死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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122:未来は白紙

「もういい加減にしろ、ネオン=ノストラード。

 あなたの贖罪は全て、的外れなんだ。だから私は、あなたを許したいのに許せない」

 

 クラピカの言葉があまりに意外だったのか、ネオンはきょとんと目を丸くする。

 理解出来なくて当然だ。彼が「お前は自分にとって一生加害者だ」と宣言して始まった話なのに、「許したい」と願っていることをまずネオンには信じられない。

 

 それはセンリツも同じ。彼女の場合、クラピカが本心から語っているのをわかっているので、なおさら彼の言いたいことがわからずに困惑する。

 

 そして理解されないのをクラピカ自身もわかっているからか、彼は傷の痛みに顔をしかめて俯きながらも語る。

 自分が何度失い続けても、それでも懐き続ける期待を口にした。

 

「……あなたが『被害者でありたくない』と願うのは、自身の幸福を諦めているからではなく、幸福でありたいからだろう?

 愛されていた、愛されているという幸福を信じたくて……幸福でいたいからこその願いを、自ら不幸にしかしないものにまで歪めてどうする?

 過去のなかった幸福をあったと言い張って……、その挙句が自分の不幸の言い訳を最優先にする為、自身の現在や未来の幸福を犠牲にして何の意味があるんだ?」

 

 ようやく理解した、ネオンに懐いた憎悪の理由をクラピカは自分自身とネオンに言い聞かせた。

 自分が彼女に懐いた憎悪は、ただの同族嫌悪。

 あのヨークシンでの、ウボォーギンを殺そうとしていた自分と今のネオンがあまりによく似ていたから、あの時の自分が許せなかったから嫌悪して憎んでいただけの話。

 

「……あなたの『悪魔』はどこまでも誠実に、愚直に、真摯にあなたの願いを叶える。だが、その願いは初めから歪んでいる。あなたが本心から叶えたい願いに、最初から辿り着かないものに成り果てていることに気付け。

 

 加害者はたとえ罪を償っても、被害者から許されたとしても加害者である事実は一生変わらないように、被害者も一生被害者なんだ。あなたがどんなに否定しても、どれほど罪を重ねてもあなたの罪は、あなたの傷をなかった事にはしない。

 ……むしろあなたの動機こそが、余計にあなたの被害を引き立てる。あなたの願いはメビウスの輪のように、叶えても必ず最初に巻き戻るものなんだ」

 

 同族嫌悪だと気付いたのなら、もう言うことは決まっている。

 クラピカは、ネオンの『悪魔』に縋った願いの歪みを指摘する。

 彼女の歪みきった願いのさらに奥、本当に叶えたかったあまりにも単純な願いを口にした。

 

「……あなたが『悪魔』に願ったのは、『自分が被害者であることの否定』だが、その願いの根幹は『愛されたい』であるのなら、あなたは自分が被害者であることを自覚しなくてはならない。

 ……憐れみを拒絶するな。あなたはもうそれを第一に懐かれてしまう程、酷い傷を負った被害者なのだから。あなたの『愛して』という声に応えるには、まずは憐憫の手を差し出さなければならぬほどなんだ。

 あなたに対して、愛情があるからこそ憐れんでしまうんだ。だからあなたが憐憫を拒絶する限り、あなたは永遠に救われない」

 

 ネオンの初めからずっとそれだけを願っていたのに、見失ってなどいないはずなのに、何故かどんどん遠ざかって手が届かなくなりかけていたものが何であるかを告げ、どうしてそこから遠ざかってしまったのかを教えてやる。

 

「……あまりにもあなたは不運だ。

 自分を見て欲しくて得たであろう予知能力が、あまりにも優秀だったせいで、蔑ろどころか利用価値のある道具としか父親に見てもらえず、叱って欲しいからこそのワガママは、あなたの占いで得た利益と地位で叶えることが出来てしまった。

 あなたが優秀で、父親や周りは愚かで無能だったからこそ、あなたの『自分を見て欲しい』『愛してほしい』という目的のための手段が成功しすぎたからこそ、目的を通り過ぎてたどり着けない失敗を犯し、そして本来の目的が見えているのにたどり着けない袋小路に迷い込んだ。

 

 ……その道そのものが、もう既にあなたの真の目的には繋がってなどいないのだから、あなたは幸福になりたいのならそこから出るしかないのですよ」

 

 ネオンは優秀だったからこそ、そして父親があまりに無能だったからこその不運だと、ネオン自身に間違いはなかったとクラピカは語る。

 ネオンのワガママの「被害者」でありながら、彼女が自分にとっての一生加害者だと断言しておきながらも、ネオンが叫んだ「愛して」という願いを否定しない。

 

 肯定して、だからこそそこから抜け出せとネオンに訴えかける。

 

 相変わらず口調に優しさが見当たらない、事務的で淡々としたものだが、その言葉はあまりにも優しかった。

 被害者が加害者に向けるものだとは思えぬほど、ネオンが求めていたもの、欲していた愛情そのものの言葉。

 

 それが憐れみからであるのはわかっている。

 後味の悪い思いをしたくない程度で、ネオン自身に価値などほとんど見出してくれていないことは知っている。

 

 だが、父親やダルツォルネのようにネオンがもたらす利益だけを見て、ネオンが本当に欲しているものを与えるどころか、むしろネオンから何もかもをはぎ取って奪い取ろうとしていた彼らとは違って、ネオンを憐れんでいるが彼女をこれ以上「可哀想な子」と思いたくないから、「可哀想な子」にさせたくないからこそ、手を差し出してくれているのがわかる。

 

 ネオンに価値を見出してくれていなくても、ネオンの「愛して」と願いが生み出した犠牲を知っても、ネオンが一生加害者だと断言しても、それでもネオンの「愛して」という願いそのものは否定しない。ネオンの願いは「悪」でも「罪」でもないと言ってくれたことに、ネオンは悲しみや怒りのものではない、歓喜の涙をはらはらと零す。

 

 だが、まだネオンは認められない。

 その涙は歓喜だけではない。彼の言葉に歓喜したからこそ、余計に膨れ上がった罪悪感が、無意味だと断じられても手離せない。

 

「……何で……あたしに……そんなこと……言えるの?」

 

 泣きながら、ネオンは訊いた。

 

「……あたし……何もしてないのに……、クラピカさんや……クラピカさんの同胞さんたちに……酷いことしかしてないのに……何で……あたしにそんなこと……言えるの?

 

 ……何で……幸せになっていいって、言ってくれるの?」

 

 何も償ってなどいない。

 ネオンは確かに被害者だが、本質的に人体蒐集なんて悪趣味で悦に入れるような感性はなかったのだろうが、それでも彼女のコレクションは彼女自身が欲したから貢がれたもの。

 そして彼女が人体を蒐集した理由が、「叱られたかった」という望みからならば、ネオンは初めから人体蒐集が褒められた行いではないことを、叱られるまでもなく理解していたということ。

 

 何が悪いのかも理解出来ぬまま欲していたよりも性質が悪い加害者であることを、ネオンは自覚している。

 だからこそ今度はその罪悪感が、自分の中の被害者意識を許せない。

 

 被害者と加害者は両立する、カードの表裏のように加害者になったからとて被害者であるという事実はなくならないともうわかっているが、今度こそ自分の為だけではなく、自分の「愛して」という声に応えてくれたからこそ、自分が被害者であるという事実をネオンは受け入れらなかった。

 

 自分の幸福になる資格や権利をどうしても受け取れずにいるネオンに、傷の痛みで俯いていたクラピカが顔を上げる。

 ネオンを見据えるクラピカは優しげに笑って……などいなかった。

 

 相変わらず痛みで顔をしかめつつ、赤い眼で「こいつは何を言っているんだ?」と言いたげな顔をしており、ネオンの涙は思わずちょっと乾いた。

 そしてネオンとクラピカのやり取りを、困惑しつつも良い方向に向かっていっていると安心して見守っていたセンリツも、クラピカの心音は完全に表情と一致していることに気付き、また更に困惑する。

 

 もはやソラのことなど言えないくらい女二人を困惑させているクラピカだが、彼からしたらネオンの発言やセンリツが何故か割とドン引きしているのかが、本気で理解出来なかった。

 だから彼は、「何故わからない?」という考えを隠す気もなく、そしてオブラートに包みもせずに言い放つ。

 

「『なっていい』ではなく、『なるべき』だ。というか、何か勘違いしてませんか?

 私はあなたを許しているから『幸福になっていい、なって欲しい』など思っていない。むしろ許してなどいないからこそ、言っているんです。

 ……『幸福になること』自体が、あなたが犯した罪の償いになるからこそ、望んでいるんですよ。あなたは真っ当な良心を持っているからこそ、幸福になることがあなたの罪に一番見合った重さの『罰』となる」

「……ごめん、意味わかんない」

 

 クラピカの本当に優しさなどではなかった容赦ない答えに、ネオンは自分の涙は半分以上乾くのを感じながら、正直な感想兼疑問を口にする。

 言っていること自体は、「許しているから幸福になることを願っている」よりは納得のいく答えなのだが、肝心な「許していないからこそ幸福になるべきだ」という考えに至る理由がサッパリなので、ネオンはもはや完全に素のテンションで尋ねると、こちらも結構素でクラピカは答えた。

 

「……受け売りですが、『罪悪感』は『良心』。そして『良心』こそが『罰』だそうです。

 その人が犯した罪に応じて、その人の価値観が自らに負わせる重荷。それが『罰』だからこそ、真っ当な良心を持つ者は幸福になればなるほど、たとえどのような事情があって犯した罪も、その人の人生の枷となる。

 

 だからあなたは……幸福になるべきだ。あなたは良心を持つからこそ、不幸などいらない。あなたは幸福になるだけで自分で自分を罰し続ける。

 そして、その幸福と罪悪感を他者に向けることが出来れば……、自らの幸福を過剰に思えるのなら、その幸福を誰かに与えたいと思い、実行できたのなら……それが一番正しい『贖罪』だろう」

 

 クラピカの答えは、やはりどこまでも容赦がない。ある意味では不幸のどん底に落ちろと言われるよりも、惨い罰を告げる。

 しかし、ネオンの涙はその発言で完全に乾いてしまったが、その理由は先ほどと同じ言っている事が理解出来ない困惑でも、結局自分は許されていなかった事がショックだったからではない。

 泣くことを忘れるほどに、ネオンはクラピカの言葉を頭の中で反復させながら、まん丸くした目で問う。

 

「……幸福と……罪悪感を……誰かに向けることが……、私の幸福を誰かに与えることが…………『贖罪』?」

 

 自分の言葉をただそのまま繰り返しただけに過ぎない。

 それでも、クラピカはようやくほんの少しだけ口元を緩めて答えた。

 

「そうだ」

 

 その緩んだ口元を見て、ようやくネオンは気付く。

 彼の眼はいつしか、……もしかしたら初めからかもしれないが、ネオンにとっては怒りと憎悪そのものであった、地獄の業火じみた真紅の眼は、色こそはカラコンを外した時から変わらないが、その緋色に「地獄の業火」という比喩はあまりに合わないことに気付く。

 

 当初よりも、そして偽物だったが一度その手に掲げて見たホルマリン漬けの彼の同胞の眼よりも今の彼の眼は、彼の眼に刻まれた緋色は柔らかで穏やかなものに見えた。

 何もかもを焼き尽くす焔ではなく、闇を払う朝焼けの空の似た色のように思えた。

 

 同じことにセンリツも気付き、同時に彼の鼓動を聞き取って彼女は安堵したように淡く微笑む。

 わからないこと、理解出来ないこと尽くめで困惑しっぱなしだったが、今は確かに理解出来る。彼の鼓動も、ほんのわずかに緩んだ口元も、その緋色の眼が暁のように優しく思えるのも、何一つ矛盾などしていない。

 

「あなたはこれからも占いを続けるべきだ。

 他者の悲劇を回避してやりたいと思っていたのなら、誰かが自分の占いによって幸福になることで、自分も幸せになれたのなら……、それがあなたに出来る……私が何よりもあなたに望む『贖罪』だ」

 

 ネオンが負うべき「罰」を、償う方法をクラピカは口にする。

 まだ続けろと、失っても再び、今までと違う形であっても手に入れて続けろと彼は言った。

 

 ネオンの「私を愛して」という痛々しいまでに切願した願いの手段にして、あまりに彼女が優秀すぎたからこそ大失敗を犯した原因である占いを、いっそ完全に失った方が「普通の少女」としての自由と幸福を得られるのではないかと思えるほど、強力だからこそ周りに強い影響を与え、ネオン自身も縛る彼女の念能力を償いとして、これからも手離すなと言い切った。

 

「……無理……だよ……」

 

 その裁定の言葉に、ネオンが震え、かすれた声で答えた。

「いやだ」という拒絶はしなかった。ただ、また泣きそうな顔で、泣いてしまいそうな声で、それでも彼女は泣かずに「無理だ」と答える。

 

「……だって、あたしの占い……前のは盗まれて……使えないもん……。今、残ってるのは……コントロールできないし……、あ、新しく作った能力は……私や……誰かを……不幸にする『悪魔』だもん……。

 無理……だよ……。あ、あたしは……もう誰も……幸せになんか……あたしの占いで……幸せになんか――――」

 

 拒絶ではなく、「したくない」のではなく「出来ない」と語る。

「無理だ」と語るネオン自身が一番、自分の言葉で傷ついた顔をしながら、……クラピカの提案などされるまでもなく、彼女自身が誰に言わるまでもなく「手離したくない」と声にならぬ声で叫びながら、何かに縋るように語り続けた。

 

 その言葉が、「期待」であることをセンリツは知っている。

 ネオンにとってクラピカが提案した償いは、罪悪感などなくても、何の罪を犯していなくとも、ネオン自身の望みであること。

 

 父親に見て欲しかった、愛されたかった。けれど、それだけじゃない。

 始めた理由も、好きになった理由も、それはただ一つの言葉。

 

「占いは生きている人を幸せにするもの」

 

 それを語った人は詐欺師だった。

 それでも、その言葉だけはネオンにとっては本物。

 本物であってほしいと願い、本物であると信じ続けたもの。

 

 歪んでなどいない、捻じ曲がってなどいない、純粋でまっすぐな願い。

 その願いだけで、何の知識も修行もなしに念能力を確立して得るほどに、それはネオンの全てだった。

 

 どんなに歪んでも、捻じ曲がっても、穢れても手離せなかったからこそ、今があることを知っているから。

 だからこそ、ネオンは泣かずに問いかける。

 まだ泣く訳にはいかない。自分の言葉にクラピカがどう答えるかで、涙の意味が大きく変わってしまうから、だからネオンは泣きそうになりながら、泣いていないのが不思議な声で「無理だ」と答える。

 

 その言葉に……ネオンの心臓が「不安」で引き裂かれそうになりながらも、決して失えずに脈打つ「期待」の鼓動にクラピカはこたえた。

 

「……そう思うから、『無理』なんですよ。

 あなたは、自分の未来を視ないように制限を掛けているが、それでも『未来は決まっているものだから自分に見える』という思い込みが、あなたの全てを縛っている」

 

 いい加減、起きているのは辛くなったのかクラピカはゆっくり後ろに倒れて、またしてもシートに横たわった体勢になってネオンの「無理」を一蹴する。

 

「あなたの新しい能力が『悪魔』だからなんだというのですか? 『手が届く範囲にいながら理解出来ない淵』は本物だけなのだから、偽物だとわかりきっているあなたの『悪魔』なんて、可愛らしいものでしょう。

 それに『悪魔』なんて宗教や解釈によっては『人を陥れる存在』ではなく、『罪人を罰する』『人間が堕落しないかを確かめる』という役割をもつ天使であるとも言われているんですから、あなたの『悪魔』も『悪魔』の姿と役割を持つ天使にしてしまえばいい。

 

 ……何より、あなたの『悪魔』は『ラプラスの悪魔』と同じだ」

 

 ネオンの「無理」を一蹴して、彼女が抱く「期待」に応える。

 彼自身が抱いている、何度失望しても手離さなかった、ネオンが真に自分の罪と向き合って、ネオン自身さえも救わない見当違いな償いではなく、誰もが……一人でも多くの者が失った幸福とは別の形でも確かに幸せになる……、そんな夢みたいな償いをしてくれるのではないかという期待をずっとしていたからこそ、彼の眼はあんなにも穏やかで優しい緋色だったのだろう。

 

 怒りや憎悪ではなく、望みが叶うかもしれないという期待で高揚していたからこその緋色の眼だったことをセンリツは理解したから、そろそろ病院に向かおうと車を走らせる。

 

 その車が走る振動によって、出血からの深淵に突き落されて昏睡とは違う心地よい睡魔がじわじわ近づくのを感じながら、もう少しだけクラピカはその睡魔に抗って言葉を続けた。

 

「あなたの『悪魔』は決して脅威になりはしませんよ。

 思考実験という可能性の間は無敵だっただろうが、『確定』してしまえばあっさりと駆逐(ひてい)され尽くされた悪魔と同じ、『確定』しているからこそ本当は酷く弱いもの……。

 

 ……多分そろそろ、それは証明されるでしょう」

 

 クラピカの発言の前半は理解出来たが、後半の「ラプラスの悪魔と同じ」は理解出来ない。

 特に「証明される」が全く意味も意図もわからなかったので、「どういうこと?」と尋ねようとしてネオンは少しだけ身を乗り出したタイミングで、軽い眩暈が起こる。

 

 その2秒足らずの眩暈の中で、ネオンは視た。

「ブロンド殺し」が、トモリが、泣きながら走り続け、逃げ続け、けれど誰も彼女を捕まえてくれず、彼女を排除するためにいくつもの銃弾がトモリに――――

 

 

 

 * * *

 

 

 

 逃げ疲れたのに、もう逃げたくないのに、それでも自分のしてきた今までが「みじめ」の一言で終わらせたくなくて、逃げたってもう何も得られないことはわかっているのに、それでもトモリは廊下を駆け抜け、窓を割ってそのまま飛び降りた。

 

「悪魔」がけたたましく嗤うのを聞きながら。

 

 その「悪魔」は自分が生み出したものなのか、それとも自分とあまりによく似た少女に憑けられたものなのかも、トモリにはわからない。

 

 ただ、「悪魔」の哄笑と同時に銃声が高く響いたのを聞いた。

 

 

 

 

 

 窓から飛び降りて逃亡を図ったトモリの背に、彼女の眼下から警官が発砲する。

 その銃弾がトモリの背にまずは一つ貫通し、後に続いた銃弾がトモリの心臓を、息の根を止めるまで、トモリが墜落するまで下から上へと悪夢じみた雨のように浴びせられた。

 

 

 

 

「!?」

 

 銃声が響くと同時にトモリは肩を掴まれた。

 空中で、自分にしがみつく白い不気味な「悪魔」とは明らかに違う、力強くて暖かでけれどとても柔らかく感じる手がトモリの肩を掴み、そのまま彼女を抱き寄せた。

 

 トモリよりも背が高くて、トモリよりはるかに鍛えられた体だが、それでもその体は自分と同じく女性のものだとはっきり分かる柔らかでか細い体に包まれながら、トモリは見た。

 

 自分にしがみついていた「悪魔」が、自分を捕まえて抱き寄せた人の細い指先にちょいっと引っかかれただけで、そのぶよぶよした体はすっぱり縦に二分され、「悪魔」は笑ったまま溶けるように消えていくのも。

 

 自分を撃ち落とす為だった警官たちが、作戦通りなのかそれともトモリの規格外ぶりを知って錯乱したのか、一斉射撃で撃ち出した下から上への銃撃の雨も。

 

 その死の雨からトモリを抱き込んで、庇って、守って、グラウンドに叩きつけられる衝撃からもトモリの身代わりに全部自分が受け持った相手を、見た。

 

「……な……んで?」

 

 抱き込まれたまま、抱きしめられたまま、グラウンドで転がったままトモリは信じられないものを見る目で、震えた声でトモリは尋ねる。

 何で自分を助けたのか。自分はお前の敵ではなかったのか。あそこまで自分を追いつめるほど、お前にとって容赦してはいけない敵だったのではないかと、問う。

 

 ……白い髪を血や砂で汚し、オーラでガードしても良くて大きな痣、悪ければ貫通すらせずに体内に銃弾がめり込んだ状態で地面に叩きつけられたソラに向かって問うが、ソラは答えない。

 

 もちろん死んだわけでもなければ、気絶すらしてない。

 魔術回路の所為で胴部にオーラを回すのが不得手だが、腐ってもこの女は強化系でしかもそれなりの熟練者だ。胴部にオーラを回すのもあくまで苦手なだけで、不可能でもない。

 しかしトモリとのマンションでの交戦と、クラピカの治癒、そしてオーラの譲渡と増幅でかなりのオーラを消耗していた為、本来なら完封まではいかなくても石をぶつけられた程度のダメージで済んだのが、結構な重傷になってしまった。

 

 だけどそんなことをやはり歪みなく、本人が一番気にしない。

 

「はい、お騒がせしましたー!! 『ブロンド殺し』、只今確保しましたからそこの警官たち、さっさと救急車とあとハンター呼んで!! アマチュアじゃなくてプロハン! 念能力に対応できそうな奴! そいつと引き渡すまで、一応私が拘束しとくから早く!!

 念能力が何のことかわかんなかったら、上層部にでも訊け! さすがに警察内に全くその手の知識がない訳はないだろうから!!」

 

 トモリに続いて窓から飛び出して、トモリを抱え込んで庇って墜落しただけでも警官や野次馬達はドン引きなのに、その墜落した人間が生きてるわ、思った以上に元気だわ、しかも倒れたままだがトモリをしっかり腕と足で拘束して、呆然としている警官に向けて指示を出すのに、警官や野次馬だけではなく拘束されているトモリも反応に困り果ててしばし誰もが途方に暮れることしか出来なかった。

 

 しかしソラが指示を出しながら警官にハンター証を投げつけて身分証明したのと、幸いながら現場責任者が現場での叩き上げだからこそ、念能力者の犯罪者と遭遇したことでもあるのか、思ったより早く話は通じ、ソラの指示通りに動いてくれた。

 

「あー、痛い。けどやっと終わったー」

 

 そしてソラはそのまま、グラウンドに転がったままトモリを抱え込んだまま救急車かトモリを引き渡すハンターが来るのを待つ。

 一応、警官がかなりドン引きしつつも応急手当てを申し出たが、まだトモリが暴れて逃げ出す可能性は消えてなかったのでソラはそれを断り、トモリをまるでぬいぐるみのように抱えたまま、やたらめったら呑気な感想を口にした。

 

 その呑気な感想に、トモリはもう反応しない。

 警官がドン引きつつも応急手当てを申し出た理由はこれ。どう見てもトモリにはもう、抵抗の意志は見当たらないほど無気力に見えたから。

 

 しかし、ソラはトモリを離さない。

 無抵抗にソラにしがみつかれたまま彼女もぐったりとグラウンドに転がっている。

 あんなにも捕まりたかったのに、捕まりたくなかったのに、トモリの中にやっと捕まった、あの夏の日からの逃避が終わる安堵もなければ、もはや自分をみじめだと思う悔しさもない。

 

 むしろ、何故自分は生きているのだろうという疑問が頭の中をぐるぐる回る。

 

 何故、ようやく終わったのに自分の生はまだ続いているのか、どうしてもう逃げずに済むのに自分はまだこんなにも苦しいのか、不安で怖くて仕方がないのかがわからなかった。

 

 そんなトモリの考えを察したのか、ソラの手がトモリの背中から頭へと移動する。

 

「君は、不運な子だ」

 

 唐突にソラは言う。

 何度も何度も告げた、憐れみを込めたトモリを表す言葉を繰り返す。

 

「元凶の家族は『何もしない』から期待をなかなか捨てられない、目覚めた念能力は物理攻撃特化の強化系、開き直ることでやらかしたことは周りが無能すぎて気づかれない……。何ていうか、マジでここまで悪い巡り合わせも奇跡だね。

 ……でも、君は根幹から一つ間違えてる。だから、君の逃避行がここまで長引いたのは不運だけど……、この結果自体は自業自得だよ」

 

 憐れみながらも、ソラは全く優しくない。

 その身を盾にしてトモリを死の運命から引き揚げながら、赤子でもあやすようにトモリの頭を撫でながらも、トモリにはっきりと断罪の言葉を告げる。

 

「君が逃げるのをやめるには、自分が『被害者』だと認めなくちゃいけなかった。だって、君が逃げていたのは罪悪感ではなく、自分が被害者だという現実なんだから。

 ……君が『加害者』になりたがる動機こそが『被害者』だからなら、君はどう足掻いたって逃げるのをやめた時点で、自分が『被害者』であった事実に追いつかれる。逃避をやめる方法は自分が何から逃げているのかを受け入れる事なのに、君は逃避をやめる為に逃避を選んだ。逃げるのをやめたいくせに、逃げるのをやめてはいけない理由を自分で作って、とことん現実から目を逸らし続けた……。

 

 逃げるという選択肢自体を、否定はしないよ。嫌なものと真っ向から向き合って何とかしようと足掻いても、嫌な思いが増えるだけってのはよくあることなんだから、それなら逃げるが勝ちを選んだ方が賢い。

 けど、逃げるが勝ちを選んだのなら、逃げることをやめたら駄目だったんだ。逃げることをやめたかったのなら、自分が逃げたものと向き合わなくてはいけないんだ」

 

 トモリの何が悪かったかを、何を間違えていたのかを淡々と告げる。

 逃げたことを間違いだとは言わなかった。それは正しいと断言した。

 

 断言したからこそ、トモリが間違えていたと言い切る。

 

 そして悔しいことに、トモリは気力がないのを抜いてもソラの言葉に何も言い返せない。

 逃げるのをやめる為に逃げることを選ぶのがどれだけ意味のないことかは、言葉にすれば考えるまでもなくわかるのにトモリにはわからなかった。

 

「本来ならたとえ絶望って結末でも、もっと早くに訪れて終わってくれたであろうことが長引いた不運には同情するけど、それでも君の不幸は自業自得だ」

 

 悔しいが、ソラの言葉の通りだった。

 トモリは結局、何もかもを欲しがったからこそ、何もかもを失っただけだと思い知る。

 

 自分が愛されていなかったという事実を否定するために、自分も自分の意志で見殺したと言い聞かせているくせに、「私はそんなこと望んでいなかった」という被害者意識が罪悪感を拒絶した。

 

 加害者に自分から成ろうとしたのに、加害者としての罪悪感を負うことすらも逃げた。自分は被害者なのに、何でこんな目に遭うの? という気持ちがずっとあった。

 加害者としての罪悪感を負うことが被害者であることを否定する方法だったのに、トモリはその時々の都合がいいように立場を乗り換えてきたから、被害者でもなく加害者でもない人間になろうとしたから、そんなものには誰もなれないのになろうとしたから。

 

 だから、破綻した。

 

 逃げないことから逃げて、逃げることからも逃げたトモリの行き着く先など、こうやって何もかも失って、自分のしてきたことは無意味だと思い知らされて終わるしかなかった事を思い知る。

 思い知って、今度は疑問の代わりに後悔だけがトモリの頭の中をぐるぐる回る。

 

 こんな風に自分が誰にも愛されていなかったことを思い知られるくらいなら、本当は汚したくなかった手を汚しつくすくらいなら、誰にも許されず、なのに憐憫だけを向けられるくらいなら、あの夏の日に自分自身を終わらせていれば良かったというトモリの後悔へ割り込むように、その声は響いた。

 

「……まぁ、一番の不運はクラピカがマジで女顔だったことだろうけど。顔だけじゃなくて声もややハスキーな女の声っぽいからな。あれで声変わり済んでるってのが未だに信じられない」

 

 呑気に、呆れたように、ソラは言った。

 その発言自体はトモリに聞かせるつもりで言ったのか、ただの独り言だったのかはわからないが、続いた言葉は間違いなくトモリに向けたものだった。

 

「せっかく昨日クラピカに『捕まった』んだから、君はクラピカを獲物認定しないで、そこで終わっておけば良かったんだ。加害者として捕まる事で終わって、被害者として助けを求めれば良かったんだよ。

 あの子は君が加害者か被害者かわかってなかったのに、それでも君のことを心配してその手を掴んだのだから」

 

 鮮明に、脳裏に昨日の光景が再現された。

 

 後ろを見ながら階段を駆け下りてきた所為で、いきなり飛び出してきた自分に足払いを掛けるような形で転ばせてしまったから、すぐに転んだトモリに駆け寄って、心配してくれた。

 そして無愛想に「大丈夫です」と言い張って逃げようとしたトモリの腕を、躊躇なく掴んで引きとめた。

 トモリが振り返って睨み付ければ、明らかに血の気が引いて顔は引き攣っていた。掴んでから、自分が不審者呼ばわりされたら言い訳が利かないことに気付いて焦っている顔だった。

 

 ……掴んでからでないと、そんな簡単なことにも気付けなかった。

 そんなことに気付かぬまま、自分の保身など置き去りにして彼は、トモリを心配してくれた。

 

 事情なんて何も分かっていなかった。聞こうともしなかった。

 ただ、こんな夜遅くに治安もあまりいいとは言えない地域を一人で歩くのは良くないと心配してくれる人だった。

 送るという自分の言葉が信用できないのならと言って、代替案を出すだけではなく金銭も負担して、それを全く恩に着せない人だった。

 むしろ、トモリがその提案に甘えたことに、安堵したように淡く笑う人だった。

 

 他人が救われることで自分が救われたように笑う人だった。

 そんな人だったのに、そんな人が自分を、逃げようとしていた自分を捕まえてくれたのにトモリは、彼をもはや本末転倒していた「被害者を否定する」為の獲物としてしか見ていなかった。

 

「…………あぁ、本当にこの『今』は私の自業自得ね。

 ……うん。私は運が悪かったけど、不幸じゃないわ。私がバカだったから、いっぱい間違えた。たくさんあったはずのチャンスを、こうなる前にもっと良い終わり方に出来たものを、自分で台無しにして来た」

 

 ソラの腕の中で、ボロボロと涙を零しながらトモリは答える。

 運が悪かった、自分のやること成すことが全部裏目に出て、こんなにも長引いて多くの犠牲を出してしまった。

 けれど、トモリは決して不幸ではない。

 

 選ぶ余地がなかったから歩んできた、走り続けた道ではない。いくつもあった選択肢の中で、トモリは自分が一番良いと思った選択肢を選んできた。

 差し伸べてくれた手はあったのに、それを掴まなかったのはトモリ自身だ。

 

 終わらせることが出来たのに。

 昨日の時点で、クラピカという人が自分の腕を掴んだ時点で、自分はあの人に「捕まった」ことにして、全てを終わらせていたら、少なくとも今よりはずっとずっと穏やかに終われていたのに。

 たとえあの人がこの腕を掴んだ理由も、トモリが拒絶してきた憐れみゆえだとしても、その憐れみは決して「家族に愛されていなかった」ことに対する同情ではなかったのに。

 

 そんな事も知らずに、何も知らずに、トモリを助けようとしてくれた人だったのに。

 それなのに、そんな人すらも獲物としか見なかった自分を「不幸」と言っていい訳がない。

 

 今だってそうだ。

 

 助けてくれたのに。

 あのままならトモリは、自分の間違いに気付けないまま、自分の恨み言を吐き出して絶望しながら墜落するしかなかったのに、それなのにトモリはせっかく守ってもらえた自分の命を、もっと前に終わらせていれば良かったという後悔しかしなかった。

 

「被害者」を否定したかったのも、本当は負っていない罪を背負いたくなどなかったのも、全部は幸せになりたかったから、生きていたかったからこその願いなのに、トモリは生きることからすらも逃げ出そうとした。

 

 だから自分は、不幸ではない。不幸だとしたら、それはあの夏の日のことについてだけ。

 それ以外はあまりに不運だったが、運が悪いなりに何とかできたものを何にもしなかった自分が悪いのだと思い知って、理解して、受け入れて、……トモリはソラに抱きしめられたまま目を伏せて言った。

 

「――――ごめんなさい」

 

 あまりに多くの間違いを、罪を犯してしまったトモリに今、言えることはそれだけだった。

 それだけの言葉に、ソラは頭を撫で続けながら答えた。

 

「もういいよ。……もう、捕まえたからいいよ」

 

 ソラの言葉でトモリの中に住み着いていたもの、トモリが生み出して、それからずっと取り憑いていた「弱さ(あくま)」が消えてゆくのを感じる。

 肯定するのではなく、受け入れることで悪魔は拠り所を失い、存在が保てなくなり消えていく。

 

 あの夏の日からの、家族による脅迫と監視のストレスで痛めつけられることと、「もう逃げるのをやめたい」という願いから目覚めた念能力(あくまつき)の、「誰かに捕まったら終わり」という制約がようやく、ようやく果たされた。

 

 長い永い鬼ごっこを終えたトモリは、獣でも悪魔憑きでもない、ただの被害者で加害者になったトモリはようやく、足を止めて休むことが許された。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 窓から飛び降りて逃亡を図ったトモリの背に、彼女の眼下から警官が発砲する。

 その銃弾がトモリの背にまずは一つ貫通し、後に続いた銃弾がトモリの心臓を、息の根を止めるまで、トモリが墜落するまで下から上へと悪夢じみた雨のように浴びせられた。

 

「!?」

 

 眩暈の最中、流れ込んだ映像。

 あのマンションで交戦していた「ブロンド殺し」を見た時に流れ込んだものと同じ。

「ブロンド殺し」が、トモリがどこにも行けず、自分の訴えたかったことを何も言えないまま、絶望しながら撃ち落とされて、墜落していく未来。

 

 だが、その未来は今まで見て来た予知とはどれとも大きく違う。

 

 途中までは一緒。

 何かから、おそらくは警官から逃げようとしたトモリが窓を破って飛び出した所までは一緒なのだが、彼女が警官が発砲した銃弾に被弾して、そのままハチの巣になりそうな勢いで銃撃されて墜落するはずの映像が切り裂かれて失われた。

 

 切り裂かれた映像は、ネオンの脳内スクリーンが二分されても再生し続けるが、再生する端から溶けるように消えていった。

 

 後にはただ、そんな未来を視たという事実と情報しか残らない。

 ネオンが脳裏でいくら思い返しても、トモリが泣きながら逃げているあたりまでは普通に映像として記憶が反復されるが、彼女が銃撃されて被弾したあたりからそれはただの情報として、言葉や文章では反復できるが、映像が全く再生されない。

 想像さえもできない。まるでそんな未来はもう有り得ないから想像する必要もないとでも言うように。

 

「……あたしの予知が……未来が消えちゃった……」

 

 呆然としながら呟いた言葉に、ネオンの挙動不審な行動と心音に困惑していたセンリツが更に困惑するが、クラピカの方は涼やかな顔をしていた。

 彼にはだいたい、ネオンが視たものが想像ついていたのだろう。

 

 だから相変わらず事務的な口調で、淡々と言った。

 

「未来を無くす気分はどうですか?」

 

 呆然としていたネオンがクラピカの皮肉気な問いに一瞬きょとんとしてから、答えた。

 

「……すごく変な気分。あたし、自分の未来だけじゃなくて他の人の未来も、占いの結果を見ないようにしてたから、今まで自分の占いの的中率が百発百中だって言われても実感なかったのに……外れるとも思ってなかったから、……この未来がなくなるのは多分いいことなのに、ちょっと……ううん、かなりショックかも。

 

 ……でも、何か今、頭の中がすっと晴れたみたいに感じた。なんかずっと外が見えない室内の一本道を歩いていたのが、道すらない外に放り出されて……世界の広さを初めて見た気分」

 

 言葉通り、何かを吹っ切ったようにすっきりとした顔でネオンは答える。

 ネオンの答えに喜ぶように笑ったのは、ネオンにいくつもしがみついていた「悪魔」。

 

「悪魔」は嘲笑うでもなく、おかしげに哄笑するでもなく、目はデフォルトで糸のように細いのでよくわからないが、生々しい唇の両端を上げて、微笑みながら溶けるように消えてゆくのをセンリツはバックミラー越しに見た。

 初めは、ネオンの「未来が消えた」という発言からして、ソラがトモリに憑いていた「悪魔」を殺したことはほぼ確実なので、そこから連鎖的にネオンにも憑いていた「悪魔」が死んでいったのかと思ったが、それにしては「悪魔」は妙に穏やかに消えていくのが気になった。

 

 クラピカも横たわりながら「悪魔」が消えてゆくのを眺めていたが、彼はセンリツと違って狼狽えない。

 疑問に思わない。

「悪魔」が消えるのは、ソラの直死によって連鎖的に殺されたからではなく、ネオンの意志に従って「悪魔」自身が消えることを選んだと彼は理解していた。

 

 ネオンの「悪魔」は、ソラが関わった聖杯戦争の汚染聖杯のように、どんなに清らかで優しい聖なる願いも歪ませて穢れた悲劇的な方法で叶える「本物」とは違い、初めからどうしようもなく歪んでしまっているからこそ悲劇的な叶え方しか出来ない「偽物」。

 

 願いを叶えているのに悲劇が訪れるのは、「悪魔」の所為ではない。

「悪魔」自身は自分の生みの親の為に、どこまでも誠実に願いを叶え続けることしかできない。

 ……どんなに歪んでいても、どんなに穢れ果てていても、その願いの出所はあまりにもありふれて平凡な、ささやかな幸福であることを理解していても、歪んだ願いから生まれた「悪魔」は歪んだ願いしか叶えられない。

 

 けれど、その「悪魔」を生んだのは、「悪魔」に願った本人だから。

 自分に嘘はつけても、自分に隠し事は出来ないから。

 どんなに歪んで、穢れ果てていても、その願いの始まりを失うことなど出来ないから。

 

 だから、「悪魔」は笑って消える。

 生みの親が本当に叶えたい願いを思い出したのなら、もう自分たちの役目がないというのなら、不満など覚えず心から喜びながら消えてゆく。

 それは決して、自分の「死」ではないことを知っているから、だからこそ満足げに「悪魔」は消えてゆく。

 

 自分たちの正体は、「幸福になりたい」というあまりにも単純な願いであるから、「悪魔」は嬉しそうに、幸せそうに笑って消えているのだと、お世辞にも可愛いとは言えない姿をしている「悪魔」でも、その嬉しげな笑みを見たらクラピカにも理解出来た。

 

 もう、ネオンに自分の言葉など必要ないことも。

 だからクラピカは目を伏せ、黙って聞いた。

 

「……あたしの予知って、こんなにもあっさりなくなっちゃうものだったんだ。

 けど、本来はそうであるべきだよね。だってあたしの占いは、悪い未来をなるべく見て、それを回避させるって奴だったもん。……本当は百発百中なんかじゃなかったんだよね、初めから」

 

 自分の予知が絶対ではなかったことを、苦笑しながらネオンは語る。

 

「……なのに、何であたしは調子に乗ってたんだろう。パパのことバカに出来ないや。

 …………あたしの占いは外れてこそだったのに、外すために、回避するためのものなのに、絶対に当たるって思いこんで、誰かが不幸になるのを視て『もう無理だ』って諦めるのは一番やっちゃいけないことだったのに、……何であたしは諦めてたんだろうね?

 あたしは占いで未来を視たかった、未来を全部知りたかった訳じゃないのに、あたしは多くの人が避けられないはずの不幸を回避して、一人でも多くの人があたしの占いで幸せになって欲しくて始めたことなのに……、あたしは未来を視たかったんじゃなくて、変えたかったから始めたことなのに、諦めたら本末転倒過ぎるよね」

 

 自分のしたかったこと、自分の夢の本質を思い出しながら、自分の間違いをネオンは笑いながら語る。

 笑いながら、語りながら、静かに涙を零して。

 

「……バカだ、本当にあたしはバカだ。

 未来なんか見えなくても変える事は出来るのに、何で占いをやめようと思ったんだろう……。未来をまだ見ることが出来るのなら、あたしはなおさら諦めちゃダメだったのに。諦める必要なんかなかったのに。未来がわかるのなら、なおさらどうやったらその未来を変えれるかを考えることが出来たのに。変えれなかったとしたら、それはあたしの変えようとする努力が足りなかったのと、運が悪かったのが合わさっただけで、……変えることが出来ない運命なんかじゃなかったのに」

 

 今ならわかる。

 ソラが言った「ラプラスの悪魔」と自分の「悪魔」が同じだという言葉の意味も、笑って自分に言った、「未来は視ることが出来ても、存在しないからこそ『未来(きぼう)』なんだってことだよ」は、皮肉なんかではないことも。

 

「ラプラスの悪魔」が実在したら、「物理学による未来視」が実現していたとしたら、そこに希望はない。

 どう足掻いても変えようのない「未来」なんて、幸福な一生が約束されていても「退屈」という絶望に捕らわれる。

 未来が全てわかるということは、未来(きぼう)を全て無くすという絶望と同義なのだ。

 だけど、「ラプラスの悪魔」は否定された。実現しないことを証明されたことで、未来への希望は守られた。

 未来がわからないからこそ、未来に希望があるという事が証明された。

 

 ネオンの「悪魔」だってきっと本来は、歪みも穢れもせず、間違うことなく真っ直ぐに叶えたらそういう存在になるはずの「願い」だったはず。

「『ない』ものを『ない』と証明することは、不可能か限りなくそれに近いほど困難」という「悪魔の証明」を逆手に取れば、不定の未来をネオンの「悪魔」で一度「確定」させることで、悲劇を「ある」と確定してしまえばそれは対処困難なただの可能性から、ボタンを一つを掛け違えるだけで確実に起こらないものになるという助言だったことを理解して、ネオンは笑いながら、泣きながら、自分のしたかったことを続けてもいいことを、自分の償いが誰かの幸福に繋がることを、自分は決して誰かの不幸を決定づける疫病神ではなかったことを喜びながら、言った。

 

「――――ごめんなさい」

 

 もう何度も何度も繰り返した、謝罪の言葉。

 けれど、今度は何に対して謝っているのかわからない謝罪をただ壊れたスピーカーのように繰り返すでも、許される事を期待してないくせに「どうして許されないの?」という被害者意識が透けて見える卑屈さもない。

 

「……あたしのワガママで、いっぱい迷惑をかけて……、いっぱい傷つけて……ごめんなさい」

 

 何が悪かったのかを、何に謝っているのかを告げながら、謝る。

 

「ごめんなさい……。助けてくれたのに、助けようとしてくれたのに……あたしが認めなかったから、ワガママだったから……自分のことしか考えてなかったから……いっぱい嫌な思いさせて、迷惑かけて、……ごめんなさい。

 見当違いなことばかりしてごめんなさい。諦めて、何もしようとしなくてごめんなさい。

 

 頑張るから。今度こそ、あたしはどんな未来を視ても諦めないから、その未来を回避できなかったとしても諦めないから、あたしは……占いをやめないから。

 自分の幸せだって諦めないから。自分が何もしないで不幸になることを、償いだと言わないから。あたしは、みんなを幸せにして幸せになるっていう償いをするから…………、だから……、だから――――」

 

 謝罪をしながら、償うと誓いながらネオンは希う。

 未来を視てしまったから希望を失っていた少女は、未来を殺されたことで無限の未来を得たから、その無限の未来の中で歩みたい道を、「罪」で道を選ぶのではなく、選んだ道で背負うべき「罪」を決めたからこそ、クラピカに願う。

 

「どうか……あたしを助けて」

 

 被害者として、求める。

 けれどそれは、クラピカに求めていいものではないことはわかっている。

 ネオンは被害者だが、クラピカはネオンに対しての加害者ではない。自分に「被害者でありたくない」と歪んだ願いを懐くほど追いつめたのは、彼ではない。

 

 だからこれはただの甘えであることはわかっているが、それでも願わずにはいられなかった。

 

 被害者であることを認め、父親は自分のことなど愛していなかったという現実を認めたから、父親に対する期待を捨てるにしろまだこれからも持つにしろ、自分は傷つき続けることもわかっているからこそ、ネオンはそんな資格がないと思いながらも縋ってしまう。

 

 加害者であるネオンに、彼はずっと救いの手を差し出してくれていたことを気付いたから、もう愛想が尽きてその手を二度と差し出してくれなくなっても文句など言えないことをわかっていながらも、希った。

 

 その願いに、クラピカは目を伏せたまま答えた。

 

「……私があなたに差し出す手は、憐れみでしかありませんよ。自分が見たくないから手を差し出す、ただの自己満足です。

 …………だから、あなたに対しての憐れみがなくなるまでで良ければ、これからもいつも通り勝手にするつもりです」

 

 クラピカの口調は、優しさなど見当たらない淡々とした事務的なまま。

 

 けれどその答えは、言葉こそはそっけないが、ネオンに救いの手を差し出すには憐憫をまず最初に懐いてしまうほど痛々しいと言った彼女に対して「憐れみがなくなるまで」ということは、ネオンの傷が癒えるまでと同義だ。

 

 素直なんだか素直じゃないのだか、わかりやすいようでわかりにくい答えにセンリツは微笑ましげに笑った。

 バックミラーから見えるのは、クラピカの答えを聞いたネオンの顔だけだが、振り返らなくても、クラピカの心音を聞かなくても彼女には今のクラピカの表情がわかった。

 

 まだ泣きながら、もう一度歓喜の涙を流しながら笑って「ありがとう」というネオンを見れば、わかる。

 

 ようやく許したかったのに無駄に、無意味に、そして見当はずれに重い罪を背負って苦しんでいた少女が、やっと許せるようになったクラピカも穏やかに笑っていることくらい、わかった。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 翌日、クラピカの見舞いにやってきたネオンとその護衛であるセンリツ・ヴェーゼ・スクワラ達は、空っぽの病室を見て途方に暮れる。

 

「……え? もしかしてクラピカさん、さっそくワーカーホリック発症した? 怪我よりそっちを治療してもらった方がいい?」

 

 昨日の怪我はあらかた治療が済んでいたとはいえ、元が即死しなかったのが不思議なぐらいのものだった為、クラピカは治しきれていなかった傷の治療を受けた後も帰宅は許されず、そのまま数日の入院を余儀なくされた。

 それは医者の判断だけではなく、同僚たちに「良い機会だから休め」と思われ本人の意思関係なく入院手続きを取られたクラピカがやたらと不満そうだったという話を聞いていたので、ネオンの疑問と不安はガチだった。

 

 そして同僚たちもネオンの後半の心配には全面的に同意したが、前半は「さすがにそれはない」と答えて、クラピカへの見舞いの後に寄ろうとしていた病室の方へ足を向ける。

 そしてやはり、予想違わず薄緑色の病衣を着たクラピカが、同じ病衣を着た相手の前で腕を組んで仁王立ちし、ブチキレオーラ全開でそこにいた。

 

「……お前は本当に奇跡の馬鹿だな。というか、何故生きている?」

 

 ベッドに腰掛けている自分以上に包帯だらけなソラの眼前で仁王立ちのまま、クラピカはまず言った。

 しかしソラは、クラピカのガチギレに反省することはあっても怖気づくことなど有りはしない。

 

「強化系だから!」

「お前の馬鹿さ加減まで強化しなくていい!!」

 

 いい笑顔でバカ正直に警官達の一斉射撃をくらいながら、中学校舎の3階から墜落してもピンピンしている理由をシンプルに答えたら、クラピカから言われても当然なこと言われて頭をかなり本気で殴られた。

 そしてそのまま、クラピカは説教を開始。

 

 その説教を止めようかと思ったが、止めたらクラピカの怒りの矛先がこっちに向かうことが想像ついたので、ネオン達はそのままクラピカの後ろでしばしソラの説教を見物することにした。

 

「……というか、本当に何でソラさんは生きてるの? しかもクラピカさん、ある程度治療した上で病院に運ばれて全治2週間だよね?

 …………何でソラさんの方は、銃撃されて全治一週間で済んでんの?」

 

 季節に合った鮮やかなポインセチアの小ぶりな花束を持ったまま、ネオンがドン引きながらセンリツ達に尋ねる。ネオンの目は言外に、「あの人、人間?」と訊いていた。

 三人が首を横に振ったのは、間違いなくネオンの目が訊いていた問いに対しての答えだろう。

 そしてその答えを出した根拠は多分、クラピカよりも軽傷であることよりもいくら強化系の念能力者でも普通なら絶対にやりたくない、銃撃を空中で受けてそのまま墜落を何の躊躇もなくやらかした精神性の方だ。

 

 そんな精神性を持った人間がクラピカの説教に畏縮する訳もなく、いつも通り空気を読まずに彼女はクラピカの説教を堂々とぶった切ってネオンたちを呼び掛けた。

 

「っていうか、見舞いに来てくれた人を待たすなよ。

 ごめんねー、心配かけて。来てくれてありがとう」

 

 ソラに言われて、本気でネオン達が来ていたことに気付いていなかったらしきクラピカは、不満そうに唇を尖らせながらも確かに人前ですべきではないと判断したのか、一旦口をつぐむ。

 その隙に、護衛達がメンバーはクラピカに「大丈夫か?」などと話しかけ、ネオンの方はソラに花束を差し出した。

 

「え、えっと……。そ、ソラさん、初めまして……じゃないけど、あの、知ってると思うけど、ネオン=ノストラードです。こ、このたびはご迷惑をおかけしました……」

 

 ソラに花束をおずおずと差し出しながら、少し緊張して混乱しているのか変な挨拶を口にする。

 父親の保身と疑心暗鬼によってほぼ軟禁と言っていいほどの箱入り娘だが、箱入り故に対人の危機感が育たず、むしろ他者との関わりに飢えている所為かネオンは人見知りからは程遠い。というか、人見知りならヨークシンでのトラブルは起こらなかっただろう。

 

 そんな彼女にしては珍しい反応なのは、まだ「ソラ」の人物像もクラピカとの関係もほとんど知らないが、ソラとクラピカはお互いが何よりも誰よりも大切な人であることだけは理解出来ているから、自分の予知が、自分の「被害者だと思われたくない」という自分も関係ない周りの人間も不幸にしかしない願いが現在に誘導したことに対する罪悪感と、その罪悪感故の戸惑い。

 

 ネオンはソラに「顔も見たくない」と拒絶されることを覚悟していた。

 自分の身勝手な願いの為にクラピカを生贄に差し出したようなものだから、ネオンの「悪魔」がどうして生まれたのかを最初に気付いていた節の強い彼女に恨まれ、拒絶されて当たり前だと思っていた。

 

 だが、ソラはネオンが病室に入って来ても、そして今も、よくよく思い出せば昨日の車内でも、あらゆる意味で余裕などなかったネオンは気付いていなかったが、ソラの対応は変わらない。

 

「あぁ、知ってる知ってる。けど、確かにお互いに名前を名乗ってなかったね。

 私はソラ=シキオリだよ。よろしくね、ネオンちゃん」

 

 ネオンに向ける視線に憎悪どころか、疎ましく思う感情はない。むしろ、ネオンが話しかけてきたことを喜ぶように蒼玉の瞳を細めて、花束を受け取って何の躊躇もなく握手を求めてきた。

 

 そのあまりにもフレンドリーな対応に、ネオンは戸惑って思わずクラピカに助けを……というより、「どういう事なの?」と解説を求めるように視線を向ける。

 クラピカもその視線と、そしてソラがネオンは何に戸惑っているのかがわからないと言わんばかりに首を傾げているのを見て、面倒くさそうに深い溜息を吐いてから答える。

 

「子供好きなんですよ、そのバカは。あと、類は友を呼んでいるのか『バカな子ほど可愛い』とでも思っているのでしょう」

「クラピカさん、その皮肉自分にもブーメランで刺さるけどいいの!?」

 

 クラピカの皮肉満載の言葉に思わずネオンは突っ込むが、クラピカはわかって開き直って言ったのか、自爆しても全く気にせずにツンとしている。

 どうも昨日の一件で、クラピカはネオンに対して隠し事も言いたかったことも全部ぶちまけて完全に開き直ったためか、事務的というより慇懃無礼な塩対応をするようになってしまい、そのことを不満そうに唇を尖らせ、ネオンは睨む。

 

 ……その塩対応は今まで通り事務的な対応や優しくされることよりも、「自分はクラピカにとっての加害者であること」を強調して、皮肉をぶつけられることが償いに思えて罪悪感が薄れ、ネオンの気が楽になることをクラピカがわかってやってるのかどうかはわからない。

 わざとでも無自覚でも、彼が優しいことには変わりない。だからネオンは、たぶん直接言っても受け取ってもらえない礼を心の中で呟いた。

 

「失礼な。私がこの子を気に入ってる理由の大部分はそうだけど、それだけじゃないぞ」

「どの辺りが失礼なんだ?」

 

 おそらくはネオン以上にクラピカの皮肉の意図を理解しているであろう人は、ネオンへの皮肉を引き出すダシにされたというのに、ベッドに腰掛けたまま自分がバカであることを思いっきり肯定して堂々と言い放ち、クラピカに突っ込まれる。

 というか、ネオンはソラに「嫌われていない」程度に思っていたが、「気に入られている」と告げられて呆気に取られる。そして、唖然としているネオンをソラは軽く引いて抱き寄せ、クラピカに見せつけるようにして笑って言った。

 

「君がこの子のことを許そうとして、君自身も結構この子を気に入ってるから、私もネオンちゃんが好きなんだよ」

「…………はぁ?」

 

 朗らかに笑って言われたセリフに、クラピカは割と真剣に嫌そうな顔をして声を上げる。その反応はされて当然だと思っているので、ネオンは別に気にしない。

 むしろソラの発言の方が、前者はともかく後者は何がどうあってそう思うのかが本気で理解出来ずに、目を白黒させて身をよじり、抱き寄せられたソラの方を見て答えを待つ。

 

 ヴェーゼとスクワラも、不思議そうな顔でソラを見つめている。

 ソラの発言理由を察しているのはどうやらセンリツのみらしく、こんなにもわかりやすい根拠にほとんど誰も気付いていないこと、クラピカが未だに自覚していないことにソラは呆れた様子で少し半目になってあっけらかんと答える。

 

「君、嫌いな相手と付き合わなくちゃいけないのなら、基本は事務的に応対して関わりを最小限にするじゃん。

 いなくてもいい、っていうか多分いない方が良かったのにつれてくるなんて甘さを見せて、理屈なんかなく体が勝手に動いて助けるのに、皮肉たっぷりの塩対応する相手は嫌いどころか、かなり気に入って信頼してる相手に対するものだよ。

 自覚ないの? ネオンちゃんに対する態度、レオリオに対するそれと似てるよ」

 

 どうやら本当に、ソラはネオンよりもこの場の誰よりもはるかにクラピカの事を理解していた。

 ソラの答えにネオンはまたポカンと呆気に取られ、クラピカ本人は頬に朱を差して抗議の声を上げようとしたが、ヴェーゼとスクワラの「あぁ!!」という心当たりがありすぎる納得の唱和にその抗議は完全に掻き消された。

 

 同僚達に「その反応はどういう意味だ!?」とわかりきったことを怒鳴りながら、クラピカはソラを赤い顔で睨み付けるが、言葉が出てこない。

 絶対に言えなかった。「そんなのではない」と叫びたかったが、どうしてクラピカがネオンを放ってはおけないかの理由は、絶対に言えないし言わない。

 

 ネオンを放ってはおけなかったのは、どうしても憐れんで手を差し出してしまったのは、あまりに身勝手な理由で「加害者」になろうとしていたのに許そうとするのは、クラピカはどうしてもネオンにソラを重ね見てしまったから。

 理屈もなく体が勝手に動いて助けたのも、そのことに後悔などしないのも、クラピカが助けたつもりだったのはネオンではなく彼女に見たソラの面影だからだ。

 

 ネオンが被害者であることを認めたくないと思っていることに気付いた時、同時に気付いた。

 ネオンは、被害者であることを自覚できなかった、きっと未だに多くの傷を自覚出来ないまま抱えているソラに似ていると思えたから。

 ソラも一歩間違えれば、あそこまで歪んで捻じ曲がって穢れて、誰も幸福になどなれないのにそれに縋るしかない「悪魔」を生み出してしまうのではないかと思えたから。

 

 だから、放っておけなかったとは言えない。

 

 自覚していないまま、愛されていなかった現実を否定するのではなく受け入れているのに、未だにその傷が新たな傷を生んでいることにすら気付けないのも痛々しいが、改めて今更過ぎる傷を突き付けることなどクラピカには出来ないから、だから赤い顔で押し黙る。

 

 クラピカの反応を見て、大笑いするソラを赤い顔のまま睨み付ける。

 二人のやり取りを見て、ようやく緊張が解けたように笑うネオンにも同じように。

 

 楽しげな、年相応で無垢なネオンの笑顔に心のどこかで安堵を覚えている時点で、「そんなのではない」訳がないことにクラピカは気付かない。

 気付いているソラだけがおかしげに、嬉しそうに笑った。

 

 * * *

 

「そういえば……『ブロンド殺し』だった子はどうなったの?」

 

 緊張が解ければ元から人見知りをしなさすぎてトラブルを起こしただけあって、ネオンはソラに懐き、ソラのベッドに腰掛けて雑談をしていた中、問う。

 雑談で出す話ではないと同僚達と話していたクラピカは思うが、気まずげで痛ましげな表情からして本人もそう思っているが、ソラ相手に重い話を切り出すタイミングは見計らっていたらそれはいつまでたっても訪れないことを察したから、事故覚悟で切り出したようだ。

 

 クラピカ不在中の仕事のあれこれを話していた護衛たちも、犯人が未成年の念能力者という表でも裏でも情報規制される相手なので未だにほとんどどうなったのか、これからどうなるのかわかってないので気になっていたのか、話を中断してソラの答えを待つ。

 そしてソラは、事もなげに即答した。

 

「さぁ? とりあえずクライムハンターと警察に引き渡しておいたけど、下手したらあの子、学校への不法侵入と器物損壊くらいでしか起訴できないよ。下手したら、それも無理かも。

 現行犯で自供もしてるとはいえ、『念能力を失ってる』所為で学校での犯行も説得力には欠けるから」

 

 当事者でありながら、何ともいい加減な答えにソラ以外の全員が思わず脱力するが、後半の発言でまず最初にクラピカが復活して訊き返す。

 

「……念能力を失った? どういう事だ?

 彼女は典型的な強化系だろう? なら何かしら固有の能力は失っても、念能力そのものがいきなり何も使えなくなることはまずないだろう」

「あぁ、うん。クラピカの言う通り固有の能力を失って、そして念能力の知識があの子にはそもそもない所為で、今のあの子は精孔は開いてるけど“纏”さえも出来ない状態になってるから、『ブロンド殺し』やその他の犯行が念能力者の視点から見ても証明するのは難しいなって話」

 

 クラピカの疑問にソラは即答で答えるが、その答えをもらってもイマイチ理解出来なかったのはクラピカだけではなく、スクワラが「そもそも固有の能力なんてあったのかよ?」とクラピカも懐いた疑問を訊いてくれた。

 

「あった。つーか、素人のはずなのに訓練した念能力者並に動けた事自体が能力だと思う。

 あの子、無自覚無意識に制約を定めて能力にブーストかけてたんだよ。才能はあったし、ある意味家庭環境が修行の場になってたけど、いくらなんでもそれだけで高々15,6歳の女の子が下手したら旅団の11番並の武道派念能力者にはなれないよ。

 ……あの子は逃げ続けたいけど、逃げるのをやめたかった。だから、その矛盾した願いを叶える為に自分で定めてしまってたんだよ。

 

『捕まったら終わり』っていう制約で、捕まるまで自分のオーラも念能力そのもののスペックを底上げして、“流”とか“凝”とかはオートで発動するって能力だったのが、昨日の一件で終わって失った。だから、あの子自身がどんなに訴えても今度はその罪が信じてもらえないかもしれないね」

 

 ソラの答えで、“念”にまだ詳しくないネオン以外の全員がようやく納得した。

“念”のド素人であろうトモリが、クラピカの“堅”をもろともせず大ダメージを与え、ソラも自分の逆鱗に触れようとしていた彼女を止められなかった事が疑問だったが、その制約ならばあれだけの高スペックな能力になったのも頷ける。

 

 普通ならその程度の制約では、破った時のリスクに能力を失うとしても大きなブーストは期待できない。だけどトモリにとっては制約を破って能力を失うよりも、捕まること自体が、そして捕まるのが困難になるブーストがかかること自体が、彼女にとっては大きなリスクだった。

 

 ……だからこそ、彼女は昨日どころか一昨日の時点で、クラピカに腕を掴まれた時点で自動的に能力を失っても良かったはずなのに、ソラに指摘されるまで、本人が「捕まった」と認識するまで能力は失われなかった。

 歪んで捻じ曲がって穢れた願いを、彼女の「悪魔」がどこまでも愚直に叶え続けた結果だ。

 

 そのことをソラは何も言わない。

 もしかしたら、クラピカがダウジングチェーンの反応、家出の理由が嘘であることを気にしていれば、彼女に憑いていた「悪魔」はもっと早くに、穏やかな形で祓えたのではないかという、もはや意味などない可能性の話などしない。

 

「……よくわかんないけど、あの子は償いたくても償えないっていう罪を背負わなくちゃいけないのかもしれないんだね」

 

 ただ笑って、ネオンが憐れむというより自分の痛みを耐えるような顔をして呟いた言葉に、「そうだね」と答えた。

 その答えにクラピカが不機嫌そうに顔を歪ませたかと思ったら、ツカツカとソラの元に近づいて来て、唐突にソラの頭を掴んでアイアンクローをかます。

 

「!? 痛い痛い! 何!? 急に!」

「うるさい。下手な気の使い方をするな。私は初めから気になどしていない」

 

 いきなりなクラピカの攻撃にネオン達は呆気に取られ、ソラは喚きながらジタバタもがいてクラピカの腕を外そうとするが、無駄に苦手な強化系オーラを使ってまでしてソラの頭を締め上げながら、クラピカは言う。

 ソラほどではなくても、クラピカだってソラが何も言わなくても彼女の考えなどある程度はお見通しであることを証明する。

 

「どうせもしかしたら一昨日、私と彼女が出会った時点で『終わらせる』ことが出来たかもしれないとでも思って、勝手に後悔して罪悪感を懐いて、挙句に私も同じものを懐かないように黙っているんだろう?

 何もかも一人で背負って、償わなくてもいい罪を勝手に償おうとするな。というか、償いがしたいのなら一人勝手に行動して心配をかけて怪我をすることを反省して償え。見当違いでされても腹が立つだけの贖罪は、そこのお嬢様だけで私は手一杯だ」

 

 苛立ち露わにアイアンクローを続行しながら言い放ったセリフは、言葉こそ冷たく突き放しているようだが言っていることは「後悔する必要なんかない、罪悪感なんて懐かなくていい」「懐くのなら私も同じものを背負う」「他人の事より少しは自分を大事にしろ」という惚気でしかないことは誰だってわかる。

 

 なので、センリツはいつも通りの苦笑、ヴェーゼは面白そうにニヤニヤ笑い、ネオンとスクワラは胸やけしたような顔になる。

 そして言われた張本人のソラは、一瞬ポカンと目を丸くしてから笑って言った。

 

「それは無理だな。だって、かっこつけるのが年上の特権だもん」

「……かっこつけれていないから諦めろ」

 

 相変わらず自分の意見を聞いてもらえないが、それでも自分の言葉に嬉しげに笑ってもらえるだけで満足してしまう自分の単純な現金さが嫌で、素直なんだかそうじゃないんだかな返答をクラピカはする。

 その返答を、ネオンがやたらと何か言いたげなジト目で眺めていることに気付き、「何ですかその目は?」と慇懃無礼にクラピカは訊いた。

 そしてネオンも、堂々としたバカップル全開な話題に自分を引き合いに出されて皮肉を言われたのがさすがにちょっとムカッと来たらしく、遠慮なく言いたいことを言わせてもらった。

 

「……クラピカさんさぁ、いくらソラさんが年上で包容力全開で甘えさせてもらえるからって、甘え過ぎじゃない? あたしはともかく、彼女にまで好きだからこその塩対応は、その内愛情が枯渇して捨てられるよ」

「「………………は?」」

『あ』

 

 ネオンのどストレートに言い放った、クラピカのソラに対するツンデレはソラもわかった上でのじゃれ合いだとこっちもわかった上で、それでも言いたかったから言ってみたら、クラピカが赤面するのはまだ想像の範囲内だが、クラピカに対してストレートな好意を表していたソラもクラピカと同じくらい赤い顔になってしまった挙句、何故か護衛たちが気まずげな声を上げたことで、ネオンは困惑する。

 

「え? 何? あたし、そこまで言っちゃいけないこと言った?」

 

 狼狽えながら、ネオンは問う。ネオンとしては、確かに捨てられるだの何だのという話題は無神経だったと思うが、クラピカが甘えているのをソラが理解しているからこそ成立するじゃれ合いだとネオンも思っていたからこそ、許される範囲の軽口だと思っていたが、そうではなかったことが不安なのか泣きそうな顔であたりを見渡してから、クラピカとソラに謝ろうとする。

 

 が、ネオンが謝罪を口にする前にクラピカが真っ赤な顔で主張した。

 

「な、何を勘違いしている! 私とソラはそういう関係ではない!!」

「は? クラピカさん、何言ってんの?」

 

 しかしクラピカの主張はあまりにも説得力がなかったため、ネオンから罪悪感が吹き飛んで素で言い返した。

 が、素で言い返したネオンの発言でまた更にクラピカの顔が赤くなり、ソラも顔を見られたくないのか顔を見られないのか、両手で自分の顔を覆い隠してしまっている。

 そして護衛達はそれぞれ深い深い溜息を吐いてから、代表してセンリツがネオンの肩に手を置き、首を横に振る。それでようやく、ネオンは彼らの反応の意味を理解した。

 理解したからこそ、理解出来ずにネオンは叫ぶ。

 

「!? 嘘でしょ!! え? 嘘!? 恋人じゃないのならこの二人、何!? 何なの!? クラピカさんとソラさんの関係って何!?

 っていうか、恋人じゃないってことは昨日の人工呼吸的な奴でクラピカさんがやらかしたあれは何!? 本心!? 本能!?」

「ちょっ! お嬢様!?」

 

 クラピカの言葉が事実だったと理解したからこそ、あの相思相愛バカップルの見本のようなことしかしてない二人の言動が理解出来ず、思わず護衛達が常日頃思っていた疑問を盛大にぶちまけるネオン。

 そのぶちまけた内容に気付き、センリツがネオンの口を塞ごうと思ったが遅すぎた。

 ネオンもセンリツに止められてから自分が言ったことに気付き、気まずげに周囲を、クラピカとソラを見返す。

 勢いだけで言ったので、聞き取れなかった、聞き流してしまっていることを期待して。

 

 しかし、現実は無情である。

 

「え!? ちょっ、お嬢様それどういう事ちょっと詳しく!!

 人工呼吸ってアレでしょ? マウス・トゥ・マウスでしょ? されてた側のクラピカがやらかしたってことは……」

「っっっきゃあああぁぁぁぁぁっっ!!」

 

 ネオンの勢いで暴露した情報はヴェーゼにしっかり聞こえており、このキス魔には無視できない話題だった為、空気読むスキルが一瞬で消失するほどに目を輝かせて食いついた。

 しかし、ネオンにつかみかかる勢いで「人工呼吸」をさらに具体的に言い出した挙句、自分が察したクラピカのやらかしを口にしようとした瞬間、彼女の声に被せて悲鳴が上がり、同時にヴェーゼの顔面に枕が命中。

 

 悲鳴も枕を投げつけたのも、ネオンの勘違い発言から赤面して絶句していたソラ。

 ソラはベッドの上に膝立ちになって、枕を投げつけた体勢のまま涙目でワナワナ震えていた。

 

 枕の中身は羽毛だったのでダメージはないに等しかったが、さすがにその一撃でヴェーゼは我に返って気まずげにソラを見返すが、ソラの意識は既にヴェーゼなど眼中にない。

 ただ、縋るような眼でクラピカを見ていた。

 

 ネオンの発言は勢いで聞き流せたかもしれないが、さすがにヴェーゼの食いつきはバッチリ聞こえただろう。

 だからせめて、「人工呼吸」をしただけだと、ただの救命活動だったと思って欲しい、それ以外のことを思い出さないで欲しいと願い、祈り、縋りながらクラピカを見たが、先ほどから沈黙しているクラピカは――――

 

 

 

「………………………ソラ。

 …………それは……もしかして……人工呼吸ではなく……………………魔力供給……か?」

 

 

 

 ソラと同じくらい真っ赤な顔と涙目で、自分の唇に触れながら彼は訊いた。

 

 ヴェーゼの食いつきどころか、ネオンの暴露時点でしっかり聞こえていた。

 言われて、霞がかって思い出せずにいた、このまま放っておけば忘却の彼方に沈んでいたはずの記憶が舌先に蘇る。

 命そのものを清水にしたような甘露。心地よい温もり。溶けるように柔らかな感触。

 

 その全てが自分の舌と唇の記憶であることと、「人工呼吸」という単語、そして再会した日の夜、あの飛行船で、彼女があまりにも少女らしくて可愛いと思えたきっかけで教えられた知識が、クラピカの中で一つに繋がってしまった。

 

 その繋がって出した結論が、さらに記憶を引き出して思い出す。

 離れようとしたその心地よい全てを引き寄せ、押さえつけ、貪るとしか言いようがなかった自分のやらかしたことを思い出してしまい、いつもの意地もプライドも彼方に飛んで行った幼い顔で縋るように尋ねる姿で、ソラの方も自分の期待が叶わなかったことを察したのだろう。

 

「~~~~~~何で思い出してんだよ君は!!

 この! クラピカのむっつりロールキャベツっっっっ!!」

 

 完全に逆ギレして、割と訳の分からない罵倒をしながらソラはベッドから飛び降り一目散にクラピカ達がいる位置とは逆方向、病室の出入り口ではなく窓の方にダッシュして、さすがに割りはしなかったが割る勢いで乱暴に窓を開ける。

 その行動が、窓からの脱走であることに気付ける程度にこの場の全員がもうソラという女のことを理解していた。

 

「!? 待てソラ! 私が悪かったから待て!!」

「ごめんソラちゃん! 落ち着いて!!」

「いやもういっそ、ここはいったん逃がしてやった方が良くないかこれ!?」

 

 クラピカがパニクッて何故か謝りながら止め、ヴェーゼもそれに続いて説得するが、スクワラがある意味一番ソラの気持ちに寄り添った意見を出すカオス。

 ちなみに、クラピカの黒歴史の決定的瞬間に立ち会ってしまった二人は、もはや諦めたというより全てを受け入れ、悟りを開いたかのような優しい顔でこのカオスを見守った。手の出しようがないので放置とも言う。

 

 しかし羞恥の限界をとっくに超えているソラの耳には誰の声も届かない。というより、自分の声すらも届かない。

 だから飛び降りて病衣と裸足のまま爆走して逃亡する直前、完熟トマトのような顔でこれまた捨て台詞になっていないことを八つ当たりで、自分が何を言ったかも理解せずに言い放って窓の外へと消えて行った。

 

 

 

「君じゃなかったら、追撃された時点で殴ってたんだからな!!」

「!!??」

 

 

 

 

 

 ソラに「どういう意味だ!?」と問い詰めたいセリフを言い捨てられて、クラピカはその場に蹲って轟沈。

 そしてソラが本当に全治1週間の怪我人どころか、ダッシュババアとかターボババアとかそのあたりの都市伝説の親戚ではないかという勢いで走り去っていくのを見届けるしかなかった4人は、ソラが見えなくなってから「……どうしよう」と途方に暮れる。

 

「…………恋人じゃないんだよね?」

 

 ソラが走り去った方向と、轟沈しているクラピカを遠い目で見比べながらネオンが再び護衛達に尋ねるが、今度は誰も何も答えなかった。

 むしろ、彼らの方が訊きたい。

 

 お前ら、何でまだ付き合ってすらいないのだ、と。





これにて「未来視少女の改革編」は終了。
次回からはレオリオを絡めたホラークラッシュ話をする予定。
それが終わったら、1話だけゴン達の幕間を入れてから映画ファントムルージュ編に入ります。

……入る予定なんですが、昨日(6/18)の地震の影響で執筆に時間が取れず、更新頻度が下がるかもしれません。
大阪府民ですが、震源地からかなり離れた地区に住んでいるので私自身や私の周りの方々に被害は何もないので、ご心配はなさらず気長にお待ちしていただけるとありがたいです。

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