ほどなくして、目の前に広がっていた混沌の渦が消え去った。禍々しいほどに牙を剥いていたそれはあっけなく灯火のような終わり方で、そしてその中心に二人はいた。
「おい、何があった。何をした?」
真っ先に男性捜査官が素早く、かつ警戒心を保って伊奈帆たちに近づく。
「……アルドノアが、共鳴をしたんです」
「は?」
まず口を開いたのは伊奈帆だった。そのすぐ側ではアセイラムがぺったりと座り込み、俯いていて表情は窺えない。
「アルドノアとアルドノアが重なり合い、先ほどアセイラムさんが言っていた記憶障害の緩和が見られました」
「なんだと!?」
他の捜査官たちも伊奈帆たちがいる場所へと近づく。その後ろからは研究者たちもデータなりその証言なりを取ろうとよろめきながらついてくる。
「彼女が思い出せないと言っていた、昔のヴァースとやらは」
「全てとはいきませんでしたが、ある程度は」
「よし、ならわかったことを……」
「その前に」
男性捜査官の言葉を遮るようにしてマグバレッジが口を開く。クインケを握りしめたまま視線を矢のごとく伊奈帆たちに向ける。
「あなたは私たちが定めたルールを破った」
感情の起伏もなく、淡々と告げた言葉。それに伴うようにして彼女のクインケ"デューカリオン"の右だけが持ち上がる。呼吸のように自然な指の操作によってなにか内蔵のカートリッジに動きがあるのが音でわかった。
「あの渦をどう消滅させたかは問いません。しかし、あのようなことが起こる行動を許可なしに行なった。違いますか?」
「……いいえ」
「であるなら、それ相当の処罰を受けてもらいます」
マグバレッジの指に触れた引き金に力が入れられた。
「待ってください、マグバレッジ特等。彼は貴重な」
「黙っていてください。そもそも、この件については我々、
「っ……」
伊奈帆のときと同じようにマグバレッジは感情のないまま男性捜査官に問う。しかし視線は伊奈帆から外すことはない。
「処罰なら僕だけでいいでしょう?」
伊奈帆はゆっくりと立ち上がる。睨みつけることしかできなかった男性捜査官の目が伊奈帆に向けられる。彼の動きに合わせてマグバレッジもクインケの照準を合わせる。
「僕が身勝手な行動を起こさなければ、被害を出しかねなかったこの現象は発生しなかった。違いますか?」
今度は伊奈帆がマグバレッジに問いかける。まるまる同じように返された問いにマグバレッジは、しかし顔に感情は表れなかった。
「これにて接触実験は終わりです。コクリア担当捜査官と研究関連の方たちは退出お願いします」
「特等、あなたは……」
しびれを切らしたように男性捜査官がマグバレッジを睨みつけるが、ふっと鋭い細目を向けただけで黙り込んだ。舌打ちをして彼らは部屋の出入り口にぞろぞろと歩き出した。いつの間にか零番隊であろう捜査官二人がドアを開けている。自分らの扱いに余計腹を立てるようにして、ぼそぼそと何かを言い捨てていった。
がちゃん、と重々しくドアが閉まった。場に残ったのは伊奈帆とアセイラム、そしてマグバレッジを筆頭とした零番隊。
「アセイラムさんを、もとの部屋へ」
「……ええ、もちろん」
「それから」
「大丈夫です。あなたが何を言いたいのかは、概ねわかっています。手は打っていますので」
そうして女性捜査官が三人アセイラムに近寄り、ゆっくりと立ち上がらさせた。部屋を出るときに伊奈帆に目を合わせてきた。不安で揺れる瞳をしっかりと伊奈帆は見つめ、軽く頷いた。
アセイラムが部屋を出てから少し経った。刹那、マグバレッジは引き金を引いた。デューカリオンから放たれた一発は伊奈帆の腹部に命中。衝撃で赤い線を描きながら数メートル先まで転がった。
さすがのマグバレッジの部下でも息をのんだ。伊奈帆は低いうめき声とともにゆっくりと床に手を突く。橙色の薄霧に包まれて撃たれた箇所は止血され、元通りになっていく。
「いきなり撃つのはやめていただけますか」
「どの口が言うのですか」
「痛覚は人並みにあるんですよ」
自分の血が頬に付いたままの伊奈帆は、拘束具で動きづらいままマグバレッジを見る。マグバレッジは少々呆れ口調で首を振ったが、すぐに真剣な表情になって祭陽と詰城に合図を送る。すると二人はすぐに伊奈帆のもとに駆け寄り、詰城がポケットから取り出した鍵で拘束具をすべて外した。
戸惑う伊奈帆にマグバレッジは口を開く。
「あなたは今この瞬間から一捜査官として復帰してもらいます」
「……はい」
「ただし、条件がひとつ」
マグバレッジはクインケをアタッシュケース状態に戻した。
「これからは私たち零番隊の一員になる、ということです」
「僕が、零番隊に?」
「ええ。あなたの力、アルドノアをより効率的にデータ化させるために喰種討伐に参加させる。つまりは研究データの提供、という体であなたをここから解放します」
すっと、マグバレッジが右手を差しのばす。その手、そして冷静沈着から小さくも見える彼女の意図を察し、伊奈帆はその手をつかんだ。
衣服も事前に用意されてくれていた。収監用の服では怪しまれるし、直に一発撃たれて血だらけなのだから、当然とも言える。着替える前に顔を洗ったが、鏡に映った自分が本当に別人に思えた。目も鼻も口も、顔の輪郭も異常はない。多少髪に白髪が見えるくらいの変化だ。なのに、別人だった。貧民が過酷な労働を終えたというオーバーな表現さえも当てはまる気がする。そうとしか思えなかった。
久しぶりにスーツに袖を通す。一ヶ月少々でここまで新鮮さを感じるとは思っていなかった。着替えを終えて部屋を出ると祭陽と詰城が待っていた。
「こちらへ。外に特別車がありますので、そちらに特等と一緒に乗ってください」
「……どういう事情か、お二人はマグバレッジ特等から聞いていますか?」
「なんにも。特等は僕らに伝えるべき必要最低限のことしか話してくれないッスから」
「なるほど」
肩をすくめて答える祭陽を見て伊奈帆は軽く頷く。もう喰種のような扱いはされない。自然と二人が歩き出したのを後ろからついていく。
改めてコクリアの下の下にいたのだと実感した。いくつものエレベーターを登り、コクリアで最長のエスカレーターが目の前に現れた。そこからようやく辿り着く一階まで三人に会話はなかった。ただ、伊奈帆は脳内でずっと先ほど見てきた
加えて、思い起こされたのはアセイラムに対しての心配だった。
それはアルドノアが引き起こした竜巻内でのことだ。
「これが、あの日に起こっていたこと」
二人の隠されていた記憶すべてを見終えた伊奈帆とアセイラムは、ただただ動けずにいた。それは充分に二人にとっては衝撃的で、平然といろと言われても不可能だった。
口を塞いでいる両手をつたうのは両目から零れる涙。何度も首を振りながら「そんな、なんで」「嘘、どうしてこんな」と真実を受け入れられないでいた。
「セラムさん」
「……」
ついに両手は顔全体を覆い、ぐったりと項垂れてしまった。それをそっと伊奈帆は両手で肩に触れる。
「セラムさん。いいですか?」
「……はい」
少しの間があって、表情は窺えぬままだがようやくアセイラムは返事をした。
「これが僕らの隠されていた記憶。僕はこれらを見て、ちゃんと自分自身の記憶だと、はっきりと言えます。貴女もそうですか?」
「はい、間違いなく」
「わかりました。……これでようやく僕らは前に進むことができる」
伊奈帆の前向きな言葉に、少し戸惑いながらアセイラムは顔を見せた。涙で目元は赤くなっていたが、それ以上に伊奈帆が考えていること、伊奈帆が見出したなにかを知ろうとしていた。
「重要な情報が隠されているはずだ、と僕は言いましたよね。それは間違いなくあった。それどころか、すべてを裏で動かしていた黒幕の正体がわかった」
「……ええ。でも、イナホさん」
「わかっています。でもそれは、セラムさんも同じはずです」
「そう、ですけど……」
再び溢れ出す涙が頬をつたう。両手を握りしめるアセイラムからは悲しさだけではなく、悔しさも含まれていた。
二人が見た、二人の隠された記憶。そのうち伊奈帆の方に、今までの騒動の黒幕がいた。もちろん、アセイラムの方にもその人物はいた。しかし、その人物が黒幕である、その証拠となる言動があったのは伊奈帆の記憶の中だった。逆にアセイラムの記憶には、その人物は黒幕とは思えない印象だった。
「でもこれはあくまで僕と貴女が見た記憶、という映像にすぎません」
「だから、これからその証拠となるものを見つけ出す、と?」
「確たる証拠というようなものを見つけ出すのは困難でしょう。一通り見るからして、隙を見せるようなことはしないはず」
「では、これから何を?」
「証拠そのものは見つけ出せなくても、それに近いなにかを手に入れることはできるかもしれません。ですが」
ここで言葉を切り、伊奈帆は目を閉じた。一回だけ深呼吸してから、再びアセイラムに目を向ける。
「もし手に入っても、または手に入らなくても、最終的に大規模な争いになっているでしょう」
その言葉にアセイラムは目を一瞬見開き、そして「そうですね」と哀しげに呟く。
「でも僕自身でなんとかして動いてみます。こんな状態ですが……。ところで」
伊奈帆はあたりをぐるりと見まわす。
「これは、別空間?いや、いわゆる結界なのか」
「え?」
「今僕らがいるこの場所は、なにがどうなっているのかなって」
そう言われてアセイラムも指で涙を拭いながら辺りを見まわす。至るところで縦横無尽に二人の記憶を映画のフィルムに映したようなものが広がっている。それは果てを知らずにずっと続いている。そもそも二人がここに座っている、または立っている地点は、見方によれば空中浮遊とも言えた。
「セラムさん、貴女はあのとき、なにを思いましたか?」
「あの時?」
「アルドノアがぶつかり合って嵐のようになっていて、そこから貴女が僕にアルドノアを注いだ時です」
「ああ。ええと……私たちは、信じ合える、でしょうか」
「僕も、同じことを思っていました」
「そして、ああ、どう言葉にすればいいのでしょう。……そう、私とイナホさんの記憶が、隠された記憶を解き放ちたい。そのすべてを見たい、と」
アセイラムがやっとのことで絞り出した言葉を咀嚼するように伊奈帆はうなずき、そして腕を組んだ。
「おおよそ、やはり僕と同じようなことですね。まあ、そんな言葉を交わしていたからでしょう。けど、だからこそかもしれません」
「それは、どういう」
「可能性。言うなれば、可能性ということです。アルドノアの」
アセイラムはまじまじと見る。伊奈帆がコクリアに入れられ、様々なことを調べ上げられていた。そのことはこの接触実験を提案した面談の時に知った。少しやつれ、立派な一捜査官だった彼が酷い扱いをされているのは目の前でまじまじと見せつけられた。
そんな彼の瞳には、より萎んでいくような弱々しさとは真逆の、なにかに目覚める強い炎が灯っていたのだ。
「僕とセラムさん。同じ気持ちで、同じなにかを願って。互いにアルドノアを注いだ。混ぜた、ひとつに合わせたと言った方が良いかもしれません。それによって、僕らは妨害していたアルドノアを退かすだけでなく、こんな空間まで作り出せた。これも、アルドノアの力なのだと思います」
「これが、アルドノアが作り出した……」
そう、ふと口に出しながらアセイラムが視線を右に移した。
その刹那だった。
あたりはすべて水面となり、上空にはすっきりとした青空が広がった。
「え、これは!」
「嘘……」
再びアセイラムは口に手を当てる。それは先ほどの悲しみでもなく、驚きの方だ。
「私、なんとなく……その、頭に思ったことが現れたのならば、と以前資料で見た景色を思い出そうとしたら、このような」
アセイラムがあたりを見渡し、ハッとした表情になった。
「たしか、ウユニ塩湖という名前でした」
食いつくようにアセイラムが答えた。伊奈帆はぐるりとまた見渡し、アセイラムに視線を移す。
「ウユニ塩湖、とはほんの少しだけ違いますがね。ここは完全に下が湖になっています。底が見えない。けれど、セラムさんが今、頭にこのような景色を浮かべたのですね?」
「ええ、はい。間違いなく」
「とすると、この空間は、セラムさんに全ての権限があるのかもしれません。この空間はどういった景色で、どのような目的のためにあるのか、とか」
「私が、権限を持つ」
「はい。いや、本題が逸れました。いいですか、今後僕らが全て見たあの記憶については、なるべく他人に聞かれても答えないでください」
「え?」
伊奈帆はしゃがみ、座り込んだままのアセイラムの目線と同じにして、ゆっくりと口を開いた。
「これは、僕らだけが持つ最大の武器であり、鍵です。知っていることを他人、そして黒幕にまで伝わりでもすれば、少なくとも僕は抹殺されるでしょう」
抹殺。アセイラムは空間をウユニ塩湖に変えて驚いていた様子から一変、青ざめた表情になる。
「黒幕については僕が必ず信用のある人物にのみ教え、動きを探ります。ですから貴女はそこだけは絶対に触れずにいてください。ここの権限はセラムさんが持っている。なら空間を閉じて元に戻ったならば研究員等がいる。僕らは記憶の一部分だけが思い出された、それだけで通します」
「私は、その、嘘をつけばいいのでしょうか」
「嘘、というと少し語弊があります。思い出した記憶で、なるべく黒幕や今起こっている騒動には関係ないことを話せばいいと思います。一部分だけ思い出したということは嘘ですが、思い出したこと自体は事実ですから」
「私に、できるでしょうか」
不安の色を見せたアセイラムの手をそっと両手で包む。アセイラムの目にはこちらをしっかりと見つめる伊奈帆がいる。
「僕たちは信じ合える。大丈夫です」
その言葉だけで、アセイラムは少しだけ安堵できたようだった。
「そろそろ戻りましょうか。あちら側ではどうなっているかわかりませんので」
「ええ、でも……」
「元いた場所へ戻る、そんな風に念じればいいのでは」
「はい、やってみます」
アセイラムは目を閉じ、手を祈るように組んだ。この場所は神秘的な景色で、そして静かだからだろう、アセイラムの深呼吸が伊奈帆にも聞こえた。
そして、無事にあの場所に戻ってきた。
信じ合える、大丈夫だとは言ったものの、アセイラムにとっては重荷であることは間違いない。これからの伊奈帆自身の命運に繋がることでもあり、アセイラムが部屋に戻る際もその表情が物語っていた。
「大丈夫ですか?」
「え、あ、はい。問題なく」
いつの間にか振り返っていた詰城の返答につまりながら答えると、エスカレーターの終わりが見えた。そこでまた零番隊と思われる捜査官たち3名と合流し、コクリアを出る。
これからどう動いていくか。伊奈帆にはそれが頭をぐるぐると行き交い、そして時々完全に埋め合わされた記憶を反芻する。まさか、これが真実であるならば……。伊奈帆にさえも、これは心臓を掴まれるような衝撃で視界が狭まっていた。
そんなせいで、韻子とすれ違っていたことにさえ気づかなかった。
ついていった先に車が三台並んでいた。そのちょうど真ん中の車両にマグバレッジがいた。そこに乗り込むと、祭陽がドアを閉めた。
残りの零番隊も他の車両に乗り込み、出発した。
マグバレッジと伊奈帆が乗る車両は特殊な造りになっていて、高級ソファのような座席が向かい合って備え付けられ、運転手席側とは隔離されている。特殊ガラスでぼんやりと運転手の頭部のかたちが見えるくらいだ。そのシルエットも目の前にいるマグバレッジでほぼ覆い隠されているが。
「これから、どこへ?」
「21区支部局へ。貴方のことで色々と手続きがありますので」
「ご迷惑おかけします」
伊奈帆は軽く一礼するが、マグバレッジは外を眺めていた。そしてまもなく、
「私には、貴方が嘘をついているように見えます」
と口を開いた。CCG最強と言われる女性捜査官。それは様々な意味で最強であるらしい。伊奈帆は左目だけを閉じ、右目だけでマグバレッジを見る。
「少なくとも、マグバレッジ特等には話そうと思っていました」
「この車は特別製です。VIP用でもあり、運転手席からは私たちの会話は聞こえません。もちろん、盗聴器等もありません」
「お気遣いありがとうございます。……その前に、ひとつ確認を」
伊奈帆は小さく息を吸って、静かにはく。左目を開けた。
「マグバレッジ、は新しい姓。旧姓はヒュームレイで間違いないですか?」
マグバレッジの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れたように伊奈帆は見えた。
「別に調べたわけではありません。いやでもそういう話は入ってきてしまうのです」
「わかっています。朧気ではありますが、当時の様子については兄からも聞いていましたし、今でもいかに活躍していたかを耳にします」
そう、聞くまでもなかった。アセイラムと対話している最中、自らが口にした"ヘブンズ・フォール"に、微妙であるが変化を感じた。それは、つまり口にしたくない言葉を言うときの変化だ。それ以前に、あくまでも伊奈帆が個人的に言葉で、そしてマグバレッジ本人の様子を前にして確認したかったのだ。
マグバレッジの兄はジョン・ヒュームレイ。年の離れた兄妹だ。伊奈帆の父である敦也の部下であり、同僚であった鞠戸と同じ班編成だった。そしてあの日、ヘブンズ・フォールの時も、現場にいた。
自分の父について賞賛の声をいただいた手前、再び一礼した。
「だからという理由だけではありませんし、色々指摘されるかもしれませんが、僕は特等を信用しています。ですので、思い出した僕とアセイラムさんの記憶から基づくことを報告します」
コクリアから出発してから一度たりともマグバレッジは姿勢を崩していないが、この言葉でより伊奈帆が言う内容を頭にたたき込もうという意識を感じた。
伊奈帆は乾ききった唇をひとなめしてから、最初にこう切り出した。
「アルドノアグールの出現、そして東京の一部都市の占領。これら全てを裏で操っている人物は、
同時にあの日の、あの言葉が、先ほどによって完全に思い出したあの言葉がクリアに聞こえてくる。
『僕はね、これでも人間なんだよ』
アルグル四年目!
もう既に今年中に終わるか不安なのですが……
多趣味はほどほどにしましょうね、ええ。それに他を題材にした二次創作がもやもやと浮かんでくる始末……
ちゃんと終らしてから、もしかしたら次の作品にしようかと