死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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この章のタイトル、初めは何の他意なく「宝石翁の弟子から宝石婆の弟子へ」でしたが、ビスケに殺されるのが確実なのでやめました。
いや、本当に他意なかったんですよ。ただゼルレッチの二つ名である「宝石翁」を女性版にしたら「宝石婆」になるしかないじゃないですか!

にしても「宝石翁」は字面も読みもカッコいいのに、「宝石婆」って字面も読みも最悪だな。





宝石師弟の昔話編
108:ストーンハンターと魔法使いの弟子


「ねー、ビスケ。ビスケとソラってどうやって出会ったの?」

「あー。それ俺も気になってた」

 

 本日の修業(ノルマ)を終えて、夕食を食べながらゴンは尋ね、キルアは同意する。

 

「は? 何さいきなり。っていうか、えらく今更ね」

「いや、前々から訊きたかったんだけど、訊く機会がなかったから」

 

 割と唐突かつ既に出会って師弟関係となり、そして自分がソラの師に当たることを教えてもう1か月近いというのに、かなり今更な質問に少しビスケは困惑しながら訊きかえすが、ゴンの答えで納得した。

 そういえば、今もだが最初の一カ月は完全な修行漬け、それもビスケはろくに意図を説明せず、ゴンやキルアもビスケの性格にも修業方法にも慣れていなかったのもあって、ノルマが終わったころにはへとへとで「ソラとビスケの出会い」という好奇心は、疲労で忘れ去っていたのだろう。

 

 ようやく体がビスケの修業ペースを学習して慣れてきて、ノルマをこなした後も雑談するくらいの余裕が生まれたからこそのタイミングだったようだ。

 

「あーはいはい、なるほど。けどあたしにそれを訊くってことは、あのバカ弟子からは何も聞いてないってことよね?

 もしかしてあのバカ、あたしのことあんたたちに『ババア』としか言ってないんじゃない?」

 

 納得したが、ついでに今更自分にそんなことを訊くということは、ソラからは何も聞いていないことに気付き、ジト目で睨み付けながら訊く。

 別に出会いの経緯を話しているかどうかはどうでもいいことだが、さすがに自分に関しての情報が「ババア」だけなら、いつものことだが今度はソラが何か言う前に殴り飛ばそうとビスケは決めた。というか既にビスケにとって決定事項だった。

 

 少なくとも、あのバカ弟子はビスケの詳しい外見は話してないくせに、実年齢はご丁寧に教えていることは既に判明している。

 その所為で、ビスケは審査会の時点でゴンとキルアがソラがハンター試験で出会って世話を焼いた子供であることに気付いていたから何かと目に掛けてやっていたというのに、ゴンとキルアは岩石地帯でビスケが彼らの才能の無駄遣いにキレるまでサッパリ気付かず、キルアに至っては「馴れ馴れしくてウザいガキだな」と思って、酷く邪険に扱っていた。

 ビスケの修業のスパルタ具合は、実はこのあたりのことをちょっと未だに根に持っていたりするからだったりする。

 

「そんなことないよ。ソラはビスケのこと命の恩人で大好きだって言ってたよ」

 

 しかしさすがに好意的な情報や感想一切なしということはなかったらしく、ゴンから彼自身はフォローのつもりもなくスープをすすりながら朗らかに答えられ、ビスケの方が照れてしまう。

 

「ふ、ふん! どーだか! 本当にそう思ってんなら、何であたしのことをあのバカはババアだの妖怪だの言うのかしらね!」

「事実だからだろ」

 

 ゴンによる間接的なのにストレートなソラからの好意に照れて悪態をつくビスケに、キルアもスープを啜りながらしれっとシンプルな答えを返す。

 もちろん、ビスケのアッパーカットが見事キルアのあごに決まった。

 

 なぜこうなるとわかりきっていたのに懲りずに言うのかと、ゴンは親友に対して少し呆れながらも介抱しつつ、自分の好奇心を満たすことをまだ諦めてはいない。

 

「ねー、ビスケ。教えてよ。命の恩人って、ビスケは何やったの?」

「……期待されているようだけど、あたしはほとんど何もしてないわさ。ぶっ倒れたあの子を病院に運んでしばらく様子見て、そんで成り行きで保護者というか後見人みたいな立場になっちゃっただけって話よ」

 

 キルアの発言にやさぐれながらも、どこまでも無邪気なゴンを邪険にあしらうのはさすがに良心がとがめたのか、ビスケは答えてくれた。

 ものすごく遠い眼をしながら。

 

「っていうか、あたしたちの出会いってぶっちゃけ本当に一番の初めは助けた助けられたじゃなくて、あたしがソラに殺されかかったって話よ」

「ソラは何してるの!?」

「あいつは何してんだよ!?」

 

 4年前から歪みなく斜め上を突っ走る前提から、話は始まった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 4年前、ビスケはある盗賊団を追っていた。

 追っている盗賊団は「幻影旅団」……を騙る小物のチンピラ集団。

 

 幻影旅団と名乗り、本物と同じく蜘蛛の刺青を体のどこかに入れているが、その刺青に団員ナンバーはなく、団員数も何か勘違いしているらしく本物と違って12人。足の数しかいない。

 一般人は確かに知らないであろう情報だが、旅団自体が念能力以外に関しての自分達の情報を基本的に隠す気があまりないので、少しでも情報に強ければ割と簡単に手に入る程度の情報も知らず騙っている時点で、相手が小物中の小物であることはわかっている。普段のビスケなら見向きもしない。

 

 そもそも、ビスケは賞金首(ブラックリスト)ハンターでも、クライムハンターでもなく、希少な宝石を探し求めるストーンハンターだ。

 分野が違う。本来なら追う理由はない。

 

 しかし、この小物たちは「幻影旅団」の威を借りてやらかしたことを自分の実力だと勘違いして調子に乗ったのか、ある宝石バイヤーの自宅に押し入り、バイヤー本人とその妻子も惨殺して宝石や現金、金目のものは根こそぎ強奪した挙句にその自宅に火をつけた。

 

 ……その宝石バイヤーは、家族ぐるみで付き合いがあったくらいに親しいビスケの友人だった。

 宝石の目利きが非常によく利き、仕事ぶりも誠実。予算が少ない客でも、予算内に最高の石を探し出して用意してくれるバイヤーだった。

 そして子供も親の影響を受けてか、ジュエリーデザイナーを目指していた。

 ビスケはその子供が赤ん坊のころから知っている。デザイン系の専門学校に入学したことを友人から聞かされたのも、子供が「良い宝石を見つけたら私にアクセサリーのデザインさせてくださいね!」と無邪気に言われたのも、記憶に新しい。

 

 そんな、ビスケがうらやま妬ましいと思いながらも慈しんできた、ビスケにとって大切な友人で理想の家族だった人たちを惨殺した鬼畜どもを、分野が違う畑違いだなんて理由で追わない訳がなかった。

 むしろ、誰の手にも渡したくなかった。

 仇を取ってやると言うつもりなどない。死んだ人間にしてやれることなどないことを、ビスケは既にもう何度も思い知らされてきたのだから。

 だからこれは、自分が友人を心から悼み、そして楽しかった思い出を美しいまま大切にしてゆくためのけじめだった。

 

 ……しかし、ビスケの願いは叶わない。

 

 スラム街にほど近い、治安が悪い地域のモーテルにその偽旅団がいるという情報を掴み、ビスケは“絶”で気配を消してそのモーテルまで歩く。

 さすがにこのまま単身特攻して、偽旅団を捕えるなり団員を殺すなりする気はあまりなかった。

 ビスケほどの実力者ならチンピラ12人くらい余裕なのだが、どうやら少なくともリーダー格が念能力者らしいという情報を掴んでいたので、ビスケはひとまず様子見することにした。

 

 掴んだ情報からして、そのリーダーも念能力者として未熟。“纏”と“練”くらいしか使えないし、念の系統すら知っているのかも怪しい、おそらくはちゃんとした能力者に師事して修行して得たのではなく、生まれつきか何らかの拍子で精孔が開いて“纏”と“練”だけを習得した者なのだろう。

 下手したらただの怪力だと思い込んで、自分の能力にすら気づいてないのかもしれないとビスケは思っているが、だからと言って甘く見てはいけないのが念能力。

 

 ルールありきのお行儀のよい格闘技と違って、ルール無用の殺し合いならジャイアントキリングはそう珍しいものではない。

 ルールなどない殺し合いでは、その場の様々な条件が己の実力を左右し、本来の実力を何も発揮出来ない事も、本来の実力以上の力を出すことも可能となる。

 そこに能力者本人の心そのものと言ってよい念能力が加われば、よほどの根本的な実力に差がない限りなおさら戦局は読めない。

 

 特に念能力というものを理解せぬままそれを得た者は、無知ゆえに怖い所がある。

 念能力のブーストとなる制約と誓約を無自覚の内に自分に課して、本来の実力以上の力を特定の条件下で得ている場合、その条件に誘い込むような言動が無自覚だからこそ皆無なら、ビスケほどの実力者でもその条件を気付かぬまま満たし、なす術もなくやられる可能性は非常に高い。

 

 だからこそ、小物だとわかりきっているのにビスケは慎重に動く。

 それほど、万が一の敗北の可能性を潰しきって確実に捕えたかった。殺したかった。

 

 だが、ビスケの計画は崩れ落ちた。

 耳が痛くなるほどの轟音、建物が瓦解する音と同時に。

 

「!? 何事!? テロ!?」

 

 さすがにこの轟音の起因が、自分の追っている偽旅団だとはほとんど思わなかった。

 偽旅団の被害は残虐で酷いものだが、小賢しいのか小物だから度胸が足りないのか、本物ほど大規模なものではない。放火は遊び感覚でやらかすが、爆弾でも仕掛けたような派手な建築物破壊という被害は出ていなかったし、こんなスラム地区の建物を破壊しても野次馬と警察を集めるだけ。

 奴らからしたらリスクはあれど、メリットは何もないはず。

 

 だからといってとっさに出てきたテロという可能性も、偽旅団の仕業ではないと判断した理由と同じく、こんなスラム街の一角を破壊して何の意味がある? という疑問にぶち当たるので可能性は低い。

 案外、自然倒壊という可能性が一番高いかもしれないと思いながら、少し悩んだがビスケは目的地のモーテルと方向は同じというのもあって、とりあえず音がした方へと向かった。

 

 かなり低いと思いつつも、自分以外に偽旅団を追っていたハンターと偽旅団が交戦して、あの建物倒壊の音はその被害という可能性が頭に浮かんだし、偽旅団が全く関係ないならないで、野次馬にくる可能性は普通にあると思えたのと、ビスケ自身の好奇心もあってちらっと見るだけは見ておこうと思っただけだったはずが、現場に近づくにつれてビスケの顔は強張り、足取りは速くなって、ついには駆け出していた。

 

 逃げ惑うスラム街の住人たちとは逆方向に、怒声と悲鳴、命を刈り取られる瞬間の絶叫が響き渡る所までビスケは“絶”で気配を消しながらも全力疾走で向かった。

 

 そして、そこで見たものは――――地獄の一端。

 

 廃ビルが一棟丸ごと倒壊している。

 あたりの他のビルも、今にも倒壊するのではないかと思えるほど傷ついている。

 

 瓦礫と同じようにそこらに散らばる、10人近い人間の死屍累々。

 そしてその死体の大半は、異常だった。

 

 異常と言えないのは、倒壊に巻き込まれたのか瓦礫に潰された者だろう。しかしそれは一人しかいない。

 残りの半数以上は、体をあまりにも鋭利に切断された者。

 

 バラバラと言う程ではない。たいていが上半身と下半身が二分されてこと切れているのだが、その切断面は芸術的と言っていいほどに綺麗。

 遠目からでも切断面は細胞を全く潰さず理想的なぐらい綺麗に切断されているのがわかるほど、それは生々しくも美しく、もしかしたら切断された直後なら、この傷口をぴったり合わせるだけで自然とくっついたのではないかと思える。

 

 そんな死体も十分すぎるほど異常だが、残り2体の死体はさらに異常だった。

 一人は片腕をすっぱりとこちらも綺麗に切断されている。それ以外に、目立った外傷はない。

 そして何故か、ビスケはその切断面を見て「これは無理だ」と悟った。

 

 上下二分の死体は、腕の良い剣豪と出来の良い刃物の二つが合わさってできる「戻し切り」と同じように、切られた直後ならばくっついたのではないかと思えたのに、同じくらいあまりにも綺麗すぎて切断したのではなく、初めからこうやって外れる構造になっていたのではないかと思える断面を見せるその腕は、どうしても切られた直後であってもくっつけることは出来ないと思えた。

 

 戻し切りはもちろん、念能力による治癒でも無理だと、何の根拠もなく確信していた。

 この腕は、絶対に何があってももう元には戻らない。骨も神経も細胞も念能力という補助があっても、繋がりはしない。完全に、完膚なきまでに死んでいるとビスケはその傷口を一目見て悟ってしまった。

 

 そしてもう1体の死体は、特に目立った外傷など何もなかった。

 だけど、死んでいた。こちらも完膚なきまでに、まだ上下二分の死体の方が蘇生の可能性を期待できるほどに、死んでいるのがわかった。

 

 どちらも目立った外傷はほとんどない。

 しかしよく見れば、腕を切断された方には右の鎖骨の下あたり、五体満足の方には左頬の辺りに傷があった。

 傷と言うより砂に指でも突っ込んだような穴のように見えた。血が全く出ていないから、そう見えるのだろう。

 

 そのこれまた異常さを醸し出す傷こそが、この二つの死体の致命傷だとビスケは悟る。

 そう思ったのに、理由はない。むしろ理屈で語るなら、どちらもその一撃で死ぬような位置の傷ではないし、即効性の猛毒をこの傷をつけた武器に塗られていたにしては、死体が綺麗すぎた。苦しんだ様子もなければ傷口に爛れもなく、肌や見開いた眼も変に血走っても青ざめてもいない。どちらも、その傷が致命傷である理由などあり得ない。

 

 だが、ビスケは確信している。

 理屈ではなく、経験則による勘でもなく、本能としか言いようがない部分が訴えかける。

 目さえ閉じていたら眠っているように見えるくらい綺麗なのに、目を閉ざしてベッドに横たえていても死んでいるのが一目でわかるくらい、その2体の死体は死んでいることを確信していた。

 

「……何……これ? ……何なのよ、これは……?」

 

 そんなハンター歴が約40年、死体など嫌な話だが見飽きているレベルのビスケでも怖気が走るほどの異常を目の当たりにして、唇を震わせながら呟く。

 警鐘が鳴り響く。

 今までの経験則と経験則を凌駕する本能が、逃げろとビスケに訴えかける。

 

 だが、ビスケはその警鐘をねじ伏せて歩を進める。

 派手な破壊音を響かせている方向へ。戦場へ。この「異常」の創造主と思える者がいる方向へ走り出した。

 

「っっざけんじゃないわさ!!

 どこの誰だか知らないけど、あたしの獲物をなに横取りしてんのよ!!」

 

 近づくにつれてさらに大きくなる警鐘の動悸をそんな強がり同然のプライドで抑えつけて、ビスケは“絶”を解除してオーラを纏うだけではなく、少女の姿から真の姿に戻って駆ける。

 

 全員を確認した訳ではないが、死体の半数近くに12本足だがナンバーが彫られていない蜘蛛の刺青を確認した。

 どうやら低いと思っていた可能性、誰かが偽旅団と交戦中が的中していたようだ。

 

 だから、ビスケは逃げる訳にはいかない。

 

 死体の数は9体だった。なら、残りの偽旅団員は3人。

 その3人もここではないどこかで死んだか、がれきの下敷きで見えなかっただけという可能性も高いが、少なくともまだ交戦している音がするのなら一人は生き残っているはずだと考えたから、どんな事情で誰が何をしているのかは知らないが、そいつだけは自分の手でという一心でビスケは駆けつける。

 

 異常の中心地に。

 ここで逃げたら、ビスケは友人を亡くした以上に後悔するからという一心で。

 

 だが、結局ビスケは何も出来なかった。

 その偽旅団のリーダーらしき男と、「誰か」の交戦に乱入出来なかった。

 男が悲鳴のような声で叫ぶ。「化け物」と。

 

 その言葉に、深く同意しながらビスケはただ見ていた。

 

 遠目からでも息絶え絶えだというのがわかるほど荒い呼吸をして、立っている「誰か」を。

 男か女かはわからない。服装はシンプルすぎるTシャツジーンズという格好で、艶やかな黒髪は男女どちらでも不自然ではない程度のショートカットかつぼさぼさに乱れているので性別の判別は不可能だが、それでもその人物の容姿が整っていることだけはわかった。

 例え髪が鳥の巣のようにぼさぼさに乱れきっていても、服装のいたるところが擦り切れ、血や砂ぼこりでどろどろに汚れていてもわかるほどの、その人物は美しかった。

 

 そして同時に、その人物はどう見ても満身創痍だった。

 その服を汚している血は相手からのものだけではない。少なくとも右腕の血はほぼ全て自前だろうと、曲がってはいけない方向にその右手が曲がっているのを見てビスケは判断する。

 

 思ったより、普通の光景だった。

 ビスケが先ほどの地獄絵図、異常な死体を見たことで捨て去った可能性、一番普通な光景と言えるものがそこにあった。

 

 ある2点を除けば。

 

 その人物の左手が持つ、ストーンハンターのビスケでも値がつけられない、至高という言葉でも足りないほどの品質であることが一目で知れる宝石でできた、豪華絢爛な棍棒という表現が一番想像しやすい武器が纏ったオーラの量と、そしてその人物の眼が……ビスケが探し求めてきたどの宝石よりも鮮烈な、世界七大美色の全てが一瞬で色褪せるほど美しい、天上の、最果ての、深淵へと繋がる至高の青、セレストブルーの眼。

 

 それらで全てを察する。

 この人物こそがあの地獄絵図を、異常を作り上げた本人であることを。

 そしてその人物を言い表すにふさわしい言葉は、ビスケでも「化け物」以外に思い浮かびはしなかった。

 

「化け物」は言った。

 

「――――世界を、穿て!」

 

 声を聞いてもやはり性別が特定できない。それどころか年齢さえも曖昧になった。

 上背は飛び抜けてはいないがそこそこあるので20歳前後とあたりを付けていたが、その声は変声期直前の少年じみた男女どちらとも取れるもの。そんな幼い声で叫び、放つ。

 

 手にした武器に纏っていたオーラを、光の斬撃に変えて男に撃ち出した。

 男は、悲鳴を上げながらも懸命にオーラを全力で絞り出して全身を包む。意図的にしているのかどうかはわからないが、それはちゃんと念能力の防御、“堅”になっていた。

 しかし、ビスケはもはや憎い敵に対して憐みを懐いていた。

 憐みを懐くほどに、それは無駄なあがきにもならなかった。

 

 男の体は、二分される。

 男が纏ったオーラを無効化した訳ではない。ただ、圧倒的な質量で男の“堅”ごと断ち切った。おそらくは、切り裂かれるピンポイントを奇跡的に“硬”でガードしていても、あの斬撃はものともせずに切り裂いただろう。

 

 男から見て右肩から左わきにかけて、相手が武器を振るって生まれた軌跡どおりの光の斬撃で切り離されて、呆然とした顔のまま血を吐き出してそのまま地面に上半身が頭から落ち、下半身も倒れ伏す。

 その光景を、自分の手で殺すであれ捕えるであれ決着を付けたかった相手が、あまりにあっけなく死んだのを目の当たりにしても、ビスケは何も思えなかった。

 

 思える余裕など、なかった。

 

 至高の青が、こちらを向いたから。

 

 * * *

 

 ターコイズよりアクアマリンよりラピスラズリよりもサファイアよりも深く鮮やかな青い眼がビスケに向けられた時には、相手は行動に移していた。

 

「世界を、穿て!!」

 

 先ほどと同じように呪文めいた言葉を叫びながら、宝石の武器を振るって光の斬撃を撃ち出す。

 相手はとっくの昔に、それこそビスケがこの場にやって来た時から彼女の存在に気づいていたのだろう。そして、その時対峙していた男を片付けたら、ビスケに攻撃するつもりだった。

 

 ビスケを偽旅団の一員と勘違いしているのか、それともそんなの関係なく攻撃しているのかは、ビスケにはわからなかった。

 それほど相手の顔から感情や思惑が読み取れるような表情はなく、両性にして無性の美貌は疲労と苦痛さえも薄い無表情で、何の躊躇もなく流れるような自然な動作で視線を向け、腕を振るってきた。

 

「ちょっ!? 見境なしか!!」

 

 文句を付けつつ、ビスケはさすがに少女モードより落ちるがそれでもその体格からは想像できぬほどの俊敏さを発揮して、横手に避ける。

 先ほどの攻撃をよく見て思った通り、この光の斬撃は銃弾のように真っ直ぐに撃ち出されるもので、途中で軌道を変えたり散弾銃のように弾けたり、狙った相手に自動追尾するタイプではなかったことに安堵する。

 

 しかしその安堵は束の間。いや、束の間と言えるほどの時間もなかった。

 

「穿て!!」

 

 ビスケが避けたら、相手はまた腕を振るって斬撃を撃ち出す。何度も何度も、がむしゃらに腕を振るっているだけのように見えて、相手はちゃんとビスケの動きを見ている。

 どこに撃ち出せば次の回避が困難になるか、袋小路に追い詰められるとわかっていても、そちらに逃げるしかないように誘導しながら撃ち出し、追いつめる。

 ビスケが回避出来ているのは、回避に専念しているからと相手が怪我と疲労で腕を振るうペースがそこまで速くない、というか武器を持っている左手も右腕よりマシだが負傷しているのか動きがややぎこちないので、何とか回避出来ているだけ。

 

(ちょっ! マジでヤバい!! 回避できる程度の乱撃だけど間合いに入れる程の隙はないし、逃げるにしてもこいつ相手に背中を向けるのは勘弁したい!

 避けまくってガス切れを期待したいけど、この斬撃はマジで何!? どう考えても、こいつ自分のオーラの総量以上をあの斬撃の一つ一つに込めてるんだけど!?)

 

 逃げ惑いながら、ビスケは訳も分からず攻撃を仕掛けられている現状を打破する術を考えるが、考えれば考えるほどの相手の謎が増す。

 攻撃手段からして念能力者であることに間違いないだろうが、それにしては相手は念能力の常識から外れている。

 

 この攻撃手段自体は放出系か操作系なら十分に可能だが、明らかに撃ち出される光の斬撃に込められたオーラが矛盾している。

 念能力自体はどんなに荒唐無稽でも有り得るが、念能力は生命エネルギー(オーラ)を自由自在に操る能力だからこそ、自分の総量以上のオーラを消費する能力は有り得ない。

 

 他者に寄生したり、他者からオーラを供給してもらうことで発動する能力もあるが、その場合は発動するのに必要なオーラを相手から受け取るのであって、寄生する能力や供給してもらう能力そのものを維持するのは能力者本人のオーラだ。能力者本人が全く負担を背負わなくていい能力なんて、存在しないと断言していい。

 

 ビスケが必死で回避しながらも観察した限りでは、相手はその法則に当てはまっていない訳ではなさそうに思えた。

 元々荒かった呼吸が、光の斬撃を撃ち出すほどにまた更に荒くなってゆき、汗はだらだらと流れているのに顔色はどんどん悪くなり、振るう腕の動きも悪くなっている。間違いなく、相手もちゃんと自分のオーラを消耗させることで、この斬撃を生み出しているはずだ。

 

 しかし、ビスケが見た限りこの相手は“纏”も出来ておらずオーラを垂れ流し状態の、何でこんな能力を持っているのか全く分からないほどのド素人だ。そんな素人が、こんなビスケどころかネテロでさえも1撃撃ち出せばオーラがすっからかんになりそうな質量の斬撃を連続して撃ち出せるわけがない。

 

 他者からオーラを奪うなり分け与えてもらうタイプだとしても、やはりこれだけのオーラを供給してもらうにはプロハンターでも数秒でミイラになるほどの量だというのに、今現在対峙しているビスケはもちろん、あたりを探っても人の気配はない。相手が誰かのオーラを使っているという可能性も消え失せた。

 

 いっそ全く未知の能力ならば特質系だと判断して、深く考えるのは止めて現状の打破だけの頭を働かせようとするが、半端に説明がつく分、矛盾が気になってそこに思考が割かれてビスケの頭は上手く働かず、苛立ちまぎれにビスケはそこらにあった倒壊した廃ビルの瓦礫……それもビスケ自身くらいありそうなものを相手に向かってブン投げた。

 

「世界を、穿て!!」

 

 しかし相手は、そんなでかさの瓦礫を持ち上げたことも自分に向かって一直線に投擲されたことにもひるまず、武器に命じながら振るい、その瓦礫も豆腐のように一刀両断して文字通り道を切り開き、駆け抜ける。

 ビスケに向かって、相手は距離を詰めてきた。

 

 斬撃の切れ味と全くひるまず行動に移す相手の躊躇の無さに戦慄しながらも、相手が遠距離ではなく近接戦を選んだことに少しだけビスケはホッとした。

 ビスケの遠距離からの攻撃手段は、先ほどのようにそこらにあるものを投擲するくらいしかないので、相手から間合いに入ってくれるのはビスケからしたら好機。

 もちろん、近距離からでもあの武器の攻撃手段は脅威であり、そして何よりも未だにビスケが見て一番異常だと感じとった死体は、どのように殺されたのかが不明。それこそ、近距離からの攻撃手段によるものである可能性くらい、もちろんビスケはちゃんと考えついていた。

 

 しかしその可能性があるということくらいしか、今の段階ではわからない。

 ほとんど何もわかっていないのと同じようなものだが、それでも遠距離からのえげつない攻撃を防戦一辺倒でガス切れを待つより、間合いに入ってくれた方が早く片が付くと思えた。

 相手の疲労や怪我の具合、体格や相手のオーラ量からして間違いなくビスケが一撃を入れたら片が付く。命の保証は全く出来ないが、そこは正当防衛、弱肉強食だと思って相手の運に期待するしかないと考えながら、ビスケは相手の動きに細心の注意を払い、こちらも距離を詰める。

 

「世界を――」

 

 駆け抜けながら、左腕が振り上げられる。

 凛然とした声が、命じる。

 

「穿て!!」

 

 その命令と同時に武器が振り下ろされる。振り下ろされた軌跡に合わせて、その棍棒のような宝石製の武器が纏った莫大なオーラが光の斬撃となって一直線に撃ち出される。

 威力と斬撃の大きさは洒落にならないが、撃ち出されたそれは銃弾のように真っ直ぐにしか飛ばないことは、もう判明している。実は撃ち出して飛ばす軌道を自在に操って変えられる、今までの攻撃はこの一撃を決める為の「真っ直ぐにしか飛ばない」と思い込ませるブラフだったのなら、自分の未熟さを悔やんで死のうと覚悟を決めて、ビスケも間合いを詰めながも撃ち出されるであろう軌道から紙一重になるように身をよじり、そしてそのまま攻撃できるように拳を固める。

 

「!!??」

 

 ビスケの考えは、正しかった。

 光の斬撃は真っ直ぐにしか撃ち出せない。ブラフなどではなかった。

 ブラフなのは、斬撃ではなかった。

 

「具現化系!?」

 

 思わず、叫ぶ。

 光の斬撃が撃ち出されると思っていた武器が、振り下ろされると同時に光の粒子となって崩れ落ち、消えてゆくのを目の当たりにして。

 それは実体のある武器ではなく、相手のオーラによって作り出された物であることを知って、一瞬ビスケの思考が「何で!? どういうこと!?」という疑問で埋まりパニックを起こす。

 

 攻撃手段からしていかに非常識で矛盾していても、系統そのものは操作系だと思っていた。光の斬撃自体は放出系の能力で説明がつくし、操作系は特質系に後天的に変化する可能性があるので、相手の念能力の常識に囚われていない部分は何らかの制約と誓約(ルール)に加えて、特質系の要素があるのかもと考えていた為、ビスケが想定していた系統とほぼ真逆であった事実が、ビスケの思考から冷静さを奪う。

 

 そして相手は、“纏”も出来ていないど素人であるはずなのに、「念能力」という言葉を知っているのかどうかも怪しいくらいなのに、おそらくは全部わかっていた。

 この武器は……決して本物には至れないが、本物に劣る訳がない奇跡の生き残りは、遠距離専用の武器であること。自分の「間合い」に入れば形が保てず、消え失せることくらいわかっていた。

 

 そういう風に、作り上げたから。

 自分のハンデを、チップとして支払って得た物だから初めからわかっていた。

 

 だから今度は、そのチップとして支払ったハンデを利用した。

 ビスケが叫んだ「具現化系!?」という言葉の意味も、どうしてここまで驚愕しているのかもわかっていないが、今まで散々あの光の斬撃の威力を見てきた彼女であれば、絶対にその斬撃の軌道を読んで避けることだけは確信していた。自分の想定以上の驚きでパニックに陥っているのであれば、なおさら好都合なだけ。

 

 ビスケの斬撃を避けようとして身をよじった体に、相手は左手を振り下ろした直後に右足を振り上げていた。

 その爪先で、セレストブルーの眼で、ある一点を狙いながら。

 ビスケの暴力的かつ芸術的と、とある趣味の方々が絶賛しそうなほどの隆起を見せる左太ももめがけて、蹴りつける。

 

 オーラもろくに籠っていない、ただの蹴りだった。そうとしか思えなかった。

 ビスケと比べたらマッチ棒のような足から繰り出される蹴りなら、ビスケがオーラでガードしていなくとも相手の足の方がたぶん折れていただろう。

 だからそんな蹴りなど甘んじて受けて、そのまま固めた拳で殴りかかれば良かった。いつものビスケならそうしていた。

 

 操作系由来の能力かと思っていたら、また更に念の常識からして有り得ない具現化系だったという事実による衝撃とパニックを一瞬で塗りつぶすほどの寒気……本能による警鐘がなければそうしていた。

 

「っっっうううぅぅっ!!」

 

 その蹴りを無理やり、相手を殴りつけるのを諦めてビスケは足や背中の筋を痛めそうなほど無理な体勢を取ってさらに身をよじり、半回転するような動きで何とか避ける。

 彼女からしたら十数年ぶりのあまりに無様な避け方で、ろくな受け身も取れずにそのままバランスを崩して倒れてしまい、即座に身を起こして体勢を立て直すことも出来なかった為、やはり無様にごろごろと地面を転がって相手から距離を取る。

 

 本能が心臓を早鐘のように打ち鳴らして警告した。

 この攻撃を受けてはならない、と。

 この攻撃こそが、ビスケが見た異常の正体だと何の理屈も根拠もなく訴えかけてきたからこそ、ビスケはなりふり構わず光の斬撃以上に回避に専念して避けきって、そして相手からどれほど無様でみじめであっても距離を再び取る。

 

 幸い、相手の疲労はかなり溜まっているのかビスケの無様で隙も大いにあったはずの回避に追撃を掛けることが出来ず、蹴りを避けられた後はその場に座り込んでしまっていた。

 

 ようやくガス切れか……と期待することは出来なかった。

 ガス切れかそうでないかなど関係ない。オーラを使い果たしても、それでも生きているのなら相手はまだ諦めない。この目の前の「化け物」は、それこそ首だけになっても自分に食らいつくことが容易く想像ついた。

 

 それほど、強い「意志」が宿った眼だった。

 

 地面に膝をつき、ゼイゼイと濁った呼吸を短く繰り返す蒼白の顔色で「化け物」は、その白皙の美貌すら霞むほど美しい双眸でビスケを睨み付けていた。

 その顔に、やっと感情を浮かびあげて。

 

 天上の美色であるセレストブルーが地獄の業火に見えるほどの怒りを滾らせて、相手はぎこちなく左手を動かして自分の右腕、二の腕あたりに爪を立てて自ら傷を抉り始めた。

 相手から距離を取ってようやく身を起こして体勢を立て直したビスケがそれを見て、思わず自分も右手を押さえて痛みに耐えるように顔を歪ませた。

 

 しかし傷を抉って血を噴き出させている当の本人の顔と瞳に浮かんでいる感情は、ただひたすらな怒りのみ。

 そして、その怒りを声にも乗せて叫ぶ。

 

「来いよ! クソジジイ!!」

 

 訳がわからない、というか意味不明すぎる叫びだが、それが発動キーワードなのだろう。

 傷を抉っていた左手が右腕から離れ、その手のうちに再びあの煌びやかな武器が現れる。

 おそらくは、傷の深さや流れ出る血液の量、痛みの大きさが制約なのだろうが、そうだとしてもやはり具現化系であの威力の放出系能力と思える斬撃が説明は出来ない。

 だがもはやビスケは、この相手の持つ異能を念能力で説明することは諦めた。

 

 諦めた。

 だから、別の方法を模索して、そして見つけ出した藁に等しい何かに縋って実行する。

 

「……消えろ」

 

 相手が、初めて能力の発動キーワードではなく、自分の意思と思える言葉を吐いた。

 

「消えろ。皆……消えろ。……私たちに……関わるな。……絶対に……許さない」

 

 怒りに滾った瞳と声音で、ビスケからしたら訳がわからないことをぶつぶつと呟く。

 訳がわからなかった。意味がわからなかった。言いがかりであることしかしかわからなかった。

 ……次の言葉を、聞くまでは。

 

「……クラピカを……傷つけるな。……私は早く、あの子の元に帰ってやらなくちゃいけないんだ。……待ってくれているんだ……。だから……だから…………」

 

 誰かの名前を、口にした。

 誰かの名前を口にして、もう立ち上がる気力もないのか座り込んだまま、それでも相手は再び具現化した奇跡の生き残りを振り上げて、底冷えするような声音で命じた。

 

「――――死ね」

 

 その命令を、ビスケの意志関係なく実行させる為に左腕を振り下ろす直前、ビスケは何とか声を張り上げて割り込むことに成功した。

 

「ちょっと待って! あたしは幻影旅団とは何の関係もないわよ!!」

 

 かなり今更な事実を口にする。

 相手がいきなり何の躊躇もなく攻撃を仕掛けてきたため、おそらくは何を言っても相手は自分の言葉など信じない、下手に何かを言えば火に油だと思って何も言わずそのまま交戦していたが、怒りに滾った眼で呟いていた言葉に、ビスケは一縷の希望を見た。

 その希望に縋って、実行した。

 

「何なら今すぐに真っ裸になってみせてもいいわよ! そうしたらあんたも納得するでしょ!? あたしの体のどこにも、蜘蛛の刺青なんかないのを見たら!!」

 

 彼女の瞳にも言葉にも、理性らしきものはほとんど見当たらなかった。頭に血が昇るという域を超えて、「殺さないと殺される」という極論に達して暴走しているのは明らかだった。

 だけど……その暴走の理由が自分の生存本能ではなく誰かの為……、自分以外の誰かを守る為なら……、通じるのではないかと期待した。

 

 誰かを守る為、自分以外の誰かもちゃんとその視界に、例えその誰かがこの場にいなくても視界に入っているのなら、その耳に届くのではないかと思った。

 ビスケの、自分は敵ではないという言葉が届くのではないかと思えたから、ビスケは訴えかける。

 

「あたしは、あんたがぶっ殺したやつを追ってたハンターよ! 獲物を横取りされたのはムカつくけど、そのナントカって子を助ける為だったのなら文句なんてつけないし、もちろんその子にもあんたにも危害をくわえる気なんかサラサラないわよ!!」

 

 かなり今更で当たり前のことを訴えかけ続ける。

 その間、相手は腕を振り下ろさなかった。

 煌びやかな棍棒のような武器を握ったまま、その人物はビスケの言葉が続くにつれて目を丸くしていった。

 理性らしきものは、まだ見当たらない。しかしその顔から怒りが徐々に薄れてゆき、敵意や殺気も同じく霧散してゆく。

 

「…………違……う?」

 

 丸くした目で、左腕はまだいつでも振り下ろして斬撃を撃ち出せるようしたままだが、それでも怒りを無くして代わりに困惑に染まりきった声が、たどたどしく言葉を口にする。

 

「……旅団(クモ)じゃ……ない……?」

 

 ビスケが自分の敵ではないこと、幻影旅団(クモ)ではないことを確かめるように尋ねる。

 その問いに、ビスケは相手を刺激しないように両手を軽く上げ、自分に敵意や害意、戦闘する意思もないことを表しながら頷いた。

 

 ビスケの首肯と同時に武器を握りしめていた指から力が抜けたのか、具現化された宝石製の武器は掌から零れ落ち、地面に叩きつけられる前に光の粒子となって消え去った。

 そしてビスケはぎょっと目を見開く。もちろん、それはオーラ製の武器が消えたからではない。

 

 相手の眼の色が変化した。

 徐々に、空の色が日が暮れるまでを早送りで見ているように、この世のどの宝石よりも美しいと断言しても良かったセレストブルーの明度が下がってゆき、サファイアブルーほどの明度に落ち着いた。

 眼の明度と同じように、振り上げていた左手が下りてくる。右手は逆に力なくゆっくりと上がり、両手が同じ高さになってそのまま相手は自分の手を見下ろし、凝視し始めた。

 

 その行動を両手を上げた降参のポーズのまま観察していたビスケは、ようやく気付く。

 相手の性別が、おそらくは女性であることに。

 

 別にこれといった根拠はない。ただ何となく、そんな気がしただけだ。

 自分の両掌を呆然と見下ろすその人物の顔が、やけに幼く見えた。幼い少女に、見えた。

 元より性別どころか歳さえもよくわからない相手だったが、その様子はまるで10歳以下の迷子の子供のように、途方に暮れた幼子のように見えた。

 

 その幼子のような少女は自分の掌を数秒間見つめ続け……、唐突にその蒼玉の瞳から大粒の涙がこぼれ出てまたビスケの反応を困らせた。

 幼子のように見えてしまっているから、訳もわからず自分が泣かせてしまったという罪悪感に駆られて、けど近づいていいのかわからずその場でオロオロ狼狽していると、少女は泣きながら自分の掌を見つめ続け、その美しい顔を絶望としか言いようがない表情に歪ませ、呟き続ける。

 

「ごめんなさい」と贖罪の言葉をひたすらに、何度も何度も繰り返す。

 

「は? え? いや、いきなり現れたあたしも怪しいことこの上なくて、偽旅団(クモ)の援軍だと思われても仕方なかったから、わかってくれたら別にいいのよ?」

 

 号泣とも啜り泣きとも違う、静かだが悲痛この上ない涙に戸惑いながらビスケがフォローの言葉を掛けるが、残念ながらビスケのフォローに意味はない。

 この女は、無関係のビスケに勘違いで攻撃を仕掛けたことに対して謝っている訳ではなかった。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……。式さん、ごめんなさい……。

 教えてくれたのに、せっかく教えてくれたのに……何でダメなのか、教えてくれたのに……守れなくってごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 ビスケなど眼中になく、彼女は別の誰かに対して謝っていた。

 誰かの教えを無駄にしたことに対して、酷く悔やみ、悲しみながら謝り続ける。

 

 自分が眼中にない謝罪に気付き、さすがにビスケはイラッと来たが、またその謝罪が誰かの教えを破ったことから別の何かに対する謝罪に変化してゆき、彼女が何に対して謝っているのかに気付いた時、ビスケは言葉を失う。

 

 ビスケは、見誤っていた。

 自分が見誤っていたものに気付き、そのことを深く後悔する。

 

 理性を失って暴走していたとはいえ、その理由が誰かの為なら、誰かを守る為ならば、話は通じると思っていた。

 当初は化け物にしか思えなかったが、怒りをあらわにして誰かの元に帰らなくてはいけないと訴えかけていた時、化け物の中に人間らしさを垣間見たから、それを一縷の希望として、相手の理性を引き出す頼みの綱になると思って利用して訴えかけたことに、間違いなどない。

 

 彼女が見誤ったのは、相手の価値観。

 

 少女は泣きながら、酷く汚れた両手を見下ろしながら何度も何度も謝る。

 何度も何度も謝っても許されないことを知りながら、許されない罰を背負いながら、それでも謝り続ける。

 

 

 

 

「――――殺して、ごめんなさい」

 

 

 

 あの異常を生み出した、地獄絵図を作り上げた相手は、おそらくは自分が知る「人間」の中で一番、「殺人」を犯してはならない、その罪の重さから目を背けられる相手ではなかったことに、ビスケは気付けなかった。

 

 この少女が見ているのは自分の掌ではない。

 その手を汚す血を、自分自身の血ではなく自分が奪った命そのものである血を彼女はずっと見ていた。

 自分の手を汚す血の……命の重さを真っ直ぐに、相手が犯罪者だとか自分の行いは正当防衛だったという言い訳で眼を背けず、全てを背負って見つめて受けとめて抱え込んで、謝罪を続けていることにビスケは気付く。

 

 謝罪を続け、罪を独りで背負って誰にも渡さない。

 彼女が理性を、人間性を捨て去っても守りたかった、最後に残された人間性であった「守りたい誰か」の所為に絶対にしないように、ならないように、ただ一人でそのか細い傷だらけの体で抱え込む。

 

「あんたは悪くない」という言葉は、出てこない。

 あまりにも真摯に贖罪を続ける相手にそんな言葉を掛けては、それこそ相手の贖罪の冒涜にしかならない。

 だから、ビスケは唇を噛みしめて俯き、後悔し続ける。

 

 おそらく自分の両手は、彼女以上に誰かの血で汚れている。

 そんな自分の手をあまりにも簡単に正当化して、眼を逸らしてきたくせに、今だって真っ直ぐに見つめて背負う気なんてとてもなれないくせに、この少女とは違って誰かの為ではなく自分が生き残りたいがあまりに、彼女に背負いきれない罪を突き付けたことを悔やみ続けた。

 

 少女は何度も何度も繰り返し謝り続ける。

 殺したこと、命を奪ってしまったことを謝り続けながら、その体はぐらりと(かし)いだ。

 

 さすがにその場に立ち尽くしていたビスケも、慌てて駆け寄るが間に合わず、少女は地べたに倒れ伏す。

 倒れ伏した少女の傍らに膝をつき、ビスケは「大丈夫!?」と声を掛けると、まだ気は失っていなかった少女が今にも落ちそうな瞼を懸命にこじ開けつつ、顔を上げた。

 

 そして、折れている右手と異様に熱の籠った左手を伸ばして、その場から這いずり、進む。

 

「!? 何してんの!?」

 

 負傷して、体力も底尽きかけているその体で這いずってもそれはナメクジ以下の動きでしかないが、それでも少女はビスケの叱責を無視して前に進む。

 謝罪ではなく、自分の意思を口にして。

 

「……いか……なくちゃ…………」

 

 進む。

 行かなくてはならない場所へ。

 帰るべき場所を求めて、泣きながら、背負いきれないものを背負いながらも、足がもう動かなくても、それでも進む。

 

「帰らなくっちゃ……。あの子が……クラピカが……待ってるから……私は……私は…………」

 

 許されなくても、もう自分を殺してやる権利を失って、生きた幽霊同然の存在になってしまった罪人でも、どんなに生き抜いても死後のその先を期待できなくても、あれほど恐れて逃げ出した深淵に、最果てに、空っぽに、「 」に堕ちてゆくという結末しかなくても、それでも求めた。

 彼だってこの罪を許してくれなくとも、彼からもこの罪によって拒絶されたとしても、彼が生きている限り、彼が幸せである限り、自分はどれほどの罪に苛まれても生きてゆけるから。

 

 彼が幸福に生きるという夢こそが、どんな罪を背負ってでも守ってゆきたい、自分で選んだ道だから。

 その道を見失わない為に、歩んでいくために少女は残された力を振り絞って、這いずりながらも進み、手を伸ばす。

 

「――――クラピカ」

 

 しかし、その手は何もつかめぬまま……血で汚れた手は地面に落ちる。

 残されていた力を出し切って、少女の意識は最も彼女自身が恐れる、最大の罰である夢さえ見ない夢の中に落ちていった。

 

 力尽き、今にも途切れそうな弱々しい呼吸で眠りについた少女を見下ろし、ようやくやって来たパトカーの音を聞きながら、ビスケは痛々しさに歪んだ顔で見下ろしながら呟いた。

 

 

 

「……何なのよ、あんたは」

 

 

 

これが、ビスケット=クルーガーとソラ=シキオリの出会い。

腐れ縁の始まりだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「……この話クラピカの奴が知ったら、罪悪感で吐血するんじゃねーか?」

「するね。間違いなく」

 

 一通りビスケとソラの出会いというか、ソラの暴走によりビスケが殺されかかった話を聞いたキルアの第一声に、ゴンは真顔で力強く同意した。

 

 ビスケと出会いの話どころか、ソラとクラピカの過去だってヨークシンでの昔話くらいしか二人は聞いてなかった。

 その理由は、キルアからしたらむしろ聞きたくもない話なので、ゴンもキルアに気を遣っていたというのは大いにあるが、それ以上に気を遣っていたのはクラピカとソラに対して。

 なんとなくソラとクラピカのやり取りからして、ソラが初めて人を殺してしまったのはクラピカを守る為だったことは想像ついていたので、ゴンだけではなくキルアも二人に気を遣っていたから今まで訊きはしなかったのだが、思った以上にソラはその行為を……「殺人」を悔やんでいたことを知って、二人の胸の中に重苦しいものが満ちる。

 

 今現在のソラを思えば信じられないほどの情緒不安定だが、よくよく考えれば今のソラの情緒だって安定している訳ではない。

 奇跡的なバランスで正常に見えるように保っているだけで、本質は不安定この上ない。

 

 今の彼女と4年前の彼女に変わりはない。

 今も昔も、彼女ほど人殺しをさせてはいけない、自分の精神を犠牲にしてもその罪を真正面から受け止めてしまう人間であることは、残酷な程に変わっていない。

 変わってしまったのは、4年前よりソラは隠し事が上手くなってしまったことだけだ。

 

 平気じゃないのに平気なフリが上手くなってしまっただけ。眼を逸らしてなどいないのに、罪など見ていないように傍から見たら見えるようにふるまえるだけ。

 

 そしてそれも、全部自分の為ではなく誰かの為。

 守りたい誰かに、自分が負った罪を絶対に渡さない為に得た、自分一人だけが傷つくための(すべ)

 

 その痛々しさ、彼女の強がりの裏に隠された償いと苦しみを改めて知って、キルアとゴンは暗い顔で俯き続ける。

 自分たちでもこれほど、ソラ一人にそんな罪を背負わせてのうのうと幸福に生きていることが罪悪感となって潰されそうなのに、彼女が「自分を殺してやる権利」を失わせたきっかけであるクラピカは、例えソラがその罪を絶対に渡さなくても、だからこそ罪悪感がさらに積み重なって確実に比喩無しで血でも吐くだろう。

 心情で言えば、吐血どころか今すぐに首を括りたいぐらいのはずだ。

 

「そう。ならこの場にその『クラピカ』がいなくて良かったわさ」

 

 ビスケも二人の発言に、引いているような納得しているような微妙な顔で言葉を続ける。

 

「あのバカ弟子の情緒不安定、はっきり言ってこれは序章よ?

 っていうか、言っちゃなんだけどこの当時はあの子、まだまともな部分を多く残していたからこそ本っっっ当に大変だったんだから」

 

 言いながら、ビスケの眼が据わる。

 過去の話を話している最中は、ビスケ自身も知る由などなかったとはいえ、もっとも残酷な断罪を突き付けたことを悔やむような顔をしていた。

 きっと、彼女もずっとずっと4年前から悔やんでいる。

 

 ビスケは今でも、ソラのように自分が奪った命を真っ直ぐに見てなどいない。

 自分で直接奪った命より、彼女との出会いのきっかけとなった友人の死のように、自分が守れなかった命の方を重視して抱え込んでいる。

 自分が奪った命については、適当に自分を正当化して生きる上で負担にならないぐらいに軽くしている。そのことに思うことはなくはないが、それをソラと同じくらい真っ直ぐに見たら、それこそソラと同じように壊れるしかない。

 そして自分は、ソラと同じくらい壊れても生きていけるとは思えない。

 

 だから、眼を逸らして考えないで、その罪は自分が死んだときに償うことにしているからこそ、ビスケは未だに悔んでいる。

 

 そんな風に折り合いのつけられる自分が、もう少しでも早くあの偽旅団の元にたどり着いていたら、ソラはその手を汚さずに済んだという後悔が消えない。

 

 その後悔を久々に、あまりにも鮮明に思い返してしまってやや鬱っぽく気分が落ち込むが、ソラとの攻防戦をひとまず語り終えてその後のことを思い返したら、ビスケの後悔は消えやしないが一気に薄れた。

 

「えーと、ビスケ? どうしたの?」

「……あのバカはマジで何をやらかしてんだよ?」

 

 ビスケの纏う空気から陰鬱なものが一気に薄れたのをゴンとキルアも感じ取って、二人は困惑気味に尋ねる。

 その問いに、ビスケは「これは別にあの子に非があるって訳じゃないんだけど……」と前置きしながらも、ビスケの顔はぶすくれていた。

 

 言葉通り、珍しくソラ自身に非はないことはわかっているのだが普通に驚いた……というかドン引いたし、大変どころではない苦労を思い出したからか、ビスケは疲れたような深い溜息を吐き、話し始めた。

 先ほどまでの話が懺悔ならば、ここからはただの愚痴だというのがよくわかるほど、やさぐれた目でまずは二人に訊く。

 

「一応訊くけど、あんた達二人ともあのバカが眼を使い過ぎた時の後遺症がどんなのか知ってるわよね?」

「? うん、知ってるけどそれがどうかしたの?」

「………………あ」

 

 ゴンの方はビスケの問いの意味がよくわからず、首を傾げながら素直に答えるが、キルアの方はしばし間を置いて声を上げた。

 ビスケの問いの意図に気付いたキルアに説明を求めるようにゴンはそちらに顔を向けるが、キルアは頭痛に耐えるように片手で頭を抱えていたので、余計に彼は困惑する。

 

「え? キルアもどうしたの?」

「……どうしたもこうしたもねぇよ。……あいつ、今でこそあの後遺症に慣れて、目がろくに見えてなくてもその辺を平然と歩き回るけど……慣れるどころか『初めて』その後遺症が出たら、どうなると思う?」

 

 キルアの答えに、ゴンも数秒間を置いてから「あ」という声を上げ、顔色が青ざめた。

 その反応でもう二人は語らずとも何があったのかは既に察しているだろうが、だからといってビスケに語らないという選択肢はない。

 

「……あの子は悪くない、むしろこの上なく同情する話なんだけど、聞け。あたしの苦労を」

 

 やさぐれた昔話第二部が始まった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 病院の一室で、ビスケは少女の姿に戻って椅子に座って眺めている。

 人形のように整い過ぎている美貌の少女を眺めながら、目覚めるのを待っていた。

 

 ビスケの友人の仇である偽旅団を虐殺して殲滅した相手は、やはりビスケの勘でしかなかった印象通り女性だった。

 あの殺し合いというか殺されかかってから丸一日近く経っているが、それだけ経ってもわかっていることはまだそれぐらい。

 

 いや、判明していること自体は結構ある。

 この少女の名前と彼女がどうして偽旅団と交戦することになったのか、彼女があそこまでして守りたかった誰かのことなども既に分かっている。

 

 どうやらこの少女……ソラ=シキオリはあの偽旅団が宿泊というより押し入っていたモーテルに運悪く宿泊して、その美貌故に絡まれていたのがきっかけらしい。

 彼女が絡まれていることに気付いた、彼女が連れていた5歳ほど年下と思える少年こそが、彼女が守り抜きたかった「誰か」……クラピカだ。

 

 宿泊する際には「姉弟」として手続きをしていたが、モーテルの従業員曰く、髪の色も瞳の色も違うし、顔も似てるか似てないかで言えば似てないことはない程度だったので、実の姉弟とは思えないような二人組だったらしい。

 実際の関係はわからない。だが、ソラはもちろんクラピカにとってもソラは大事な人であったことは、ソラが絡まれていることを知っていても、関わりたくなくて見て見ぬふりをしていた従業員が、自分を正当化させる言い訳をしながら語った。

 

 ソラが部屋に戻ってくるのが遅くて心配でもしたのか、部屋からロビーにまで出てきたクラピカがソラに絡む旅団に気付き、12,3歳の少年とは思えない勢いで何人かを倒したが、彼は念能力者のリーダーによって片腕を捥がれたらしい。

 そこからは証言した従業員も他の客も、さすがに子供とはいえ人間の腕を素手で捥ぎ取るという光景でパニックが起こり、話が支離滅裂で詳しいことはよくわからない。

 

 なんとか聞き取った情報をビスケの想像で補完しながら寄せ集めて出来た経緯は、クラピカの腕が捥がれた直後、ソラは悲鳴を上げながら何かを投げつけて偽旅団の何人かを火に巻き、クラピカと捥がれた彼の腕を持って逃げ出したというだけ。

 その後、クラピカという少年はどうなったのか、どうしてソラは一旦逃げ出せたのに偽旅団と再び対峙することになったのか、肝心な所はサッパリわからないまま。

 

 とりあえず、彼女と偽旅団の交戦が派手過ぎたおかげで、関係のない者はとっとと逃げ出した為、ソラが手を汚した相手は偽旅団のみで済んだのは幸いだ。

 モーテルの宿泊手続きで書いた内容が出鱈目なのか、未だにこのソラという人物の身元はきちんとは判明していないが、被害者は幻影旅団の騙りとはいえ生死問わず(デッド・オア・アライヴ)の賞金首となっている凶悪犯罪者であることと、プロハンターのビスケが庇ったのもあって、彼女が罪に問われることはないだろう。

 

 ……むしろ彼女からしたら、わかりやすく断罪してほしいくらいなのかもしれないなと思いながら、ビスケは眠り続けるソラを黙って眺める。

 眺めながら、考える。

 彼女が起きたら、何を話しべきか。

 彼女から何を聞き出すべきか、それともわかっていることを話してやるべきかを考えるが、その考えは纏まらない。

 

 聞きたいことが多すぎて何から訊けばいいかが全く分からないし、じゃあ彼女に何かを教えてやるにしては、おそらく彼女が最も知りたい情報はビスケの手元にはない。

 

 ……クラピカという少年の行方や生死は、未だにわからない。

 怪我からして生きている期待は出来なかったはずなのに、どういう訳か未だに死体は見つかっていない。

 最愛の少年を喪ったからこそソラは正気を失って復讐をしていた、最後の痛々しい「帰らなくっちゃ」という言葉は少年の死という事実を受け入れられず忘れていたからこその言葉だとビスケは思っていたので、死体が見つからないという情報に喜んだ。彼女があそこまでして守りたかった最愛が生きているという期待に、他人事ながら救われた。

 

 が、クラピカが生きているのなら隻腕の少年なんて目立ちすぎる特徴を持っているのに、どういう訳かこちらの情報も手に入らないのが現状。

 この現状にビスケは首を傾げるしかない。

 

「……本当に、あんた何者よ」

 

 呟きながら、ビスケは人形のように眠り続けるソラの頬を一度撫でた。

 

 どうして、未だに自分が美容の大敵である徹夜までしてこの少女が目覚めるのを待っているのかは、ビスケ自身もよくわかっていない。

 関わってしまったからには、ビスケも警察やらハンター協会やらに報告しなければならないことは山ほどあるし、普通にわからないことが多すぎるから疑問を少しでも解消したいというのもあって、この少女から話を聞くのは当然の流れだが、そんなの病院からの「意識が戻りました」という報告を近場のホテルかどこかで待っていればいいことだ。わざわざ、まるで家族や友人のように病室で目覚めるまで待つ義理などない。

 

 そんな義理などないのに待っている理由をあえて言うのなら、成り行きと罪悪感だろう。

 

 あまりに幼げに泣きながら、「殺してごめんなさい」と謝り続けた彼女に、本来なら自分が背負うはずだった罪を肩代わりさせたような罪悪感を覚えてしまいほっとけないから……、自分の罪悪感を薄めたいから自分を正当化させる何かが欲しいからここにいるだけだ。

 

 そんな身勝手な自己満足がしたいだけだからこそ、こんな苦労を背負い込んだのだろうかと未来のビスケは少し思う。

 そのことを後悔しているかと訊かれたら、そっぽを向いて答えはしない。

 後悔しているのか、関わらなければ良かったと思っているかどうかは決してビスケは答えやしないが、苦労の始まりはこの時からだと答える。

 

「……う……んっ……」

 

 かすれた声が上がった瞬間。

 薄い瞼がゆっくりと開き、純度の高いサファイアのような瞳が現れた時こそ、ビスケの今後の苦労が決定した瞬間だ。

 

「! ……おはよう。あたしのこと、覚えてる? っていうかわかる?」

 

 目覚めたソラにビスケはナースコールを押して医師等にソラが目覚めたことを知らせつつ、ぎこちなく笑って話しかけた。

 ソラと出会った時とビスケは真の姿バージョンだったので、ビスケの言ってることはなかなかの無茶ぶりだと実は自覚していたが、それ以外になんと言えばいいのかわからないのでそのまま曖昧に笑ってソラからの返答を待つ。

 

 しかし、ビスケの言葉は無茶ぶりだろうがそうでなかろうが関係なかった。

 何を言っても、この場にいたのがビスケであってもなくても、誰もいなくても、この時の彼女の反応など変わらない。

 

 初めは、ビスケの言葉を聞いていないようなぼんやりとした眼をしていた。

 この辺の反応は、寝起きなので当然ビスケは何も気にしていなかった。

 ビスケは「大丈夫?」と訊きながら彼女の目の前で手を振ってみせた。

 

 徐々にぼんやりと半開きの眼がはっきりと開き、半分寝ているような目に焦点が合い始めて、もう一度ビスケは相手に安心させるように笑いかけ、最初と同じことを言ってみた。

 

 その瞬間、寝起きでぼんやりとした顔が歪む。

 ベッドの上に横たわったまま、サファイアブルーの眼が激しく動き回る。周りを、あたりをぐるぐると何かを探すように見渡し、動き回り、何度目かの往復を繰り返してその視線がビスケに舞い戻った時、困惑するビスケを蒼玉の瞳が映しながらソラは、声を上げた。

 

 

 

 

 

「っっっっっっっきゃああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!!!」

 

 

 

 

 

 両性にして無性の美貌を絶望に歪ませて、ソラは恐怖一色に染まりきった悲鳴を上げた。

 両手で一切の躊躇なく、自分の両目に指を突き入れて。


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