千葉ラブストーリー   作:エコー

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別れに向けて動き出した二人。

やがて二人は終着駅へと辿り着く。


それを胸に

 悪夢の様な誕生日から凡そ二週間が過ぎた。未だ川崎沙希へは連絡をしていない。

 

 ならばこれまで何をしていたのか。

 

 俺はこれまで、家庭教師の他に二つばかりアルバイトを掛け持ちしていた。

 

 家庭教師がある日は、それが終わり次第ビジネスホテルのフロント業務の夜勤に入り、家庭教師が休みの日はそのままホテルのフロント夜勤に入った。

 昼間は最低限の睡眠以外は日払いのバイトに勤しんだ。盆休みで従業員を休ませる為の臨時バイトってやつだ。

 仕事漬けの日々を過ごす俺に、小町は何度か云った。

 

「お兄ちゃん、もうやめて……壊れちゃうよ」

 

 あれから小町は笑顔を見せていない。母親は俺を腫れ物扱いし、父親はそんな家族を黙って見ている。

 

 誰にも事情を知らせていない為、家族や周囲は俺が気を違えたのかと思っているのかもしれない。

 それでもいい。

 働いていれば気が紛れる。余計なことを考えずに済む。

 まるっきり何処かの社畜みたいな言い草だが、事実そうなのだから仕方が無い。

 

 こうして俺は金を作った。

 

 ベッドの上に並べた諭吉の群れを見つめながら、川崎宛てのメールを綴っていく。

 一泊二日の旅行。川崎の最後の願いをそこで叶える。

 まあ、まだ川崎に行く気があればの話だけれど。なんせ二週間も連繋(れんけい)が無いのだから。

 だが今回は、それが川崎沙希の依頼の骨子である。伝えなければならない。

 

 二週間経った今になっても、川崎が別れを切り出した後にこんな依頼をしてきた理由はわからなかった。

 別れたらその場で終わりじゃないのか。

 考えても悩んでも、どれだけ脳を追い詰めても彼女の気持ちはまったく掴めない。それも俺の経験値の低さ故なのか。

 

 メールの文言を入力し終えて、あとは送信をタップするだけ。

 返信が無ければ……それまでだ。

 

 意を決してメールを送信してから五分。

 その永遠とも感じた沈黙を破って、返信メールが届いた。

 

 返信の内容は簡素な文面。いや、文面にもなっていない。

 本文には『了解』の二文字だけ。川崎らしいといえばそれまでだが、やはり今の状況では一抹の寂しさを感じてしまう。

 思うところはあるが、兎にも角にも計画は了承されたようだ。ひとまず安堵すると、追って川崎のメールが届く。

『費用教えて。半分だす』

 そう来ると思った。が、その提案は断った。

 今まで間違い続けた俺の、最後くらいは彼氏らしいことをしたいというちっぽけな意地だ。

 

 何にしても。

 考える事やする事が目の前にあって助かった。

 あの日あの時あの場所で終わっていたら、きっと無気力になって、自暴自棄になって。

 俺は俺に戻れなくなっていただろう。

 結局、最後の最後まで俺は川崎沙希に救われたのだ。

 

  * * *

 

 八月二十六日。

 

 嫌味な程に強く照りつける午後の陽射しの下。

 特急踊り子号に揺られた俺と川崎は、静岡県の熱海駅に降り立った。

 

 熱海を選んだ理由は簡単で、川崎の希望を叶えられる場所は、ここしか思い浮かばなかったからだ。

 

 熱海駅のホームに、川崎の空色のワンピースの裾が舞う。青みがかったその長いポニーテールと合い俟って、爽やかな印象を受けた。

 

 新幹線が停車する駅にしては駅舎は思ったよりもちんまりとしている。

 

 熱海駅を出て辺りを見渡す。

 あの建設中の高層ビルはマンションか何かだろうか。

 

「うわぁ」

 

 川崎の声に振り向くと駅の全容が目に入る。

 意外と立派な建物だ。

 階層は高くないものの、新しそうな駅ビルがどっしりと構えていた。さっき通った改札口は裏口だったのだろうか。

 

「で、どうする?」

 

 周囲を見渡していた川崎が振り返る。長い髪が風に泳ぐ。

 思わず見惚れそうになり、直視を避ける為に腕を組んで頭を捻るポーズを取ってみせる。が、実はこの先の予定は結構決めていたりする。

 今回の日程には、今までの川崎との会話から拾い出した、願い事と思われる項目を詰め込んである。

 俺は、それを卒なくこなす。

 今の俺に出来る彼氏面はそれ位のものだ。

 しかし暑い。

 肩に掛けたバッグが鬱陶しい。

 

「とりあえず荷物を置くか」

 

 時刻は午後二時過ぎ。

 まずは荷物を置く為に宿を検索する。

 スマホをタッチして場所を伺うと、すぐに教えてくれた。

 

「えーと……お、案外駅から近いぞ。徒歩で二十分くらいだな」

 

 今回はホテルではなく旅館を選択した。

『熱海って温泉でしょ。じゃあ旅館だね』

 これも川崎の希望のひとつだ。

 

「近いなら、歩いちゃおうか。こういう機会でも無いと、あんた運動しないでしょ」

 

 まあ、その通りだな。

 旅館に迎えの車を頼もうとした指を止めてスマホの画面を閉じる。

 

「よし、歩くか。暑いけど」

 

 本当に暑い。猛暑日どころではない。きっと酷暑日とか云う奴だ。あ、でも体温で云えば風邪引いた時くらいか。

 くだらない屁理屈だ。

 

「じゃあ、まずは旅館に荷物を置いてから、熱海の街を散策だね」

 

 待ち合わせの時にも感じたことだがーー、二週間振りに顔を合わせた川崎は驚くほど普通だった。

 ともすればこの旅行の後に別れが待つなど、嘘に思えてしまう。

 もしかしたら大掛かりなドッキリか、はたまたこの二週間で考え直してくれたのか、などという淡い希望を抱いてしまいそうになる。

 だがそれは無い。あの夜の川崎の決意は真剣だった。

 拒絶では無く、終わりを悟った目だった。

 だが今、目の前で微笑む川崎は普通だ。余りにも普通なのだ。

 ならばせめて俺も、努めて普通に振る舞うべきだ。

 

「ああ、そうだな」

 

 しかし気づいてしまう。いやお互いに気づいているのだろう。

 よく観察すると、川崎は普通に振る舞うことで恙無く終焉を迎えようとしているようにも見えるし、俺は俺でこれ以上川崎を傷つけないことを前提に、無事に幕を降ろすつもりでいる。

 

 つまり、これは欺瞞だ。

 互いが互いを演じるだけの、お寒い三文芝居。

 

 だが、これは俺の罰だ。

 図に乗って自分を見失い、川崎を見失い、欺瞞を続けてきた俺への報いだ。

 

『人は役者 人生は舞台』

 

 今は、誰が云ったか解らないこの台詞に身を委ねよう。

 

  * * *

 

 宿に向かう途中、スマホを弄って事前に調べた熱海の情報を確認する。

 

「ーー何見てんの?」

 

 川崎が腕を絡ませてくる。

 

「あ、ああ。熱海の情報をちらっと」

 

 川崎がくすりと笑う。

 

「あんたって、意外とマメだよね。そういうとこ」

「スムーズに物事を運びたいだけだ」

「ふぅん、ま、いいや。行こ」

 

 川崎の最後の願いだ。

 予期出来るトラブルは回避するに越したことはない。

 故に俺のスマホには、あらゆる状況に対応出来るだけの情報を詰め込んだつもりだ。

 

 これが、最後の役目だから。

 

 あちらこちらと散策しながら歩いた所為で、宿に着いたのは夕方近くだった。

 途中、足湯に浸かっていた時間が長かったな。川崎が気持ち良さそうにしていたのを見て、中々動けなかったのも、また俺の所為だ。

 

「うわぁ……すごい」

 

 旅館の和室に案内された川崎の第一声だ。

 まだ青々とした畳が敷かれた広い和室。

 その畳張りの座敷の向こうには床面まである開放感溢れる大きなサッシがある。そこに狭い板の間があり、小さなテーブルを挟んで椅子が二脚据えてある。

 

 川崎が感嘆の声を上げた原因は、その向こうだ。

 

 低い竹垣の向こうに広がるは、一面の青。

 

 青い海原は途中で藍色になり、水平線まで果てしなく続く。

 その上空、高く積み上がった雲たちは沈みゆく太陽を一身に浴びて、淡いオレンジ色に光っていた。

 東向きの部屋なので夕日は見えないけれど、川崎の表情を見る限りは此処にして正解だったようだ。

 

 部屋と景色をひと通り眺めたあと、仲居さんが淹れてくれたお茶を飲んだ俺と川崎は、或る店を目指していた。

 

 

 ーー比企谷と街をぶらぶら歩いたら楽しいかな。

 以前の会話に出てきた、その願いを叶える為に。

 

 目当ての店は宿から徒歩で二十分ちょいだが、そこまでは、海岸線を歩いたりしながらぶらぶらと歩いていく。

 

 途中、川崎が気になった服屋に寄ったり、ご当地モノのキャラクター商品が飾られた店先で立ち止まったり。

 俺が見つけた謎のガチャガチャに怪訝そうな顔をしたり。

 尾崎紅葉の碑の前でぼんやりする俺に川崎が呆れたり。

 

 ゆっくり、ゆっくり。

 普通なら二十分少々で着く場所に、一時間以上の時間をかけて歩を進める。

 まるで、そのラストに向かう一歩を惜しむかのように。

 そう思っているのは俺だけかも知れないが。

 

 

 ーー比企谷の選んだお店で、いつか一緒にご飯を食べようよ。

 これを聞いたのはいつだったかな。

 

 この願いの為に選んだ店は、とある洋食屋である。

 ホームページによれば、創業は昭和二十一年。

 終戦直後からある老舗で、保養地である熱海へ足繁く訪れた多くの文豪や数々の著名人に愛されたというこの店は、読書家ならば一度は訪れたい店である。

 

 ニスが塗られた木製のドアを開けて、店内に踏み入ると、そこは別世界だった。

 店内を照らすのはランプの灯りに似た暖色の照明。

 カウンター席の向こう、オープンキッチン風の厨房では数人のコックさん達が忙しなく動いている。

 テーブル席に目を移すと、美味そうな匂いと共に何組かの先客たちが談笑しつつ料理を楽しんでいる。

 

 迂闊だった。

 てっきり街の洋食屋程度に考えていた。

 これはもう、レストランだ。

 店内の雰囲気に呑まれ、気押される。

 

「うわ……すごいお店」

 

 川崎も同様の思いを抱いたのか感嘆の息を漏らしていると、横から声を掛けられる。

 

「比企谷様、でしょうか」

「あ、は、はい……」

 

 うーん、緊張する。

 誰かの為にお店を予約するなんて初めてだ。

 そして、多分これが最後になるだろう。

 

「お待ちしておりました」

 

 そりゃお待ちするよな。宿を出る時に「もうすぐ着きます」なんて云っておいて、一時間近くも掛かってたら、お店だって不安になるだろう。

 

「あ、いや。こちらこそ遅くなりましてーー」

 

 俺の何とも言い訳がましい言葉を笑顔で流したウエイターさんに、奥のテーブル席へと案内される。

 

「……比企谷さ、よくこんなお店知ってたね」

 

 テーブルの向かい、きょろきょろと視線を動かす川崎が云う。

 

「ああ、ここは谷崎潤一郎とか志賀直哉が熱海滞在中に通い詰めた店らしい。結構有名だぞ」

 

 実際俺が知ったのも何かのテレビ番組がきっかけだった。あの時は、すぐにパソコンで調べてとりあえずブックマークしておいたのだが、まさかこんな機会に役立ってしまうとは思わなかった。

 

「そうなんだ。店内もお洒落だし、落ち着くし、居座っちゃう文豪たちの気持ちがちょっとだけわかるね」

 

 川崎の云う通り、座ってみると非常に居心地が良い。酒を飲める年齢だったら、飲みながらずっと居座ってしまいそうだ。

 

「だな」

 

 うん、ここで文壇を飾った文豪たちが持論を主張し合っていたと思うと、胸にくるものがあるな。

 さすがに店内の明るさでは執筆は難しいだろうけど。

 

「メインは決めさせてもらったから、他のメニューは好きな物を選んでくれ」

「でも」

「いいから、食べたい物を選んで欲しい。あとダブルメインもありだから」

 

 俺の言葉に頷いた川崎のチョイスは、前菜にサラダ、スープはコンソメ。デザートはカボチャのプリンに決める。

 つーかこの人、安めのメニューで固めてきてるよね。

 しっかり者なのは分かるけど、気を遣わなくてもいいのにな。

 程なくして目の前にサラダとスープ、ライスが並べられる。手を合わせてサラダへとフォークを突き入れた川崎は、早速ひと口頬張る。

 

「へぇ、美味しいね。こんなのあたし作れないよ。このドレッシングってどうやって作るんだろ」

「簡単に作れないのがプロの味だろ」

「でもさ、大志や京華たちにも食べさせてあげたいしさ」

 

 こいつ、何処に来てもブラコンでシスコンだな。

 そんな川崎に惚れたのだから否定はしないが。

 

 食事は進み、ついにメインの登場だ。

 タンシチュー。

 これぞ文豪たちが愛した一品、という触れ込みだ。

 

 皿の真ん中にどかっと陣取る肉を見る。

 見るからに柔らかそうなタンである。

 ナイフでなくスプーンを取り、シチューから半分ほど顔を出しているタンに差し込む。

 するり。

 まるで、ナイフと間違えたかと思うほど、容易くスプーンは肉に吸い込まれた。

 うは。超柔らかい。思った以上だ。

 一口、頬張る。

 若干酸味の強いデミグラスソースに包まれたタンは、程よい歯ざわりを残して口内で解れる。

 うん、美味い。

 俺が咀嚼するのを見て、川崎も同様にタンシチューを口に運ぶ。

 

「うわ……これ美味しい」

 

 どうやら川崎も気に入ってくれたようだ。

 

  * * *

 

 ーー比企谷と花火を見たかったな。

 その話をしたのは、花火大会の翌日だったな。その時は、もっと早く云えよって思ってしまった。

 

 ここ熱海の花火大会は夏だけではない。

 一年に十回以上、何ならクソ寒い十二月にも開催するらしい。

 さすが熱海。名だたる文豪……は関係ないか。

 

 さて。花火大会の会場は、現在食後のコーヒーを飲んでいるレストランから徒歩で十分もかからない距離だ。もう少し経ってから出れば開始には充分間に合うだろう。

 川崎がコーヒーを飲み干したのを見計らって声を掛ける。

 

「もう少ししたら出よう。花火が始まる」

 

 頷いた川崎は、コーヒーカップを見つめていた。

 

  * * *

 

 人。人。人。

 花火大会の場所が近づくに連れて人が多くなる。

 予想はしていたが、花火大会の会場近くは予想以上に混雑していた。

 もう民族大移動である。

 

 お互い人混みが苦手な俺と川崎は、示し合わせたように混雑を避け、少し離れたベンチで腰を落ち着ける。

 その距離は、微妙に遠い。

 

 程なくして花火が始まった。

 夏の夜空に咲く、一瞬の徒花。

 その大輪の花が弾けて咲く度に、群衆から歓声が上がる。

 その声を遠くに聞きながら、俺と川崎はベンチに腰掛けたまま夜空を見上げる。

 ふと体温を感じる。知らぬ間に身を寄せていた川崎の頭が肩に乗せられている。

 この一ヶ月余りで幾度となく感じた重み。

 この重みは、明日には消えてしまうのだ。

 

 目に焼き付けよう。脳裏に刻もう。

 この一瞬の煌めきを。この一瞬の表情を。

 もう失うことが確定してしまった、この寂しそうな笑顔を。

 

  * * *

 

 花火大会が終わると、人の群れがそれぞれに散っていく。

 俺と川崎は、いつの間にか繋いでいた手を離さないように、人波を泳ぐ。

 この少し冷んやりとした手は、今だけは俺のものだ。

 

 辺りを散策しながら

 旅館に戻った俺は、あるミスに気づく。

 旅館の夕食を断るのを忘れていた。

 

 部屋の座卓の上に伏せられた二つの茶碗が寂しそうに見えた。

 

 結局、川崎の「勿体無い」の一言で、旅館が用意してくれた晩飯を食べるも、やはり全部は入り切らない。

 思案していると、仲居さんが入ってきた。

 仲居さんに川崎が話しながら頭を下げると、瞬く間に料理は下げられた。

 ミスをしてしまった。

 川崎と旅館の方たちに申し訳ないことをしてしまった。

 

 午後十一時。

 この旅館の風呂は温泉である。

 何なら熱海で温泉が無い宿を探す方が難しい。

 

 この宿の風呂は大浴場、家族風呂、それに露天風呂だ。

 残念ながら今の時間、露天風呂は女性専用の時間帯である。

 ということで、川崎は露天風呂、俺は大浴場へと向かう。

 

 大浴場といっても、まるっきり景色が見えない内風呂ではなかった。

 嵌め込みの大きな窓ガラスの向こうには部屋からと同様に相模湾が一望出来る。

 窓枠越しでもこの景観。

 露天風呂にいる川崎から見える眺めは素晴らしいのだろう。

 ……覗きたくなんてないもん。

 

 川崎と俺が風呂に行っている間に座卓は片付けられ、代わりに部屋に現れたのは、ふた組の布団。

 行儀良く並べて敷かれている。

 

 思わず息を飲む。

 

 ーー比企谷と、したい。

 

 花火を見たあとにメールで送られてきた……川崎の希望だ。

 近くにいるのだから直接……は言えないか。こんなこと。もしも云われても俺には対応出来っこない。

 だが、これに関しては甘受出来ない。川崎にもそれは伝えてある。メールで。

 川崎と俺は、明日には終わってしまう関係なのだ。

 それなのに、これ以上川崎を傷つける行為は出来ない。

 

 だが、ああいう事を云われてしまうと、どうしても意識してしまう。

 目の前の、ぴったりくっ付けられた二組の布団が更に想像を掻き立てる。

 

 ……駄目だ。

 やはりするべきではない。

 幸いなことに、川崎はまだ風呂から戻っていない。

 よし、この隙にーー。

 

「ーーなにしてんの」

 

 え。

 浴衣姿の川崎が怪訝な表情で立っている。

 帰ってくるタイミング、絶妙過ぎないですかね川崎さん。

 きっと川崎の目には、俺がせっせと布団をいじって準備しているように映ったのだろう。

 だからこそ、こんなことを云うのだ。

 

「……比企谷がしたいなら、いいよ」

 

 ごくり。

 

 唾を呑み込む音が喉元に響く。

 

「い、いや、それはマズい。それ以外の希望を言ってくれれば、それは叶える。だから……」

 

 川崎は、悲しそうな目で俺を見つめていた。

 

  * * *

 

 部屋の灯りを消し、少し離した布団の片方に潜る。

 ああ、潜ったら暑い。夏だから当たり前か。

 

 消灯して数分。

 ふと気になる。

 川崎の寝息が聞こえない。

 やましい気持ちは無い、そう自分に言い聞かせながら川崎の布団を見遣る。

 薄明かりの中、川崎は布団の上に体育座りをしていた。

 

 顔は両ひざの間に半分以上隠れていて、薄明かりでは表情は読み取れない。

 けれど、何か思うところはあるのだろう。

 当然だ。

 俺にだってある。俺のは主に後悔だが。

 あの時ああしていれば、こうしていたら。

 すべては選ばなかったこと。

 架空の話。たらればの話である。

 

 ならば先の事を考えるほうがよい。

 まずは川崎の為に動く。

 そしたらーー

 その先、俺はどうしたいのだろう。

 

 まだ川崎は起きている。

 

 駄目だ。

 俺は何を喋ろうとしている。

 やめろ。川崎沙希の最後の依頼が遂行出来なくなるぞ。

 だが、自分の意思に反して口が開いてしまう。

 

「独り言だーー」

 

 そう前置きして語り始める。

 

「俺は、たくさん間違えた。間違えたことに気づかなかった。舞い上がって、自惚れてた。冷静じゃなかった。だから間違いに気づかなかった」

 

 愚にもつかない言い訳。すべて後の祭り、今更である。

 

「……あたしも、独り言」

 

「あたしは……必死過ぎたのかも。どうすれば比企谷に喜んでもらえるか、気に入ってもらえるか、そればっかり考えてた」

 

「……お互いに遠慮があったのか」

 

「そうかもね」

 

 川崎は続ける。

 

「あたし達って、自分の感情を出すのが下手過ぎるよね」

 

「そうだな」

 

 心当たりだらけだ。

 

「あたしも……いっぱい間違えてた。もっと、して欲しいことを云えばよかった。あんたがしたい事を聞けばよかった」

 

「それは……俺もだな」

 

「やっぱりあたし達って、恋愛に向かない性質(たち)なのかな」

 

「というか、圧倒的なまでに経験が足りないよな。俺も、お前も」

 

「経験だけじゃないよ。他にもいろいろ足りなかったと思う」

 

「そうだな、色んなことが足りなかったな」

 

「ねえ、比企谷」

 

「ん?」

 

「あたし達、また偶然出会えたら……今度はうまくいくかな」

 

 たらればの話である。だが、柄にも無く真剣に考えるのは、きっと川崎の言った言葉だからだろう。

 

「……無理だろ。だってお前と俺だよ? 上手くなんて出来ないさ。なるようにしかならんだろ」

 

 素直に考えを述べた。

 初心者どうしの恋愛が上手くいく訳がない。紆余曲折、艱難辛苦あって当然なのだ。なのに俺は、俺たちは、上手くやろうとしていた。

 何も「うまくやる」必要なんて無かったのだ。

 どんなに歪んでいても良かった。捻じれていても良かったのだ。上手くやろうとせず、自分たちの恋愛の形を模索すべきだったのだ。

 

「そう、だよね。でも」

 

 鼻を啜る音が小さく響いた。

 

「あたしは、また偶然再会したい」

 

「ああ、俺もだーー」

 

 それきり川崎の言葉は返って来なくなった。

 俺も、川崎に掛ける言葉も自分を慰める言葉も見つけられず、俺はまた一つ後悔を抱えて眠ったふりをした。

 

  * * *

 

 眠れぬ夜は明け、最後の朝が来てしまった。

 

 旅館をチェックアウトして電車に乗り、千葉に戻ればーーそれで終わり。

 ほとんど眠った記憶の無い布団の上に胡座をかいて、ぼんやりと布団の皺を見つめる。

 

 あの日。

 駅前で川崎沙希と会ってから一ヶ月ちょっと。

 本当にあっと言う間だったな。

 不思議と感傷めいた気持ちは起こらない。

 ああ、これで終わりか。そう思うだけである。

 全てを受け入れることが俺の罰だと、二週間に渡り自分に言い聞かせた成果だ。

 

 川崎沙希が起きた。

 いや、起き上がったと云うのが正しいだろう。

 とっくに目が覚めていたのは知っている。だが、掛けるべき言葉が見つからなかった。

 

 それでもいい。

 土壇場まできて、不用意な言葉で川崎を傷つけるよりかは幾分かマシだ。

 

 仲居さんが布団を片付けに訪れた。若干距離が空いた二組の布団を怪訝そうに見た後、何食わぬ顔で仕舞っていた。

 

 川崎が顔を洗って着替えるまでの間、俺は一階ロビーの自販機の前にいた。

 先ほど布団を片付けに来てくれた仲居さんが恐る恐る聞いてくる。

 

「夕べは……何か不手際がありましたでしょうか」

 

 昨晩、旅館の料理を残してしまったことを気にかけているのだろうか。

 

「いえ、特には」

 

 どうやら余計な気を遣わせてしまったらしい。

 俺のミスなのに。

 

 部屋に戻ると、座卓の上にはいかにも旅館の朝食らしいメニューが並んでいた。

 それを二人で無言でいただく。

 鰺の干物が絶品だった。

 

 チェックアウトまであと少し。

 すでに荷物を纏めた俺と川崎は、売店で土産物を物色していた。

 俺は小町に。川崎は、きっと大志や京華に。

 

 部屋を出る前に、用意しておいたポチ袋に千円札を入れて座卓に置く。

 昨晩の夕食を無駄にしてしまったお詫びである。

 それを見て、川崎は「へぇ」と唸った。まあ十九歳の若造がすることではないな。

 そしてこれが、俺の最後の思い出となるのだろうか。

 

  * * *

 

 昨晩ほとんど眠れなかったせいで、電車の中でうたた寝を繰り返す。

 隣に座る川崎も似たようなもので、ふと俺が目を向けるとこくりこくりと舟を漕いでいた。

 もうすぐ東京だと云うのに、熱海駅で購入した駅弁も手付かずである。

 

 微睡む目に懐かしい景色が映る。

 あの日と同じ景色。

 電車は速度を落とし、ゆっくりとホームに滑ってゆく。

 速度が零になる。

 ーー終着駅だ。

 

 川崎と俺は、それぞれ大きなバッグを抱えて改札口を出る。

 

 たったひと夏の特別な関係は、ここで始まってここで終わる。

 

 ーードラマのラストシーンのように別れたい。

 最後の依頼。

 

 打ち合わせたように川崎が振り向く。

 俺は川崎を、川崎は俺を見つめる。

 

「今まで本当にありがとう。じゃあ……ね」

 

「ああ」

 

 川崎沙希が背中を向ける。それを見届けた俺も……背中を向けた。

 

 これから俺たちは別々の道へ向かう。

 

 もう二度と、二人の道が交わることは無いだろう。

 

 

 

 

  〜




今回もお読みいただき、ありがとうございます。






明日と明後日、19時に一話ずつ投稿します。

ではまた。

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