千葉ラブストーリー   作:エコー
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前回のあらすじ(ウソ)
自慢の愛車で華麗に首都高を攻める八幡。そこに追従するのは首都高を根城にする黒い怪鳥、ポルシェ911。
二台の、言葉なき邂逅が始まる。

えーと、首都高を走るのは本当です。それ以外はウソ。

【注意】
今回のお話には法律に反した描写が含まれます。
気になさる方は読まずにスルーしてくださいませ。




低気圧ボーイ

 水曜日の夜十時過ぎ。

 時折ずれ落ちるブルーライトカットの眼鏡を直しながら、俺は千葉に向けて愛車を走らせていた。

 都内の俺のアパートから千葉までは、首都高速と京葉道路を使えば約一時間。

 さて、これをどうやって短縮するか。どこまで短縮できるか。

 

 ──踏むしか無いだろうな。

 

 ヘッドライトの明かりを頼りに、4速8000回転で緩やかな左カーブに突入。カーブの真ん中までアクセルをキープして、立ち上がりは藤原のおっさんの教え通りにアウト側にラインを膨らませつつ、きっちり一万回転まで回して、カーブの出口、直線が見えたらレバーを5速に放り込んで奥までアクセルを踏む。

 

「……ぉわたっ!?」

 

 え、なになに?

 今ずるっと後ろが滑ったよ!?

 早かった?

 ねえ、アクセル踏み込むの早かったの?

 心臓がばくばくいっちゃってるよ、これ。

 何だっけ。後ろが滑った時は少しだけ逆にハンドル切るんだっけ。

 つーかそんなんいきなり出来るかよ。

 心に余裕の無いまま緩やかな下り坂の路面を掴んだ愛車カプチーノは、まるでジェットコースターの様な加速を再現する。

 免許を取って二ヶ月ちょいで、初めての全開走行。

 自分なりの限界走行。

 やはり無茶だったか。でもやらなきゃならない。他に方法が無いのなら。

 

「ほ、本気で速えっ。一体何キロ出てるんだよ」

 

 スピードメーターをちらっと見……えっ。

 ──うん。見なかったことにしよう。

 きっとあれだ。スピードメーターが壊れてるんだ。

 なんせ中古だから。中古だから。

 脳内で言い訳めいた屁理屈を呟きながらも、疎らに走る車を縫う様に抜いていく。

 普通に通行中の皆さん、本当にごめんなさい。今ちょっと緊急事態なんです。

 つーか、パトカーがいたら完全にアウトだな。

 

 ナビによれば、首都高環状線から6号線に入ると、すぐに隅田川が見えてくる。大きな弧を二回程描き、橋を渡れば7号線。京葉道路までほぼ一直線だ。

 カーブの立ち上がり、再び5速に入れて床までアクセルを踏み込む。

 七千、八千、九千、一万。

 一万一千まで回すと、回転計の針の動きは次第に緩やかになり、それに反比例して苛立ちが募ってくる。

 速く、もっと速く。早く。

 速度は限界に近い。操る俺の精神も限界だ。気持ちだけが空回りし始める。

 落ち着け。こういう時こそ冷静な思考が大事だ。

 第一に無事に辿り着くことを考えろ。所要時間はその次だ。

 かと云って、のんびりしている訳にはいかない。

 こうしている間にも、あいつは──。

 

 まあ、首都高の渋滞に巻き込まれなかっただけマシか。

 

  * * *

 

 幕張インターを下りた。

 このまま国道14号線を市役所方面に向かって行けば、目的地の筈だ。

 

 くそ、信号待ち長えよ。

 路面の勾配が無いのを良い事に、エンジンの回転数を上げて信号が青になった瞬間クラッチを離す。

 

「……ぐっ!」

 

 強烈な加速度によるGでシートに背中がめり込む。だがまた正面の信号は赤だ。

 くそ、くそ、くそっ。

 早く、早く変われ。

 ──よしっ。

 待ってろ、沙希。

 

 スマホのナビ通りに右へ左へ。ハンドルを回しアクセルを踏み続けると、目的の店らしきビルが見えてきた。

 

「うしっ、着いたっ」

 

 ブルースピアと書かれた看板の前でサイドブレーキを引っぱってエンジンを止める。

 車を降りると、踏ん張っていた膝ががくっと折れそうになる。思ったよりも足に負担がきているようだ。

 足に喝を入れて、車のキーだけ引き抜いてドアを閉め、看板の横の黒い扉を開ける──。

 

 ──薄暗い店内。

 

 右手にはカウンターがあり、女性が座る後ろ姿がある。

 そのまま視線を廻らせると、壁のあちこちが青色の間接照明に照らされている一番奥の集団で目が止まる。

 その集団の中、沙希は丸いテーブルに突っ伏していた。

 ──無事だったか。

 周囲から奇異の視線を感じながら、つかつかと奥へ歩みゆく。

 

「沙希」

「あー、はひまん、メガネしてる……」

「つか、どうしたんだよ。何があったんだ」

 

 上半身を起こした沙希は、俺の顔を見るなり目に一杯の涙を溜めて泣き出した。

 

「ひぐっ、ごめんらさい……嫌いになららいでぇ」

 

 嗚咽のせいか、呂律の回らない口調で謝罪を繰り返しながら、必死に手を伸ばして俺の上着の袖を掴もうとする沙希。

 宙を泳ぐその手を掴んで沙希を見る。

 

「落ち着け、沙希」

 

 宥めようと肩に手を置くと、その手をぎゅっと握ってくる。

 最初は痛いくらいだった握力は、嗚咽と共に抜けていく。

 

「らって……らめっていわれらのに、お酒飲んじゃっらぁ」

 

 何言ってるか分からないが、お酒という言葉だけは聞き取る事が出来た。

 そうか、こいつ飲んじまったのか。未成年なのにしようがねぇ奴だ。

 

「やくそくやぶっ……ごめんらさいぃ」

「ああ、わかった」

 

 俺の返答が理解出来ていないのか、ふるふると頭を左右に揺らしながらも、幾ら涙を流そうとも、眼差しだけは俺を捉えて離さない。

 

「いっぱいいっぱい怒っていいからぁ……あらしを嫌いにならないでよぉ……」

 

 ──なんかもう、ここまで崩れてると可愛くみえてきた。人目が無ければすぐ抱きしめたいレベルだ。

 いや、この状況ですら、すっげえ恥ずかしいけどね。

 沙希の頭を撫でつつ同席している他の五人に目を向けると、その中の一人の男がおずおずと口を開いた。

 

「い、いや……こんなになるとは思わなかったんだ」

「はぁ?」

 

 視線を向けると、その男は目を逸らして項垂れた。他の男に目を向けても同様の反応だ。

 んだよ、別に睨んじゃいねぇぞ。あ、この腐った目のせいですかね。

 

  * * *

 

 店員に貰った水を飲ませると、沙希は少しだけ落ち着きを取り戻す。と同時に激しく落ち込み始めた。

 丸テーブルに額をぐりぐりと押し付けて「嫌われる、嫌われる」と呟いている。

 席を同じくする面々はその変貌ぶりになす術は無い様で、ただ茫然と見ているだけだ。

 

 ぐりぐりと額を押し付けている沙希の背中に羽織っていた上着をかけてやると、ぐりぐりはピタッと止み、その上着の袖の部分を鼻先に寄せて、すんすんと匂いを嗅ぎ始める。

 

「あれぇ……はちまんのにおいだぁ」

 

 な、なんなんだ。超可愛い生き物を見つけてしまった。

 

「くへぇ……はちまん」

 

 髪を撫でると、沙希はすぐに寝息を立て始めた。

 まあ、とりあえず沙希が無事で良かった。そう思ったら膝から力が抜けた。沙希に倒れ込まない様に後ろに下がり、よろけたついでに壁に背を預ける。

 その姿勢のまま、沙希の突っ伏すテーブルの面々を見遣る。

 これが沙希の云っていた「親睦会」の出席者か。

 沙希の向こうには茶髪らしき女子が座り、その向こうでは男性二人がちらちらと俺を見ている。さらにその奥には二人の女子が怪訝そうな顔でこちらを窺いながら、好き勝手に喋っている。

 

「なに……川崎さんってこんなに可愛いことする人だったんだ」

「うんうん、ギャップ萌えしちゃう」

 

 奥の女子二人は沙希の可愛らしさにやられているようだ。

 わかる。俺だってこの可愛さにはノックダウン寸前なのだ。だが今はまだ倒れる訳にはいかない。とりあえず何があったのかは把握しなきゃな。

 

「あー、どうしてこうなったか状況を説明してくれ」

 

 沙希の隣で背中を(さす)る女子が、びくっと肩を揺らした。

 

「え。えーと、ですね──」

 

 その女子は、目を泳がせながら語り出した。

 

 中々誘いに乗らない沙希を、親睦会という名目で飲みに連れて来たこと。

 頑なに飲酒を拒否する沙希に、悪戯心でジュースと偽ってカクテルを飲ませたこと。

 それがアルコールだと知った沙希が暴れ出したこと。

 沙希を止めようとした男子に蹴りを食らわせたこと。

 ひとしきり暴れ終わると、八幡と叫びながら取り乱したこと。

 それを見ていたカウンターの女性が何処かに電話したこと。

 そのカウンターの女性とは──

 

「ひゃっはろ、比企谷くん。随分早かったね、電話してからまだ四十分だよ」

「雪ノ下……さん」

 

 ──陽乃さんだった。

 

  * * *

 

 時を帰宅後まで巻き戻そう。

 

 夕方、アパートに帰宅した俺は、パソコンを立ち上げてレポートの作成をしていた。

 今着けているブルーライトカットの眼鏡は、この作業の為に掛けたものだ。

 シャワーを浴びて簡単な夕飯を済ませ、再び作業に取り掛かろうとした時に沙希からのメール。

 

『学部の親睦会があるんだけど、行ってもいいかな。散々断ってきたんだけど、さすがに断りにくくて』

 

 まあ、当然ながら沙希には沙希の人間関係がある。後々に尾を引く様なことは避ける方が良いだろうと、若干心配ながらも了承し、こう付け加えた。

 

「ただし、酒はやめとけよ」

 

 仮にも教育学部に通う大学生がそんなことで罪に問われたら、後々どんな影響が出るか分かったもんじゃ無い。

 いや、本音は……やめとこ。

 口煩い大人の様な俺のメールに「わかってる。たくさん食べてくるよ。帰ったらメールするね」と返信が来た、その三十分後。

 

 ──着信があり、雪ノ下陽乃と表示された。

 

『川なんとかさんが、比企谷くんの名前を叫びながら暴れてるんだけど』

 

 で、すぐに車をかっ飛ばして、現在俺は千葉にいる訳だ。

 

「……すみません、ご迷惑をお掛けしました」

 

 礼を述べながら頭を下げると、いつもの仮面のままで陽乃さんは応える。

 強化外骨格は健在のようだ。

 

「気にしなくていいよ。こうして比企谷くんにも会えたし、ついでに雪乃ちゃんが負けた恋敵も見れたし、ね」

 

 強化外骨格と同様、シスコンぷりも健在か。

 

「いや、勝つとか負けるとか……そんなんじゃないですよ。こういうことは」

「んー、でもね。沙希ちゃん……だっけ、あの子を見てたら、やっぱり雪乃ちゃんの負けだよ」

 

「……は?」

 

「あの子ね、ずっと比企谷くんの名前を呼びながらお詫びの言葉を叫んでたんだよ。周りのみんなに騙されて、少しお酒を飲まされただけなのにね」

 

 騙されて、だと?

 再び奥のテーブルに目を向けると、席に座ったままの五人が固まった。

 

「だーめ、そんな怖い顔しないの。あの子達、怯えてるわよ」

 

 えっ。俺ってそんなに怖い顔してたか。きっとこの腐った目のせいですって。

 

「きっと雪乃ちゃんは、あそこまで必死になれない。形振り構わずに素直な思いを表すなんて、きっと無理だもの」

 

 まあ、想像は出来ないわな。つーか、雪ノ下が我を忘れる場面なんてあるのかよ。

 ……パンさんと猫関連以外で。

 

「ま、どうせ比企谷くんのことだから、お酒は飲んじゃダメとか正論を言ったんでしょ」

「まあ、そうです」

 

 眈々と答える俺に、陽乃さんは軽く溜息を吐いた。

 

「比企谷くんは彼女を心配して言ったのかもしれないけど……言われた彼女はその言葉に縛られちゃったんだね。まったく罪作りな男になったね」

 

 罪作りかどうかは別にして、可能性は充分あり得る。こいつ変に律儀だからな。

 なら、俺がしたことはただの言葉の呪縛だと云うのか。

 間違っていた、のか。

 

「大丈夫。比企谷くんは間違ってないよ」

 

 俺の心を見透かした様に微笑む陽乃さんに一瞬息を飲む。

 素顔だ、そう感じた。

 今の表情は強化外骨格の下に隠された、素の陽乃さんの顔な気がした。

 

「だって、彼女の為にこうしてここまで来たんだから。その事で、自分の発言に対する責任は充分に果たしているわ」

 

 そうだろうか。

 いや、違う。責任とか、そんなものじゃない。

 俺は、来たいから来た。沙希がピンチだと思ったから。沙希が困っていると思ったから。

 沙希が……そこにいるから。

 

「いや、責任じゃないです。沙希を責めるつもりも無い。ここに来たのは、ただの俺の意思です」

 

 言い終えても返事がない。ただのしかば……ではなくて、陽乃さんは狐につままれたような顔をして固まっている。

 

「……驚いた。あの理性の化け物からそんな台詞が聞けるなんて思わなかったよ。やっぱり君は変わったね」

「俺は、俺が此処に来たことを沙希の所為にはしたくない。それだけです」

「前言撤回。やっぱり君は君だったね」

 

 屁理屈をこねる俺に、ふふっと笑みを漏らすのは優しげな顔。その顔をたまには妹さんにも向けてあげたらどうですか、なんて思っても言えない。

 

「でもさ、大学生になったら、みんなお酒くらい飲んでるわよ?」

「いや、未成年の飲酒は罪でしょうに」

 

 俺が答えると、頬杖をついた陽乃さんは視線をスライドさせて奥のテーブルへと向けた。

 

「──だってさ。沙希ちゃんの彼氏さんは大層ご立腹のご様子よ?」

 

 陽乃さんのその人を喰った様な物言いに、五人の男女は硬直した。

 

「ご、ごめん……なさい」

「すみませんでした」

 

 次々に謝罪を口にするのを聞いて少々腹が立つ。

 謝るくらいなら初めからするなよ。そう口に出かかった時、陽乃さんに引っ張られた。

 

「だめ」

 

 耳元で囁くように告げるその言葉で我に帰る。

 そして、今度は周囲に聞こえる声量で告げた。

 

「比企谷くん、この辺で許してやってくれないかなぁ。 一応、大学の後輩に当たる子たちなんだ」

 

 え、そうなの?

 そういえば千葉市には国立大学ってひとつしか無かったっけ。ということは、沙希も陽乃さんの後輩なのか。

 ──面倒な事実を知ってしまった。

 だが、せっかくの陽乃さんのお膳立てである。無碍にしたら後でどんな仕打ちをされることやら。

 

「──いや、許すも許さないも無いです」

 

 もしも沙希が許すのなら、俺が怒りをぶつけるのはお門違いだ。

 

「……未成年の内はアルコールは勘弁してやってください」

 

 オブラートでぐるぐる巻きにした怒りを告げながら、奥のテーブルに向かって深々とアタマを下げる。

 

「は、はいっ、もちろんですっ」

「川崎さんはあたし達が責任を持って守りますから、ご安心をっ」

 

 俺ごときに緊張気味なのがよく解らないが、女子二人が高らかに宣言してくれた。男子二人は面白くなさそうな顔をふいと横に向けている。

 

「あら、そっちの男の子たちは不服なようだけれど」

 

 陽乃さんの冷たい声が男子二人を射竦める。

 

「べ、別に不服な訳じゃ……」

「そ。なら良かった。嫌がる相手に騙してお酒を飲ませるのが犯罪だって、ちゃんと解ってるみたいで、お姉さん安心したわ」

 

 犯罪。そう言い切られて男子二人は固まる。

 

「そ、そんな。ただコーラに少しテキーラを混ぜただけで……」

「はあ? あたしたちにはビールを混ぜたって言ってたよね」

「あんた。馬鹿じゃないの?」

 

 同席している女子二人の表情は不快感を顕にする。陽乃さんも知らなかったようで、珍しく眉間に皺を寄せていた。

 

「呆れた。キミ達はもう帰ってくれないかな。その顔を見ていると悪酔いしそうだから」

 

 更に冷気を帯びたその声音に、男子二人はすごすごと店を出て行く。つーか自分の勘定くらい置いてけよ。

 

「ったく……ごめんね彼氏さん。あいつらにはキツく云っとくから」

 

「どうか宜しくお願いします」

 

 再度頭を下げ終えると、ニヤニヤと笑う陽乃さんの視線が刺さってくる。

 

「……ふーん、比企谷くんも成長したねぇ。お姉さん、ちょっと寂しいぞっ」

「やめてください。満面の笑みで面白がりながら寂しいなんて言われても、説得力は皆無ですよ」

 

 予想通りの反応を得られたのか、陽乃さんは嬉しそうにカクテルグラスを口に運ぶ。

 さて、用事は済んだ。沙希を連れて帰るか……と考えていると、ぽんぽんと椅子を叩く音。見ると、陽乃さんが自分の隣の椅子に手を置いていた。

 

「せっかく来たんだし、比企谷くんも何か飲んでいけば?」

「いやいや聞いてました? 俺もまだ未成年、しかも車なんですけど。つーか早く帰りたいんですけどね」

 

 ちらっと沙希を見る。相変わらず突っ伏したままで、車に乗せるには骨が折れそうだ。

 

「じゃあ、ウーロン茶一杯だけ付き合ってよ。沙希ちゃん寝ちゃってるみたいだし、目を覚ますまで……ねっ?」

 

 うわぁ、面倒くせぇ。今日の件には超感謝してるけど、やっぱりうぜぇ。

 

「はあ、じゃあウーロン茶なら」

 

 沙希の方を見ると、先ほど高らかに「沙希を守る宣言」をした女子達が、任せてくださいとばかりに旨を張って頷いてくる。内心は沙希と俺が不釣り合いとか思っているのだろうけど。

 

 会釈をひとつ、カウンターに座ると目の前には既にグラスがあった。

 

「どうぞ、比企谷くん」

 

 グラスの中には琥珀色の液体が入っている。

 ──本当にウーロン茶だろうな、これ。

 訝しげにグラスを見ていると、隣からけらけらと笑う声が聞こえる。

 

「疑り深いとこは変わってないんだね。安心したよ」

「いや、そんな事で安心されても」

 

 久々に見たが今日の陽乃さんは何だか楽しそうで、本当に良く笑う。それも昔良く見た裏がある笑顔では無い。本当に心からの笑い顔の様に見えるのだ。

 

「しっかし、比企谷くん新宿だっけ? 早かったよね、かなり飛ばして来たんでしょ」

「解らないです。怖くてあんまりスピードメーター見れなかったんで」

 

 その所為か、俺も素直に思いや気持ちを述べてしまったのだと思うのだ。

 

「へぇ、あの比企谷くんがそんなに必死になるなんて、あの子……沙希ちゃんだっけ? よっぽど良い娘なんだね」

 

 云いながら微笑むその裏に見えるのは憂い。うっかり見えてしまったそれに、俺は触れてはいけない。

 陽乃さんの憂いは陽乃さんだけのものだ。そこに触れて良いのは、陽乃さん本人か、陽乃さんが心を許した相手だけだ。

 

「まあ、俺には勿体無いくらいの女の子ではありますね」

「おっ、それはのろけかな? 年上の彼氏ナシのお姉さんに向かって、生意気だぞっ」

 

 うりうりと俺の頬を指で突つく陽乃さんは、何なら年下にも見えるのだが。

 

「あれ? 比企谷くんって眼鏡かけてたっけ」

「あ、これは、パソコン用の眼鏡です。ちょうどレポート作ってたので」

「ふーん、そうかそうか。普段掛けない眼鏡を掛けてるのも気づかないくらいに慌ててた訳だ」

「はあ、そう……なんですかね」

「でも、似合ってる。格好良いよ、眼鏡姿」

 

 眼鏡くらいで容姿が変わって堪るか。そんな現象が起こり得るのは昔の漫画か、三流以下の二次小説の中だけだ。

 

 俺を弄り飽きたのか、陽乃さんは皿の上のピスタチオをひとつ摘み上げて指先で弄ぶ。

 その子供っぽい仕草に思わず笑うと、ぺしっと軽く手を叩かれた。

 

 店内の音楽が変わった。ジャズ、なのかな。

 

「へぇ、コルトレーンかぁ。久しぶりに聴いたなぁ」

 

 陽乃さんは知っている曲らしい。そういやこの人、文化祭でビッグバンドの指揮やってたな。

 そのコルトレーンとやらについて尋ねようと陽乃さんを見ると、カクテルグラスの淵を指でなぞりながら俯いていた。またしても陽乃さんの憂いを見てしまった。

 

「──いいなぁ、お姉さんも良い人見つけたくなっちゃう」

「雪ノ下さんなら選び放題でしょ」

 

 俺が答えた瞬間、陽乃さんの憂いが強くなる。その憂いは既に心中には抑えられず、その表情に現れている。

 ああ、やっぱり。

 この人は常に独りなのだ。

 雪ノ下陽乃という才能。それに比肩するだけの人物など、そうそういる筈が無いのだ。

 いるとすれば、まったく違う人種。対極の人物だろうか。

 

「だーめ。だって雪ノ下の長女だもん。この意味、わかるでしょ」

「はぁ、大変……ですね」

 

 俺は、解った振りをした。正確には、陽乃さんの台詞が嘘だと気づかない振りをした。

 だが、それを見抜けない雪ノ下陽乃では無い。一瞬の内に蠱惑的な表情に変わった強化外骨格は、まだ口をつけていない俺のウーロン茶のグラスを自分の口に運んだ。

 あーあ、もうそれ飲めなくなっちゃった。

 

「……そう、大変なのよ。だから、ちょっとだけ慰めて欲しいなぁ」

 

 そう云いつつしな垂れかかってくるのを肩で押し戻して、陽乃さんに向き直る。

 

「──沙希の了承があれば、その依頼受けますよ」

 

 敢えて沙希の名前を出すことがどれだけの抑止力になるかは解らない。そもそも俺の勘違いかも知れない。

 だけど、陽乃さんの雰囲気があの雨の中で想いを告げる雪ノ下に重なってしまったのだ。

 

「そんなの……断ってるのと同じじゃない。それに依頼だなんて。つれないなぁ」

「ま、昔の部活の癖ですね」

 

 喋りながら沙希の様子を見る。まだ眠っている様だ。代わりに沙希の介抱をする女子二人に視線を逸らされた。

 さすがは俺。嫌われる才能だけはトップクラスだぜ。

 

「やっぱり変わったね、比企谷くん」

「そんなに簡単に変わるもんじゃ無いですよ。特に俺の捻くれた性格は」

「ううん、変わったよ。大人になった。今だって自分を押し殺して、事態を荒立てずに丸く収めようとしてたし」

 

 それは、どれを指している言葉なのだろうか。

 沙希の件か。それとも。

 だが、俺は丸く収める気は無い。事を荒立てる必要が無かっただけなのだ。

 この場にいる全員からは、悪意の欠片も感じないのだから。

 それは何故か。

 おそらく彼女らは、沙希と仲良くなりたかったのだ。先に帰った男たちの方に下心が無かったとは断言できないが、それでも大学の中での沙希を取り巻く環境を俺が壊して良い筈は無い。

 

「まあ、沙希の顔を潰したくないだけです」

「つまんない……すっかり普通にカッコ良くなっちゃって」

 

 何を言ってるんだ、この美形のホモサピエンスは。格好良い男なんて貴方の目の前には存在しませんぜ。

 いるのは貴女の妹を泣かせた、酷い野郎だけです。

 

「……はちまん〜」

「あら、お姫様がお目覚めよ? ナイトさん」

「やめてください。全身が痒くなりそうです」

 

 苦笑をカウンターに残して、目覚めた沙希の元へと向かう。

 本当にナイトみたい、などと女子二人がこそこそと話しているが、今はどうでもいい。

 正直もう沙希を連れてこの場を辞去したい。

 

「沙希、大丈夫か?」

「んー、はちまんが怒ってるー」

「怒ってないから」

 

 じっとこちらを見る沙希の目は、まだ座っている。酩酊状態は抜けていない様だ。

 

「ほんと?」

「ああ、本当だ。だから帰ろ──」

「じゃあ、ちゅーして」

 

 沙希の介抱を続ける女子二人の視線が俺と沙希の間を往復する。つーかそんなこと出来るかよ、こんな衆人環視のど真ん中で。

 ──あ。したことありましたね。この夏、真昼間の駅前で。

 

「あほか」

 

 路上キスの記憶が鮮明に甦ってしまい、恥ずかしさの余り、つい頭頂部に軽くチョップを食らわせてしまった。

 

「ゔー、やっぱ怒ってるぅ。嫌われたんだー、あたし嫌われぢゃっだぁ……」

 

 こいつ、酒癖が悪いのか。それともアルコールのせいで前後不覚に陥って、二人きりだと錯覚して甘えてきてるのか。

 つーか本当にキスしたら、どうなるかな。

 ──いかん、愚考だ。今は撤退することだけを考えねば。

 

「ほら。立てるか?」

「んー、はちまん、だっこ」

 

 キスのおねだりの次は……抱っこをご所望だと?

 ったく、しょうがねぇワガママお姫様だ。

 じゃあ、少々恥をかかせてやる。後悔するなよ、お前が望んだんだからな。

 スツールの下から沙希の膝の裏に腕を通し、もう片方の腕を背中に回す。

 うん。沙希の服装がジーンズで助かった。生足タッチはいささか心臓に悪いからな。

 せーの、よっと。

 腰を入れて沙希を引き寄せて、身体が旨に密着したところで立ち上がる。

 

「おおっ、お姫様だっこ……!」

「あたし、実物初めて見た──」

 

 店内からどよめきが起こる。ちらと見ると、何故か陽乃さんまで驚いた顔をしていた。

 しかし、こいつが軽くて助かった。俺の貧弱な腕力ではこいつを抱えるだけで精一杯だ。

 つーかこれ、思ったより恥ずかしいぞ。俺が。

 ゔー、もうさっさと店を出ちまおう。

 

「はちまん、すきぃ」

「……しっかり掴まってろ」

 

 平静を装って声を掛けると、するりと首の後ろに沙希の両腕が回された。それによって沙希の身体は固定され、安定感が生まれた。

 よし、これなら車まで運べそうだ。

 

「お騒がせしました。それじゃ失礼します」

 

 呆気にとられる沙希のご学友たちに挨拶をして店の出口へ向かい、背中で扉を押し開けてそそくさと外へ出る。

 

 お姫様だっこの状態で車まで歩いていくと、いつの間にか陽乃さんが助手席のドアを開けてくれていた。

 

「お姫様を乗せるにはちょっと小さいけど、比企谷くんにピッタリの可愛い車ね」

 

 それってどういう事なのでしょうか。お前みたいなスケールの小さい人間には二人しか乗れない軽自動車がお似合い、とでも言いたいのでしょうかね。

 百パーセントの被害妄想を抱きつつ、社交辞令的な謝辞を述べる。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 今日は陽乃さんの世話になりっぱなしだな。しかしこの人の行動には常に裏、即ち他意がある。

 まあ、お礼として一日二日の強制労働くらいなら甘受しても良いくらいの感謝はしてるけどね。

 

「──すみません、このお礼は後日必ず」

「あはは、良いって。すごく興味深いものを見られたから、それでチャラよ」

 

 ……は?

 わざわざ電話で報せてくれて、俺のフォローをしてくれて、おまけにウーロン茶までご馳走になって。

 それを見物料でチャラ、だと?

 

「じゃあ、私もそろそろ帰ろっかな。お姫様はナイトさんが迎えに来てくれたし」

「え、じゃあ、沙希の為に今まで店に……?」

「言わぬが花って言葉、知ってる?」

 

 ちょ、それは格好よすぎますって。何も裏が無いなんて陽乃さんらしくもない。

 だが今は沙希を家まで送るのが先決だ。

 ここは甘えておこう。後でどんな事を言われるか、その覚悟だけしとけば問題ない。

 

「ったく、その子が羨ましいわ。お幸せにね、鈍感ナイトさんっ」

 

 陽乃さんの呟きを遠く聞きながら、背もたれを倒した助手席に沙希を寝かせて、シートベルトを装着させる。

 ドアを閉めて運転席に回ると店の扉が開いていて、親睦会という名の飲み会のメンバーであった女子二人が雁首揃えて覗いていた。

 とりあえず会釈だけして、運転席に乗り込む。

 

「じゃあ、帰ろう」

「……うん」

 

 沙希に声をかけてからウインカーを倒してシフトを1速に入れ、ゆっくりとクラッチを繋いで、車を発進させた。

 

  * * *

 

 家が近づいても沙希は無言で背を向けていた。眠ってはいない。ただ、泣いている。

 背中を向けているということは、俺にその姿を見せたくないのだろう。だから俺は、あくまで寝ているものとして扱う。

 

「起きてるか、もうすぐ着くぞ」

「停めて」

「……はいよ」

 

 沙希の言葉で車を路肩に寄せる。

 ハザードランプを点けると、沙希のすすり泣きが聞こえてきた。

 

「……ごめん」

「散々聞いたよ。つーかお前が悪い訳じゃない。つーか」

 

 背を向ける沙希のポニーテールの根元をくしゃっと撫でる。

 

「俺の方こそすまん。付き合いで飲まなきゃいけないことも……あるんだよな」

 

 怪訝そうな顔で振り向く沙希、その頬をぷにぷにと指で摘まむと、嫌そうな顔をして目を逸らした。

 それでもなお頬を突いていると観念したのか、なすがままになった。

 

「ごめんね、約束破っちゃって。怒ってる?」

「いや、ちょっとは怒ってるっていうか、心配したっていうか……」

「しん、ぱい……?」

 

 何故カタコトなのかね沙希くん。キミの酒癖は主に言語野に現れるのかね。

 

「心配して、くれたんだね……」

 

 呟いた途端、ほろほろと大粒の雫が沙希の頬を滑り落ちてきた。

 

「心配って、いいね」

「よかねえよ。どんだけ俺が焦ったか知らねえだろ」

「ううん。だって、その靴を見たらわかるよ」

 

 え。

 足元を見る。が、ただの革靴だ。

 

「あんたさ、運転する時に革靴なんて履いたことないのに……」

 

 そういえば、そうか。

 運転する時は足を動かし易いスニーカーばっかりだったな。

 つーかこいつ、そういう細かいとこ良く見てるよなぁ。

 

「今ね。すっごくしたい……んだけど、さ」

 

 ……は?

 あれあれ、もしかしたら沙希さんってアルコール入ると淫……げふん、大胆になるのでしょうか。

 

「キス、したいけど……だめだよね。あたしお酒飲んじゃったから、お酒臭いし」

 

 あー良かったー、なんだキスの話かよ。俺はてっきり……うん、エロくてごめん。

 しかし一緒にいた奴らの話だと、こいつ大して飲んでないんだよな。確かテキーラ入りのコーラをひと口、だっけ。

 酒の臭い……するのかな。

 

「──本当に酒臭いのか?」

「えっ……」

「本当に酒臭いなら、家に帰って怒られるかも知れないだろ。だから、その……確かめる必要が、ある、よな」

 

 確かめる必要、そう云った瞬間に沙希の目が潤み出した。もう、その「確かめ」が何を意味するのかはバレバレの様だ。

 

「そう、なの……かな」

 

 沙希の顔が近づいて、少し離れた。きっと呼気の匂いを気にしたのだろう。

 だけどな。

 逃げられると思うなよ。火をつけたのはそっちなんだからな。

 沙希の首の後ろにねじ込み、肘の内側をうなじの辺りに引っ掛けて引く。

 

「あんっ」

 

 うーん、何だろ。今日は思いの外強引だな、俺。

 ほとんどメーター振り切った状態で運転してたから、ちょっと神経が昂ぶっているのかも知れない。アドレナリンに打ちのめされてる感じだな。

 

「ああ、そうだ。そうに決まってる。つーか今、確かめることに決まった」

 

 沙希の首をロックしたまま、空いている手で顎の辺りをちょいちょいとくすぐる。

 

「ふふっ、何それっ」

 

 肩を竦めてくすぐったそうに身を捩る沙希をしばらく堪能した俺は、人差し指で顎の先をくんっと持ち上げる。

 

「──俺が確かめてやる」

「え、ちょ」

 

 顎に当てた指をそのまま口唇に這わせる。たったそれだけの行為で、沙希の身体は脱力感した。

 

「検査開始、な」

「だめだよ、道路なのに、車なのに、お酒、くさい、んむっ、のに……」

 

 沙希の言葉を聞き終えない内に、強引に沙希の口唇を覆うように口唇を合わせた。

 

 つーか路駐で路チューって、笑えないダジャレかよ。

 この後、チャリンコに乗って通りかかったお巡りさんに、こってり怒られましたとさ。

 ──主に俺がね。

 

 




お読み頂きまして本当にありがとうございます!
今回の話は、暇をみて書いていたらうっかり1万文字超えちゃいました。

で、1万文字費やしたこの話で何が言いたかったかと云うと……
酔ったサキサキって可愛いよねっ!
それと、颯爽と現れる八幡ってカッコいいよねっ!
てことですw
はい。完全に趣味に走った話でした(。-_-。)

亀更新ですがもうちょっと続きますので、こんなんで良かったら、次も読んでくださいまし☆







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