「悪魔」と表現したが、一般的にイメージする「悪魔」と「それ」は全く別。
というか、悪魔らしい要素は頭部の小さなコウモリのような羽のみ。
全体は手のひらより一回りほど大きい餅のような白い塊で、その塊に小さくて短い両手が不恰好につき足はない。顔には鼻はなく目も糸のように細く、異様に生々しい厚ぼったい唇だけがやけに目立つ。
その唇は自分が取り憑くネオンや自分たちを見ているクラピカ達を嘲笑うように、歯をむき出しにしてにやにやと笑っていた。
全体的に子供の落書きじみたコミカルな姿で恐ろしさはないのだが、やたらとリアリティのある唇が妙な生理的嫌悪感を懐かせる「何か」が10体近く、ネオンにまとわりついている。
そんな暫定「悪魔」を目の当たりにし、思わずとっさにクラピカ達が臨戦態勢を取るが、スクワラとリンセンが「やめろ!」と声をやや荒げて4人を止める。
振り返り、止められた者が止めた者たちを怪訝そうに見渡して気付く。
スクワラとリンセン、ヨークシン以前からネオンの護衛だった二人のみが自分たちと違う反応をしていることに。
彼らの驚愕は、「訳がわからない」という未知に対するものではなく、「何故これがここに?」という既知に対してのものだった。
そんな6人の反応を気にした様子もなく、ソラはしばし黙ってネオンを見下ろし続ける。
自分の言葉に対する答えを待ち続けた。
しかしネオンは護衛たちの反応にすら気づいた様子もなく、真っ白な顔色のまま脅されていた父親と同じように、ソラをただ怯えた眼で見上げ続けるだけ。
ソラは仮面の中で息をつく。
何も言えないし出来ないネオンに、失望したような溜息だった。
だからか、ソラは話す対象をさっさと変える。
「クラピカ、このなんかぶっさいくな悪魔には何もしなくていいよ。っていうか、しない方がいい。これ多分この子の能力だから、下手に手を出したらこの子は念能力を完全に失うよ。
それから、この子に“念”を本格的に教えた方がいい。まず確実に、これは能力の暴走」
振り返って言われたソラの指摘で、“凝”で見えたネオンにまとわりつくソラ曰く「ぶっさいくな悪魔」のインパクトですっかり流していたが、「ネオンの予知能力は失われていない」という情報を思い出し、「どういうことだ?」とやや険しい顔でクラピカはソラに問い詰める。
「詳しいことはむしろ私が知りたいな。正確に言うと、予知能力が完全に失われたわけじゃないっていうのはただの勘だし。
ただ、この悪魔はこの子自身の能力だってことだけは確信してる。で、この子は『100%当たる占い』っていう能力を持っていた特質系能力者なら、この悪魔の能力も予知に関係してるだろうなって思っただけだよ」
しかし問い詰められたソラは甲冑でぎこちなく肩をすくめ、ほとんど情報量が変わらないことしか答えなかった。
ネオンとは今日が初対面、能力だって知ったのはつい最近のソラが全てわかっている訳がないのは当たり前なので、クラピカは「それもそうだな。すまない」と疑うように問い詰めたことをひとまず謝罪した。
その謝罪に「別にいいよ」と軽く応じてから、ソラは言葉を続けた。
「ただ……その悪魔の能力は『予知』だけじゃないと思うよ。
その悪魔、そこの屑とバカ親父にも1匹ずつ憑いてた。初めは何かよくわかんなかったからひとまず後回しにしてたら、屑のはソファーから転がり落ちて土下座した時点で、親父のは気を失った時点で自然消滅したけど」
『なっ!?』
更に衝撃の追加情報に、クラピカだけではなく他のメンバーからも声が上がる。
思わず、「もっと早くに言え」という抗議をしたくなるが、指摘できる状況ではなかったし、ソラも初めからそこに何かがいると疑っていたから気付いた訳ではなく、その目は直死の魔眼となる前から世界の違和感に敏い眼だからこそ気付いたということもクラピカはわかっているので、出かかった八つ当たりの言葉は飲み込んだ。
「そうか……。ソラ、この後も時間はあるか? 後でもう少し話が聞きたい」
「余裕で。なくても作るよ。けどさすがにそろそろこれ脱ぎたいんだけど」
「……お前が勝手に用意して着たんだろうが」
クラピカの要望を男前に応えつつ仮面と甲冑を脱ぎたいと切実な要望を告げ、それに対してクラピカは心底呆れた眼をして突っ込みを入れるが、クラピカも仮面甲冑のまま話などしたくない。
それに、ライトはヴェーゼの能力の餌食で2時間は確実に起きないとはいえ、長々とソラをこの屋敷に留まらせておく気にも当然なれないので、さっさと着替えて屋敷から出て、近くに取っているらしいホテルで待っていてほしいと命じた。
「了解。じゃあそっちがひと段落ついたら連絡ちょうだい」
クラピカの言葉に従って、ソラはひび割れた剣を肩に担いで一応関係ない屋敷の使用人たちに気を遣ったのか、“絶”状態で着替えや荷物が置いてある執務室に戻って行った。
ある意味、面倒な後始末を全部押しつけられた形となるが、ソラがいた方が余計に面倒になることだけは彼女と付き合いがほぼないはずのバショウやリンセンもわかりきっていることなので、特にクラピカ以外の護衛メンバーの誰からも文句は出ずに、全員が彼女を見送る。
そして、ソラが廊下の角を曲がって見えなくなってからクラピカは向き直って告げる。
「……さて、互いに面倒な事になったが、正直に答えてもらいますよ」
詐欺師と父親によって追い詰められていた時のように、膝の上に固く手を握って俯くネオンに感情を排した声音で。
その姿に痛んだ胸は、何を「痛い」と思ったのかクラピカにはわからなかった。
わからなかったけれど、それは確かに痛みだった。
* * *
日付がそろそろ変わりそうな時刻に、クラピカはノストラードの屋敷から一番近いビジネスホテルに出向き、とある客室をノックする。
こんな時刻に女性が泊まっているホテルの部屋を訪れるのは非常識この上ないことはわかっているので明日にしようかとも思ったのだが、それを告げようとした電話で明るく「お疲れ様。君がホテルに来るの? それとも私が外に出ようか?」と当たり前のように言われたら、むしろ後回しには出来なかった。
そしてソラを夜中に出歩かせる真似も色んな意味でさせたくなかったので、クラピカの方が出向いた結果が今。
ノックの直後、「はいはーい」と嬉しげな声音で応答されて10秒もしない内に扉が開く。
「いらっしゃい、クラピカ。お疲れ様」
「……こんな時刻に来た私が言うのもなんだが、お前は自分や私の性別をもう少しでいいから考慮しろ」
パジャマ代わりのオーバーサイズの男性用Yシャツにホットパンツで、以前よりさらに伸びた髪を下ろしたソラがあまりにも無防備に出てきたことに対して、やや眼を逸らしつつ苦言を零す。
しかしわかっていたが、クラピカの割と切実な要望は「ホットパンツ穿いてるだけちゃんと人目は気にしてる」という、何の救いにもならないことをドヤ顔で返されて終わる。
「自慢げに語るな!!」と怒ってアイアンクローをかましつつも、廊下でいつまでも騒いでいる訳にもいかないので、クラピカは色々と諦めてソラが宿泊している部屋に入り、着ていたコートを部屋の備え付けのハンガーに掛けさせてもらってから椅子に、ソラは向かいのベッドに腰掛けて早速だが話し始めた。
「まずは、ボスとあの詐欺師の件については今のところは上手くいっている。私達だけではなく、娘と少人数だが他の組員や屋敷の使用人も口裏合わせに協力してもらったおかげで、お前が扮したあの死神じみた何かをボスは本気で恐れている。
……詐欺師の方は、ノストラード傘下の風俗関係に身柄を渡した。ボスも直接はほとんど関与していない末端だから、鉢合わせして気付かれることもない。
うちのボスはともかく、本心から娘を助けたいと願う親の弱みに付け込んで、罪もない少女を弄んだ挙句に保身の為に親の手で殺すように唆した腐れ外道は、残りの人生を同じように弄ばれて過ごせばいい罰になるだろう」
「よっしゃ、グッジョブだクラピカ。ナイス生き地獄」
詐欺師の末路に関しては話すべきかどうか悩んだが、話を濁せばこのクラピカにとって敏くあって欲しくない所ばかり敏いソラは、何故クラピカが何も話さなかったかに気付くだろうからこそ正直に話したら、真顔でサムズアップしてクラピカがチョイスした末路を称賛した。
その反応に「そんな所を褒められても何も嬉しくない」と語りながら、内心で安堵する。
別に詐欺師に対してやりすぎだとは思っていない。
あの詐欺師は司法に委ねても、あれが犯した罪に見合う判決が出るとは限らない。少なくとも、殺人教唆に関しては起訴がかなり難しい。
あれの口車に乗せられて、我が子を救う儀式だと信じて詐欺師に子供を差し出してしまっただけではなく、子供の病状が良くならない事で騙されていると気付く前に、詐欺師が逃げる時間稼ぎの為だけに我が子をその手で殺してしまった親は、本物の愛であったからこそ真実を知った時には正気を失い、証言できるような状態ではなくなったと聞いている。
そんな奴が今までの犠牲者と同じように弄ばれ、自分の人生そのものを骨の髄までむしゃぶり取られることは決して不当に重い罰ではないと自信を持って言える。
なら何に対して不安を懐いて言い淀んでたのかと言えば、悪人相手とはいえそんな手段を取れるようになった、こんな仕事に関わるようになった自分自身にクラピカは嫌悪を懐いていた。
その嫌悪にソラが気付いてしまうのが、そのことで自分の事の様に彼女が悲しむのが嫌だった。
だからソラが詐欺師の末路に関して、本気で称賛してくれているのも本音では嬉しかった。
抱え込んだ嫌悪が、自分のしたことが例え汚れ仕事でも間違えてはいないと思えた。
そんな安堵を懐くクラピカの頭に、ソラの手が伸びた。
きょとんとするクラピカを見て微笑んで、ソラは彼の頭を何度か撫でながら言う。
「君がここの組員で、マフィアで良かったと思っているよ。
マフィアを必要悪だと思えないのなら、君自身の手でこの組を必要悪にすればいい。少なくとも、私は君がこの仕事についてくれていたおかげで、1年半前からずっと胸の奥に引っかかっていたものがやっと取れてスッキリした。
……君がここにいてくれて、私は本当に助かったんだ。だから、素直に喜ばせてくれ」
やはりこの女は、クラピカにとって一番都合の悪い所ばかり隠しようもなくすぐに気付く。
クラピカが抱く「マフィア」という自分の立場とその仕事による嫌悪など、あの詐欺師の事などなくても気づいていた。
そしてとっくの昔に、彼が嫌悪を懐きながらもその道を歩むことに対する悲しみを終わらせて、少しでもその嫌悪が薄くなるようにという答えを見つけ出して、クラピカに与える。
相変わらずの勝ち目のなさが悔しいやら、そうやって与えられてばかりの自分が情けないやら、けれどそれ以上に約4か月ぶりのソラの笑顔と、何よりも愛しくて安心できる体温が嬉しくて、ただの偶然とはいえソラが背負っていたものを少しでも軽くすることが出来たのが誇らしくて、それらの感情が一気に湧き上がって入り乱れた結果、クラピカは赤くなった顔を隠すように背けて、話を変える。
いくつもの感情は、最終的にいつもの羞恥になったようだ。
「か、勝手に喜んでいたらいいだろう!
とりあえず、ボスと詐欺師の件はひとまず終了と言っていいが、新たに出てきた娘の念能力についてはまだ何もわかっていないに等しい。
お前の言う通り、確かに彼女は『予知能力』……、クロロに盗まれた占いという能力の根幹は失ってなかったようだ」
「ふーん。で、あの子に大量に憑いてた『悪魔』については何かわかった?」
明らかに無理やりな話題転換だが、これ以上クラピカの羞恥を突く気はないソラは、大人しくクラピカが変えた話題に乗っかって質問をする。
そんなソラの恩情にホッとするやらムカつくやらしながらも、クラピカは質問に答えながら鞄の中を探る。
「いや。それに関してはまだ何もわかっていない。というか、彼女自身は無自覚の内に“発”だけを会得してしまったタイプだからか、あの『悪魔』はこちらで指摘しても見えていない。ソラの言う通り、無自覚で暴走している状態だな。
ただ、彼女の能力を見た事があるリンセンとスクワラ曰く、あの『悪魔』は彼女が能力を発動させて自動書記をする際に右手に具現化していたものと酷似しているらしい。占いの時は、あの羽は天使のような鳥の翼の形状をしていたらしいが」
クラピカの説明で、新人4人が「悪魔」に気付いて臨戦態勢を取った時に止めた先輩2人の反応をソラも思い出したのか、「あぁ、だからか」と納得の声を上げる。
その直後にクラピカは屋敷から持ち出してきたものを見つけ、ソラに渡した。
「それから、ソラ。これを見てお前の意見を推測でもいいから聞かせて欲しい」
言って渡したのは、クロロに奪われたネオンの占いの過去データをいくつかプリントアウトしたもの。
彼女の占いは初見では何を伝えたいのかさっぱりわからないものなので、こうやって過去に出た占いの内容と実際に起こった出来事を照らし合わせ、どの単語がどのような意味を暗喩しているのかの解釈例などを、クラピカの前任であるダルツォルネがデータ化していたので、クラピカはその中でいくつかわかりやすいものを選んでソラに見せる。
黙って受け取ったソラは、ペラペラといくつか読んだところで感心と驚愕が入り混じった笑みを浮かべて呟く。
「予測と確定の複合型未来視か。そりゃ、的中率が100%になる訳だ」
「やはりそう思うか」
説明を何もしてない独り言だったが、クラピカはそれだけで全て理解できただけではなく、まったく同じことを考えていた。
4年前、彼女と出逢った当初に魔術や魔法について教えてもらうのと一緒に、ソラの魔眼は魔術ではなく超能力に分類されるものだったので、超能力の類についても少しだけ教えてもらった。
未来視は超能力の中ではさほど珍しい異能ではないので、ソラはまず初級の知識として教えてくれていたからクラピカはよく覚えている。
未来視にはいくつか「未来を視る」というプロセスに種類があること、その中でも代表的なのが「予測型」と「確定型」であることを、好奇心で目を輝かせながらソラを質問攻めにして聞き出していたことを少し遠い目でクラピカは思い出し、だがその思い出が微笑ましいと思える状況ではない事を理解しているから、遠くを懐かしむ目を伏せて、クラピカはソラと同じ解釈を前提に語る。
「ネオン=ノストラードは自分の予知能力そのものは失われていない事は、かなり早い段階から自覚していたらしい。
というより、制御出来ていたはずの予知が全くコントロール出来ず、唐突なタイミングで断片的な未来が浮かぶようになったからこそ、占いができなくなっていることに気付いたようだ」
「なるほど。元は典型的な予測型の未来視だったのが、無意識に補助として確定型も発現させて能力にしてたのかな?
“念”で言えば予測型は特質で確定は操作系よりだろうから、相性の良い系統だからこそ2系統複合型でも燃費はいいな。……いや、むしろこの子の能力は制御を掛けないと手当たり次第にその辺の情報をかき集めて予知して、脳や精神に負担をかけるから制約はその負担を減らすための制御弁みたいなもんだった考えるべき? だからこそ、クロロに盗まれた現状で暴走してるのかな?」
クラピカがさらに補足した情報で、ソラもさらに自分が持つ未来視の知識を念の常識に当てはめ、推測を口にする。
この推測もクラピカは同じものを立てていたのだろう。無言で彼は頷いて話を続けた。
「能力に目覚めたのは大分幼い頃だから本人の記憶も曖昧だが、確かに昔も似たような状態だった、そこから『占いごっこ』をするようになって現在の占いの形式に確立したような気がすると言っていたから、その推測が正しいだろうな。
しかし、これだけならあの『悪魔』の説明がつかない」
クラピカの言う通り、ネオンの予知がコントロール不可となっているだけならば、彼女や彼女の父親、そして詐欺師にも憑いていた「悪魔」の存在の説明にはならない。
しかし、その説明がつく想像なら既にソラの中では立てられていた。
「……『自分の占いの結果を見ない』っていう制約を
だから“念”の基礎は普通に使えるし、あの子の能力の根幹である『予知』だって残ってる。けれど肝心な制御弁だった“発”の使用権を奪われた所為で、いつどこで誰の予知ができるか制御できなければ、どうしてそんな状況になるのか、その状況に陥るのがいつかもわからない予知だけが唐突に頭に浮かぶのなら……、そしてその予知が悪い未来ばかりだったら……、あの父親相手じゃ『予知能力そのものは失ってない』とは言えないよね?」
まずソラが前提として語る推測に、これもクラピカは黙って頷く。
ネオンは何度か父や自分達に「占いは出来ないし制御も出来ないが、予知能力そのものは健在」であることを話そうとしたらしいが、9月は旅団の被害、特に十老頭全滅が全世界のマフィアに影響を与えるほどだったので、もちろんノストラード組も多忙を極め、さらにネオンの侍女であるエリザは本人とスクワラの希望で、もう一人の方も自分一人でネオンの面倒を見るのはごめんだと逃げるように退職してしまった為、ネオンの話を聞いてやれる相手が誰もおらず、10月になってその月の分を占わせようとしてようやく父親は娘の異変に気付けたのだ。
そこで娘の話をちゃんと聞いてやれる父親ならば、そもそもあんな詐欺師には引っかからない。
初めは拗ねてストライキを起こしていると思い込み、いつものように娘に媚びて娘の欲しがりそうな物を貢いでいたが、本当に占いが出来ないと知れば豹変し、暴言と暴行。
そして……おそらくネオン自身も本当は気付いていたのだろう。
父親は自分のことを娘として溺愛しているのではなく、利用価値があったからこそ媚びていただけだということを。
だから彼女は言えなかった。
言えばそれこそ自分がどうなるかがわかっていたからこそ、言えなかった。
予測型の未来視とは、周囲の些細な情報から常人では考えられないような情報処理を行うことで、その些細で関係ないと思われた情報を結び付けて緻密な未来を予測するもの。
だから制約と誓約などの補助やブーストなしなら、会ったこともない赤の他人よりもたまたますれ違う程度でもいいから、未来視と直接関わった相手でないと見えはしない。
コントロール不可能だからこそ、ネオンが真っ先に、そして鮮明に見た未来は父親のもの。
そしてあくまでその未来視は「予測」、一番その現在の状況からそうなるのが自然と思える可能性であって、絶対ではない。
極端な話、「予測型未来視」は大ざっぱなもので良ければ普通の人間でも普通にできることだ。
ネオンがどんな未来を視たかなど、訊かなくてもわかった。それを父に話せなかった理由も。
彼女は父が落ちぶれていくところ見たのだろう。
その理由が、原因が自分であることもわかっていたはず。
ただいつもならわかった、その未来を避けるための術がわからなかった。
絶望という結末だけが何の前置きもなしに突き付けられたからこそ、ネオンは沈黙を続けた。
それは、そんな未来を告げれば逆上した父親に殺されることも暴走した未来視で視てしまったからか、それとも父親に未来がわからないからこそ与えられる「希望」が失われないようにという親孝行だったのかだけが、クラピカにはわからないことだった。
「あの子にとって盗まれた能力は、自分の容量を全部使って発現させたものではなく、むしろ自分の能力を抑える制御弁に近い役割だったのなら、元々
そして、修行もなしに無自覚で“発”を完成させてた子なんだから、もう一つ新しい能力だって無自覚の内に作り上げることは可能だ。
……ただ、今度のそれは精神が酷く不安定な時に作り上げたものだから、『自分の理想』や『自分の望み』ではなく、『自分の罪悪感』が形になったものなんじゃないかな?
そうだとしたら、『悪魔』があの子に一番多く憑いてるのも、父親と詐欺師に憑いてたのがあのタイミングで消えた理由にも説明がつく」
念能力は能力者の心そのものと言っていい。だからこそ、無自覚で能力者になった者の能力はダイレクトに能力者本人の趣味嗜好や願望が反映される。
故にネオンの「悪魔」は意味がわからなかったが、あの「悪魔」に反映されているネオンの心が「願望」ではなく「劣等感」や「諦観」、そして「罪悪感」ならば話は別。
「……あれは、『取り憑いた対象を悪い未来に導く』という能力か」
「そう。彼女が持っていた操作系よりの能力、確定型の未来視をメインにした第2の能力。
あの『悪魔』に憑かれた人間は、無自覚・無意識のうちにあの子が視た
ソラの語る推測からクラピカも導き出した答えを口にすると、ソラは自分の膝に頬杖をついて肯定する。
「本人の意思は失われていなかったから、半強制や要請型ですらなく、暗示型ってとこかな? 私が介入したことで消滅したくらいだし、たぶんあの『悪魔』そのものに運命を捻じ曲げるほどの大きな強制力も影響力もないと思う。
けど、確定型の未来視はほんの些細な行動を積み重ねることでその未来に導くものだから、ただでさえ予測型で現れた高い可能性を『なんとなくこうした方がいい気がする』程度の強制力で選択を重ねたら、そりゃ逃げ場もなくなるわ。多少のイレギュラー程度なら、またすぐに軌道修正されてただろうし」
さらに重ねられた補足を、クラピカはほとんど聞いていなかった。
ただ彼は俯いたまま、自分の膝の上の拳だけを見下ろし続ける。
本当に見ているものすら、自分の拳ではない。
クラピカの眼には昼間の、いくつもの「悪魔」にまとわりつかれ、嘲笑われていた少女だけが焼き付いている。
自分が守ってきた少女を、不幸に陥れる悪魔の笑みが。
自分にとって旅団と同じくらい、憎い仇であるはずの彼女の顔が――
「クラピカ」
呼ぶと同時に額を指先で突かれ、弾かれたようにクラピカが顔を上げる。
「! あ、あぁ、すまない。少し、ぼうっとしてしまった」
自分が心ここにあらずだったことは誤魔化しようがないから正直に答えて謝るが、何を考えていたか、何を思い返していたかは答えたくなくて、口早に誤魔化して話を戻そうとする。
が、もちろんそんな誤魔化しがソラに通用する訳がなかった。
「クラピカ」
もう一度、彼女は呼びかけて身を乗り出す。
顔を寄せて、青みが以前より深まった蒼玉の眼でクラピカを真っ直ぐに映し出しながら、ソラは訊いた。
「君は――、あの子を
クラピカの悩みや迷いをどこまでも深く見透かしながら、答えは見透かしてくれなかった。
それは、クラピカの中にはまだないからなのか。
わかっているけどそれこそ自分で見つけ出せと突き放しているのか。
それさえも、まだクラピカにはわからない。
* * *
「……お前にはどう見える?」
もはや意地を張るのもバカらしくなってきたので、クラピカは質問に質問で返す。
答えを投げるような問いだったが、ソラは素直に答えてくれた。
「『それがわかんないから苛立ってるんだよ』って思ってるように見える」
あまりにも正直に、そしてやはり正確に自分の心境を見抜かれていることにクラピカは完全に開き直りの境地になって、椅子の背にもたれかかって天井を仰ぎ見ながら答えた。
「……あぁ、その通りだ。そうだな。私は、自分のことなのに自分がどうしたいのか、どう思っているのかがわからなくてここ最近はずっと苛立っている」
「君が周りから休め休めって言われても休まなかった理由はそれだろ? 時間に余裕があったら、あの子のことを考えてしまうんだろ?」
更に自分が気遣う周りの人間の声を無視していた本当の理由までも当ててこられ、ばつが悪そうにクラピカは少し笑いながら認める。
力なく、疲れたように彼は笑いながらポツリポツリと語り始めた。
自分の中に溜まりこんだ「何か」を整理するように。
懺悔するように。
「……初めは、許したいと思っていたのだ。いつかきっと許せると期待していたんだ。あのヨークシンでセンリツから話を聞いた時に思ったこと、懐いた期待に嘘はない。
……ないのだがな、私は『ネオン=ノストラード』という少女を知れば知る程、私自身がどうしたいのかがわからなくなっていったのだ。
…………ソラ。おそらく彼女の本質は、正確に言えば『人体蒐集家』とは言えない者だ」
初めの懺悔めいたクラピカの心境に関しては、クラピカが傷つかないように、罪悪感を懐かないようにという気遣いのつもりか、何でもないことのように無表情で相槌も打たずに訊いていたが、そもそもクラピカが彼女の護衛となった大前提を覆す言葉はさすがにスルー出来ず、小首を傾げて「何それ? どういうこと?」と声を上げて先を促した。
「気付こうと思えば、面接の段階で気づいても良かったな。
ネオン=ノストラードのコレクションは多岐に渡っていた。緋の眼のように特殊な身体的特徴そのもののホルマリン漬けや剥製はもちろん、どちらかというと考古学の分野にあたるほど古い民族の骨、そして今も健在の俳優や有名人の毛髪や使用済みティッシュなどとな……。
…………逆に言えば、彼女のコレクションには『人体』以外の統一性はなかった。いや、毛髪や使用済みのティッシュなんて『人体』の枠組みには本来なら入らないだろう。だが、彼女はそのどれもを同じようにコレクションとして納めていた」
クラピカの続けた答えで、ソラの方もどうして様々な前提を覆すことになったのかを察し、表情が無に戻る。
クラピカもソラが理解したことを察しているが、それでも彼は言葉を続けた。
気付いてしまったことが嘘であること、もう一度否定されることを期待するように彼は言葉を続ける。
「……私やセンリツ達の前任者は、護衛チームどころか彼女を危険にさらしたとの事で『処分』され、屋敷に飾られていた。
気分が悪くなるからそれを見ないように、気にしないように、忘れようとしていたがな……あれもよく考えればおかしかったんだ。
私はな、未だにその『処分』された前任者が男だったことしか覚えてない。思い出せない。その程度の外見だったのだ。外見に珍しい特徴はなく、特別容姿が優れている訳でもなかった。
そんな普通の男が、苦痛を露わに未だ逃れようともがいているような体勢で壁に塗りこまれていたのだが……、それだってそれだけだ。特別凝った『作品』にされていた訳ではない。
気にしないように、無視したければ出来る程度のものだった。一目、目にしただけで脳裏に焼き付くほど悪趣味に、グロテスクに飾り立てられたものではなった。
なぁ、ソラ。お前はどう思う? 人体蒐集家が、特に目立った特徴もない普通の人間をコレクションに加えたいと思うか? 加えるとしたら、生前の姿を留めたもので満足するものなのか?」
ソラは答えない。
もちろんソラ自身にそんな趣味などないから答えようがないというのもあるが、そんな趣味嗜好がなくとも想像くらいは出来る。
だけど、想像の上での答えだってソラは口にせず、黙ってただ真っ直ぐにクラピカを見ていた。
クラピカの答えを待つ。
そしてクラピカも、ソラが答えてくれないことなどわかっていた。
わかりきった答えなど改めて口にされても、何の救いにも慰めにもならない。
だからクラピカは自分で答える。
自分を慰めも救いもしない、ただひたすらに迷いだけを生み出す答えを。
「……おそらく彼女には、人体を集めて愛でて悦に浸るような感性は本来ならない。せいぜい、一般的な感性よりグロテスクな物に対して忌避感が薄い程度なのだろう。
その程度だった、誰でも一つか二つは持っている『普通』から外れた部分でしかなかったはずのものが、『人体蒐集家』という『異常』に成長してしまったのは、マフィアという家の環境とあの父親の所為だ。
ネオンという娘自体は、幼くて憐れな少女に過ぎない。彼女はただ、自分を全く顧みない父親に対する愛情の試し行為で、取得が困難な希少品をねだっていただけ。それがどんどんエスカレートしてゆき、マフィアという非常識な家の環境と彼女が持つささやかだったはずの異端の感性から、『手に入れるのがより困難な希少品』として選ばれたのが人体だっただけだ」
ネオンにそんな趣味嗜好は本来ならなかった。本人も勘違いしていただけで、人体になど本当は興味がなかったとすれば、ささやかだが確かに存在した違和感に説明がつく。
眼球と化石に近いくらいの骨はまだ同列に扱えるが、眼球と毛髪や使用済みティッシュでは人体蒐集に興味がない人間でも、それを同列に扱うには違和感を覚える。
ジャンルとしては確かにそれは「人体」でくくるものであり、入手難易度も同じくらいかもしれないが、有名人の毛髪を欲しがるのは、人体蒐集家というより単純にその有名人のファンだろう。
いくらDNA鑑定で本物だと証明されても、見た目はただのゴミ。眼球や骨に魅力を感じる者にとって、魅力的な物品とは言えないはず。
そして、特に珍しい特徴を持つ体の一部に魅力を感じているのなら、ごく普通の容姿をした人間の剥製に興味を懐くだろうか?
集め始めた当初や最初の一つ目なら思い出補正で大切にするかもしれないが、ある程度珍しいものも集めたコレクターなら、何の特徴もない相手をこれまた特徴も何もない剥製にして飾ろうとも思わないのが自然。
もし飾るとしたら、いじくりまわして「普通」からかけ離れた姿にするのではないか。
実際にそうやって加工され、家具やオブジェにされた人体のなれの果てもネオンのコレクションの中にはあった。
あったのに、クラピカの前任者は今思えば人間の原型も尊厳もかなり留めた形で飾られていた。
悪趣味な言い方で言えば、何の面白味もない凡庸な作品だった。
ささやかだったが確かにあった違和感、「人体蒐集家」としてちぐはぐだった部分は、大前提である「人体蒐集家」という部分を否定すれば簡単に説明がつく。
ネオンはそんなものに本当は興味などなかったから、形だけの蒐集家だったからこそ何もかもが中途半端でちぐはぐだったのだと。
そして、何の興味もないのにそんなものを求めた理由だって想像がついている。
「…………もしかしたら、彼女はそれを欲することがどれほど悍ましいかを初めからちゃんとわかっていたのかもな。
欲しかったのは物そのものではなく、『わがままをいうな』などという叱責の言葉だったからこそ非常識な物をねだっていたら、どいつもこいつもバカ正直にそれを貢ぎ……、だからこそ余計に感性が麻痺して本来なら得るはずがなかった『人体蒐集』という嗜好を持つと……周りも自分自身も勘違いしてしまったのではないかと私は思うのだよ」
ヨークシンの騒動を終えてから本格的にネオンの護衛として彼女と付き合い、彼女を見て感じたクラピカの印象、そこから導き出される答えを口にして、項垂れる。
クラピカにとって当初のネオンは、旅団と同じくらいかそれ以上に憎い怨敵でしかなかった。
彼女の能力も、自分の目的や正体を知られないかという警戒こそはすれど、能力そのものに興味などなかった。
彼女が誰のどんな言葉に感銘を受けて、「占い」という能力を得たかなど知らなかった。
ネオンは自分が集めているものが、どれほどの悲劇を経て生まれたのかという想像が出来ぬほど愚か者ではあったが、彼女は「占いは生きている人を幸福にするもの」という言葉だけで、制約と誓約という念の知識も知らずにそれを守り抜くほどの矜持を持った少女であるなんて、想像もつかなかった。
しかしスクワラとエリザの件により、「彼女が自分の悍ましさに気付いて反省してくれるかもしれない」という期待を懐いたことで、分厚く重なっていた「人体蒐集家」という憎悪のフィルターが外れ、「ネオン=ノストラード」という個人をちゃんと見るようになって、その期待はクラピカにとって迷いと自己嫌悪に変わっていった。
「人体蒐集家なんて、自分以外の人間を人どころか生き物とすら認識していない鬼畜だと思っていたし、その考え自体は今も間違っていないと思う。
……だがな、差別意識や選民意識ではなく、生まれ育った環境と親の怠惰で純粋に他人を自分と同じ人間だと認識することが出来ずにいた、たった一言でも叱ってやれば、それは違うと指摘してやれば簡単に理解出来た人間がいることを私も想像できずにいた。
……彼女も被害者であることに私は何も気づかぬまま、ずっと蔑み続けていたんだ」
もはや自分の推測や導き出した答えを語っているのではなく、完全な懺悔になりながらクラピカは目を伏せる。
瞼の裏で再生されるのは、ヨークシン以降からのネオンの様子。
エリザだけではなく、もう一人の侍女にまで夜逃げのように去られた悲しげな顔。
何かを言いたげに……占いが出来ず予知能力が暴走していることを相談しようとしていたのに、父親や自分に「忙しい」と冷たくあしらわれて途方に暮れていた姿。
占いが出来なくなったと言っても、娘が拗ねているだけだと思って媚を売る父親に、言葉が通じないことに恐怖を感じているような顔をして怯えていた。
そして、彼女が拗ねてストライキを起こしているのではなく本当に占いが出来なくなっていることを理解して発狂した父に、暴言と暴力を受けていた時はもはや人形のように無表情で、いくら殴る蹴るをされても、クラピカ達がライトを羽交い絞めで止めるまで無抵抗だった。
彼女はその後、自分のコレクションをすべて処分して欲しいと言った。
自分のコレクションを売り払うことで、少しは自分が占いを休業することで生まれるマイナスを補填しようとしていただけではなく、彼女自身がもう人体に関して何の魅力も感じていなかった。むしろ、それらを傍に置くことに忌避感を覚えていた。
ネオンはクラピカの期待通り、自分の嗜好を悍ましいと自覚してくれたというのに、クラピカの気は晴れるどころが余計に重苦しいものに成り果てた。
思い返せば思い返すほどに思い知る。
頭を下げて媚びることにこの上ない屈辱を感じていた、鬼畜だと思っていた少女は所謂「優しい虐待」の被害者であり、彼女自身も実の父親から便利な道具としか思われていなかったことをここ数カ月で思い知らされ、クラピカの心に重い罪悪感を懐かせ、そして大きな迷いを生み落とす。
彼女が自分の悍ましさに気付き、反省してくれるのなら彼女を許せると思っていた。
しかしその悍ましいと思っていた趣味嗜好は、彼女自身に非はほとんどないといえるものだった。ネオンもまた被害者だったと知ればなおのこと、彼女に対して抱いていた憎悪は消えるはず、消すべきだと思っているのに……クラピカは未だにネオンに対して負の感情を懐いていた。
憎悪というほど強いものではない。言い表すなら苛立ち程度だが、それは確かに悪感情だ。
そして、その苛立ちは何に起因しているものなのかがわからず、それが余計にクラピカの心を掻き毟る。
苛立ちの正体はわからない。
ただ、自分はまだ決してネオンを許してはいないことだけは理解している。
けどそれは、彼女がクラピカにとって許すラインにまだ達してないだけなのか、そもそも何をしても彼女に対して許す気が本当はないのかすら、クラピカにはわからない。
ネオンという少女を知れば知るほどに、自分がどうしたいかをわからなくなっていた。
「――クラピカ」
そんな答えの出ない自問自答と迷いと苛立ちだけでグチャグチャに掻き乱れる頭の中に、柔らかな声音が届く。
伏せていた瞼を上げると、ソラは向かいのベッドではなく椅子に座る自分の前に膝立ちでクラピカの顔を覗き込んでいた。
予想よりはるか至近距離にソラがいたことに一瞬驚いて、椅子から落ちかけたクラピカを少しおかしそうにソラは笑ってから、彼女は両手を伸ばす。
ソラの柔らかくて子供のようにやや高い体温を持つ掌がクラピカの顔を包み込み、そしてそのままソラは軽くクラピカの頭を自分の方に引き、自分の頭をクラピカの顔に寄せて熱でも測るように額をこつんと合わせた。
いつもの羞恥と意地は、発動しなかった。
ただただ、懐かしいと思ってクラピカはそのままソラにされるがままだった。
4年前はよくされた、ソラの癖。
説教ではなく、ただ知って欲しい、眼を逸らさず真っ直ぐに見て欲しいことを伝える時はいつも、彼女はこうしていたことを思い出す。
「クラピカ。罪は減点式で考えるな。加点式で考えろ」
真っ直ぐに、あの頃よりも青みの強い瞳で、あの頃と変わらぬあたたかで優しい光を灯した眼がクラピカを見据えて告げる。
「飢え死にしそうだからパンを一つ盗んだ人間と、遊ぶ金欲しさに大金を盗んだ人間が全く同じ重さの罰を負うのは間違いだ。けど、後者の罪を基準にして減点式にしてしまうと、どうしても前者の罪はマイナスになって、前者を罰するのではなく優遇してしまう。
前者を優遇させてはいけないんだ。一番尊いのは、飢え死に寸前まで窃盗をしなかった人ではなく、パンを盗んで生き長らえるよりも飢え死にを選んだ人なのだから、前者を優遇するということは最も尊い人を愚か者だと貶めることになる。
クラピカ。罪は決して消えないんだ。簡単だろうが難しかろうがリセットできるものなら、さっきの例えのように罪を犯した方が罪を犯さないように努力し続けた人よりも得することになってしまうから。
それだけは許されてはいけないことだから、罪は消しちゃダメなんだ。
あの子は確かに君が思っていたよりも犯していた罪は軽いかもしれない、彼女は環境や父親に対しての被害者かもしれない。だけど、加害者ではなかった訳ではない。加害者であることは可哀想かもしれないけど、もう一生変わらない」
柔らかな声音で、あまりに厳しいことを語る。
それはクラピカやネオンよりも彼女自身を傷つける言葉であるはずなのに、ソラはどこまでも穏やかに語る。
「どんなに同情すべき理由があっても、加害者を被害者より優遇してはいけない。もちろん、被害者だからと言って加害者に何をしてもいい訳でもない。犯した罪に対する償いや罰は明確に定めるべきだけど、許す許さないの判断をしていいのは、被害者だ。加害者はもちろん、裁判官やら神様なんていう部外者がそこに口出ししていい権利はない。
どんなに小さな罪であれ絶対に失われてはいけない『罰』は、『許す権利を被害者に全面的に委ねること』なんだ。
それだけは、誰も奪ってはいけない。……君自身でも放棄してはいけないものなんだ」
その価値観は、罪に対する考え方はあまりにも清廉だからこそ痛々しくて、少し前までのクラピカなら「そんな価値観は捨てろ」と癇癪を起して怒鳴っていたかもしれない。
だって、その価値観がこの世の真理だとしたら、ソラは救われない。一生、彼女は罪人として生きなければならない。
例え彼女が殺した相手はいつもいつだって、彼女以上に許しがたい罪を犯しておきながら罪悪感を懐かない外道であっても、人とは言い難い鬼畜であっても、ソラは「殺人」という罪を負い、そしてそれを許す権利は彼女が殺した鬼畜にあるなんて考えは、クラピカには許容できない、したくなどなかった。
けれど……、ソラはそこまで自分の罪を真っ直ぐに見て、背負い、許す権利を相手に委ねていながらも、彼女にとって決して消えない血で汚れた手で自分に触れてくれているのなら……。
自分の罪を手離さないのはただの罪悪感ではなく、たどり着きたい結末に至る為に選んだ罪だからこそ、真っ直ぐにその罪と向き合って背負い続けるというのなら……。
「そんな罪は負わなくていい」と叫びたい気持ちはなくならない。
だけど、彼女がそこまでしても選んでくれたものだと思えば否定できないし、したくない。それこそ彼女が背負うものをただの「罪」にしたくないから、クラピカは自分の顔を包む手に自分の手を重ねて答える。
「……私は、彼女に同情しながら、守りたいと思いながら『許さない』を選んでもいいのか」
ソラの手に触れて、ソラの罪を否定しないまま少しでも軽くなることを、ソラ自身が本来なら背負わなくていい分まで加点しないように願いながら、ソラがくれたものから導き出した「迷い」の答えを口にした。
その答えに、ソラは晴れやかに笑う。
「そうだ。
あの子は確かにかわいそうな子だ。真っ当な良心があれば、あんなクソ親父から守りたくなるのは当然。
けれど、どんな事情があってもあの子は君にとっての加害者だ。だから……君は許したくないのなら許さなくていい。許したくないから、護衛という立場を利用して彼女を追いつめて苦しめるのは、彼女の罪に対して過剰な罰だからそれは君の方が許されないけど、守りながらでも、かわいそうだと思いながらでも、『許さない』ことは君に許された権利だ。
『許さない』ことも、『許せない』ことも、『許したいのか許せないのかも分からない』ことも、君の罪なんかじゃないんだよ、クラピカ」
クラピカの中でグチャグチャに絡まって答えが出なかったものの一部がほどかれる。
自分の答えとソラの言葉がすとんと胸の中に納まって、ここ数か月ずっと靄がかかったような視界が晴れるのをクラピカは感じ取った。
要は、憐れだと感じながらもネオンを許せなかった自分を狭量だと思い、許せないのに彼女を憐れんで守ってやりたいと思うことが同胞への罪悪感となる板ばさみが、クラピカの思考をグチャグチャに絡まらせていたのだ。
どちらかを選ぶべきだと思って、けどどちらも選べない自分の優柔不断さが自己嫌悪となりまた更に思考を迷宮化させていたが、憐みからの守ってやりたいという思いも、まだ許せないという思いも、それらは矛盾せず両立していいものだと言われたら、あっけない程にこの数か月間抱え続けた重荷は消えてなくなり、逆に脱力してしまう。
その様子にソラは少しおかしげに笑って、額を離して言う。
「君は本当に優しいのは良いけど、くそまじめに考えすぎるなぁ」
「悪かったな。……だが、助かった。だいぶ気は楽になった」
ソラの微笑ましそうな笑みと言葉に、少しだけ拗ねた様子で睨み付けて言いつつも、彼も穏やかに笑って少しストレッチでもするように両腕を思いっきり上に上げて腕と一緒に背筋を伸ばす。
まだ顔の隈は大分濃いが、言葉通り精神的な負荷がなくなって楽になったのがよくわかる、穏やかクラピカの表情にソラもまた更に満足そうに笑う。
が、その笑みは腕を下ろしたクラピカが言い出したセリフで一気に呆れきった顔に変わった。
「こんな時間に報告に来るだけでも非常識なのに、私の愚痴にまで突き合わせて悪かったが、助かったよ。この迷いを抱えたまま、彼女の念能力修行に付き合うにはさすがに精神的な負荷が強かったからな」
「……クラピカ。君は私が何で君の愚痴に付き合ったかを本当にわかってる?」
自分の返答にソラが呆れきった目と声音で訊き返し、クラピカは素で小首を傾げた。
どうやら彼はソラがわざわざノストラード家にまでやって来た自分由来の理由をすっかり忘れているようだ。
久々に発揮したクラピカの天然ぶりに少し和みつつも、すっかり社畜精神を自分から身に着けているクラピカにソラは深い溜息を吐いてから立ち上がり、彼を見下ろしながら提案した。
「クラピカ。一緒に住もうぜ」
「お前はいきなり何を言い出す!?」
* * *
タイミングといい内容といい、唐突過ぎる提案に反射でクラピカは言い返すが、クラピカの抗議はソラに逆ギレ気味の即答で叩き落とされる。
「いきなりでも言いたくなるわ!! 何で君は仕事に没頭してた理由である悩みがある程度解決したっていうのに、休みを取らず働きに出ようとするんだ!!
マジで君、ワーカーホリックじゃん! 何なの!? 休んだら禁断症状出て手足の震えが止まらなくなるのか! そうだとしたら私は君を拉致ってでも休ませて、その中毒症状ぬけるまで監禁すんぞ!!」
逆ギレではなく、割とソラの方が正論だった。
確かにあれほど周りに休めと言われて心配をかけていたくらいなのに、その休めなかった理由が解決しても休もうという発想が生まれなかった自分は、完全なワーカーホリックだと自覚して一瞬クラピカは口をつぐむ。
「そこに関しては確かに私が悪いが、何でそれがお前と一緒に暮らすという結論になるんだ!!」
しかし元が聡明なのですぐにソラのキレた理由は一緒に暮らすという提案に繋がらない事に気付いて反論する。
だがクラピカの反論は正論なはずなのに、ソラは「何でわからないの?」と言わんばかりのきょとん顔でこれまた即座に言い返す。
「だって君はあの子のことがなくても、どうせ未だに定住地ないだろ。少しでも早く仕事に慣れよう、有能であることをアピールして這い上がろうってのが完璧主義な所も合わさってエスカレートして、君が本来ならすべきでもない仕事にまで手を伸ばして、マジで休むタイミングを見失ってるだろ。
でも、帰る家があればある程度の仕事の区切りがついたら帰ろうと思えるだろうし、そして私がいれば、いざとなれば私が君に腹パンでも決めて強制的に休ませることも出来るじゃん」
「うるさい! その通りだ悪かったな心配かけてすまない! あとその『いざとなれば』の手段は休ませていない!! どんな時でも使うなやめろ!!」
「なら、過労死希望としか思えない君の社畜根性を先にどうにかしろ!!」
キョトンとした顔でネオン無関係なワーカーホリックの理由もソラは当てて来て、訳がわからないと思っていた提案に結び付けてきた。
あまりにもソラに自分の思考や行動がお見通しにされているのが恥ずかしいのと、最後の「いざという時の手段」はソラなら本当にやりかねない、というか絶対にやるので、クラピカは謝りつつも逆ギレで怒鳴るが、その逆ギレもまた正論でキレ返された。
ぴしゃりと言い返せない指摘をされて、クラピカは悔しげに唇を噛んで黙り込むのを見て、ソラはもう一度「仕方ないなぁ」と言いたげな息をついてから、ベッドに腰を下ろして改めて訊いた。
「クラピカは、私と暮らすのは嫌?」
真っ直ぐにクラピカを見て、ソラは訊く。
その顔はもうクラピカの社畜ぷりに怒っているのでも呆れているのでも心配しているものですらなく、歳よりもはるかに幼く見えるほど何かを不安がっているように見えた。
「ぶっちゃけた話、私の提案は君の為と言うより私が君と暮らしたいから言ったものだよ。
君の社畜ぶりがマジでヤバいと思ったから今唐突に言ったけど、どのみち近いうちに提案してたよ。やっと私も君も、表だって使える身分証明書を手に入れて、定住地が得られるようになったんだから……、だからこそ、私の帰る場所は君のいる所が良いって思ったんだ」
そんな顔で、あの唐突な提案の真意を語る。
クラピカを心配していたのも呆れていたのも本当だが、そんな理由は後付けに過ぎない。彼の為ではなく、自分の為にした提案であるということを告白する。
「だからさ……、君が私なんかと一緒に暮らしたくないのなら……」
「そんな訳ないだろう」
最後までは言わせない。
ソラが何に対して不安がっているかを理解したから、だからクラピカは湧き上がる羞恥をねじ伏せて、ソラの不安を一蹴する。
「……そんな訳がないだろう。……そんな風に思っている相手に、『家族になろう』となど私は言わないし、君がそう言って差し伸べてくれた手を取りはしない。
…………私だって、私の帰るべき場所は君のいる所が良いに決まっている」
自信過剰に見えて実は自己評価が結構低くてネガティブな所のあるソラが誤解しないように、誤解のしようがないようにクラピカが語れば語る程に、ねじ伏せていた羞恥はさらに沸き立って、熱くなった顔はどんどん隠すように俯いて行く。
ソラの顔を見ていられなくなっているのに、自分とは反比例して向かいのソラはクラピカの言葉が続くにつれて嬉しそうにテンションが上がってゆき、そのテンションのままに前のめりになってソラは言った。
「本当! じゃあ、一緒に暮らそう!!」
「却下だ」
「なんでさ!?」
しかし、クラピカの答えは非情だった。
先ほどまでの羞恥はどこに行ったと言わんばかりの切れ味で即答されて、思わずソラは自分の知人の口癖で突っ込みを入れるが、クラピカが再び上げた顔を見て少し戸惑った。
まだ羞恥で紅潮した顔のままやや涙目の上目使いで睨み付けるクラピカは、ソラからしたら写真にとって永久保存したいくらいに可愛いだけなのだが、その様子からして彼がただいつもの羞恥により意地で拒否している訳ではないことをソラは察する。
そこまで察していたのに、ソラにはわからなかった。
「……お前は、本当に良いのか?」
「? 何が?」
クラピカの念押しする問いの意味が。
「……本当に、私と暮らしたいのか? 4年前の……子供でしかなかった私ではなく、今の私とお前は暮らしたいと言うのか?」
紅潮した顔のまま乱暴に椅子から立ち上がり、自分の前に立って見下ろして尋ねるクラピカの問いの意味が、分からない。
「――自分と私の性別を考慮しろと言っただろうが」
そう言いながら、クラピカの右手が自分の肩を掴んだ意味など何もわからない。
意味のある行為だとすら思えない。
理解出来ない。
だけど、わからないけど、理解出来てないけれど、それでも――――
「…………すまない」
「はい?」
ソラが何かを答える前に、「君は何を言っているの?」と尋ね返すよりも先にクラピカはソラの肩から手を離し、謝った。
その反応が、余計にソラの疑問を深めて混乱させる。
何もかも訳がわからない。
クラピカの念押しの問いも、自分を見下ろしていたクラピカの顔が酷く悔しげだったことも、自分の肩を掴んだ手が一瞬だが確かに、突き飛ばそうとするように力がこもったのも、けれど結局何もせずに離れた理由も……
肩を掴んだクラピカの手に力がこもった瞬間、一瞬強張ったソラの反応にクラピカは……安堵したように、けれどどこか寂しげに笑って謝った理由をソラは理解出来なかった。
ただクラピカだけが満足げと言うより、何かを吹っ切ったような顔をして言葉を続ける。
「……さすがに全く危機感を懐いていない訳でもないとわかっただけでも僥倖と思うべきか」
「クラピカ、君が何に納得してるのか私には全くわかんないんだけど?」
「そうか。自分で考えろ朴念仁」
ソラの疑問をこれまた非情に切り捨てて、クラピカはそのまま椅子に座り直すこともなくドアの方に向かう。
「帰るの?」と腰を浮かして問うソラに、「あぁ」と答えて彼は振り向き、そして告げる。
自分にとっての帰るべき場所だと定めておきながら、即座に却下した理由を。
「確かに私たちは表立った身分証明書を手に入れたが、お前と違って私はそれを使ってマフィアの一員として活動しているんだ。
そんな私がお前と一緒に暮らせるわけがないだろう。
お前は何も気にしないと言うだろうけどな、私は気にするんだ。お前だって、私が気にしなくても自分に由来する敵か何かが私に関わったら、私が余裕で撃退したとしてもずっと罪悪感を懐くのだろう? 私だって同じだ。
……私にとって君が、君のいる場所が帰るべき場所だからこそ、そこを脅かされるのは嫌だ。だからこそ、君の提案は絶対に受けられない」
途中でソラが叫ぶように言いかけた「そんなの平気だし気にしない!!」というソラの主張を先回りで封じ、ソラの提案を拒絶する。
今度はソラが正論で叩き伏せられるが、ソラはクラピカのように黙り込まない。
彼の言葉が正論であるとわかっていながらも、認めはしない。
「ふざけんなよ! どうして君はいつもいつも悪い想像ばかりして、その最悪だけは訪れないようにって君自身が何にも望んでないことをしようとするんだ!
そんなの、あのネオンって子の悪魔に取り憑かれてるも同然だろうが! どうして君は、自分の不幸を勝手に確定させて幸せになる為に選択を重ねない!?」
クラピカの言葉は正論だけど、それは自分が歩む道は基本的に不幸一色だと決めつけた上での正論であると指摘し、泣き出しそうな顔で叫ぶ。
失いたくないからこそ、大切なものを作らないという選択は間違いだと訴える。
その叫びに、クラピカは応じる。
彼にしては珍しい、悪戯が成功したような幼くて少し意地の悪い笑みを浮かべて。
「前科があるから信用されないのはわかっているが、最後まで聞け馬鹿者。
誰がいつ、一生その提案は受けられないと言った?」
「…………え?」
クラピカの答えで彼の表情や様子に気づき、ポカンと呆気に取られた顔になるソラを見ておかしげにクラピカは笑い、そして答える。
クラピカが出した答え。選択した、たどり着きたい未来はどこかをソラに告げる。
「裏稼業に関わるのは同胞の眼を取り戻す手段に過ぎない。だから同胞の眼を全て取り戻したら、この稼業からすぐに足を洗うつもりだ。
もちろん、足を洗ったからといって買った恨みが清算されないのはわかっているが……、組織というしがらみさえ無くせば、私の意思で私は君の傍にいることが出来る。少なくとも、私の知らない内に私が買った恨みが君に向かって、君を失うかもしれない可能性は低くなる。
……ソラ。私は君の元に帰りたいからこそ、今は無理なのだ。帰る為には、片付けなければならないことが多すぎる。
だから……さすがに倒れたり過労死などという本末転倒は起こさないように気を付けるが、もうしばらく無理をさせてくれ。私は、一刻でも早くその提案を受けたいからこそ、休めないし休みたくないのだよ」
クラピカの答えにソラの丸くしていた目が徐々に細くなり、薄く涙の膜が張っている蒼玉の瞳は笑みの形となり涙の意味も変わる。
「……最初からそう言ってよ。君にそういうポジティブな発想が出るっていう信用は、残念ながらないんだから」
笑いながら、泣きそうになるほど嬉しそうな笑みを浮かべながら文句をつけるソラに、今更だが自分の発言を照れくさく思ったのかクラピカは「悪かったな!」と赤い顔で言いながら乱暴にドアを開ける。
が、その開けたドアから廊下に出て振り返った時には、紅潮こそはまだ消せずにいたが、羞恥や意地による怒りは消して穏やかに笑いながら、ソラに告げる。
「……こんな時間に来て悪かった。じゃあな、ソラ。……またな」
また今度はいつ会えるのかわからないからこそ、クラピカは羞恥で怒鳴って去って行ったという別れにしたくなかったから、彼は笑うことを選んだ。
笑って、別れではなく再会の言葉を口にする。
「うん、またね、クラピカ。無理する理由はわかったけど、それでも今日はさすがにもう帰ったら休みなよ」
そしてソラも、クラピカの言葉に応じて少しだけおせっかいなことを言いながら、笑って手を振って見送った。
嬉しげで幸福そうな、晴れ晴れしい笑顔だった。
もうそこに、自分が肩を掴んで押し倒そうとしたした瞬間の、わずかだが確かにあった怯えなどどこにもないと確信できる笑みに、安堵と小さな痛みを覚えながらクラピカはドアを静かに閉めた。
そして、廊下を歩きながら呟く。
「……
無防備で何もわかっていない、クラピカの言いたかったこともしようとしていたことも何も気づいていないし理解できていなかったソラに文句をつけ、そして自己嫌悪する。
文句をつける筋合いなどないことはわかっている。ソラの鈍感さに、朴念仁ぶりに不満を懐く自分が間違っていることは理解している。
その不満は、はっきりと「答え」を出して行動に移した者でないと懐く権利などない不満。
彼女の無知による鈍さに甘えて、答えを出せぬまま彼女の傍に居続けることがどれだけ図々しいかわかっている。
それでも、クラピカは答えを未だに出せない。
「――臆病者な挙句にとてつもなく卑怯者だな、私は」
自己嫌悪がどんどん肥大化してゆき、胸の内に溜めこんでおけなくなった自嘲を言葉にして吐き出すが、それぐらいで溜め込んだ嫌悪は軽くなりなどしない。
さすがに、あの「女神」に指摘された自分の思いを、名前などなくていいと言って逃げて眼を逸らしていた「愛」の名の答えは出ている。
そうでなければ、ソラのあまりにも無邪気に何の危機感もなく提案してきた「一緒に暮らそう」という言葉に苛立ちなどしない。
一瞬とはいえ自棄を起こして、「押し倒してやろうか」と思いも、実行もしない。
自分の思いが「恋」であることなど、もうとっくの昔に気付いている。認めている。だからこそ、未だに答えが出ない。
その「恋」を諦めて捨てて、家族として、弟としての「愛」を彼女に向けて今まで通り傍に居続けるか。
彼女に、どうか自分と同じ「夢」を見て欲しいと告白すべきか。
ソラとどのような関係になりたいかという答えを出して、その関係に適切な距離感で接してやらないと、あの「魔術師」という残酷な生き物が跋扈する世界で傷つき続けた彼女をさらに傷つける結果になると「女神」から忠告されたのに、その忠告を全く守れていない自分にとって都合の良い中途半端な立ち位置に留まり続ける自分が、嫌で嫌でたまらない。
それぐらい自己嫌悪をしているくせに、なのに答えは出ない。
……ソラから離れたくない。
その答えだけは手離せないからこそ、その答えに行き着くまでに決めなければならない選択肢が選べない。
先ほどの提案で苛立った自分が、本当にこの「夢」を捨てることが出来るのか? 彼女の「弟」であり続けることが出来るのか?
あんなにも無防備に、無邪気に、クラピカが男で自分が女であることを意識していない彼女が、自分の「夢」を受け入れてくれるのか?
受け入れてもらえなかった場合、自分たちの関係はどうなる? 時間がかかっても修復できるものなのか? それとも……もう一生に、何気ない会話さえも出来ないほどの溝が出来てしまうのではないか?
そんな不安ばかりが思考を占めて、答えは出ない。
ヨークシンの件で色々と吹っ切って開き直ったおかげでだいぶ改善されたつもりだが、それでもソラから信用されないのも無理がないネガティブ思考な自分に溜息を吐きながら、気持ちと一緒に下がっていた首の角度を上げたタイミングで、それは飛び出してきた。
「! 申し訳ない! 大丈夫か?」
エレベーターから降りてホテルの出口に向かう所だったクラピカは、非常階段から何かに追われるように後ろを振り返りながら下りてきた相手とぶつかってしまった。
正確に言うと、歩いていたクラピカの足が非常階段から前方不注意で飛び出してきた相手の足に引っかかってしまい、クラピカの方はややバランスを崩す程度で済んだが、相手の方は派手に転んでしまった。
その際に被っていた帽子も落ち、帽子の中に押し込んでいた長い黒髪が流れ出てきて気付く。
相手は男物の衣服を身にまとっているが、女性であること。それも、どんなに多く見積もってもクラピカと同い年、下手すればゴンやキルアより1,2歳しか変わらぬほどの少女であることに気付き、クラピカは対応に困った。
時刻といい場所柄といい相手の歳といい、非常階段から逃げるように走り下りてきたことや、自分の性別を誤魔化す格好といい、どう見てもこの少女は何らかの訳あり。
違っていたら悪いが、売春行為をしていたら何らかのトラブルが起こって逃亡が一番筋の通る状況と相手なので、普通なら関わりたくないだろうが、クラピカはソラの事があまり言えない程、彼も子供に甘い。彼の本質的な性格からして、放っておける対象ではなかった。
「大丈夫です」
そう言って、帽子を拾って被り直して逃げるように立ち去ろうとした少女の腕をとっさに掴んでしまったのは、そんな理由。
どんな事情にしろ、こんな時刻に10代半ばと思える少女が外を出歩くことをクラピカは看過できなかったからとっさに引き留めただけなのだが、掴んでから後悔した。
相手がどのような訳ありかを多少でもわかっているのならともかく、何もわかっていない状態でこんなことをしてしまえば、後ろ暗いことがあるなし関係なく普通に悲鳴を上げられ、痴漢呼ばわりされても文句は言えない行為だと気付いたから。
なので、少女がクラピカを射貫くような眼差しで振り返って睨み付けた時は血の気が引いたが、幸運な事に少女は悲鳴を上げることはなかった。
代わりに、ジャポン人形じみた顔をウサギの様にきょとんと眼は丸く口を半開きにして少女は、しばしクラピカの顔を凝視した。
その反応をクラピカは、自分とそう歳の変わらない相手だと気付いてくれて、それを意外に思っているのだろうと判断し、その隙に彼は引き留めた理由を話す。
「いきなり引き留めて申し訳ない。ただ、こんな夜更けに一人で出歩くのは危ない。
私で良ければ目的地まで送る。信用できないのならタクシー代なら出すから、とにかく一人で出歩くのはやめるべきだ」
少女はクラピカの言葉でさらに目を丸くしてから一度笑って、「優しいですね」と言った。
ストレートにそう言われて照れくさくなるが、とりあえず警戒されず信用してもらえたことにクラピカは安堵する。
そして少女はクスクス笑いながら、自分がこんな時間に出歩く訳と要望を口にする。
「じゃあ、お言葉に甘えてタクシー使わせてください。
私、家出してたんですけど色々と後悔して怖気づいちゃって、今から家に帰ろうとしてた所なんです」
舌先をチロリと出して語った少女に、クラピカは「なるほど」と相槌を打ちながらこっそり薬指の鎖を具現化し、反応を確かめた。
鎖は小さく揺れたが、初対面の男相手に全て正直に語ることは期待していないので、想定内の反応だ。
鎖が揺れたのも家出うんぬんというくだりの部分のみ、家に帰るつもりという発言には嘘はないのを確認してから、家までどれくらいの距離があるかを尋ねて、そこまで確実に足りるだけの金額を財布から出そうとしたタイミングでチンっとエレベーターの到着音が背後から聞こえた。
「あれ? クラピカ何して……」
エレベーターが開くとほぼ同時に聞こえた声に反応してクラピカが振り返ると、エレベーターからYシャツホットパンツの上にコートだけ羽織ったソラが降りてきた。
何故、彼女がここに? と一瞬クラピカは疑問に思うが、ソラの持っているものに気付いて理解する。
ソラは、うっかりクラピカが忘れてきてしまった彼のコートを届けに来てくれていた。
そのことに気付いて、礼と面倒をかけた謝罪を口にしようとしたがクラピカは同時にもう一つ気付いた。
ソラは自分を見て何故か、盛大に引いていることに気付く。
「……一応訊くけど、何してんの君?」
「お前の方が何だと思ってる!?」
ドン引きとその問いで、ソラがどんな勘違いをしているかを察してクラピカはキレるが、ソラはあまり悪くない。
ホテルで少女を前にして財布から高額紙幣を取り出して渡そうとしている男など、どう見てもお巡りさん案件である。問答無用で通報しない時点で、ソラはクラピカを信用しているし優しい。
実際、引いていたのは買春現場にしか見えない光景にであり、もちろんソラはクラピカを疑っていなかった。
ただ買春はあり得ないがそうとしか見えない光景に至った経緯がさっぱり想像がつかなかったので訊いただけらしく、クラピカが端的に説明すれば「なるほど」と一瞬で納得してくれた。
「あはは、ごめんなさい。甘えた挙句に変な誤解させちゃって。けど、私にもそんな趣味ないよ」
ホテルから一番近いタクシー乗り場までクラピカとソラに送られた少女が、二人のやり取りをおかしげに笑って謝りながら、タクシーに乗り込む。
そして少女は、最後に手を振りながら言った。
「ありがとう、クラピカさんに白いおねーさん」
そう言って、少女を乗せたタクシーは走り出す。一応、ノストラード組の名前を出して、会社名やナンバーもひかえたので、運転手が不埒な真似をすることもないだろうと、子供に甘い二人はそれぞれ安心して帰路に着く。
ただ、それだけのちょっとしたトラブルだった。
他愛のない、ソラをホテルに送る際にクラピカがソラに、「あの子、私の誤解に『そんな趣味ない』って言ってた事はたぶん、クラピカは女だと誤解されてるよ」と指摘されて凹むというオチがつく笑い話に過ぎない。
それだけで終わる話だと、クラピカもソラも思っていた。
* * *
「何であんたはそこで帰んのよ?」
「何故、私は帰って来たことに文句をつけられなけばならない?」
翌朝、執務室でミーティングを兼ねて昨夜のソラとの話でクラピカ個人の迷いのくだりを抜いた話を伝えれば、何故かヴェーゼがやたらと不満そうに言い放ち、クラピカもケンカ腰に問い返す。
しかしクラピカに反論したのは、最初にケンカを売ったヴェーゼだけではなかった。
「いや、実際何お前は帰って来てんだよ? そこで帰るか、普通?」
「真夜中に異性が泊まるホテルに行って仕事の話だけして帰って来るなんて、ただの非常識な奴じゃない」
「というか、その状況で何で帰ることが出来るんだ? 何がしたいんだお前は」
「俺が詠んだ都々逸返せよ。『添うて苦労は覚悟だけれど 添わぬ先からこの苦労』って、俺らが苦労してんじゃねぇか」
「余計なお世話だ!!」
スクワラ、ヴェーゼ、リンセン、バショウの順に呆れきった様子で余計かつ下世話すぎることを言われて、クラピカはマジギレした。
そんな彼らのやり取りを、センリツは人数分のお茶を淹れながら苦笑して眺める。
自分で自分を追い詰める、見ていて痛々しいクラピカが唯一年相応の反応をするネタを使ってからかわれるのは、クラピカに同情するが同時に彼は大丈夫と安心できるから、センリツはギリギリまで止めないで観戦していたのだが、いきなり彼女は目を見開いてポットをやや乱暴に置き、代わりにTVのリモコンを手にして音量を上げる。
センリツの唐突な行動に、バカなやり取りをしていたクラピカ達は呆気に取られるが、BGM代わりに映して流していたニュースの内容が耳に入ったクラピカは、センリツと同じように目を見開いて、TVに向き直った。
ニュースが報道しているのは、殺人事件。それも生きながらバラバラに引き千切られて切り裂かれたという、かなりの猟奇殺人だ。
その事件が起こった現場は、ソラが宿泊しているホテルであり、被害者は若い女性であることをニュースキャスターは淡々と語る。
《被害者は宿泊客のセシリー=ハンクスさん、20歳……》と被害者の名前と顔写真が出てクラピカは不謹慎だと自覚しつつも安堵した。
その様子でソラがどこのホテルに泊まっているかまで覚えていなかった他の連中も、クラピカとセンリツが何の心配をしたのかを理解する。
「なんだ、脅かすなよ。っていうか、言っちゃ悪いがあの女はそんな簡単に死なねーだろ」
「……というか、本当に言っては悪いがこの事件、彼女は関係ないだろうな?」
「本当にどちらも失礼この上ないな。……だが、どちらも否定しきれないのが辛い。一応、確認してみよう」
スクワラの軽口とリンセンの割と本気の疑問に、クラピカは怒る気にもなれずケータイを取り出して本当にソラに電話を掛けようとする。
もちろんソラを犯人だとは思っていないが、あのトラブルに自分から全身をダイブさせるバカは何かしら関係している可能性は今までを思い返せば高すぎたからこそ、確認の電話だ。
だが、その電話を掛ける前にまたしてもセンリツが先に気付く。
彼女の高性能すぎる耳がある音を捉える。
「待って、クラピカ。ボス……じゃなかった、お嬢様が来るわ」
「? ネオン=ノストラードが?」
仕事内容がネオンの護衛からライトの補佐にいつの間にか変わって行ったため、呼び名もボスはライト、ネオンはお嬢様と呼ぶように他の同僚たちはしているが、どうしてもクラピカはそう呼ぶ気にはなれずフルネームをオウム返しする。
「えぇ、どうもすごく慌てて走って来てるわ。心拍も凄く乱れてる」
クラピカの問いにセンリツは戸惑いつつも答えると同時に、執務室のドアが開く。
センリツの言う通り、まだ起きたばかりであろうパジャマ姿に乱れた髪そのままに、ネオンが荒い呼吸をしながらドアを開けた途端にその場に座り込んでしまった。
座り込みながら、苦しげな呼吸と同時に舌を噛みそうなほど歯をカチカチ鳴らして、体を震わせてネオンはクラピカを見上げて言った。
「いや……嫌だ……。何で……何でこんなのばっかり……」
「!? どうした!? 何があった!?」
センリツが事前に教えてくれたといえど、直前だったのと思った以上にネオンは何かに急き立てられるように、パニックを起こしてやって来たことに驚いてしまい、クラピカは敬語を忘れてネオンに問いかける。
「み、み……見たの。また……視えたの。……今さっき、また……未来が視えたの……」
センリツとヴェーゼに背を撫でられ、落ち着くように宥められながらネオンが息も絶え絶えに告げた。
クラピカをただひたすらに真っ直ぐ見つめながら、
「――――あなたが……クラピカさんが……死んじゃうのが見えたの」
ネオンの
その声の出どころ、わずかばかりに重く感じる自分の腕をクラピカは見る。
両目に、オーラを込めて。
彼の腕には唇だけがやけに生々しい「悪魔」がしがみつき、クラピカを見上げて歯をむき出しにして嗤っていた。
ネオンの能力の解釈や趣味嗜好に関しての考察には賛否がありそうですが、これはあくまで一個人の趣味の二次創作なので、「この作品ではそうなんだ」と割り切っていただけたらありがたい。
そして今回のゲストキャラはたぶんかなりわかりにくいだろうけど、一応現段階でどの作品の誰かわかる情報は明記してあったりします。
っていうか、私も懐かしすぎて細かい所を綺麗に忘れ去ってたから、読み返して慌てて描写を追加した。ゲストキャラのヒントの為というより、マジで伏線として必要な描写だったので。