重たい鉛色をした雨雲は未だこの街の頭上に留まっている。
きっと学生の多くは、夏休みのスタートが雨だった事に湿度の高い溜息をついた事だろう。
ボクとゴミ太郎は、朝早くから花壇の前にいた。
雨滴が傘を打つ。
ひとけの無い校舎。
あるはずの青空を厚く覆い隠した雨雲。
灰色の風景。
ひっそりと主人を待つ花壇。
ボクの視界の中、ゴミ太郎に着せてあげた黄色の子供用雨カッパだけが鮮やかだった。
「ナッパさん来ないね」
「ケケ」
「風邪ひいちゃったのかな」
「ケケ」
「きっとそうかも。昨日、鍛え方が違うって言ってたけど、いくら鍛えてても風邪ひくときはひいちゃうからね」
「……ケケ」
「今頃、熱出してウンウン唸ってるかも」
「ケケェ……」
「お見舞いに行った方が良いかな。ああ、でも」
「ケケ……」
「ボク、ナッパさんがどこに住んでるか知らないや。友達なのに」
「ケケ」
「帰ろうか」
時計を見ないようにしようと思ったのは、正午のサイレンを聞いた辺りからだ。時計の針を見ていると、時間の流れが遅くなる気がした。それに、一瞬でも「ナッパさんまだかな」と思ってしまいそうでイヤだったから。
ずっと、ボクたちは花壇に視線をやっていた。
すっかり冷えた手で腕時計の針を確認すると、普段なら解散している時間を三十分ほどオーバーしている。
「帰ろう。ゴミ太郎」
ボクはまだナッパさんを待とうとするゴミ太郎の手を強引に引いた。
次の日も、その次の日も。またその次の日も。
雨雲が去って、夏らしい太陽が顔を出しても。
ボクたちは待っていたけれど。
ナッパさんは来なかった。
今日もナッパさんは来なかった。
毎朝、「今日こそは」と期待して登校するのだが、気持ちは日暮れと一緒に沈んでしまう。
「……帰ろうか」
つきたくないため息が言葉に混じる。日に日に落胆が濃度を上げているようにも思える。
と、砂利を踏む足音が聞こえた。
ナッパさんが来たのかと思って振り向いたが、すぐに違うと気づいた。足音は三人分聞こえたのだ。
それと――
「おい、ホントにいるのかよ」
「いたらどうすんだよ」
「どうもしねーよ」
忘れたくても忘れられない声がした。
「おっ、いたいた」
校舎の角から顔を出したのは不良のキュイくんと下っぱ二人だ。三人ともだらしない服装をしている。どうやら、いつも一緒にいると服のセンスまで似てくるらしい。そんなに衣装持ちでもないボクが言うのもなんだけど。
「げ。マジでいるし」
「こいつホント暇人なのな」
下卑た笑みを浮かべる三人組は、ズカズカと無遠慮に近づいてくる。
「……う、あ」
おろおろとしているウチに、ボクは取り囲まれてしまった。
正面、ポケットに両手を突っ込んだキュイくんが、下から見上げるように顔を近づける。
「ラディッツ。ヒマそうだな。遊ぼうぜ」
キュイくんは笑顔だ。
だが、いつかナッパさんが見せた笑顔とは違い、負の感情を滲ませたひどく不吉なものだった。
「なんだよ、コイツ。たったこれだけかよ」
下っぱの一人が、ボクの財布を逆さに振りながら言った。
「ラディッツがそんなに持ってる訳ねーだろ。おい、ラディッツ。後で、ATMダッシュな」
「ひっでー」
「はは、ホラ。ラディッツって絡まれやすいじゃん。怖い不良にカツアゲされないように、オレたちが預かってやんだよ」
「うそつけよ。お前、さっき「スロットの負け分回収ー」って言ってたじゃん」
「えー? 忘れたなあ」
人の財布取っておいて、好き勝手な事言ってるなあ……。
ボクはというと、すっかり地面と仲良くしていた。具体的には腹パンチとローキックを四発喰らって、うつ伏せで伸びていた。あ、アリさん。
ゴミ太郎も彼らの足元に仰向けに倒れている。時々、手足が動くので息はしているみたい。良かった。
と、キュイくんがボクの髪の毛を引っ張り、強引に首を上げさせた。ご丁寧に空いた左手で両頬を掴む。食いこむ指が痛い。強い握力に逆らえず、自然と口がOの字に開いてしまう。
「い、いひゃいよ……」
逃げないように、もう一人が、ボクの背中に乗った。
キュイくんが顔を近づける。
「おい、ラディッツ」
「ひゃに……」
「いつかみたいにナッパ来るの期待してても無駄だぞ」
「?」
「知らないのかよ」
ボクの頭上で、三人が笑った。
「アイツよー。隣町から来た奴に、ボッコボッコにされたんだぜ」
「そうそう。笑えるよな。超だっせ」
「今頃、病院で泣いてんじゃね? 「ぐやじーよお」って」
三人は腹を抱えて笑った。モノマネした一人が、調子に乗って続ける。
「オレは戦闘民族サイヤ人なんだぞー」
またも起きる笑い声。
「誇り高き戦士なんだぞー。ウッキー」
笑い声。
「ったくよお。裏庭で何してんのかと思ったら、コイツら二人してお花畑作ってんだぜ」
「うわ、キモ! 超キモいんですけど!」
「軟弱民族サイヤ人には、土いじりがお似合いじゃね?」
やめろ。笑うな。
ナッパさんを笑うな。
ナッパさんの夢を笑うな。
サイヤ人を笑うな。
ボクたちは――サイヤ人は。
誇り高き戦闘民族だ。
「おい。ラディッツ、その目はなんだよ?」
殺すぞ。
「どったの? キュイ」
「こいつよ、反抗的な目してやがった」
「なになに? じゃあ、おしおきが必要じゃね?」
ドン、と衝撃がして、目がチカチカした。
「――げぶ」
口の中が熱い。ヌルヌルして鉄の味がする。
「汚ねえな。血吐きやがった。靴汚れたじゃん」
「よっ、と」
今度は脇腹に衝撃、思わず身体がくの字に折れる。
追い打ちの爪先が内臓に突き刺さり、猛烈な吐き気がした。視界が霞む。
「動かなくなっちまった。飽きたし、もう殺してもいいんじゃね?」
「そーだな。虫と変わんねーよ、こいつら」
アッサリと倫理は踏み潰され、キュイの手に光が集まり出す。エネルギーボールだ。
アレを喰らうと、さすがに死ぬかな。冷たい奈落の底が垣間見えたその時だ。
「ケケーッ!」
「うわっ!? なんだ!?」
「ケケッケェーッ!!」
ゴミ太郎だ。跳ね起きたゴミ太郎が、キュイの背中に飛びついていた。
キュイはエネルギーボールの集束を中断し、ゴミ太郎を振り落とそうとする。ゴミ太郎も、必死に離れまいとしがみ付く。
「自爆する気だ!」
「クソ栽培マンが!」
下っぱの一人が、ゴミ太郎の後頭部を殴り付けた。たまらず、ゴミ太郎の手が緩む。
もう一人が、暴れるゴミ太郎を背中から引きはがすと、そのまま空に放り投げた。
「ケケー!」
「この野郎!」
キュイのエネルギーボールが放たれる。
光弾はゴミ太郎に命中し――重たい音がした。
「あ、あ、あ、あああ…………」
「へっ、汚い花火だぜ」
ボクの目の前に、ほんの一瞬前までゴミ太郎だった肉片がバラバラと落ちてくる。
「えうう……」
「栽培マンが一匹死んだくらいで泣いてやがる。やっぱ弱虫ラディッツだな」
違う。弱虫だから泣いているんじゃない。
体が痛いから泣いてるんじゃない。
悔しいから泣いているんだ。自分の無力さが哀しいんだ。
今まで、何度もこいつらに殴られた。いじめられた。
「やっぱよえー。サイヤ人よえー」
でも、これほどまでの屈辱を、悔しさを、怒りを感じたのは初めてだ。腸が煮えくり返る、って言うけれど、その表現は正しいと思う。それほどまでに、ボクの中で今までくすぶっていた何かが燃え始めていた。
「震えてんぞこいつ」
何かは怒りの薪をくべられて次第に熱量を増していく。
きっと、その何かとは、ボクにも遺伝子に宿っている戦闘民族としての本能だ。
闘う意志だ。
闘志は臨界まで昂り、ボクの中にある弱気な自分を灼熱の温度で焼き切った。
「ナッパも、見かけ倒しだったしな」
思えば、以前までのボクはすべてを諦めていた。
酷い状況を受け入れてしまっていたんだ。
「アイツ、ただのハゲだるまじゃん」
弱くて惨めな自分を否定する事さえなく。仕方ないんだ、って思いこもうとしていた。
そんなボクを変えてくれたのは――
『俺のダチだから』
ナッパさんがいたから。
ナッパさんの大きな背中が。大きな手が。顔全体で作る豪快な笑みが。
ボクがどこの誰かを気づかせてくれたんだ。
『ケケ』
ゴミ太郎がいたから。
ゴミ太郎の小さな背中が。繋いだ時の小さな手が。無邪気な声が。
ボクを孤独の闇から救ってくれたんだ。
「おい、こいつ」
ボクの手が、キュイの足首を掴んだ。
「離せよ!」
空いている方の足で顔を蹴られた。耐える。今、手を離しちゃいけない。
「この!」
他の二人も異変に気づいたのか、ボクの腰やら腹やらを蹴る力を強める。
それでも歯を食いしばってこらえる。今の今まで、ボクはこいつらのいじめに耐えてきたんだ。耐えられるはずだ。耐えられるに決まっている。
一瞬の隙をついて、ボクは転がって逃げた。
すぐに立ち上がる。
キュイたちは、驚いた目でボクを見ていた。
ボクは――
「ボクは」
いや、オレは――。
「オレは、戦闘民族サイヤ人だあーーーーっ!!」
怒りを起爆剤に、身体の奥底から力が溢れる。髪が逆立つ。
弾けた黄金色の闘気が、空気さえも怯ませる。
「な、なんだ……!? 金ピカに光ってやがる!」
うるさい。もう喋るな。
「なにが――ぶ」
キュイのセリフを遮るよう、渾身の力を込めたオレの拳が奴の顔面を捉える。
吹き飛ばされたキュイの体が校舎の壁を突き破った。
「や、やった!」
ガラガラと崩れる壁を眺めながら、思わず呟いていた。
生まれて初めて人を殴った。それも、キュイを。
ぶん殴ってやった。
「はっははは」
自然と笑い声がでる。本当に自分がやったのか信じられない。
多分、パンチ一発をクリーンヒットさせた事に満足してしまい、気が抜けてしまったのだろう。
ケンカ慣れしていないボクは、他にも倒さなければならない相手がいる事を束の間忘れてしまっていた。
「……一瞬だけ光ってすぐに元に戻ったぞ」
「ああ。なんだったんだ。おい、キュイ大丈夫か」
半分瓦礫と化した校舎の中から、キュイが歩いてくる。
「大丈夫なわけねえだろ。学校の反対側まで吹っ飛ばされたぞ。……ああクソ。こんなにナメられたのは生まれて初めてだ。怒りでどうにかなっちまいそうだ」
鼻が潰れたキュイは口調こそ静かだったが、表情は怒り狂った修羅そのものだ。
「ラディッツ。お前、生きて帰れると思うなよ」
こ、怖い! でも、もう謝っても遅いよね!
ボクは両拳を胸の高さまで上げた。それは闘う意志こそ有るものの、見るからに弱っちそうなファイティングポーズだったと思う。
三人がボクを囲む。ニヤニヤ笑いながらの一度目とは違い、今度は真剣な目をしている。
と、声が聞こえた。
「ラディッツ!」
幻聴かと思った。
「ラディッツ!」
ナッパさんだ。ナッパさんが来てくれた。
ボクたちの視線がナッパさんに集まる。
ボクが呆然としたのと、キュイたちが吹き出すのは同時だった。
「……ナッパさん……」
「なんだよナッパ。病院抜け出してわざわざ怪我増やしに来たのか?」
ナッパさんはキュイの言葉どおり、今まさに病院から脱走して駆けつけて来ました、という風情だ。ローブ状の病院服に身体のアチコチ包帯巻で、おまけに右手と左足を石膏で固めていた。点滴のチューブをぶら下げたままの左手は松葉杖をついている。
やっぱり、こないだ隣町の不良にボコボコにされた、っていうのは本当だったんだ……。
「わりい、ラディッツ。遅刻した。さっきまで意識不明でよ」
「ううん、いいよ」
あんなに大ケガをしているのに、来てくれた事が嬉しくて、ボクはまた泣きそうになった。やっぱりボクは『弱虫ラディッツ』だ。
「これは……」
肩で息をするナッパさんは花壇周りの惨状とバラバラになったゴミ太郎を見つけて、怒りを露わにした。
「許さんぞキサマら」
瞬時に赤く染まったスキンヘッドに血管が浮き上がり、ぶっとい眉毛が吊り上がる。
「おいおい。その怪我でやろうってのかよ? それにナッパ。お前が見かけ倒しだった、ってのはもう割れてんだぞ」
からかいを含んだキュイの言葉に、
「ふん!」
石膏を粉々に砕いてナッパさんは応えた。え? あの? ナッパさん骨折してますよね……?
「これくらい、ちょうど良いハンデだ。行くぞラディッツ!」
「う、うん!」
ボクとナッパさんはキュイら不良グループに跳びかかった。