死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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109:ビスケの苦労はまだまだ続く

「ソラは悪くないのはわかってんのよ。でも、あたしの衝撃も理解出来る?

 起きて早々、あたしの顔見て罪悪感や後悔じゃなくて恐怖による絶望顔になった挙句、恐怖って感情をそのまま音にしたような絶叫しながら、ノーモーションで自分の両目を抉ろうとしだしたのを目撃したあたしのその当時の気持ち、わかる?」

「うん、わかった。わかったから落ち着け。めちゃくちゃ心臓に悪くて焦ったのはわかったから、まずは落ち着け」

 

 ソラを病院に運んで意識が戻った直後……、ソラが初めて自分の眼の後遺症による視界を前にした時の錯乱ぶりを、やけに据わった目でビスケは語り、キルアは心の底から同情しながらとりあえず宥めた。

 

「っていうか、ビスケよくソラを止めるの間に合ったね」

「あぁ、あの子そのとき両腕を負傷してたのが、今思えば最大の幸運だったわ。

 右手は骨折してたからギプスの所為で指は第一関節くらいしか出てなかったし、左腕もあの宝石剣って使用の副作用で一振りごとに筋肉繊維がいくつもブチ切れるから、筋肉痛どころか酷い炎症起こして本来ならしばらく腕なんて動かないはずだったのよ。

 だから、目に指を突き入れたけど眼球そのものを指で突き刺して潰してなかったから、抉る前に何とか取り押さえることが出来たわさ」

 

 ゴンも同じように宥めつつ、ビスケのファインプレーに改めて感心していたら、ビスケはそのファインプレーが成功した理由を語る。

 理由を知って納得したが、よく考えたらこの事実は「腕がほとんど動かなかったから、運よく止めるのが間に合った」のではなく、「ほとんど動かない腕を動かしてまで抉ろうとした」ということだ。

 ビスケの当時の衝撃も相当なものだが、ソラの絶望は比べ物にならないほどだろう。

 

 彼女なら当時でも、自分の眼を抉ってもその視界からは逃れられない、むしろ抉ってしまえばそれこそ見えるものは「死」だけになることを知っていたはずだ。

 こちらの世界に「直死の魔眼」についての知識など誰も持っていないはずなのだから、彼女が今持っている自分の眼の知識なんて、その眼を得てからの経験則以外は前から魔術師として持っていた知識なのだから、それが当然。

 

 なのに、何の躊躇もなく抉ろうとした。

 それが無意味だということを忘れていた、もしくはその知識は嘘で眼球を失えばその視界からも解放されると一縷の希望に託したのなら、まだ救われる。

 彼女はただ、何も考えられなくなるほど怖かったから、自分の視力そのものが落ちていることにすらおそらく気づかず、ただ相手の顔もわからなくなるほど色濃く世界を塗りつぶす「死」の視界に恐怖して、発作的にその元凶と思えた眼球を抉ろうとしただけ。

 

 それほどの絶望は、当然容易く取り押さえて止められたわけがない。

 

「抉るのを止めるのが間に合ったのは良いけど、事情をちゃんと知るまであたしはしばらく『止めなかった方が良かったんじゃないか?』っていう無駄な罪悪感に苛まれたわさ。

 だってあたしがソラの両腕を掴んで羽交い絞めにしても、絶叫しながら暴れ続けたからね。あの子、本当に恐怖そのものの悲鳴を、喉が裂けんじゃないかってくらい叫び続けてたから、しばらくあの悲鳴が耳から離れなかったわよ」

 

 ビスケは思い出せば思い出すほど、当時の苦労と心労もリアルに蘇ってきてげんなりとした顔と口調で語り、ゴンとキルアはまた更に同情を深くしたような引き攣った苦笑を浮かべて、「……大変だったな」「……お疲れ様」と今更だが当時のビスケを労わった。

 

「そうよ、もう本当に大変だったんだから。

 あたしが取り押さえている間にナースコールとソラの大絶叫で医者が来て、とにかく落ち着かせようと鎮静剤を打ったんだけど……これも今思えばあの子が一番恐れているのは、夢さえ見ない夢の中なんだから鎮静剤なんか全力で拒否するのは当然よね。いくら打っても寝も落ち着きもしないから、意識障害起こす危険が出そうなほど打ってようやく寝かしつけたわ。

 その後は、PTSDによるフラッシュバックで錯乱してたと思われたから、あの子には悪いけど拘束ベルト付きのベッドで寝かせて、隔離されたわさ。それもあたしの所為かとしばらく思って、いやーな思いを抱え込んだわ」

「ビスケも大変だけど、ソラも本当に大変だっただろうね」

 

 さらにビスケが愚痴って語る内容に、ゴンは痛ましそうな眼で語る。

 確かにビスケもこの上なく大変だっただろうが、ソラ側の事情を知った上で聞けばソラがどれほどの恐怖と絶望の中にいたのか、想像もつかない。

 

 今のソラは副作用で視力が低下して、代わりに魔眼の精度が上がった視界でも、ケロッとした顔で普通に過ごすことが出来ている。

 それが出来るようになるまで、どれほどの絶望と恐怖を味わったかを考えれば胸がこの上なく痛くなり、その痛みに耐えるようにゴンは悲しげな顔のまま俯いた。

 

「……あのバカにも、そんな繊細な時期があったんだな」

 

 キルアも同じように痛みに耐えるような顔で、強がりの憎まれ口を叩く。

 その憎まれ口に、ビスケは「あー……」と何やら呆れて脱力したような、こちらも脱力する声を上げたので、子供二人の顔から悲痛さが薄れて、きょとん顔でビスケを見やる。

 

「……あたしもね、戦ってた時とかその後の様子、病院での錯乱であの子はものすごく繊細だからこそ極端に突っ走るタイプだと思って、だから凄いこっちも色々罪悪感抱え込んで心配してたんだけど…………幸か不幸かその勘違い、あれは確かにある意味繊細かもしれないけど、極端に突っ走るんじゃなくて元から極端しかないただの馬鹿だってことは翌日にさっさと正されたわ」

「早ぇよ!! あのアホ、何しやがったんだ!?

 っていうか、意識障害を心配される程の鎮静剤を打たれても翌日に起きたのかよ!! あいつ、俺ん家並の耐毒性持ってんのか!?」

 

 どこまでも歪みなく、ある意味では意外性もなく斜め上なソラに思わずキルアは突っ込み、ゴンも苦笑する。

 ビスケの愚痴は、まだまだ続く。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 翌日、ビスケは散々悩んだ。

 病院に行くべきか、行かない方がいいのかを悩みに悩みまくった。

 

 起きて早々、自分の顔を見て恐怖に染まりきった顔で恐怖そのものの悲鳴を上げて、自分の眼を抉ろうとした挙句、意識障害の後遺症を心配するレベルの量をぶち込まないと眠らないどころか泣いて叫んで暴れ続けるほど錯乱されたことに、ビスケは罪悪感を懐いてしまっていた。

 

 後にならなくても、冷静に考えればソラの錯乱はビスケの所為ではないことくらい、彼女側の事情など知らなくても普通にそう思う。

 あれはビスケを怖がって暴れたというより、PTSDによるフラッシュバック、心の防衛反応すらも傷ついて壊れた所為で、本来なら気にも留めない些細な何かがアレルギーのように彼女の弱った心に過剰に働きかけて、トラウマを呼び起こされててパニックを起こしたと医者もビスケも判断していた。

 ビスケは何も悪くない。ただ、互いの運が悪かっただけ。

 

 だが、それでも彼女があそこまで怯え、自分の眼を抉ろうとするほど狂乱したきっかけがビスケ自身であることは間違いないと思っているからこそ、ビスケは自分のすべき行動をまた間違えたと後悔し続ける。

 もっと早くに、自分が偽旅団の元にたどり着いていたら、自分が起きるのを待つのではなくプロである医者に初めから全部任せていれば……という思いが消えない。

 

 恐怖一色に染まって歪んだソラの顔が網膜に焼付き、恐怖という感情そのものの音だった悲鳴が耳から離れない。

 そして、多量の鎮静剤で死んだようにぐったりした彼女がベッドにベルトで拘束されて、外側から鍵のかかる精神病患者の為の病室に運び込まれたのは、頭では彼女を自傷から守る為だとわかってはいても、まるで彼女を罪人か危険な獣扱いしているようで酷く気分が悪い。

 

「……何、良い子ぶってんのかしら、あたしは。……あたしだって、あの子のことを『化け物』だと思ってたくせに」

 

 悩みに悩んで、結局せめてソラはどうなったのか、これからどうするべきなのかという話だけでも聞きに行こうと病院まで足を運んだビスケが、ソラを受け持ってくれた医者の時間が空くまで、待合室のソファーで足をぶらぶら揺らしながら呟いた。

 

 化け物だと思った。

 それは、念能力の常識をことごとく破壊するあの能力はほとんど関係ない。そんなものを目の当たりにする前から、一目見た瞬間からとっさに浮かんだ言葉が「化け物」だった。

 

 それほど、得体のしれない存在だった。

 それほど、人間離れしているように思えた。

 

 それほど、あの美しすぎる青い澄み切った、なのに濁りきっているようにも見える底知れないセレストブルーの眼が怖かった。

 

 そしてその眼の持ち主にふさわしく、初めはソラに人間味を感じられなかった。

 ただ、その視界に入った生き物を殲滅し尽くす存在に見えた。

 機械じみているのとはまた違う、どちらかと言うと天災に近いもののように感じた。

 

 機械ならば自らの行動自体に意志など無い無機物でも、実行させているのは人間だ。どこかに必ず、人間の有機的な意思がわずかばかり介入して存在している。

 だが、天災にはそんなものはない。

 天災はただただ圧倒的な力の奔流。そこに誰かの意志などない。ただその奔流になす術もなく巻き込まれる者たちが、天罰だの何だのと理由づけするだけ。

 

 それらと同じくらい、恐ろしかった。

 自分に襲い掛かって来たことに理由なんてないと思っていた。発生した天災がその場にあるもの全て破壊し尽くすように、ただビスケがそこにいたから殺しにかかってきたとしか思えなかった。

 

 だけど……彼女にはちゃんと人としての「意志」があった。

 そしてそれは、天災にはあまりに不似合いなほど純粋で幼いものだった。

 自分自身のしたことで、何よりも自分自身が取り返しがつかなくなるくらい傷つくほどに。

 

「……はぁ。本当、厄介なのに関わったわさ」

 

 考えれば考えるほど、思い返せば思い返すほどに陰鬱な気分になってゆき、ビスケは深い溜息を吐いてソファーから立ち上がる。

 そしてそのまま、医者の暇が出来そうと言っていた時間までまだだいぶあるので、散歩がてら歩き出す。

 

 ソラが隔離された病室まで、ビスケは歩いて行った。

 もちろん、鍵がかかっているので中には入れない。

 

 隔離病棟なので本来なら医者や看護師などの病院内のスタッフ以外は入れない所を、「外から様子を窺うだけ」と無理言ってやって来たくせに、ビスケは外から中を窺える小窓から部屋の中を見る気にはなれなかった。

 どうせ、中を見ても昨夜あれだけ鎮静剤を打ったのならまだ眠っているだろうから、見ても見なくても何の意味もないことは初めからわかっていたので、元々「中に入ってもいい」と言われても入る気などなかった。

 

 なのに何故、来てしまったかは自分でもわかっていない。

 だからビスケはしばらく、鍵のかかった扉の前で立ち呆けて、もう一度深い溜息を吐いて来た道を戻る。

 

 言いたいことは相変わらず、何も浮かばない。

 怖がらせたことを謝ればいいのか、怖いものなんて何もないと言ってやればいいのか、彼女があそこまでして求めた「クラピカ」を探してやると口約束してやればいいのか、自分の言葉がどれほど彼女に伝わって、何かしらの意味を成すのかすらわからないビスケに言うべき言葉はないと判断し、もう50年以上生きているのに無力な自分自身に嫌気がさしながら何歩か歩いた時……。

 

「!?」

 

 音がした。

 それも何か硬いものを落とした程度の音ではなく、積み木を崩した時の音を何倍にもしたような派手なものだった。

 そしてその音は、先ほどまでビスケが立ち呆けていた扉の中から。

 ソラの病室から、聞こえてきた。

 

 ビスケは強張った顔でその扉を凝視する。

 纏っていたオーラを広げ、“円”を展開しながらドアや壁もすり抜けて気配を探る。

 回診か何かで中に医者か看護師でもいて、うっかり何かを倒したか落としたかしただけだと期待しながら。

 

 だが、その期待はあっさり打ち破られる。元々、そんな期待は現実逃避であることだってわかっていた。

 だってここは怪我や病気で入院する患者の病棟ではない。

 ここは、精神を病んだ者の為の隔離病棟。自傷や他害の危険性のある患者を隔離している病室に、あんな音がするほどのものなど普通は置かないし、医者たちも持ってこない。

 

 だから、音がした時点で“円”などしなくてもわかっていた。

 その部屋には、患者しかいないことくらい。

 

 しばらくすると、ドアノブがガチャガチャと音を鳴らして震えるように動く。

 ドアの向こうで誰かが立って、部屋から出ようとしていることが手に取るようにわかる。

 ドアノブはしばらくガチャガチャと音を鳴らしていたが、すぐにその音は止む。

 

 ビスケは動かない。そのドアに近づかないし、医者を呼びにも行かない。

 この手の病室なら一部屋ごとに監視カメラがついているはずなので、ビスケが呼ぶ必要もなく誰かしらすぐにやってくるだろう。

 だから、彼女はただひたすらそこで待った。

 

 二日前、あのスラム街で出会った時のように本能が鳴らす「異常」に対する警鐘を抑えつけながら、待つ。

 そのドアから、中にいる者が出てくることを。

 

 鍵がかかっているのだから出てこれないという考えは、なかった。

 そんな常識、おそらく彼女には通用しない。

 現に、ビスケの“円”が捉えている。

 彼女は、鍵がかかっているドアの前にまだいる。諦めてなどいない。

 さすがにそのドアの前で何をしているのかまではわからないが、外に出ようとしていることだけはもはや理屈抜きで理解出来た。

 

 そしてビスケの予想通り、扉は開く。

 ゴトリとドアノブがドアの一部ごと切り抜かれて、床に落ちることで鍵は無効化されて、病室の扉が力なく開いた。

 

 そして、ふらりと出てくる。

 薄緑色の病衣を着てはだしのままペタペタ歩き、左手には一筋の血を垂らしながら、出てきた。

 

 ソラ=シキオリは、まだ夢見るようなぼんやりとした表情で、しかし自分の家の寝室から出てくるようにごく自然に、当たり前のように出てきた。

 

 * * *

 

 おそらくは点滴の針を無理やり引き抜いたのか、ソラの左腕、肘の内側あたりから血がぽたぽた流れ出ているが、まだ鎮静剤の効果が残っているのか全く気にした様子もなく、ソラは病室から廊下に出てきてそして緩慢な動作で顔を向ける。

 

 ビスケの方に、眠たそうな藍色の眼を向けた。

 今度は悲鳴も上げず、表情も変わらない。ただひたすら眠そうな顔で、やけに上品な仕草であくびをしただけだった。

 

 その反応にちょっと拍子抜けしつつ、ビスケはオーラを普段より多めに纏いながらよく相手を観察する。

 

 何も、持っていない。

 鍵のかかったドアを内側からドアノブを切りぬくことが出来る工具や武器の類はない。

 二日前の戦闘で、この娘は具現化系の能力を持っていることは既に判明しているが、彼女は何かしらの能力を使ってこのドアを破壊した訳ではないことは、自分の“円”でわかっている。

 

 わかっているからこそ謎が増す現状に苛立ちながら、ビスケは口を開く。

「何をした?」とシンプルにまずは訊くつもりだったが、その前にあくびをして目をこすりながらソラが、ややかすれた声で言った。

 

「そこの美少女、訊いていい? ここはどこ? 病院?」

「は? あ、え、うん、そうよ。病院よ」

 

 思わず、戸惑いつつも素で普通に答えてしまった。

 それはあまりにも常識的だが予想外な反応と疑問だったので、こちらも軽く混乱したからであって、「美少女」という呼称が嬉しかったからなんか警戒心とかがすっ飛んで、素直に答えた訳ではないとビスケは言い張るので、そういうことにしておこう。

 

「そっかー。まいったなー。治療はありがたいけど、お金たぶんないぞ。っていうか、私の荷物とかどうしたんだろう?」

 

 ビスケのそんな言い訳や心情など当然ソラの方は気付かず、眠たげな顔のまま独り言を呟き、ペタペタと彼女は歩いてビスケに近寄る。

 そしてそのまま、ビスケを素通りして言った。

 

「と言う訳で、私は自主退院する。治療費とかはお金が出来たら払いに来るから、ツケといて欲しいって医者か看護師さんに言っといてくれ」

 

 まだ痛むのであろう左手をぎこちなく上げてビスケにそう言い残して、歩き去ろうとするソラを2秒ほど思わずポカンと見送ってから、再起動を果たしたビスケが「待たんかい!!」と突っ込みつつ、病衣の裾を掴んで止めた。

 

「? どうした美少女。私になんか用?」

「あぁ、うん、さっきから嬉しい呼称ありがとう! でも用ならあたしもあたし以外も山ほどあるから、勝手に出て行くな!!

 っていうか、どうやって出てきたのよあんた!? ベッドに拘束されてたんじゃないの!?」

「あぁ。起きたらまさかの拘束ベッドでさすがに驚いたよ。

 ……だから状況がよくわからず、とにかく怪しかったんで逃げようと思って壊しちゃった私は悪くないよね?」

「は? 壊した?」

 

 止めたら止めたでやはりソラは昨夜の錯乱も、二日前の人間味のない怪物ぶりも嘘のように、寝ぼけているからなのか素なのかよくわからない落ち着き払った斜め上で返答し、ビスケはとっさに正直な礼を言いつつ色々と突っ込みたい部分を突っ込んだ。

 するとソラは寝ぼけ顔から気まずげな顔になり、目を少しだけ逸らしてとんでもないことを言い出したので、ビスケはソラの病衣の裾から手を離してダッシュでソラが出てきた部屋の前まで行って、中を覗き込む。

 そして、絶句。

 

 ベッドしかない簡素すぎる病室には、ベッドがなかった。

 あるのは、元はベッドだったもの。

 バラバラになったベッドが床に転がっていた。

 

 一体何をどうやったのかが全く想像もつかぬほど、規則性などなく歪にバラバラ、しかしその断面は背筋が凍りそうなほど綺麗に切り裂かれて、床に散乱している。

 それを見てビスケは、自分が聞いた音はこのベッドが壊れる音だったと理解したが、その理解と同時に新たな疑問が浮かぶ上がって戦慄する。

 

 ビスケが聞いた音は積み木を崩したような音だった。何度も切り裂いて、その一部を床に落とすような音ではない。

 あんな音をこのベッドで立てるのなら、それはたったの一撃でここまでバラバラにしないと不可能であること、そしてそれをあの娘はベッドの上に拘束された状態でやらかしたという事実に気付き、ビスケは血の気の引いた顔を再び廊下に向け、唇を震わせて訊いた。

 

「……何……これ? どうやってこんな…………」

 

 しかし、ビスケが顔を向けた先には既にソラの姿はない。

 ビスケが病室を覗き込んで絶句している間に、はだしのまま抜き足差し足忍び足でソラは大分距離を取ってそのまま自主退院という名の脱走を試みていた。

 

「待たんかいそこのクソガキャーッッ!!」

「ぎゃーっ! 何このロリ美少女、なんか変に怒鳴り慣れてて貫録ある!!」

 

 ダッシュで追いかけてソラの病衣の首根っこを掴んで床に引き倒し、そのまま左腕をひねりあげて拘束して捕獲すると、ソラは病院の廊下で打ち上げられた魚のようにビチビチと抵抗しながら、余裕があるのかないのかよくわからないことを言い出す。

 その言動にまたしても警戒心やら不気味さやら何やら、とにかくシリアスを構成するものを根こそぎぶっ殺されていくのを感じてビスケは疲れたような溜息を吐きつつ、ソラの背中に乗っかったまま改めて訊いた。

 

「で? あれは何なの? あんたがやったの?」

「痛い痛い! つーか私がやったんじゃなかったら、そっちの方が原因不明すぎて怖い状況だと思うんですけどー!!」

「あんたがやったんでも、十分怖いわよ。……で? どうやったの? 拘束された状態であんたはどうやってあそこまでベッドをバラバラにしたの? それがあんたの念能力?」

 

 訊きつつ、ソラが本当に痛そうな声を上げるのでそういえば左手も負傷していたことを思い出したビスケは、ひねりあげている力をさすがに少し緩めるが、そのまま質問と言うより尋問は続行。

 どういう訳か、昨日のように恐怖そのものの錯乱をする様子は全くなく、それどころかこちらをおちょくるような言動を繰り返しているので、ビスケからソラに対する罪悪感や遠慮は完全に消え去っていた。

 というか、昨夜や二日前の人物と同一人物かどうかを、割と真剣にビスケは疑っていた。

 

 しかしすぐに、間違いなくこの娘は昨夜はともかく二日前に出会った「化け物」と同一人物であることを思い知らされる。

 ソラはビスケに背中に乗られた状態のまま、何とか顔をビスケの方に向けて言った。

 

「は? ねんのーりょく? 何そ……」

 

 本気で不思議そうにビスケの問い、「念能力」という部分を疑問に思って訊き返したかと思ったら、その問いは途中で止まった。

 ビスケとの一連のやり取りで眠気は去ったのか、だいぶぱっちりと見開くミッドナイトブルーの眼をさらに丸く見開いて、そのままソラは黙り込んでビスケを見上げ続ける。

 

 その反応にビスケもいぶかしげに眉をひそめて「何よ?」と訊けば、ソラは丸い眼のまま真っ直ぐにビスケを見て問うた。

 

「君……っていうか、あなたいくつ?」

「はぁ?」

 

 何故かいきなりビスケの歳を訊いて来たので、もうビスケはどんな反応をしたらいいのかがわからない。

 が、そのままソラが続けた言葉で、「どんな反応をしたらいいかわからない」の意味合いが一瞬で大きく変化する。

 

「あなた、見た目通りの歳じゃないだろ。三十路くらいかな?」

「!?」

 

 きっぱりとソラは言った。

 ビスケの歳が見た目通りでない。推定年齢は大分外れているが、それでも見た目よりはるかに年上であることは確信していることに、ビスケの呆れによる困惑が正体不明の何かに対する警戒心に一瞬で塗り替わる。

 

 彼女の戸惑いと警戒を下から眺めながら、ソラはさらに言葉を続ける。

 

「……あなたが見た目通りの歳なら、成長期っていう一番生命力に溢れてる時期だから一番少ないはずなんだよね。『線』も、『点』も。

 でも、あなたは見た目の割には多い。ここは病院だから患者だと思えば納得だったけど、私の今の惨状からしてどー考えてもあなたは病院通いの病弱お嬢さんじゃない。

 若作りって域を超えてるな。純粋にこれは尊敬するよ」

「……そりゃどーも。何言ってるか、ほとんどわかんないけど」

 

 ソラの言葉にようやく返答しながら、緩めていた拘束に再び力を入れる。

 今度は、痛みを訴えることなどしなかった。

 痛いという声を上げず、痛みに表情を歪ませもせず、ソラは床に倒れたまま、ビスケを背中に乗せたまま薄く笑った。

 笑って、答えた。

 

「……さっきの質問、答えてあげるよ。

『突き刺した』

 これだけ。かろうじて動く左手の指の所にちょうどあのベッドの『点』があったから、それを思いっきり突き刺して、『殺して』、そうやって私はあのベッドの拘束から逃れたんだよ」

「……あんた、あたしをからかってんの?」

 

 薄ら笑いを浮かべながら、また更に意味不明なこと言い出すソラに苛立ってビスケが問えば、ソラはその問いには答えず逆に問い返す。

 

「なぁ、おかしいと思わないのか?

 ここは精神病患者の隔離病棟だっていうのに、そんな患者が集まっているエリアなんていくら警戒しても足りないくらいなのに、私が脱走しても誰も、医者も看護師も未だに来ないことをどう思ってるんだ?」

「!?」

 

 言われて、あまりにも今更なそのおかしな現状に気付き、自分のうかつさに思わず舌を打つ。

 ビスケとソラのやり取りはまだ10分も経ってないが、もう既に5分以上は経っている。

 そしてソラの言う通り、この手の患者はいくら警戒してもし足りないから廊下はもちろん、病室にも監視カメラは欠かせない。

 だからビスケは、あまりにも不審な音がしても医者を呼びには行かなかった。そんなことをしなくても、すぐにやってくると思ったから。

 

 なのに、今だ誰も来ない。

 寒々しい廊下には自分たち以外の人間はおらず、外側から鍵の掛けられた病室の内側から時折、やけにはきはきした誰かと会話しているような独り言やうめき声などが聞こえるだけ。

 

「まぁ、普通は来たくないよね。治療費やベッド代が赤字になっても、勝手に脱走してくれるのなら脱走してほしいはずだよ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のを、カメラ越しでも見ちゃったのなら」

 

 何故、医者や看護師が誰も来ないのか。

 その理由をあっけらかんとソラは語る。

 語りながら、見上げる。

 

 その見上げる目を見て、ビスケはもう一つ今更なことに気付く。

 ソラの眼の色が、変わっていることに。

 

 二日前はこの世のものとは思えないほど美しいセレストブルーから、美しくはあるがそこまで現実離れしていないサファイアブルーにまで明度が下がっていくのを目の当たりにした。

 そして昨夜、目覚めた時の瞳の色はやはりサファイアのような深くて鮮やかな青だった。

 

 しかし今の彼女の目は、黒に近いほど明度の低いミッドナイトブルーであることに気付く。

 その夜空色の眼で、真っ直ぐにビスケを見上げている。

 見つめている。

 

「ねぇ、そんなことが出来た私を、あなたはどう思う?」

 

 自分の左手をひねりあげているビスケの手に、限界まで手首を動かして指先でちょっんと触れて言った。

 

 夜空が、変幻する。

 二日前とは逆に、夜空色の、暗い藍色の、ミッドナイトブルーの眼の明度が上がってゆき、鮮やかなスカイブルーがそこに現れる。

 

 蒼天にして虚空の眼が、ビスケを映して尋ねる。

 

「ねぇ、ベッドに出来るのなら……()()()()()()()()()()()()()()

 

 その言葉で、ビスケを彼女の目の中にビスケは幻視する。

 

 あのベッドのように……、二日前の偽旅団のように……、たったの一撃で完全に、完膚なきまでに、死に果てた自分自身を見た。

 

「!!??」

 

 その幻視に思わず反射で、拘束していたソラの左手からビスケの両手が離れ、ソラから逃れようと体をのけぞらせる。

 同時に、ソラも動いた。

 

「だっしゃぁーーっっ!!」

「はぁっ!? あいたっ!!」

 

 拘束が外れた左手とギプスをはめたままの右腕で掛け声を上げて無理やり上体を起こし、とっさにのけぞってしまっていたビスケはそのままバランスが取れず後ろに頭から倒れてしまう。

 自分の背中からビスケが転がり落ちたのをいいことに、ソラはそのまま立ち上がって勢いよく走りだした。

 

「はははっ! 嘘だよ嘘!! そんなことしないよ!! 騙してごめんねロリババア!! けどあなたなら年相応の姿でも美人だと思うよ!!」

「うっかり許してしまいそうだけど、謝る気本当にあんのかクソガキーーっっ!!」

 

 謝ってるのか挑発してるのか褒めてるのかよくわからないことを叫びながら変なテンションで突っ走り、自主退院を再び試みるソラを、ビスケも正直すぎて意味不明なことを言いながらダッシュで追いかけた。

 ソラと少女バージョンのビスケではコンパスの差が激しく普通なら追いつくのは困難なのだが、そこは念能力者。足にオーラを集めて強化してそのハンデを補い、距離を詰める。

 

 しかし、相手はこの当時からどこまでも斜め上だった。

 

 そもそも、ここがどこなのかをちゃんと把握しているソラは正規の入り口から堂々と出て行けるとは思ってなかった。

 普通の病棟でも食い逃げならず治療・入院逃げをしようとしているのだから正面出入り口から出て行けるわけがないというのに、ここは隔離病棟。一般病棟へと繋がる道には分厚い扉があることくらい、予測できていた。

 そしてこの女は、そこを予測していたからと言って普通なら取らない手段を何の躊躇も迷いもなく取る女である。

 

 ソラは階段を素通りして廊下の突き当たりまで突っ走る。

 はめ殺しの窓しかない行き止まりまで突っ走るソラをビスケは疑問に思ったが、彼女が何をするつもりだったのか、当時のビスケではわからなかった。

 

「おりゃぁぁぁぁーーー!!」

「!? バカでしょあんた!!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

「あまりに信じられない光景だったから、思わず出た言葉が『嘘でしょ』じゃなくて『バカでしょ』になったわ。

 あのバカ、走る勢いを殺さないまま、ギプスをはめた右手でギプスをむしろ武器代わりにして窓を殴って破ってそのまま窓の外に飛び降りたのよ」

「……そりゃ、バカとしか言いようがねーな。っていうか、この話を聞いてもクラピカ吐血するんじゃねーか?」

「前半の罪悪感とは違って、心労でね」

 

 ビスケが最大級に呆れ果てて疲れ果てたソラのやらかしを語り、キルアは両手で頭を抱えて項垂れながら同じような感想を口にし、ゴンも遠い眼をしてこの場にいないクラピカに心の底から同情していた。

 

「私が吐血しそうよ。当時も今も。

 だってあのバカ弟子、後で何であんなことしたかを訊いてみたら、『隔離病棟ではめ殺しとはいえ窓があるってことは、脱走者が私みたいに窓破って落ちても最悪の事態にはならない階数、つまりは2階ぐらいだと思った』から実行したのよ!

 変な所冷静に判断しときながら、やることなすことエクスストリームすぎるのよ!!」

「……まぁ、それだけその当時のソラはクラピカに会いたがってたんだろうね」

 

 ソラのやらかしと、そのやらかしの割に冷静な判断にブチキレてビスケの愚痴がヒートアップしていくのを宥めるようにゴンが言うと、キルアは少し不満そうだがふと気付いた疑問を口にする。

 

「そういえば、あいつマジで何でビスケの弟子になったんだよ?

 その話の流れじゃ、ビスケがあいつのバカさ加減に罪悪感も愛想も尽かして勝手にやれって見捨てる展開しか浮かばねーんだけど?」

 

 口では「ビスケが愛想尽かして去る」と言っているが、本心ではそうなる前に「ソラの方がビスケから逃げ出す」という可能性の方がはるかに高いと思っている。

 それは先ほどのゴンの言葉通り、今でもだろうがその当時のソラにとってクラピカは彼女の幸福であり救済そのもの。精神安定剤だ。

 

 そんなクラピカとあのような経緯で離ればなれとなってしまったのなら、一刻でも早く、何としても彼を見つけようと足掻きに足掻き抜くのが目に見えている。

 一日探し回ってクラピカが見つからなかったからといって、彼女は諦めて病院やビスケの元に戻ってくる可能性はないと言い切れた。あの女は、絶対に見つかるまで鉄砲玉のように飛んで行ったきり戻ってこない。

 

 だから、どれだけビスケが追い掛け回して捕まえて、どこに閉じ込めても彼女はあの眼を駆使して抜け出し、クラピカを探し続けるはず。

 

 その当時は自分と出会っていないのだから、嫉妬する方がバカらしいのはわかりきっているが、そんな理屈など関係なくムカつきながらも、キルアの冷静で論理的な部分はそんな一番自然なソラの行動を予測し、しかしその予測と大きな違いを見せて今に至る経緯を疑問に思った。

 

「あぁ。言われてみればそうだね。ソラ、絶対にビスケや他の誰かに何て言われても、クラピカを見つけるまで“念”の修行とか、この世界の一般常識とか大人しく学ぶのは考えられないよね」

 

 ゴンもキルアの疑問に、キルアが認めたくなかったから言わなかった部分をわざわざ口にして同意し、キルアから理不尽な蹴りをもらった。

 そのやり取りに呆れとちょっと微笑ましさを感じながら、ビスケは頬杖をついて答えてやる。

 

「うん。あのバカはクラピカを治療して逃がした本人だから、クラピカが生きてるのはわかってたし、個人的な感情以外の理由で切羽詰まって探す必要はなかったってのが大きいでしょうけど、たぶんあの病院での出来事がなかったら、あいつは何度捕まっても脱走し続けて、仕舞いにはあたしも病院も諦めてたわさ」

「? 病院で何かあったの?」

 

 何かあったといえばもうすでに十分すぎるほどのことをソラ自身がやらかしているし、そのやらかしの責任を取る気はちゃんとソラにはあっただろうが、それは絶対にクラピカを見つけてからと後回しにしていたはずだ。

 

 ビスケの言う通り、ソラはその当時のビスケと違ってクラピカが生きていることはわかっていたし、色々と心配だった精神面もソラとの一カ月の日々で少しはマシになっていた。何よりクラピカは見た目に反してソラと出会う前の約1年を、絶望と孤独の中でも生き抜いただけのバイタリティを持っている。

 冷静に考えたら、確かにそこまで心配する必要がない状況と相手なのだが、ソラはクラピカと出会う前から、壊れる前からそんな理屈だけで動けるような人間ではない。

 

 むしろ自分の感情を納得させることを優先し、その為の理屈をひねくりまわして作り出すタイプだから、生半可な正論で折れることは絶対にない。

 頭と口がやけに回るから、相手の正論なんて叩きのめして丸め込んで間違いなく我を通しぬく。これだけしておきながら、相手の意見自体は尊重して、尊厳を踏みにじるようなことをしないのが、改めて考えると凄いを通り越して訳がわからない。

 

 そんな訳がわからない、諦めは悪いどころか諦めというブレーキがない女であることをよく知っているからこそ、ソラがクラピカよりも優先した出来事がゴンには想像できず、キルアも不満そうながらも同じく首を傾げる。

 そしてその疑問を、ソラがこの世界に来てから一番長い付き合いのビスケがよく知っている。

 

 だから深い溜息を吐いて、話を続けた。

 

「あったわよ。あの究極レベルのお人好しにあたしが巻き込まれて、背負わなくていい苦労を背負った出来事が」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ソラの想定通り2階から豪快に飛び降りたソラは、木の枝や茂み、駐輪場の屋根などといったクッション代わりになるものもなく芝生に覆われた病院の中庭に勢いよく落ちたが、オーラで身体強化してないのが嘘のような受け身を取って、ガラスによる切り傷と打ち身とアバラにヒビていどの怪我で済んだ。

 十分重傷だが、やらかしたことから考えたらソラのバカさ加減のほうがよほど重体だ。

 

 そしてそのまま病衣と裸足、また増やした傷で特徴だけ捉えたら幽霊そのものの姿になって、しかし幽霊にしては元気すぎる勢いで走って逃亡を試みるが、念能力者でない怪我人が飛び降りれるのなら、ビスケだって当然飛び降りれる。

 しかし自分がバカであることを自覚して開き直っているだけあって、同じことして追って来るとは思わずソラも飛び降り、そして余裕で着地したビスケに普通に驚いていた。

 

「何考えてんだあんたはー!! 脳みそ入ってんの!?」

「うわっ!? まさか私と同じことするババアがいるとは! 腰大丈夫!? ぎっくりしてない!?」

「あんたあたしを30代だと思ってんのか、ババアだと思ってんのかどっち!?」

 

 挑発なのか本気で心配しているのかよくわからないことを相変わらず言いながら逃げるソラを、ビスケもビスケでどうでもいい部分を気にしてまた追いかけようとした時。

 

「――――あ」

 

 ソラがふと上を見上げて、思わず立ち止まった。

 その行動はもちろん疑問に思ったが、ビスケはその疑問を晴らすのは後回しにして距離を詰めて腕を伸ばす。

 

 それはそうしないとこの何考えているのかサッパリな娘は、またしてもバカとしか言いようがない斜め上を発揮して逃げ出すのがわかっていたから、何としてでも確保するつもりだった。

 ソラの行動からして、ソラが見上げた上空に何かが「ある」とは思ったが、それは「ある」ものだと思っていた。

 

 だから、ビスケは走って距離を詰めて手を伸ばす。

 その伸ばした手を、振り返ったソラが掴んで引き寄せた。

 

「は!?」

 

 まさかの逃げてた相手が自分を引き寄せるとは思わず、走っていた勢いとソラが引っ張った勢い二乗でビスケはソラと手を繋いだような状態でソラを軸に半回転して、しかもソラは途中で手を離したのでそのまま勢い余って前方にすっ飛んで行った。

 

「あ、ごめん」

「ごめんですむかーーっっ!!」

 

 別に手を離してすっ飛ばしたのはわざとではなかったらしく、ソラは逃げもせずにその場に立ち止ったまま気まずげな顔をしてビスケに謝ったが、当然あまりにもいきなりかつ予想外な行動だったので武道家としてはあるまじきことにほとんど受け身を取れず、顔から地面にダイビングして鼻を思いっきり打ったわ、顔が泥まみれだわなビスケはブチキレて、ソラに詰め寄る。

 

 さすがにビスケのキレ具合に狼狽してソラは後ずさるが、今度はビスケから逃げることは出来ず胸倉を掴まれる。

 ビスケは、気付いていない。

 ソラが自分から逃げられなかったのは、先ほどよりも自分たちの間に距離がなかったから簡単に追い詰められたからでも、悪いと思っているから、それともビスケの迫力に怖気付いているから、ソラにそもそも逃げる気がすでになくなっていたからでもないことに、気付いていない。

 

 ソラは後ずさりながらも何かを避けていたことにも、そしてソラが避けた何かの上にビスケが立った時、さらに彼女の顔が気まずげになって後ずさる足が止まったことに、頭に血が昇っているビスケは気付かぬまま怒鳴りつける。

 

「あんたは本気で何考えてるんだわさ!? っていうか、二日前と昨日のあんたと今のあんたは本当に同一人物!? とにかくあたしの予想を斜め上にぶっちぎって裏切るくらいしか共通点ないんだけど!?」

「あ、昨日起きた時にいた人、あなただったんだ。悲鳴あげちゃってごめん。

 でも二日前は会ったっけ? 二日前って、偽旅団と交戦してる時のことでしょ? あの時、私が会ったのは偽旅団以外なら、ロリータ服着たゴリラくらいなんだけど?」

「誰がゴリラだーーっっ!?」

「私がそれを訊いてるんですけど!? っていうか、あんたこそ二日前と同一人物か!?」

 

 自分より10cmは背が低い見た目幼女に胸倉を掴まれて無理やり中腰の体勢にさせられ睨み付けられながらも、ソラはビスケの怒声かつ切実な疑問であり突っ込みに、やはり気まずさを続行しながら答える。

 ビスケとしては昨日のことも二日前のことも、心の防衛本能で綺麗さっぱり忘れているからこそ、この空気を爆散させていく言動だと思っていたので、案外はっきりと覚えていることで余計にあの化け物じみたソラと、恐怖そのものの錯乱をしていたソラ、そして今のソラが結び付けられず混乱した。

 

 だが、ソラはビスケに昨日のことを謝ってから心底不思議そうな顔で、先ほどの謝罪が無意味になるほどのビスケに対する禁句(タブー)を言い放ち、ビスケはひとまずさらに深まった疑問は横にブン投げてキレた。

 しかしソラにとって先ほどの発言は嫌味でも挑発でもなく素、本気で目の前の幼女と二日前のゴリラとしか言いようがなかった相手が同一人物だと気付いていなかったので、ビスケのガチギレにこちらも困惑しながら突っ込み、そして驚愕した。

 

 驚愕しつつも、ソラはやはりまだ気まずげな顔をしていた。

 そして驚愕が薄れていくにつれて、別の感情がその気まずそうな顔とまじりあい、ビスケは不快そうに眉毛を跳ね上げて訊いた。

 

「……何、呆れてんのよ」

 

 そこに見下しや嘲笑といった、悪意は含まれていなかった。

 だが、ビスケはソラの顔と目に困惑による「呆れ」が含まれていることに気付き、胸倉を掴んで締め上げる力をさらに込めて尋ねる。

 

「……私にはあなたが言った『ねんのーりょく』が何なのかは本当にわかってない。でも、私がしたことをそうだとあなたが思ったのなら、あなたの見た目が変化することも『ねんのーりょく』なら、たぶん私が知り、使っているものと根本が同じか、似たような理屈で使用できる技術なんだろうね。

 

 だからこそ、私には今の状況が結構信じられない」

 

 ビスケの問いに、ソラは締め上げられて一度だけ苦しげに呻いたが、それでもビスケが感じ取った呆れそのままに答えた。

 初めはビスケの問いの答えではなく「念能力」についての答えで、今更別の話をここで答えられても苛立つだけだから、ビスケはその苛立ちのままさらに締め上げてやろうかと思ったが、その答えこそがビスケの問いに対する答えの前提だった。

 

「私と……『魔術』と根本が同じなら、『見える』はずだ」

 

 ソラが口にした「魔術」という単語に関して、ビスケは何の疑問も浮かばなかった。むしろ少し、色々と納得した。

 たまにあるのだ。少数民族などの独自の文化が、精孔を開いて念能力者になる為の修業になっている場合が。

 

 その場合、独自に編み出された所為で初めからか、それとも伝言ゲームの要領で次第に歪んで伝わってしまったのか、五大行という“念”としての根本的な教えがまるっと抜けているのに、修行法が普通の“念”に対しての修業より過酷な所為か、“発”の精度が異常に高いことが多々ある。

 

 なのでビスケは二日前のソラに関しての疑問は、だいたいこれで晴れたと思っていた。

 だから、気になったのは「見える」という発言。

 

「……あんた、何を言ってるの?」

「まだ麻酔が残って頭がちゃんと働いてないのと、あなたに追っかけられてパニクってたから、色々と判断間違えちゃったよ」

 

 ビスケはソラに対する警戒心を引き上げ、問う。

 しかしソラは飄々と、やはりビスケからしたら意味不明にもほどがある答えを返す。

 

 ビスケは、まだ気付けない。

 ソラは決して、自分をからかっている訳ではないことに。

 彼女は彼女なりの誠実さを持って、答えていることに気付けない。

 

 しかしビスケが無言でさらに締め上げ、目で「これ以上、余計なことしか言わないんなら絞め落とす」と最終警告をしてきたことで、ソラもビスケに対しての「気付いていないのなら……」という気遣いをやめた。

 

 ギリギリ呼吸と言葉を発することが許された気道を駆使して、ソラは気まずさを消し、呆れを100%にして言う。

 

「いい加減、どいてあげろよ。かわいそうだろ」

 

 凝りもせず意味不明な答えにまたしてもビスケの頭に血が昇って灼熱するが、その血は昇ってすぐに下がる。

 上がった熱は、氷点下にまで落ちる。

 

 意味がわからない言葉だった。

 だが、その発言がビスケにとって意味がわからず、疑問に懐きながらも後回しにしていた何もかもを一瞬にして繋げた。

 

 ……窓をぶち破ってそのまま飛び降りてまで逃げようとしていたのに、上空の「何か」に気付いて立ち止まった。

 駆け寄ってきたビスケの腕を掴んで、自分の前方に放り投げた。

 そのまま逃げもせず、ビスケに詰め寄られて、「何か」を避けて後ずさった。

 

 …………ビスケがその自分が避けた「何か」を踏みつけた時、何か言いたげに後ずさるのをやめて立ち止まった。

 

 ビスケはソラの反応で、上空か病院の屋上あたりに何かが「ある」とは思っていたが、その「何か」を確認するのは後回しにしていた。後回しにして十分だと思っていた。

 

「それ」が今まさに落下しているものだとは、想像もついていなかったから後回しにした。

 

 ビスケは、怒りと警戒心から胸倉を掴みあげておきながらも絶対に離さなかった目を、目の前のソラから移す。

 自分の足元に。

 自分が踏みつけている、「何か」に目を向ける。

 

 そこには、何もない。

 綺麗に植えられた人工芝が青々と緑の絨毯として茂っている。

 

 そんな自分の足元を、見る。

 自分の体を覆い、纏っていたオーラを一点に集中させて。

 両目にオーラを集めて、本来なら見えざるものをビスケは見た。

 

 青々とした緑が、まだらに真紅に染まっている。

 小石のように見える小さな欠片は、骨の欠片だろう。

 同じく芝生の上に散らばり、遠目からでは花のように見える桃色の欠片は飛び散った脳。

 

 ビスケの足元に生い茂るのは青くみずみずしい芝生ではない。

 同じくらいみずみずしくて美しい黒髪が、放射線のように広がっている。

 

 その黒髪と血と脳漿に混ざるように顔が半分潰れて飛び出た目とビスケの目が合った。

 

 自分を踏みつけている相手を、ビスケを、何の感慨もない、濁って終わった目がじっと見ていたことに気付く。

 

 

 

 

 

 投身のなれの果て。

 折れた百合の花のように嫋やかな女性の凄惨な死体としか思えないものを、見た。


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