてよく見える。三田はそれを覗きこんだ。すると、自分の陰でひかりは見えなくなった。
代わりに、ぐるぐると回る無数の緑が見えた。
まるで私みたいだ。三田のつぶやきと共に、一滴が水面に垂れた。
ちゃぽんと波紋が生まれて消えて、緑は更に、そのさざめきの具合を増した。