Episode.30 綻び
滑るように雲が広がる青空の下、樹海のようにそびえ立つビル群が辺り一面を覆う。その中でずば抜けて背の高いビルのひとつ、太陽光を塗るように反射させて輝いているのが、ここ21区のCCG対策局である。
平日の昼間を過ぎても車の往来は止まるところを知らず、信号待ちをする大小様々な行列が車道にある。それは人間にも同じことが言える。
黒いスーツを着た者、または灰色のコートを身に纏う者。自転車にまたがったラフな格好の若者や杖を突いた老婆。ある者は手元のスマートフォンを見つめ、ある者は同僚か上司かと会話を交わす。
大手百貨店やレストランなども並ぶこの一帯は賑やかである。カフェテリアの外のテラスでゆっくりとコーヒーを飲めたりもする。あちこちにコンビニエンスストアやスーパーマーケットも置かれていて、生活に不便することはないだろう。
そんな、都会の中でのこの日常が当たり前になっている。その当たり前を脅かす存在、喰種と戦うのがCCGである。その一員となってもう何年も経っていた。数え切れない死線をくぐり抜けてきたけれど、それでも、自分がなんのために戦っているのか、わからなくなることがある。
仲間を守るため、家族を守るため、街を、世界を守るため。並べればそれなりによく聞こえる理由を、今さら口には出来そうになかった。
全てのきっかけは、中学生の時だ。親友が突然亡くなった。明るくて、自分の趣味が合い、いつも遊んでいた。
その子が死んだ。何も言わずに、電池が切れたおもちゃのように。しかし、違った。壊されたのだ。破壊されたのだ。喰種によって。
枯れてしまうくらいに泣いた。声を上げて泣いた。その子が大切だったから。かけがえのない存在だったから。
でも、もういない。母親と一緒に夕食を外で済ませた帰りだったそうだ。そこを襲われた。母親は助かった。それを不幸中の幸いというのか、生き地獄というのか。当時の私はそれを判断できる状況でなかったけれど、母親の魂の抜かれたような姿を見てしまった。
もう二度と、大切な存在を失いたくない。そしてその家族、友達も悲しませないように。そういった強い決心を持って私はCCGで喰種捜査官となる道を選んだ。
確かに、これまで数多くの喰種を倒してきた。いろんな人たちに感謝をされた。けれど同時に、助けられなかったこともないわけではない。その方の親族の顔が、親友の母親と結びついてしまう。
私は多くの経験を積んできた。だからといって、全ての人を助けることはできないのだ。今さらにそれを痛感する。
そして今では、道に迷っている。このまま捜査官ではなく、情報員や他の部署に異動することすら頭をかすめる。さらには、実家の店を手伝うことだって……。
あの時の決心はけっして嘘偽りではない。純粋なものだからこそ、時が経つにつれて傷つき風化して、変わってしまう。
私は大切な存在を守れているのか。断言はできない、いや、違う。大切な存在が、大切な存在
ふと目を上げると、もう信号は青に変わっていて、しかも点滅までしている。まわりにいた人たちは既にいない。
右手に持った銀色のアタッシュケースを握りしめる。緩い風になびく髪を左手で押さえながら、私――網文韻子は少し先にそびえ立つ巨大ビルを目指して早歩きをする。
韻子は硝子扉をくぐり抜け、21区対策局の中に入った。一階ホールはかなりの広さに加えて吹き抜けた天井、壁にもかなりの割合で硝子が使われているため、晴れている日は日差しが入ってCCG内の空気を穏やかにしてくれる。それでも緊迫とした空気になってしまっては天気がどうこう言っていられないが。
今日も人の出入りが激しい。韻子の横を十人ほどが早々とした歩きで対策局を出て行った。その後ろ姿を横目で見ながら韻子は五台並んだエレベーターのひとつに乗り込む。
現在でも喰種との抗争は続く。無くなれば、そもそもここの意味も無くなる。
もう、かれこれ二年が経つ。幻レベルにされていた“光を放つ喰種”改め、アルドノアグールの登場。そして彼らが組織する喰種集団、ヴァースの強襲により、CCG側もかなりの苦戦を強いられた。
アルドノアグールが一体登場する度に幾多の犠牲が出てしまった。けれどその犠牲を払ったおかげで倒せたと胸を張るCCG上層部がいるのも事実で、どうもやるせない。
現在討伐完了したアルドノアグールは四体。二年前に倒したあの四体のみだ。
ヴァースのアジトを襲撃したあの日以来、新たなアルドノアグールとの戦闘はあったが、こちらが一方的にやられるばかり。さらに、まるで牽制球のように現れてはこちらを攻撃し、すぐに撤退する。そんな不可解な動きを見せ続けて、今に至る。
いつどんな襲来でも対応できるように全区域で目を光らせてはいるが、なかなか出てこないのだ。まるで、なにかを待っているかのような。はたまた、注意をそちらに向けて、裏でまたなにかを企んでいるかのような。
「お疲れ様です」
エレベーターで地下三階に潜り、韻子はクインケの工房へと来ていた。
声をかけると薄暗い部屋の奥から一人の男性が歩いてくる。数日も風呂に入っていないような荒れた髪に目のクマ、げっそりとした体。彼がここの工房長の
「おう、韻子ちゃんか。お疲れさん」
「クインケのメンテナンス出しに来ました。よろしくお願いします」
大人が五人ほど並んでも充分なほどの長さがある鉄のテーブルにアタッシュケースをのせる。ここにクインケが収納されているのだ。
「初めて渡したときのテストデータを元にして色々改良とかしてみてたんだけどさ。どんな感じよ」
「はい、それは持っただけでわかりましたよ。少しでも軽量化されると使いやすいですし、ギミックの方も初期の頃より精度が上がってますよ」
メンテナンスに出すこのクインケは最近になって使い始めたもの。開発者が完璧に近づけて作ったとしても、その人次第で誤差は広がっていく。それを修正するのもまた松原たちの仕事だ。
韻子の好評を得て松原はやせこけた頬をへこませながら笑った。
「そりゃよかったよ。これで不評だったら俺もそろそろ引退覚悟しなきゃいけないし。それに良いクインケを持ってもらえれば、また韻子ちゃんがあんなことに……」
頭を掻きながら松原は調子が出てきたように口を動かす。しかしそれはあまりにも動きすぎた。
目を一瞬大きく開いた韻子からは普段の明るい表情が消え、視線を床に落とした。はっとした表情をした松原は口を閉じて、そうすればいいかわからず手を虚空に彷徨わせている。
「ダメですよ、松原さん。女の子は繊細なんですから、デリカシーのない発言は控えないと」
韻子の左側、クインケの未修理倉庫から呆れるような声が聞こえてきた。近づいてくる足音ですぐに韻子はわかった。
特徴的な足音。声ではなく、足音。片方が前に出れば、もう片方も次に前に出る。そのときに、生身では生まれない、ガシャ、という音が出てくる。そんな無機質な音には似合わない金色の短髪の青年が修理器具を持ちながら現れた。
「よう、韻子」
「うん。調子はどう?カーム」
現在ではもう身についた作業服姿のカームはいつもの微笑を浮かべながら韻子に声をかける。
カームは見たとおり、このクインケ工房で仕事をしている。つまり、もう喰種に立ち向かっていく捜査官は辞めていた。
「ああ、いつも通りだ。これも体に馴染んでよぉ、前みたいな痛みはなくなったよ。デリカシーはないけど技術力はすげぇよ、松原さんは」
からっとした笑顔を見せてカームは自分の左足を叩いた。そこには、本来であればもうなくなっている足があった。しかし喰種でもなんでもないため、再生したわけではない。松原がクインケベースの義足を作ったのだ。
赫子から出来ているため強度は抜群のことこの上なし、切断面とを繋ぐ器具は人工的なものであるから、人間の体との拒絶反応などもない。
「そうだね。でも私も、いちいちビビってらんないよ。今の自分の立場もあるし、もっと強くならなくちゃ」
韻子はゆっくりと頷いた。そして自分自身に言い聞かせるような、しっかりと浸透させるような声音でそう言った。その言葉に、嘘をつくなと後ろ指を指す自分がいることを韻子は承知の上で。
カームも微妙に目を細めて、少し間を置いてから、だよなと頷く。
「では、よろしくお願いします」
「ああ。終わったら連絡するよ」
韻子は切り替えたようにはきはきとした口調で一礼すると、クインケ工房を後にした。
再びエレベータに乗り込み、地上から上へと登った。次に目指すはここの最上階。21区の対策局局長の久保田がいる部屋だ。
「失礼します」
高層ビルには様々な部屋が設けられているが、ここだけは次元が違う。洋風の城を思わせるような複雑な模様を彫ったドアがある。金色に輝くレバー式のドアノブもどこか古風な印象だ。そのドアをノックすると、すぐに向こう側から入室を許す声が聞こえてきた。
高級品と一目でわかる机に片肘を突きながらこちらを見ていた久保田は、ふっと笑顔を作ると手前にあるソファへと誘導する。
「今朝のSレート喰種の捕獲についてです」
「ああ、処理班からもう情報は来ている。今回も立派な活躍ぶりだったそうだったじゃないか」
「い、いえ。私はまだまだ……」
今朝、韻子たちはとある喰種の捕獲に成功した。その喰種は、アルドノアグールではないが、ヴァースとの関わりが強いという情報が上がっていた。Sレートというだけあり、捕獲には困難を極めていて、他の区でも度々失敗していた。
それを昨日の夜、21区にいるという情報を手に入れ、急遽韻子たちが班編成された。人の活動が減る深夜から早朝にかけて動くと予想したが、それは見事に的中した。防犯カメラ等で確認した人物と一致し、喰種の弱体化、そこを捕獲という流れにもっていった。それを仕切ったのが他でもない、この韻子だったのだ。
「自分はそう思ってても、皆の声や実績がそれを表す。もっと自信を持っていいんだぞ。網文
久保田は穏やかにそう語りかける。韻子はそれにはにかむようにして頷くが、その言葉にもどかしさも感じてしまう。
今年に入ってから韻子は一等捜査官から上等捜査官となった。ヴァースのアジト襲撃のときは二等捜査官。時は瞬く間に過ぎてしまうものだと、小さいため息が出てしまう。この進級を嬉しくもあり、それと同時に辛くもあった。
「それで、だ。情報の通りの喰種で間違いは無かった」
「はい、間違いありません。ただ……」
「ただ?」
韻子が意味ありげに言葉を詰まらせた先を、久保田が目を細めて促す。
「おそらくですけど、もう間もなく始まると思います。……ヴァースとの、本格的な戦いが」
恐る恐る言葉を紡ぐ韻子を、久保田はじっと見つめる。手を顎にやり、少しだけ身を乗り出す。
「今朝の戦闘が終わり、他の捜査官たちに連絡をしてもらっているとき、その喰種が一番近くにいた私にだけ言ったんです」
韻子の記憶が遡り、きゅるきゅると回転を続けて、やがて今朝のときにまで戻った。
『拘束完了。対策局に連絡をお願いします』
『了解』
喰種との戦闘が終わり、捜査官の一人が連絡のために現場を少し離れた。まわりには喰種を拘束したことによる安堵感がわき始めていた捜査官たちがいた。
韻子が近づき、拘束具をはめRC値抑制剤を投与された喰種の顔をふと見下ろしていた。すると、その喰種が虚ろな目が韻子を捉えているのに気づいた。そして口元が動いているのにも気づいた。
『……?』
韻子が怪訝な面持ちでクインケは握ったまましゃがむ。顔が、耳が近づいたおかげで喰種がなにか発している声を拾うことができた。
『……めだ』
『え?』
掠れた声は言葉にはなっておらず、韻子はもう少しだけ耳を近づける。
『このままでは、だめだ。早くしないと、人間も、喰種も、終わる』
韻子は、そうハッキリと聞いた。一語一句間違えるわけがない。間違えるわけもない、その衝撃的な言葉を。
「……」
久保田はなにかを確かめるように思考したまま黙り込む。韻子は生唾を飲み込みながら、久保田が口を開くまで手を膝の上で握りながらじっと待つ。
「そう、言ったんだな?その喰種が」
「はい、間違いなく」
「……うん。結果的にはその喰種を捉えることができた。ヴァース側に近いと元々睨んでいたからな。じっくりと聞き出すまでだ」
「はい。そうですね」
これで報告は以上です、と韻子は立ち上がる。身だしなみを軽く整えて礼をして立ち去ろうとしたとき、この部屋の外側から多数の足音が聞こえてきた。それもこちらに向かってきていて、なおかつ言葉では表現しきれない、威圧感が流れ込んでくる。
「失礼します!」
がちゃり、と捜査官が二人同時にドアを両開きにして出てきた。そして直ぐさまドアを限界まで開け、閉まらないように持って固定させる。それが合図のように、大勢の捜査官たちが局長室に入ってくる。
韻子は咄嗟に部屋の端に寄った。そして捜査官たちの横顔をさりげなく見る。けっして乗り込んできたわけではなく、むしろ統率された軍隊のごとく綺麗に整列していた。
いや、と韻子は考えを改めた。これは本当の軍隊だったのだ。それは隊列の前方にいた二人の人物が韻子の目にとまったとき。見慣れない捜査官たち、そして異国の捜査官たちまでもが入り乱れる中で、彼らだけは存在するだけで注目を集めるような、そんなオーラを放っていた。
ひとりは、CCG最強とされる女性捜査官、マグバレッジ特等捜査官。たたずまいだけで自分のもつ美しさを存分に活かし、整った顔立ちにベージュのセミロング、口元左にある艶ぼくろを持った彼女はモデルと名乗ってもおかしくないくらいだ。
そのマグバレッジ特等の右横にいる人物。彼は、前からずっと見続けてきたからこそ、迷うことなく彼であると断言できる。暗いベージュのコートを着て、目線は迷うことなく久保田に注がれる。そこにはけっして踏み込むことができないなにかが巣食うようで、見られてもいないのに恐ろしさがこちらまで手を伸ばしてくる。
彼は、界塚伊奈帆
でも今は、韻子はわからない。外見はわかっても、わからない。その目に映るものも、心の内も。彼の双眼の闇を覆い被すように、しかし逆に誇張するかのような髪は以前の茶色がかった黒ではなく、真っ白になっていた。
韻子は、早足で局長室を後にする。彼らが入ってきたということは、かなり重要な報告があるということだろう。そんなときに自分のような人間がいてはいけないと、そう韻子は思った。久保田には見えていないだろうけれど、と礼をしてから廊下に出る。その間に耳に入ってきてた言葉には「ヨーロッパ遠征」、「ヴァンパイアの壊滅」などという言葉が聞こえてきた。
階を少し降りて休憩室に入った。高層階だけに人の数はさほど多くない。三台並ぶ自動販売機からひとつを選び、さらにそこからなにを飲もうか少し考えた後、小銭をいれた。
ボタンを押して出てきた缶コーヒーを手に取り、近くにあった小さなテーブル席に座る。窓際に設置されている席には三人ほどがスマートフォンを片手に各々飲み物を飲んでいた。
そこから見渡せる景色は広がる空の青と密集したビル群の無機質な色が互いに独立し、ため息の出るほど見栄えのないものだ。高層階からの景色に慣れていない人ならもっとましな感想を言うのだろうが、韻子にはそれは無理だった。
慣れてしまったものに、今さら未知との遭遇のような新鮮な言葉など出てこない。人の発展のため開拓され、より優れた技術を取り入れて都市として進化していく東京に、なんの関心も抱けない。むしろむさ苦しいとまで思えてくる。
プルタブを開けてひとくち飲んだところで、後ろから声をかけられる。
「あれ、韻子じゃん」
飛び跳ねるような明るい声の主は、振り返らずとも声だけでわかった。
「ニーナ」
「よ、元気してるかい?」
韻子を見つけたからか、嬉しそうに椅子を寄せてきて韻子の隣に座る。
ニーナは現在も情報担当として筧とともに捜査官たちをサポートしている。ゆるふわで左右に結わえていた髪型は変えて、後ろでひとつにまとめている。本人曰く、この方が大人っぽくてモテるらしい。
「今朝から喰種の捕獲作戦があったんでしょ?」
「うん。でも無事終わったよ」
「さっすが-。このままさらに昇進だね」
「えー、簡単に言わないでよ」
見た目を大人っぽくしたところでニーナはニーナだった。軽いノリで肘で小突いてくるニーナを見ていると、韻子は自然とリラックスできる気がした。
「……でさ、知ってる?」
「なにが?」
「伊奈帆くん、帰ってきたこと」
「さっき見た。マグバレッジ特等と大勢の捜査官を連れて」
小さめのペットボトルに入ったオレンジジュースをひとくち飲んだニーナがぼそっと言う。それにつられるように韻子も声が小さくなる。缶コーヒーを握る力が強くなった。
半年前、マグバレッジ特等と伊奈帆、そして数多くの捜査官たちがヨーロッパのCCGと連合を組んで、とある喰種集団の殲滅作戦を決行したのだ。
その集団が”ヴァンパイア”。人々を見境なく喰らうだけではなく、彼らだけではなく世界的に見ても美しい、綺麗だと思える女性たちを狙い、捉え、そして彼女たちの血だけを抜き取るという残虐な行為まで行っていた。血を抜き取ったあと、その亡骸は道ばたに無造作に捨てていくのだ。その抜き取った血は喰種たちで高級酒としてあつかわれるようだ。
そんな集団の人数はそれほど多くないが、ヨーロッパ全域にそれぞれ支部が設けられているという厄介さに加え、ヨーロッパ屈指の強さを誇る喰種たちだった。それゆえに当局の捜査官たちが数多く返り討ちにされ、ばらばらにした遺体を観光名所に並べられることもあったそうだ。
ついに自分たちでは手に負えないと判断した結果、日本に助けを求めた。そして向かったのが彼らだった。
「ヨーロッパ全域だから時間はかかったんだろうけれど……」
「見事殲滅を完了し、今日帰ってきた」
韻子がニーナの言うことを先回りして口に出すと、ニーナは黙って小さく頷いた。
「そりゃ、CCG最強の捜査官が参上したんだから、勝てたのも当然かもしれない。だけどさ、一緒に行ったのが……」
ペットボトルのラベルをくるくると回しながら見るニーナだったが、後半の言葉になるほど声が小さくなっていった。
「四階のとこからロビーが見えてさ、ちょうど入ってきたの見えたんだ。大勢の人が揃って見下ろしてた。そのとき、近くにいた人たちが言ってた」
それは、ニーナでさえも拳を強く握るほどに覚えていた。そのとき現場にいなかった韻子でさも、容易く想像できた。
『ほら、帰ってきたぞ』
『本当だ。すげぇよな、マジで殲滅してくるとはな』
『当たり前だろ。
黒炎は、マグバレッジ特等に付けられた異名だ。大勢の強力な喰種をいとも簡単に倒し、そのときに使われたクインケによって生み出された炎が黒かった。そんな様子をそのまま当てはめただけ。けれど単なる異名でも、その実績があるからこそ、捜査官である韻子たちからでも恐れるほどの強さを、ひしひしと感じる。
だけど……。
「なんか、嫌だよね。私たちの同期が、大切な仲間がさ、そんな呼ばれ方するの」
ぽつりと零れたニーナの言葉は、触れれば消えてしまうくらいに小さい。空になったペットボトルが軋む。
韻子は視線を自分の足下に向けたまま上げることはない。目は細められ、唇を少し噛みしめている。
「でも、ちょうどヨーロッパに行く前、かな。伊奈帆くんを近くで見かけたことがあって。挨拶とかはしなかったけど」
けど?
韻子はゆっくりと視線をニーナに向ける。ニーナは目を閉じて、そのときを思い出しているように見えた。同時に、言いたくないことを言うような、辛そうな顔をしていた。
「今までの伊奈帆くんには見えなかった。ちょっと、怖かった」
困ったように言うニーナの言葉が韻子に触れる。ざわりとした嫌な感覚がまとわりつき、韻子は再び視線を逸らした。
「……ごめんね、韻子」
「ニーナが謝る必要はないよ」
「うん。でも、ごめん。私たちだけでも、ちゃんと大切な仲間じゃないといけないのにね。それこそ、ライエも……。あ、そろそろ休憩終わるや」
ニーナは立ち上がると自販機横のゴミ捨て場にペットボトルを捨て、無理矢理作ったように見える笑顔を見せて「またね、韻子」と言って去って行った。
韻子はまだ飲み終わっていないコーヒーを飲む。朝方から行われた作戦だったから、朝食を食べていなかった。ぐるぐるとお腹が鳴る。
ちょっと、怖かった。
ニーナが言っていたその言葉が何度も何度も脳内で反芻する。それはあまりに慣れすぎていた。喰種と戦っていく時々でいつも感じる。恐怖。それを、ニーナは伊奈帆に対して感じた。
韻子はけっしてニーナのその感情を否定する気は無い。それどころか、彼女ですら感じてしまったのだ。恐怖を、伊奈帆に対して。
唇をかむ力が強くなる。缶コーヒーをつかむ手が震え、視界がぼやけてくる。落ち着こうとしても、精一杯目を閉じても、滲む涙は止めることはできない。
韻子が伊奈帆に対して恐怖を感じてしまったのは、ニーナが感じたそのときよりもずっと前。時は戻りに戻り、ヴァースのアジト襲撃作戦が行われ、事実上失敗したあの日だ。