十月二十六日、土曜日。
十九歳の誕生日を迎えた沙希は、朝早くに俺のアパートを出た。今日は弟妹たちに祝ってもらえるとあってか沙希の足取りは軽く、心なしかそわそわしているように見えた。
道理だ。
何せ今日は、全ての料理を弟妹たちが用意するというのだから長女としては嬉しくもあり、心配にもなろう。
だが、沙希は知らない。
誕生日のサプライズはまだ終わっていないのだ。
* * *
沙希が都内のアパートを出て二時間後、俺は愛車カプチーノをかっ飛ばして、ひっそりと千葉の実家に戻っていた。
「おっかえりー、お兄ちゃん」
少しだけ髪と身長が伸びた妹、小町が出迎える。よく見ると髪や背丈以外にも成長というか、何だか体のラインが丸みを帯びてきたような。
太ったのかな。違いますね。
「おう、悪いな」
今回のサプライズは、全て俺の立案だ。
だが成功させるには多くの人々の協力が不可欠だった。その根回しは小町が請け負ってくれた。
「──会社、休んだのか」
リビングの奥のテーブルを覗くと、両親が眠たそうな顔でトーストを頬張っていた。つーか母親にいたってはほとんど寝ている。きっと今日の休みを得る為に昨日仕事を頑張り過ぎたのだろう。
つーか、休む必要は無かったんだけどね。定時に上がればサプライズには間に合うだろうし。
「そうなんだけどさ。こういう機会でも無いと有休使えないからって言ってた」
ほう、要は俺の頼み事に乗じて自分たちの骨休めをする算段か。まあ何にせよありがたい。
しかし、よくこの駄目な長男の頼みを聞いてくれたものだ。いや、この功績は小町の交渉術に依るものか。
「小町、ありがとな」
「ううん、お兄ちゃんの……お兄ちゃんと沙希お姉ちゃんの為だもん」
顔を綻ばせる小町の頭をさらりと撫でると、まるで愛猫カマクラのように目を細めた。
「親父たち、ごねなかったか?」
「ちょっとだけ大変だったかな。でも小町にかかれば両親の説得なんてちょろいものですよ」
どんな頼み方をしたのかは知らんけど、小町の頼みじゃあ断れないもんな。本当に愛されてるな、小町は。
「おし、じゃあ手筈通りに頼むな」
今回最大の功労者、小町の頭に再びぽんと手を置いてわしゃわしゃと撫でると、若干嫌がりつつも目を細める。
「ん、りょーかいですっ。頑張ってね、お兄ちゃん」
「おう、やるだけやってみるわ」
「うへぇ、頼りないなぁ」
「うるせぇ、ありがとよ」
* * *
昼過ぎ。あたしは家族に囲まれて家のリビングにいた。
「おたんじょうび、おめでとー」
あたしの誕生会は、京華の声で始まった。
目の前には、どうみても食べ切れない量の料理が並んでいる。ほとんどはスーパーで買った惣菜だったけど、大志や小さい子たちが一生懸命に用意してくれたのだからそれでも嬉しい。
「沙希、誕生日おめでとう」
普段着慣れないよそ行きのワンピースに身を包んだ母は柔らかな笑みを浮かべ、何故かスーツ姿の父はその横で目頭を押さえている。
なんだろ、この感じ。いつにも増して家族が温かい。
車座の中央に置かれたケーキ、立てられたローソクの火を吹き消すと父はついに泣き崩れた。
「あんなに甘えん坊だったお前が、こんなに立派に育って……」
幼い頃を語り出す父に幾許かの面映ゆさを覚えつつケーキを切り分けようとすると、大志に制止された。
「だめだよ、姉ちゃんは今日は働いちゃだめ。俺がやるから」
ナイフを手にした大志は、どこから切るべきか攻めあぐねている。結局は見かねた母がナイフを取ってケーキを切り分けた。
メインの料理は鍋物だった。
まあ、これなら簡単だし、寒くなってきた今の季節には丁度良いね。
「はい、さーちゃんっ」
食事の途中、京華が一枚の画用紙を持ってきた。見ると、人物らしきものが三人ほど描いてある。その後ろには……牛?
左のは、きっとあたしだ。真ん中にいる小さな子は京華だろう。じゃあ、右にいるのは、大志かな。
「ありがとうね、けーちゃん」
「うんっ、はーちゃんとなかよくね」
「え、じゃあ、この絵って」
「へへへ、さーちゃんとはーちゃんと、こうえんにお出かけしたときだよ」
──やられた。
これって、以前京華と八幡とで出掛けた時の絵だったのか。じゃあこの牛みたいなのは、あの時会った大きな犬かな。
胸がとくんと鳴る。
あの時のあたしは、あの夫婦にあたしの未来を重ねていた。
あたしと、八幡の、未来。
それがずうっと同じ道の上にあればいいな、なんて子供じみた想像を楽しんでいたっけ。
「あれぇ、どうしたの姉ちゃん。顔が赤いよ」
「う、うるさいっ」
見ると、母も顔を綻ばせて……もとい、ニヤニヤしてあたしを見ていた。父は少々お酒が回ったようで、おいおいと泣き出した。
「沙希……沙希が、嫁に……」
「まだ先の話でしょ」
泣きつかれた母が軽くあしらうと、父は目の前の唐揚げを頬張ってビールで流し込んだ。
今ではないけれど、そう遠くない将来。あたしは嫁ぐかもしれない。
そしたら、あたしはまたこんな父の姿を見るのだろうか。
ま、それも八幡があたしを貰ってくれたらの話だけどさ。
もしも、もしもその時がきたら。
父は、祝福してくれるだろうか。許してくれるだろうか。それとも八幡の胸ぐらを掴んで締め上げて怒鳴ってしまうのだろうか。
もしかしたら、今みたいに泣いたりして。
でもね、安心して。
きっと京華は、あたしなんかよりもずっと素直で良い子に育つから。
家事だってきっとあたしよりも上手になる。勉強だってきっと出来るようになる。
だから、泣かないでお父さん。あたしの為の涙は京華にとっておいてあげて。
* * *
夕方、未だお昼の誕生会の余韻が残るリビングに聞き覚えのある声が響いた。
「こんばんは〜」
この声は小町だ。きっとあいつが気を利かせて、あたしの誕生日を教えたのだろう。いや、もしかしたら大志かな。
出迎えるため立ち上がろうとすると、またもや大志に止められた。気遣いは嬉しいけど、やっぱり調子狂うよね。
「お誕生日、おめでとうございまーす」
リビングに響く声に顔を向ける。
花束を抱えた小町と……あと二人は誰?
スーツ姿の男性が頭を下げて挨拶の口上を述べる。その横の女性も同じように頭を下げている。
「本日はお招きに上がりまして、誠にありがとうございます。比企谷八幡の父です」
ということはその隣はあいつのお母様……え?
どういうこと?
「いえいえ、沙希の誕生日をこんなに大勢に祝ってもらえるなんて、こちらこそありがとうございます」
母が深々と頭を下げる。八幡の父と名乗った人物は、手にした包みを母に渡している……って、あれってなに!?
どういう、こと?
「はいっ、沙希さん。おめでとうございますっ」
小町が差し出した花束は、薔薇だ。かすみ草に周囲を飾られた深紅の薔薇は、見たところ二十本ほどある。
まさか。
悟られないように、目で薔薇の数を数える。
「──あれ」
もう一度数える。が、やはり十六本しかない。不思議に思って小町を見ると、ニヤニヤと笑っている。
「あらら、どうやら数が足りないようですね〜困ったなぁ、誰かもう一本ずつ薔薇を持ってきてくれないかなぁ」
あからさまに棒読みの、用意されたような台詞を並べる小町に、あたしの中の違和感が本日の最大値を記録する。
あれ?
なにこれ。
頭の処理がついていかない。
「はいっ、さーちゃん」
不意に横から京華が差し出したのは、一本の薔薇。その茎は、指を怪我をしないようにしっかりと棘を落としてある。
「はい、姉ちゃん」
反対側からもう一本の薔薇が差し出された。
「けーちゃん、大志……」
やばい。泣きそう。
二人に一本ずつ貰って、薔薇は十八本となる。
でもそれじゃ、あと一本は?
小町が持っているのかな。
その時、玄関ががたっと鳴った。
「遅くなって悪い小町、途中で薔薇が折れちまって急いで買いに行ったんだけど赤いの全部売り切れ……て、え?」
リビングの視線を一身に浴びたのは、ちらっと見えた疲れ顔。その顔の主は、あたしの手作りのジャケットを羽織っていた。
なんで。
なんであんたがここにいるの。
「あ、あんた……どうしてっ」
「ああ、招待されたから来ただけなんだが、来ちゃまずかったか」
「ううん、嬉しい、けど……」
あんた、昨日の夜あれだけサプライズしてくれたじゃないのさ。
今朝も部屋の外まで送ってくれて、いつもより優しくて。
すごく嬉しくて、幸せで。
なのにあんたは、またあたしに幸せをくれるっていうの?
目を丸くして八幡を見つめていると、バツの悪そうな顔でがしがしと頭を掻き始めた。
「悪いな。最後の一本、俺が持ってくるはずだったんだが……愛車のドアに噛みつかれてな」
「さすがごみぃちゃん、ツメの甘さは天下一品だねっ」
可愛い笑顔とは裏腹な毒を吐く小町に思わず苦笑する。兄妹って、家族って、やっぱりいいな。
「実はですね、足りない薔薇の最後の一本は愚兄の担当だったんですけど……残念な兄ですみません、沙希さん」
ぺこりと頭を下げる小町と、その横で苦いような酸っぱいような、微妙な顔で頭を下げる八幡。二人が頭を下げる度に、ぴょこんと立った癖っ毛が揺れる。
「……ううん、来てくれただけでいいよ、あたしは」
来る筈のない彼があたしの家に来てくれた。それ以上何を望むことがあるっていうのさ。
「だから、代わりにこれにした」
背後から八幡が差し出したのは、ブーケのように拵えた真っ白な薔薇の花束。
「数えてみてくれ。数はあってるはずだから」
もう薔薇の数なんでどうでもいいんだよ。十九歳の誕生日を、あんたに二回も祝ってもらえるなんて思いもしなかったんだから。
もう我慢出来ない。一瞬だけでも八幡と二人きりになりたい。
「──あんた、表に出な」
ぽかんとする八幡の手を引いて、玄関を出る。サンダル履きのあたしに対して、八幡はスニーカーを突っかけたままだ。
玄関先、八幡は白い薔薇の花束をぶら下げたまま俯いて目を泳がせる。
「え、えーと、不手際があったのは謝る。お前の誕生日に水を差してすまなかった」
あまりにも真面目に謝るものだから、つい可笑しくなって噴き出してしまった。そんなあたしを八幡はぽかんと見ていた。
──かわいい。男性に対して云うのは失礼かもしれないけれど、そう思ってしまった。
もう駄目だ。触れたい。
そっと八幡の頬に手を伸ばす。あたしの手が触れた瞬間、ぴくんと八幡の肩が上がる。
本当もう、可愛いんだから。
「あんた、あたしが怒ってるように見える?」
あたしの問い掛けにまじまじとあたしの顔を覗き込む八幡の目は、まるで少年のように澄んで見えた。
「……いや、怒ってる顔には見えねぇな」
「当然だよ。怒ってないからね」
怒るどころかあたしは、嬉しくて嬉しくて、もう八幡に抱きつきたくて堪らなかった。でも家族の前ではちょっと、ね。だから外に連れ出したのだ。
「あたし、あんたに幾つプレゼントもらえばいいのよ」
「はぁ?プレゼントはあの指輪一つだけだろ」
「違うの、あの時計も、指輪も、その花束も、サプライズも、あたしにとっては一つ一つが大切なプレゼントなのっ」
母さんごめん。少しだけ我儘で甘えん坊なあたしに戻らせてもらうよ。
玄関先だろうと夜だろうと近所に迷惑がかかろうと、もう構うものか。
あたしは今、こいつに気持ちをぶつけたいんだ。
一歩、前に出る。
「あたしね、あんたとずうっと一緒にいたい。あんたの気が変わらなければ、だけどさ」
八幡も一歩だけ近づく。
「そりゃ俺の台詞だ。可能な限り、捨てないでくれ」
もう一歩足を前に出すと、既にあたしは八幡の胸の中だった。今朝も堪能した筈の匂いが鼻孔を満たす。
「あいしてる、あいしてる、あいしてる」
ダメ。足りない。言葉じゃ足りない。
あたしは八幡に縋るように抱きつく。まだ足りない。
背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめる。八幡も同じようにしてくれるけど、やっぱり足りない。
もっと強く、強く。抱き締める両手に力を込めると、呼応した八幡もあたしの肋骨がひしゃげてしまうかと思うくらいに抱き締めてくれる。
息が苦しい。でも、それ以上に幸せが身体中を満たしてゆく。
ふと目が合った。
ほんの一瞬の、キス。
何度も交わした筈なのに。
何度も重ねた筈なのに。
その一瞬の口づけはあたしの心柱を蕩けさせた。
膝が折れる。足に力が入らない。崩れるあたしの身体は八幡に抱きしめられて支えられた。
「はぁ……今の、すごかった」
「……つーか、この状況の方がすげぇぞ」
ぽやぁとしながら八幡の視線を追う。
そこには、母、京華、大志、小町と比企谷家の両親の姿があった。
「ばっちり見られちまったな」
「あ、あ、あ……」
もうやだっ。
* * *
少し夜風に当たった後、八幡に支えられてリビングに戻ると、皆一様にニヤニヤしていた。父だけは号泣していたけど。
その隣では八幡のお父様が座って父にビールを注いでいる。
母は八幡のお母様と談笑し、京華は大志と小町に遊んでもらっている。
見たことのない景色。
だけれども、このまま時を紡いでいけばあり得る景色。
これは、未来予想図。
あたしにとって一番幸せな未来の姿。
家族がいて、家族が増えて、側には八幡がいてくれる。
もしかしたらこの光景も八幡からの誕生日プレゼントなのかな。
ううん。あたしにとっては、八幡に出会ったこと自体が人生で一番大きなプレゼントなのかもしれない。
だって、もしも出会わなければ。
あの時大志が小町に相談を持ちかけなければ。
あたしと比企谷八幡の接点は無かったかもしれない。
それはつまり、八幡の強さ、弱さ、優しさ、哀しみを知ることは出来なかったということ。
今のあたしにとっての最大の幸せは、隣に八幡がいてくれること。
今のあたしにとっての最大の不幸は、もっと早くに比企谷八幡に出会えなかったこと。
考えて、自分で可笑しくなる。
だってさ。あたし自身の幸せや不幸の筈なのに、その両方ともこいつが原因だなんて。
まったく笑える話だよ。高校一年生の頃のあたしに聞かせたら、きっと一笑に付すだろうね。
あたしは変わったな。
人を好きになることを学んで、人を愛することを覚えた。
だけどさ、こいつは。
こいつはきっと変わらない。
昔に比べると笑うようになったし、ふざけるようになった。真面目で暗い印象なんて、もうあたしは感じていない。
でも、きっとこいつの本質は変わらない。
だから。
あたしは、いつか八幡が傷付いた時の傷薬になろう。包帯になろう。副え木になろう。杖になろう。
きっとこいつは、いつかまた他人の為に自分を犠牲にして傷ついてしまうから。
だって、捻くれた風でいるけれど、八幡は底なしのお人好しだから。
本当は誰よりも「人」を信じたい人だから。
「なあ、沙希」
「ん?」
隣で呼び掛けてくれる八幡の肩に頭を預ける。
大志や小町がニヤニヤ見てたって、もう照れはしない。なんせもっと恥ずかしい姿を見られた後なのだ。
なんなら世界に向けて発信したいくらいだ。
あたしは、お姉ちゃんは、こんなに幸せなんだぞ、って。
きゅるるる。
隣で何かが鳴いた。
「俺、腹減ってるんだけどさ。なんか食っていいか?」
リビングから音が消えた。
しーん、ではなく、きーん。 そんな感じの沈黙。
大志は苦笑を浮かべ、小町は頭を抱えてしまった。母親たちは一拍の沈黙の後に愛想笑いを交わ出し、父親たちは酔い潰れて寝てしまっていた。
「はぁ、まったくあんたって」
「仕方ねえだろ。俺だって生きてりゃ腹も減るんだよ」
もう、台無しだよ。せっかく幸せな雰囲気に浸ってたのにさ。
あたしが立ち上がるのを制止しようとする大志を睨みつける。
いくらあんたでも、今日があたしの誕生日でも、こいつの給仕は誰にも任せられない。
あたしの小さな幸せを奪うんじゃないよ。
「あいよ、ごはんは大盛りにしとく?」
「ん、頼むわ」
炊飯器のあるキッチンで、御飯をよそいながら味見をする。
ん、ちょっと柔らかいかな。母ならこんな失敗はしないし、炊いたのは大志だね。この季節の米は新米だから水加減が難しいんだよね。
お父さんが使っている茶碗に御飯を山盛りにして、思わずにやける。
あたし達は、まだ大人の世界の入り口を覗いているだけの子供だ。
だから、一歩ずつ二人で進んでいけたら、いいな。
この景色が、いつか絆で結ばれるまで。
「……で、結納はまだ早いとして、婚約だけでもしときましょうか」
「そうですわね。でも本当によろしいんですの? 沙希さんはウチのぐうたら息子にはもったいないお嬢さんですけど」
「それがねお母さん、どうやら沙希が八幡くんにべた惚れのようでして……」
未来は、そう遠くはないのかもしれない。
あと、八幡にもらった白い薔薇が二十本あったのは、来年の今日まで言わずにおこう。
もしかしたら、これが「来年の誕生日も一緒に過ごそう」という八幡のメッセージなのかも知れないから。
来年は、二十一本の花を貰えるかもしれないから。
了
お読みいただきまして、本当にありがとうございます。
今回が「京葉ラブストーリー」の最終話となります。
千葉ラブストーリーの続編として書いてきた「京葉ラブストーリー」も、何とか最終話まで書き上げることが出来ました。
千葉ラブストーリーがドラマ仕立てだったのに対し、京葉ラブストーリーは純粋に沙希と八幡の関係を書いたつもりです。
なお、仕事や体調など、自分の都合で回収しきれない伏線が残ったまま終了となることをお詫び申し上げます。
戸塚の大学編入の話やその他の伏線の回収話は、またいつか書けたらいいなと思っております。
ここまでお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
一見さま、常連さま、格別のご贔屓を賜った方々、全てのお読み下さった読者さまに感謝です。
では、またいつか。必ず。