魔法大戦リリカルなのはWizardS   作:かぜのこ

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#12

 

 

 

 とある病院、とある病室。

 大きく開け放たれた窓からうららかな日差しが差し込む。

 都心部の方では、重機の駆動音がひっきりなしに騒々しい演奏を続けていた。

 数日前、魔王と冥魔が無遠慮に繰り広げた激戦の跡は深く。後始末が終わるには、まだまだ時間がかかりそうだ。

 倒壊による保障だの都市部の再建計画だのと山積する問題に、担当者たちは今頃てんてこ舞いをしていることだろう。

 ――とはいえ、ここはそんな雑事とは全く持って無縁で。穏やかな雰囲気に包まれていた。

 

「…………」

 

 この病室を間借りしている少年はリクライニングしたベッドにもたれかかり、のんびりと読書をしている。

 

「すぅ……すぅ……むにゃむにゃ……」

 

 その隣、丸イスに座った少女がうつらうつらと船をこいでいた。

 肩の重荷がまとめて降り、顔色もいくらかよくなったとはいえ、疲れを癒すには時間が足りない――ココロも、カラダも。

 その辺りの機微を理解しているのだろう。少年は居眠りを咎めることはせず、分厚い年代物の学術書の字列をぼんやりと眺めては時間を潰していた。

 わずかに感じた人の気配に、彼の視線が上がる。

 近づく二組の足音。

 ピタリと足音が部屋の前で止まり、ノックが四回。その物音に、ほとんど寝入っていた少女――なのはがビクッと飛び起きた。いそいそと身嗜みを直している。

 

「どうぞ」

 

 内心では待ちきれなかったらしい少年――ユーノが満面の笑みを隠すことなく返事を返すと、引き戸が静かに開く。

 はたして、入室したのは二人。黒髪の少年と金髪の少女だ。

 腕にブルーのラインが二本入った黒革のライダースジャケットに、クリーム色のカーゴパンツの少年と、パリッとノリの利いた黒い上下のスーツ――執務官制服姿の少女。カジュアル、フォーマルと対象的な装いではあったが、ちぐはぐというわけではなく。むしろ自然体な印象を振り撒いていた。

 包み隠さずにいえば、とてもお似合いのカップルであった。

 

「おっす、ユーノになのは。元気してたか?」

「おかげさまでね」

「いらっしゃい、フェイトちゃん、攸夜くん」

 

 左手を軽く上げて爽やかに挨拶する黒髪の少年――攸夜に、ユーノとなのはがつられて破顔した。

 あのころと、何一つ変わりのない幼なじみたちのやり取りを見守る金髪の少女――フェイトは、彼らに負けないほどきれいな、幸福に満ちた笑顔を咲かせていた。

 

「さ、二人とも座ってよ」

「ああ」

「うん」

 

 ベッドサイドに並んで座るフェイトとなのは。二脚しかない席を譲った攸夜は立ったまま近くの壁に身体を預けている。

 ちなみに、はやては一連の事件の残務処理に忙殺されているため不在だ。「この薄情者ーっ!!」と彼女の負け惜しみ。

 

「これ、おみまいだよ」

「ありがと、フェイトちゃん」

 

 フェイトがなのはに持参した色とりどりの果物が入ったバスケットを手渡す。

 みかんにリンゴ、梨にバナナ、そして何より、竹製のカゴの中でも一番目を引く()()に、なのはが目をまんまるに見開いた。

 

「わっ、メロンおっきい! これ、高かったんじゃない?」

「さすが喫茶店の娘、お目が高い。お見舞いといえばメロンだろう、ということでなるだけ高価なの買ってきた。感謝しろよな、ん?」

 

 大袈裟に抜かし、ニヤリと笑ってみせる攸夜。ユーノが呆れ混じりに苦笑する。

 

「恩着せがましいね」

「恩着せてるんだよ」

「ひどい言いようだ、横暴だ」

「いいんだよ、ユーノなんだから」

「僕ってそんな扱い?」

「最初からだろ」

「……そうだね」

「フェレットに生まれた不幸を呪え」

「生まれてないし! 不幸って何さ!」

 

 軽快なテンポで続く軽口の応酬。

 気心の知れた彼ららしいやり取りに、フェイトとなのはが愉快そうに顔を見合わせた。

 

「あ、リンゴ、私がむくね」

 

 カゴから真っ赤なリンゴを手に取ったフェイトに攸夜が訝しげな表情をした。とても訝しげだ。

 

「……皮、剥けるのか? 無理なら俺がやるけど」

「そ、それくらいできるよっ。もう子どもじゃないんだから」

「そうだよ。フェイトちゃん、家庭科の成績いいもんね」

「……」

 

 不自然な沈黙。攸夜は訝しげに目を細めている。

 そんなあからさまな態度にフェイトが気分を害して、ジト目を送った。

 

「むっ……ユーヤ、信じてないでしょう?」

「ははは、まさか。そんなことないですよフェイトさん」

「攸夜くんがそういうしゃべり方するときって、だいたい相手をバカにしてるんだよね」

 

 何気に一番つき合いの長い少女からの、核心を突く指摘。無言でついーっと視線をそらしたのがいい証拠で。

 報復としてフェイトの「ほっぺぐにーっ」の刑が発動した。

 

 他愛のない雑談が続く。

 年頃の少年少女らしい――なんてことはないごく普通の会話はしかし、どこかよそよそしい。

 それはきっと、皆が腫れ物に触るように話題を選んでいたから。彼らは自分たちの関係に亀裂を入れかねない大きな問題を意識無意識に関わらず、棚上げしていた。

 

(……うーむ、参ったな)

 

 にこやかに会話する内側で、攸夜は困り果てていた。 

 何気なく視線を動かす。ベッドに備え付けられたテーブルに置かれた皿には、フェイトの手でウサギの形に切りそろえられたリンゴが数個。それを無造作に摘み、口の中に放り込んだ。

 シャキシャキとした歯ごたえと甘い蜜の味を楽しみつつ考える。この濁った空気をどうしたものか、と。

 無論、自分が原因なのは重々承知している。してはいるのだが、病室に充満した微妙な空気に胸中で苛々を募らせていた彼は、リンゴを飲み込むと意を決して話題を投じた。

 

「……で、退院はいつなんだ?」

「うん、数日中には退院できるって。仕事がたまってるだろうからちょっと億劫だけどね。ここ、居心地もいいし」

 

 茶化したような言葉の中に気遣いを感じ、なのはが堪えるように俯いしまう。

 ネガティブな感情を気丈に抑えてはいるものの、この場にそれがわからないものなどいない。現にフェイトはあわあわと動揺して落ち着かないし、攸夜は見通しが甘すぎたことを悟って気まずそうに左手で顔を覆うのだった。

 ふう、とユーノが大きく息を吐く。

 

「……ユウヤ、ちょっとこっち来て」

「うん? 急になんでさ」

「いいから」

 

 いつになく強引なユーノに首を捻りつつ近づく攸夜の目に飛び込んできたのは、翠緑色の魔力光を纏った拳。コークスクリュー気味の一撃が見事に顔面へとクリーンヒットした。

 ぐしゃあっ、とトマトが潰れたような音を立て、攸夜が錐揉み回転しながら盛大に吹っ飛ぶ。備えつけのキャビネットを巻き込んで。

 三重の攻勢障壁を乗せていたとはいえ、人ひとりを殴り飛ばすその威力は上体の捻りだけで繰り出された――それも病み上がりの――ものとは到底思えない。

 

「ユーノくん!?」

「ユーヤっ!」

 

 なのはとフェイトの悲鳴じみた声。

 それをあえて黙殺し、ユーノはベッドから降りると冷たい刺すような視線で、壁にもたれかかる“親友”を見下ろしていた。

 なお、彼はそれとなく拳をさすっている。思いっきり殴ったので痛いのだろう。

 

「ッてぇ……、病み上がりの癖に、いい打撃を持ってるじゃないか」

 

 口の中を切ったのか、口角から垂れた血を攸夜は乱暴に拭い、攸夜が嘯く。「ユーヤ、だいじょうぶ?」と近寄るフェイトには目もくれず、唇を獰猛に吊り上げて“親友”を睨み返した。

 しかし、その蒼い瞳に浮かんでいたのは敵意ではなく喜悦。自分に、殴られる謂れがあるとわかっていたからだ。

 少女二人は剣呑な空気を感じ取り、ハラハラと視線を行ったり来たりさせるのみ。男どもは睨み合ったまま動かない。

 ふと、ユーノの表情が緩む。

 

「みんなに黙っていなくなったこととか、なのはとフェイトに嫌な思いをさせたこととか……いろいろ言いたいことは山ほどあるけど、僕の分は今ので勘弁しておいてあげるよ」

 

 おどけたように締めくくられた言葉に、剣呑とした雰囲気が霧散して。

 誰かがホッと安堵のため息を吐く。

 自分が重傷を負う羽目になった遠因だというのに、ユーノはそれに触れようとしなかった。器が大きいからなのか、単にお人好しなだけなのか、攸夜には判別がつかなかった。あるいはその両方なのかもしれない。

 

「……悪い」

「心から反省した?」

「猛省してる。今回ばかりは、な」

「そう、それはよかった」

 

 珍しく素直に謝罪する攸夜の反応に満足したのか、ユーノの表情はいつもの穏和で理知的なものに戻した。

 少しずれた眼鏡を直しつつ、得意そうに手を差し出して口を開く。

 

「それじゃあ、ユウヤ……おかえり」

「! ――ああ、ただいま」

 

 差し出された手をがっちり握り、二人は堅く握手した。

 攸夜はにこやかなまま何気にグッと手に力を入れて、殴られたお返し。何気に器が小さい。

 そしてユーノも、それに対抗したかのように力を込め始める。もちろんこちらも攸夜に負けず劣らずにこやかなままで、だ。

 妙なところで体育会系な二人だった。

 そんな暗闘のことなど知る由もないなのはは、日だまりのようににっこりと相好を崩し「よかったね」と親友に呼びかける。

 

「……」

 

 だが、当のフェイトは浮かない顔で、じっと二人を見つめていた。

 

「……フェイトちゃん?」

「え? あっ、と……なんでもないよ、なのは」

 

 不自然に笑って取り繕う親友の様子を不審に思い、なのはが追求の言葉を紡ごうとした矢先――

 

「はーい、検診のお時間でーっす」

 

 やる気の微塵も感じられない、間延びした声が遮った。

 現れたのは、妖しい笑みを浮かべた銀髪の看護師さん。凹凸(おうとつ)の慎ましやかな胸元にぶら下がるネームプレートには、「涼風 鈴」とご丁寧にも日本語で記されていた。

 

「えっ……なあっ!?」

 

 あり得ない存在――なのはが瞠目した目を白黒させ、文字通りフリーズ。ユーノは何気に落ち着いていて、不意の乱入者の正体に気がついたフェイトが狼狽気味にバルディッシュを展開させようとするが、攸夜に手で制された。

 

「……お前、こんなところで何してんの?」

「何って、ナースのおしごと?」

「質問に質問で返すのはよくないな、鈴子クン」

「鈴香、じゃなくて鈴です。――って、なんであんたがこのネタ知ってんのよ」

「ご本人から直接聞いたんだよ、鈴木クン」

「鈴です! ……もういいわ」

 

 攸夜とコントじみたやり取りをするキュートな看護師さんの正体はもちろん、“蠅の女王”ベール=ゼファー。

 廃棄都市地区の決戦でなのはに討たれたはずの彼女だが、そんな様子は欠片も残さず、コスプレなんぞをしくさっていた。

 

「ど、どどどどど、どうしてあなたがここにいるのーーっ!?」

 

 何とか再起動を果たしたなのはが、たまらず悲鳴を上げる。

 盛大に吃るのも無理はない。渾身捨て身の一撃をぶち込み、消え去るところまで嫌らしく見せつけられたというのに、こんなにピンピンされていては彼女の立つ瀬がない。乙女の涙を返せっ!である。

 

「デカい声出してんじゃないの、鬱陶しいったらないわ」

 

 耳障りだと眉をひそめるベル。ナチュラルウェーブな銀髪を指先で絡めるように梳いて、妖艶に嘲笑った。

 

「もしかしてあんた、あれしきのことであたしを殺したとでも思ってたの?」

「ううっ……」

 

 ストレートな物言いに鼻白むなのはは若干涙目だ。あの一戦がほとんどトラウマになっていた。

 銀髪の魔王に抜き身の刃のような刺々しい視線を送りつけ、威嚇するフェイトをなだめていた攸夜は、「コイツのスタミナは非常識も甚だしいからなぁ」としみじみ感想を漏らした。

 さすがに収拾がつかなくなってきたので諫める。

 

「おい、ベル。あんまりなのはを虐めるなよ」

「イジメてなんてないわ。あたしは挨拶にきただけよ、挨拶に」

 

 挨拶? 首を傾げる一同。攸夜以外は皆、困惑気味だった。

 

「そ。あたし、時々こっちに“遊び”に来ることにしたから」

 

 ほんと? とフェイトが視線で問いかけると、攸夜はまあな、と呆れ顔をして視線だけで返答する。

 茫然自失のなのはをチラリと見やったベルは、「ま、そういうわけだから――」とイイ笑顔で、勿体ぶった間を取って。

 

「コンゴトモヨロシク」

 

 笑顔を思い切り引きつらせたなのはと、不愉快さを隠そうともしないフェイト。そんな二人の姿に今後の波乱を連想した攸夜とユーノは、揃ってため息をこぼすのだった。

 

 

   *  *  *

 

 

 第97管理外世界“地球”。

 極東日本、海鳴市のとある空き地、時刻は夜の帳が下りる頃。

 封時結界により隔離・封鎖されたその場所には、蒼銀の光が充満していた。

 蒼白い燐光を静かに巻き上げる光の坩堝――七芒星を抱いた巨大な魔法陣を、囲むように張り巡らされた正四角形のライン。各頂点に、同型約二倍の大きさの魔法陣が配置されているそれは、有り体に言えば“ゲート”。因果地平の彼方に隔絶されたこの世界と主八界とを繋ぐ門だ。

 

「――――」

 

 その複雑怪奇な術式をコントロールすべく、攸夜は瞳を閉じて一心に精神を集中させている。

 彼からやや離れてフェイト、はやてとその一家、そしてエリスらウィザードが勢ぞろいして、固唾を飲んで見守っていた。

 ――混沌の災厄は一時とはいえ去り行き、魔法使いたちの帰還の時は直ぐそこまで迫っている。

 

「――……ふーっ、よし。こっちはいつでも行けるぞ」

 

 エリスたちが主八界に帰還するためのゲートの構築に専念していた攸夜は、軽く息を吐き、ゆっくりと瞼を開く。額には、玉のような汗が浮かんでいた。

 並列宇宙、次元宇宙間の移動程度ならばお手のものである彼だが、(えん)(ゆかり)もない完全な平行世界間ともなれば話は別だ。

 地球と各天体の位置関係、月の満ち欠け、時刻などに細心の注意を払い。そして、複雑極まりない術式の構築にも莫大な魔力と“プラーナ”、そして現地の霊魂や霊脈(レイライン)などを微細に調節して初めて成せる大魔法だった。

 攸夜は今のところ、“自分と極めて近しい因果を持つ世界”にしか干渉出来ない。この先もそうなのかは彼の成長次第、と言ったところだろう。

 なお、エリスたちがこちらに辿り着けた件に関しては、開きっぱなしの“路”を観測が容易なように配慮されていたからである。

 

「どうもありがとう」

「ただのアフターサービスだ。気にするな、俺は気にしない」

 

 行儀よくぺこりと礼をするエリスと、つっけんどんに素気なく返す攸夜。この二人、つくづく相性が悪いらしい。

 

 エリスたちウィザード一行はクラナガンでの決戦の後、すぐさまとんぼ返り、というわけにはいかなかった。

 皆、街中を駆けずり回って疲労困憊であったし、何よりも上記の通りゲートを開くにはそれなりの準備が必要で。その間、悠々閑々とクラナガン観光に洒落込んだりしていたのは全くの余談だ。

 エリスと翠がおみやげの買い物中に銀行強盗に遭遇したり、灯と命がしれっとデートしていたり、スルガがテスラとばったり出会ったり――そんな、ちょっとしたドラマが生まれたことは、また別のお話である。

 

 態度の悪さに怒ったフェイトに「めっ!」と叱られてる攸夜を後目に、エリスははやてたちに向き直った。

 

「はやてさん、いろいろとありがとうございました。はやてさんに会えなかったら私、どうなっていたことか……」

「そんなんええて。私らもずいぶん助けられたしな、お互い様や」

 

 なあ?とはやてが振り向いて、自らの家族に同意を求めた。

 

「ええ、今回の勝利は我々の力だけで成したものではありませんから」

「エリスのハンバーグ、ウマかったしな~、あとマドレーヌ!」

 

 静かに佇むシグナムと、両手を首の後ろで組んだヴィータがそれぞれらしく同調する。

 

「エリスちゃん、元気でね……ぐすっ」

「帰っても、エルフィたちのこと忘れないでくださいねっ」

「……よき旅を」

 

 シャマル、リインフォース姉妹がそれぞれ感謝の言葉を贈る。シャマルなど感極まって涙ぐんでたり。

 最後に子犬モードのザフィーラが、ワン!と一鳴きして締めくくった。

 場の空気がしんみりと沈んだ。誰もが別れの時が迫っていることを肌で感じていた。

 

「そろそろ行きましょう、エリス」

「……うん」

 

 灯が促す。名残惜しそうな表情を見せて、エリスは仲間たちの元に――魔法陣の上に歩み寄っていった。

 いつまでもここに居るわけにはいかない。少しの間だが、ファー・ジ・アースを離れていたのだ。優秀なウィザードたちがたくさん残っているとはいえ、襲い来る災禍は数知れず。人手は幾らあっても足りることはない。

 それに、なんといっても彼女たちは“異邦人”なのだから。

 ――――魔法使い(ウィザード)の出逢いは一期一会。出会いと別れを繰り返して皆、前に進んでいる。エリスが尊敬してやまない“先輩”たちもそうだった。

 だから、迷いは要らない。躊躇いは要らない。

 魔法陣に一歩手前で立ち止まり、エリスが振り向いた。曇り一つない笑顔で。

 

「これでお別れ、ですけど……さよならは、言いません」

 

 因果の壁に阻まれたふたつの“世界”は、完全に独立している。住むべき場所が違うのだ。時間の流れる速さだって違うかもしれない。

 けれど、繋がりはきっと消えない。絆は絶対になくならない。

 ――この出逢いはほんとうに、奇跡だったから。

 

「また、いつか。はやてさん、お元気で」

「うん。エリスさんも、身体に気ぃつけてな。あんまり無茶したらあかんで?」

 

 にこりと感謝の微笑み。

 巨大な魔法陣が起動を始め、赫耀と光り輝く。間欠泉のごとく立ち上がる蒼銀のベールが魔法使いたちの姿を覆い隠した。

 そんな中、はやてに送っていた視線を攸夜へと移すエリス。「えっと……」言いづらそうに、語尾が濁る。

 

「何だよ」

 

 相変わらずブスッと愛想のない仏頂面で攸夜が応じた。言外に早く帰れ、と言わんばかりに。

 取り付く島のない様子に少し迷った後、すっーっと軽く深呼吸して、エリスは二の句を告げる。

 

「今回は、あなたの思い通りになっちゃいましたけど――」

 

 最初から最後まで、この自称魔王の思惑に振り回されてばかりだった。

 しかし、それも仕方のないこと。“ここ”は彼の故郷。彼の居場所なのだ。

 大切な場所を救うため、必死になっていたのだろう。

 通りすがりのエリスたちとは立場が違う。

 だが――――

 

「でも、向こう(ファー・ジ・アース)ではそうはいきません。今度は、私もウィザードとしてお相手します。負けませんから、あなたには」

「……そうかい」

 

 挑戦的な宣言に対し、鷹揚に答える攸夜。だが、どこか稚気を感じさせる雰囲気は楽しげで。

 エリスはなんとなく、このひどく天の邪鬼な――その実、どこかお人好しな魔王の本当の姿を垣間見た気がして、くすりと小さく笑みをこぼした。

 煌々とその光量を増していく目映い光の中。五人の姿が漂白されていく。

 

「あっ、そうだ」

 

 そんな中、エリスは何を思ったのか声を上げた。

 怪訝な顔の攸夜に向けて、彼女が心に残った“忘れ物”を言葉にして紡ぐ。

 

「フェイトさんのこと、たいせつにしなきゃだめだよ、攸夜君?」

「んなっ!?」

 

 お姉さんぶったセリフに攸夜は瞠目し、大いに動揺する。

 柔らかい、春先の陽の光にも似た眼差しの先に“母”の面影が重なって。一矢報いてしてやったりな表情は、赫々たる蒼銀の輝きに溶けていった。

 

 

   *  *  *

 

 

 雲一つない青空が晴れ渡る。

 大海原に面する街には穏やかな海風に乗った潮の香りがわずかに漂う。

 

 聖祥大附属中学校、校門前。

 放課後とあって、帰路に就く女生徒たちでごった返していた。

 

「なるほど。やっぱりそういう条件を出してきたか。向こうさんも随分と足元見てくれるね、どうも……」

 

 そんな中に、場違いな男が一人。

 癖が強くて少し長い――ありのままに言えばボサボサな黒髪を微風に流す少年が、外壁に背を預けて電話をかけている。

 服装は青い無地のTシャツの上に黒の半袖のドレスシャツを羽織り、下はクリーム色のカーゴパンツに黒と赤の太いベルト。ポケットに軽く日焼けした浅黒い片腕を突っ込み、何ぞ悪巧みを企んだシニカルな表情を張りつけた姿は様になっていた。

 同年代の男子が紛れ込んでいるのが物珍しいのか、それともどこか浮き世離れした独特の佇まいが目を惹くのか――道行く生徒たちがチラチラ横目で窺っている。

 

「……ああ、それで構わないよ、アニー。愚か者への制裁はスマートに、な」

 

 そんな雑音をまるっと無視する少年が耳を傾けているのは、シアンブルーの携帯電話――とある特殊機能を搭載した0-Phonの最新モデルだ。

 その滄海の瞳によく似た色の折り畳み式の携帯には、黒いワンピースを着た黄色いたれ耳の犬のマスコットがぶら下がっている。年季の入った、しかし丁寧に扱われていることが一目でわかる人形が、ぶらぶらと楽しそうに揺れていた。

 

「それと、引き続き議会工作と情報操作を遂行するよう“詐術長官”と“告発者”へ伝えておいてくれ。くれぐれも暴走させないようにね」

 

 了承の返答がスピーカーから聞こえると、ぱちんと手慣れた手つきで携帯を畳む。それを持った手ごとポケットに突っ込んで、少年は空を仰ぎ見た。

 青い絵の具を薄めずそのまま塗りたくったように鮮やかな蒼空――彼の好きな、この惑星(ほし)の色だ。

 

 ――紅い夜空も悪くないけど、やっぱりソラは青じゃなきゃな。

 

 澄み渡る大空をぼんやりとしばらくの間眺め、感傷に浸っていた少年が不意に視線を落とす。

 彼の視線の先、校舎と校門とを繋ぐコンクリート敷きの通路を歩く、ひときわ人目を引く少女たちの一団。どうやら待ち人がやってきたようだ。

 

「あっ、ユーヤーーっ!」

 

 大きく手を振って、ブラウンのブレザーを身に着けた少女が一目散に駆け寄ってくる。その端整な顔立ちは、屈託のない笑みで彩られていた。

 ぶんぶんと、先に付いた黒のリボンをはちきれんばかりに振り乱す黄金色(こがねいろ)の髪はまるで、動物のしっぽのようだ。

 あれじゃ子犬だな、と頬をほころばせた少年に評された彼女は、突進の勢いをそのままに、飛びかかるようにして彼の首根っこに抱きついた。

 それを半ば予想していた少年は難なく受け留め、自分を中心に少女の華奢な身体をぐるぐると振り回し、突撃の勢いを逃がす。二周半ほどぐるぐるを楽しんだあと、すとんと着地。

 

「っと、ずいぶんと熱烈なアプローチだね。どうした、学校で何かあった?」

「ごめんね……ただ、その、ユーヤと逢えなくて、寂しかったから」

 

 腕の中で、上目遣いで寂しさを訴える金色わんこ。まさに小動物っぽいその仕草は凄まじいほど愛らしく、少年の庇護欲と所有欲を大いにかき立てる。彼の好みは戦場での勇敢で凛とした姿であったが、甘えられるのが嫌いなわけではない。むしろとてもすごく好きだ。

 思わず抱きしめたくなった少年が行動に移るのを、耳に残る特徴的な声が制した。

 

「それどこの往年のアメリカンなドラマよ? ていうか、公衆の往来でベタベタしてるんじゃないわよっ!」

 

 つり目がちな金髪美少女が肩を怒らして辛辣にツッコむ。若干頬が紅いのは、二人のラブラブっぷりに当てられたのだろう。

「まあまあ、アリサちゃん」と隣の和風美少女がなだめすかすが、憤懣やるかたない様子は変わらない。

 

「だ、だって寂しかったんだもん……」

 

 しゅんと恥入りながら少女が言い訳を口にした。依然として少年に引っ付いたままでは説得力は皆無だ。

 

「「だって寂しかったんだもん」やないで、まったく。たった半日、授業の間だけやんか」

「すっごくそわそわしてたけど、ちゃんと先生のお話聞いてた?」

 

 さらに幼なじみたちから次々と畳みかけられて。少女はいたたまれなくなったのか、目に見えて小さくなる。

 ゴシップ好きな年頃の娘さんたちも好奇を眼差しに湛えて、遠巻きに集まりだし――ざわざわと騒がしい。

 その視線に気づき、あー、とかうー、とか唸る少年。自分たちが置かれた状況にようやく思い当たり、決まりが悪そうにボサボサの髪を手荒くかき乱した。

 

「――行くぞ、フェイト!」

「え、あっ、ちょっ! ま、待ってよ、ユーヤっ!」

 

 少女の手を取り、脱兎のごとく駆け出した。文句の付け所のない、華麗な三十六計である。

 残された彼らの友人たちや野次馬はただ唖然として、二人の逃避行を見送るだけ。

 

「……逃げちゃった」「ええ、逃げたわね」「いい逃げっぷりだったねー」「さすがやな。逃げ足に迷いがない」

 

 いち早く再起動を果たした幼なじみが口々に感想をもらす。

 呆れ果てた、だがとても優しい表情で遠ざかっていく恋人たちを見守っていたのだった。

 

 

   *  *  *

 

 

 海辺の街を連れ立ってひた走る少年少女。息を弾ませ、指を絡ませ、互い手のひらの温もりを頼りに。

 等間隔で並ぶ街路樹を軽やかに抜き去って、驚き振り返る通行人に鮮やかに追い抜いて。

 蒼瞳の少年と金髪の少女が連れ添って、海鳴の街を風のように駆け抜ける。

 自分の手を引いてリードする攸夜の大きな背中を熱心に見つめながら、フェイトは例えようもない幸福感を感じていた。彼と一緒にいられることが、触れ合える現実(リアル)が何よりもうれしくて、しあわせで――フェイトが求めてやまなかった“日常”が、ここにあった。

 だがそれと引き替えに、この上ない幸福を喪失する恐怖が心の底から浮かび上がってくる。深く刻まれた傷痕を塞いだかさぶたがじくじくと疼く。

 再び、いや“三度”失えば、今度こそ彼女のココロは壊れてしまうだろう。

 そうした不吉なイメージに抗って、繋いだ手に力を込めれば。響くように、繋いだ手が握り返される。それだけでフェイトのココロは満ちていく。幸福という甘い気持ちで。

 節くれ立った大きな手から伝わる温度は少し低い。手が冷たい人は心優しい、なんて言葉が脳裏を過ぎり、彼女の表情は自然と和らいだ。

 それからしばらくして、道ばたにぽつんと設置された木製のベンチに座るフェイトと攸夜の姿があった。

 思いっきり走り通したふたりは、息も絶え絶えだ。

 

「――く、あははっ」

 

 だらりと脱力し、上体を背もたれに預けていた攸夜が堪えきれないように吹き出して、くつくつと馬鹿みたいに笑う。何がおかしいのか、からからと尽きることなく。

 

「ふふ、ふふふっ」

 

 一瞬ぎょっとしたフェイトも、晴れ晴れとした声につられてころころと笑みをこぼす。

 純粋な笑顔が、楽しげな声が弾けた。

 走りに走って切らした息も。

 うるさいくらいに脈打つ鼓動も。

 全身に感じる心地好い虚脱感も、愉快で仕方がなかった。

 晴れやかに、さわやかに――――青空が広がっていた。

 

 

 ようやく落ち着いて話が出来る状態になった二人はベンチに座り、これからのことを話し合う。相変わらず、手は恋人繋ぎのままだった。

 

「ごめんな、疲れたろ?」

「ううん、だいじょうぶだよ。……それに私、ちょっと楽しかったし」

 

 目尻に涙を残してフェイトが答えた。言葉とは裏腹に、声は弾んでいる。

 様々な雑事に囚われず――ただ、子どものように、真白な気持ちで街中を走り回ったのが痛快だった。

 

「そっか」

 

 それは攸夜も同じだ。

 よくも悪くも、二人の関係は“普通”ではなかったから。

 出逢ったころ――十にも満たない歳であった幼い二人の“日常”にあったのは、硝煙と血生臭い戦いの残り香。年相応に、泥んこになるまで遊び暮れたことなどなかった。

 もうそういうことが出来る年頃でもないが、こうして無邪気にはしゃぐのも悪くない。

 

「それで、これからどうするの?」

「うーん……」

 

 鮮やかな青空を鷹揚に見上げ、攸夜が考える。「あー、空が青くて綺麗だなあ」などと脱線しつつ数瞬の間、思考の海に潜って、彼のそれなりに聡明で回転の速い頭が名案を紡ぎ出す。

 

「じゃあ案内してくれよ、この街をさ」

「案内?」

「そ、案内」

 

 オウム返しでこてんと首を傾げたフェイトに、攸夜が完爾と笑いかけた。

 

 

   *  *  *

 

 

 日も暮れ始めた閑静な住宅街。

 家々の間をてくてく並んで歩く二人の手には、ほかほかのたい焼き。甘くておいしい思い出の味があった。

 この“散歩”の趣旨はこうだ。

 六年間、攸夜が不在の間で変わってしまった“故郷”の様子を六年間、曲がりなりにも住んでいたフェイトが案内する、というもの。こちらに越してきたころとまるで反対で、何だかおかしくなったのはフェイトだけの秘密だ。

 

「そう言えば、とらやのご主人、代替わりしてたんだな。前に来た時に別人で驚いた」

 

 最後に残ったたい焼き――チョコレート入りだ――のしっぽを口に放り込み、攸夜はしみじみと言う。

 はむはむ幸せそうに、本日通算7個目のたい焼きのしっぽにかぶりついていたフェイトが顔を上げた。

 

「うん、息子さんなんだって。なんでもね、フランスにパティシエの修行に行ってたって聞いたよ。すごいよね」

「パティシエって……、そりゃあすごいけど。たい焼きに関係なくないか?」

「そう、かなぁ……。あ、でも、クリームとかチョコとか、変わり種の味が上がったって評判だよ?」

「……言われてみれば、確かに」

「でしょ?」

 

 ほとんど風化しかけた記憶と、今し方食べたばかりの味を比較して納得する攸夜。同意が得られてうれしいのか、フェイトはほっこり微笑む。それから、人差し指を顎に当てて散歩の道筋を思い返した。

 

「――うーんと……だいたい見て欲しいところは回った、かな。えと、ほかに行きたいところって、ある?」

「……ああ、それなら。あと一カ所だけあるよ」

 

 フェイトの口からふと出た何気ない一言に、攸夜が静かに答える。どこか、真摯な表情で。

 

 ――そして、彼らは夕暮れの臨海公園へとやってきた。

 水平線の向こう側へ帰っていく太陽が、広々とした海原をオレンジ色に染め抜いて。

 潮騒のさざめく穏やかな音が耳に心地いい。

 

「ここ、懐かしいね」

 

 夕焼けの海を眺めながら、フェイトがぽつりと言う。晩春の潮風に煽られた金糸の髪がふわりと躍る。

 

「……六年、だもんな」

「うん、六年だ」

 

 それっきり、言葉は途切れて。

 しんみりとした空気が二人の間に流れる。沈黙が広がる。

 その沈黙を破ったのは攸夜だった。

 

「――情けないこと、言っちまったよな」

「……?」

 

 漠然とした呟きの意味が読めず、聞き返すフェイト。攸夜は茜色の光が揺らめく水平線を眺めながら続ける。

 

「クラナガンの空で言ったこと……女々しかったろ? 裏界魔王が聞いて呆れる」

 

 わかりやすい自嘲の笑み。

「そんなこと……」一見すると過剰なほど自信家で、しかし本当はとても自虐的な恋人の姿にフェイトは胸を痛めた。

 

「そんなこと、ないよ。私、うれしかった」

「……」

 

 シンプルな、それ故に心に響く言葉。攸夜は圧倒されて息を飲み、ばつが悪そうにボサボサの髪を掻き乱して、スッとフェイトから数歩離れる。

 きょとんとする少女の眼差しを真っ直ぐ逸らさず見返して、攸夜が口を開いた。

 

「俺は、君のことが好きだ。この世界の何よりも、誰よりも」

「っっ!? ゆっ、ユーヤ、いきなり、なにを――」

「いいから聞いて」

「う、うん……」

 

 突然の愛の告白。頬を薔薇色に染め上げて困惑の声を上げたフェイトは、続く真剣な表情に気圧されて口をつぐんだ。

 彼女が落ち着いたのを見て、攸夜は再び言葉を紡ぐ。

 

「だけど、この両手は血濡れだ。君みたいに綺麗じゃないし、きっとこれからも、沢山の血溜まりを築いていくだろう。――エゴイストだからな、俺はさ」

 

 魔王として、自らの目的のために奪った生命は数知れず。自分で手を下したことも、張り巡らした策動の果てに消えたものもいるだろう。

 

「それを肯定する気も否定するつもりもないけど、君に嫌われたって仕方ないとも思う」

 

 彼は生まれながらに大罪を背負っている。

 善人と言えるような生き方はしていないし、きっとこれからもそんな生き方はできない。

 血濡れにならなければ成せないことがあるから。薄汚れてでも護りたいものがあるから。何を犠牲にしてでも救いたいものがあるから。

 だから、取り繕ったりはしない。誰よりも大切に想う、心優しい少女を前にして、言い訳なんてしたくなかった。

 

「それに、いろいろあって有耶無耶になっちまったしな。――だから、これは俺なりのケジメだ」

 

 純白の腕輪が巻きついた左手が、ゆっくりと差し出される。

 

「この場所でもう一度、君の“名前”を教えてほしい。――こんな俺ともう一度、始めてくれるのなら」

 

 差し出された手は、わずかだが小刻みに震えていた。

 フェイトはふわりと微笑んで、彼の手をそっと両手で包み込む。そしてその手を、自分の胸の辺りへと導いた。

 

「あのクリスマスイブの夜に、言ったよね。――苦しみも、悲しみも、痛みも、寂しさも、ぜんぶ私が受け止めてみせるから……って。……今も、私の気持ちはなんにも変わってないよ? これからもずっと、ずーっと」

 

 上目遣いで見つめる面差しは、輝くほど清らかで。告げたその想いに偽りはない。

 トクントクン……、命の鼓動が、触れ合った左手から伝わる。

 

「私の名前は、フェイト・テスタロッサ・ハラオウン。……あなたの名前を、教えて?」

 

 たおやかに、清楚な白百合のように金色の少女がはにかんで。

 

「俺は、攸夜。宝條攸夜――……ありがとう」

 

 どこか安堵したように、あるいは涙は涙を流すように少年が微笑んだ。

 彼女はそれに気づいたが、あえて反応することはしなかった。逆に、彼の抱えた傷みを自分が癒すのだ、と決意を新たにする。

 そして“これ”はその一歩目。

 無意識にこぼれた笑顔は、ステキなイタズラを思いついた童女のようにあどけなかった。

 

「それとね。ユーノに先、越されちゃったけど――――

 

 

 

 

 

 

 

 

  ♯12 「おかえり。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――ユーヤ。……大好き、だよ」

 

 茜色に照らされた彼女の横顔が、さっと朱に染まる。それはきっと、夕日が射して込んでいるからだけではない。

 相変わらず、妙なところで恥ずかしがり屋な愛しい恋人に、彼は小さな笑みを見せて。

 

「……独りで、独りの力で世界を、みんなの笑顔を護ることなんて出来ない。どれだけ強くても――、それは“独り”でしかないから」

「うん」

「でも君となら、そうじゃない」

「うん。あなたとなら……ふたりでなら――、なんにだって負けない。どんな困難だって、どんな“運命”だって、きっと乗り越えていける」

 

 少年が握ったままの左手を引いて、空いた右手を添える。ふたりは祈るように見つめ合う。

 蒼い眼差しを捉えて離さない紅玉の瞳は、うるうると溢れんばかりに潤みを湛えていた。

 

「ただいま、フェイト」

「うんっ!」

 

 屈託のない満面の笑顔で、少女は誰よりも大好きなひとの胸の中へと飛び込んだ。

 夕陽に延びた影が、ひとつに重なる。

 もう離れないように。決して離さないように。

 ――――少女の胸の内を覆っていた暗雲はとうに過ぎ去り。思う空に吹く風は、天地(あめつち)のように蒼く、蒼く澄み渡っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 虚数空間。

 次元断層とも、ただ混沌とも呼ばれる虚ろの世界。

 上下左右、時間すらも曖昧で。あやふやで。不自然で。

 常人ならば発狂して余りある異常極まりない空間に、真紅の羽が舞い散る。

 “それ”は、可憐な少女のカタチをしていた。

 ほとんど白に近い、腰辺りまで延びた長い銀髪は首筋のところで二房に結われ、黒い羽を模した大きなリボンが後頭部を飾る。

 少女らしい匂い立つような肢体を包むのは、そこかしこに羽を思わせるデザインが施されたドレス。二の腕辺りまで覆うグローブやガーターベルトで留められたハイニーソックス、そのどれもが黒。そして、その背に広げられた二対の翼は鮮血のように鮮やかな紅。まるで彼女が引き起こす虐殺を象徴するかのよう。

 かわいらしい容貌と透き通る白皙の肌にひときわ栄える紅紫色のつぶらな瞳が、何かを捉えた。

 

「あは♪ みーつけたっ」

 

 少女が歓喜の声を上げる。

 視線の先にたゆたっていたもの、それは、緑色の溶液が詰まったシリンダー。すぐ側には、まるでそれを護るかのように紫のイブニングドレスを身に着けた女の亡骸が寄り添う。

 

「もう、探しちゃったよ?」

 

 むくれたように少女が言う。

 白魚のような指が女の亡骸にかかると、シリンダーから無造作に引き剥がされた。生前は美しかったのだろう“彼女”は、混沌の深淵へゆっくりと落ちていく。

 少女は遠ざかっていく死体は目もくれず、容器に指を這わせた。

 指先と金糸のような“ナニカ”が透明な容器越しに触れ合う。形のいい、小振りな唇が、壮絶な愉悦で歪んだ。

 

「でもいいんだ。キミを見つけたから」

 

 ひどく甘い、しかし底知れぬ闇黒と悪意とを孕んだ声が混沌に響く。

 

「――ねえ、アリシア・テスタロッサちゃん?」

 

 溶液の中に漂っていたのは物言わぬいとけない少女。まるで胎児のように膝を抱え、醒めることのない眠りの底に。

 永久(とこしえ)に、目醒めることはなかったはずの少女の姿だった。

 

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