活動報告にもちょろっと書きましたが、ええ、色々ありました(色々)
こんな中途半端では終わらせませんよ
少しずつ、自分のできる限りで、少しずつ
それはあまりにも退屈だった。退屈すぎてどうなるかと思ったが、しかしどうにもなることなんてない。ただ自分が変わらずいるだけだ。いや、自分自身が変わってしまったが。
身体検査の連続。飽きるほどに行ったそれから導き出されたデータ。細かく分類された数字の群衆がいったい自分をどう評価するのか。無理だろう。無理なはずだ。最新鋭の機器を使っても、未知なるものを計るなど無理に決まっている。
「セ……アセイラムさんとなぜ会えないのですか?彼女ならわかることが多くあるはずでは」
「うるさい、黙っていろ!」
まるで人間の扱いとは到底思えない。こちらの問いにまったく返す様な素振りは見せなかった。ただただ検査対象の獣を管理するような動き。けれどこれも仕方ないと思った。
両手には手錠が填められ、足も同様に固定された。首にはなにか機械が巻き付いている。設けられた部屋という名の牢屋には鏡がないのでどういう構造かはわからないけれど、少なくともアクセサリーなんてかわいいものではないはずだ。
毎日出てくるのは水のみ。食べ物は初日に三食出てきただけ。そしてバイタルチェック、その他彼らの行う無駄な検査の日々。これを通常の人間に行ったなら、確実に死に至るだろう。けれど、これが一ヶ月経っても死なない。体はたしかに痩せてきている。けれど命は続いている。不思議なことだろうけれど、理由がはっきりしているためそうでもない。
そしてついに、この日が来た。アセイラムと会うことになった。
両脇を捜査官に挟まれて長い通路を歩く。前後にも複数の捜査官たちが厳重警戒のもと、手にはクインケが入っているのだろうアタッシュケースが握られている。コクリアの通路は明かりが乏しく、喰種の残り幾ばくかの命を表しているよう。
拘束具は未だ付けられている。歩幅は足裏ひとつの距離ほどで全くもって歩きづらい。逃げることなんてないと言っているのに外してもらえなかった。
通された部屋はいつもの強化硝子が取り付けられいる。けれどもう会う相手は席に座っていた。その顔から窺えるのは、やはり困惑と、信じたくないと目を背けたい辛さ。
「イナホ、さん」
「はい。貴女もお元気そうで」
アセイラムの声は震えていたが、伊奈帆の声は掠れていた。久しぶりに声を出したからだろうか。伊奈帆は椅子に座ると右脇についていた捜査官が口を開く。
「では改めてアセイラムに問いたい。彼を見て、目の前にして、なにかわかることは?」
阿呆ですか。それが喉まで来たのを、とっさに押し戻す。伊奈帆はちらりと、右隣に立つ体格のいい捜査官の胴体に目をくれてから、再びアセイラムの顔を見る。
「……いえ、以前にもお伝えしたように、アルドノアを持つ者は他者がアルドノアを使っているのを遠距離からでも感知できます。これは個人差にもよりますけれど。しかし、使用していない状態ではアルドノアを持っているか否かの区別はできません」
「そりゃそう、こっちはもう知ってんの。でもこいつにアルドノアがある。
口調が荒いのは伊奈帆の左に立つ捜査官。手を机に叩きつける音が狭い部屋に響く。つり上げられた細い目から逃れるようにアセイラムは伊奈帆を見つめるが、首を振る。
「そう、言われましても、わからないものはわかりません。喰種でも人間でも、これといった変化は感じ取れません」
「であれば、僕のアルドノアを実際に見てもらって……」
伊奈帆がひとつ提案を出そうとしたところで口が止まる。右にいた捜査官の強烈な左拳が伊奈帆を襲った。頬に直撃し、口の中で血が滲み渡る。アセイラムが締め付けられる様な短い悲鳴を漏らす。
「勝手に喋るな」
低音の声が嫌に伊奈帆の耳に入る。伊奈帆の髪を乱雑につかんで双眼を突き刺すように睨む。そんな威嚇は伊奈帆に通用するはずもないのに。アセイラムは慌てて立ち上がる。
「あの、私もそれを試してみたいと思います」
アセイラムが座っていた椅子が音をたてて倒れる。捜査官はゆっくりとアセイラムに目を向けると、伊奈帆の髪を離した。
「この力は所持者である私でさえも恐ろしいと感じるものです。それを目視だけで判断したり、などは無意味だと思います。ですから、イナホさんのアルドノアをこの目で見て、直に接触してみたいんです」
「触れることによって、貴女にはなにかわかるんですか」
「……保証はできません。けれど、やってみないとわかりません」
捜査官の威圧感ある目にアセイラムは屈しそうになる。でも、と踏ん張るように捜査官を真正面からきちんと向き合う。
沈黙が漂う。隣や後ろで待機している捜査官たちもじっと彼の言葉を待っている。
「上に判断を仰いでみます」
ではこれで、と伊奈帆の衣服を引っぱって立ち上がらせる。ドアに向かって歩き出す前、振り向きざまに見た彼女に向かって伊奈帆は軽く会釈をした。もうとっくに頬の殴られた跡も、口内に広がる血の味も消え失せていた。
意外にも、伊奈帆とアセイラムが提案した件は早々と決行されることとなった。一週間も経っていない。同行する捜査官はいつもと違うが、そのときと同じようにして歩いた先には広い部屋があった。照明は明るく、部屋全体を囲むグレーの壁は頑丈そうで、天井の高さはビルの五階建てぐらいある。
こんな空間がコクリアにあったとは思わなかった。またここは何のためにあるのかも伊奈帆にはわからなかった。
部屋中央付近で立たされていると、まもなくして複数の捜査官に連れられてアセイラムが入ってきた。彼女もまた伊奈帆と同じように拘束具を付けられている。が、彼女と一緒に入ってきた人物たちには伊奈帆も驚いた。
ベージュのセミロングの髪。整った顔立ちに、口の左下にある艶ぼくろ。モデルのようなスタイルでありながら、並の捜査官では感じられない圧倒的な強者のオーラ。誰もが知るその異名は"黒炎"だ。
「久しぶりですね、界塚一等」
彼女の後ろには詰城と祭陽があの時のように並んで入ってきた。他数人が入った後にドアが閉められる。重々しい音が部屋に木霊する。
「SS~レート、フェミーアンとの戦闘以来でしょうか」
「ええ」
彼らもまた部屋の中央に来て、伊奈帆と対峙するようにして向き直る。伊奈帆は拘束具に加えて両脇に捜査官に腕あたりを押さえつけられている。軽く会釈しながら言葉を放つので精一杯だ。
「マグバレッジ特等、今こいつは」
「ゆったりとはしていられませんね。早速始めましょう」
左脇にいた捜査官は申し訳なさそうに口を開いた手前、まったく見向きもせずに行動に移った。
伊奈帆が現在置かれている状況はただの捜査官ではない。それどころかヴァースとの内通者でさえあるのかもしれない身として扱われている。であるからして、一等などとつけてはいけないと言いたかったのだろう。しかし彼女はそんなことは一切気にしていなかった。
CCGの中でも抜き出た存在だが、けっして自由奔放ではなく、CCGの法令にもしっかりと従っている。そんな彼女が自分を普通の捜査官と同じ態度で接してきたことに少しだけ違和感が残った。それとも元々人を差別しないのが彼女なのだろうか。
マグバレッジがアセイラムの右肩をそっと押して伊奈帆と向かい合って立つようにさせる。研究チームたちがいつの間にか用意してきたパッチをいたるところに付ける。それはアセイラムも同じだった。パッチから伸びる細いコードの先にはいくらか見慣れてきた機械が置いてある。
「では界塚一等、アルドノアを。アセイラム、あなたは彼のアルドノアに触れて感じ取ったことをすぐに報告してください」
「は、はい」
「そしてこれ以降、お互いに必要な状況以外は直に接触することは禁止します。特にアセイラム、あなたは界塚一等を調べるのだから忘れずに。こちらの許可を取ってからにしてください」
手早く指示を伝えるとマグバレッジは後方へと進み、こちらを振り返る。彼女が立ち止まった場所には二つのアタッシュケース。すぐさま取っ手につけられたスイッチを押すと、一瞬にしてクインケが展開する。
デューカリオン。重々しい印象を受ける艶やかな黒の銃身。それは持ち手を挟んで上下に付いており、"工"の字に似ている。彼女の肩から指先ほどの長さのものが左右にひとつずつ。マグバレッジのような女性が軽々と持っている姿が異様に思えてくる代物だ。だがそれをいとも簡単に、自分の一部のように使いこなせるマグバレッジの捜査官としての技量は大いなるものだ。
伊奈帆がちらりとまわりを見れば、他の捜査官たちもクインケを持って伊奈帆たちのまわりを囲んでいる。なぜそうしているのかは、もうお察しだろう。残っている研究員たちもその捜査官たちの後ろで隠れるようにパソコンをいじっている。
「始めましょう、セラムさん」
場が静寂に包まれる。あちらからの合図は特にない。アセイラムに呼びかけると同時に、伊奈帆自身にも合図をだすように。ゆっくりと
「アルドノア確認。前回データと異常なし」
遠くで研究員の声が聞こえる。いや、今はそんな情報はいらない。今は、自分にだけ集中する。
きっと見慣れた者もいるはずだ。けれど毎回伊奈帆がアルドノアを発動させる度に、何人かが感嘆の声を漏らす。現代では解明できないこの未知なる力であるから致し方ないが。
改めてアセイラムを見る。彼女は一生懸命伊奈帆を見て、観察して、なにかを感じ取ろうとしているのだろう。いつにない必死な眼がそれを証明する。
「イナホさんのアルドノアは
「あなたの系統?」
そのささやかな言葉の違和感をくみ取ったのはマグバレッジだ。
「は、はい。私の祖父が初代アルドノア発現者です。二代目が私の父、そして三代目が私。それぞれが他の喰種にアルドノアを授けることができました。……私の経験から見ると確率はかなり低いものでしたが」
アセイラムはマグバレッジにではなく、足下に目線を彷徨わせながら説明を加える。内容としてはここまで伊奈帆たちは知っている。
「ですが私たち三人のアルドノアは、完全に同じものではありませんでした。ご存じの通り、個々が持つアルドノアの力は皆違います。ですが、授かった者たちのアルドノアは私たち三人の誰かから授かったのか、その判別もできます。ごく細かなものですが、三つとも違うのです」
それは初めて聞いた。伊奈帆は表情にこそ表さないが驚いていた。直系というからして、アルドノアは上の代からそのまま受け継がれていくのだと思っていた。
「その点についての理由は私もわかりません。ただ微かに残る私の記憶、それも感覚ですけれど、確かに違いました」
「それは初耳ですね」
「すいません。今になってまた……」
「謝ることはありません。たとえ小さくとも情報をまた得られたのだから良いことでしょう。それが今後こちらにメリットを生むかどうかはわかりませんが。でも以前あなたが提供した情報には、紫オーガと騎士、フェミーアンと言う名の赫者はあなたがアルドノアを提供したのでしょう?」
「はい」
「そして映像で提供した資料にあった、手足の長い喰種。そして、黒鬼」
黒鬼。その言葉に伊奈帆は自然と反応してしまった。あれは、あの喰種は……。
それがデータにでも表れたのか、研究者たちがちらちらと画面と伊奈帆を交互に見ている。伊奈帆は横目でその様子を見ながら、アセイラムとマグバレッジのやり取りに集中する。いつの間にかマグバレッジがこの場をしきるように話している。特等だから当然、とも受け取れるが。
「その二人は私のアルドノアを提供していません。前者はわかりませんが、しかしあの黒鬼はブラドとフェミーアンの赫子を使っていました」
「ええ。音声データと佐々木上等らの証言、いや映像を見ればそうであると言えるでしょう。アルドノアを蓄えている部分が赫包、つまりそれを移植してしまえば元々アルドノアを持っていなくても使えるようになる。そうでしたよね?」
「はい。でも彼がそういった、作られた複数の赫子持ちになっていたのかは知りませんでした」
「この黒鬼はヴァースを束ねる幹部のひとりなのでしょう?当然あなたのような人物は知っていると思っていましたが」
「そう思えるでしょう。けれど、私は会ったことがないのです。彼の存在を、アルドノアを持っていると聞かされていましたが、対面したことはありませんでした」
次々と二人で会話が続けられていく。それを伊奈帆は黙って聞いているしかなかった。伊奈帆自身、彼独断の面談以降アセイラムと会っていなかった。それから今現在の段階までまた色々と情報提供が行われていたようだ。自分がここより上で隔離されている間に。
それと同時に違和感も多少あった。まるでこれは
「聞かされた。それは例のあなたを引き取った人物から」
「そうです。クルーテオといいます」
「その喰種は後にあなたを利用してアルドノアグールを三体も作り出した。今まで得られた情報をまとめると、その喰種は今あるヴァースの手駒、つまり我々の敵です。なぜそんな相手に引き取られることになったのか、それが疑問です。そもそも、引き取られたと言っていましたが、あなたはその引き取られる前はどこにいたのですか」
「それは、だから、今とは違う"ヴァース"にいたのです。喰種と人間が共存し合いながら研究をしていて……」
喰種と人間が一緒になって研究!?
伊奈帆は僅かに双眸を大きくしながらアセイラムを見つめる。それに気づいてかアセイラムは一瞬だけ伊奈帆を見たが、すぐに足下に逸らしてしまった。
「研究とは具体的になにを」
「それは、わかりません。どうしても思い出せないのです」
「知らなかった、聞かされなかった、見させられなかったわけではなく?」
「いえ、私は確かにその場のみんなと一緒にいたはずです。祖父も父も一緒でした。直系故の違いもアルドノアの基本知識はすべてそのときに教えられました」
「それなのに、思い出せないと?」
アセイラムは無言のまま頷いた。とうとうここで怒濤の会話が途切れる。若干の静寂の中で伊奈帆はひとつ引っかかっていた。ただの気まぐれかもしれない、それでも気になった。それはつい先ほどアセイラムが口にしていた言葉。"どうしても思い出せない"。
「なにか情報操作をされたのでしょうか」
「わかりません。でも、そうとしか言い様がないほどに記憶が抜け落ちているのも確かです」
「これを指示した人物に心当たりは?」
「ありません」
「あなたがいたという、人間と一緒にいたころのヴァースが変わり果てて、今のヴァースになった。ならば、以前と現在どちらにもいる人物が怪しいのでは?」
「それは……」
「そう考えて当然でしょう。あなたが名前を出した人物たち、今あるヴァースを束ねるのが喰種三人。その中にいたのはあなたの祖父ではないですか。その祖父がヴァースを立ち上げたのでしょう?ならば……」
「それでもお爺様は!こんなことを行うなんて、絶対ありません……」
ここでようやくマグバレッジのほうを見た。キッと鋭くなったアセイラムの目は、しかしマグバレッジには通じない。アセイラムは唇を噛むようにして、黙り込んだ。手錠がついたままの両手で衣服をぎゅっとつかんだ。
「……しかし、幹部に直接会ったことがないのなら、本当は違う可能性もありますね」
ふっと溜息をひとつついたマグバレッジは改めて話を続ける。
「あなたが覚えている"以前のヴァース"には、あなたの祖父と父、他に誰が?」
「……それも覚えていません」
「人間もいたと言いますが」
「確かにいましたが、思い出せません。思い出そうとしても、頭に靄が掛かってしまって。彼らの声もざらついて聞き取れません」
伊奈帆は、ますます自分の記憶の欠落に似ている、と考えてしまう。過去の記憶の欠落。確かにあったはずなのに思い出せない。それが何年も前だから忘れてしまった、のではない。
「でも存在していたということだけは覚えている」
「……はい」
「彼らは今現在どうしているかは……やはりこれも?」
無言で首を縦に振った。それを見届けたマグバレッジは瞳を少しの間閉じた。彼女なりに脳内で整理しているのだろう。伊奈帆も新たに聞く情報を入れるだけで精一杯だった。それに気になるアセイラムの記憶の欠落。
「結局は、はっきりとした記憶になるのはそのクルーテオに引き取られた日。それがヘブンズ・フォールの翌日というのがかなり怪しいところですが」
マグバレッジの落ち着いたトーンで放たれた中で、見逃してしまうくらいに一瞬の変化に気づいた。けれど伊奈帆はそれよりも強くまた反応してしまった言葉があった。それはCCG内で今でも忘れられずに残る出来事。アルドノアグール、もとい"光を放つ喰種"が表に初めて現れた日。そして多くの捜査官が亡くなった日。
それは伊奈帆の父である敦也が、鞠戸の親友であったジョン・ヒュームレイが亡くなった日でもある。
「セラムさん」
今までずっと聞き役に徹していた伊奈帆が口を開いた。閉じたマグバレッジの瞳が開き、アセイラムも伊奈帆のほうを見た。まわりの捜査官たちの視線も伊奈帆に集まった。
「貴女のアルドノアを見せてくれませんか」
「え?」
「確かめたいことがあるので」
唐突に振られたアセイラムは目を丸くした。確かに今の話の最中でこんなことを言われれば脳の切り替え等が一瞬だけ遅れるだろう。
けれど、彼女は伊奈帆の言いたいことの本当の意味を知っていたように、すぐさま真剣な表情と変わる。瞳はアルドノアを操る直系を示す黄色になり、体から溢れ出す薄霧はどの色にも変化する虹色だ。
伊奈帆はここで初めて他者のアルドノアを"感じる"こととなった。ヴァースアジト襲撃時、伊奈帆は黒鬼とスレインと対峙した。その時点では彼自身もアルドノアを完全に使いこなしてはいなかった。己のみ与えられた特殊な力と人間としての能力値の限界突破だけを駆使していただけだ。相手のアルドノアの情報を得る、なんてこともできるとは知っているはずもなかった。
「界塚一等、いったい何を」
マグバレッジの双眸は迷うことなくアセイラムの背中越しに伊奈帆を刺す。完全に下げられていたクインケが皆揃って向けられる。けれど伊奈帆に動揺する、慌てる、止まってことの説明をするという様子は見られない。
「僕の予想がもし、正しいのなら」
伊奈帆は失った。自分の母親を。
アセイラムは失った。自分が育った場所を。
伊奈帆は思い出せない。あの日のことを。母親がどうやって死んだのかを。
アセイラムは思い出せない。自分とともに過ごした喰種や人間たちの顔や名前を。彼らがなにを行っていたのかを。
伊奈帆の記憶が欠落しているのはヘブンズ・フォール当日。
アセイラムの記憶が欠落しているのはその翌日より前のほぼ全て。
そもそも、ヘブンズ・フォールと名付けられたその日に現れたのは、アルドノアグールだった。
「僕の記憶の欠落とセラムさんの記憶の欠落。それがどちらもなにかしら同じ影響によるものなら」
伊奈帆がすり足でアセイラムに歩み寄る。拘束具のせいでうまく歩けない。アセイラムも同時に伊奈帆に近づこうとする。
「止まれ、界塚!」
大部屋に響くほどの太い声の主は伊奈帆をここまで同行してきた捜査官だ。マグバレッジとはまた違う狙撃系のクインケを伊奈帆に向けていた。その銃口から放たれるもの、それが直撃したらどんなことになるのか。誰もが想像できるその恐怖は、しかし伊奈帆には届かないものだ。彼に、脅しは無意味だった。
「……やっぱり」
アセイラムのアルドノアを見て、必死に見て、それは感じ取ることができた。
なんとも言葉に表しがたく、けれど自分のものの原型なのだと自然に思える。アセイラム自身が最初にそう言ったのだから当然だが、伊奈帆にとっては馴染みのない感覚だ。
そして、伊奈帆は見つけた。言うなればかさぶたのような、または引っかかったトゲのような。伊奈帆自身が感じていた"思い出せない"というのは、
まったくこれは酷いものだと、伊奈帆は思った。アルドノア直系のアセイラムでさえわからないのだから。ならば、こんなものを操る者が相手側にいるとなると、この先訪れるであろう状況を想像するだけで重い溜息が出てくる。
「貴女の記憶障害と僕の記憶障害も、どっちも
拘束具のせいで歩調が安定しない。アセイラムは慣れないせいでつまづく。伊奈帆は崩れ落ちそうになるアセイラムの手を取ろうと自身の両手を伸ばした。と、同時にアセイラムの背後にいたマグバレッジが伊奈帆を狙うように動いていた。その俊敏さはやはり並の捜査官とは違う。標的を見定め逃さない、まさに獣の目。鋭く突き刺す視線の先には伊奈帆が映る。
銃口はもう捕えている。アセイラムが姿勢を前に崩しているこの一瞬ならば伊奈帆に被弾させ、かつアセイラムに被弾させない確率が高まる。そのチャンスを彼女が逃すだろうか。
引き金に当てていた指に力を込めた。放たれた弾丸――それはエネルギー弾ではなく被弾した相手を動けなくする一種の麻痺効果の弾だが――が伊奈帆めがけて槍のように突き刺さる直前、伊奈帆はアセイラムの手をつかんでいた。
彼女は言った。それは初めてアルドノアやヴァースについて問うた時。アセイラムの顔がもがき苦しむようにして知らされた情報。アルドノアを他の喰種へ移す実験だ。それはどうやって行うか。鞠戸がそう質問していた、その答え。
手をつかむ。そしてアルドノアを流すと言った。当時の伊奈帆と鞠戸には言われたことだけを記録していたが、感覚としてはさっぱりだ。でも今の伊奈帆ならわかる。アルドノアを使えるからこそわかる。
先日の黒鬼との戦闘。アセイラムの発言で証明された複数のアルドノア使用のからくり。その答えはアルドノアが蓄積される場所は赫包で、それをなにかしらの技術を用いて移植が可能であること。そしてアルドノア移植実験で手を繋いだのは、手からアルドノアを通して赫包に注いでいたということになる。
その要領で、アセイラムから感じられる異物がアルドノアであるならば、伊奈帆自身のアルドノアをぶつけられるかもしれない。そしてどうなるかは未知数。けれど、この刺激により異物が取り除かれればアセイラムは記憶を取り戻せるかもしれない。それは同時に、自分自身の記憶障害の改善に繋がる。
ならば、やる価値はある。
視界で既にマグバレッジの放った弾丸を捉えている。それでも伊奈帆は迷わない。止まらない。動じない。怯まない。
驚くほどに滑らかに、アルドノアは彼女の内側に流れ込んでいった。この力はアセイラムからもらった。ならば体内に入ってもなにかしら問題がある可能性は低い。アセイラムも伊奈帆から流れ込んできたアルドノアを感知している。そしてどこに向かっているのかも。
伊奈帆が確かにアルドノアがアセイラムにとりつく異物に接触した、そのときだった。
伊奈帆とアセイラムを中心にして巨大な渦が形成された。マグバレッジの弾丸が伊奈帆に着弾するギリギリのところであっさりと消し飛んだ。渦は伊奈帆の橙色、アセイラムの虹色、そして禍々しい黒が混じっていて、なんとも言い難い様をしていた。
二人に付けていたパッチはあっという間に剥がれ落ち、渦は広がりはしないものの回転速度を上げているようだった。ここはコクリアの地下。窓などは当然なく、通気口も厳重に網などが設置してある。それにも関わらず現れた渦に皆が驚き、その隙を突かれて足下をすくわれそうになる。訓練もなにひとつしていない研究者は、なんとか近くの捜査官に捕まる形で飛ばされるのを防いでいた。
マグバレッジは、重心を低く保って天井まで伸びる渦を見ていた。弾丸一発とは言え、SS~レート製のクインケだ。それをはじいたアルドノアの渦に、彼女さえ困惑の表情を浮かべた。
「イナホさん!」
アセイラムは膝から崩れ落ち、一緒に膝をつく伊奈帆の両手を握っていた。その手は震え、異様な渦の音でかき消されそうになる声は、脆い。
「
「え?」
「貴女がどうしても思い出せない、過去の記憶。確証はなかったけれど、どこかで不思議がっていたのでは?」
伊奈帆はアセイラムの疑問が浮かぶ顔に目を向ける。アルドノアを持っているからこそ、また直系であるゆえの希少な赫眼。黒の中に浮かぶのは月のごとき黄色の瞳。対して伊奈帆もまた希少な隻眼で、しかし瞳は橙色。
「これは思い出せないのではなく、
「そん……な」
「そしてそれを行った人物が今のヴァースを作った」
「でも、お爺様は」
「貴女の祖父、とは言ってません」
否定しようとしたアセイラムの双眼が見開かれる。伊奈帆は依然として冷静さを保った瞳のまま、アセイラムに語り続ける。
「マグバレッジ特等が言ったように、可能性の話です。すべてはその覆われた記憶に重要な情報があるはずなんです」
「私の、この記憶に」
「はい。そして、もしかしたら僕の中にも」
「イナホさんの……あっ!」
アセイラムはここで伊奈帆から感じ取った違和感のことを思い出す。それを伝えようとして話は直系三代へと逸れていった。伊奈帆は肯定の意で頷く。
「僕にもあったんです。思い出そうとしても思い出せない。それは確かに記憶しているのに、かけら一握り程度しか思い出せない。でもセラムさんにアルドノアで傷を治癒してもらってから、少しだけですがさらに思い出すことができた」
「イナホさんも?でも、なぜ」
「あの日、僕は母と姉の三人で逃げていた。ここはよくわかりませんが、おそらく喰種から。そして次に気がついたときには母だけが死んでいた。なぜ、誰が、どうやって、は抜け落ちていた。父親は喰種捜査官で、ヘブンズ・フォールが起きた場所にいました」
「……!!」
「もし僕たち三人を襲ったのがアルドノアグールなら、僕と姉を生かした理由は別として、能力で記憶を操作されたということになる」
「じゃあ、感じ取れるこの違和感は」
「貴女のと同じでしょう。この渦は、もしかしたら記憶操作が解除されそうになった時のための自爆装置みたいなものか」
伊奈帆は顔を上げて混沌の渦を睨む。絵の具のように交わっていくことはなく、色がそれぞれ独立している。
「僕らのアルドノアが自動的に防衛している?」
「なら、イナホさんにかけられたアルドノアも取り除かなくては」
「しかし、貴女のを剥がそうとしてこの状況です。それにまだ除去しきれてない。それほどに強力なアルドノアだということになる」
「私を、信じてください」
いつの間にか、アセイラムの顔から恐怖が消えていた。震えていた涙声も見つからない。アルドノア直系である黄色い瞳は、なぜだかより一層輝いていた。その瞳に吸い寄せられるようで、けれど不快じゃない。
「私も、イナホさんにアルドノアを注ぎます。これより酷い状況になるでしょう。でも、私なら……いいえ、私たちならできます!」
決意のこもった声音に、もう伊奈帆は頷くしかなかった。ここまで来たのなら、すべてを賭けよう。二人の記憶にヴァースの、いやこの世界の裏で起きていた重大な事実を知ることができるかもしれない。
確かなる一歩を踏めるかもしれない。ならば、
「信じます。僕は、セラムさんを」
「私も、イナホさんを信じます」
そしてアセイラムは瞳を閉じる。艶やかな金髪が激しく揺れている。そこから垣間見える長いまつげ。それらに見とれた一瞬で、彼女のアルドノアが流れ込んでくる。それが自分の脳にまで来たと、わかった途端に景色が一変した。
より激しくなる渦。耳元でアルドノアがうなり声を上げる。それでも自分らのアルドノアが溢れ出し、抵抗を続ける。
お互いに握る手の力を強める。大丈夫だ、ここにいる。僕は、私は、ここにいるのだ、と。
僕は、私は、信じ合える。
互いのアルドノアが一線を越えて混じり合う。大嵐同然の状況で目は開けられない。渦が生み出す音も凄まじい。でも、わかる。感じる。握り合う手からだけじゃない。これはアルドノアを通じて、温かいヴェールに包まれるような……。
何かが、割れる音がした。硝子製品が砕ける音に近い。こんな暴風の中にもかかわらず、はっきりとそれは聞こえた。
ふいに風が止んだ。
なにがどうなったかわからないが、ヴェールに包まれた温かさだけがあった。伊奈帆はゆっくりと目を開ける。そこに待ち受けていたものに、伊奈帆は驚いて呼吸を忘れた。アセイラムもおっかなびっくりで目を開けると、まわりを見渡して、言った。
「ここは、どこ?」
ゆっくりと息を吸って、吐く。目の前にある超常現象に、脳がフリーズしてしまっている。
白一色に黄色く光る粒子を放ったような空間。それがどこまでも広がっている。どちらが上でどちらが下なのかもわからない。宇宙に放り出されたように浮かんでいる心地だ。そんな空間に縦横無尽に駆け抜ける直線。その先端が見えないほどに。その直線には、伊奈帆の過去の記憶が映画のフィルムのように映し出されている。それはアセイラムのものも。これは、いや、これこそが、
「僕らの、封じられていた記憶」