死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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 ――悪夢(ゆめ)の話をしましょう。


99:ハッピーエンドトリガー

 外に出る為の最終試験で、近くの町まで買い出しに出ることが許されて、その相棒にパイロと一緒に来てもらい、町でも鼻つまみ者のチンピラに絡まれてしまったが、他の町の人たちに助けてもらって、パイロのバカにされてぶちまけられたお金も拾い集めてもらって、買い物は無事済んだ。

 

(……大丈夫だ。少し危なかったが、パイロのおかげで我慢できた。眼の色も変わってない……)

 

 クラピカは買ったものを地走鳥(ピコ)に乗せながら、町に着いてからの出来事を何度も思い返し、確認して自分に言い聞かす。

 問題など何もない。トラブルはあったが、穏便に解決している。

 あとはこのまま、村に帰ればいいだけだと何度も何度も言い聞かせる。

 

「……ねぇ、クラピカ。どうしたの?」

「!? ……どうしたって、何が?」

 

 パイロに尋ねられ、思わずクラピカは狼狽えてしまって余計にパイロが心配そうに、不思議そうに自分を見る。

 クラピカ自身も自分が先ほどから挙動不審であることに自覚があるので、気まずげに頭を掻いてから、まずは「ごめん」と謝った。

 謝りつつも、自分は何に対して謝っているのかをわかっていない。

 ただ、謝らなくてはいけない気がした。

 

 本当ならこんなに軽くではなく、地べたに跪いて何度も何度も謝らなくてはいけない。それだけ謝っても許されてはいけないという思いが、何故かクラピカにはある。

 しかしそんなことをしてもパイロを困らせるだけだとわかっているので、もちろんしない。だから、今にも泣きながら縋り付いて謝りたいという衝動を抑えつけつつクラピカは、自分でも悩み迷いながら自分の様子がおかしかった理由を語る。

 

「……ごめん。なんかオレさっきから変だよな? 自分でもわかってるけど、……理屈じゃなくて……勘……でしかないんだけど…………すごく嫌な予感がするんだ。

 なんていうか……今までの全てが、それこそオレが外に出る為の試験の合否なんかどうでもよくなるくらい、何もかもがめちゃくちゃになりそうな……それぐらい嫌なことが起こりそうな気がして不安なんだ」

 

 クラピカの答えにパイロはきょとんと目を丸くしてから、「クラピカにしては珍しいネガティブさだね」と言った。

 パイロの感想にクラピカは一瞬、違和感を覚える。

 

「……珍しい?」

「え? だって珍しいじゃん。クラピカ、いつだって前向きで明るくて自分が正しいと信じたことにはちょっと心配になるくらいに真っ直ぐに突き進むから、そんな風に不安がってるところは初めて見たよ」

 

 パイロから言い返されて、クラピカも自分は何を言っているのかわからなくなる。

 自分はパイロの言う通り、良くも悪くも前向きで己を曲げない性格であると自覚している。だからこそ、今ここにいることを思い出す。

 パイロの言う通り、先ほどのクラピカの不安はあまりにもいつものクラピカらしくない。いつもの彼なら、チンピラに絡まれても、解決しているのなら不安など感じない。むしろ周りの人たちが助けてくれたことに、「(ディノ)・ハンターみたいの通りだったね、パイロ!! 何があってもちゃんと助けてくれる人たちがいるって!!」とでも言ってはしゃいでいただろう。

 

 自分らしくないことをしているし思っているのはわかっている。

 自分が抱く不安は、根拠など何もないものであることだってわかっている。

 なのに、どうしても消えない。

 

 今、歩いているこの大地が薄氷の上のような気がして仕方がない。

 そして、パイロが語る「いつものクラピカ」に酷い違和感を覚えて仕方がない。

 間違いなくそれが自分の性格だという自覚はあるのに、クラピカは「前向きな自分」というのが自分自身のことなのに気味が悪いくらいに違和感の塊だった。

 

「……まぁ、トラブルが起こっちゃったからそんな風に思うのは仕方ないよ。

 まだ時間はあるけど、もう帰ろうか。早く戻ることに越したことないし」

 

 そんな自分自身の説明できない色んなもの戸惑っているクラピカに、パイロは明るく、けれどクラピカの不安を軽く見ずにもう帰ることを提案する。

 その提案に、あんなに外に出たがっていたのが嘘のように、クラピカは安堵した。

「村に帰れる」という、ただそれだけのことに何故か泣きたくなった。泣きたくなるほどの懐かしさを感じたことにまた戸惑うが、その戸惑いも上回るほどに説明できず、理屈ではない喜びが胸の中に満ちる。

 

「……うん。そうだな。……けどごめん、パイロ。せっかく時間があるのなら、パイロが買いたかったものを見る時間もあったのに」

「気にしないでよ。僕のお金、全部1ジェニー硬貨だから買いたいものが買えた保証もないし。

 それに、僕はちょっとだけホッとしてるんだ。いつも前向きで行動的なクラピカは好きだし尊敬してるけど、クラピカって周りが目に入らなくなる向う見ずな所と、前向きすぎて少し考えればわかる悪い可能性が目に入ってなかったりする所があるから、このまま外に出ても大丈夫かな? って実は思ってたから、少しくらいネガティブになってくれた方が安心だ」

「なっ! 言ったな、この!!」

 

 パイロの提案に応えながらも、クラピカは自分の根拠などない不安にパイロを付き合わせることを謝ると、パイロは笑いながらしれっとクラピカの短所を指摘し、クラピカは痛い所を突かれた照れ隠しで軽くパイロと取っ組み合う。

 

 そんなじゃれ合いにも、涙が零れ落ちそうな懐かしさを感じてしまう。

 その懐かしさを噛みしめながら、クラピカはまた自分に「大丈夫だ」と言い聞かせる。

 

 大丈夫。問題など起こっていない。トラブルはあったが、穏便に解決している。緋の眼になっていない。緋の眼を誰にも見せていない。だからあとは、村に帰ればいいだけ。

 そんな風に言い聞かせながら、地走鳥(ピコ)を引いてパイロと話しながら歩く。

 

 何気ない無為な時間を、珠玉の時を噛みしめながら。

 

 そんな時間は、何の前触れもなく無慈悲に踏みにじられることを知っているからこそ、クラピカはこの瞬間を噛みしめた。

 

 * * *

 

「!」

 

 町から森に帰る為の一番近い道のど真ん中でに、デパートで絡んできたチンピラたちが三人、クラピカとパイロ行く手を阻むように立っていた。

 そんな彼らを見た瞬間、クラピカの心臓は氷の手でわし掴まれたように底冷えしながら、嫌な動悸を刻む。

 

 奴等など怖くない。緋の眼にならなくても、1対1ならおそらくクラピカでも勝てる相手で、下手したら足と目が悪いパイロでも緋の眼になれば勝てるかもしれない程度の力量だ。

 自分より弱いと確信できる相手にしか強く出れず、それだって群れてないといけない、そのくせ相手の力量を正確に測ることも出来ていない、自分よりも井の中の蛙という表現が似合うほどに矮小な世界しか見ていないし生きていない相手であることはわかっている。

 

 なのに、怖かった。

 相手そのものではなく、奴らを起因とする何かが、もっともっと大きなものが怖くて仕方がなかった。

 

「? クラピカ?」

 

 チンピラたちを見て一気に顔色を悪くさせたクラピカに、パイロは戸惑いつつ声をかけて肩を軽く揺さぶった。

 パイロの行動でクラピカの金縛りは解け、自分たちを見て怯えていると思い込んでニヤニヤ笑って近づいてくる男どもを無視して、クラピカはパイロを庇うように前に立ち、地走鳥(ピコ)を引いて歩きだす。

 

 が、当然男どもはクラピカ達を黙って通しはしない。

「おっとっと~~~。ストップスト~~ップ!!」とやけに癇に障るふざけた調子でクラピカ達の前に立ちふさがって、奴らは「通行料よこしな」と言い出した。

 それも無視して横手の畑のあぜ道を突っ切ろうとパイロに提案するが、リーダー格らしくモヒカン鷲鼻の男がバカにしたように笑いながら「ボウヤ」を連呼して言った。

 

「この町から出るには金がいるって言ってんだよ、田舎者!!」

「そんな法律は聞いたことがないな」

 

 チンピラの言葉にクラピカは冷淡に言い返すが、男はいけしゃあしゃあと「そりゃテメーが無知なだけだろ?」とクラピカの正論を力づくで叩き潰す。

 村の大人たちでも太刀打ちできず教えを乞う程の知識を付けたクラピカなら、反論の余地はいくらでもあったが、そんなことをしても無駄であることくらいデパートのやり取りでわかっていたので、彼は相手の言葉を否定しないが淡々と「金などもうない」と答えて、相手に従いはしない。

 

「じゃあ、荷物と鳥を置いてけよ」

 

 もちろん、相手だって金よりも嫌がらせが目当てなので退きはしない。

 なのでクラピカは湧き上がってくる不安を押さえつけながら、思案する。

 

 業腹この上ないが、移動手段である鳥はともかく荷物はいっそ渡してしまった方が一番平和な解決法だと確信できれば渡していた。

 生活必需品を奪われるのは外の金を調達することが難しいクルタにはかなり痛いので、試験は不合格になるかもしれないが、長老や他の同胞もクラピカ達に何かあるくらいなら荷物や有り金を全部渡すことに文句など付けないこともわかっているし、緋の眼になっていないのならまた試験を受けさせてもらえるだろうから、金銭等が目当てならそれでいいだろう。

 

 だが、相手の一番の目的は自分たちに対する嫌がらせだ。交渉の余地などない。渡せないと言ったものほど強引に奪い取ろうとするし、奴らの要望通りに素直に全部渡しても間違いなくそれで終わらない。

 クラピカ達の素直さを面白くないと思って、暴力によって痛めつける気か、味をしめてさらに何かを奪おうとするのが目に見えている。

 

 そこまでクラピカはわかっていたのに、こんな奴らに因縁づけられて邪魔されている屈辱や怒り以上に、正体不明の不安により心臓の鼓動がうるさすぎて、何をしたらいいのかに頭が回らない。

 だから、代わりにパイロが行動に移す。

 行動に移してしまった。

 

 長老から預かっていたケータイを取り出して、「警察に電話して、本当に通行料がいるかどうか尋ねる」とパイロが言えば、あからさまに相手は狼狽えた。当然だ。そんなことされたら、恐喝の現行犯逮捕の為に警察がやってくるのだから。

 

 男はパイロからケータイを奪い取ろうと手を伸ばすが、その前に他の町の者、どうやらデパートでクラピカ達が奴らに絡まれているのを見ていた老婆などが、またしてもクラピカ達に因縁づけているのを見つけて、「何やってんだ、あんた達!!」と怒声を上げる。

 

 群れていないと何もできない臆病者は、自分たちより人数が増えてしまえばもう何もできない。

 男は「くそ……、とっとと失せろ!!」と、捨て台詞を吐いて道を塞ぐのをやっとやめた。

 

 なのに、クラピカの胸から不安は消えない。

 もう大丈夫なはずなのに、まだ心臓が凍りついたように全身が寒いのに、全力疾走した後のように激しく行動を刻み続ける。

 

「……クラピカ、本当に大じょうっ!?」

「!? パイロ!!」

 

 無事解決したはずなのに、まだ顔色が最悪なまま棒立ちしている親友に、パイロは本気で心配そうな顔になって近寄ろうとした瞬間、彼は転倒する。

 足が悪くてほとんど走れないが、そのことをよくわかっているからパイロはいつも慎重に歩くので転倒することはめったにない。だから、わかった。わかっていた。初めから。

 自分たちの憂さ晴らしが上手くいかなかった腹いせに、チンピラがパイロを転ばせたことなど、最初からわかっていた。

 

 わかっていたのに防げなかったことが、不安を怒りに塗り替える。

 

「おっととと、俺は何もしてねーぜ?」

 

 むしろ「自分が転ばせた」と自白同然の癇に障るセリフを吐く男をクラピカは拳を固めて睨み付けるが、パイロはあくまで自分で転んだと言い張る。

 沸点が低い親友を何とか宥める為、穏便に事を済ます為にパイロは自分の悔しさを抑えてクラピカの為に我慢していることを知っているから、何とか自分の怒りも抑えつけようと努力する。

 怒りを抑えつけながら、「頼むから何も言うな!!」とクラピカは心の中でチンピラたちに懇願するが、愚かな井蛙は自分たちが見逃されている側だと気付かず、彼らの正体も事情も何も知らない、ただどちらかを怒らせたら彼らの大事なものが台無しになることだけを知っている男は、クラピカの逆鱗に触れた。

 

「……おめぇも大変だなぁ。ポンコツのお守りはよ」

 

 同情の薄皮を被った、嘲りの言葉。

 クラピカを庇って、本来ならクラピカが負うはずだった傷を負った、……それでも笑いながら生きる強くて聡明な親友に、男は嘲笑しながら言った。

 

 

 

「生きてて楽しいか?」

 

 

 

 瞬間、クラピカの頭が、血が、眼球が灼熱する。

 それはクラピカに言ったものなのか、パイロに言ったものなのかはわからない。

 どちらにせよ、クラピカには許せない、許してはいけない言葉。

 

 互いが互いを大切にしていることを理解しているからこその、挑発と嘲りの言葉であることをわかっているが、誰かの為に自分自身を投げ出せる尊い親友に、生きている意味も価値もないと決めつけるのも、クラピカが親友と共に生きていることを本心では迷惑がっていると決めつけるのも、どちらも屈辱という言葉では足りない程の侮辱に、憤怒がクラピカの頭を、視界を真っ赤に染め上げる。

 

 パイロが「クラピカ!」と叫んで止めようとしているが、クラピカには親友の声すら聞こえていない。

 親友が一番望んでいなかった、忌避していた事態になってしまった。自分の行動が一番、親友の努力を踏みにじっているということにクラピカは気付けないまま、緋色の眼を相手に向けた。

 

「なっ……!? ひぃっ!?」

 

 瞬間的に変化した、地獄の業火のように鮮烈な緋色の眼と、子供とは思えない、愚かな井蛙でも自分には勝ち目がないとわかるほどの殺気を前にして、男はようやく自分たちが相手にしていたものが何かを悟る。

 子供の頃、何度も何度も言い聞かされてきた昔話。いつしかどこにでもあるくだらない作り話だと思って忘れていたが、「森の奥に住む、赤目の悪魔」こそが、目の前の少年だと。

 

「悪い子は赤目の悪魔に八つ裂きにされて食われる」という昔話を、それを信じていた頃に懐いた恐怖を思い出した。

 

 クラピカには、見えていない。

 男たちの顔がニヤニヤとした嘲笑から、驚愕、困惑、そして恐怖に代わって行っていることを見ているのに見えていない。

 クラピカの視界は真っ赤に塗りつぶされて、目の前の相手なんてただ不快な音を喚き散らすゴミにしか見えていなかった。

 それは、男たちに限らず周りの自分たちを助けに来てくれたはずの人たちも同じ。

 ゴミだとはさすがに思っていないが、ただの赤い塊にしか見えていなかった。

 何もかもが赤く染まって、緋の海の中にでもいるような視界だった。

 

 ……そんな視界でも、それほど緋色の憤怒に染まった眼でも、それでも――――

 

 

 

「――――あ……」

 

 

 

 振り返って、見上げたチンピラ(ゴミ)の背景に広がる空は、どこまでも深く深く、地上の何もかもを受け入れて飲み込んで混ぜ合わせて、濁り、淀みながらも……澄み切ってるようにしか見えない程に美しかった。

 

 美しい、青色だけは見えた。

 憤怒に灼熱した緋色の眼でも、空の青さだけは染められない。変えられない。

 変わらず、ただそこにあった。

 

『クラピカ』

 

 彼女と同じように

 

『君は本当にそれで……』

 

 そこにいなくても、何も思い出せなくても、それでもそれは空白でも虚でも空っぽでもなく――

 

『本当にそれで、幸せになれるの?』

 

 君は確かに、そこにいた。

 

 * * *

 

 クラピカのしようとしていたことを止めるのでもなく、ダメだと叱るでもなく、彼女はただ静かに問う。

 その行動で、君は幸せになれるのか? と。

 

 止められたって、止まらなかった。

 ダメだと言われたら、反感しか湧かなかった。

 

 それぐらいに許せないことを言われたから。

 それぐらいに、大切な親友との全てを汚されたから。

 許せないという選択肢以外はなかった。

 けれど、許せないけれど、殺してしまいたいくらいに許せないけれど、それでも…………

 

「…………っっっ!!」

 

 踏み出しかけた足を踏ん張って、振りかぶった右腕の拳を何とか自分の左手で抑えつけて止めて、奥歯を砕いていしまいそうなほど噛みしめながら、クラピカは自分で自分を止める。

 

 許せない。

 許せる理由などない。

 ……けれど、この男たちを殺したって、こいつらがパイロを侮辱したという事実はもう消せないし、それを止められなかった自分をクラピカは許すことなど出来ないから。

 だから、どうせ殺したって許せないのならと思えたからやめただけだ。

 

 殺してしまえば、傷つけてしまえば、もっともっと後悔するから。

 自分のこの行動は誰も幸福にしないことを、初めからわかっているから。

 

 だから、やめた。

 

 荒い息をつき、胸を押さえながら何とか自分のまだ湧き上がる憤怒の衝動を抑えつけていると、チンピラたちは地面に跪いて自分に許しを乞うていた。

 何やら、自分たちがクラピカ達にしつこく因縁を吹っかけて嫌がらせをしていたのは、角みたいな髪型のじいさん……クルタの長老と思わしき人物に頼まれたからだと言い訳をしていたが、クラピカにとってはもはやそんな話はどうでも良かった。

 

 殺してやりたいほど許せない者達に、今のクラピカが望むことはただ一つ。

 

「……パイロに、謝れ!! パイロに侮辱したことを謝って、訂正しろ!!」

 

 クラピカの言葉に、彼の迫力に完璧に畏縮しているチンピラたちはパイロに向かって一斉に「すみません! 許してください!!」と土下座するので、クラピカを何とか落ち着かせようと背中を撫でていたパイロがちょっと目を白黒させた。

 パイロは元々期待などしていなかったどころか、おそらくはどうでもいいというレベルで気にしていなかった相手の土下座で軽く困惑してしまったが、クラピカの方はその謝罪を見てようやく頭が少し冷える。

 

 もちろん、本気で悪いことを言ったと思って謝罪しているのではなく、ただ自分の命が惜しいから助かる為の魔法の呪文だと思って謝罪の言葉を口にしてるだけだということはわかっている。

 だから許す気は相変わらずない。

 それでも、自分の拳をこいつらの血で染めるより、こいつらの「死」を背負ってしまうことよりはずっとずっとすっきりした。

 

 幸福な終わりだと思えた。

 胸を張って言える気がした。

「なれるさ」と彼女に心の中で告げれば、その人は何も言わずにただ笑う。

 

 緋色に染まった世界でも、変わらずそこにあった蒼天のような、晴れ晴れしい笑顔だった。

 

 そう、これはきっと幸福な終わりだ。

 たとえ、その後にデパートで自分たちを庇ってくれた、助けようとしてくれた人に石を投げつけられても。

 

「その子たちから離れなさい……」

 

 間違いなく何もしていない、()()は過剰防衛でもない、勝手に向こうが怯えただけだというのに、その老婆はクラピカに怒りと畏怖の視線を向けて、石を投げつける。

 

「赤目の化け物!!!」

 

 何もしていなくても、クラピカ達が何をされたのかを知っていても、老婆にとってはクラピカ達こそが悪であり加害者であり怪物であって、普段は厭っていたチンピラたちこそが守るべき同胞であり愛し子だった。

 

 ……そのことにクラピカは、もう「どうして?」とは思わない。

 寂しくてやるせない気持ちは確かにあるが、クラピカは知っている。

 世界は(ディノ)・ハンターのように悪人と善人でくっきり分かれている訳でも、悪が必ず善に裁かれるわけでもないことも、知っている。

この世は全て、()でも()でもない、灰色だということを知っている。

 

 あの老婆や、自分たちに畏怖の視線を向ける人たちが「差別と偏見に満ちた悪人」ではない。

 むしろ、「外の世界は差別と偏見に満ちている」という偏見を盾にして、被害者面をした自分たちクルタの同胞による被害者かもしれない。

 直接的な被害を受けた人たちではなく、加害者も被害者も遠い昔の先祖の話かもしれない。もちろん、やはりクルタ族は何も悪くない、一方的な被害者かもしれない。

 

 その真実は、きっとどうしたってわからない。だって真実なんて、同じものを見ても見た人によって千差万別に姿を変えるものだから。

 

「この町から出て行け!!! 悪魔の使いめが!!!」

「ダメよ、やめて!! おばあちゃん、やめてってば!!」

「出てけ!! 出てけぇっ!!」

 

 だからクラピカは、一度だけ老婆に、自分たちを庇おうとしてくれていた人たちに頭を下げて、パイロを庇うようにして地走鳥(ピコ)を連れてその場から立ち去る。

 

「やめてってば!! どうしちゃったのよおばあちゃん! 何でそんな酷いことを言うの!?」

 

 自分たちを庇ってくれる、老婆の孫娘らしき女性の声を聞きながら。

 女性は老婆に「お前の方こそ何を言っているんだ!?」と叱られるが、彼女は祖母の投石を止めながらはっきりと言ってくれた。

 

「確かに変わった眼をしてたけど、あの子は何もしてないじゃない! 怒って当然のことをされたのに、ずっと我慢してたわよ!!

 赤目の化け物の話は確かに聞いてたけど、どう見ても全然違うわよ! 眼がちょっと変わってるだけの、友達思いな普通の子じゃない!!」

 

 若い世代からしたら「赤目の化け物」の話は、子供の躾の為のどこにでもある普通の昔話でしかなかったのだろう。

 実際に目の色が変わる者が現れても、それだけで「化け物」とは思えないくらい、既に老婆と孫娘では見ている世界も生きている世界も違っていた。

 彼女にとっては眼の色が変化する人間は確かに非常に珍しいだろうが、それだけだ。珍しいだけの人間に過ぎない。

 

 それは、生々しい被害を知らない無知だからこそ言えたことかもしれない。

 もしも本当にクルタ族が何らかの加害者だと知っても、同じことを言える保障などないし、クラピカ達も求めていない。

 

 だから、これだけで良かった。

 

「ごめんね! おばあちゃんが本当にごめんね!!」

 

 たとえ一時だけでも、自分たちを「人間」として見てくれて、「化け物じゃない」と否定して、庇って、拒絶したことを謝ってくれるだけで、何もかもが報われた気がした。

 

「……クラピカ。ごめん」

「パイロの所為じゃないさ」

「そう。…………ねぇ、クラピカ」

「ん?」

「……外に出れて、良かったね」

「…………うん」

 

 それだけで、これは幸福な終わりだと思えた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「クラピカ、お主に無期限の外出許可を与える!!」

 

 予想外の言葉に周りの同胞たちがざわめくが、言い渡されたクラピカ本人が一番、言われたことを理解出来ないと言わんばかりに目を丸くしていた。

 

 クラピカは最終試験での出来事を正直に全部報告したので、不合格になると思っていたからだ。

 

 黙っていれば、おそらくは合格だった。

 何故ならクラピカとパイロが試験の為に点したはずの、点してから24時間の間に緋の眼になってしまったら色が戻らない目薬は、パイロがわざと受け取り損ねたことにしてすり替えたパイロ自身の目薬だったから、黙っていればクラピカが緋の眼になったことはばれなかったはずだ。

 しかし、クラピカは正直に告白することを選んだ。

 

 良識の問題ではなく、これも正体不明の不安からだ。

 町の中で緋の眼を見られて、どこに帰るのかも見られてしまったから、それこそ長老たちが恐れる「差別や偏見に満ちた人間」が集落にやってくるかもしれないと思えたから、クラピカは正直に告白して出来れば集落を移した方がいいと報告した。

 

 その報告を受けて、長老は他の大人たちと話し合って移住を決めたのと同時に、クラピカに「試験合格」と告げて無期限の外出許可を与えられたら、そりゃクラピカからしたら理解が出来ない。

 

「ちょっ、待ってよ! もしかしてそれは体のいい追放!? ふざけんじゃないわよ! クラピカが緋の眼になっちゃったのは、元はと言えば長老(ジイサマ)が八百長しようとしたからじゃない!!」

 

 ポカンとしているクラピカの代わりに、血の気の多い母親が長老に食って掛かる。

 父親は何とか長老に殴りかかりそうな真っ赤な眼の母親を抑えつけて宥めるが、彼も長老を緋色の眼で睨み付けて「どういうことですか!?」と真意を問う。

 

 彼らの言動は親として当然だ。

 原因は確かにクラピカでも、そのクラピカが我慢しきれなかった要因を作り上げたのは、いくら心配だったからと言っても許されない、卑劣な手段を用いて不合格にさせようとしていた長老の行動が原因ならば、綺麗な言葉で言い繕った追放という罰を許せるわけなどない。

 

「そう思われても無理はないが、そんなつもりはない。お主たちの言う通り、悪いのはクラピカではなく口で説得も出来ず、卑劣な手段で諦めさせようとしたわしの方だ。

 だが、土地を捨てることになった怒りの拳を、わしにではなく逆恨みだとわかっていてもわしよりも、振り下ろしやすい子供のクラピカにぶつけようとする輩が出るかもしれん。そうなったら、クラピカはもちろんその逆恨みをしてしまった者も救われん。

 

 だからクラピカはその不満をぶつけられん為にも、しばらく外に出てもらった方がお互いに好都合というのもあっての外出許可だ。

 追放とさほど変わらない扱いなのは申し訳ないが、決して村に戻って来るなとは言わん。移住先は教えるし、ケータイも買い与えれば新しい村がどこかわからんということもないだろう。

 ……わしが生きているうちに、この地を捨てることになった不満は全てわしが背負って、お主にぶつけられることがないようにするから、お主はしばらくの間、外に出ていてくれんか?」

 

 長老はクラピカの父母の怒りを全面的に受け止めて、淡々と無期限外出許可の真意を話す。

 確かに結局のところは追放に近いが、クラピカとその家族だけではなく他の同胞たちの前でも、自分がクラピカを不合格にさせるために卑劣な手段を取ったことを認めているので、クラピカを同胞たちの逆恨みから守る為というのは、口先だけの言い訳ではないだろう。

 

 そのことに納得と安堵をして両親の方は矛を収めるが、クラピカの方は納得がいかず「長老(ジイサマ)、本当に良いのか?」と訊き返す。

 

「だってオレ、結局は緋の眼になっちゃったから……」

「……わしらクルタ族が恐れられた要因は眼だけではなく、怒りで理性を失えば外の人間の何倍もの力を発することが出来ることと、性格がどうも好戦的になってしまう者が多いことだ。

 緋の眼になっても怒りに身を任せて暴れるのではなく、自分の怒りを抑えつけることが出来たのならば、お主はカラーコンタクトでもつけてさえいれば、外の世界でも問題ない」

 

 クラピカの言葉に、長老はいかにも渋々と言わんばかりにむっつりと答えた。

 その答えに、クラピカは覚えがあった。

 

 それは、帰り道の地走鳥(ピコ)の上でパイロと交わした会話。

 自分はこの試験に合格できなかったら、もう二度と外に出たいと言わないと啖呵を切っていたので、もう無理だろうなと諦めていたクラピカに、パイロが励ましの言葉として同じようなことを言ってくれていた。

 

 あれは、励ましの言葉ではなかった。

 パイロにとっての本音であり、このままクラピカが不合格というのは絶対に納得いかなかったから、きっとパイロはクラピカの報告後に長老に直談判をしたのだろう。

 長老が本来クラピカのパートナーになるはずだった大人や町のチンピラとグルになって、クラピカを不当に不合格にしようとしなければ、ドタキャンされて報酬が前金しかもらえなかったチンピラの八つ当たりなどという避けようもない、我慢すればするだけひどい目に遭ったであろう理不尽なトラブルに巻き込まれず、緋の眼になんかならずにすんだはず。

 

 緋の眼になってもクラピカは耐えたからこそ、暴力を振るわなかったからこそ、たった一人でも「あの子たちは悪くない!!」と言ってもらえた、クルタ族の偏見を取り除くことが出来たと熱弁したからこそ、本音では同胞たちからの逆恨みより何があるかわからなくて恐ろしい外に出したくなかったであろう長老が折れて、この結果だ。

 

 そのことを理解して、そして本当に自分は外に出れる、むしろしばらく家に、村に帰れないという状況なのだが、それでもあんなに夢見た外に出れることを現実だと受け止めたクラピカは……

 

「パイロ!!」

 

 同じ夢を見ている、自分の夢の為に大きな力となってくれた、何度も何度も自分を守ってくれた聡明で誰よりも何よりも強い親友の元に駆け出して、抱き着いた。

 

 嬉しさのあまりパイロの足が悪いことを忘れて抱き着いてしまい、二人は一緒になってその場に転がってしまうが、どちらも自分たちが転んで草と泥だらけになっていることを気にせずに笑う。

 

「良かったね、クラピカ!」

「うん……うん!! ありがとう、パイロ! 全部全部、お前のおかげだ!!」

 

 あまりに嬉しそうに、互いに泣きながら笑いあう子供たちにそれぞれの両親はもちろん、長老の決定に不満そうだった他の同胞たち、長老さえも思わず笑みをこぼす。

 それぐらいに、幸せそうな二人だった。

 それぐらい、夢に真っ直ぐな彼らが眩かった。

 

 クラピカはもう既に、あの町で抱えていた不安など忘れていた。

 なぜ、あんなにもあのチンピラたちが怖かったのかも、どうして村に帰れることが嬉しくて嬉しくて仕方がなかったのかも、パイロに懐いた懐かしさと酷い罪悪感も忘れていた。

 

 覚えているのは、空の青さとその美しさによく似た笑顔の誰かだけ。

 

 その人のことだけは、誰かもわからないくせに忘れない。

 ずっとずっと、絶対に忘れない。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 数日後、村全体の移住の準備が整ったのと同時に、クラピカの旅立ちの準備も整った。

 伊達に何百年単位で迫害されては逃げて隠れて生き延び続けた民族なだけあって、いざという時の為の移住先の目星は昔から用心としてちゃんとつけていたらしく、思った以上に短い準備期間で済んだ。

 

 クラピカはこのまま移住先には向かわず旅に出るのだが、もちろんちゃんとクラピカにも移住先を知らせてあるし、ケータイも買い与えているので、新しい村がどこかわからず戻れないということもない。

 

 生まれ育った土地を捨てることはとてつもなくものさびしくて、その原因である自分にクラピカは罪悪感を抱くが、母親はそんなクラピカの気を遣っているのか、「外には出れないけど、新しい土地って楽しみー」と言い出す。

 たぶん、母の性格からして気を遣っているのではなく素だと思いつつも、その底抜けの明るさに罪悪感が薄れて「いい所だと良いな」と話していたら、パイロが家族と一緒に見送りに来てくれた。

 

「クラピカ」

「パイロ!」

 

 クラピカは見送りに来てくれた親友に駆け寄って、言葉を交わす。

 別れの挨拶ではない。それは、これからも同じ夢を見ようという約束。

 

「パイロ!! オレはが必ずお前を治してくれる医者を見つけてくる! それまでにお前も外出試験に合格しとけよ!!

 そしたら今度は二人で旅しよう!!」

 

 クラピカの言葉にパイロはしばし言葉を失ったように……、言葉が見つからないくらいの喜びを瞳に湛えて返答する。

 

「……うん!! わかった絶対に合格しておく」

「約束だぞ」

 

 パイロは自分の眼と足が悪くなった原因を覚えていないが、クラピカや周りの様子からして十中八九、クラピカが眼と足が悪くなった理由に関わっていることなんて、とうの昔に気付いている。

 だけど親友なだけあって、クラピカが自分にいたずらや不注意で怪我をさせたとはもちろん思っていない。そこまで直接的な原因ならば、この真面目な親友は罪悪感でパイロに対してもっと卑屈に接してしまうはず。

 

 おそらくは自分がクラピカを庇ったとかそういう理由なのだろうと、パイロはほぼ正答にたどり着いている。

 だからこそ、クラピカの言葉が嬉しくて仕方がない。

 

「クラピカ……。医者を探してくれるのは……嬉しい。本当に嬉しいけど……僕たちが外の世界に出たかった訳は、(ディノ)・ハンターを読んだからでしょ?」

 

 クラピカが医者を探してくるのがただの罪悪感だけならば、眼と足を治して一緒に旅に出ようなんて言わない。

 ただ「医者を見つけて連れてくる」とだけ言うはず。

 そもそも、クラピカのパイロに対する友情が罪悪感によるものならば、最終試験のパートナーにパイロは選ばない。足手まといという意識はなくとも、自分の所為でパイロの眼と足がさらに悪くなったら……という不安が先立つはずだ。

 

「僕たちもあんな冒険をしたかったから、外の世界を思いっきり楽しみたかったからだよね?」

「……うん。うん!! そうだ!!」

 

 だけど、クラピカは足手まといなんて発想はサラサラなく、パイロにも一時だが「外の世界」を見せてくれた。

 自分となら不合格になっても後悔なんかしないと言ってくれた。

 

「だからクラピカも、僕と約束して」

 

 罪悪感ではなく、対等な親友として今までずっと付き合ってくれた。守ってくれた。頼りにしてくれた。同じ夢を見てくれているからこそ、パイロはクラピカにも約束を取り付ける。

 

「クラピカが戻って来たら、僕が一つだけ質問する。

『楽しかった?』――って僕が訊くから、心の底から『うん』って答えられるような、そんな旅をしてきてね!!」

 

 これからも、自分に対する罪悪感に縛られないで、どうか幸福に生きてという願いを口にした。

 

「ああ、約束する!!」

 

 そんな親友の願いに、約束に泣き出しそうな笑顔でクラピカは応える。

 その笑みにパイロは満足そうに、同じ笑みを浮かべて頷いた。

 それからパイロが付け足した言葉は、親友としばらく会えない寂しさに対する照れ隠しなのか、それとも初めて見た親友の一面に対して普通に好奇心が疼いたからかどうかは、クラピカにすらわからない。

 

「あ、そうだクラピカ。忘れる所だった」

「? 何を?」

 

 地走鳥(ピコ)に乗ろうとするクラピカを呼び止めて、パイロはクラピカに駆け寄って耳元でこっそり言った。

 

「クラピカ。見つけたらちゃんと僕にも会わせてよ。クラピカが好きになった、青空みたいな綺麗な人に」

「!!?? なっ、違う! パイロ! お前は何を言ってるんだ!?」

 

 急に真っ赤になってテンパり出すクラピカに、互いの両親は訳が分からず目を白黒させるが、意外と肝が据わっているパイロはしれっと真っ赤になっているクラピカをさらに赤くさせるようなことを言い出す。

 

「あれ? 違うの? クラピカ、会ったこともないのに青空みたいに綺麗で、幸福を形にしたらきっとその人になるとか、どう考えてもその人が好きとしか思えないことを――」

「わーーっっ!! わーーわーーわぁぁぁぁぁぁっっ!! パイロ! いくらお前でもそれ以上そのことを誰かに言ったら許さないからな!!」

 

 さすがに何に照れているのかはわかりきっていたので、クラピカにしか聞こえない声量で言っていたが、それでも万が一にも自分の両親、特に悪ノリが激しい母に聞かれないように大声を上げてパイロのセリフを掻き消して、クラピカはちょっと涙目になって怒った。

 

 さすがにやりすぎたと思ったのか、「ごめんごめん」と謝りつつもパイロは楽しげに笑っているので説得力がなく、クラピカは完全に拗ねた顔になって睨み付ける。

 

 本心から悪いと思っているが、パイロがどうしても楽しげに笑ってしまうのも仕方がない。

 この親友はストイックなんだか、ある意味では周りの同世代より子供なのか、異性に対して誰それが可愛いだの好きだのという話を今までしたことがない。

 パイロも似たようなもんなので言う資格はないと思いつつ、シーラからもらった(ディノ)・ハンターでも恋愛のくだりの話に関しては全く興味を示さなかったので「さすがにそれはどうよ?」と実はちょっと思っていた親友が、あの最終試験の帰り道、ポツポツと話した「青空のような人」に関してはつい好奇心が疼くし、何だか親みたいな心境になって応援したくなってしまったようだ。

 

 しかしその「青空のような人」は、冷静になればどう考えても応援すべき相手ではない。

 何故ならその「青空のような人」はクラピカ本人も「会ったことがない」と断言する、おそらくは空想上の人間なのだから。

 

 クラピカだって頭がおかしいとしか思えないことを話していると、わかっていたのだろう。

 パイロに「クラピカ、大丈夫?」と引かれながら訊かれることを恐れるように、それでも彼は話してくれた。

 

 パイロを侮辱された時、緋の眼になっても暴力を振るわずに済んだのはその「青空のような人」のおかげだと。

 止めるでも責めるでも叱るでもなく、ただ静かに、悲しげに「それで幸せになれるの?」と訊いてくれたからこそ、理性を取り戻せたと語り、そしてクラピカは望んだ。

 

『……変なことを言ってると自分でも思う。だけど……、どうしてもその人はオレが自分で作った空想上の人だとは思えないんだ。

 …………オレ、その人に会いたいんだ』

 

 あまりにも切なげに、クラピカは言っていたから。

 だからパイロは信じた。

 その人が実在することを。

 必ず、クラピカと出会えることを。

 

 理由なんか、それで十分だ。

 

「ごめんごめん、クラピカごめんってばー」

 

 そんなこと、クラピカだってわかってる。

 どう考えても頭がおかしいことを言っているのに、その人存在を信じてくれて、出逢えると思ってくれているからこそ「見つけたら会わせて」と言っていることくらい、クラピカだってわかっている。

 だからクラピカはいつもならもう少し拗ねていたいところだが、拗ねて旅に出るのはあまりにもあんまりなので気を取り直して許してやることにした。

 

「……他の奴に話したら、絶対に会わせてやらないからな」

「ははっ、うん、わかったよ。僕とクラピカだけの秘密ね」

 

 ただし、念押しは忘れなかった。

 パイロは相手が会ったこともない、実在しない可能性の方が高いという部分を抜いても、こういう話題という時点で恥ずかしがっている親友を微笑ましそうに笑ってその念押しに応えた。

 

 それでようやく安心したのか、最後にクラピカは家族や他に仲が良かった者たちとあいさつを交わして荷物をくくりつけた地走鳥(ピコ)に乗る。

 そしてそれを走らせて、森全体に聞こえるくらいの声で彼は告げた。

 

「行ってくるよーー!!」

 

 必ず、戻ってくると。

 外の世界に憧れたが、自分が帰るべき場所はたとえこの森でなくとも、クルタ族が住まう場所。

 クルタ族が住まう地こそが自分の帰るべき家だと宣言して、クラピカは旅立つ。

 

 胸の中に満ちるのは、未来への希望だけ。

 何もかもが鮮やかで、輝いて見えた。

 きっとこれからも、この幸福は続くと疑いはしない。

 

 不安はない。

 自分は緋の眼になっても怒りを抑えることが出来た。

 たった一人でも、クルタ族に対する偏見を取り除けた。

 同胞は移住して、自分の所為で危険な目に遭うことはないだろう。

 

 不安だったものは、何もかもを失って奪われて絶望するという未来は回避された。

 だから、自分はきっとこれからも幸福だ。

 物語のような大きな見せ場や盛り上がりのある人生でなくとも、ささやかだからこそかけがえのない、珠玉の幸福が手に入る。

 

 同胞と、家族と、親友と

 

 ――彼女と一緒に……

 

 

 

 

『そんな訳ないだろう』

 

 

 

 

 

「え?」

 

 道の先に人が立っており、慌てて手綱を引いて地走鳥(ピコ)を止まらせた。

 知らない人間だ。

 クルタの民族衣装を着ているが、全く見覚えのない相手だった。

 

 ……見覚えはない。ないはずなのに……、クラピカは相手を知っているような気がした。

 

 相手は、自分と同じ金髪で右手に鎖を束ねて巻いている誰かは俯いたまま、顔を見せないままクラピカに言う。

 

『……何も覚えてなければ良かった。空白に、虚に、空っぽであることに違和感を覚えているだけなら良かった。

 自分の力で止めることが出来たのなら、許せた。パイロの声が聞こえていたのなら、父さんや母さんのことを思い出したから止まったのなら、納得できた』

 

 意味がわからない、訳の分からないことを呟きながら、その人はクラピカに近寄って来る。

 何を言っているのかが全くわからない。言っていることの意味はわからない。

 何もわからないはずなのに……クラピカにはわかった。

 

 意味は分からない。訳がわからない。だけど、これだけはわかる。

 彼は自分を、クラピカを糾弾しているということだけはわかった。

 

『何も覚えてなければ、思い出せなければ良かった。知らないのなら、仕方がないと許して納得して諦めることが出来たんだ!!』

 

 鎖を携えた見知らぬ同胞は、クラピカを糾弾しながらその手を伸ばす。

 両手を、クラピカの首に。

 

「あっ……ぐっ……」

 

 逃げられなかった。避けられなかった。

 相手の気迫に押されて、クラピカは地走鳥(ピコ)を走らせることも、地走鳥(ピコ)から降りることも出来ず、されるがままに首を絞めつけられる。

 

 クラピカの首を絞めるクルタ族の誰かは、今にも血の涙として溶けだしそうな真紅の双眸で、クラピカを責めたてる。

 

『お前は! 彼女のおかげで幸福を得た!! 何も失わずに済んだ!!

 だからもう、引き金は引かれない!! 撃鉄は落ちない!! お前は……、お前は彼女を使って幸せになっておきながら、その所為で……その所為で彼女は!!』

 

 相変わらず、言っていることの意味は何もわからない。

 だけど、誰のことを言っているのかは初めからわかっている。

 

 決して失えない、忘れない、幸福そのものの蒼天。

 

 この誰かは、彼女のことを想い、それゆえにクラピカを責めたてる。

 クラピカへの罰を裁定し、その罰を執行する。

 

『……なぁ、悲劇が幸福な結末に至る為の前座なら……、幸福に至る為の撃鉄を落とすために悲劇という引き金を引かねばならぬのなら…………』

 

 裁定者にして処刑人が、罪人に泣きながら問うた。

 

 

 

 

 

『救いに出会えなかった彼女の悲劇も、いつか幸福に終われるのか?』

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

「!?」

 

 跳び起きてとっさにクラピカは首を押さえる。

 もちろん、自分の首を絞めつけていた両手はない。

 

 なのに、酷く息苦しい。

 未だに誰かに首を絞めつけられているように呼吸が阻害されている気がしながらも、それ以上にクラピカには気になることがあった。

 

「……あれは……私?」

 

 夢の中、5年前の夢の中で唐突に登場した見知らぬ同胞。

 あれは間違いなく、現在のクラピカだった。

 右手の鎖以外間違いなく今現在の自分と言える姿で現れ、そして幼い昔の自分を糾弾し、責めたてて、自らの手で絞首刑に処そうとしていた、……憎悪というよりも深すぎる悔恨に満ちていた自分を、鮮明に思い出してしまう。

 

「……何なんだ、あの夢は」

 

 あまりの訳の分からなさに混乱しながら、クラピカはベッドから降りて酷く渇いたのどを潤そうと、備え付けのミニ冷蔵庫から水のペットボトルを取り出す。

 それを飲みながら、思い出す。

 いつしかほとんど記憶に上がらなくなっていた、外の世界にで見つけたかった誰か。

 蒼天のように笑顔が美しい、自分の幸福そのものだと思えた人のことを、クラピカは久々に思い出す。

 

 思い出して、そして余計にあまりにも訳の分からない夢だったことに気付く。

 

(……何故、私は彼女のことに関して昔の私自身を責め立てたんだ?

 すっかり忘れていたことに対して責めるのならまだしも……、彼女のことを『覚えていた』ことに対して、どうしてあんなにも……)

 

 あの夢は外に出てから、思い返せばそれほどでもないが当時からしたら波乱万丈な日々を余裕もなく駆け抜けてきた所為で、いつしかほとんど忘れていた人……、あの外に出る為の試験で結果的に一番正しくて最善と思える結果になるきっかけだった恩人を忘れてしまっていたことに対する罪悪感だとしたら、不思議な所はほとんどなくなるのだが、あの夢の自分自身(クラピカ)は彼女を忘れていることではなく、昔の自分が彼女を覚えていること……、彼女のおかげで怒りを抑えることが出来たことを責め立てた。

 

 よくよく考えると、忘れていたことに対しての罪悪感なら今の自分が昔の自分に糾弾される方が自然なので、やはりあの夢は何もかもがおかしい。

 

「……バカらしい。夢なんて、整合性もなく意味などわからないものが普通だろうが」

 

 そこまで考えて、クラピカは自分が見た夢のことなど忘れようと頭を振った。

 意味などない。ただ、脳が記憶の整理をするために仕舞っていた記憶の欠片がたまたま結びついたから見てしまっただけの夢だと言い聞かせる。

 深く考えれば考えるほどに息苦しくなってゆくこと、あの試験の日に感じた説明のしようがない、漠然としながら重々しい不安が増してゆくことにクラピカは気付かぬふりをする。

 

 もう寝ろと自分に言い聞かす。

 外に出てパイロの眼と足を決して治療が難しいものではないことを知ったが、同時にその治療には莫大な金がかかることを知った。

 だからその治療費を得るためにプロハンターを目指して、そこで昔の自分のような子供二人と、自分とよく似た志望動機の受験生と出逢って、共に合格して、そして友人になった。

 そんな彼らと明日、空港で合流してそのままクルタの集落に招くという、自分もパイロもそして外の世界をあんなにも忌避していたはずの同胞たちも楽しみにしてくれているという予定があるのに、変な夢を見て寝不足なんてごめんだと言い聞かせて、クラピカはベッドに戻ってゆく。

 

 ……思い返した外に出る許可を与えられてからの5年間の記憶がまた、説明できない不安をさらに増幅させる。

 不安だけではなく、泣き叫びたくなるような痛みも共に湧き上がってくる。

 あの夢の中の自分のように、昔の自分の首を絞め上げたくなるほどの憤怒と悔恨は何なのか、クラピカにはわからない。

 

 自分の良心たる彼女は許しても、彼自身が許さない。

 矛盾だらけの今までから眼を逸らして、自覚しないようにしていたのに、今更になって何もかも自分の意思で好き勝手に書き換えられる明晰夢にこの世界を変えてしまうことなど、許さない。

 

 ここはお前にとって、自分にとって間違いなく現実だと言い聞かせる。

 あったかもしれない世界を、見せつける。

 

 引き金が引かれなかった、撃鉄が落ちなかった世界の、引き金は引かれた。

 

 

 

「!? …………なっ!?」

 

 

 

 ベッドに戻ってもう一度寝ようとシーツをまくり上げようとして気付く。

 自分のベッドの上に、小さな蜘蛛がカサカサと一匹這い回っていることを。

 小さな小さな蜘蛛だ。足の長さを含めてもクラピカの小指の爪にも満たないし、毒蜘蛛の類でもない。むしろ益虫に分類される、どこにでもいるありふれた小蜘蛛だった。

 

 なのに、クラピカの視界が真っ赤に染めあがった。

 両目に熱が集まって、頭の中には燃えや盛るような憎悪が湧き上がる。

 今すぐにこの蜘蛛を潰して焼き払って目の前から消してしまいたいという衝動が生まれるが、同時に指一本たりとも触れたくない、この蜘蛛が這いまわっていたベッドに寝ていたという事実を鳥肌が立つほどおぞましいものに思えてきた。

 

 そしてその衝動、嫌悪感、憎悪の何もかもが理解出来ず、クラピカは蜘蛛と自分自身に怯えるように後ずさる。

 

 クラピカは森育ちなので、虫の類は全般的に平気だ。致死性の毒を持つ虫でも、刺されたわけでもなければ逃げ場もないほど大群にいない限りは、冷静さを失いはしないぐらいに対処には慣れている。

 もちろん、クルタの集落の森に蜘蛛もいた。それもこの小蜘蛛の10倍ほどはありそうなものがむしろ普通サイズだったし、それこそ毒虫を捕えてくれるのでよほど邪魔な所にない限りは巣を壊さず放っておいて共存していたくらいだ。

 

 だから、こんな嫌悪感を懐くだけでもおかしいのに、何故自分はたかが蜘蛛に憎悪さえも抱いているのかが理解出来なかった。

 理解出来ないクラピカに、裁定者(クラピカ)は告げる。

 

『彼女のことを覚えているくせに、蜘蛛(こいつ)のことは忘れるなんて都合のいい真似が、許されると思っているのか?』

 

 ホテルの窓に映る自分が、怯えるクラピカに向かって吐き捨てるように言った。

 間違いなくそれは、自分自身。5年前の自分ではなく、今の自分だ。

 ただ、右手に自らを縛るように幾重にも鎖を絡めている所だけが違う。

 

『お前が蜘蛛を憎悪する理由も、嫌悪する理由もない。だけど、それがなければそもそもお前はあの日、間違えずに済むことなんか出来なかった。

 お前の幸福はあの日の悲劇があったからこそ手に入れたものなのに、お前は……貴様は本来手に入らなかった幸福を使って、何もかもを失わなかった!

 ……だからこそ、その分の悲劇は全部全部、彼女一人が背負うことになったんだ!!』

 

 鏡像の自分の言葉に押されて、また一歩後ずさりをするクラピカに彼は、鎖を持ったクラピカは地獄のような紅蓮の眼で見据えてもう一度彼を糾弾する。

 糾弾しながら、窓ガラスの向こうから彼は足を踏み出した。

 

 もう一人の、裁定者にして処刑人の自分が具現化したことにクラピカは短い悲鳴を上げてそのまま部屋から飛び出した。

 

 自分個人の能力はまだ作り上げていないが、“念”に関しての修業ならもう完了している為、クラピカはあの自分が誰かの念能力によるものだと思い込む。

 もちろん、何でこんな真夜中に自分とパイロしか知らないはずの彼女のことに関して、意味不明な言い分で責め立てる自分を具現化して襲わせる相手の心当たりなどないのだが、そんなことに頭が回る余裕などない。

 

 夢がまだ終わっていないことを自覚させてはもらえないまま、贖罪のように自覚を拒んだまま、クラピカはホテルから飛び出した。

 

 ごく普通の整備された町の道を走り抜けているというのに、まるでぬかるみの中のように足が重くて上手く走れない。悪夢特有の状況に陥りながらも、クラピカは夢だと気付けないまま、走って来るでもなくただゆっくりと歩いてくる自分自身から逃げる。

 

 どうして、自分が自分自身から逃げていることさえもわからないまま。

 逃げているのではなく、探しているということに気付けないまま。

 

 4年前に見つけるべきだった、出逢うべきだった人を今更になって探していることに、クラピカは気付けない。

 気付けないまま、縋りつく。

 

 あの日の悲劇が、幸福を得る為の撃鉄を落とす引き金ならば……、今からでも自分は撃鉄になれるのではないかという、あまりに都合のいい考えに縋り付いて探し求めて夜の町を走り抜ける。

 重い足を歯を食いしばって持ち上げて、溺れまいともがくように駆け抜け、何度も転びながら立ち上がる。

 

「!?」

 

 そんなクラピカの前に、いつの間に追い越したのか、それとも今ここで現れたのか、鎖を持った自分が現れる。

 彼は相変わらず、血の涙を流しそうなほどの憎悪と悔恨を滲ませた紅蓮の眼でクラピカを睨み付けていたが、今度は何も言わず無言で、鎖が絡んだ右手を上げて指さす。

 細く汚い路地を、指さした。

 

 その向こうに、奥に、人が立っているのが見えた。

 

 胸辺りまでの長さをそのまま背中に垂らした、老人のような真白の髪。

 華奢な男にも背の高い女にも見える体躯の誰かが、月光の下でぽつりと佇んでいた。

 まるで、誰かを待つように。

 

「あ…………」

 

 思わずクラピカは確認するように、あの「誰か」こそ自分が探していた彼女なのかと指さした自分自身に尋ねようと視線を戻せば、そこにはもう誰もいなかった。

 自分を糾弾していた、自分を追っていたはずの自分が消え失せていることに戸惑いながらも、路地の奥で佇んでいた人がふらりと歩き出したのを見て、クラピカは思わず「待ってくれ!」と声を上げて走り出す。

 もうその足は、泥に捕まるような重さなどない。

 軽やかに、探し求めていた人の元へ向かう罪人(クラピカ)の背後で、鎖の音をかすかに鳴らしながら彼は呟いた。

 

『なれる訳がないだろう』

 

 クラピカは、気付かなかった。

 その白い髪にまぎれて、見えなかった。

 その頭部に巻かれているものに気付けなかった。

 

「待ってくれ! 待って……」

 

 知らないはずなのに忘れたことがない名を、呼べなかった。

 

 路地を駆け抜け、彼女が佇む広場に足を踏み入れた瞬間、びしゃりと水たまりを勢いよく踏みつけたような音がすると同時に、自分が踏みつけたものが何を知ってクラピカは言葉を失う。

 

 振り返った彼女は、記憶の通り美しかった。

 美しく、あどけなく、彼女は言った。

 

「…………誰?」

 

 子供の様に無垢に、不思議そうに、少年にも少女にも聞こえる独特の声音で尋ねる。

 月下の元、いくつもの人間がパーツが血の海に泳ぐように散らばっている路地奥の広場の真ん中で、その両目を固く包帯で閉ざしながら――――

 

 彼女は、笑った。

 

 無邪気に、無垢に、壊れきった笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

『貴様が引いた悲劇の引き金から落ちる撃鉄の名は、絶望だ』

 

 

 

 * * *

 

 男もいれば、女もいた。

 老人らしき残骸もあれば、年端もいかぬ子供のものと思えるものもあった。

 

 バラバラでありながら、それら奇妙なほど人間としての原型は留めていた。

 切り口があまりに綺麗なので、人形を切り刻んだというより初めからこのような形で取り外せるパーツだったように思える残骸が、いくつも、いくつも広場全体が池になったかのような血だまりの中で、浮かぶように散らばっている。

 

 地獄絵図のような光景の中心に立つ、両眼を包帯で固く閉ざしている女は……彼女は、足元くらいしか血で汚れていないのもあって、傍から見たらこの残骸たちとは無関係に見える。

 手ぶらで凶器らしきものはどこにもなく、両目を包帯で閉ざしているのもあって、そこに何があるのかわからないまま迷い込んで立ち尽くしていると言えば、信じる者の方が多いはず。

 

 無関係であるわけがないことを、クラピカは知っている。

 この地獄を作り上げたのは、彼女以外有り得ないことを知っている。

 

 だけど同時に、彼女がこんなことをする訳がないことだって知っている。

 だって彼女は……彼女は――

 

「? ……どうかした? こんな夜中にひとりで出歩いてると、危ないよ」

 

 血だまりに一歩足を踏み入れたきり絶句しているクラピカに、彼女は小首を傾げてピチャピチャと音を鳴らしながら近づいてくる。

 子ども扱いしているのが癇に障るが本心からこちらを案じている、クラピカの良く知る声で彼女は近づきながら、ゆらりとその手を振るう。

 

「!?」

 

 金縛り状態だったクラピカが、その手から全力で逃げて避けた。

 避けられたことで、彼女はまた小首を傾げてから実に楽しそうに、無邪気にまた笑う。

 

「あはっ! 凄いね、君。初めてだよ。最初からこんなにも警戒して避ける子なんて」

 

 嘘であって欲しかった。有り得ないと心が叫びつつも、生存本能が体を動かした理由をあっさりと肯定して笑う。

 それでも、クラピカは信じたくなかった。

 この光景も、彼女の行動も、彼女が……どうしてこうなったのかも。

 

「……お前……なのか?」

 

 信じたくない。だけど、眼を逸らすことも出来ない。それだけは出来ないから、だからクラピカは一言一言を口にするだけで胸が張り裂けそうになるのを感じながらも問うた。

 

「……お前が、……殺したのか?」

「? これらのこと? うん、そうだね。私が殺したよ」

 

 あっけらかんと、彼女はこの残骸たちの製作者は自分だと、軽く手を広げて見せつけるように答えた。

 その答えだけで泣き叫びたくなるのを抑えつけて、クラピカはさらに問う。

 

「……何故……殺したんだ?」

「何故って…………うん、……何でだろ?」

 

 二つ目の問いも先ほどと同じく軽く答えようとして、彼女は再び首を傾げて逆にクラピカに訊き返す。

 

「……何で……なのかな? ……殺さなくっちゃいけない理由が……あったような気がするんだけど……なんか、わかんないや。殺さなくちゃいけなかったから……だから、だから殺してたんだけど……殺さなくちゃいけないから殺さないといけないけど、何で殺すんだっけ……。殺したらダメだったんだけど、殺さないといけなくて、殺しちゃって、でも殺さないと…………」

 

 ブツブツとクラピカの問いに答えようとしていながら、どんどん自分の話の前後ですら繋がりが途切れて、何を言っているのか、何が言いたいのかが全くわからない。

 ある意味では良心的な程にわかりやすい狂人らしい反応を見せながら、もはやクラピカの問いに答えようとしているのではなく、自問自答のようになっていた。

 

 クラピカなど眼中にないその反応を前にしても、クラピカは逃げ出さない。

 ただ、今すぐにでもその体を……何かに怯えるように、後悔するように俯いて途方に暮れているようにしか見えない彼女を抱きしめてやりたいと思いながら、彼は血だまりにまた足を踏み入れ、そしてもう一度、問う。

 

「……何故、私を殺そうとしたんだ?」

 

 殺されても良かった。

 彼女になら、自分は殺されてもいい。殺されるべきだと思った。

 許されていいはずがないから、全ては自分の所為だから、自分を殺すことで彼女が少しでも救われるのなら、それで良かった。

 

 だけど、彼女の答えは…………

 

「生きてるから」

 

 支離滅裂で自分自身でも訳がわからなくなっていたはずの先ほどの問いとは違って、軽やかに、今日の天気でも答えるように、クラピカの非を責めるのではなく当たり前のことのように言い出して、再び手を振るう。

 何も持っていない手を真っ直ぐに、クラピカに突き付ける。

 目や喉といった急所ではなく、肩や腹のあたりを貫手で、それも“纏”や“凝”をするでもなく無防備なまま突き刺そうとする為、念能力者のクラピカからしたら怖いものではない。“念”を知らなくても、普通なら相手の方が指を痛めるような攻撃だ。

 

 だが、クラピカは知っている。

 この手こそは確かに普通の手だ。普通の……柔らかくてあたたかくて、いつしか自分より小さくなってしまった女性らしい繊手にすぎない。

 しかし、この手で突き刺そうとしているもの、その包帯の奥から見ているものは、決して逃れられない終焉。

 隣にあって当たり前だが、それを受け入れることが出来ず、誰もが逃げ続けている結末。

 

 天国や地獄や生まれ変わりといった未来さえも奪い尽くして元始たる最果てまで一直線に突き墜とす、「死」そのものであることを知っている。

 

 だから原始的な恐怖に竦む足を、同じく元始的な生存本能が叱咤して動かし、そのどこを狙っているのか全く予測できない突きを何とか躱す。

 躱して、そして生存本能ではなく、生存本能が訴える「逃げろ!!」という命令を無視して、クラピカ自身の意志で手を伸ばす。

 

 手を伸ばして、無理やり掴んで、引き千切って取り払う。

 あの日の、最も憎い男のように。

 怨敵と同じように、ただ求めた。

 

 天上の美色でも、闇ではなく確かにどこか光りを灯す夜空色でもいい。

 彼女の眼を求めて、包帯を取り払った。

 ……それさえあれば、まだ間に合うと思えた。

 4年前にあるはずだった出逢いを、救いを再現できると信じていた。

 

 …………だけど、そこにあったのは――

 

「………………どう……し……て…………」

 

 クラピカの口から零れ落ちたのは、ただの悪あがき。

 本当は誰に訊くまでもなくわかっている。

 

 そこに、同胞の面影を見た蒼天も、どれほどの絶望を前にしても諦めなかった夜空も、……クラピカの幸福を真摯に願って、望んで、信じて見つめてくれた彼女の眼は……ない。

 

 ただ底なしと思えるほどに昏い(うろ)が二つ、ぽっかりとあっただけ。

 

 クラピカに包帯を無理やり取り払われても、彼女は無反応でそのまま自分に向かってきたクラピカの肩を掴んで引き倒す。

 獲物を引き倒して、押さえ込んで、逃げられないようにしてようやく、彼女は自分の包帯が取り払われたことに気付き、自分の顔に、空っぽの眼窩に触れてから呟いた。

 

「――あぁ、そうか」

 

 初めからわかっていたのに、その眼は防壁であり抉ろうが潰そうが意味がない。むしろより酷くなることを知っていたのに、それでも彼女は一縷の希望に縋ってしまった。

 正気だったからこそ、耐えられなかった。救いであり狂気の源泉となる出逢いがなかった。それでも、彼女は諦めることなど出来なかった。

 

「…………全部……殺せば……生きてるものが……なくなってしまえば……今度こそ……何も見なくて済むと思ったから…………殺してたんだ」

 

 だからこの世界でもやはり彼女は、壊れ抜くしかなかった。

 生きる目的も、理由も、意味もないけど、「死にたくない」という原始の願いだけは手離すことが出来なかったから。

 

 誰もがすぐ傍らにあることを知りながら、逃れることが出来ないと知りながらも、少しでも離れようと、わずかでも長らえようと足掻くには、……彼女にとってごく当たり前に生きるには、全ての生きとし生けるものが邪魔だった。

 自分に「終わり」を見せつける「生」が彼女を壊しに壊しぬいて……なのに、一番壊すべきものを、壊れてさえいれば楽になれたものだけは壊れていない。

 それだけは、ここでも、どこでも、彼女はいつだって手離さずに抱え込んでいる。

 

「……あぁ、バカだな……。私は……。もう……意味なんか……ないのに……」

 

 クラピカの問いかけが、彼女が悪あがきで封じていた虚を開放してしまった所為で、思い出してしまう。

 忘れたって手離さない、壊れたって守り抜く、だからこそ自分を破滅に追いやるものを思い出して彼女は、涙さえ流せない空っぽの眼でクラピカを覗き込み、……泣き出しそうな顔で笑った。

 

「……人を殺した私は、もう私を殺してやれない。私は、とっくの昔に死んでるのに、ね」

 

 笑って、彼女は死神の鎌よりも残酷な貫手を構える。

 クラピカにではなく、自分の方に。

 

「!? 何をっ!?」

 

 半身を起そうとクラピカは身をよじる。

「何を?」なんて言葉はバカらしい。何をする気など、わかりきっている。

 壊れ抜いても手離せなかったものを思い出してしまった。正気を取り戻してしまったのなら、もう終わり。

 

 彼女はクラピカの「良心」だからこそ、クラピカの甘えた望みなど叶えてはくれない。

 このままのうのうと、自分のしたことを正当化などして生きてなどくれない。再び壊れて、見なかったことになどしてくれない。

 どこまでも残酷に、清廉と彼女はクラピカが選んだ道の先、分岐した世界で必ずどこかで、クラピカの目の前であろうがあずかり知らぬところであろうが変わらない「結末」を、「終わり」を見せつけた。

 

 楽になる為に、諦めたから終わりにするのではなく、許されない自分を罰するために、これ以上誰も殺さないように彼女は、ここまで壊れ抜いても足掻き続けた「死にたくない」を終わらせようとしていることくらい、わかった。

 

 そうするしかない。そうしないと、彼女はこの世全てを、神様でさえも殺しつくすしかないのだから、そうしないと呼吸さえもできない地獄に4年前からずっとずっといるのだから、これからもずっと彼女自身が一番許せない罪を重ね続けることしか出来ないのだから……だから、彼女の為にも終わらせてやるしかないのはわかっている。

 

 それでも……それでも、クラピカは……

 

 

 

「やめてくれ!! ソラッッ!!」

 

 

 

 出逢っていなくても忘れられない、手離せない、幸福になる為に必要な人だから。

 たとえどんな罪を背負ってでも、生きていて欲しい人だから。

 

 だから、その手を伸ばして掴んだ。

 

 * * *

 

「? クラピカ?」

 

 青い瞳が、自分を映す。

 憔悴しきっている自分が、その眼の中にいた。

 

 自分の手の内には、握りしめたら折れてしまいそうな手首がしっかりと掴まれている。

 

 血だまりも、人間だった残骸もどこにもない。

 自分を見下ろしているのは、空っぽの眼窩の壊れ抜いた死神でもなければ、裁定者にして処刑人の自分自身でもなく、よく見知った人たちが心配そうにのぞきこんでいた。

 

「クラピカ、大丈夫? 水飲む?」

「めちゃくちゃうなされてたけど、大丈夫かお前?」

 

 センリツとレオリオが口々に自分を案じて様子を窺っているのはわかっているが、何も答えられない。

 未だに夢と現実の境が曖昧な思考は、ただ彼女を、探し続けた人を、見つけてあげれなかった人を、出逢えず自分が負うはずだった悲劇を全部背負わせてしまったはずの人を見ていた。

 

 同じように、その人もきょとんとした顔でクラピカを見返し続けたいたが、数秒の見詰め合いの末に彼女は……ソラは笑う。

 蒼天のように晴れ晴れしい、幸福そのものの笑顔で彼女は、迷子の子供のような顔をしているクラピカに言った。

 

「……おかえり、クラピカ」

 

「おはよう」ではなく「おかえり」という言葉に、思わずレオリオとセンリツが今度は目を丸くして言い出した本人を見た。

 状況にあっていない言葉にレオリオは少し呆れて「お前が寝ぼけてるのか?」と言いそうになったが、その前に言われた本人が言葉を返す。

 

「……ただいま」

 

 まだ、頭の中は夢と現実の区別がよくついていない。

 だからこそ、クラピカは口にした。寝ぼけて相手の言葉を理解していないから条件反射で返答しただけではなく、はっきりと自分の意思で「ただいま」と。

 

 自分が帰るべき世界はここであると。

 

 例えこちらが夢であっても、それでもクラピカは選んだ。

 

 クルタ族虐殺という悲劇があった世界を。

 ソラと出会えた世界を。

 

 その為に引き金を引いて、撃鉄は落ち、トドメを刺す。

 

「もしもクルタ族が虐殺されなかったら」という夢を、自分の手で殺して掴み取る。

 その悲劇があったからこそ、得た幸福を。

 

 彼女と幸福に終えるという未来(ゆめ)を、選び取った。






 人はいつでも悲劇を求めている。
 物語はもちろん、実話でも同じ。

 何の不幸もなく一生を幸福に過ごして終えました。
 そんな話は誰も求めていない。
 いつだって誰かの不幸を、嘆きを、絶望を求めてる。

 不幸を、嘆きを、絶望を求めて
 そしてそこから立ち上がって、歩いてゆくことを信じている。

 悲劇は幸福な結末の前座だと、信じている。
 悪夢は必ず覚めると、信じてる。

 ありきたりでありふれた、
 何の変哲もない平凡な幸福という一生は誰も望んでいないくせに

 ありきたりでありふれた
 何の変哲もない平凡なハッピーエンドをいつだって夢見てる。

 だから、足掻き抜くのでしょうね。
 いつか必ず終わる世界で、数多の悲劇を
 不幸を
 嘆きを
 絶望を前にしても

 足掻き抜いて、生き抜いて、そしていつか至ると信じている。

 ありきたりでありふれて、何の変哲もない平凡だからこそ誰もが夢見た





 誰もが望んだ大団円(グランドフィナーレ)を夢見て、生きている。
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