「すぅ……、すぅ……」
清潔に保たれた医務室。
窓際のベッドに横たわる眠り姫。顔にかかる日差しを嫌がるように寝返りを打ち、色っぽい吐息をこぼした。
「……んにゃ、むにゃむにゃ……、えへへ~、ゆーのくぅん。あん、そんなとこ、だめだよぅ……ふにゃああ~……」
彼女はいったいどんな夢を見ているのだろうか。ひどく幸せな夢である、ということだけはよだれを垂らして緩みきった顔からハッキリと窺えた。
「んん~、んー……、ふにゃ……?」
ふと、目が覚めた。
眠り姫――なのははゆっくりと起き上がる。
「ふあぁ~~っ、……はふ」と大きな口で空気をはみ、筋肉の強張りを解こうと大きく伸びをした。
「ん~……? なんかいま、すごーく惜しいことしたような気が……?」
存外鋭い勘を披露しつつ、なのはが焦点の合わない半眼でぼんやりと辺りを見回し始めた。
まず、お気に入りの淡いピンク色のパジャマを来ていることに軽く違和感を覚え、次に無味無簡素な寝具に首を傾げる。
最後にサイドボードの上に置いてあるレイジングハートを見つけ、ほぅ、と胸をなで下ろした。
「ここ、どこだろ……?」
見覚えがあるような、ないような。きちっとはしているものの、あまり生活感の感じられない室内。開け放たれ、薄手のカーテンが揺れる窓から射し込む日の光は割と高く、昼前といったところだろうか。
そうして周囲の状況を観察しているうちに、寝起きで胡乱げだった意識も徐々に明瞭になっていく。
「あ、れ? 私たしか、模擬戦してて、それで……っ」
ズキリ、と鈍痛を感じ、発生源の右手を見やる。
二十歳前の女性にしては固く、タコや傷だらけのあまり綺麗とは言い難い――と、本人は割と本気で思っている――手のひらには、少しくたびれた包帯が巻かれていた。
見覚えがない。いつの間にこんなものが巻かれたのだろう。第一ここは……?
この時に至ってようやく、なのはは自分が六課隊舎内の医務室にいることに気が付いた。
「あらなのはちゃん、目が覚めたのね」
見計らったようなタイミングで、おなじみ地上部隊の茶色い制服の上からパリッと糊の利いた白衣を羽織ったこの部屋の主が、バインダー片手におっとりやって来た。
「シャマル先生……」
顔を上げたなのはに笑顔を向け、シャマルがベッド脇のパイプ椅子に腰掛ける。
「あの、どうして私、ここに? ティアナたちと模擬戦、してたはずなんですけど……」
「いろいろあって気を失ったあなたを、宝條君とフェイトちゃんが運んでくれたの。訓練の方はシグナムがちゃんとみんなをまとめてお開きにしたそうだから安心してね。あ、ちなみにそのパジャマを着せたのはフェイトちゃんよ。さすがに制服のままで寝かせるわけにはいかないものね。それから手の怪我だけど、幸いそれほど深くなかったから痕は残らないと思うわ」
「は、はあ……」
起き抜けの頭にこのマシンガントークはいささか辛い。曖昧な返事してしまうのもむべなるかな。
しゅん、と指を一振り。検査魔法で健康状態に問題がないことを確認すると、シャマルが上品に微笑んだ。
「でもよかった。まる一日眠りっぱなしだったんだもの、みんな心配してたのよ」
「え? そんなに?」
ええ、そんなに。呆然と瞠目するなのはに笑顔のまま応え、シャマルはバインダーに挟まれたカルテらしき書類をぺらりとめくり、確認する。
「原因は単純、心労と寝不足ね。宝條君から聞いたわよ、ティアナたちの訓練を夜遅くまで見てたんですってね」
「は、はい……」
「ダメでしょう。撃墜された時の後遺症とか腕の傷は完治していないんだし、無理は禁物よ」
「……はい、すみません……」
やんわりと叱られて、なのはがしゅんと肩を落とす。自覚はあったのだろう、こうして窘められるては強く出ることも出来ない。
患者の素直な反応に満足し、シャマルは居住まいを正した。
「高町二等空尉。あなたには目覚め次第、部隊長執務室へ出頭するようにとの命令が出ています。――はやてちゃんから、直接お話があるそうなの」
「はやてちゃんが?」
「ええ、そう」
着替えの制服は、そこの壁に掛けてあるから。
そう告げ、自分のデスクへと戻っていくシャマルを見送り、ベッドから裸足のままゆっくりと降りたなのははハンガーに掛かった制服を手に取った。
すっかり見慣れてしまったブラウンの制服には、きちんとクリーニングが施されていて。それを目の前に掲げ、小さく嘆息した。
どうして部隊長室に呼び出されたのかはわかっている。
ティアナとスバルのことだ。
――ショックだった。信じてたのに。
少し冷静に――割り切れない感情はまだ、たくさんわだかまっているが――なった今でもそうなのだから、あの時、目の前で信頼を手酷く裏切られたあの瞬間に受けた衝撃は、自分自身でも計り知れない。
感情が振り切れ、わけがわからなくなって、パニックに陥って――しまいには、情けなくも泣き出してしまった。
自主練のとき、二人が何かよからぬことを企んでいたのには気が付いていた。
けれど、なのはは二人のことを信じていたから、知らないフリをして目を瞑り、耳を塞ぎ、口を噤んで注意することを怠った。
それが、この様だ。
「やっぱり、怒られちゃうんだろうなぁ……」
この件でお叱りを受けるのはこれで二度目。一度目はホテル・アグスタでの誤射未遂についてである。
ドライなようで身内に甘いはやてでも、いくらなんでも今回ばかりはきつい処分を下さざるを得まい。そう思うと、なのはの気持ちは一層暗鬱なものとなってきた。
……とはいえ、どれもこれも及び腰な自分が蒔いた種だ。
どんな叱責でも甘んじて受け入れよう――そうでもしなければ、きっとだいじな教え子たちにも累が及んでしまうから。
萎えそうになる自らを叱咤して、なのはは決意を固める。確固たる、決意を。
堪えることは慣れている。
傷つくことも、我慢できた。
「――よっし、着替えよっかな」
ひたひた。素足から直に伝わるリノリウムの床の感触はひんやりとしていて気持ちいい。
ジャッ、と間仕切りのカーテンが勢いよく閉まり、なのはの姿を完全に覆い隠した。
♯24 「ほしぞら。」
医務室の自動ドアが開く。
制服をぴっちりと着こなし、どこからどう見ても管理局職員として完璧な装いをしたなのはが一礼をし、退出する。
サイドテールに髪をセットし直し、歯磨きなどの身だしなみも出来る限り整えている。
少々ワーカーホリック気味のなのはとて一皮むければ普通の女の子、さすがに不潔な格好のままで人前に出たいとは思わない。
てくてくと、無人の通路を歩く。
就労時間はすでに始まっているころだが、皆自分の部署で自分の仕事をしているのだろう。
(それにしては、人気がなさすぎな気もするけど)
わずかな違和感を感じつつ進むなのはの視界に、優雅にウェーブのかかった美しい銀髪を持つ少女の姿が映る。
「あ……」
彼女は、すぐ手前およそ五十メートル先腕を組んで壁にもたれ掛かっている。なのはを待ちかまえていたかのようだ。
――引き返したい。
咄嗟に、そんな言葉が頭を過ぎる。
だが、この通路を通らなければ部隊長執務室に辿り着けないし、何よりここで踵を返したら負けて逃げ出したみたいで何かすごく嫌だ。
そう思い直し、なのはは何度かぐずぐずと躊躇を繰り返してから意を決し、踏み出した。
無言ですれ違う二人。
「――無様ね」
丁度、銀髪の彼女――ベルを追い越すときに放たれた不意打ちの言葉に、なのはの足が止まる。
ぴくりと肩が小さく揺れた。
「視たわよ? ふふっ……、ほんとあんたってつくづく無様な子よね。ピエロみたいに愚かに踊って、見てて飽きないわ。くすくす……」
あからさまに嘲られ、かあっと頭に血が上り、半ば反射的になのはが振り向く。
紫の瞳はわずかに濡れていた。
「わ、私っ! 私なりに、せいいっぱいやって――」
「言い訳は要らないわ。聞くに耐えないもの」
苦し紛れの弁明をピシャリと撥ね除けるベル。金色の魔眼に射抜かれて、なのはの反抗心はまるで空気の抜けた風船のように萎んでいく。
不愉快そうに鼻を鳴らし、ベルは気に食わない小娘へ駄目押しに「目を背けたい現実」をくれてやる。
「あんたがどれだけ苦心したかは知らないけど。人心掌握しくじって、惨めに泣き喚いたって事実は変わらないでしょ」
「……ッ」
暴論にすら聞こえる正論を並べ立て、二の句を封じる。
いささか穿った言い方は、ベルはベルなりになのはの有り様を憤る現れ。
「自分の不甲斐なさに後悔しているくらいなら、空元気でも前を向いてなさい。あんたの取り柄は、それだけでしょうに」
だからこうして、ついつい余計なことまで言ってしまう。
はて、とかけられた言葉の意図がうまく汲み取れず、なのはが首を傾げた。
――…………あれ? もしかして私、励まされている?
「えと、いまのって――」
「っ、ち、違うわよっ! た、ただ脳味噌お天気なヤツがウジウジしてるのが鬱陶しくて見てらんないってだけ! 勘違いするんじゃないわよっ!! いいわねっ!?」
「う、うん……」
なぜか激しく動揺したベル――明らかに赤面している――は叫ぶように早口でまくし立て、脱兎のごとくその場から走り去った。いつもの空間転移もうっかり忘れてしまったようだ。
そうしてひとり、その場に取り残されたなのはは呆然として首を傾げた。
「……? いまの結局、なんだったんだろ?」
* * *
「なのは、よかった……っ!」
「にゃ!? ふぇ、フェイトちゃんっ?」
部隊長執務室に入ったなのはを迎えたのは、真っ紅な眼を泣きはらしてさらに真っ赤した親友だった。
ガバッと力の限り包容され、なのはが軽く頬を染めつつ目を丸くする。フェイトのスキンシップ過多は昔からだが、何年たってもなかなか慣れない。どちらかと言えば羞恥心が先に立つ。
「……だいじょうぶなの?」
「うん、もうだいぶ落ち着いたよ。ごめんね、心配かけて」
ふと視線を巡らすと、応接用らしき高級そうな黒革張りのソファに我が物顔で腰掛ける攸夜と目があった。
彼はややくたびれた様子で左手を軽く挙げ、挨拶した。
察するに、情緒不安定なフェイトを慰めるのに手を焼いたのだろう。恋人に対して献身的に尽くすのは相変わらずらしい。
若干、室内の空気が弛緩する。
「――さて、なのはちゃん」
その声に一同が顔を上げる。
発言者は、こちらもいかにも高そうな黒革のオフィスチェアに座ってなのはたちに背を向けた何者か――いや、はやてだ。
ぐるり、と椅子が180度回転する。大仰に、もったいつけて。
「何で呼ばれたんか、当然わかってんやろな?」
背後にクラナガンの遠景を背負い、はやてはデスクに両肘を突いて組んだ両手を眉間の辺りに当てている。そのせいで表情が判別し難く、一種独特の威圧感があったりなかったり。
とりあえず。黒幕するのがピッタリそうな格好だった。
「はやてちゃん、マダオポーズなんてしてもにあわないしイゲンもないですぅ」
『久々のまともな登場シーンで張り切っているようですね。それにしても演出過剰ですが』
「しょせんモブに毛が生えたていどのあつかいですからねぇ~」
『エルフィ、ああなってはいけませんよ。プライドは大切にするべきです』
「ええい、そこっ! ぴーちくぱーちくうっさいわっ!」
こそこそお喋りする空飛ぶ古本と妖精もどきのヘンテコ姉妹に堪えかね、茶色のこだぬきが叫んだ。
「『きゃー」』棒読みの悲鳴を上げ、逃げ惑うリインフォース姉妹。我関せずの攸夜は雅びに紅茶を飲んでいて、フェイトはぼんやりぽやぽやニコニコしてる。
――皆、いつも通りマイペースそのものだ。
「えぇと……、私どうしたらいいのかなー、なんて。――みんな聞いてないし」
思わぬ肩透かしで決意の落としどころを見失い、なのはがガクッと肩を落とした。
げふんげふん。
と、ざーとらしく咳払いで場を繕ったはやては、デスクの前までやってきたなのはに半眼のキツい視線を向けた。
まるで非難するような水色の瞳――、なのははそれを当然のものとして神妙な面持ちで受け止める。ここにくるまでに、もう腹は括っていた。
「んで、なのはちゃん、聴いたとこによるとあの二人がなんや企んでそうなこと知っとったらしいやないの」
「……うん……」
「失態やな、なのはちゃん。まあ、言い聞かせて聞くようなコたちやったら、こんなことにはならんかったんやろうけど」
どこか脱力したようにデスクに頬杖を突き、苦笑いするはやて。親友を心配し、部下を心配し――人一倍母性の強い彼女だから、今回のいざこざには胸を痛めていたの。
そんな様子を見つめるなのはの胸中は、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「……ごめんね、はやてちゃん、迷惑とか、心配かけちゃって」
「なーに、みんなの面倒みるんが
「うう……はい……」
「ちなみにスバルさんとティアナさんのふたりには、全館のトイレ掃除一週間のバツなんですよーっ」
『訓練中とはいえ、あのような行為をするようでは当然ですね。お咎め無しとはいきません』
恐縮するなのはにジト目を向けるはやて。リインフォース姉妹が憤慨したように言って補足した。
「ところで、そこでぽけぽけしてるフェイトちゃん。フェイトちゃんにも、責任の一端はあるんと違う?」
「ふぇえっ、どうして私っ!?」
自分に飛び火するなど思っても見なかったフェイトは、突然水を向けられて慌てふためき、異義を申し立てる。動揺を隠せず、見開いた目を泳がせておもしろいほどの狼狽えよう。
はやてはそんなお気楽な彼女に呆れ混じりに嘆息し、取り合わない。
「ったく、揃いも揃って部下の管理のひとつもできんとは、情けなくて涙も出んわ――と、いうわけで攸夜君、このお粗末さんな二人にお説教してやってー」
「……なんでさ」
脈絡もなく話を振られた攸夜が、わずかにムッとしつつ即座に聞き返す。
「いやぁ。だってここ攸夜君の見せ場やん? このイベントでSEKKYOUするんはもはやお約束、様式美やよ。しとかなあかんて、実際」
「やだよ。面倒くさい」
身も蓋もないはやての要求をにべもなく切って捨て、ティーカップを煽る攸夜。いかにも嫌そうなしかめっ面をしている。
「大体お前、部外者の俺に何を期待するってんだ。部下を叱責するのは上官の義務だろう?」
「ええ~。だって攸夜君、「ほんとはSランクだけどめんどうだからAランク」とかやってへんし。ここらでテンプレの一つでもやっとべきとちゃうん?」
「何の話だ。……まあ、加減はしてるぞ、一応。それでも総合SSランク相当らしいけどな」
ちなみにこれはクロノの見立てだ。
当然、戦術理論・知性・知識その他諸々も相当と呼ばれるに相応しいものをもっているらしく、未来の義兄からは「このワンマン・アーミーめ」などと苦々しい感想を頂戴していた。
そもそも攸夜は管理局局員でもなんでもないので、魔導師ランクを取得する理由などないという事実はスルーの方向で。
「ムム。んならSHOUBAIとかどうなん? コネとかいろいろあるやん?」
「興味ないね。美味しいところだけピンハネしたらいいじゃない」
「ぐぐ……、じゃあNAISEIは? お偉方ともつき合いあるんやろ、KAKUMEIとかしたりせんの?」
「
目まぐるしいやり取りに置いてきぼりをくらい、きょとんとするフェイトとなのは。完全にアウトなメタ会話の内容を、彼女たちはほとんど理解できていない。
「なんつー言いぐさ。やーさんも真っ青の外道やな」
「あくらつひどうですぅ」
『仮にも法に携わる人間の言葉ではありませんね。……この人でなし』
「はっはっは、何とでも言うがいいさ。自分、魔王ですから」
はやてとリインフォース姉妹が投じた暴言にもまるで動じず、攸夜は余裕の表情を浮かべた。
むしろ最上級の賞賛と受け取ったらしい。
一通りじゃれてお互い満足した攸夜とはやては、一転シリアス顔で居住まいを正す。やはりフェイトとなのははこの切り替えの速さについていけないようで。
なお、古本とちみっこの姉妹は、出番はおしまいとばかりに部屋の端っこでお喋りなどをしていた。
「でもまあ……」
肘掛けに肘を立て、頬杖をついた攸夜が薄く細めた瞳で渦中の二人を順々に眺める。
「叱りつけたくなるのは確かだな」
蒼い眼光は研ぎ澄まされた妖刀の如く鋭く。
別段睨みつけているというわけでもないのに、見られた方はビクッと身を強ばらせた。
すると何を思ったか、フェイトがそそくさと地べたに膝をそろえて座り始める。ご丁寧にもパンプスを脱いで、ちょこんと正座する様すらかわいらしく見えるのは彼女の人柄故だろう。
そんな、「お説教バッチこい!」的な態勢の親友の意味不明な行動を不思議に思い、なのはが首を傾げる。
「……フェイトちゃん、なんで床に正座してるの?」
「いや、ユーヤに怒られるときっていつもこうだから」
「いつも?」
「うん。いつも」
わかったようでわからない、と言いたげな顔のなのは。もうすでに足が痺れてきたのだろうか、もじもじと落ち着かない様子のフェイトを一瞥して、はやては攸夜に向き直る。
訝しげな視線に、攸夜は眉尻を上げた。
「……。自分で言うといてなんやけど、本気でフェイトちゃんもどやしつけるつもりとは思わんかったわ」
「間違いを間違いだと正してやるのも相手への思いやり、歴とした愛情さ。水魚だろうが竹馬だろうが刎頸だろうが忘年だろうが関係ない。過ちを正しもせず、ただ闇雲に賛美しているだけなんて、そんなの太鼓持ちと変わらないじゃないか。愛とは躊躇わないこと、と昔の人も言ってるしな」
「それどこの宇宙刑事?」
攸夜は皮肉げな笑みを浮かべ、世の道理とばかりに大仰な言葉で説く。
彼にしては珍しい道徳的意見に、なのはとはやては意外だなぁ、とついつい感心しまう。フェイトなどは「ユーヤ……っ」とまん丸な眼をキラキラさせて猛烈に感激している。
とはいえ彼女の場合、常に何かしら攸夜の言動にきゅんっとキているのでさして特筆するようなことでもないが。
「ん、んんー……まあ、それはそれとして、だ」
三人から送られてくる妙に生暖かい目線にはたと気づき、決まりが悪いとばかりに攸夜は肩をすくめる。
照れているのだろう、といい加減つき合いの長い彼女たちは簡単に彼の心理を見抜いた。
「はやての言うことも一理あるしな。ここは俺が一肌脱いで、一計を案じることにするよ」
攸夜は諦観したように言う。
状況に流されるのは本意ではない。だが時として、嫌でもやらねばならないこともある。
だからせめて、自分が決断したのだと言い張るために彼はこうして
「いっけい? ……私、いやな予感しかしないんだけど?」
「お前さんにとってはそうなるだろうよ。覚悟しておけ、なのは」
「……??」
存外勘の鋭い友人に憐れみじみた視線を送り、攸夜は静かに目を閉じた。
そうして。口を噤んでしまった攸夜のいつになく物思いに沈んだ雰囲気に引きずられ、一同はかける言葉もなく沈黙する。
――ずっと正座のしっぱなしで、痺れて立てなくなったフェイトが涙目になるまで。
* * *
その日の夕方。
隊舎本館、ブリーフィングルーム。
いくつかの座席と壁面に大型モニターだけが設けられた機能的な部屋に、機動六課フォワードチームの面々が顔を揃えていた。
ミッドチルダ近海に冥魔が発生したとの緊急要請を受け、当初予定していた「これからについての大事なお話」を中止し、召集された。
その弊害だろうか、室内には任務を控えた緊張感とはまた別種の緊迫した空気が漂っている。
「敵、師団規模の冥魔は現在首都に向かって海上を南下中。活動を抑制するため、予想進路にはあらかじめ中濃度のAMFが展開されているそうです」
そんな中で一段高くなった壇上に立ち、なのはがミッションの概要を説明する。
先日の取り乱しぶりが嘘のような凛々しい表情、はきはきとした理路整然な口振り、一見すると毅然とした振る舞い――スバルとティアナは普段通りの上官の様子に困惑するとともに安心感を覚えていた。
結局あの模擬戦の後、弁解や言い訳の機会もなく、ましてや心の準備する間もなくなのはと向き合わなければならないのは、彼女らにとって苦痛でしかない。
しかし、冥魔討伐は機動六課に与えられた最も大事な責務、至上命題である。例え部隊内に不和が広がっていたとしても、避けようのないなものなのだ。
「――そういうわけだから、みんなは残念だけどお留守番ね。今回は私とフェイト隊長の二人で対処するよ」
特に気負うこともなく言い、なのははフェイトに軽く視線を合わせて頷き合った。
海上は、陸戦魔導師の活動に適したフィールドとは言い難い。“箒”やそれに準じた補助機材・魔法を用いれば戦えるとはいえ、自由自在に飛び回ることのできない四人を戦力外とする判断は道理に適ったものだ。
――しかし、そう思わないものも中にはいる。
「……言うことを聞かない奴は――」
「ティアナ?」
そう呟き、勢いよく立ち上がるティアナ。一同が不審な視線を彼女に集める。
「――言うことを聞かない奴は、使えないって、ことですか」
甚だしく感情的な教え子の叫びを聞いて、なのはが悲しそうに眉を下げた。しかしそれもわずか一瞬、すぐさま精神を平静に立て直して苦笑する。
もっとも、その存外に傷つきやすい心の
「えと……私の説明、ちゃんと聞いてくれてた? 現場が海の上だから、みんなには外れてもらうってだけだよ?」
「ティアナ、被害妄想で言いがかりするのは止めてくれないかな。自分で言っててわからない? 当たり前だよ、それは」
やんわりと訂正するなのはと、切り捨てるように言い放つフェイト。金色の執務官は「何を言っているんだろうこのコ」と言いたげに眉をひそめた。
対照的な反応。大事な“親友”を傷つけたティアナとスバルに対して、フェイトは大人げなくも不快感を隠そうとしない。
「……ッ」
下唇を噛み、うつむいたティアナは元の席に座り込む。
どう声をかけたらいいのかわからないのだろう、隣のスバルとエリオは不安を隠せない顔で、ティアナと上官たちを交互にオロオロと見やるばかり。
何となく不愉快な、気まずい雰囲気。この降着した状況を打開するきっかけは、まったく意外なところから訪れた。
「――おーおー、案の定荒れてますなぁ。はやてさんの思ったとおりや」
場違いに明るい声と共に入室したのは二人の男女。
両者とも、揺るぎない足取りでツカツカと靴を鳴らして一同に近寄る。
「はやてちゃん……? それに――」
困惑をにじませるなのはの瞳に映ったのは、ある意味で期待通りの展開に底意地の悪い笑みを口元に描く総責任者と、濃紺のスリーピースをぴっちりと着こなした背の高い男性――、いつになく硬い顔付きをした蒼い魔王の姿だった。
「ユーヤ……」
どこか呆然としたフェイトは眼をまるまると見開き、ポケットに両手を入れて飄々と構えた恋人の名を呼ぶ。
妙なところで勘の鋭いフェイトのこと、自らの半身の接近には薄々感づいていた。
そんな彼女にとって意外だったのはその瞳――、母なる大地と広大なる海原を思わせる蒼い双眸だ。
眼は時として物言うよりも雄弁であると言うが、溶けることのない氷河のように感情を閉ざした冷たいプラネットブルーは、怒りも悲しみも何も映していない。
まるで空虚、仄暗い海溝の底を覗いたかのようで。
あの忌まわしい
「う……」
案の定、フェイトは息を飲んでたじろぎ、後ずさる。
するとはやてが、はぁー、といかにもなため息を吐く。これまたいかにも「私は憤っています」という表情を作って見せた。
「今からお仕事やってんこんなザマで、あんだけの冥魔を捌けるんかいな」
お調子者の彼女らしからぬ辛辣なセリフは心配の裏返し。例の模擬戦が確実に響いているであろう二人のメンタルコンディションを鑑みれば、つまらないケアレスミスで失敗する姿は想像に難くない。
フェイトとなのは、どちらも時に頑迷に見えてしまうほど意志の強い女性だが、同時に殊の外脆くて不安定なグラスハートの持ち主。そんな親友たちを、どこか冷めているようでいて人一倍母性本能の強いはやては心配で心配でたまらないのだ。
「だ、だいじょうぶだよはやてちゃん。特に強力な個体は発生してないそうだし、平気だよ。なんとかなるって」
「うん。なのはの言うとおり、私たちなら絶対できるよ」
軽くどもりながらも当たり障りのない意見を述べる教導官と、根拠もへったくれもない自信を滲ませる執務官。
「だからよけいに不安なんや……」という呟きは口の中だけに留め、悩める部隊長は
「ま、そのあたりのことについて攸夜君からありがたーいお言葉があるんでな。心して聞くように」
「ありがたいお言葉って、お前な……」
こんな時までおちゃらける悪友に頭痛を感じ、攸夜がこめかみを押さえた。
「ったく……」とりあえずため息混じりで気を取り直し、両手をポケットから出して鷹揚に腕を組んだ。
「フェイト、なのは。悪いがお前たちの予定はキャンセルだ」
そして攸夜は
「……それってどういうこと?」
「冥魔は俺とはやてで掃除する。俺らの方が遥かに効率がいいし、何より今のお前たちには任せるわけにはいかないんだ、これがな」
両者とも、広域破壊・大軍殲滅を得意とする戦闘スタイルの持ち主だ。
海上という、周りの被害を配慮しなくてもよいフィールドはまさしく彼らのテリトリー、思う存分に暴れられる狩り場となろう。
満天下に“世界最強”を謳って憚らない魔法使いと、密かに“準魔王級”と評される魔導騎士の前では師団規模の冥魔と言えどものの数ではない。
だがそれは本来、彼らの役目ではないこと。明らかな越権行為だった。
「な、なんで急に……?」
任せるわけにはいかない、という言葉に動揺を見せるなのは。それはつまり、機動六課における存在意義の大半を奪われたも同じこと。
「自覚がないのか? あの模擬戦の結果を事前に察知しておきながらみすみす見逃したお前に、大事な任務を任せられるわけがないだろう。……何のために半人前共の自主訓練を見ていたんだ、お前は」
「「「!!」」」
なのはが大きく瞠目し、ティアナとスバルの顔色が見る見るうちに変わっていく。
後者は自分たちの訓練が知られていたこと、そして作戦が看破されていたらしいことにショックを受けていた。
仮にも教官であるなのはなら、ティアナたちの自主訓練の内容から彼女らの意図を正確に読み取れていてもおかしくはない。
事実、でなければあの絶妙な奇襲を往なすことなどできなかっただろう。
休職する以前ならば土壇場でも切り抜けられたかもしれないが、今のなのはの実力では到底無理。戦闘におけるスキルも、危機に対する直感も、闘争に向けた意欲も――、当時とは雲泥の差だとなのは自身が自覚しているほどなのだから。
「そ、それは……スバルとティアナを信じてたからで――」
「知ったことかよ」
苦し紛れの言い訳も、梨の礫に切り捨てられて。
「アグスタでも裏切られておいて、今更信じる何もあるか。そんな甘ったれた考えでよくもまあ教導官などと名乗れたもんだな」
「ち、違うんですっ!」
言い被せる痛烈な当て擦りに辛抱が尽き、スバルが勢いよく立ち上がる。
隣でうなだれたパートナーの敵討ちをするかのように、潤んだ、しかし真っ直ぐな光の籠もった瞳で悪魔のような男を睨みつけた。
「悪いのは、言うこと聞かなかった私たちで、なのはさんはなんにも悪くないんです! だから――」
身振り手振り、全身を目一杯使って上官の無実をアピールするスバル。必死な声や姿はひどく憐憫を誘うが、その程度で同情してやる攸夜ではない。
「あーあ、そらあかんわぁ」自分の役目は終わったと傍観者を決め込んでいたはやてがぽつりと、スバルの行為を誰ともなく評する。
今このタイミングで口出しをしても、弾劾者にさらなる糾弾の口実を与えるだけである、と。
「……フン」
読み通り、攸夜は不愉快そうに鼻を鳴らしてスバルと、それからソファに座ったまま俯くティアナを準々に睥睨した。
はっきりと見下す視線――、蒼い瞳の湖面にはどんな感情も浮かばない。
「ガキはすっこんでろ。大人の話の最中だ」
冷たい一喝。スバルを文字通り子供のようにあしらった攸夜の叱声は高々と潮を打ち上げる荒波のように、ますますもって厳しさを増す。
「叱責中に口を挟むとは、相変わらず礼儀の教育もなっていないな。……指導者の程度が知れるとは思わないか?」
「ぅぅ……」
度重なる皮肉に堪えきれなくなって、じわ、と青紫の虹彩が滲む。
「ゆ、ユーヤ! いくらなんでも言いすぎだよっ」
悔しそうに唇を噛み、俯き加減で立ち尽くす親友を見ていられなくなったフェイトが間に割って出る。
キッ、と心優しい彼女には珍しく目尻を怒らせて、いつも以上に乱暴横柄な恋人と対峙した。
「何だ? 何か言いたいことがあるなら言って見ろ」
「……そんな、言い方って……」
「言い方がどうした?」
「……ないんじゃ、ないかなって……その、あの……」
じっ、と。
紅と蒼、対象的な色と反比例な感情を宿した眼差しが見つめ合う。
「……あぅ……」
交わることわずか数秒。
深い色合いの蒼茫たる眼光を前に、フェイトは涙目となって早々に敗退を喫した。
土台、彼女が自らの想い人に逆らうなど、天地が三度ひっくり返っても無理というものだ。
つい、とつまらなそうにしおれてしまったフェイトから視線を外た攸夜は、部屋の面々一人一人に目を合わせながら口を開いた。
「突撃しか能のない前衛に、功を焦って自滅するガンナー」
ほとんど名指しされた二人が、身に覚えのある指摘に身を竦ませて。
「未熟で甘ったれな騎士と仲間を信頼しない召喚師」
心外そうに眉をひそめる少年と恩師の心ない罵倒に俯く少女。
「そして、無能な部下を修正もせずにただ馴れ合うだけの無能な指揮官たち。……まったく、碌なモノじゃないな」
最後に、今にも泣き出しそうな年長者二人が頭をしなだれると結尾を切り、攸夜がやれやれと大げさに頭を振るう。その仕草がまた一段と芝居がかっていて、一同の神経を逆なでした。
横目で自分の発言がどれほどのダメージを与えたのかを確認して、攸夜は身を翻す。
目的はほぼ達成したこの部屋に、もう用はない。
そして攸夜は、おそらくの今まで以上の致命傷になると予想される捨てゼリフで駄目押しした。
「――お前たちには、失望した」
その一言で。
「あ……」
ぐらり、とフェイトの全身から力が抜け、その場に崩れ落ちる。まるで立ち眩みでも起こしたかのように膝から床にへたり込む。
「フェイトちゃん!?」なのはが絹を裂くような悲鳴を上げ、急ぎ駆け寄って彼女を支える。「……ありがとう、だいじょうぶだよ」とぎこちない笑顔で答えたフェイトの顔色は、知らずなのはが息を飲むほど血の気が引いていて。
その右手は、自らの胸元――ブラウスの下に隠れたあのネックレスを強く、皺になるくらい強く握っていた。
そんな金色の乙女の様子には目もくれず。漆黒の魔王はやってきた時と同じく、神出鬼没自由奔放に出て行ってしまう。
ご立腹やなぁ……。小さく呟き、はやてが騒然とする場をまとめるように声を上げる。
「まぁそういうことやし。厄介ごとは私らでちゃっちゃと片づけてくるから、なのはちゃんも
そう笑って、彼女はのらりくらりと悪友の後を追う。
そうして残されたのは、力なくうなだれた者たちと意味深な言葉だけ。
「…………」
しかし、親友たちのぶっきらぼうな振る舞いに秘められた意図を正しく受け取ったなのはだけは、決然と顔を上げていた。
――一層堅固に固めた意志を胸に抱いて。
嵐のような二人組が去った後、室内にはこれ以上ないほど最悪なムードが蔓延していた。
特に酷いのはフェイトで、どよーんとネガティブな効果線をかぶり部屋の隅でうずくまっている。最愛の男性に「失望した」と言われたのことが余程のショックだったのか、まるで抜け殻のように真っ白だ。
まあ、放っておけばそのうち復活するだろう。
「……怒られちゃったね」
そんな最悪の空気を払拭するべく始めに声を上げたのは、なのはだった。
にゃはは、とばつが悪そうに頭をかき、いつもの困った笑顔。けれど、いつもの愛想笑いとはどこか違って見える。
「でもまぁせっかく時間を作ってくれたんだし、込み入った話でもしよっか?」
少し冗談めかした問いかけ。
先ほどのやり取りの趣旨を正しく理解しているからこそ、なのははこうして別段打ちのめされることもなく、落ち着いた気持ちでいられた。
「なのはさんは……」
「うん? なにかな、スバル?」
不意に、俯いたまま発言した教え子へと人当たりのいい笑みを向けて、なのはが不思議そうに首を傾げる。
がばりと顔を上げたスバルは、今にも泣き出しそうな情けない表情だった。
「なのはさんはくやしくないんですか!? あんなひどいこと言われて! ……どうしてっ、どうしてそんなに笑ってられるんですか……っ!?」
溢れる涙で瞳を濡らして、スバルが叫ぶ。
血を吐くように、泣き咽ぶように。自分のことのように。
「スバル……」
隣の席のティアナがパートナーを辛そうに見つめる。
一瞬だけ面食らった顔をしたなのははしかし、すぐにふんわりと微笑む。それは所在ないあやふやな苦笑ではなく、ただ静かに全てを包み込むような微笑――
「くやしいよ? ふがいない自分にムカムカして、なにも言い返せない自分が情けなくて、友だちを怒らせちゃった自分が恥ずかしくって。……でもね。くやしくてしかたないから、だからこうして逃げないでみんなと向かい合おうって思えるんだ。――だってそれが、私の“お仕事”だもん」
真っ直ぐにスバルの瞳をのぞき込んで、なのはが言う。何も気負わない透明な心、透明な表情で。
自分の代わりに泣いてくれたことがうれしかった。
自分の代わりに憤ってくれたことがうれしかった。
……だから。こんなにもひたむきな子たちを、自分のように間違った道を歩ませたくなかったから。
「お話しよ? これからのこと」
真摯に。ただ真摯に。
教え子たちと真っ向から――本音でぶつかり合うことを無意識に避けてきたツケを、今ここで清算するために。
なのはは皆を見据える。
「いままでみたいに“なあなあ”な関係のままじゃ……だめだと思うんだ、私たちは」
* * *
ミッドチルダ近海。
朱に染まる海原と、波間に揺れる水月を望む黄昏の空に黒き翼がはためいた。
「『遠き地にて、闇に沈め」』
赤い表紙の古めかしい書物を片手に、魔導の王が祝詞を上げる。
夜を呼び、闇を呼び、破滅を喚び込む聖なる歌声。不浄なる者共を眼下に、天の主従は破滅の詩を歌い上げる。
「デアボリックエミッション!!」『
振り下ろされる剣十字の錫杖を引き金に魔法が発動した。
虚空に爆発する二重の闇。響き合い、共鳴する漆黒の波導が冥魔を飲み込んでいく。
押し寄せる怪異の波、その勢力を大きく削り取った。
“夜天の王”八神はやての十八番――オリジナルスキル〈二重詠唱〉により威力を相乗した
しかしこの戦場には、彼女の闇すら遥かに凌ぐ冥闇を統べる天光の神子がいた。
「テトラクティス・グラマトン……」
何かが砕けたような、透き通った音が薄暗い空に鳴り響く。
十三枚の翼、アイン・ソフ・オウル高機動形態から光の粒子が一斉に吹き出す。
放射状に広がる光はまるで天壌悉くを覆い尽くすオーロラ、暗闇を斬り裂く太陽の光冠を思わせる。
「風よ、火よ、水よ、土よ。汝等此処に召喚す」
響く霊験な声。
莫大な魔力が渦巻き、青く鮮烈な光が夜空に走る。
完成した直径約一キロの巨大な魔法陣が、海上と上空に蠢く無数の冥魔全てを包み込んだ。
「風よ、火よ、水よ、土よ。我に従え制裁す」
アイン・ソフ・オウルが後背から射出され、魔法陣に中心に突き立っていく。
“羽根”が紫に輝き始めた。
「彼方より此方へ、久遠よりへ刹那へ。来たれ、来たれ、来たれ、始まりの泥より来たれ、原初の混沌――――!!!」
蒼銀の魔法陣の中心から、形容し難いナニカが溢れ出す。あえて人語に訳すなら“泥”に例えればいいだろうか。
うねり、急速に膨れ上がる“泥”は、周囲の“羽根”から発せられる藍光――〈正義の魔力〉を受け取って、完全な球体へと変貌していく。
それは純粋無垢なる“混沌”。冥魔たちが浴びた「余り物」などではなく、世界が産声を上げた時より存在した万物創世の源がここに、招来された。
「
超々広域完全殲滅魔法〈プリミティブカオス・ジ・エンド〉――“終焉”に相応しい無慈悲で無軌道な破壊が訪れる。
音を置き去りに爆発四散した“混沌”が、数万トンの海水を空高く吹き上げる。
巻き込まれた冥魔は、圧倒的な破壊の濁流に為す術なく翻弄されて消えゆくだけ。
空間が抱えきれない膨大な魔力に軋み、崩壊した。
「うひゃあ~! 海の上やってんエグいことすなぁ。なんや私、敵さんがかわいそぉに思えてきたわ」
『これだけ暴れて次元震が起こらないことが不思議でなりません。概算して“闇の書”の暴走の数倍規模の魔力飽和現象です』
黒翼の主従が安全圏から人事のように感想を言いあう。
次元震が起こるどころか、大破壊を引き起こした張本人にしてみればこの程度の制御は片手間で出来ること。児戯でしかないのだ。
――蹂躙の時が過ぎ去り、海上にはひとときの静寂が訪れた。
「……なんか悩みごとでもありそな顔してへん?」
一息つき、はやてが上空で浮遊する攸夜を仰ぎ見て尋ねる。
尋ねられた当人は、苦々しく顔付きを歪めてそっぽを向く。
「別に。何にもねーよ」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、その背中からは苦渋が滲み出ていた。
それを先ほどの一件が原因と見抜き、はやては軽く茶化す。
「……ふぅん。
「そんな上等なものじゃないよ、俺は。外野がしゃしゃり出ることじゃない、それだけさ」
はぁ、とはやてのため息。
わかっていたことだが、この悪友は生粋の天の邪鬼でツンデレだ。まるで成長していない。
「ったく、いったいいつになったら素直になるんかしらこのコ」
「うっせ。大きなお世話だっつの」
憎まれ口を叩きつつ、攸夜が連結した大弓の弦に蒼銀の矢を番えた。
大きく弦を引き取る不器用な悪友のリアクションは予想の通りで。こだぬきが白々しく、大げさに肩をすくめて見せた。
「フェイトちゃんも、こないなへそ曲がりのどこがええんやろか。……黙ってればけっこうイケてんのに」」
「ん? 何か言ったか?」
「なんでもないですぅ」
さり気に本音をこぼしつつ、じゃれ合う様子はわずかな気負いも張り詰めた緊張感もない平時そのもの。元よりこの二人、真っ当な神経などどこかに置き忘れてしまったような人種だ。
例え絶対的な絶望を前にしても、挫けることなく立ち向かう――それが攸夜とはやての持ち味。故に彼らは、
『敵第二陣、来ます! 前方、距離3000!』
オペレーターの報告。
太陽はすでに水平線の向こう側へと沈み、暗い夜の帳が世界を覆い隠す。
これからは、夜天の女王と夜闇の魔王――この世の半分を統べる王者の時間だ。
「――さぁて、もういっちょドデカい花火かましたるか!」
はやての叫びに合わせ、吹きすさぶ冷気が広大な海原に白い雪原を生んだ。
* * *
ところ変わって隊舎本館、多目的レクリエーションルーム。
普段は職員がクラブ活動などに使用している部屋に場所を移して。
「とりあえずみんな、好きなところに座って?」
促され、四人は白いソファに横並びで座り始めた。まだぎこちない雰囲気は残っている。
部下たちが着席したのを確認し、なのはは彼女らと背の低いテーブルを挟んだ反対側のスツールに対座した。茫然自失から自己修復したフェイトも同様だ。
「…………」
暗い沈黙が続く。
道すがら、一同は一言も言葉を交わさずにここまで来た。空気は未だ最悪、少なくとも朗らかに話し合いをするような雰囲気ではない。
そんな中、なのはは意を決して切り出した。
「ええと……まず最初に、昨日のことについて謝るね。訓練を中途半端にしちゃって、ごめんなさい」
言って、深く頭を垂れるなのはに驚きが広がる。
そして彼女は、トレードマークのサイドポニーを手ぐしで軽く直しながら「大人げないところ、見せちゃったよね」と苦笑して見せた。
こうなると困るのが、なのはに大人げないところを見せさせた張本人たち。どういう顔をしたらいいのかと視線を泳がせる。
そんな二人に、なのはは柔らかく穏やかに笑いかけた。
「だいじょうぶ、ちゃんと聞くよ。頼りないかもだけど、私はみんなの“先生”だから」
はっ、と瞠目したのはティアナ。その想いが届いたのか、わずかに逡巡してから重い口を開いた。
「……あれから一晩、考えたんです。アタシたちのなにが悪かったのか、そしてどうしてなのはさんはあんなに悲しんでたのか、って」
「うん」
訥々とした独白に、なのはがやさしく相づちを打つ。
ティアナは賢明な少女だ。追いつめられてヒステリーさえ起こさなければ、きちんと理論立った思考ができるはず。
「……いろいろ考えて、考えて……それでその、一番間違ってたのは、スバルを捨て駒みたいに扱ったことじゃないかって、思ったんです」
キュッ、と下唇を噛みしめて俯いてしまうティアナ。彼女の脳裏には、ホテル・アグスタでのフレンドリー・ファイアの瞬間が過ぎる。
親友と呼んでもいい友人が危機に晒された瞬間、自分は何をしていたのだろう――冷静に我が身を振り返り、愕然とした。
自己嫌悪で吐き気がした。
自分は、夢のためなら親友を犠牲にするような、そんなクズみたいな人間だったのだろうか、と。
今にも泣き出しそうな表情で、ティアナは制服の裾を固く握りしめる。
「あれが実戦で、相手が、例えば凶悪犯だったらって考えたらアタシ……」
「もういいよティアナ。ティアナの気持ちは、よくわかったから」
小刻みに震え、声を絞り出す教え子が不憫で思わずなのはは口を挟んでしまう。
ティアナが顔を上げた。
「言うことを聞いてくれなかったのもショックだったけど、もっとショックだったのは二人が捨て身みたいなマネをしたこと。……あの作戦自体の是非はともかく、命を軽んじるような戦い方、訓練でも実戦でも認めるわけにはいかないの」
「……! で、でも、だけどっ! 命がけでがんばることって、そんなに悪いことなんでしょうか!?」
口調こそ柔らかいが、きっぱりとした叱責にスバルが食ってかかる。いつもよりずっと小さく見える友の代わりをするかのように。
珍しく、それこそ初めて自分に刃向かう彼女の変化をうれしく思い、なのはは思い違いを正してやる。
「そんなことないよ、スバル。私にだって命がけで戦った経験、何度もあるし。でもね、その結果取り返しのつかない失敗や、命に関わる大けがしたことだってあるんだよ」
「なのはさんが大けが、ですか?」
エリオが声を上げる。
「そう。四年前の“冥王の災厄”事件のときと、10歳のときにちょっとね」
気恥ずかしそうに頬を掻く。
“エース・オブ・エース高町なのは”――完全無欠な偶像にそぐわないエピソードを聞かされ、驚く四人。個人個人の差はあるものの、驚愕の色は一様にして濃い。
皆のリアクションを不本意に思いつつ、なのはは言葉を続ける。
「かいつまんでいうと、調子に乗って限界以上のオーバーワークして、あげくこっぴどく撃墜されちゃってね。――もう二度と空を飛べないかもってお医者さんに言われて、それでも空が飛びたくて……一年くらい、死に物狂いでリハビリしたっけ」
けっこうツラかったなぁ……。人事のように壮絶な過去を語る横顔には、無鉄砲で無遠慮で、勇気と蛮勇をはき違えていた過去の自分への後悔がある。
「なのは……」
「うん」
そんな心の裡を敏感に嗅ぎ取り、フェイトが心配そうに彼女の肩をそっと触れた。
気遣ってくれる親友に笑みを返して、なのはは苦い思い出の詰まった昔語りを締めくくる。
「家族や友だちにたくさん心配とか迷惑かけて……、それだけリハビリしても完治できなかったんだけどね――っとと、ごめん、なんか話が脱線しちゃった」
サバけた笑いを零す張本人とは対照的に、新人たちは動揺を見せる。
なのはの例はひどく極端ではあるが、これから長い人生を歩む彼女らにとっても他人事ではないかもしれない。
「だからじゃないけど、みんなには私みたいな思いをしてほしくないの。命は誰にもひとつしかないから、大切にしてほしいの。自分のものでも、ほかの誰のものでも」
その言葉を神妙な面持ちで聞いたティアナは、まるで自分に誓っているみたいだ、と思った。
事実それは、魔導師として再び“杖”を執ったなのはが、他ならぬ自分自身と交わした誓約だった。
会話が途切れ、しんみりとした空気が流れる。
「……あのね、私からもみんなに言っておきたいことがあるんだ」
そんな静寂を乱したのはフェイトの声だ。
皆からの視線を一身に集めると彼女はにわかに赤面するものの、「負けるもんか!」と内心密かに奮起して四組の瞳を見つめ返す。
「誰かに頼ることは悪いことじゃないし、助け合うことも悪いことじゃないんだよ。人間ひとりができることって、ほんとうにとってもちいさいんだ」
静かに語りかける声音はひどく澄んでいた。
瞳と心に焼き付いた恋人の背中を思い浮かべながら、紡ぐべき言葉を心の海より汲み上げる。
「その……うまく言えないけど、だから私たちは、“絆”を繋ぐんだと思う。ひとりじゃ立ち向かえない困難と向き合うために。そして、その途中で倒れてしまわないように支え合うために」
祈るように。
願うように。
恋うように。
両手を胸元で――思い出のネックレスの上で組み、フェイトはゆっくりと長い睫毛を伏せる。
まだまだ頼りないけれど、いつかきっと光り輝く希望のたまご――その無限に広がる可能性を正しく導くのが自分たちの役目なのだと。
「――いっしょに戦おう? 私たちにはみんなの力、必要なんだ」
白百合の笑顔とともに見開いたスタールビーの瞳は、ひたむきに真っ直ぐ“仲間”たちを見つめていた。
――この時の四人の返答を改めて記す必要はないだろう。それは誰しもが、わかりきっていることなのだから……。
* * *
「……はぁ」
星の綺麗な夜。
機動六課女子寮のほど近く、なだらかな坂になった芝生の上で、ティアナがぽつねんと黄昏ていた。終わりの見えない自己嫌悪に苛まれていたのだ。
「…………。ふぅ……」
ぼんやりと海の方を見てうずくまり、ため息を零す姿はとても年頃の少女には思えない。
そんな無防備極まりない背中に近づく人影が。
「ティーアナっ、こんなとこにいたんだ? 探しちゃったよ」
「っ! ――あ……、なのはさん……」
はっ、と振り返ったティアナの目に飛び込んできたのは上司の人懐っこい笑顔。
「隣、いいかな?」
「あ、はい」
柔らかな緑のカーペットにぺたりと座り込み、腰を落ち着けたなのは。ティアナと同じく、街の灯りが波間に揺らめく仄暗い海へ目線を向けた。
どこか気まずい雰囲気。
どうしよう、とティアナは思案したが答えは浮かびそうにない。頼みの上官は不気味なくらいにこにこしていて沈黙しきりだし。
「……私、」
そんな時、突然なのはが口を開いた。
「ちょっとうらやましいかな、ティアナのこと」
脈絡もない発言にティアナが怪訝な顔をする。
「うらやましい、ですか?」
「うん。うらやましいよ、すっごく。……私、ティアナやみんなみたいに、ひたむきに目指せる“夢”って持ってないから」
しみじみと、微苦笑する。自嘲めいた表情は彼女らしくない。
そうして、ぽつりぼつりと言葉を綴り始めた。
「……私、前にね、ミスショットであるひとにひどい大けがさせたことがあるの」
「え……?」
思いも寄らない言葉にティアナは目を丸くする。同時に、ズキリと鈍い幻痛が胸に走った。
「戦いに熱くなって、周りが見えてなくて……たいせつな、私に“魔法”をくれたたいせつなひとの命を、その魔法で奪いかけたの」
「……恋人、ですか?」
「そ、そんなんじゃないよぉ~」
シリアスな雰囲気から一転、ふにゃりと崩壊した顔を盛大に赤らめて悶えるなのは。わたわたと否定しきりなこの女性、戦時はともかく普段は割とわかりやすい。表情豊かいうか、案外年相応というか。
ティアナは冷え切っていた胸の内が、少しだけ暖かくなったような気がした。
こほん、と咳払いで仕切り直しを試みるなのは。赤みの残った顔面は全くもって直せていなかったが。
「ともかくそれ以来かな、管理局にいて、魔法で戦うことに意味を感じられなくなって……もともとね、戦いとかもあんま好きじゃなかったし。いま六課にいるのも惰性っていうかケジメっていうか――まあ、そんな感じで」
「なのはさん……」
沈痛な面持ちのコウハイに「この話、みんなにナイショね?」とおどけて見せる。
生憎和みはしなかったけれども、隔意のような心の壁はいつの間にか取り払われていた。
彼女がどうして自分たちに親身にしてくれるのか、どうしてあれほど感情的になったのか、その理由がティアナにはわかったから。
「でもなんか意外です、撃墜の話もですけど。なのはさん、アタシなんかと違って才能あるし、順風満帆な人生を歩んできたんだなって勝手に思ってました」
だからつい、本音を口走ってしまう。
あっ、と口を押さえたが後の祭り、一度出た言葉は引っ込まない。
それは違うよ、となのはが瞼を伏せて静かに首を振った。
「ティアナはよく“自分は凡人だ”って口癖みたいに言ってるけど、そんなことない。私が言っても説得力ないかもだけど、才能なんて関係ないよ。ティアナはティアナの
「私の、歩幅……?」
それはティアナにとって、考えもしなかった革新的な発想だった。
「ティアナはね、ちいさな夢を赤ちゃんの歩みみたいに一歩一歩、確実に堅実に叶えていけるタイプだと私は思うんだ。ひとつひとつはちいさくても、たくさん叶えたらきっと最後はおっきな夢になる。――ほら、あの星みたいに」
天を仰ぐなのはが示す先――深い群青の空には、数え切れない煌めきが広がっていた。
「ひとつひとつを繋いでいって、カタチにしたらいいんだよ。ティアナだけの、ティアナにしか描けない“ユメ”っていう名前の星座をさ」
すーっと白く細い指先が星空のキャンバスをなぞる。
ティアナには、それが何を描いたのかわからなかった。けれどそこにはなのはだけの、なのはにしか見えないものが描かれているに違いない。
「自分には夢がない」と語ったなのはにも本当はあるのではないだろうか――、どうしても叶えたい強い想いが。
「ティアナ、クロスミラージュをちょっと貸してくれるかな?」
「いいですけど……、いったい何を?」
まあ見てて、と待機状態のデバイスを受け取って教導官権限で起動させる。
すっかり見慣れ、手にも馴染み始めたティアナの相棒、白い拳銃。
「リミットリリース。サードモード、セットアップ」
『了解』
リミッター解除のコマンドを受け、クロスミラージュは自身に納められた小型魔導炉をフルドライブさせた。
オレンジ色の発光し、持ち手を残して弾け飛ぶパーツ。大小さまざまな部品が圧縮空間から放出され、複雑に組み上がっていく。
「これ……!」
ティアナが驚愕の声を上げた。
自動式拳銃オートマチックが変貌したのは、白赤とオレンジに染め上げられた回転式拳銃リボルバー。短めの砲身、その下部から手を守るように伸びたパーツから少し離れた空間に沿って、刃渡り60センチほどの反った魔力刃が発生している。
遠近一体の設計思想を備えた第五世代デバイス――正面に構えれば、蟷螂の鎌のようにも見えるだろうか。
ゆるりとした曲線とオレンジ色の魔力光が美しい。
「クロスミラージュのサードモード、“ダブルトリガー”だよ。ティアナは執務官志望だし、いつか独り立ちしたときにこういうモードも必要かなって。……まあ、はじめはダガータイプにと思ってたんだけどね」
せっかくの射撃スキルを殺してどうするんだ、って攸夜くんに叱られちゃった。ぺろっと小さな舌を出してなのはが冗談めかす。
「どう? 気に入った?」
感激のあまり言葉を失うティアナを見れば一目瞭然、なのはも喜色満面でうんうんと頷く。
「あの……、あのっ、ありがとうございました!」
「うん、どういたしまして。――それと、これからもよろしくね、ティアナ。みんなでいっしょにがんばろ」
水色の眼を潤ませた未来の執務官は、ここ機動六課に転属して以来初めて、心からの笑顔を満開に咲かせた。
「はいっ!!」
――少し遠回りしたけれど、ふたりはようやく歩み寄ることができた。
ヒトは間違っても、やり直すことができる。
ヒトは争っても、分かり合うことができる。
ぶつかり合って傷つけ合って、分かり合った彼女たちなら。締めるところはきっちり締めて、砕けるときは砕けて――そんな厳しさと楽しさ共存するような場所を創れるはずだ。
この日を境に、夜、自主訓練するなのはとティアナの姿が、時折目撃されるようになったことを追記しておく。
「――雨降って地固まる、か」
寮の廊下に面した窓辺から師弟――いや、新しい“仲間”たちの様子を眺めて呟いたのは、冥魔の駆逐を終えて帰還した攸夜である。
途中、海上を滑るエイのような超巨大冥魔“スティグロ”にやや苦戦したものの、はやて・リインフォースの協力もあって無事撃退。こうして戻ってきた次第だ。
その相方は今頃、事後処理に追われているだろう。
「月並みな結末だが、なのはらしいな」
細められた蒼い瞳に剣呑さはなく、静かに凪いだ海のよう。
梃入れの結果は上々のようだ、と満足げに振り返る。が、その気勢もすぐに吹き飛んだ。
「……フェイト?」
明らかに沈んだ雰囲気を纏い、廊下に立ち尽くす恋人の姿によって。
ついさっきまで自分の無事な帰還を喜んでいてくれたはずなのに、どうして――
不意打ちで、彼女は攸夜の胸に飛び込んだ。
無駄のない華奢な身体を難なく受け止めた攸夜は不信感を強める。
「……急にどうした? 酷い顔色だ」
「――ないで」
「?」
かすれた声で上手く聞き取れない。
「見捨て、ないで……」
やっと漏れ聞こえた声に、はっとする。
感情の機敏に人一倍敏い攸夜には彼女がこれほど怯えている理由に心当たりがあった。
――失望した。
壊れかけた人間関係を清算するため、焚き付けるために自分の吐いたセリフだ。
「がんばるから……、私、もっとがんばるから。ひとりにしないで、見捨てないで……」
顔を押しつけたまま、彼女は嗚咽を混じらせ懇願する。押し込めていた昏い澱んだ感情が、ここにきて爆発した。
全身全霊を賭けて愛するひとに罵倒され、それでも年少の者たちを心配させまいと気丈に振る舞ったのだと思うと、攸夜は酷い罪悪感に襲われた。
彼女――フェイトは、親に虐げられ、親に捨てられた子だ。そしてその小さな肩には重い……重すぎる“運命”を背負わされた子である。
心に受けた傷痕は根深く、献身的な愛情を以てしても容易に癒されることはないだろう。
なのに。それなのに。
彼女を傷付けてしまった。
しかし攸夜に、必要だったとか、自分もつらかったとか、そんな見苦しい言い訳など出来ようもない。
だから、
「ちゃんと仲直り出来て……偉いな、フェイトは」
ことさらに柔らかく言って、彼は彼女の金糸の髪をやさしく撫でた。
さらさらと手に馴染んだシルクのような感触が、今夜はどこか物悲しい。
「……大丈夫、君を見捨てたりなんてしないよ。――ずっとそばにいるから……」
こくんと首肯する気配。
ようやく全身から強張りが解けたフェイトを、攸夜は愛おしむように強く抱きしめた。
渇愛し続ける彼女へ惜しみない愛情を注ぐこと、それが自分に出来うる唯一のことだと――
――――闇。
一面の闇。
そこでは時が歩みを止め、光さえもがその輝きを失う。無限大に広がり続ける多元連次宇宙から不要とされ、こぼれ落ちた“負”が支配する闇の世界。
悪意と呪詛と絶望とが蔓延した汚泥のような漆黒に、人影が漂って/佇んでいた。
年の頃は十代前半、制服らしき薄紫のブレザーを着た姿は一見学生のようにも見える。
しかし、ただのヒトがこの世全ての害悪が実体化したような、形あることさえ不可能な混沌の中で無事でいられるものだろうか。
無論、彼はヒトではない。もっと邪悪な何かだ。
そこに紅い翼の堕天使が舞い降りる。
「――アーンリっ♪」
漆黒の衣を身に着けて、白銀の髪を靡かせる少女。後頭部を飾った黒いリボン状の羽が可憐な顔立ちに際だたせている。
「……やあメイオ、今日は何の用?」
少年が振り返り、フランクに答えた。女性のようなボーイソプラノはどこか高圧的でもある。
皮肉げな表情。長い真白の前髪に覆い隠された右目の色はおそらく、露出した左目と同じくスカーレット――鮮血じみた色だろう。
――――それはまるで攸夜のアンチテーゼのようであった。
「準備は進んでるかな~、って思って」
「ボクの方は順調そのものさ。直に“ゆりかごの鍵”も出来上がるから、期待してくれていいよ」
「ふーん、そっかぁ……。でもそこ、
「所詮は生贄、
それもそっか、と少女はあっさりと引き下がる。
そして一転、不満げに頬を膨れさせて文句を垂れ始めた。
「あーあ、はやくベルちゃんに会いたいなぁ。アンリってば、せっかくベルちゃんがすぐそこにいるのに会いに行っちゃダメってイジワル言うんだもん。……アリシアちゃんをイジメるの、飽きちゃった」
「後少しの辛抱さ。キミには相応しいステージを用意しているんだからね」
「ぶーぶー」
ご機嫌斜めでぶーたれる暴君と、それを薄ら笑いで宥め賺す少年。一見、コミカルな光景だが、辺りに広がるのは決して明けることのない“無限の闇”だけ。
――先の見えない常闇に異形の軍団が蠢動する。
少年は薄ら寒い表情を浮かべ、紅黒の瞳で虚空を仰ぎ視た。
「もうすぐ、ありとあらゆるものが絶望の底に沈む。それを成すのはこのボク、“この世全ての悪”だ」