死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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幕間:君に幸福があらんことを

 誰も信じられなかった。

 

 同胞たちの命と眼、穏やかな日常、故郷と一緒に人を信じる心も奪いつくされた。

 12本脚の蜘蛛に、喰い散らされた。

 

 けれど、誰も信用しないで一人きりで生きられるほど強くもなかった。

 本当は、信じたかった。縋りつきたかった。助けて欲しかった。

 

(こんな中途半端で甘ったれな自分が、一年も一人で生き延びたのは奇跡だな)

 

 クラピカは自分の幼い愚かさを今更苦笑しながら、他人事のように眺める。

 故郷も同胞も世界や人に対する希望も失って、唯一残った復讐心だけを糧にたった一人で生き延びた先で行き着いた、治安が最悪のスラム街。

 その中でも人通りがまったくない狭い小道に連れ込まれて、押さえつけられた3年前の自分。

 どこかで自分の変化した瞳を見られてしまい、クルタ族の生き残りだと知ったチンピラが幼い自分を痛めつけて、紅蓮の炎のような緋色の眼球を今にも抉り出そうとしている光景を。

 

 抵抗しながらも生きることに疲れ果てて内心では諦めていた自分の、さらなる奥底に沈んでいた自分自身でさえも気付けない原初の願いを見つけて、そして叶えてくれた人との出会いを、幽霊のように誰にも意識されずただ静かに見続ける。

 

 自分を押さえつけるチンピラをタックルで吹っ飛ばして、ナイフを持っていた方には何か……、当時はわからなかったが魔力を込めた宝石をぶつけて、火だるまにして助けてくれた。

 だが、人間不信真っただ中だった当時のクラピカは、そこまでされても助けられた感謝などなかった。

 そもそも助けられたとすら思っておらず、「どうせこいつも、自分の眼が狙いなんだ」と思い込み、火だるまになった男が落としたナイフを拾って、無防備なその背に突き刺すつもりだった。

 

 しかし、タックルで吹っ飛ばされた方が起き上がって彼女に向かってきた時、その時の彼女の「眼」を見た瞬間、クラピカは拾ったナイフを落として、ただただその姿を目で追った。

 その眼を、ずっと見ていた。

 

 彼女は素手だったのに、相手の腕をまるでナイフでバターでも切るように滑らかに切断するのを見ても、恐怖など感じていなかった。

 もう自分を殺そうとした、自分の眼を奪おうとした相手などクラピカの眼中にはなかった。

 

 荒い息を落ち着かせようとしながら、自分に目を向けて「大丈夫?」と声を掛けられた時には、涙が溢れ出て体は勝手に動いていた。

 滂沱の涙を流しながら、しがみつき、縋りついた。

 

 自分の眼とは、クルタ族とは違うことなどわかり切っていた。

 けれどあの、夜空から蒼天へと変幻する眼に、苛烈な緋の眼とは対照的な青い玲瓏な瞳に見てしまった。

 同胞の面影を確かに、見てしまった。

 

 それが、クラピカとソラ=シキオリという「異邦人」との出会いだった。

 

 

 * * *

 

「現在」のクラピカは、相変わらず幽霊のように誰にも知覚されず、ただ昔の自分と自分の「恩人」を眺め続ける。

 

 突然泣き出してしがみついて縋り付いた自分を、ソラは驚きはしたが特に何も言わずに抱き着いた自分の背に腕を回して、抱き返してくれた。

 支離滅裂な自分の言葉に、叫びに一つずつ「うん」と頷きながら、彼女は言ってくれた。

 

「助けて」という身勝手な懇願を、受け止めてくれた。

「いいよ」と、抱擁をしながらクラピカの頭を撫でて答えてくれた。

 

「……でもその前にごめん。私を助けて」

 そう言いながらぶっ倒れたソラに、幼い自分は慌てて現在の自分は軽く頭痛がしてきた頭を押さえる。

 初めから歪みなく、空気をぶち壊すのが得意な女であった事を思い出すが、冷静にこの時の彼女の状況を思い返せば、色んな意味で彼女は自分を助けるどころか、泣いて縋り付く自分を抱きしめ返す余裕などなかったことわかり切っている。

 

(むしろ、ずいぶん無理をさせてしまって申し訳なかったと思うんだが……、しかしいっそ何も言わずに倒れて欲しかったな)

 あの時の何とも言えない微妙な気持ちを思い出してクラピカは、図々しいのかささやかなのかよくわからないことを望む。

 

 ソラがぶっ倒れた後、当時の自分がねぐらにしていた廃墟まで何とか担いで連れて行って介抱した。

 恩義などではなく、一方的に同胞の面影を見て縋った人を失いたくなかっただけの昔の自分を殺したい気分になりながら、現在のクラピカはそれを眺める。

 

 水を飲むのが精一杯で、固形物を受け入れられない程に衰弱していた人が、自分を助けてくれたという感謝も初めはほとんどなかった。

 クラピカはただ、自分と同じように色が変化する瞳に親近感を覚えて勝手に懐いただけだった。

 

 自分と同じような一族で、自分と同じような境遇だと勝手に思い込んでいた。

 が、その思い込みは少し回復したソラによってあっさりぶち壊されたのは言うまでもない。

 

「ヒノメ? 何それ?」と即答し、自分の眼の色が変化することすら自覚していなかった彼女に、当時の自分は理不尽に腹を立てたが、傍観する現在の自分は逆に、「ソラ、その甘ったれでバカな私にもっと言ってやれ」と思って応援してしまった。

 

 しかしソラは現在のクラピカの願いに反して、勝手に期待して失望しただけだと言うのに、露骨に不満気な顔をした幼い彼の頭を笑いながら撫でて言う。

「ごめんね。君と同じじゃなくて」

 自分がどれだけ理不尽なことで腹を立てているかの自覚はあったので、むしろ謝られたらさすがに恥ずかしさと申し訳なさが上回って、クラピカは目を逸らして「謝るな」と非がある側が使うべきではない荒い言葉で言った。

 

 そこまでされてもソラは全く腹を立てた様子を見せず、むしろ少し困ったように言われて自分は眼を丸くしたことをよく覚えている。

「いや、申し訳ないよ。だって『いいよ』って言ったのに、助けるどころか気の利いたことすら全然言えてないからさ」

 

 名前をやっと互いに名乗った直後ぐらいだったにも拘らず、自分を一番に気遣ってくれる彼女が、泣きじゃくった自分を落ち着かせる為だけの上辺の言葉ではなく、本気で自分の「助けて」を実行しようとしてくれる彼女が信じられず、「何故だ?」と素で訊いた。

 

「んー……私さ、周りが年上ばっかりで助けられてばっかりだったから、誰かを助けたのって君が初めてなんだよね。それで、君が怖がらずに逃げないで私に縋って、頼って、『助けて』って言ってくれた時、私でも役に立つんだ、私は生きててもいいんだって思えたんだ。

 だから、そのお礼」

 

 自分が与えられた側なのに、ソラはクラピカこそが自分にくれたから、助けるのはそのお礼だと笑って言った。

 その笑顔を見てようやく、クラピカにとって彼女は「同胞に似た人」から、「ソラ=シキオリ」という個人に変化した。

 

 その言葉が、嬉しかった。

 その笑顔が、好きだった。

 

 この時にはもう、彼女は手遅れなほどに壊れ果てていることなんか、自分がそのトドメであった事なんか知らなかった。

 

 知っても、変わらなかった。

 

 もう、独りは嫌だった。

 独りで生きることに、耐えられなかった。

 

 ソラとずっと一緒にいたかった。

 

 * * *

 

 緩やかに場面が変わる。

 気が付くと、3年前の自分とソラが出会った当初より小奇麗な身なりになっていた。

 ソラと出逢って数日後、スラム街を離れて牧歌的な村で農業や酪農の手伝いと、子供の勉強を教えてささやかな賃金と、何やらわけありで旅をしている姉弟だと思われたのか、村人の厚意と同情心で衣食住を得ていた頃だと気づき、現在のクラピカの表情がわずかだが柔らかく緩む。

 

 出逢ってからクラピカに介抱されて、体力が回復した後のソラの行動は、あまりにも早くて強引だった。

「こんなとこにいたら腐るよ」と言って、クラピカの腕を引き、嫌がって抵抗すれば抱き上げて無理やりスラム街から離れた。

 人が多い所は嫌だ、どうせ子供で身分証明もろくに出来ない自分が表だって生きていけるわけがないと訴えたら、「私なんて異世界出身なせいで、こちらの世界の常識も戸籍もないんだぞ!!」と開き直られて絶句したのも、今となっては懐かしい。

 

 ソラの事情は尋ねれば本人があっさりと、悲壮感も疑われて信じてもらえない不安もなく語られたので、出会ったその日のうちにほぼ全部知った。

「魔術」という異能を扱うこと、この世界の住人ではないこと、「魔術」とはまた少し異なる「魔法」の失敗により、死よりさらに深い深淵に落ちかけてそこから逃げ出したことでこの世界にやってきたこと、そしてその副作用で得てしまった異能。「直死の魔眼」

 

 普通なら設定がよく練られた妄想で終わらせる話だったが、クラピカはソラの話を全て信じた。

 それは、クルタ族の集落で生まれ育ち、そこから出てもクルタ族虐殺による人間不信で視野が狭まり、結局あの森の奥にいた頃とそう変わらない世間知らずな子供であったことも大きいが、何より信じた理由は「ソラの言うことだから」が第一だった。

 

 彼女の言うことなら、何も疑わない。嘘でもいい。ただ、信じていたかった。

 自分以外の全人類が、自分の眼を狙うケダモノだと思い込んでいたクラピカにとってもはやソラは、唯一神に近いほどの信頼を得ていたのだが、当の本人は全く疑わず全部信じるクラピカを逆に心配して、真顔で「君、大丈夫?」と言い出した時はさすがにだいぶムカついたことも思い出し、またしても現在のクラピカは微妙な気持ちになる。

 

 ついでに、「こんなところにいたら腐るよ」と言い出して、クラピカをスラム街から連れ出したのは、ソラのまともだがムカつく心配に、「お前だから信じるんだ!」とクラピカがキレた後だったことも思い出し、微妙な気持ちは羞恥に変化する。

 ソラの言うとおり、クルタ族で子供の自分以上に身分証明などできない、この世界の常識など何も知らない、表だって真っ当に生きることは困難極まりなかったはずなのに、それでもスラム街から出て行ったのは自分の為ではなく、ソラだけを信じてソラだけに依存しようとしていた弱いクラピカの為だったことを、今更になって気が付く。

 

 誰も信じないで自分だけを頼りに生きることよりも、たった一人だけを信じて依存して、その人の行動に自分の全てを委ねることは、思考を停止させて自分を殺すことと同義であることを、彼女は知っていた。

 だからソラはクラピカを連れ出して、無理やり人と関わらせた。

 

「暗示は魔術の初歩だからね」

 そう言って魔術と適当な嘘で同情を得て日雇いの仕事をして、それで得た賃金で自分たちの身なりを「浮浪者」から「旅人」くらいに整えながら、クラピカとソラは転々と町から村へ、村から町へと渡り歩き、人と関わって少しずつクラピカの人間不信を解消させてくれた。

 

 暗示と言っても身分証明が出来ない、明らかに血の繋がりも感じられない10代の男女である自分達が怪しまれないようにする程度しかソラは使わず、それ以外の暗示は決してかけなかった。

 当時は「私は魔術師としてへっぽこだから、この程度の暗示しかできない」と語ったソラの言葉を鵜呑みしていたが、今になって思えばクラピカの人間不信解消のためにあえて、最低限の暗示しかかけなかったのではないかと思えた。

 クラピカに対して嘘は決してつかないと誓ってくれた彼女だから、未熟であるということは本当だろうが、それはきっと建前だったとわかるほどクラピカは大人になっていた。

 

 自分たちの都合のいいように動く暗示をかけてしまえば、クラピカは結局ソラ以外の人間の優しさは、ソラの暗示で与えられた偽物だと間違いなく思い込む。

 そう思わせないために、自分から自業自得の喧嘩と恨みを買って、さらに人間不信をこじらせるスパイラルにはまっていたクラピカに、人間の打算のない優しさをたくさん見せる為、こちらが善意と好意を見せて接すれば、相手も善意や好意を返して助けてくれることを思い出させる為に、そんな暗示じゃ年上のソラばかりが苦労を背負いこむのに、当時のクラピカにそんな苦労を一度も見せずにずっと笑っていてくれたことを思い出し、現在のクラピカは申し訳なさと自分の情けなさで泣き出したくなる。

 

 当時のソラと今の自分はたった1歳しか変わらないはずなのに、もしもソラと同じ状況に自分が陥ったら、きっと自分はいくつになってもソラと同じことなどできないことを、目の前の3年前の自分の言動で思い知らされる。

 

 ソラから、そしてたくさんの人から人間の善意や優しさを与えられたのに、それでもまだ人が信じきれず、そんな自分が嫌で自暴自棄になったクラピカの話を、いつもソラは聞いてくれた。

 空気を壊すのが得意な女だったが、決して真面目な話が出来ない訳ではなかった。むしろ、クラピカの自己嫌悪にまみれた支離滅裂な弱音を、一言たりとも取りこぼさずに全部聞いて、いつも彼女はその名にふさわしい晴れ晴れとした笑顔で与えてくれた。

 

「じゃあ、一緒に聖杯でも探そうか」

 

 復讐を果たした後、同胞の眼をすべて取り戻した後にクラピカが歩むべき道を提示してくれた。

 親友とともに喪われたはずの「夢」を、蘇らせてくれた。

 

 * * *

 

 確かこの日は、大きな蜘蛛を見つけてトラウマが蘇ってひどく情緒不安定になって、ひたすらソラに旅団への憎しみと自己嫌悪や弱音をただ吐き続けていた。

 恩人に何も返せないくせに、よりにもよって自分の負の感情を吐き捨てるゴミ箱のようにソラを扱っているのが自分自身だからこそ許せず、当時の自分を絞め殺したい気分になるが、クラピカの手は昔の自分も、昔の自分に膝枕をしながら落ち着かせるように頭を撫でてくれたソラにも触れられず、すり抜ける。

 

「……ソラ。オレは絶対に旅団を許せない。あいつらをみんな殺してしまいたい。そして、仲間の眼が外道の慰み物になっていることも耐えられない。だから、絶対に取り戻す。

 …………けど、その後はどうしたらいいかがわからないんだ。パイロと約束したのに、パイロに『楽しかった?』と訊かれて、『うん』って答えられる旅にしなくちゃいけないのに、オレはもうどこに行けばいいのか、何をしたらいいのかわからないんだ。

 このままじゃ、オレは『うん』なんて答えられないのはわかってるのに、わかってるのに、わかってるのに、なのに……なのに…………」

 

 自分で考えるべきことを放棄して、親友との約束さえもソラに縋り付いて「助けて」と望んだ愚かな自分を助けてくれた。

 助けて、手を差し伸べてくれたけど、彼女は決して全てを与えてはくれなかった。

 立ち上がるのはクラピカ自身の力だと言っていたことは、当時のクラピカでもわかった。

 

「じゃあ、一緒に聖杯でも探そうか」

「……聖杯?」

「そう。前に話しただろう? 万物の願望器をめぐる戦い、聖杯戦争」

 

 旅団を捕らえる為にソラの魔術を欲して教えを乞うた時もあったが、その頼みは自分の覚悟とソラの望みの違いと、あと単純にクラピカに魔術回路がないことを理由に断られた。

 しかし、その断る際の魔術の説明はたとえ使えないにしろクラピカの旺盛な好奇心に火をつけ、暇さえあれば彼女に魔術や魔法についての話を、まるで幼子が親に寝物語をねだるように聞きつづけた。

 その中の一つ、彼女の姉弟子とその恋人が関わったと聞いた魔術儀式があげられて、クラピカはソラの膝の上に横になったまま、きょとんと彼女を見上げた。

 

「あれは人工的に作ったもので、サーヴァント7騎……、いや願望器としての機能だけなら6騎でいいのか。まぁ、とにかく面倒くさい前準備が必要な奴だけど、天然もので中身入り、前準備なんかいらない『聖杯』だってこの世にはあるらしいんだ。

 とりあえず、それでも探そうよ。それを探してる間に、他にクラピカがしたいこと、君の親友に胸を張って『楽しかった』って言えることがあればいい。見つからなくても……聖杯があれば、君の願いは叶うだろう?」

 

 傍から聞けば、ただの夢物語。クラピカを励ますために言っただけの口約束にしか聞こえなかったが、それが決して口だけの言葉ではないことを、全て本気であることをクラピカは知っている。

「お前だから信じるんだ!」と即答したクラピカに、彼女は一瞬きょとんとしてから嬉しそうに笑って、熱を測るように自分とクラピカの額を合わせてあまりに近い位置で言ってくれた約束を、クラピカはずっと信じている。

 

『じゃ、その信頼を裏切らないために約束するよ。

 私は、君に絶対に嘘をつかない。君に言ったことは全部本当だし、君と約束したことは絶対に全部、守るよ』

 

「万物の願望器」なんていう、親友と一緒に見た夢以上に胸が躍るものを探す旅に出ようという夢を、生きる指針を与えてくれた。

 けれど彼女は、それ以上は、それ以外は口にはしなかった。

 

 自分の願いは、口にはしなかった。

 一緒に探そうと言ってくれたのに、ソラは願望器を完全にクラピカが使うことを前提で話していた。

 

 自分の常識の大半が通用しない世界にやってきて、心が壊れ果てても逃げ出せない眼を持っているのに、元の世界に帰ることも、眼をどうにかすることも望まなければ、クラピカが聖杯に託す願いにすらも、彼女自身の願いに誘導などしなかった。

 クラピカが望む願いを託せばいい。それだけは、どんなに望まれても自分は口出しをしないと言うように、それ以上は何も言いはしなかった。

 

 生きる目的を、指針を与えても、その願望器を求める理由は、「答え」は自分で見つけ出せと突き放した女に、自分の全てを与えてもクラピカに一つでも多い「選択肢」を、「未来」を作ってくれる人に、クラピカは横たわったまま手を伸ばす。

 自分を見下ろすソラの瞼に、眼に触れて、その目が映す世界(ぜつぼう)を想像しながら、それでも穏やかに笑ってくれている彼女に、素直な感謝の言葉は出なかった。

 

「――あぁ。そうだな。……ソラ、一緒に探そう」

 

 ただ、それだけを伝えながら心はもう決まっていた。

 彼女とともに探し、見つけ出した聖杯に託す願いは、旅団や人体コレクターの殲滅でも、喪った同胞たちを蘇らせることでもなく、自分を救ってくれたこの尊い人に、輝ける幸せを。

 彼女が、誰かの為ではなくいつだって本当に楽しくて嬉しくて仕方がないからずっと笑っていられるように。

 

 ソラが幸せになれますように。

 

 その願いは、今も変わらない。

 きっとずっと、変わらない。

 

 * * *

 

 ずっと変わらないのに、この願いは本当なのに、誰よりも何よりも彼女の幸せを、ソラが幸せになることを望んでいるのに――

 

「………………ソラ?」

「クラピカ! 大丈夫か? 気分は悪くないか? 腕はちゃんと動くか?」

 

 後悔が頭の中を埋め尽くし、目を伏せてただひたすらに現在のクラピカがソラに謝り続けている間に、また場面が変わる。

 初めて出逢った時のような、スラム街の中でも人通りが特に少ない裏路地の片隅。

 服は右腕の袖が何故かなくなっており、まだ乾ききっていない血で汚れているのに無傷の自分と、すべてかすり傷ではあったが、ほぼ全身に傷を負っていたソラを、また何もできないまま、誰にも知覚されないままに見下ろす。

 

 これがいつの出来事であるかは、考えるまでもない。

 彼女との別れの日の記憶。

 クラピカが弱かったからこそ起こった、自分にとって最大の罪を犯した日。

 

 昔の自分は、自分が引き起こした事態を理解できておらず、虚ろな目でソラの問いにただ頷いている。

 この時は何もわかっていなかった。

 偽物だとわかっていても怒りも憎悪も押さえつけれなかった自分が起こした、浅はかな行動のツケをソラに払わせたことも、ソラが泣きながら自分が生きていることを喜んでいてくれたことも。

 

 ソラの涙を見たのは、この時が初めてだったということに気付いたのは、彼女を失ってだいぶ経ってからだった。

 

「クラピカ。君はこのまま表通りまで走って、警察を呼べ」

 クラピカの無事を確認して安堵したソラは、自分の上着を着せて帽子を目深にかぶらせて、クラピカに指示を出した。

 

「……ソラは……どうするんだ?」

 何故そんな指示を出されているのかも理解できず、自分に何が起こったのかも思い出せないまま尋ねると、ソラは少し困ったように笑った。

「……ちょっと、時間稼ぎするだけだから大丈夫だよ。心配はいらない。幸い、姉弟と思われてるみたいだから私でも十分に囮の価値はあるさ」

 

「囮」と言う言葉で、ソラが何をしようとしているのかを理解してようやく、思い出す。

 自分が犯した愚行を、クラピカは思い出した。

 

 ソラと出逢う前と比べてだいぶ真っ当に生活できるようになったが、それでも身分証明できない二人だと、宿泊できる所に治安の良さは求められない。

 田舎だとわけありだと思われて、同情と好奇心で泊めてくれる家は割とあるが、都会になればなるほどそういう人情には期待できず、二人が止まる宿はスラムよりはかろうじてマシという地区にある、ごろつき御用達のモーテルの類だった。

 

 普通に部屋を取って、荷物を置いて少し休憩してソラが「飲み物買ってくる」と言って出て行って、1時間近くたっても帰ってこなかったからクラピカが探しに出てきたら、ソラがロビーでチンピラ数人に囲まれて絡まれていた。

 またいつものように空気を読まずトラブルに首を突っ込んだのかと思ったが、離れていても聞こえる男どもがソラに語る言葉の断片から、ソラを金で買おうとしているのを察した瞬間、眼に熱が溜まったのを覚えている。

 

 ソラに劣情を向けたという時点でクラピカにとって許しがたい相手だったが、チンピラどもはよりにもよってクラピカの逆鱗を触れるどころか抉り出した。

 暴力沙汰を犯して宿泊拒否されたらクラピカに悪いと、おそらくソラは考えて適当にあしらって穏便に済まそうとしていたのだろう。

 しかしそれが逆にあだとなり、時間を取らせてクラピカが出てきてしまった挙句に、奴らはクラピカの前で自分の肩や腹に入れた刺青を見せつけた。

 

 数字の入っていない、12本足の蜘蛛の刺青。

 少し詳しく「奴ら」のことを知っていれば、一目でわかる虚偽の証。

 もちろん、ソラはそれが偽物であることなどわかっていた。

 クラピカだってわかっていた。刺青にナンバーが入っていることをソラに教えたのは、クラピカ自身なのだから。

 わかっていても、ダメだった。

 

 12歩足の蜘蛛を見た瞬間、クラピカの視界は、頭の中は緋色に染まった。

 

 そこから先の記憶は断絶している。部分部分にしか思い出せない。

 ソラに絡んでいる男たちを殴り飛ばして、蹴り飛ばし、自分を止めようとしたソラさえも突き飛ばして、「旅団」を名乗る輩を殲滅しようと暴れ回った。

 偽の旅団のリーダーっぽい男に腕を掴まれた瞬間、人形の腕をもぎ取るように軽く自分の腕がもがれて絶叫したのを最後に、記憶はない。

 

 そこまで思い出してようやく、もがれたはずの自分の腕を見る。

 包帯こそ巻かれていたが、クラピカの腕はごく普通にそこに存在して、腕はもちろん指先も自分の意思通りに動かせた。

 そのことを尋ねる前に、ソラは小さなイヤリングを片手に持って、いつものようにあっけらかんと笑いながら説明した。

 

「ちゃんとくっついたようで何よりだ。治癒魔術は苦手だけど、姉さんの魔力がたっぷり入ってたおかげで成功したよ。代わりに、これはもう空っぽだけどね」

 

 詳しく訊いたことはなかったが、「姉の形見」と言っていたイヤリングにこもった、姉の命の残滓である魔力を使い切って自分の治療をして、そしてなお、ソラは当たり前のようにクラピカの愚行の尻拭いに奔走する。

 相手が偽物だとわかっていながら緋の眼を晒して暴れ、その眼を狙われている自分を逃がそうとしていることに気付けないほど愚かではなかったくせに、どうしたら自分で自分のしたことに収拾がつけられるのかは見当もつかなかった。

 

 けれどソラ一人に任せて、ソラに全てを押し付けて逃げるなんてことだけはしたくなかった。

 クラピカにできたことは、ただ「行かないでくれ」とソラの手に縋り付くことだけだった。

 

 もう何度目かわからないが、クラピカはまた昔の自分を殺したくなる。

 何もできないくせに、要求ばかりしていた自分など何度でも殺してしまいたいくらい憎らしいのに、ソラはやはり愚かな昔の自分を見捨ててはくれない。

 

「クラピカ」

 泣いて縋るクラピカの耳に、彼を助けるために魔力を使い果たして空っぽになったイヤリングをつけて彼女は言った。

 

「これは、私の大好きな姉さんの形見で、私の宝物なんだ。だから、君に預ける。預けるだけだからな。いくらクラピカでも、これはあげられない。

 ……だから、私の代わりにこれを守ってくれ。大事に、大切にしてくれ。すぐに、返しにもらいに来るから。ちゃんと君の元に帰ってくるって約束するからさ。それまで、預かっておいてくれ」

 

 それは、自分を逃がすための方便であることはわかっていた。

 それでも、「嫌だ」と言って突っ返すことなどできなかった。

 与えられてばかりの自分が、守られてばかりの自分に「守って」と託されたものは、手放せなかった。

 

 それはずっと、自分がソラにしてあげたかったことだったから。

 

 泣きながら頷いて、また感情の高ぶりで変質しているであろう眼を帽子で隠して幼い自分は駆けだした。

 一秒でも早く警察を呼んで、ソラを助けてもらう。その為に、スラム街から表通りに駈け出した3年前の自分とは逆方向に、現在のクラピカも駆け出す。

 

 自分を守るために偽の旅団のもとまで駆け出したソラに、クラピカは走り抜けて手を伸ばす。

 

 * * *

 

「待ってくれ! ソラ! 待ってくれ!!」

 

 せめて夢の中でくらい、犯した罪をなかったことにしたい。

 弱くて身勝手な望みのままにクラピカはソラを追い、手を伸ばすがその手は何もつかめないですり抜ける。

 それでも、クラピカは手を伸ばして叫び続ける。

 

「待ってくれ……、やめろ……。やめてくれ! 私の……オレなんかの為に君が人を殺す必要なんてないんだ!!」

 

 ――あの日、クラピカが助けを呼んで警察がスラムに駆け付けた際には、もうすでに全てが終わっていた。

 蜘蛛の刺青をしたならず者どもで生き残ったのは2,3人。後の全員は、あまりに鋭い刃物で体を両断されているか、致命傷になるはずがない部分を一カ所刺されただけで死に至ったか。

 

 おそらく、ソラは腕をもがれた自分を助けるために、元の世界から持ってきていた宝石のほぼすべてを使い果たし、姉の形見も自分の治療で使ってしまい、他に戦闘で使えそうなものは嫌がらせのような効果のガンドと、死を捉える目しかなかった。

 

 その眼をあまり使いたがらないことを知っていた。

 彼女は、人殺しに対して特に思うことは何もなく、クラピカの復讐に関しても決して否定などしなかったが、「命」を軽く見ることはしなかった。

 命を軽んじて奪った代償は、いつか必ず支払わされることを知っていたからこそ、自分の命も、他人の命も大切にしていた。

 

 どんなトラブルに巻き込まれても、自分から首を突っ込んでも、あまりに命を軽くさせるその眼で誰かの命を奪いはしなかった。初めの出会いで助けられた時ですら、彼女はチンピラを生かして逃がした。

 

 なのに、クラピカを守る為に彼女は人を殺した。

 そこにどんな事情があったのかは、クラピカにはわからない。

 もしかしたら、彼女は自分の「死にたくない」という願いのままに殺したのかもしれないが、それでもクラピカさえいなければ、クラピカが余計なことをしてあんな大怪我を負わなければ、起きなかったこと。

 

 間違いなく罪深いのはクラピカなのに、クラピカの所為なのに、それなのにソラは、この日を境に姿を消してどこを探しても見つからない彼女は、決してその罪をクラピカに渡してくれないことを知っている。

 

「どんな理由があっても、どんな事情があっても、人を殺した罪はその人を殺した人が背負うものなんだよ」

 

 何かの拍子に、当たり前のようにソラは言っていたから。

 それが彼女にとっての摂理だから。

 

 それでも、クラピカはソラからその罪を渡してほしかった。手放してほしかった。

 

 彼女の幸福を願い、望み、祈るのは今でも変わっていないから。

 彼女に与えたい輝ける幸福の陰りになる罪など、自分に渡してほしかった。

 

 それなのに、ソラは――

 

「バカだね、クラピカ。

 人は生きている限り、必ず罪を背負うんだよ」

 

 いつしか、また場面が変わる。

 今度は過去の記憶には全く当てはまらない、何もない真っ白な空間で、自分が追っていたはずのソラはクラピカの背後に立っていた。

 

「……ソラ」

「罪を背負わない生き方なんて、出来ないんだ。だから私たちは、選ぶんだ」

 

 今度はただの傍観者ではない。

 振り返ったクラピカをソラはちゃんと認識して、その夜空の瞳に今にも泣きだしそうな情けない弟を映して笑う。

 今のクラピカと同じくらいの短い烏の濡れ羽色の髪が揺らして近づき、クラピカの頬に両手を添える。

 

 そしていつものように、真面目な話をする時、説教をする時、クラピカの間違いを諭す時に何故かいつもしたように、互いの額を合わせて、あまりに近い位置で見詰め合って彼女はもう意味のない過去をひたすら悔やむ弟に伝える。

 

「自分がどんな罪を背負うか、そしてその罪を背負ってでも生きていたい道を選ぶんだ。

 背負った罪で道を選ぶのは大きな間違いだ。罪を負うこと自体は、間違いじゃない。どんな道を選んだって、必ず私たちは幸せの代償に、罪を負わなければならないのだから。

 だから、クラピカ。勘違いするな。私は君の所為で罪を負ったんじゃない。

 私は、選んだんだ。この罪を背負った先で得られる幸福を」

 

 これが夢であることなどわかってる。

 だから今、目の前の彼女の言葉だって、自分の身勝手な「許されたい」と言う願望でしかないこともわかってる。

 

 それでも、否定などできない。

 あの日のイヤリングと同じように受け取るしかできない。

 

 彼女に輝ける幸福を、確かに願った。

 でもその幸福が、自分を生かして守ること、それが彼女の望む幸福であればいいと望んだのも事実だから。

 

 そして何より、額を離した後に自分よりもはるかに幼い笑顔で悪びれずに言い放ったセリフが、何とも本人らしくて、まるでソラ本人に言われたかのような錯覚に陥った。

 

「ま、全部受け売りなんだけどね」

「何故、それを今言う!?」

 

 真面目な話は出来るのだが、本人的にそれが終わった0.5秒後に粉砕してくるのは、夢の中でも一緒だった。

 

 * * *

 

 相変わらずのエアブレイカーぶりにキレた瞬間、目が覚めた。

 目が覚めた先で、ゴンやキリコの親子、そしてレオリオにまで怪訝そうで心配そうな顔でこちらを見ていることに気付いて、クラピカは羞恥でこのまま消えたくなる。

 

「……クラピカ、どんな夢見てたの?」

 ゴンが本気で心配そうな顔をして尋ねてきて、さらにクラピカは恥ずかしさで顔をあげれなくなった。

 

 ナビゲーターであるキリコに連れられてザバン市近郊の山小屋に到着し、あとは会場で受け付けを済ますだけだったが、当たり前だが受付開始の時間は決まっている。

 もうすでに日付は変わっていたが、まだ真夜中と言える時間に山小屋に到着したため、クラピカ達がその山小屋で仮眠を取ったのはいいのだが、どうも間違いなく、自分の寝言の突っ込みでクラピカは起きたらしい。

 

 しかも一生モノの不覚なことにゴンやキリコたちだけではなく、レオリオよりも起きるのが遅かったらしく、「うなされてたかと思ったら、何でお前いきなり突っ込み入れて起きるんだよ?」と訊かれてしまった。

 出来れば他に寝言を言っていないことを祈りながら、「……訊くな。出来れば、忘れてくれ」と切願しながら、内心でソラに八つ当たりする。

 

(……彼女と再会したら、まずは殴ろう)

 自業自得なのか八つ当たりなのかよくわからないことを考えながら、顔を覆っていた自分の手がイヤリングに触れる。

 

 ソラの夢を見るのは久しぶりだった。おそらく、ハンターのことを教えたらソラは「身分証明にいいかも。私も試験受けようかな?」と運転免許のようなノリで言い出していたことがあったので、彼女なら本当にそのノリのまま試験を受けかねない、もしかしたら試験会場にソラがいるのではないかという期待が見せたものだろうと、クラピカは自己分析する。羞恥を忘れる為の逃避ともいうが。

 

 あの日からクラピカのハンターを目指す理由は、旅団を捕えること、仲間の眼を取り戻すことに加えて、ソラを見つけることの三つになった。

 彼女の生への執着を知るクラピカは、「ソラの死」の可能性は完全に除外している。元の世界に何らかの拍子で戻った可能性もあるが、それはこの世界をすべて探しても見つからなかった場合に考えればいいと、ソラに影響されて生まれたやけくそ気味なポジティブさで今は無視している。

 

 約束を交わしたから、だから必ず生きて自分に会いに来ると信じて疑わない部分もあるが、そうやって待っていられるほどポジティブにはなりきれなかったから、探そうと誓った。

 探して、見つけて、そして「待たせすぎだ!」と文句をつけて、……そして今度こそ一緒にいようと決めた。

 

 あれはソラ本人の言葉ではないけれど、それでもいつも正しいと思っている人の姿を借りて自分に伝えた自分の言葉だから、きっとそれがクラピカが考えて見つけ出した答えだから。

 幸福の代償に罪を背負い、選んだ道で罪が決まるというのなら……

 

(ソラ。私は君と同じ道を、君が幸福になれる道を歩いていきたい)

 

 そんな答えを見つけて、ようやくクラピカは顔を上げる。

「……感傷的なくせに最後は台無しにさせられる夢を見ていた。が、そのおかげで色々整理はついた。もう大丈夫だ」

 仲間にそう伝えると、ゴンは朗らかに笑って「なら良かった!」と屈託なく言い切り、レオリオは口には出さないが少し安心したような淡い笑みを浮かべる。

 どうも自分は本当にだいぶ魘されていたらしく、天真爛漫でまっすぐなゴンだけではなく偽悪的で根はお人よしの部類のレオリオも実はかなり心配をしてくれていたことに気付くと、自然にクラピカの口角が上がる。

 

(……仲間か。ソラ、君がいなければこんな風に誰かを想えることも、笑えることもなかったよ)

 

 自分の性格上、そして彼女の性格も考慮したら間違いなく素直に言えない感謝を、山小屋から出て見上げた空を代わりにして心の中で告げる。

 まだ日が登っていない山の空は、闇と言うにはわずかに青みがかった、まさしく彼女の普段の瞳と同じミッドナイトブルー。

 その空の色がまた、クラピカの心の中の彼女の記憶を鮮明にさせる。

 

 同時に、ふと違和感を覚えた。

 

「クラピカ、どうしたの?」

「おい、まだ寝ぼけてんのかよ。置いてくぞ!」

 

 ゴンとレオリオに声を掛けられて、夜空を見て一瞬だけ思い出した違和感をクラピカは忘れ去る。

「あぁ、すまない。今行く」

 

 夢の中で最後にいつも通り空気をぶち壊したソラの髪が、アルビノのように真っ白であったことなど完全に忘れて、クラピカは歩いてゆく。

 仲間とともに、夢の始まりへ。




生後一か月の子猫を3匹拾ってしまったので、しばらく更新が停滞すると思います。

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