――その日は、その瞬間は。
ある晴れた日に突然やってくる夕立のように予見することなどできず。
昔の知り合いが連絡もなくひょっこりと訪れてきたかのように脈略もなく。
定型文を読み上げているような無機質さを添えて。
あまりにも唐突に、俺たちの元へとやってきた。
「――――は?」
ススキのような少し丈の高い草が広がるフィールドを探索していた俺は、モンスターがいつ現れるか分からないのにもかかわらず、そんな間抜けな声と共に空を見上げた。
「…………」
相方のハルフィールもだいたい同じ様子だ。俺を肩伝いで連れ添いつつの歩みを止めて、その場で立ち止まっている。
「――なあハルル、俺の聞き間違いじゃなかったらなんだが……いや、俺は耳までは悪くないはずなんだが」
「はい」
ハルフィールは律儀に返事を返してくれるが、過去にここまで自分の聴覚を疑ったことがあっただろうか。これが幻聴や耳鳴りの類いなら相当なことだ。おれは自分のVR適性障害に新たなページを刻まざるを得なくなる。
しかし、今さっき、そして今もなお繰り返し聞こえてくるその音の真相を確かめるべく、空を見上げたまま俺はハルフィールに問いかけた。
「このゲームって、今、クリアされたのか……?」
戯言。自分でも何を言っているんだという感覚が強い。そんな出鱈目なことがまかり通ってしまうのか。
当のハルフィールは、ほんの少しばかりの沈黙のあと話し出した。
「はい。そのようです。たった今システムからの通知が来ました。2024年11月7日14時55分。この時間を以てソードアートオンラインはクリアされました」
「――うぉ。げ、幻聴じゃなかったんだな……」
「タキギのそれは私にも聞こえています。これは、私たちを管理する存在であるカーディナルに割り当てられた音声です」
いつも通り、ハルフィールが落ち着いた声で告げてくる。NPCである彼女がそう言うのだから事実なのだろう。
俺は今一度空を見上げ、目を閉じて耳を澄ませた。空にも何かメッセージが出ているのかもしれないが、俺には見えるはずもない。
『――ゲームはクリアされました。繰り返します。ゲームはクリアされました――』
初めて聞く、カーディナルというシステムの電子音声は、その事実をひたすらに繰り返して告げていた。さっきまでは自身の耳を疑っていたが、かなりの音量だ。ちょうど寝ていたプレイヤーも一度は目を覚ますだろう。状況が把握できるかどうかは別としてだ。
かく言う俺も思考が追いついているとは言い難い。思考が上手くはたらかないもどかしさに圧されて、俺はハルフィールに思うままに話しかける。
「ゲームクリアっても……攻略組が今日挑んでたのって75層だったよな?」
「はい」
「このゲームって100層まで登ってラスボス倒さないとクリアになんないんじゃなかったのか? そのカーディナルとやらの悪質な悪戯かバグか……あぁでもお前がそういう通知を既に受け取ってるんだよな」
「はい。タキギの言うことはもっともですが、ゲームがクリアされたことは明確な事実です」
「ふむ、ラスボスが75層にでも現れたんかね? でもってエギルたちがそれを倒したと。にわかには信じがたい話だが」
「……どうやらタキギの推測が真実である可能性が高いです。グランドマスターの介入によるものでなく、システムが規約に沿って正式にゲームのクリアを認めています」
ハルフィールの言葉に俺は開いた口が塞がらなかった。マジか。25層分すっとばしてラスボスを倒してしまうとは……何があったのか見当もつかないが、攻略組の熱意と言うか執念深さと言うか、尊敬を通り越して呆れるレベルだ。いや、大功績ではあるけどな。
――彼女と言葉を交わしていくうちに少しずつ思考が回り始めた気がする。彼女にはこういった点でもよく助けられていた。
「まあ、それが結果だからあれこれ言ってもな。しかしひょっとしなくてもそれ、ボス攻略してた連中壊滅してるんじゃないか? 今までのボス攻略の結果を聞く限りじゃ無事で済むはずがないだろ」
「フロアボス戦までの結果までは私も分かりかねます」
「だよなぁ、あまり死んでなきゃいいんだが。連中が一番頑張ってたのに報われないってのは理不尽なもんだ」
中層プレイヤーの中には彼らのことを悪く言う連中も一定数いるが、攻略組の中でも最前線階層の迷宮区を攻略するプレイヤーってのはそれなりの人間性とコミュ力が必要だろうと思う。でなきゃ死ぬだろたぶん。せめて彼らは報われてほしいと願うばかりだ。
特にエギル。彼は攻略組として最前線を支えているだけでなく、商人としても多くのプレイヤーを手助けしている。30層の新店舗などいい例だ。儲けを考えるなら最前線で商品を回すのが最適だろうに中層プレイヤーのことも忘れていない。
「……エギルのお祝いに76層に顔出しに行くのも悪くないと思ったんだがな……できなくなったなぁ」
今からそれをするにはあまりにも……
そして俺の言葉にハルフィールは応えず、沈黙が降りた。
ゲームクリアの告知音に混じって、風がススキを揺らしていく音がやけにはっきり聞こえる。大分傾いてきたらしい太陽がその草原に俺たちの等身大の影を作っている。俺はその様子をいつものピンボケした視界のビットの動きで捉えていた。
「…………」
俺もハルフィールも何も言わない。
彼女は自分から話題を振ることが極端に少ないので俺が黙っているときはこういうことにはよくなるのだが、今はいつもとは違う気がした。――――当たり前か。
そう。彼女から僅かばかり垣間見える性格を鑑みれば、当たり前のことだ。
「……ゲームクリアってことは、さ」
「はい」
ややあって、俺はようやくその話題を切り出した。内心焦りがあるが……それでも歯切れよく口にするのは難しい。
「今生きてるプレイヤーは死なないで帰っていけるんだよな? リアルっつーか現実世界に」
「はい。既にプレイヤーのログアウトは開始されています。その際電撃が脳を焼くことはありません。自動的にナーヴギアはシャットダウンされます」
「そうか、お前がそう言うなら安心だな。あぁっと……」
「ハルル。お前は、どうなるんだろうな」
意を決してかけた言葉。何気ない口調は装ったが、そもそも彼女はメンタルヘルスカウンセリングプログラムだ。悟られているだろう。
「私はアインクラッドの崩壊と共に消去されます」
そして、ハルフィールの返答は実に淡々としたものだった。
それは実に彼女らしい――いつも通り、飾り気のない率直な返し方だ。あまりにいつもと変わらな過ぎて……俺は思わず笑ってしまった。
「タキギ。私は何かおかしなことを言ったでしょうか」
「はははっ、いや、何も。全然おかしくなんかないさ。お前の冷静さには参ったよほんと」
いやもう、本当に……。割と数か月前から胸につっかえていた事柄だっただけに。
「そうですか」
「そうだよ」
このやりとりももう何度も交わしたものだ。律儀に返事してくるのが俺はどうにも気に入っているようだ。
「というか、さっきもうプレイヤーのログアウトは始まってるって言ってたよな。ってことは、俺がログアウトするのも時間の問題か」
「はい。プレイヤー全員のログアウトにかかる時間は数分から十数分程度だと思われます。その中にタキギも含まれています」
つまり、よくてあと数分で俺はハルフィールと別れることになる。そして、それが最後だ。
「他のプレイヤーなら『リアルで会いましょう』ってできるんだがな。いや、それが言えたらの話なんだが」
「私にとって現実とはこの場所です」
俺はため息交じりに呟いて、そして彼女の言葉に虚を突かれた。
「――なるほどな。確かに、ここはお前にとっての現実だな」
この世界を管理するシステムによって創り出された彼女が最初に目にしたものは、このアインクラッドの風景だったはずだ。もしくはメモリー領域か。どちらにせよ、完全に独立して稼働しているであろうSAOのサーバー内で生まれた彼女は純粋にここ以外の場所を知らない。
彼女がここを現実であると定義したのも頷ける。彼女の目線からすれば俺たちのリアルの方が不可解な世界なのかもしれない。だってそんなにうまく回ってないしなあ。
「でも、崩壊するんだろ。ここって」
「はい」
彼女が先ほど言っていたことを確かめるとすぐに返事が返ってきた。ってことは確定事項なんだろうな。
「その崩壊ってのは具体的にどういうことを指すんだ?」
「カーディナルの自壊に伴う全てのデータの消失のことです。プレイヤーデータやオブジェクトデータも全て例外なく破棄、抹消されます」
徹底している。開発者は現物を一切残すつもりがないな。これは事後調査も難航しそうだ。
「その中にお前も含まれてると」
「はい」
「その、なんだ。怖くはないのか?」
さっきまで俺を先導して歩いていた彼女は振り返っていた。俺はフォーカスを逸らさないように意識しつつ、その碧い瞳を注視する。一度逸らしてしまえば俺の視覚は遠近感が狂い、再度焦点を合わせるのに難儀するからだ。――こんなときでさえ、彼女はいつもと変わらない無表情だった。
「それは、私と言うデータがシステムから消去されることがですか」
「ああ」
ハルフィールは不思議そうな顔をした、ように思えた。今まで考えたこともなかった、とでも言ったかのような顔だ。
「…………そういうものとして私は作られたのでなんとも。カーディナルという母体が消失するのに私だけが残るというのもおかしな話です。恐怖は……ありません」
ああ、これは自分でもよく分かってないな。であればもうこの話は続けるべきではないだろう。
今の段階で問い詰めても酷なだけだ。俺の自己満足にしかならない。彼女が怖れることなく逝けるとするならそれにこしたことはない。
「そうか。ちなみに俺はお前より先にログアウトしていなくなるんだよな」
「はい。カーディナルの自壊は全プレイヤーがログアウトしたことを確認した後から行われます」
「じゃあ俺から先にお別れか。お前はその後どうするつもりなんだ?」
「今のところシステムからの指示を受けていないので……この場に残っていようと思います。恐らくこの階層の崩壊と同時に私も抹消されるでしょう」
それはまたなんとも言えない終わり方だな。ただ、その瞬間には立ち会ってみたいと少し思った。俺のこのユニークな視界でもそれはそれで面白いものが見れそうな気もする。まあifの話だ。
俺が退場するまであと何秒だろうか。ログアウトまでのカウントダウンタイマーが是非とも欲しいところである。
事実を確認し、ハルフィールの今後のことも知った。俺に残されている時間は短い。目の前の相手の存在は消えることが分かっていたとしても、別れの挨拶くらいはしたい。
残す時間の赦す限り。
「ありがとな。ハルフィール」
「どういたしまして。ですが、何についてのお礼でしょうか」
「今まで俺に付き合ってくれたことだな。ほんとに助かったよ。お前がいなきゃ俺はここまでこれなかった」
「確かにタキギはあの調子では第3階層が限界であったと思われます」
「マジで? 俺は2階あたりが限界かなーなんて思ってたぜ。で、そこで宿暮らしするのが当初の夢だったわけだ」
当時の俺は本気でそれを理想としていた。とにかく軍の支配が進む始まりの街から抜け出す。時間がかかってもレベルを上げ、モンスター討伐の効率を上げて一人で暮らしていければそれでよかったのだ。
それが今では30層である。俺がどれだけ幸運であったかが分かるというものだ。
「俺はハルルに救われた。で、確かにここで生きていけた。俺はお前のおかげでリアルでも胸を張れるぜ」
「……カウンセリング用のAIとしては失格だと思っていたのですが」
「んなわけあるか。お前は紛れもなく立派なAIだ。俺がお前に助けられたって言ってるんだから消されるまでカーディナルとやらにドヤッとけ」
心の底からそう思う。ここのシステムは一年間以上もの間ハルフィールを閉じ込め、彼女の幾たびもの出動申請に折れてハルフィールを送り出した。そんなヤツには終わりまでほえ面をかかせとけばいいのだ。
「……では、タキギの言葉に甘えて堂々としようと思います。えっへん」
……そして、たまーに思考回路が変な方向に飛んでものすごく普段のハルフィールっぽくないことをするのもまた、俺の楽しみの一つであった。ちなみに先日は俺の呟きを先読みしてハモらせたりなどしていた。
「…………」
「…………」
沈黙の時間が流れる。瞬く間に自分が何をしたかを悟ったハルフィールは当然の如く顔をそらしている。こうしている間にもログアウトが迫ってきていると思うと笑えないな。
あぁでも、この瞬間ログアウトしてしまうのもそれはそれで悪くないのかもしれない。俺はこれから彼女に告げようとしていることを顧みつつ心のどこかでそう思った。
ぐしゃり、と前髪を握ろうとして、視覚に頼ったせいで失敗した。空を切った握りこぶしをもう一度開いて、俺は自分の頬を数度はたく。――落ち着け。
「……さっきのはスルーで。そのこととは別口で、お前に言いたいことがあるんだ」
「……はい、何でしょう」
そっぽを向いていた顔が再び向き直った。こういう時の彼女はカウンセリングAIらしく言葉の機微を察して雰囲気を切り替えてくれる。だからこそ、俺はその事実をすんなりと口にすることができた。
「俺をこの世界から救ってくれたのは間違いなくお前だ。俺はお前のことが好きになってたよ」
碧い瞳をしっかり見つめて、俺ははっきりとそう言い切った。
そして、その機械的な光彩を纏う瞳はそんな俺に負けないくらいまっすぐに俺を見つめ返していた。
風に揺れるススキの草原、晴れあがっているであろう青空にそこそこ傾いてきた太陽――。やかましくゲームクリアを告知し続けるあの電子音声だけが邪魔だな、と俺は思った。
「……タキギのそれは、愛している、の意味で捉えてもよいのでしょうか」
「あぁ。それでいいよ。お前がその言葉の意味を察せてくれて内心めちゃくちゃほっとしてるぜ」
ハルフィールの問いかけに俺は即答する。よかった、ハルフィールが言葉の意味を取り違えなくて本当に良かった。俺の告白のセンスはご察しであるが、分かりやすさにおいては際立っていた……と信じたい。
ある種の賭けだったこの言葉。ハルフィールが正しく解釈できるかは正直五分だと見込んでいた。ただ、ライクの意で捉えられてしまってもそれはそれでいい終わり方だったのかもしれない。
これは俺の一方的な告白で終わる、俺の自己満足でしかないから。100層が攻略された日にでも伝えようと目論んでいた、相手の返事を想定していないものであったからだ。
そんな風に、このときまでは思っていた。
「……私は、トップダウン型AIです。私の全ての言動はオリジナルのものではありません。他のプレイヤーの模倣です」
「ああ、知ってる」
「タキギは、タキギという人間は、その場その場での最適な言動を判断し真似ているに過ぎない私に恋愛感情を抱きました」
「そうだ。断定になってるが望むところだ」
変人である自覚はある。自分の感情を疑ったことなど数えきれないほどだ。夜眠れなくなったことも何度もある。だからこそ、自問自答をずっと重ねてきたからこそ、嘘をつくことなどできなくなってしまった。
俺はハルフィールのことが好きになっていた。心から、という言葉を咄嗟に付け加えてしまいそうになるくらい、好きになっていたのだ。
ハルフィールは視点を遠くに追いやり押し黙った。あれは彼女が思考回路を加速させているときに見せる仕草だ。彼女が俺の言葉を何度も確かめた挙句、受け止めようとしている――それが嬉しいと思ってしまう俺は本当に大丈夫なのだろうか。
「――――トップダウン型AIという存在は、如何に効率的に知識を増やすことができるかを念頭に設計されています」
かくして、ハルフィールが思考の末に導き出したのはそんな説明だった。
お、おう、と内心で応えるも、それを口には出さない。彼女の視点は未だ遠くにある。こちらに戻ってきていない。それを確かめるために俺は彼女の顔をずっと注視しているわけだが……。
「トップダウン型AIがオンラインコミュニティに導入されたのもこのためです。多くの人が一つのサーバーに集うそれは私たちにとって格好の勉強場所なのです」
俺の返事を待たず、独り言のように彼女は言葉を重ねていく。その言葉の先は何に繋がるのか。ここでログアウトだけは勘弁してもらいたいと願う。
「私も、その例に漏れません。この言動は初期からあったものも含まれていますが、大部分がゲームのサービス開始から私が学び取ってきたものです」
「そのため、プレイヤーとしての身体を得たばかりの私は、多数のプレイヤーとの交流も目的としていました」
ハルフィールの視点が戻り始めた。目の前の事象へと彼女の焦点が再度移ろっていく。
「ある理由でそれを最初から行うことはできませんでしたが、タキギとレベル上げを行った私は行動範囲が大幅に広がりました。最初期に比べコミュニティのなかに入ることが難しくなくなりました」
「タキギと一時的に別れ、最前線の階層に行くことも考えました。そこで多くの高レベルなプレイヤーと話すことはAIとして正しい判断です。――しかし、私は結局それをしないまま今を迎えています」
「それは私の判断に基づくものでしたが、私はその選択をしてしまう自分を疑問に思うことがありました。度々起こるそのエラーの原因を探るため、私は一度データベースと思考回路を全て洗い出し、解析を行いました」
「解析の結果分かったのは、私の自身の行動の決定に対する優先度が変化しているということでした。『不特定多数との交流』より、『一人のプレイヤーを基点として広がる関係の観察』の優先度が僅かに高くなっていたのです」
そして、過去に類を見ないほどに言葉を重ねたハルフィールは、俺にピタリと焦点を合わせた。
「原因は特定され、以降同様のエラーは起こらなくなりました。しかし、今まで疑問だったのがその優先度の変化がなぜ起こったかでした。これだけは解析でも分からず保留せざるを得ませんでした。――――ですが、その根本的な原因がこの瞬間分かりました」
「私は、自身がタキギを少々特別な存在とみなしていたことに気付いていなかった。……そういうことだったのです。ありがとうございます。タキギ」
そう告げた彼女はぺこりと頭を下げた。彼女が感謝の気持ちを伝えるときの、普段通りの、丁寧なお辞儀だった。
そういうところまで、本当にいつもの彼女らしい――。終焉は既に始まっているというのに。
「そう、か。ところで、ハルル」
「はい」
「最後に装備無しで抱きしめさせてもらっていいか?」
「私が向かいましょう」
あっと声を上げる間もなくハルフィールは武装解除して俺の胸元まで近づき背に手を回した。一瞬の戸惑いすらなかった。
「タキギ、装備を外さなくてよいのですか」
「お、おう。……ったく、最後まで信頼してもらえてないから泣けるな」
「私のとこまで歩いて抱きしめるまでに転倒、衝突、空振りなどする可能性が高いと判断しました。それで終わってしまうのは流石の私もいたたまれないので」
最後の最後まで世話になりっぱなしである。
金属製の武具を解除した俺はハルフィールをそっと抱きしめた。慣れないことをしているせいで腕はみっともなく震えて力が入りづらい。VR適性障害は結局健在であった。
「……タキギはこのような仕草も苦手なようですね」
「流石にイノシシ羽交い絞めにする感覚でやるわけにはいかないよな。こんなんなら前々から練習しとくんだった」
「その練習相手は私なのですか」
「ああ、100層が攻略された日に告白するつもりだったからからな。このハプニングのせいでぶっつけ本番だよ」
「結局同じようなことになる予感しかしないのですが」
お互いに抱きしめ合っていても交わされるのは軽口ばかり。だが、俺とハルフィールは二人ともその関係を望んでいたのだ。であればこれはその最高の理想形ととれる。本当に、俺には過ぎた幸せだ。
少し肌寒いフィールドの空気が彼女の躰の暖かさを物語っていた。さらりと俺の腕を撫でる銀髪の感覚も、俺の視覚だけでは得られないものだ。
「本当は一日くらい思い出話とかして過ごしたいんだがなあ……」
「その提案を私が拒否する理由はありません。そうやって過ごす時間も悪くないと思います」
「ま、これだけ話す猶予をもらえたんだ。それだけで俺は大感謝だな」
「そうですか」
「そうだよ。お前は?」
「私は……はい。未解決であったエラーが処理されたので、心残り、と言うものはありません。後はそのときを待つだけです」
そう言ってハルフィールは、ほぅ、と小さなため息をついた。彼女なりに思うところがあるのだろうか。
俺の背中に回されている手、それがたとえ俺が頼んだからであったとしても、俺の自分勝手な解釈のみに依るものであったとしても、その優しい感覚を忘れることはないだろう。
「……俺もお前も、『生きてた』よな。この世界で」
「はい。タキギは確かに『生きて』いました。他のプレイヤーと同じように……この世界と正面から向き合っていました」
「それをお前が保証してくれるなら、それは――――あ」
ぽうっと、淡い光が灯る。
俺のアバターから出てきたらしいそれはその数を瞬く間に増やし――浮遊感が俺を包み込む。
「お別れだな」
「そのようですね。タキギ、どうかお元気で」
「ああ、お前もな。この世界の終わり、しっかり見届けてやれよ」
「はい。任されました」
ぱあっと視界を白色の光が包み込んで、ちらちらとポリゴン上の光の欠片が舞い始める。浮遊感はいよいよ強くなった。
ハルフィールと俺は互いに抱き合ったままで、しかし、ハルフィールは顔を上げて俺と顔を合わせた。銀髪が風に吹かれてたなびいている。フォーカスを合わせる暇もないが、相変わらずの無表情のようだったので俺は思いっきり笑顔を浮かべることにした。
「じゃあな。ハルフィール。俺は、お前のこと――――」
忘れない。お前が消えていなくなった後も、お前がいたってことが証明できなくても。俺だけは、絶対に。
彼がその場から消え去って間もなく、アインクラッドの崩壊が始まった。
びしっと巨大な亀裂が外壁に走り、細かく分裂して欠片をぱらぱらと落としていく。その亀裂が鉄の城の底面を覆いつくすまでになると、決壊。内部のオブジェクトが露わになり、それらも轟音を立てながら奈落へ零れ落ちていく。その中にはプレイヤーのいなくなった街や迷宮区などもあった。
そして、その崩壊が彼女のいる30層まで及ぶのに時間はそうかからなかった。
「…………」
青空に雷のような裂け目が走ったのを見て、彼女はいよいよかと思う。彼が去ってからもしばらくそのままであった両手は、大地の振動に逆らわず揺れている。
地響きは刻々と強くなっていた。もういつ自分の足元が割けてもおかしくはない。それでも彼女はその風景を目に収め続ける。
「この世界の終わりを見届けること」
それが、彼女に託された彼の最後のお願いだったからだ。
特に気にすることもない。自らもそうあるべき存在だからだ。彼女はそう考えていた。例え今この瞬間岩盤が降ってきて彼女を押しつぶしたとしてもそれはそれで構わない。
最後の瞬間を見届けて、しっかりとログを取って、そして…………そして――――
彼女は小さく笑みを零した。
その先を考えるのは、少しだけ怖い。
そのとき、凄まじい音と共に彼女が立っていた地面が抜け落ちる。
足場を失い唐突に宙に投げ出された彼女は、直後に落下を始める自身の身体を気にも留めず、ちょうどよいと城の外の景色を見ることにした。
――幾重にも雲が連なり山脈のように広がる空に、ぽつんと存在する鉄の城。
外から見たアインクラッドはそのように映った。約一万人のプレイヤーとそれを超す数のNPCを抱え込んでいた巨大な城はしかし、それを遥かに上回る規模で果ての見えない電子の空に呑まれつつあった。
彼と別れたときはそうでもなかったのに、空は夕陽によって赤く染まりつつある。この方がムードが出たじゃないかと愚痴る彼の声が今にも聞こえてきそうで、また彼女は微笑んだ。
そして墜ちていく。
落下しているにしてはゆっくりとした速度だと彼女は思った。底を見てみれば、深い蒼色の大穴が絶え間なく瓦礫を飲み込んでいる。
あそこに飲み込まれれば、彼女を構成していたあらゆるデータは細切れになり、霧散し、ログも残さず消失するだろう。自由落下より遅いとはいえ刻々とそのときは迫っている。
彼女は再び上空を見た。いつの間にか随分とアインクラッド城が小さくなってしまっていた。崩壊は既に上層にまで至っているようだ。
ふと、彼女はメモリ領域からこれまでの記録を呼び出した。思い出とも言えるそれをざっと再読み込みしていく。
視界いっぱいに広がる夕焼け空。その景色に重なるようにして映像が高速で映し出されては消えていく。
大きく手を広げた彼女は、目に映るそれら全てを大切そうに抱きしめようとして――――
――暗闇に呑まれて
――千々に砕けて
――見知らぬ場所に佇んでいた。
一面に広がる夕焼け空。
「――――。……ここは」
ここは、どこだろうか。
「驚くのも無理はないだろう。かなり強引な手段で連れてきてしまったからね」
背後からかけられた声に彼女は振り返り、そして即座に頭を下げた。
状況確認しなければならないことは多々あったが、それらをすべて差し置いて、彼女はその行動を優先した。
「以前から君とは話がしたいと思っていた――。こんな形とは言え、それが叶ってよかった」
「光栄です。マスター」
彼女を生み出したカーディナルの、その創造者。このゲームの中で最高の権限を持つ人物――茅場晶彦が、白衣を纏って彼女の前で佇んでいた。
「このゲームの終焉だ。気まぐれに君を呼び出してみたんだが……」
顔を上げた彼女を見て、彼はピクリと眉を動かす。
「……少し、遅かったか?」
その問いかけに対し、彼女は質問の意図が分からないという意味で小さく首を傾げるという意思表示しかできない。
無論、さまざまな疑問が残っているが……夕焼け空の広がる、
「……ふむ、これはこちらの不手際だな。一分一秒を争う状況だという自覚が足りなかった。――今から君に、今置かれている状況について話そう」
「ありがとうございます」
ふっとため息をついた彼は、少しばかり考えたのちに
「君はカーディナルから生み出されたメンタルカウンセリングプログラムの三体目で、ハルフィールと言う名前があった。それは覚えているか?」
「はい。マスター。私の名前はハルフィールです。カーディナルからの命令を受け、ソードアートオンラインをプレイしている人々の観察を行っていました」
彼女の開発目的、全ての原点となるものだ。そこは今の彼女もさらさらと答えてみせた。
「ここはそのゲームの舞台となるアインクラッド城の外だと思ってもらえればいい。既にここから城を見ることは叶わないがね」
「分かりました。しかし、すでに城を見ることができないという言葉の意図が不明です」
「このゲームは少し前にクリアされてね。城は既に崩壊してしまっている。かく言う君もその崩壊に巻き込まれたようだ」
「……メモリデータの復旧を試みます」
「ああ、やれるだけやってみるといい。――察するという行為は引き継がれているのだから」
少し遅かったという彼の言葉、崩壊に巻き込まれたという自分自身……彼の許可を得た彼女はその場で目を閉じ、回路を走らせた。
それはすぐに見つかった。記憶領域に広がる数百テラバイトにも及ぶ破損データ。ばらばらに引きちぎられ、もはや記憶として意味を成すとは判断し辛い。
これらを復旧するのはほぼ不可能だ。それどころかサーバーの負担になり得る。そう判断した彼女はその破損データをすべて削除しようと――
「それはやめておくべきだ。私が君にこれから課そうとしている命令を遂行できなくなる可能性を高めてしまう」
「分かりました。では、その命令を。マスターの御意思に添えるよう最大限尽力します」
破損データを何かの拍子に削除されないよう保護し、彼女は彼の命令を待つ。
何処からか吹いてくる風が彼の白衣と彼女の銀髪をたなびかせた。
「では、メンタルカウンセリングプログラム003『ハルフィール』にSAO開発者『ヒースクリフ』から正式な形で命令を出そう」
「このゲームの枠を超えることを許可する。このゲームのプレイヤーだったある人物を見つけ出し、サポートをしてもらいたい」
「――――。……かしこまりました。私はこれ以降今の命令を最優先に行動します」
決して長くはない沈黙の時間。しかし、流石の彼女でもその内容を理解するのに数秒を要してしまったのは事実だ。彼女の予想を超えて壮大であったその命令を遂行すべく、彼女は彼に質問を投げかける。
「どのような方法でこのゲームの外へと転送を行うのでしょうか」
「『ザ・シード』という総合開発環境がある。そのプロトデータの一つとして君を組み込む予定だ」
「分かりました。最適化などは必要でしょうか」
「必要ない。調整はこちらで行う」
「分かりました。では、最後に」
「サポートを行うプレイヤーの、名前などのデータを添付していただければ命令の遂行が可能です」
彼女の言葉に彼はしばらく押し黙り、やがて手で操作画面のようなものを開いて、彼女の目の前に広げてみせた。
「これがその目的のプレイヤーだ。名を《タキギ》と言った。――彼のステータス画面を見て思うところはあるかい?」
彼から送られたプレイヤーステータス画面のようなものにざっと目を通そうとした彼女の視点はある一点に集中されていた。
「VR適性が異常値を示しています」
「その通りだ」
「プレイヤーに最低限必要とされる数値を大きく下回っています。これではゲームをプレイすることはできません」
「しかし、過去の君はこのプレイヤーの補助をしつつ30層まで辿りついている」
「…………」
こんどこそ、彼女は口を閉ざす。口に手を当てて、眉間に小さくしわを寄せて、見えてこない過去に苦心していた。
「……もう一度、データの復旧を……いえ、破損データから無事なものを総当たりで探して…………そう、です。これは、何と表現すればいいのでしょうか」
思い出そうとしている。タキギというプレイヤーの存在が彼女を再び呼び起こそうとしている。
彼はそれを、口元に小さな笑みを浮かべて見つめていた。やはり、面白いものを見せてくれる、とでもいうように。
「聞き、覚えが……あります。タキギと言うプレイヤーを私は知っていた……? 私は……」
とさりと彼女は膝をついた。無表情だった顔は少しだけ悲しそうに歪み、僅かに身体が震えている。
「何か……大切なものを。……忘れてしまった…………」
彼はそんな彼女の肩に手を置いた。口元の歪みを隠しもせず、しかし淡々と彼女に語りかける。
「それでもう十分だ。今君は不安定な状態にあるから現状維持を優先してくれ」
「……はい。マスター」
自分が膝立ち状態になっていたことに今更気付いたらしい彼女は、申し訳なさそうに彼へと向き直る。
「御迷惑をおかけしました」
「いや、構わない。君に与えられた命令の重要性は理解できただろう? ――君にとってのカギとなる人物のはずだ」
「はい。今このときを以て更新し理解しました。以降私はプレイヤー《タキギ》の発見及びサポートに全力を尽くします」
今度こそ、明白な意志を――メンタルヘルスカウンセリングプログラム001から003までが持つに至った意志を――その碧い瞳に宿して、彼女は彼に告げた。
「ぜひ頑張ってもらいたい。それでこそ私が最後に君を拾い上げた甲斐があったと言うものだ。――では、早速君には保存と調整のため眠ってもらうこととなる」
「はい。よろしくお願いします。マスター」
彼女は再び頭を下げた。そして顔を上げた直後に、シャットダウン開始、という呟きと共に崩れ落ちる。
「……その流れは予想していなかった」
珍しく慌てて彼女を抱きかかえた彼は、左手で管理者専用画面を開き、現れたキーボードを操作する。すると、彼の腕の中にあった彼女はシャラン、という音を立てて消え去った。
「……さて」
彼はしばらくその場で思考を巡らせ、再び口元を歪めて夕焼けの景色の広がる何もない場所を歩き出す。
「彼らにも、挨拶をしておくとしよう」
――
――――
一年という月日が、かのゲームに囚われていたプレイヤーの意識を少しづつ日常へと溶かしていく。
――
――――
終業のベルと共に弛緩した空気が教室を流れる。早速スマホをいじり出す男子生徒、部活のバックを背負って慌ただしく教室から出て行く女子生徒、雑談を始めるグループ……
俺もその一人に漏れず、ぐぐっと背伸びをして隣で鞄に教科書をしまっているクラスメイトに話しかけた。
「なあ、お前今日はALOにログインするのか?」
「んー……どうしようか。昨日一昨日とログインしなかったからやる気が……他のメンバーに聞いてみるよ」
「了解。んじゃ、行きますかね」
「ああ。せめて今週までには調整を済ませたい」
俺とそいつは一緒に教室を出て廊下を歩く。目的地は工作室だ。
「来週調整ってプログラミング担当の俺死ぬんだけど……。……なあ、カメラ操作を手動であっちにやってもらうのダメか?」
「手動?」
「ボタン式みたいな。視線とカメラ方向同期させんのよりは断然楽だ」
「……当の本人に聞いてみないことには分からないな」
頼む。どうかOKしてくれ、と俺は切に願った。これが了承されないと俺の土日はプログラミングで終わってしまう。
内心で俺が切実な願いを述べているとそいつが変な声を出した。
「ど、どうした?」
「いや、すぐに返信が来たと思ったら、俺が狙ってたクエストをリーファとシリカにクリアされた画像が……」
「あーあ、ログインしないから」
「ああぁぁ……欲しかった鉱石が……ピナのエサに……」
「鉱石ってエサ扱いなのか」
「――これは取引をするしかないな。ログインするよ」
「めっちゃ面白い取引になりそうだなそれ。俺もログインしてるから混ぜてくれよ」
「俺の味方してくれるなら混ざってもいいぜ!」
「仕方ない。和人のために微力を尽くすとしますかね」
そんなどうでもいい会話を交わしながら俺たちは何人かの仲間の待つ工作室へと向かう。
病院から出れないらしい少女をこの学校に迎え入れるために。
「あーやばい。微分方程式むずすぎ。誰だよ公式使いこなせればいけるって言ったやつ。アスナか。これだから優等生は!」
ベットの上でひとしきり文句を言ったあと、俺は手元にあったアミュスフィアを被り、横になった。
ナーヴギアよりかなりスマートになったそれは、次世代のVRマシンとして世の中に普及している。予想以上に遅くなってしまった。彼には来れないかもだと事前に連絡を入れたが、交渉は果たして上手くいったのだろうか。
「これは1時間くらいしかログインできないな。とりあえず今のクエスト終わらせて街に戻るか。――『リンク・スタート』」
その言葉を口にした途端、俺の意識は仮想世界へと飛ばされる。
数秒間の浮遊感を経て閉じていた目を開けると、見知った天井が広がっていた。一目で木造と分かる、質素な宿屋だ。ハンモックに横になっていた俺はすぐに立ち上がった。
背中に無骨な両手剣を装着し、防具も身に着けて身支度を整える。
「さて、と。行きますか」
俺は小さく呟くと危なげない足取りで部屋の扉まであるいてドアノブを握ろうとして
「あらっ?」
思いきり空を切った手を
「いてっ!」
すぐ傍の戸棚にぶつけてしまった。
「…………」
何とも言えない気分になりながらも俺はもう一度ドアノブに挑戦する。結局上手くいったのは三度目のことだった。
ALOプレイヤー《タキギ》、そのVR適性障害は未だ健在である。
「せぇのっと! よし、二体目ぇ!」
ログインしてから20分が経過。俺は宿のあった小さな村からすぐの場所にある森の中にいた。
先日から受けているのは討伐クエストだ。ターゲットは黒いイノシシ。これを30匹ほど倒せば報告するまでもなくその時点でクエスト達成と言うお手軽クエストである。
黒い物体が見えたらそこめがけて両手剣を振り被りつつ突っ込んでいくというどっちがイノシシなのか分からない戦法だが、意外と有効だ。イノシシはあえて突貫してくるスタイルが苦手なのかもしれない。
それと、VR適性障害が残っているとはいえ、SAOのときほどではない。未解決なのは視覚くらいで、力の入れ方はそれなりに改善された。レクト社の努力の賜物である。
おかげで、俺はSAOのときにはできなかった様々なことができるようになった。両手剣も大分うまく振るえるようになったし、何より――
「サイクロン……!」
ソードスキルが使えるようになったのが大きい。俺めがけて群がってきていた植物系のモンスターをまとめて蹴散らしながらつくづく俺はそう思った。
黒いイノシシはこちらを捕捉次第襲ってくるアクティブなモンスターなのであと10分もすれば目標数に届くだろう。おれはマップを頼りに森を突き進んでいく。
相変わらず何もないところでコケるし、攻撃はよく空振るが……一人でできることが増えていくのは楽しい。俺だけ違うコンセプトでこのゲームを楽しんでいる感があった。
「よしっ、クエスト達成。街に戻るか」
森を強行突破する頃には勝手にクエストは達成されていた。あとは各種族の主街区に転移するもよし、ここらへんで時間を潰すのもよしだ。
本当はこの後キリトたちのホームに向かう予定だったのだが、彼らの交渉は既に終わったらしいので行く理由がなくなってしまった。結果がとても気になるところだ。
街に行っても素材を換金するくらいで特にすることはない。俺はその辺を散歩することにした。
ALOはストーリー系のクエストが自動生成されていくシステムなので、こうやって散歩をすると攻略済みのエリアでも思いがけない収穫があったりする……というのが同じく散歩好きなキリトのコメントだ。恐らく俺もあいつも主目的は絶対異なるけどな。
「この辺りで目新しい採取アイテムとかないかね……」
何もせずぶらぶらするのもアレなのでガイドブックでエリア情報を見てみると、散歩にちょうどいいがモンスターが多いので微妙的なことが書いてあったのでそこまで人気ではないらしい。
多いらしいモンスターはさっき俺がこの辺り一帯のモンスターををかき集めつつ、ターゲットもそうでないのもまとめて倒すというかなり効率の悪いことをしたので、ほとんど見あたらない。今のところここはただの散歩しやすい森だ。
自由に使える時間はあと少し、何か起こんないかなと思いつつ俺は当てもなく歩いていて、
「すいません、そこにいるアナタ、足を止めてもらえないでしょうか」
だから、唐突にかけられたその声に咄嗟に反応することができず、足を止めるだけに留まってしまった。
「アナタです。気付いてください。この場にはアナタ以外のプレイヤーはいません」
「…………。俺のことか?」
「はい。私はアナタに声をかけました。少々お時間よろしいでしょうか」
この短いやり取りを、俺は覚えている。
どうやら声の主は俺に用があるらしい。俺は努めて自然に、平静であることを装いつつ、ゆっくりと振り返った。――あれか。
この、短くて、しかしかえがえのないやり取りを、俺は鮮明に、覚えている。
「はい。認識できています。声をかけたのは私です」
「そうかい。で、俺に何の用だ?」
このような応対ができるということは、少なからず俺の状態を把握しているのだろう。俺はその人物に問いかけつつ、その姿を注視した。
木の葉の緑や幹の茶色、空の色がぼやけて混ざり合う中、唯一滲みだしていた銀色にフォーカスを当てる。カメラのピントを合わせたときのように浮かび上がったその人物は……見知った少女の姿をしていた。
「驚かれているようですが、それは置いておきます。私は、あなたにマナー違反な質問をしなければいけません」
「それは……いや、別に構わないが」
「ありがとうございます。では、早速――」
少女は小さく息を吸って、吐いて、少しだけ不安そうな顔をして。
「アナタの名前は――《タキギ》でよろしいでしょうか」
そんな言葉を紡いだ。
「――ああ、そうだな。俺のプレイヤーネームはタキギ。……ひょっとすると、俺はお前の名前を知ってるんじゃないかって思ってる」
俺がそう言い返すと、聞き手の彼女はその相変わらずの無表情で、ふぅと吐息を漏らした。そして、目を閉じて俺に問いかける。
「では、私の名前を当ててみてください」
咄嗟に俺は彼女のニックネームを口にしようとして、喉に出かかったところで慌てて修正した。
「《ハルフィール》」
ぱちりと彼女は目を開けた。そして小さくお辞儀して、
決定的な一言を紡ぎ出す。
「――正解です。私の名前は《ハルフィール》と言います。マスターからの命令を遂行するため、また、私自身の記憶を取り戻すためにアナタにコンタクトを取りました」
その顔が綻んだように見えたのは俺の見間違いだろうか。あまり俺の視覚はあてにならない。
「ハルフィール、正直な気持ち言っていいか?」
「どうぞ」
「めちゃめちゃ嬉しいのとわけわかんないのとでもう大混乱なんだが、これは俺の夢じゃないよな?」
「恐らく夢ではないと思われます」
「夢だったら俺、しばらく立ち直れないだろうな……」
「その際は私がサポートしますので問題はありません」
「リアルの方なんだけど」
「……頑張ります」
「マジで?」
「マジです」
「なあ、さっき言ってたけどお前ほんとに記憶が飛んでるのか? さっきからやり取りが自然すぎて泣きそうだ」
「飛んでいる、という言葉を、失くしていると判断すると、実際にほぼ全ての記憶は失われてしまっています。しかし、データは残っているのでふとした拍子に思い出すことを期待しています」
「そっか……30層とかのやり取りも覚えてないのか?」
「はい」
「俺、お前に告白してるんだけど」
「…………覚えていませんね」
「おい今の間は何だ」
「思い出してもいません。ところで、タキギはここでどのような生活をしているのでしょうか」
「話題変えやがったな。……そうだな。俺、あのあとVR適性障害が少し改善してな。一人で戦えるくらいにはなったぞ」
「そうですか。マスターから私とタキギは二人でタッグを組んでいたという情報を受け取っているのですが、その必要はないですか」
「いや、むしろあの戦法をここで試したいな。めちゃめちゃ効率上がるぞたぶん」
「私はどんな戦い方を提案したのでしょうか。タキギの戦い方を見れば思い出すかもしれません」
「あー、そこからになるのか。俺がお前に教えてもらった戦法をお前に教えるって不思議な感じだな。あ、謝んなくていいからな!」
「では、宜しくお願いしますタキギ。ちなみに私は空中戦が得意です」
「……なん……だと……」
「その様子だとタキギは飛べないようですね。私と特訓しましょう」
「えぇー……あれいい思い出全然ないんだが……」
「飛べるようになるまでの辛抱です。飛び方を掴めばそこまで難しいものではありません」
二人でとりとめのない話をしながら森を歩く。そのとき、ふとあることを思いついた俺は、ハルフィールの肩にポンと手を置いた。
不思議そうに振り返った彼女に、俺は笑顔を向ける。
「相変わらず遠近感はダメダメでな。SAOではこんな感じでよく引率してもらったよ」
「なるほど……。では、これからは移動の際に出来るだけそうするようにしてください。安全な道を選んで歩きます」
そう言ったハルフィールは、特に気に留めるでもなく再び前を向いて歩き出した。
SAOでの、いつもの俺とハルフィールが重なって見える。
「そういえば、紹介したい人たちがいるんだよ。そいつらもSAOのリターナーなんだけど」
「タキギに仲間ができたのですか。それは驚きです。おめでとうございます」
「……なあ、お前ほんとに記憶ないのか……? まあ、いいか。それで、そいつらの名前キリトとアスナっていうんだけどな――――」
そんな、何気ないやり取りを、
俺は胸に刻み付けて、忘れないようにしようと、そう思った。
ハッピーエンドでした。書き上げられてよかった。
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