真夏の二十四日 作:夏草
これはある夏の日の、これまたある日、その夜の話である。
昼間辺りを包んでいた蝉しぐれもなくなり、夜の帳が降りきったせいか気温をいくらか落ち着きをみせ過ごしやすい。聞こえるのは夜の虫の声と母屋から漏れるテレビの音に優しい風が風鈴を揺らす涼し気な音、そして自分自身の呼吸音。横に置いている蚊取り線香からは白い湯気のような煙が風にかすかに揺れながら天へと昇っていく。
縁側に腰を掛けたままその細い煙の線を目で追ってみる。煙はすぐに消えていき何処かへなくなってしまった。そのまま序とばかりに視線を上へと移動させれば、昼間の射かんばかりの太陽の代わりに、下限の月が優しく地表を照らしている。
星もよく見える。近くには街灯が少し申し訳ない程度にぽつんぽつんと立ち並び、民家は見える範囲で数軒しかない。都会のネオン街と違いここには圧倒的に夜になると光が少なくなる。そのせいか星を見るのにはうってつけで、流れ星を探すことにもわけがない。ほら、今の流れ星が一つ。
暫く月と星をのんびりと眺める。勿論、無学な俺は正座の種類も逸話も殆ど知らないし、星の名前も知らない。でも、星を見て綺麗だと思うし、ずっと見ていたいと思う。それにもしも文才があれば、天体観測の話でも一つ書いてみてもいい。まぁ、俺に文才の二文字は言うまでも無くないため、即座に諦めの三文字を選ぶ羽目になるのは何時ものことだ。
そんな時だった。
廊下をとてとてと歩く音と共が聞こえてきた。もはや見るまでも無い。
「どこいってたんだ?」
「うん、お兄ちゃん! 今日はお酒を飲もうよ!」
ラフな格好をした穂乃果は俺の隣に肩が触れ合うほどの距離に腰を下ろすとその手に抱えていたものを嬉しそうに差し出した。瓶に揺れるのは琥珀色の液体。そしてラベルには「WHISKY」の文字が並んでいた。
「いつの間にそんなものを……」
俺の最もな疑問に彼女はにひひと楽し気な笑い声を漏らすと、
「おじいちゃんが、アイツと一緒に飲んで来ればいいって!」
なるほど、先ほど聞こえた楽し気な声はウチの祖父と穂乃果との会話だったのか。
「えへへ、お兄ちゃんいっつも楽しそうに飲んでいたもんねーっ! 穂乃果も飲みたくて飲みたくて仕方がなかったんだよっ!」
そう言った彼女の手の中にある瓶のラベルをもう一度見る。俺でも知っている有名メーカーの一品。値段もそれなりにする筈であろうその一本は、俺がいつも飲んでいるウイスキーを数本買ってもお釣りがくる。ウチの祖父がウイスキーが好きなのは知っていたが、こんな逸品どこに隠していたと言うのだろうか。俺が言ってもこんな上物は間違いなく出てこない。我が祖父の事とはいえ若い子に本当に弱いよなぁ、男って。まぁ俺も分からんことはないため、何も言わない。美人は得だ。即ちそういう事。
「でも、お前――」
「もう未成年じゃないもんねっ! 昨日で穂乃果は二十歳になったんだよっ!もう大人なんだもん!」
「そうか……」
確かに穂乃果はもう子供じゃない。俺に彼女を止める権利はどこにもなかった。雨の中、傘もささずに踊る人がいてもいい、自由とはそういうものだ。穂乃果が穂乃果の責任においてその権利を主張するのならそれは誰にも止められないのだ。
「うんうん! だから今日は穂乃果のお酒デビューだよっ!」
肩が触れ合うほどの距離間のせいか彼女が動くたびにその毛先の細い綺麗な髪が俺の肌に触れ、少しくすぐったい。本当に大きくなったなと思う。あんなに小さかったガキんちょが今では知らない人がいない日本の国民的アイドルだ。人生万事塞翁が馬とは言うが、まさかあの少女がこんな風になるとは誰が予想しただろうか。少なくとも俺は予想だにしていなかった。
「なるほど、それはいい」
でも、と俺は続ける。
「お前、酒の瓶だけ持って来てどうするんだ?」
穂乃果が持ってきたのはウイスキーを一瓶だけ。他には氷も無ければ水も無い、それにコップすらないありさまだった。
「あ……」
どうやら大きくなったのは外見だけで中身はまだまだお子ちゃまなようだった。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん、もう一つのコップはどうするの?」
適当に飲む準備をしたとはいえ、全ての準備が終わるには数分の時間を要した。お盆の上にはコップが四つと氷が入った桶とソーダ水、そして水。まぁ、これくらいあれば問題なく飲めるだろう。
「それはチェイサー用だ」
「チェイサー?」
「うん、ウイスキーやらラムやら度数が強い酒を飲むときは風味を楽しんだり悪酔いを避けるために水や牛乳、炭酸水なんかと交互に飲むんだ。それをチェイサーっていうんだよ」
「へぇー、流石お兄ちゃんなんでも知ってるね!」
穂乃果はやけに感心した面持ちで二三度頷いた。
「じゃあさ、じゃあさ! ウイスキーの一番おススメの飲み方は何?」
ウイスキーの飲み方として有名どころだとニートだ。しかし、初めて飲むのにニートはないだろう。俺がちびちびやるのには好きだが、穂乃果にはまだ早い。せっかくソーダ水もあることだし、ここはハイボールが妥当なところだな。
「まずはハイボールがいいかもな」
「ハイボール?」
「そそ、ウイスキーをソーダで割るんだよ」
「へぇー、お兄ちゃんは何でも知ってるね――」
かくして暫くの雑談を挟んだのち、
「お兄ちゃん、乾杯!」
「あぁ、乾杯」
琥珀色の液体が注がれたコップをお互いに掲げる。グラスを合わせる何て無粋な真似はしない。
こうして真夏の夜空の下、俺と“彼女”との小さな宴が思い出のこの場所で始まるのだった。
願わくばこれから先、この物語が書かれるページが幸せと笑顔で埋まらんことを……。
俺と“彼女”との物語は今、確かに再開したのだ。
結局ところ、この物語は一人の冴えない男が一人の女神にどうしようもなく、恋をする物語なのだ。