死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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緋色の幻影編
128:奪われた眼


「…………胃が痛い。……レオリオ、私一人が先にその『クルタ族』が目撃された町まで行っちゃダメかな?」

「それやったら俺がクラピカに八つ当たりされるからやめろ。

 っていうか、おめーは一体何をやらかしたんだよ? お前が胃痛がするほどクラピカと会いたがらねぇって、俺からしたら天変地異レベルの異変だぞ?」

 

 シャンハシティの空港内で、腹を押さえてしゃがみこみながら割と本気で悪い顔色のソラを、レオリオは心配と呆れ半々な表情で見下ろしながら尋ねる。

 レオリオの言っていることは、このソラという女を知る者からしたら大袈裟ではない。

 彼女にとってクラピカは、最愛という言葉でも足りない相手であることは彼女たちの関係を知らなくても、ソラがクラピカに向ける慈愛の視線だけでもわかるだろう。

 

 そんな彼女が明言こそはしてないが、「これからクラピカに会う」ということに喜ぶどころか胃痛がする程のストレスだかプレッシャーがかかっているのは、レオリオからしたら理解出来ない。

 3年ぶりの再会ですら、唐突だったのを抜いてもまるで所要で数分ほど離れていたような自然体で接することが出来たくせに、ひと月ほど前に会っている相手と悪あがきで会おうとしないのは、どう考えても照れ隠しなどによる緊張ではなく、そのひと月前に何かやらかしていると思ってレオリオは尋ねると、ソラはしゃがみこんだまま、更に痛みに耐えるように抱えた膝に額を押し付けて呻くように答えた。

 

「……今回の件に関しては、やらかしたのは私じゃなくてクラピカの方だもん。いや、私が一人勝手に動いたのも悪いんだけどさぁ……」

「……マジでお前ら何があったんだよ?」

 

 しかしソラから具体的に何があったのかは結局聞きだすことが出来ず、というか多分聞かない方が誰にとっても良さそうだとレオリオは感じ取って、ソラの胃痛の原因を探るのは諦める。

 代わりに、話を元に戻す。

 

 彼らが縁もゆかりもない片田舎と言っていいシャンハシティに訪れた理由、そしてその空港で多忙なはずのクラピカを呼び出して待っている理由である、とある情報に対してレオリオはソラに意見を求めた。

 

「……お前はさ、どう思う? クラピカ以外に『クルタ族の生き残り』が目撃されたって話」

 

 レオリオのミドルスクール時代の先輩であり、今も交流が続いている腐れ縁のアストルフォからもたらされた情報。

 なんでも始まりは、とあるハンターのホームコードに寄せられた情報らしい。

 

 ここ、シャンハシティで「クルタ族の生き残りを目撃した」という情報が、プロ・アマ関係なく一般にもホームコードを公開しているハンター達の元に匿名で送られてきた。

 どうやらその中のたぶんアマチュアが、「依頼なんだかよくわからない変な情報が届けられた」とSNS上で雑談程度の軽い気持ちで公開した結果、巡り巡って一般人のアストルフォまで知ってしまう程に拡散されてしまったようだ。

 

 ……気分が悪くなる話だが、アストルフォがその情報を得たのは希少動物に関してのコミュニティ系サイトの掲示板。

 その情報を得た人物も、希少動物保護活動をしているハンターらしい。

 この情報を流した人物が「クルタ族」の保護を望んでいたとしても、「クルタ族」は完全に人間ではなく珍しい「動物」として扱われている事実に、ソラの眼が一瞬だが蒼天を超えて天上にまで明度が引き上がったのは言うまでもない。

 

 ただ不幸中の幸いか、その情報は本当に「シャンハシティでクルタ族の生き残りを目撃」が全てで、かろうじてシャンハシティのどこの町かまではわかったが、いつどのような経緯で目撃されたのかという日付やさらに詳しい場所、そして証拠写真といったものが全くないため、完全な悪戯の類だと思われているようだ。

 だからこそ、プロハンターが動いている様子もなく、アマチュアも浅薄に情報を公開し、拡散されても何の対策も取っていないのだと思われる。

 

 だが、「クルタ族の生き残り」を知るソラとレオリオにとって、その情報を「ただの悪戯」と思える訳がない。

 なので困惑するアストルフォから情報を聞きだした後、何が何だかわからないジャンヌ達に「急用が出来た!」とだけ言って、「お礼に食事代をこちらでもちます」と言われていたことすら忘れて金を置いて出てゆき、クラピカに連絡を取った。

 この時のソラの泣き出しそうな顔は、レオリオには痛々しすぎて見ていられなかった。

 

 しかし、これは幸か不幸かよくわからないがソラの心配、クラピカがどこかの誰かに目撃されて、その情報を無差別に流されたわけではないことはすぐに確認が取れた。

 連絡を取ったクラピカは、ろくに事情も話さなかったソラの剣幕に困惑しつつも、はっきりと言い切っていたから。

 

『シャンハシティ? 悪いが、訪れた事どころか聞き覚えもない地名だな』

 

 そう、彼は言い切った。

 ここ最近で訪れたどころか、名前すら聞いた覚えのない地域だと言われてやっとソラが少しは落ち着いたが、だからと言ってやはりまだ誰もこの情報が「ただの悪戯」だとは思えない。

 

 ただの悪戯にしては、派手さがない。

 本当にただの悪戯ならば、プロアマ問わずのハンターのホームコードにタレこみではなく、電脳ネットのどこか適当な掲示板に直接書き込めば良かったはずなのにそれをしない、悪戯だと思って軽率に話題に上げたバカなハンターがいなければ、一般人にまで知られる程拡散されることがなかった情報だ。

 相手の反応が見られない悪戯など、意味がないはず。

 

 だからこそ、これは「ただの悪戯」ではないとソラも、そしてクラピカも判断した。

 

 ゆえに、クラピカは多忙な中また時間を無理やり作ってその噂の出元であるシャンハシティに向かうと言ったから、言わなくてもそこへ向かう事くらいわかりきっていたから、そしてそれを彼一人に任せて放っておける二人ではなかったから。

 

 だから、ジャンヌ達の事は悪いが後からメールで最低限の事情を語り、後始末はソラの知りあいに申し訳ないが全部任せて、クラピカより近場にいたソラとレオリオが先にこのシャンハシティに訪れて、そして待っている。

 

 待っている間に、レオリオは問う。

 アストルフォからの情報をクラピカにも話した時、電話越しでもはっきりと分かった「信じられない」という驚愕の裏に隠された期待。

 自分以外に生き残った同胞がいるかもしれないことを、彼はどうしようもなく、抑えきれずに期待していた。

 

 そんな彼の前では絶対に言えない、きっと彼自身もわかっているけどそれはもう、何度も何度も突き付けられて絶望してきたものだから、出来ればもう彼に二度と見せたくないものだからこそ、どうやったらそれを見せずに、クラピカを傷つけずにいられるかどうかを縋るように、レオリオは訊いた。

 

 膝に押し当てていた額を離し、ソラは顔を上げる。

 上げた顔はもう胃痛以上に心労で歪んだ顔ではなく、どこか遠くを見据える目をしていた。

 

「……クラピカの話だと、ニュースで発表された犠牲者の数は自分以外の同胞の数と一致してたらしいから、普通に考えたらまず有り得ない。

 ……でもクルタ族以外の人が入村して同胞になることも、少ないけどあるらしいから、クルタ族は同胞以外を例外なく毛嫌いしてる訳じゃない。

 だから、迷ってクルタの集落に辿り着いた人がいるんなら保護くらいはしてくれるだろうから、そういう人がいるタイミングで旅団に襲われたのなら、旅団がその保護された迷い人をクルタ族の一員だと勘違いして巻き添えになったかもね。……その巻き添えになった犠牲者分、生き残ったあの子の同胞がいるかもしれない」

 

 可能性の話だけで言えば、ない訳ではない。

 

 これはさすがにソラでさえも、残酷すぎて詳しくなど聞けないし、クラピカも一生話はしないだろうからよく知らないが、生き残ったクラピカ自身も同胞たちの死体を全てちゃんと確認した訳ではないことは確からしい。

 それは彼が帰って来た頃には遺体は既に弔われていたからか、クルタ族の生き残りという事実を知られては、悪ければ同胞たちと同じ扱い、良くてもそれこそ絶滅危惧種の動物のように保護という名の監禁される可能性を危惧して、誰にも「遺体の確認をしたい」と言い出せなかったからか、もしくは全てちゃんと確認するまでもなく、そんなことをしてもどれが誰の遺体か、自分の親や親友がどれなのかすらわからないほど壊されていたからなのかは、わからない。

 聞ける訳など、ない。

 

 だからこそ、彼もきっと同じ可能性に縋っている。

 理性では有り得ないと切り捨てるべき可能性だとわかっていながらも、それでも縋り付いてしまう程度には有り得る可能性。

 

「……だから、これがどっかの馬鹿の悪戯なら、私はそいつが例え年端のいかない子供でも許さないけど、それでもまだそれが一番マシだと思ってる。

 けど、そうじゃないのなら……、この情報はあの子が『有り得ない』と思いつつも縋ってしまうことを計算に入れての罠だとしたら……それこそ私は――――」

 

 しゃがみこんだまま、握り合わせた自分の両手を握りつぶさんばかりにソラは力を込める。

 両眼はアストルフォがどこからその情報を得たかを知った時と同じように、天上の美色にまで明度が跳ね上がる。

 

 その眼から抑えきれずにじみ出る「死」の気配に、周囲の旅行客などといった一般人も本能的に気付けたのか、周囲の人間が怯えたようにざわつき出した。

 

「気持ちはわかるがな、落ち着け。下手したら、あいつだけじゃなくてお前もブチキレさせて冷静さを奪うワナかもしれねーだろ?」

 

 本心では彼もそこらの一般人のように怯え、そして逃げ出したかったことがかすかに震えるその手でわかる。

 けれど、それでもレオリオはソラの隣から離れず、しゃがみこむ彼女の頭を宥めるようにその手で撫でて言った。

 

 その手の感触と言葉が、地獄以上に地獄めいた灼熱の蒼を冷ましていく。

 

「……そうだね。ごめん、レオリオ。そんで、ありがとう」

 

 頭を撫でるレオリオの手をどけて立ち上がり、立ってもまだ身長差があるので彼を見上げて笑うソラの眼が既に蒼玉の瞳に戻っているのを見て、彼も安堵したように薄く笑う。

 そんな彼に、ソラはすっきりしたように晴れ晴れしく笑って言葉を続けた。

 

「うん、大丈夫。頭は冷えたよ。だから、クラピカが無駄に傷つかないようにやっぱり私が先行して情報収集と出来るのならもう全部一人で解決してくるわ!!」

「全然冷えてねぇよ!! っていうか、マジでおめーはクラピカと何があった!?」

 

 * * *

 

 笑って勢いで駆け出して一人勝手に「クルタ族の生き残りが目撃された町」に行こうとしだしたソラの腕を掴んで、レオリオは突っ込んだ。

 いつもの調子に戻ったと思えば、本当にいつものエアブレイクをかましてくる。面倒極まりない女である。

 

 そんな風に思っていたら、今度はまたしゃがみこんで頭を抱えて「だってさ~、だってさぁぁ~~っっ!!」と彼女には珍しい泣き言を零す。

 レオリオからしたらいつも通りなのか、いつもと違うのかが本気でわからない訳のわからなさなので、早くクラピカが来ることをソラには悪いが願いつつ、困惑しながらその泣き言をただ聞いていた。

 

「だってさぁぁ、今回はたぶんクラピカの方もまだ私には会いたがらないと思うんだもん。いや、ずるずる先延ばしにしてた方が、一体いつになったら会う覚悟が決められるのかお互いにわかんなくなるから、今回は良いきっかけかもしれないけどさぁ、でもさぁ、でもさぁぁ~~!!

 あぁ、もういっそレオリオの1/10くらいでもクラピカがわかりやすく思春期なら、しょうがないよね、男の子だもんで割り切れたかもしれないのに、あの子は普段ストイックなのにどうしてあんな追撃かけてきたんだよぉぉ~~!! 私マジで、あの子にそういう欲求はないってナチュラルに思い込んでたわ! んな訳ねぇだろ! 思春期真っ盛りじゃねぇかあの子!! ない方がむしろ心配だわ!! クラピカごめん!!」

「おめーは何の話をしてるんだよ?」

 

 しかしいくら聞いても訳がわからない、訳がわからないなりになんかムカつく、たぶん爆発しろ案件なのだろうという事だけは察したレオリオが、真剣に聞く気を無くしてジト目で突っ込む。

 なのにソラは膝立ちになって下からレオリオにしがみついて、泣き上戸の酔っぱらいのように絡みだした。

 

「うわああぁぁぁんっっ! もう本当にどうしたらいいの!? 私、どんな顔下げてこれからクラピカと付き合えばいいの!? もうどっかでお面か覆面でも買っておくべきだった!

 レオリオ! 先に勝手に行くのは諦めるから、ちょっと覆面になりそうな紙袋でも買って来ていい!?」

「良い訳あるか!! 何だそのハンター証でも擁護できねぇ不審者っぷりは! 仮にお前らがそれで良くても、俺が全力でよくねぇよ!!」

 

 ソラとしてはかなり切実かつ真剣な提案なのだが、当然レオリオはブチキレて却下する。

 レオリオに突っ込まれたからか、それとも泣き言を喚いて吐き出して少しはすっきりしたのか、さすがに「そうだね、ごめん」とソラは素直に謝って自分から不審者の見本になることは諦めた。

 

 が、それでもまだ悪あがきのようにレオリオにしがみつきながらソラは呟いた。

 

「……『神よ、願わくば私に、変えることの出来ない物事を受け入れる理性を、変えることの出来る物事を変える勇気を、そしてそれら二つの違いを常に見極める叡智を授けたまえ』」

「はぁ?」

 

 何故かソラがいきなり祈りだしたことでレオリオは不思議そうな声を上げるが、ソラは顔を上げずにレオリオのシャツを掴んで、彼の腹に額を押し当てたまま話を勝手に続ける。

 

「私の世界では、『ニーバーの祈り』っていうキリスト教の聖句……って奴なのかな? 聖書に載ってる由緒正しいものではないけど、アルコール依存症克服のスローガンとして有名らしいよ。

 ……私にとっては、姉の言葉だけどね。姉の、座右の銘だったんだ」

 

 相変わらず話の始まりが唐突過ぎて、何が言いたいのか何の話が始まるのかもわからないが、レオリオは話の腰を折らずに黙って聞いた。

 何となく、彼女の「姉」の話には余計な茶々を入れたくないと、ほとんど知らないのに思ったから、彼は黙っている。

 そんなレオリオの配慮に感謝するように、額を更に彼の腹に押し当ててソラは続きを語る。

 

「……全然似てないのに、真逆に近い人だったのに、けど何故か私、ジャンヌさんと姉が似てるように感じてたんだ。その所為かな? なんかやたらと姉の事を思い出すんだよ。

 特に今の、もう変えれない過去を後悔して無様に逃げ回ろうとして、変えれるかもしれない何かに何もしようとしない、むしろ何が変えれるのか変えれないのかわかんない私を自覚したら、ふと思い出したんだ。

 ……もう姉の享年なんかとっくの昔に追い越してるってのに、私はいつまでたっても姉に敵わないんだな」

 

 話の腰を折る気はない。

 けれど、どうしても訊きたくなったからソラの頭をまた宥めるように手を置いて、撫でながら訊いた。

 

「……姉の事、好きだったのか?」

「……尊敬を好きと言って良いのなら、今でも好きだって言い切れるよ」

 

 答えは得た。けれど、それでも未だその答えでいいのか迷う程に向き合えなかった後悔が、一瞬だけ言葉を詰まらせる。

 尊敬はしていた。自分の家を、両親を軽蔑しきっていたが、魔術師という存在自体に絶望しなかったのは間違いなく、姉の存在のおかげだ。

 

 その後、ルヴィアや凛、士郎、教授といった他にも尊敬できる魔術師に出会ったが、それでもソラにとって最も尊敬する魔術師は神代の魔術師でも、現代の魔法使い級の者たちでもなく、自分の姉だ。

 

「はっきり言って、価値観が全然違う人だったからたぶん、生きていたからってわかりあえる人でも、同じ道を歩める人でもなかった。仲良し姉妹になんて、魔術師っていう家に生まれなくてもなれなかったんじゃないかな? ってくらい。

 ……でも私はあの人を、魔術師としての誇りを骨に、貴族としての誇りを血に、女としての誇りを肉にしたような姉を尊敬してる。……あの人の生き方に憧れたことはなかったけど、……それでもあの人は決して私が軽蔑する魔術師(くず)じゃなかった。魔術師そのものに憧れなんかなかったけど、でも魔術師として生きるのならあの人みたいになりたかった……」

 

 そこまで言って、ソラはレオリオに見えないよう俯いたまま自嘲の笑みを浮かべる。

 本当に、自分は何一つとして姉のようにはなれていないことを、笑えるくらいに思い知らされたから。

 

 座右の銘にしていたニーバーの祈りを実行できていた、祈らなくてもその全部を持ち合わせていたとしか思えない姉と違って、……変えれないものも意地になって変えようとして無駄に傷つき、変えれるものから愚かに逃げようとしている自分が情けなくて仕方がなかった。

 

 どうしてこんなに今日は妙に姉の事を思い出して鬱になるのかを不思議に思う余裕さえも、ソラにはなかった。

 疑問に思う前に、レオリオがやけに引き攣った声を上げたのでそちらに気を取られてしまう。

 

「……そうか。わかった。わかったからソラ、そのまま俺から今すぐ迅速に離れてくれ。マジで、頼む」

「? え? レオリオ、どうかした…………」

「ひと月ぶりと5カ月ぶりだな。

 そして知らなかったぞ、お前たちがそんなに仲が良かったなんて」

 

 ソラが小首を傾げながら顔を上げるが、全部を言い切る前には背後からやけに冷ややかな声が掛けられ、ソラは肩を跳ね上げる。

 相変わらず死への危険に関しては予知能力じみているくせに、それ以外の事になると妙に鈍い女は、レオリオの希望通りしがみついていた彼から手を離しつつ、未だ膝立ちの体勢のままぎこちない動きで振り向いた。

 

「…………く、……クラ……ピカ?」

 

 そこには、いつもなら大はしゃぎで抱き着きかねないソラでも抱き着けないほど、絶対零度の眼をしたクラピカが仁王立ちしてソラを見降ろしていた。

 

 ソラには悪いが、とりあえずクラピカからの怒気が自分からソラに移ったことにレオリオはホッとする。

 ある意味、自分にソラが抱き着いていることすら目に入らないほど、「生き残りのクルタ族」で頭の中がいっぱいでなかったことは良いことかもしれないが、そんな風に思う余裕などレオリオにはない。

 ソラに向けられる怒気はやけに冷ややかなものだが、それでも怒気の範疇に納まるだけマシ。レオリオに向けられていたものはもはや殺意レベルだったのだから、とにかく今のレオリオには自分が生き残ったことに対する安堵以外はない。

 

 言えることなら「勘違いで嫉妬全開になるくらいなら、とっとと告ってリア充爆発しやがれ!」と言いたいところなのだが、それを言った瞬間に冗談抜きで殺されかねないのでレオリオは出てきかけた言葉を飲み込んで、この修羅場をただひたすら遠い眼をして見守る。

 思いっきり周囲から、間男扱いで注目されている現実からの逃避とも言う。

 

「え? あ、くくクラピカ、よく休み取れたね! えっと、ネオンちゃんとかノストラード組は大丈夫なの?」

「問題ない。先月のお前のおかげでな。

 頭痛の種だった詐欺師はいなくなり、ネオン=ノストラードも精神に平穏を取り戻したから、仕事はずいぶん楽になったくらいだよ。彼女の能力も無自覚とはいえ“発”を作り出して使いこなしていただけあって、基礎的な修行も順調だ。センリツ達に任せていたら、暴走の危険性はまずないだろう。

 それに、事情を話せば彼女本人が快く送り出してくれた。ボスから何か言われたら、『クラピカさんの邪魔をしたらパパは禿る。というか、あたしが毟る!!』という、心強い予言までしてくれたくらいだ」

「予言というよりただの予告だよね、それ!?」

 

 ソラがまだ膝立ちの状態から、あわあわと若干パニクリながらもクラピカに何かを誤魔化すように話しかけるが、なんだかんだでソラに甘いはずなのにクラピカの機嫌は直らぬまま、冷たく言い返される。

 ソラはひとまずネオンの、先月判明した第2の能力である悪魔を使うのか、それともネオン本人が直々やらかすのか不明な未来予知に突っ込みつつ、クラピカの対応に泣きそうな顔になる。

 

 その顔にクラピカの良心が痛むが、謝る気にはどうしてもなれなかったので黙って彼女をそのまま睨み付けるのを続行。

 自分のしていることに、レオリオが呆れ果てて「そんなんだからお前は弟扱いなんだよ」と言いたげなのはわかっている。

 それでも、クラピカには気に入らなかった。

 

 別に変な誤解などしていない。

 レオリオにしがみついていた理由なんて尋ねるまでもなく想像ついている。むしろ、レオリオがその理由を察している方が嫌なくらいだ。

 

 そして彼にしがみついて縋り付いて絡んでいたことを、責める気にもなれない。

 逆の立場なら自分も同じように、無様に縋り付いて「どうしたらいいかわからない!! どんな顔を下げて会えばいいかわからないから覆面をそこらで買ってきたい!!」ぐらいトチ狂ったことを言い出すだろうと、クラピカは自覚していた。

 

 だから、本来ならムカッとはしてもここまで不機嫌を長引かせることなど無い。

 少なくともソラがこんなにも泣きそうな顔をしていたら、自分の子供でしかない嫉妬でそんな顔をさせたことの方が申し訳なくなって死にたくなり、怒る余裕も意地を張る余裕もなくなるはず。

 

 なのに、どうしても機嫌が戻らないのは先月の別れ際……というかソラの逃亡直前の捨て台詞の所為。

 

(……お前はあんなことを言っていたのに、なんでそう男に対してこんなにも無防備なんだ!!)

 

 そう怒鳴ってやりたいのを何とかこらえているだけ、クラピカはまだ冷静だったのに、ソラの泣きそうな顔、クラピカの不機嫌さに……自分に嫌われることを恐れて怯えているような顔が、余計に彼の中で先月からモヤモヤと溜まりこんでいる疑問を膨らませる。

 

 自分に嫌われるのをそんなに恐れているのは、自分が「弟」だからか?

 先月の事を、あの病院の時のように怒らないのはどうしてなんだ?

 先月の事をあんなにも恥ずかしがって怒っていたのに、どうしてレオリオに対してそんなにも無防備に抱き着けるんだ?

 

 いくつも問い詰めたい言葉が浮かんでは消えてゆく。

 

 そして、クラピカの胸の内から言葉として浮かび上がって弾けたのは、もっとも根本的な疑問。

 

「……あれは、どういう意味だったんだ?」

「え?」

 

 泣き出しそうな顔で、けれど泣く資格なんてない、泣いて同情を買うなんて真似はしたくないと言わんばかりに泣くのを堪えて、何故かクラピカの説教を覚悟したのかその場に正座しだしたソラの潔さに呆れつつ、クラピカが問う。

 

「お前が逃げ出す前に言った事だ。……あれは、どういう意図で言ったんだ?」

 

 窓から逃げ出す直前、真っ赤な顔で彼女はクラピカに向かって八つ当たりで叫んだ。

 

 

 

『君じゃなかったら、追撃された時点で殴ってたんだからな!!』

 

 

 

 どうして自分だったのなら、追撃されても反撃しなかったのか、引き離さなかったのか。

 それは自分が重体だったからの配慮でしかないのか、それとも身内認定だからこその甘さか。

 

 ……クラピカ個人だからなのか。

 

 それが知りたかった。

 それを知ってしまえば、もう戻れない。

 どんな答えでも何かを失うのはわかっている。それでも……、「名前を付けろ」と言われたから、名前のない愛情のままではいられないから。

 

 だから、クラピカは意気地なしな自分が答えに蓋をして逃げ出さぬよう、かすかに震える体を押さえつけるようにして、ソラを睨み付けながら尋ねる。

 そんな彼の怯えるような、縋りつくような、期待するような目をソラは真っ直ぐに見返して、答えた。

 

 

 

「……え? ……ご、ごめん……、私、何言ったっけ?」

 

 

 

「………………は?」

 

 申し訳なさと困惑でいっぱいいっぱいの眼で見られて言われ、思わずクラピカから怒気やら不安やらが吹っ飛んで、彼も困惑一色になる。

 そんな彼の様子に気付いていないのか、ソラはまた更に申し訳なさそうに眉をハの字にしてほぼ涙声で言い出した。

 

「え? え? あ、あの、クラピカごめん! あの時、パニくりすぎて君は悪くないのに完全に君に八つ当たりしてた!! っていうか本当にテンパりすぎて、何言ったか覚えてない! 君に八つ当たりしちゃったことしか覚えてない!!

 え? っていうかマジで私、何言っちゃったの!? ごめん! ごめんねクラピカ! 八つ当たりしてごめん!! 君は何も悪くないから、ただの理不尽な八つ当たりだから、だから出来れば何も気にせず忘れて……だだだだだっっっ!! 何でいきなりアイアンクロー!? マジで私何言った!?」

「うるさい! 黙れ!!」

 

 ソラとしては誠意100%で言っているのだが、クラピカの決死の覚悟と言っても良かった問いはまさかの不発で終わり、それに追い打ちをかけるように「忘れて」という言葉に今度こそ本気でムカついたらしく、クラピカは無駄にオーラを駆使してソラの頭を掴んで締め上げる。

 

「……お前ら、マジで先月に何があったんだよ?」

 

 関わらず他人のふりをしたかったが、さすがにこのままだとクラピカがソラの頭をカチ割りかねなかったのでレオリオが彼を宥めつつ尋ねると、クラピカが怒りと羞恥で赤くなった顔のまま「何もない!!」と言い張る。

 

「いいか! ソラ! あれは……先月のあれは……ね、寝ぼけてただけだ!! お前が私を責めないのなら、お前もそういう事にしてさっさと忘れろ! 二度と気にするな!!」

「!! あ、はい! そ、そうだね、寝ぼけてたんだよね! うんうん、私も寝ぼけたら歯磨き粉と洗顔フォーム間違えるってベタなことするし、パジャマの上から服着るし、シャワー前に着替え用意しようと思って冷蔵庫開けてジャムを脱衣所に用意しちゃったりするもん! うん、寝ぼけたんならよくあることだよね!!」

 

 ついでに勢いのまま、ソラに向かって先月のやらかしを言い訳し、クラピカのアイアンクローから解放されたソラも、顔を赤らめつつも彼の勢いに乗って無理やり自分を納得させた。

 ソラを納得させ、レオリオを更に困惑させつつも、無理やりクラピカは話を切り上げて二人に背を向け、「目撃された町はどこだ?」と言いつつ空港の外に出る。

 

 結局、答えの出なかった結果にホッとしている自分の覚悟の無さに自嘲しながら、クラピカは自分の唇を一度指先で撫でて。

「忘れろ」と言いつつ、一番自分が忘れられないくせに、忘れて欲しくないくせに、それでもまだこの半端な距離と関係でいることを、クラピカは選んだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「クラピカ、そろそろ諦めようぜ。雲行きも怪しくなってきたしよ」

 

 シャンハシティのとある地方都市にたどり着いて、もう既に数時間が経過する。

 町というより村といった方が正確なほど、良く言えば牧歌的、悪く言えば何もない田舎な為、もうめぼしい場所は探しつくしたし、町の住人達から情報提供も求めたが、「クルタ族の生き残り」を見つけるどころか町の住人達は「クルタ族」という民族を知っている者すらほとんどいない。

 

 そしてレオリオの言う通り、黒に近い灰色の分厚い雲が空をほぼ覆い隠している。

 雲行きが怪しくなくても、そろそろ日が暮れる頃合いだ。引き際としてはちょうどいいことくらい、クラピカはわかっている。

 

「やっぱガゼだったんだよ。

 大体『クルタ族を見た』って情報(ソース)自体が、ホームコードに吹き込まれた匿名のネタだった訳だしな。こんな出訴不明のネタを信じた俺達の方が間違ってたんだ」

 

 レオリオの言葉が正しいことくらい、わかっている。彼が優しさで言っていることだって、ちゃんとクラピカは理解している。

 それでも、クラピカは悔しげに唇を噛みしめ、レオリオに背を向けたまま答える。

 

「私はもう少し聞き込みを続ける。……お前たちは先に宿に戻っていてくれ」

 

 その答えに、その迷子の子供のような背中を見て、レオリオは「生き残りがいるかもって期待だけで頭がいっぱいって訳じゃないんだな」と思った安堵は間違いだと思い知る。

 レオリオの思う通り、クラピカは先月の自業自得なのかよくわからないやらかしさえなければ、空港でソラがレオリオにしがみついていても気付かなかったくらいに余裕などない。

 むしろ余裕などなかったからこそ、ソラと同じくらいに「ずるずる先延ばしにしていたら余計に気まずくなるとわかっていても、胃痛がするほど会いたくない」と思っていたソラと会う気になれたくらいだ。

 

 レオリオが本当に言いたいことくらい、全部全部わかっている。

 可能性はあるが、そんな可能性はない方がマシなくらいか細い、妄想に近いくらいのものであることも。

 その期待が失われるだけならまだしも、何らかの罠だった場合、自分の心の傷はさらに深くえぐられることだってわかっている。

 

 それを、傷つくクラピカをレオリオは自分のように案じて、いっそ自分が邪魔をした所為で見つけられなかったという拳の落としどころを作り上げてくれていることだって、クラピカはわかっている。

 

 そんな彼の、絶対に素直には認めない優しさに感謝しつつも、それでも手離せない。

 どれほどか細くとも、ない方がもう未練など捨てて振り返らずに歩いてゆけるものだとしても、それでもそれを捨てるという事はクラピカにとってもう一度、同胞を殺すということだから。

 

 だから――――

 

「やだよ。私たちだって君の家族か友達に会いたいもん」

 

 クラピカの拒絶を軽やかに否定して、クラピカの期待を肯定する。

 

 一人勝手に先走って同胞を探し求めるクラピカに追いついて、隣りに並び立ってソラが晴れ晴れしく笑って言った。

 彼の諦めた方がずっとずっと傷つかずにいられる可能性を、否定しない。

 

「気が済むまで探したらいいよ。きっと君がここに後悔を残したら、それこそ君はもうどこにも行けなくなるから。だから……、探そう。一緒に」

 

 彼女だって本気で生き残りがいるとは信じていない。クラピカよりも、レオリオよりも、彼らの為にもっとも残酷な可能性をいくつも考えて、それをどうしたら自分たちに知られないまま解決できるだろうと考えていることくらい知っている。

 なのに、ソラはクラピカの行動を否定しない。

 

 否定しないまま、彼がどんな現実に目の当たりしても立ち上がれるように、また先に進めるように、傍から離れない。

 クラピカの今の行動は、根拠などないただの噂に縋り付いているだけなのは確かだが、けれどこのままもう探すことをやめてしまえば、何も答えを出せないまま終わらせてしまえば、この「シャンハシティでクルタ族の生き残りが目撃された」という情報は量子論の猫の箱のように、決して失われることのない可能性になるが、同時にそれはもはや希望ではない。

 

 希望(ゆめ)は「絶対に叶えてみせる」という意志を持って、未来に見るからこそ希望(ゆめ)なのだ。

 叶わない事を前提にした可能性(ゆめ)など、ただの自分がそこで足を止めてしまう言い訳、妄執になり下がる。

 

 だからこそ、答えを見つけるまで、クラピカが満足するまで付き合うと宣言する。

 たとえどんな答えだったとしても、……彼が望んだ「クルタ族の生き残り」はもういないと、改めて絶望を突き付けられても、自分はここにいると証明するために。

 

 クラピカの希望を失わせない為に、ただその為だけにソラは傍らで何でもないことのように、当たり前のように笑っていたから。

 ただそこにいられるだけで幸福だというように、笑っているから。

 

 その笑顔が、クラピカに思い出させる。

 同胞はやはり、誰も生き残ってなどいなかったと再び思い知らされても、それは絶望なんかではない。

 自分は決して、独りではない事を思い出したから。

 

 クラピカの眉間に深く刻まれていた皺がほどけ、彼はまだ少しぎこちないがそれでも確かに笑って答えた。

 

「……ありがとう。……けど、そうだな。雨が降ってこられた方が厄介だから、今日の所はもう終わらせよう」

 

 なくしかけていた余裕と諦めてはいないが少しは冷静さを取り戻したクラピカがそう言うのを見て、レオリオは安堵半分、本当にお前ら爆発しろという僻み半分で眺めていた。

 眺めながら、気が付いた。

 

「……? 何か聞こえねぇか?」

 

 初めは風が建物などを吹き抜けた際の音だと思ったが、よくよく耳を凝らして聞いてみると、それは確かな旋律を奏でていた。

 

「ホントだ。弦楽器かな?」

 

 言われてソラも気付き、両手を耳に当ててその音源がどこからかを探る。

 そしてクラピカは、先ほどまでの穏やかさを忘れて、目を見開いた。

 

 ソラの言う通り、それは弦楽器。

 ギターとよく似ているが、比べると全体的に少し低い音色。

 あまりに懐かしく、忘れていなかったこと、この耳がまだその音色を覚えていたことに涙が溢れそうなほど、それはクラピカにとっては聞き馴染んだ、かつて当たり前だったはずのもの。

 

 それだけなら、音色だけならただの偶然、同じ様な楽器がこの地特有の楽器なのかもしれない。ただそれだけの、懐かしくも残酷な偶然で終わる話だけだろう。

 けれど、風に運ばれてクラピカの耳に届くその旋律は、それは間違いなく――

 

「間違いない……この曲は……!」

「!? クラピカ!?」

「おい、クラピカ!? どこ行くんだ!」

 

 気が付くと、駆けだしていた。

 クラピカにはソラの声さえも、今は耳に入らない。

 クラピカの耳朶に響いているのは、懐かしい故郷の民族音楽だけ。

 

(――弾いているのが同胞だとすれば、私が近くにいることに気付いたのか……!?)

 

「クラピカ! 待ってよ!!」

「何なんだよ、クラピカ! 説明くらいしろって、おい!」

 

 自分を追う二人の声など聞こえない。けれど、二人の存在を忘れている訳でもない。

 ただ、クラピカの中で敷いていた予防線が全て千切れて消えてゆく。

 

 ただの噂、性質の悪い悪戯、誰かを、自分を狙った罠……。

 そういった期待しすぎない為の張っていた予防線が頭の中から吹き飛んで、ただクラピカは泣き出しそうになりながらその音色が響く地へと駆けてゆく。

 

 誰でもいい。自分とほとんど縁のなかった者でもいい。クルタ族なら、同胞に会えるのならば誰でも良かった。

 

 自分に希望を、幸福を、生きてゆく術を教えてくれた人に「私の同胞だ」と紹介できるのであれば、誰だって良かった。

 

 クラピカにとって同胞に会いたい一番の理由は、ただそれだけだった。

 

「あれは……!?」

 

 そして彼は狭い路地を通り抜けた先にある広場まで、たどり着く。

 公園と言えるほど遊具の類はない。ただ広場の真ん中に台座があり、その台座に腰掛けている少年の前にクラピカは立つ。

 

 少年が奏でている木製弦楽器は、クラピカの記憶通りクルタの民族楽器であるキタラだった。

 自分の着ている物と似た文様の刺繍が施された衣服を身に纏い、両眼を固く閉ざしている黒髪の少年を前にして、クラピカはもう一度目を見開いた。

 その見開いた瞳から一筋、涙が零れる。

 

(――クルタ族の生き残りとは、お前のことだったのか……!)

 

 誰でも良かった。

 けど、もしも願いが叶うのならば、両親以外ならば……下手すれば両親よりも優先するかもしれないぐらいに、彼が良かった。

 

 それぐらいに、会いたくて、会わせたくて仕方がなかった人がそこにいた。

 

「――――パイロ……!? お前、パイロなんだろ……!?」

 

 クラピカの親友が、そこにいた。

 昔と変わらぬ姿で、大人しく座っている。

 

 ……昔と、…………()()()から変わらぬ姿で、彼はクラピカの記憶通り穏やかに微笑んだ。

 

 * * *

 

(――もう二度と会えないと思っていたのに……!)

 

「クルタ族の生き残り」と聞いて、両親と一緒に期待してしまったが、クラピカの中の冷徹な自分が泣き叫びたい気持ちを抑えて、「それはきっとない」とまず初めに除外してしまった可能性。

 

 自分を庇って足と視力に大きなハンデを負ってしまった、誰よりも何よりも優しく、そして強い心を持っていた親友。

 だけど、どれほど心が強くても、あの旅団相手にそのハンデで逃げ切ることなど、例え同胞全員に庇われて犠牲にしても難しいことくらいわかっていたから、だからクラピカはもう誰も責めてはくれない自分の罪悪感に苛まれながら、諦めた。

 有り得ないと思って、期待しないでいようとしていた可能性。

 

 なのに、なのに、今目の前にいるのは、間違いなく、間違えようがなく彼は――

 

「その声は……クラピカ?」

「……パイロ! お前! 生きていたのか!?!」

 

 記憶通りの声で呼びかけられて、クラピカは両目を閉ざしたままキタラを置き、台座から降りてきた少年に、親友に、パイロに向かって駆け出す。

 が、その足は3歩も進まなかった。

 強く、クラピカの腕は掴まれて、その場に彼は縫いとめられる。

 

 自分が先に進めないこと、親友との再会を邪魔することに怒りよりもただひたすら困惑しながら、クラピカは振り向いた。

 振り向いて、呆気に取られたような顔で、自分の腕を掴んで離さない人の名を呼ぶ。

 

「……ソラ? 一体、何を……」

「クラピカ。君の親友って、年下?」

 

 クラピカの言葉に被せるように、ソラは訊いた。

 訊きつつ、ソラの眼はクラピカの方に向いていない。

 眼の前のクラピカを通り過ぎ、その先にいる少年にだけ双眼を真っ直ぐ向けていた。

 

 どこまでも深く鮮やかな、スカイブルーの眼をパイロに向けていた。

 

 その眼が、ソラの唐突な問いかけと結びつける。

 いや、むしろ何故自分が真っ先に気付かなかったのかを、疑問に思った。

 

 クルタ族が旅団によって虐殺されたのは、5年前。

 当時のクラピカは12歳。そして……パイロはクラピカと同い年だ。

 

 12歳なら、早ければもう体の成長は打ち止めになる者がいてもおかしくはない。

 パイロの体格は、ゴンやキルアと同じくらい。

 かなり小柄ではあるが、有り得ないとは言い切れない程度の体格だ。

 

 でもその「有り得ない」は、「クラピカが把握している同胞の数が犠牲者の数と一致しているのに、生き残りがいる」という事と、同じくらいの可能性。

 可能性で言えば「有り得ない」とは言い切れないだけであり、現実的に考えるなら「有り得ない」と切り捨てていいぐらい、それは、今ここにいるパイロは――

 

「……おい、どういう事だ?」

 

 いきなり走り出したクラピカを追いかけて、上がっていた息をようやく整えたレオリオが、現状を理解出来ずに問うが、クラピカの耳には届かない。

 ただ、ソラに腕を掴まれたまま、それ以上彼に、目の前の少年に近づかないまま、血の気の失せた顔で唇を戦慄かせて、縋るように尋ねる。

 

「……お前は……パイロ……なのか?

 だとしたら……なぜ、5年前と同じ姿のまま……?」

 

 有り得ないと、切り捨てるべきだとはわかっている。それでも、捨てられない。

 あの虐殺によるショックやストレス、ハンデを負っている体で今まで生き残ったことよる弊害、もしくはいっそ念能力に目覚めた結果の効果、何でもいいから納得できる理由が欲しかった。

 

 彼が成長していない理由が、彼が、本物の自分の親友である証拠が、パイロである証拠が欲しかった。

 

 そんなクラピカの願いに応じるように、黒髪の少年はやはり固く両眼を閉ざしたまま言った。

 

「ねぇ、クラピカ。……『楽しかった?』」

「!?」

 

 それは、あの日の約束。

 もう果たせないと絶望した、それでも手離せなかった、4年前のあの日、生きたまま閉じ込めて腐らせるしかなかったはずなのに、殻を割って思い出してた、再び夢見た約束。

 

 

 

『クラピカが戻って来たら、僕が一つだけ質問する。

「楽しかった?」――って僕が訊くから、心の底から「うん」って答えられるような、そんな旅をしてきてね!!』

 

 

 

 クラピカが自分の為に、本当の夢を押し殺して忘れてしまわない為に交わしてくれた約束を、目の前の少年は……パイロは果たす。

 けれど、クラピカは約束を果たせない。

 

 だってまだ、クラピカはまだ旅立つことすら出来ていない。

 全部全部、それはあの日、5年前に、12本足の大蜘蛛に奪われたから。

 

 手離せないけど、でもまだその約束を果たす足はないから。まだ奪われたままだから。

 

 だから何も言えなくなって、泣き出しそうなクラピカに少年は、悲しげに眉を下げつつも、それでもクラピカが約束を果たせなかったことを許すように笑う。

 穏やかに、クラピカの記憶通りの親友のまま、彼は近づいてくる。

 

「いいんだ。クラピカ。わかってるよ。

 約束を果たせなかったのは仕方ない。それよりも君がまだ、その約束を覚えていてくれただけでも……手離さずにいてくれるだけでもうれしいよ。

 だから……もっと傍に来てよ……。クラピカの顔をよく()()()

 

 近づきながら、パイロはクラピカに向かって手を伸ばす。

 

 それを空色の瞳で睨み付けながらソラは、コートのポケットからボールペンを取り出す。

 レオリオも後ろから、「そいつから離れた方がいい。何か悪い予感がするぜ……」と忠告する。

 

 それでも、クラピカは動けない。

 ソラの手を振り払ってパイロに駆け寄ることも、目の前の少年を突き放してソラたちと一緒に逃げ出すことも出来ない。

 

 選べなかった。

 選べないまま、悪あがきのようにクラピカは口にする。

 

「見せて――? だって、お前の眼は……」

 

 パイロの視力は、5年前の当時時点でほぼ失われていた。

 全盲でこそなかったが、おそらくは直死の使い過ぎで副作用を起こしている時のソラと同じくらいにしか視力はなかった。

 どんなに近づいても視界は曇りガラス越しで、目なんて顔全体に溶けるように滲んで、眼球と瞼の境界すらわからないはず。

 

 なのに、彼は穏やかに笑いながら言った。

 

「今、その眼を見せてあげるね」

『!?』

 

 パイロがそう言って、クラピカの腕を掴んで自分の元へ引き寄せようとするより一瞬先に、ソラがクラピカの腕を引き寄せ、逆に自分が飛び出てきた。

 クラピカを自分の後ろに放り投げるようにして、彼の腕から離れた左手がパイロの小さな肩を掴み、ボールペンを握った右手を振り上げる。

 

「!?」

 

 後ろに投げ出されたクラピカは、レオリオが慌てて駆け寄って抱き留めたおかげで、かろうじて倒れ込まずにすんだ。

 だが、彼は体勢を立て直すよりも先に手、を伸ばす。

 

 その手が掴みたかったのはソラなのか、パイロなのか。

 自分は守りたかったのはどちらだったのかは、わからない。

 

 それでも、彼は手を伸ばした。

 届かなくても、それでも、ただ答えが出なくても心のあるがままに……

 

 

 

「――あぁ、やっぱりあなたはそうするんだね」

 

 

 

 唐突に飛び出してきて肩を掴むソラを前にして、パイロは呟いた。

 悲しげに、けれどどこか嬉しそうに彼は笑っていた。

 

 ……ソラの手が、ボールペンを握った手が、死神の鎌が振り落とされなかった理由が、それに由来するのかどうかはわからない。

 ただ、ソラなら一瞬で終わらせたはずの事なのに、彼女はしなかった。

 

 振り下ろさなかった。

 

 振り下ろさず、ただ「クラピカの親友」と彼女は向き合って、見た。

 

 堅く閉ざされていた彼の双眸の奥。

 空っぽ。

 うつろ。

 伽藍洞の、両眼。

 

 抉り出されたというより、初めから喪失していたかのような空っぽが、ソラを「見る」。

 

 稲光が走り、雷鳴が轟いて、激しい雨が降り始める。

 その雨の中、雷鳴に掻き消されず聞こえた声。

 

「僕の眼は闇しか映さない。だから、あなたの眼をもらえって」

 

 悲しげな親友の声を、クラピカは確かに聞いた。

 そして……それに応じる声も。

 

 

 

「――――いいよ」

 

 

 

 クラピカが救われた5年前と同じように、あまりにも軽やかに、簡単に、ソラは応じた。

 クラピカの「助けて」と同じように。

 

 だけど……、続いた言葉は違った。

 

 

 

「耐えられるのなら、な!!」

 

 

 

 

 背中しか見えないのに、彼女が凄絶に笑っているのはわかった。

「それ」を失ったらどうなるか、わかっているはずなのに、そこから溢れ出すものから逃げ出すために、その為にあまりに多くのものを失い、壊れ果てて傷つき続けているくせに、それでも彼女は手離す。

 

 軽々しく求めた「誰か」に向けての、宣戦布告のように。

 

 そして、その言葉に、返答に一瞬だけ呆けたパイロは……笑った。

 

 今度は悲しげではなく、本心から喜ぶようにして笑い、彼は両手をソラの顔に沿えて、空っぽの眼窩をソラに向けて、言った。

 

 

 

「“魂呼ばい(タマヨバイ)”」

 

 

 

 手を伸ばす。

 レオリオに支えられたまま、クラピカは手を伸ばして掴み取ろうとする。

 

 今度は、答えは得た。

 その手が掴みたかったのは、自分が守りたいのは、決まっていた。

 

 

 

「ソラっっっ!!」

 

 

 

 

 なのに、手は届かない。

 

 ただ、見るだけだった。

 見ていることしか、出来なかった。

 

 パイロの空っぽの両目から、漆黒の濡れたように輝く細い糸のような、触手のようなものがソラの両目に伸びるのを。

 その触手が、ソラの眼を、蒼天にして虚空、(そら)にして(から)の眼を……「直死の魔眼」に絡みつき、抉り出し、自らの眼窩に納めるという悪夢のような光景に…………届かぬ手を伸ばし続けた。

 

 * * *

 

「!!?? あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!!」

 

 絶叫が響く。

 

 両眼を押さえて、後ろに飛びのき、そのままバランスを崩して背中から倒れるが、それでも耐えきれないと言わんばかりにその場に転がり、絶叫し続ける。

 

 それは、両眼を奪われたソラ()()()()

 

 両眼を奪ったパイロの方が、何かに逃れるように、何かに追われるように、苦痛ではなく恐怖そのものが音になったような絶叫を上げて、石畳の上でもがき続ける。

 

 ソラの方は両眼こそはパイロと同じように抑えて倒れ込むが、声を上げない。

 何も言わないまま、ただ地べたに倒れ横たわったまま、両眼を両手で押さえ続ける。

 

 まるで、「そこ」から何かが溢れ出るのを防ぐように。

「そこ」から溢れ出るものこそを恐れているように、ソラは横たわったまま小さく呻き、ただひたすらに両目を押さえ続ける。

 

「ソラっっ!!」

「おい! 大丈夫か!?」

 

 クラピカが自分を支えてくれたレオリオを突き飛ばすようにして駆け寄り、レオリオもそんな扱いを気にしている余裕もなく、ソラに声を掛ける。

 

「……大……丈夫」

「わっかりやすい嘘だな!」

 

 横たわったまま、両眼を押さえたまま、それでもソラは酷くかすれた声でレオリオの言葉に応じるが、レオリオは即座に彼女の言葉を叩き落とす。

 どう見ても、大丈夫じゃない。主に体よりも、精神面が危ういことくらいレオリオでもわかっている。

 

 レオリオでもわかるのなら、クラピカはそれ以上に、下手すれば「大丈夫」と言い張る本人よりもはるかにわかっている。

 だから彼は、泣きながら、やっと届いた手でソラを抱きしめ、彼女の頭を自分の左胸に押し当てて言った。

 

「……あぁ。大丈夫だ。ソラ、大丈夫なんだ。

 たとえ世界に『死』が満ち溢れていても、今、生きているという事が奇跡に等しいほどに世界が脆いものだとしても……、君も、私も生きているのは確かなんだ。

 だから――大丈夫だ。大丈夫なんだ!!」

 

 生きている証を、心臓の鼓動を聞かせて、ソラの「大丈夫」に確かな根拠を与える。

 

 その言葉か、クラピカの生きている、生きていたいと叫ぶ鼓動か、どちらが力となったのか、それとも両方なのかわからないが、クラピカが抱きしめるソラの体から、何かに怯えるような強張りが徐々に解れてゆくのを感じ取り、彼は安堵なのか、それとも自分にも「大丈夫」だと言い聞かせる為なのかわからぬまま、壊れ物のように恐る恐る抱きしめていた腕の力を込める。

 

 二度と離さないと宣言するように抱きしめながら、業火のごとく真紅に染まったクラピカの目が、前を向く。

 

「お前は――、お前はっっっ!!」

 

 何を言いたかったのかは、クラピカ自身もわからない。

 ただ、クラピカは「選ばなかった」相手に対して、怨嗟を込めた視線を向ける。

 

 その視線に応じるように、ゆっくりと身を起こして彼は立ち上がる。

 

「……なんて、酷い『世界』……」

 

 のたうち回りながら嘔吐でもしたのか、口元を拭いながら彼は立ち上がって呟いた。

 そして、唐突に、狂ったような哄笑を上げる。

 雨が降り注ぐ空を見上げながら、笑う。笑う。笑い続ける。

 

 笑っていないと耐えられないと言わんばかりに、彼は笑い続けた。

 笑いながらも、その眼から流れ出たものは涙か、そう見えただけの雨粒なのかはわからない。

 

 ただ、彼は……パイロは笑いながらその()をクラピカに向ける。

 

 

 

 

 

「あはは……ようやく手に入れた。

 ……ソラの……()()()()()()を手に入れた……。ずっと欲しがってたんだよ、()()()……」

 

 

 

 

 

 蒼天にして虚空。

 (そら)にして(から)

 

 スカイブルーの魔眼が、クラピカ達を虚ろに映していた。


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