もう、どのくらい歩いているだろうか。かなり入り組んだ道を進み、曲がり、また進む。ちょっとした目印のようなものがなかったら、無限の迷路に迷い込んだ感覚になりそうだ。
時より、後方から激しくなにかがぶつかり合うような音が聞こえる。それに呼応するように地下施設もきしみ出す。
「網文、しっかり歩け。この地図が正しければ、もうすぐで地上に出られる場所があるはずだ」
不見咲が韻子に肩をかすような状態で無機質な白い通路を歩いている。不見咲の片手には、韻子が見つけた部屋で偶然しまわれていたこの地下施設の地図が握られている。
それは韻子たち捜査官たちなら、古屋敷から地下施設へと落とされてしまったものなら喉から手が出るほどの代物だ。これに記されている地上と行き来できる階段は、隠し通路のようなものだった。つまり、地図が無ければ延々とここを歩き回り、ついぞ空を見ることなくあの喰種に殺される。そういうことだろう。
けれど、韻子の今の状態では、その宝の地図とも呼べるものさえも、無価値に見えた。涙で潤んだ視界はいまだ乾かず、全身を包み込む喪失感が彼女に希望という言葉を奪っていた。
韻子の足取りは重く、ふらついているため不見咲がいなければまともに立つことすら難しい。二人ともクインケは肌身離さず持っていたが、それが役立つかどうかはもうわからない。満身創痍、精神的ダメージは底が見えないほど深い。韻子も、そして韻子を励ます不見咲でさえも。
自分が生き延びたとしても、彼は……。
「網文!」
韻子がよろけた勢いで片膝を地面につく。必然的に不見咲も倒れそうになる。絶望に満ちた韻子の顔を見て、不見咲はたまらず声を荒らげた。
「君がしっかりしないでどうするんだ!?界塚一等が残した言葉を、託したすべてを無駄にする気か!」
両手を地面に突き、立ち上がろうとしない韻子は、震えていた。不見咲の言った「界塚」に反応してしまい、韻子の目から涙が溢れ出す。一粒一粒落ちていく涙が地面に模様を作り、やがてつながって小さい池になる。
不見咲が足に力を込めて韻子ごと無理矢理立ち上がろうとする。揺れた勢いで滴り落ちる涙をまき散らすように韻子も不見咲に体を委ねるようにして立つが、やはり足の震えはおさまらない。もはや韻子を引きずるように不見咲は再び歩き出した。
韻子は不見咲の横顔を覗く。すがるようにして見た彼女の顔は、准特等の普段の雰囲気とはかけ離れたものだった。目を細めて涙を流さんとし、歯を強く噛みしめている。
ああ、彼女も、体の内側から引き裂かれるような思いを必死に堪えているんだ。韻子はそう感じて、また下を向いてしまった。
潤んだ瞳からまた涙が落ちる、まさにそのときに遠くから足音が聞こえてきた。それもこちらの通路をかなりの速度で走って進んできている。通路だからこそ余計に響いているからか、その者とはまだ距離がある。
「……くそ、ここまでか」
不見咲はなにかを諦め、そして決心した口調で少し先の曲がり角を睨んだ。不見咲がなにを考えているか、それは韻子にもわかった。いや、韻子もそう思わざるをえない。この隔離された空間。外部との連絡手段はない。地図で書かれたようなルートでしかここにたどり着けないのだから、仲間が助けに来たとは考えにくい。であるなら……。
徐々に近づくにつれて、誰かの声が微かに聞こえた。そして銃声、誰かの叫び声、それがいくつか繰り返されたが、直に止んだ。そして駆ける音が再び聞こえてくる。
「網文、おそらく敵は一人だ。私がどうにか食い止める。お前はその隙に脱出ルートへ急げ」
「へ?」
不見咲は韻子の腕を肩からほどくと、地図を半ば無理矢理押しつける。クインケを構え、じっと目先を睨む。韻子はよたたよと後退し、壁にもたれ掛かってしまう。
「来るぞ、網文!」
不見咲の怒号のような声とほぼ同時、目を見張るスピードでなにかが曲がり角から姿を現す。生命を帯びたように揺れるマントに、全身が黒で統一された服装。しかしそれは一般的な服ではない。暗殺者のような印象を窺えるその者の顔には、同じく黒いマスク。左目を隠したようなマスクには、二人とも見覚えがあった。
「……こんなところで会うとはな。眼帯」
皮肉めいた口調で不見咲は銃口を向ける。こちらの存在に気づくと、眼帯は戦闘態勢のまま一旦立ち止まっていた。
「眼……帯」
不見咲が言った言葉が韻子の頭の中で何回も繰り返される。
そのマスクを見たのは、CCG内で共有されたデータの中。映像に映し出されたその喰種の行った罪。けっして忘れたことはなかった。なぜならば、彼が伊奈帆を死の直前まで追いやった張本人であるからだ。
「伊奈帆を……殺そうとした喰種」
「網文。冷静に動け。今は感情的に……」
視線と警戒は眼帯に向けたまま不見咲は韻子に言い聞かせるようにするが、韻子にその言葉は聞こえていなかった。自身のクインケを握りしめて、先ほどとは別人といえるほどの顔つきで不見咲の横に立つ。
そして、眼帯に向かって走り出す。
「おい、網文!」
「ああああああああ!!!」
不見咲の静止も聞かず、錯乱状態で韻子は眼帯に向かっていった。手に握るクインケは韻子のものではない。この地下に落とされたときに死んでいった仲間たちのクインケである。短剣のクインケの刃先を正面に向け、両目までもが切り裂くように見開かれている。
伊奈帆を襲った喰種。伊奈帆を死の一歩手前までいざなった喰種。でもそれは奇しくも喰種に助けられた。それでも、その助けられた命は再び死の淵まで落とされてしまった。
もう一緒に喰種と戦うことはできない。もう一緒に食事をすることもできない。もう一緒に話をすることもできない。もう、伊奈帆に会えない。
アカデミーから知り合い、それから多くの同期メンバーと共に過ごした。その中で、伊奈帆は一番身近にいる目標の人物だった。
成績が公開される度に、常に自分の上に伊奈帆はいた。初めは競争心しかなかった。けれど、カームや起助、ライエ、ニーナたちといる間に、伊奈帆の普段の素顔が垣間見え、様々なことを知れた。
ただの競争相手から、共に喰種と戦っていく仲間。そして……。
自分がもっと強くなったとき、伊奈帆の側にいられるくらいに、置いてかれないように強くなったときに、認めてもらいたい。
それは、あのとき失ってしまった親友に変わるような、けれどそれ以上に大切な、かけがえのない存在となった。
伊奈帆はもういない。ならば、助けられたにしろ伊奈帆が果たせなかったこの敵を、自分が討とう。いや、伊奈帆がやられた相手にかなうはずがない。それでもそれが、それだけが自分にできることだと、韻子はそう思った。
眼帯もすぐに駆けだす。片方だけ見せる赫眼は心臓を貫くように鋭く、恐怖を植え付けてくる。赫子は出さずして、こちらに向かってくる。
正面衝突するようにしか見えない。韻子はクインケを握り、そしてその刃を振り下ろした。この一撃が確実にあたる、そう信じて。
眼帯はすぐ目の前。この刃が当たるはずなのに、眼帯が瞬間的に体をひねったことにより、それは空振りに終わってしまった。
刃がまるで眼帯の顔のラインを撫でるように、まさに紙一重ですり抜けていった。そのとき韻子の目が捉えたのは、眼帯の赫眼の瞳がオレンジ色をしていたことだった。
眼帯は減速することなく不見咲に接近していく。
「……!!」
外せば前方にいる韻子に当たってしまう。それを覚悟で不見咲は引き金を引く。音よりも速く飛ぶ弾丸は、しかしまたしても眼帯と紙一重で通り過ぎる。捉えるのはぼろぼろになったマントのみ。両手撃ちで、確実に狙って撃っている。それは間違いない。なのに、
眼帯はそのまま手を伸ばした。不見咲は咄嗟に掴まれまいと体をのけぞらしたが、それまでもが計算通りの動きを眼帯はしてみせた。不見咲の肩をつかむと、それを土台のごとく力を入れて不見咲の頭上を越えるように飛んだ。
おもいきり力を入れられた不見咲は地面に倒れ込む。それでもすぐ反撃をと体勢を立て直そうとしたが、その前に眼帯は眼中にない様子で韻子と歩いてきた道を疾走していく。
「……なんだったんだ」
あっけにとられた顔で不見咲は眼帯の姿が見えなくなった通路を延々と見ていた。そしてはたと我に返り、韻子の方を見た。立ち上がって駆け寄るが、そこには地面にへたり込み手元のクインケを呆然と見る、魂が抜け去ったような姿の韻子がいた。
「おい、網文……」
不見咲が韻子の肩を軽く揺らしていたときである。また前方より誰か複数人がこちらに向かって近づいてくる足音がした。また喰種か、と不見咲は思ったがすぐに考えを改めた。
駆けてくる足音の速度、そしてなにより小さいが聞こえてくる声。これには、聞き覚えがあった。
「……ああ、よかった。生きていた」
遠くからでは不見咲は一瞬判断が揺らいだが、やはりそうであった。本来整えてあった髪はぐちゃぐちゃになってはいるが、その顔立ちと声で確信した。目の前にいるのは水天寺だった。そのほかに彼と同じ班の捜査官がひとりいた。
「水天寺、准特等」
「不見咲准特等。そして、網文二等。よかった、落ちていったときはどうなるかと思っていたが、合流できたようだ」
少しやつれ気味の微笑を浮かべてながら不見咲の目線に会わせるようにしゃがむ。
「先ほど眼帯が現れましてね。彼は我々を襲うために来たようではなかった。二人も、もちろん」
「ええ。奥の方へと進んでいきました」
「なるほど。どういった理由でここにいるのかは、今はどう考えてもしかたがない。では行きましょう。立てますか?」
そう言うと水天寺は立ち上がって不見咲たちに手をさしのべた。しかし網文はもちろん、不見咲もすぐに立とうとはしなかった。
「このさきに、巨大な穴があります。そこから本館一階とつながっているようです。久保田特等たちのチームがはしご等を出してくれています」
水天寺は二人の様子から察し、今の状況を伝えた。それによってやっと緊張の糸が切れたのか、不見咲は片膝を突いた状態から一気に腰を地面につけた。深いため息と共にこんな言葉が出た。
「……終わったのか」
「ええ。我々が地下に閉じ込められていた間、地上でも久保田特等たちも喰種との戦闘を強いられていたようです。幸いアルドノアグールは現れなかったことや、あの眼帯が館内に入っていった途端に喰種たちが撤退していったようです。そして至急、我々の救出に動いた」
水天寺がさしのべた手を不見咲はつかみ、立ち上がった。そのときにふと感じた疑問を口に出す。
「しかし、どうして久保田特等たちは至急私たちを救出しようとしたのでしょうか。やはり私たちと連絡が取れなくなったから……」
「おそらくそうでしょうが、まぁ、ほかにも理由が思いつきそうです」
水天寺は次に韻子にも手をさしのべる。不見咲も大丈夫かと両肩を優しく包むように手を置く。そしてやっと韻子は顔を上げることができた。
水天寺に立たせてもらい、そして少しずつ三人は歩き出す。中途半端に浮いたような状態から一気に地に足がついたような心地。それは現実に引き戻されたことによる徒労感、そしてここまでに部隊が壊滅したことを改めて認識する絶望感。それらが足かせとなり、誰もはやく足を動かそうとはしなかった。
角を曲がり、しばらく直進してやっとその“巨大な穴”が見えてきた。たしかにそれは穴で、この屋敷を建てるにあたって計画的に開けたと言うよりも、なにか巨大なハンマーで打ち抜いたような、力業でできたようだった。
即席のはしごがあり、地上とつながっているため穴を見上げられる場所のまわりは、暗闇に支配された地上階を照らしていたライトの光が差し込んでいた。そのため、その簡素なはしごがまるで天国へとつながっているよう似見えた。韻子は、もしそうであるなら、本当に天国へとつながっているなら、と意識を吸われそうになりながら上がる。
三人が登り切り、まわりにいる捜査官たちと状況報告をしようとしたとき、地下から響き渡るうなり声のような地震が起きた。
「なんだ……?崩れるのか」
「おそらくあの黒鬼、とかいう喰種のアルドノアで……」
「アルドノア!?」
「ええ、いやしかし、とにかくここを出ましょう!」
アルドノア、というワードに皆が食いつくなか、不見咲が先頭となって本館を出た。
外に出たとき、韻子は絶句した。あたり一面に負傷した捜査官たちがシートの上で横になり、救急措置をしている。軽傷で包帯を巻いた者から、血だらけになり助けようがない者もいた。救護班と捜査官との数が一致しているはずがなく、白い服装の救護班は動ける捜査官たちの手を借りていた。
いまだ地震はおさまらず、まわり捜査官たちが不安を露わにした様子だ。そんな中ではっきりと韻子たちの耳に届く声があった。
「おい、まだ救急車来ないのか!一旦出したのはいつ戻る!?代えはないのか」
見れば特別装甲車のよこで久保田が無線で相手とやり取りをしていた。その声からして彼も焦りを隠せていない。それほどこの事態が深刻であることを示している。否、韻子たちにわからないわけがない。
地震はついに振動から破壊へと移行した。韻子たちのいる本館前の広場からはわからないがこのさき、四つの建物の中央に位置する巨大な中庭が崩落でもしたのだろうか。凄まじい崩落音が響く。
「あああ……」
その音にかき消されるくらいの弱々し声が韻子の口から出た。崩落したのは中庭。その原因は明確で、黒鬼との戦闘、以前戦った騎士と同一のアルドノアの衝撃波で地下施設が耐えられなくなり、崩壊したのだ。だから、そこで動けなくなっていた伊奈帆は……。
「とりあえずお前たちは救護班を手伝え。数が足りなさすぎる。ああ、彼らの判断に従え。……不見咲、そして水天寺も無事か」
不見咲と水天寺は韻子を連れて久保田のいる場所まで歩く。彼らの存在に気づいた久保田は少し安堵した様子だった。
「久保田特等、こちら東班。生き残りは五名……いや、彼女も含めて六名。そして」
「こちら北班。残ったのは……私だけです」
水天寺は姿勢を正し、韻子に目をやりながら生存者の数を伝える。不見咲も苦しさを耐えるように言う。そして、と彼女は続けた。
「西班は、全滅です」
歯を食いしばり、目を細めて声が徐々に小さくなる不見咲を、久保田はただじっと見ていた。
横にいる韻子はぎゅっとクインケを握りしめた。もうこれしか、やるせない気持ちをぶつけるものがない。
「……わかった。みんな、よく帰ってきた。度合いによるが負傷しているなら救護班に見てもらってくれ」
目を閉じ、彼らの少ない言葉から壮絶な悲痛の叫びをくみ取るようにうなずき、彼も絞るような言葉を残して上等捜査官たちの集まる場所に向かった。
久保田が立ち去ったそのとき、韻子の視界は少し遠くに立っているユキの姿を捉えてしまった。ユキは、他の捜査官と話をしているわけでもなく、こちらをずっと見ている。
「韻子、ちゃん」
意識が朦朧としているようなユキの姿を見て、韻子は視線を逸らしたくてもできなかった。目を離せばユキの魂が身体から抜け去り、どこかへと消えてしまいそうだった。震える指先はもう韻子の目の前まで来ていた。
「今の、本当なの?」
「……!!!」
捜査官を続けてきたのに、その指はとてもか細く、触れてしまえば崩れてしまいそうだった。ユキの手が韻子の肩に置かれ、ただまっすぐ目を韻子に向ける。向けて、逃がさないと訴えかけている。逃げ出したい現実から逃げ出さないように、でも、ユキも逃げ出したいはずなのだ。
堪えていた涙が再び溢れ出し、韻子はユキの胸に顔を埋めた。崩れ落ちる両膝、止め処ない涙と鳴き声。それを震えながらも、焦点の合わない瞳を閉じてしっかりユキは抱きしめた。
久保田は様々な捜査官たちに情報報告を受けて手持ちのタブレットに打ち込んでいるとき、突然眉をひそめて片耳につけた無線機に手を当てる。
「……崩落したところに人影、だと?」
久保田は空を見上げた。屋敷前にいくつも設置されたライトと違って、夜空に浮かぶ動く光を目でとらえる。あれはこちらのヘリコプターだ。そらからこの屋敷全体の状態を見てもらっていた。そこから備えられたライトが屋敷中央の中庭に注がれた。
「人影……それはまさかアルドノアグールか!?」
久保田の言葉を聞いてまわりの捜査官たちがいっせいに反応した。驚く者、恐れおののく者、彼らの目はすべて久保田に向けられている。
『わかりません。もう少しモニターを拡大しないと……、いや、あの恰好は捜査官です!!それも二名!』
「生存者……!まさか地下から這い上がってきたのか!?」
『それはなんとも……ですがその、ひとりからは、なんというか』
「ん?もっとはっきり話せ」
『ええと……その、二人のうち片方からは炎のような、なにかが出てるんです。たとえるなら、そう、アルドノアグールのような』
「はああ!?」
『その二名、本館北口付近から中に入りました。おそらく正門方向に……』
無線越しの捜査官の声につられ、久保田は本館の正面口に目をやった。それに皆もつられて視線を移す。動ける捜査官はクインケを持ち始めた。救護班を装甲車両側に寄せて負傷者たちを守るように捜査官たちが広がる。
そして、どのくらい時間が経っただろうか。上空との連絡が終わり、謎の生存者二人が姿を現したのは、それから一分か、十分か。それすらもわからないくらいに広場の空気が変わり、呼吸すらも忘れるほどに緊迫としたものになった。
少しずつ足音が聞こえてきた。はっきりしたものとおぼつかなさがわかるもの。それが混じり合いながらも前に進んできている。
韻子たちを助けたときに設置したライトは本館ホールに置きっ放しで、そのおかげで入り口近くで戦闘態勢に入っていた捜査官たちには、その二人の姿をいち早くとらえた。彼らはこぞってうろたえ、クインケを下げて後退し始めた。
「?」
異変はだれしもが気づき、後方にいる全員が目をこらして中の様子を見るが、二人を見た途端にその表情は激変する。
「……え」
そのか細い声が聞こえたのは韻子の頭上から。ユキから顔を離すと、彼女はある一点を見ていた。涙を拭いながら韻子も顔を向ける。そして、彼女もまた、言葉とはいえない小さい声が出た。
ついに本館入り口から姿を現した。二人のうちひとりはもう片方に肩を貸してもらうような形で歩いていた。それは、まるで先ほどの韻子のように。けれど明らかに違う点は、いま生きているだけで奇跡のような重傷を負っているように見えるところだろう。
捜査官たちは驚きのあまり口が半開きのままその二人組を見ている。それをかまう風でもなく二人は歩き続け、医療班たちのいる場所に向かっていく。
「止血は済んでいます。けれど骨折などがあると思うので、よろしくお願いします」
「え、ああ」
重傷を負ったほうの人物を医療班に任せた。彼らもまた目を見開いて驚いていたが、すぐに数人で抱えてシートの上に寝かせる。
「あの、あなたの傷は」
「うん?ああ、僕は問題ないよ」
彼らが驚いていたのは救護班に任せたほうもそうだが、もうひとりのほうも、いやこちらの方がはるかに深い傷を負っているようにしか見えなかったからだ。それなのに、なにもない、いたって正常とでも言わんばかりの様子で歩き、喋り、そして首を振った。
その人物はそのまま久保田の前まで来た。近くにいた韻子、そして不見咲は、自分が夢でも見ているかと思っていた。なぜならば、彼女らは確かに見たはずだった。あのとき、彼の状態を。目を逸らしたくなるほどの、最悪の状態を。なのに……。
彼は久保田の前でぼろぼろになった戦闘服は気にせず、ただはっきりとした口調で話した。
「西班、界塚伊奈帆一等捜査官、ただいま帰還しました。生存者は僕とあちらの、佐々木宏人上等捜査官です」
「……な、なぜだ。不見咲は全滅だと言っていたが」
久保田さえも幽霊を見るような目で彼、伊奈帆の全身を見て、それから不見咲のいる方へと顔を向ける。それに合わせて伊奈帆も顔を向ける。伊奈帆は普段のような無表情だったが、すぐに久保田に視線を戻した。
「ああ、でもそれは仕方ありません。そのときの状況では、僕は生きていたはずがありませんから」
伊奈帆ははっきりと、落ち着いた口調で言うが、内容が内容だけにまるで理解が追いつかない。
そしてふと思い出した様子で再び不見咲の方に伊奈帆は顔を向ける。しかし彼の目に映るのは不見咲ではなく、韻子だった。そしてその顔は、無表情から微笑へと変わっていた
「ごめんね、韻子。ああ、ユキ姉の前だからあれだけど、あの遺言はなしで」
「か、界塚一等。君は……」
まわりすべての捜査官たち以上に不見咲と韻子は疑問でならなかった。なぜ、彼がここに立っているのかと。なぜ生きているのかと。その意味をくみ取った伊奈帆はその微笑のまま答えた。
「たしかに僕はこの屋敷の地下に落とされ、アルドノアグールと戦闘し、瀕死の重傷を負いました。けれど……ここではあまりいいにくいことなのですが、見せた方が色々と察してくれると思います」
伊奈帆はそう言って久保田から少しだけ距離を離した。なにを見せるのか、見て彼がここにいる理由になるのか、誰もが疑問に疑問が重なって潰されそうなる。
けれど、唯一無線を聞いていた久保田には、ふと一瞬あのやりとりが脳をかすめる。
『二人のうち片方からは炎のような、なにかが出てるんです。たとえるなら、そう、アルドノアグールのような』
その言葉が再生されるのとほぼ同時、伊奈帆はゆっくりと目を閉じた。そして体から一気にオレンジ色の薄い霧状のものが溢れ出てくる。まわりがどよめき、クインケを瞬時に向ける者だっていた。それなのに、伊奈帆の出すそれは、その色合いと広場のライト、すべてを照らす満月の光と重なり、美しささえあった。
そして再び開いた双方の目。右目は何も変わらない人間の目。そして左目は、赫眼だった。それも、瞳がオレンジ色をした、アルドノアグールとまったく同じの。
その姿を見て、韻子は思った。思ってしまった。
戦闘服はあらゆるところがぼろぼろになり、右手と左足は途中から途切れ、素肌が見えている。その途切れた袖口には大量の血。伊奈帆の血。そして、あらわになった手と足、微笑を浮かべた顔には誰かを斬り裂いたのだと物語る返り血がべっとりと付着していた。
韻子は思った。思ってしまった。これはどうしようもない、仕方ないとしても、こう思うなんて彼女自身も驚いて、そして辛かった。
化け物だ。
そんな声がどこからか聞こえてきた。
そうだ。そうかもしれない。それは、その姿はまるで化け物のような……。
闇夜の月の下、韻子の知らない伊奈帆は、怖かった。その“怖い”は、ただのものではなく、アルドノアグールを前にしているような、そんな“怖い”だった。