死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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130:スワンプマンの思考実験

「やっと着いた~!」

 

 シャンハシティに到着し、呑気に空港を歩くゴンにキルアは「観光に来たわけじゃねーぞ」と釘を刺す。

 ゴンはちょっとキルアの言い草にムッとして、「わかってるよ!!」と唇を尖らせてから、小首を傾げた。

 

「けど、本当に何があったんだろうね?」

「知らねーよ。あのアホは『暇なら手伝って』としか言わなかったし、クラピカは『大丈夫だから来なくていい』っていつもの水臭さを発揮するし……、一番状況説明できてたのがレオリオの『クラピカがやべぇ! ソラは……いつも通りヤバい』だぜ?」

 

 キルアの答えに、改めてゴンは苦笑する。

 キルアがハンター試験合格をソラに報告した際に、またしてもソラ達が厄介ごとに巻き込まれたのを知ったが、キルアの言う通り二人はまだ事情をよく知らなかった。

 

 しかし、それはソラ達がろくに話さなかっただけではない。少なくとも、ソラやクラピカは自分たちの巻き添えでキルアやゴンが危険な目に遭うのを嫌って助力を基本的に求めないが、レオリオは違う。

 自分の所為で誰かが傷つくのを嫌うのは同じだが、助かる手段があったのに友人を病気で亡くした過去がある為か、使える手段は何でも使って目的を達成しようとする。

 

 なので、レオリオに直接連絡を取れば詳しい情報くらいわかったはずだが、キルアもゴンもそれをしなかった。

 

 それは、「自分の巻き添えで危ない目に遭うのを嫌って、助力を求めない」はずのソラが、「暇なら」と非常に軽くだが、珍しく助力を求めたから。

 

 その理由が、キルアやゴンに危険がないとわかっている事を頼みたいからなら、キルアは少々不服だがまだいい。

「危ない目に遭わせたくない」という大人の意地を張っている余裕がないより、ずっといい。

 

 話を聞けばどっちだったのかすぐにわかる。

 でも、詳しく話を聞いて後者だった場合、キルアもゴンもいてもたってもいられず余裕を完全になくしてしまいそうだから、だからこそ答えを得ているからこその早く辿りつきたいのにつかないという焦燥より、一体何があったのかという不安を懐いてる方がマシだと思い、聞かなかった。

 

 ……ソラがやけに軽く「暇なら」と言った理由こそ、飛行船の中で焦燥させるより「あのバカ何をやらかしやがった?」程度に思って欲しいという気遣いであることなど、二人は知っている。

 それ故余計に不安になるけれど、二人にはその気遣いに、「大したことない」という可能性に縋るしかなかった。

 

 だからゴンは、また胸の奥から湧き上がってきた不安を払うように頭を振ってから、何気なく話を変える。

 

「そういえば、急いで現実世界(こっち)に戻ってきちゃったから、ビスケにほとんど事情を話せてなかったよね。今思うと、ビスケに話してついて来てもらった方が良かったかも」

 

 ゴンの言葉に、キルアも「あぁ、そうかもな」と同意してから、今度は彼が小首を傾げて「っていうかあのババア、よくお前を連れて現実世界にトンボ返りする俺に何も言わず、そのまま見送ったよな?」と言い出すが、ゴンはキルアからそっと目を逸らして曖昧に笑い、何も答えなかった。

 

 ゴンの珍しい反応にキルアの傾げる首の角度がさらに深くなるが、それでもゴンは答えない。

 

 ビスケがゴンを連れ出そうとしたキルアに何事かと問い詰めることもなければ、「落ち着きなさい!!」と言ってアッパーカットで吹っ飛ばさなかった理由は、同じく何も説明されないまま現実世界に連れ出されたゴンと同じ。

 あまりにも切羽詰まった、痛々しい顔をしていたから、一刻でも一秒でも時間が惜しい、止まってしまうことは呼吸や鼓動を止めることと同意と言わんばかりだったキルアに押されて、「詳しく話しなさい」と言うことすら出来なかったからであることは、キルアに自覚がないのなら話さない方がいいと判断したゴンは、親友のことをよくわかっている。

 指摘してしまえば、彼は確実に羞恥でしばらく使い物にならなくなっただろう。

 

 なのでゴンはまたしても話を変える。

 

「まぁ、いないものを今さら言ってもしょうがないよね。それより、レオリオが言ってた病院を探そう」

 

 明らかに何かを誤魔化しているゴンをキルアはジト目で睨みつつも、無駄口を叩く時間も惜しかったので、彼は言及せずに携帯電話(ビートル)のマップ機能を使おうとしたところで、声を掛けられた。

 

「お~い! ゴン! キルア~!」

 

 見慣れた長身の黒スーツにサングラス、いつも通りのレオリオが「よっ!」といつもの調子で声を掛ける。

 その様子を見て、キルアとゴンの中の不安が少しはマシになる。

 良くも悪くも仲間に対して嘘をつけるタイプではない彼が、明らかに重い空気でもなければ空元気という様子でもない事は、少なくとも最悪の事態という訳ではないのだと確信できたから。

 

 だからようやく、二人はレオリオが迎えによこしたタクシーに乗って、詳しい話を道中で詳しい話を聞くことにした。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「医者もレオリオも私も安静にしてろって言ってんでしょーが!!

 一か月前も死にかけた重傷人が、散歩どころかお礼参りに行こうとすんなー!!」

「そういうお前こそ、大人しくしてろ大馬鹿者!! まずはどけ! 今すぐそこからどけ!! 話は全てそこからだ!!」

「お前ら本当に隙あらばイチャつくな!! 爆発しやがれ!!」

「あいたっ!」

 

 病室に入る前から騒いでいるのはわかっていたが、病室に入ってすぐに見た光景にキルアがキレて、持っていた荷物を割と遠慮なしの剛速球でソラの頭に投げつけた。

 

 町の病院だが、町そのものが大した発展をしていない田舎なので、病院は平屋建てで大きくないし、設備もそろっていない。

 壁に小さなヒビは至る所に走っており、よく見れば虫も平気で出入りしている。お世辞にも良い病院とは言えないが、だからこそ入院患者はクラピカのみで、大部屋だが完全に貸し切り状態なのがある意味全員にとって幸いだった。

 

 いや、むしろ他に無関係の入院患者がいたら、ソラもさすがにこんなことはしなかっただろう。

 完治もしてないのに無理して抜け出そうとでもしていたクラピカに、ベッドの上で馬乗りになって止めるということなど。

 自覚したらイルミに対してと同じくらいパニくる体勢だったことにやらかしている本人が気付いてないまま、キルアから鞄をぶつけられた勢いでベッドから落ちる。

 

「き、キルア……。た、助かった……」

「別にお前を助けた訳じゃねーよ!

 っていうか、ソラ! お前は本当に心配しかかけねーくせに、その心配をことごとく全部無駄にする天才だな!

 返せ! 俺の心配をマジで利子つけて今すぐに全部返せ!!」

 

 ソラに馬乗りにされていたクラピカは、抵抗の際に乱れた病衣を直しながら本心から礼を言うが、キルアの怒りは鞄をぶつけた程度では収まらず、そのままブチキレを続行。何気に、素直じゃない彼が全力でソラの事を心配していたことを暴露していることに、おそらくキルアは気付いていない。

 そんなキルアをゴンは苦笑、レオリオは呆れたように見るが止めない。

 

 キルアはレオリオから「ソラの眼が奪われた」と聞いた時、顔から血の気が一気に引いていた。

 そしていくらレオリオが「意外と平気そうだ」と言っても顔色が戻らず黙り込んでしまっていたのだから、赤い顔でこれくらい怒るキルアはむしろ見ていて安心するのだろう。

 

「いたた……。ごめんごめんキルア、心配かけて。うん、わかった。ほんと悪かったからちゃんと利子つけて返すよ」

「は?」

 

 ベッドから落ちたソラが、ぶつけられた鞄を持って立ち上がって言うと、キレていたキルアが怪訝な顔をする。

 彼がそんな顔をしている事に気付いているいないなど、ソラには関係ない。

 この女は気付いていたって、ヨークシンの時のように両眼に分厚い包帯を巻いていなくても、目を、視力を奪われていなくたってやることくらい、この場の全員がソラのやらかしを予測できなくてもわかっていた。

 

 キルアに投げつけられた鞄を渡してすぐ、彼を引き寄せて抱きしめたのは、ソラ自身が言うように「利子」なのだろう。

 

 ソラの腕の中でもう一度「は?」と声を上げたキルアに、ソラは彼の銀髪を撫でながら言った。

 

「キルア、改めてハンター試験合格おめでとう。それと、ごめんね。せっかく合格したのに、お祝いじゃなくてこんな厄介事に巻き込んで」

 

 その言葉に、3日前の電話を思い出す。

 

 電話に出てすぐ前置きなしにそう言ってくれたことは、驚かせたかったという思惑が外れて悔しいと思う前に、嬉しく思ってしまった。

 自分が試験前や試験中に電話を掛けてくることなどない、掛けてくるとしたらそれは合格報告の時だけだと理解してくれていたのも、素直には表せないがやはり胸の中にあたたかなものが満ちるのを感じた。

 

 そして、それだけ理解していてもキルア自身も予想外だった、「友達ができた」事に関してはさすがにわからないだろうと思ったから、今度こそ驚かせてやりたかった。

 

 あまりにも他愛なくて無為、だからこそ珠玉の時間だった。

 だからこそ、怒りが再び再熱する。

 

 言えなかった。友達が出来たという事は話せなかった。その前にレオリオが、「手を貸してくれ」と電話で話に割り込んできたから。

 あんな話をしているような余裕などないという現実を知ったのに。

 今もその現実の最中だというのに……

 

 ()()()()()なのに、あの時の幸福を与えようとするソラに苛立った。

 ソラを()()()()()にした奴が許せなかった。

 

 ……引けない理由が出来た。

 

「~~~~あ、謝るぐらいならせめて自分から厄介事に首突っ込むのはやめろ!!」

 

 そう言ってキルアはソラを自分から引き離すが、いつものソラのスキンシップに照れ隠しで拒絶するよりも、今日のキルアは大人しかった。

 そのことにゴンが違和感を覚え、そしてレオリオがそういえばクラピカがソラとキルアのやり取りに何の反応もしてないことに気付いて、ベッドの上の彼に目を向ける。

 

 彼もいつもならキルアと同じくらい素直ではないが、大人げなくソラがキルアにばかり構っていたらわかりやすくむくれるくせに、今日のクラピカはベッドの上でただソラを見ていた。

 嫉妬で睨み付けているのではなく、けれど普段より赤みの強い目で、何かに耐えるように手を固く握りしめて、痛ましげに彼女を見ていた。

 

 ゴンやレオリオがそれぞれ気付いた相手の違和感を指摘して、尋ねる暇はなかった。

 

「ゴン、キルア。来てくれたのはありがたいし、レオリオもわざわざ連れてきて申し訳ないが、やはり私はお前達を巻き込むのは……」

 

 クラピカがベッドの上でここに来てもまだ水臭いことを言い出すので、全員がまずその遠慮こそが迷惑だと説得しにかかる。

 

「お前は何でもかんでも一人で背負い込みすぎだっつーの。あいつ……あの『パイロ』って奴を探すんなら味方は多いに越したことねぇじゃねえか。それに――」

「俺達、クラピカの仲間じゃん」

「そうそう、怪我人は大人しく寝てろよ。俺らで何とかするからさ」

「っていうか、君が止めても私を筆頭にどいつもこいつも勝手に動くだけだと思うけど、それでもいいの?」

「……ソラ。それはもはや脅迫にしか思えないのだが?」

 

 全員から「引く気はない」と言い切られて、クラピカは不服そうにソラの言い分には突っ込んだが、ひとまずは黙った。

 それをいいことに、ソラを引き離したキルアが空いているベッドに腰掛けて、クラピカに「で? 『黒幕』に心当たりはあんのかよ?」と、レオリオから聞いた話のさらに詳しい情報を得ようと尋ねた時には、ゴンとレオリオは完全に自分たちが覚えた違和感を忘れ去ってしまった。

 

「……悪いが、見当もつかない。私やソラの眼に執着していたことから考えて、人体蒐集家の可能性が高いが、それでも……パイロのことまで調べられる輩がいるとは思えない」

 

 クラピカはキルアの問いに悔しげに首を横に振る。

 キルアの方もさほど期待していなかったらしく、特に落胆した様子もなくそのまま話を進めた。

 

「ふーん。じゃあ、ソラから目を奪った『パイロ』って奴はどうだったんだ? 本物のクラピカの友達っぽいのか?」

 

 キルアの問いに、クラピカは応えず俯いたまま着ている病衣を握りしめる。

 その病衣の下の分厚い包帯を見て、キルアと同じように空いているベッドに腰掛けたゴンは痛ましそうに目を細めた。

 

 クラピカの怪我自体は、先月に起こったトラブルによる傷が開いたものであり、この病院にろくな設備もなければ、正直言って医者の腕にも期待できなかったのでほとんどレオリオが治療したとはいえ、3日経っても未だに血が滲み出ている。

 それほどの傷を負わせたのが、彼の親友だなんてゴンも信じたくないのだろう。

 

 他人であるゴンでもそう思うくらいだ。クラピカはなおさら、あの3日前の出来事を、自分やソラの現在も悪夢だと思って否定したいことくらい痛いくらいにわかる。

 だがそんな現実逃避こそ、時間稼ぎにすらならず全てを失うことをわかっているからか、クラピカは俯いたままだがポツポツと話し始める。

 

「……言っていることや表情……性格は私が知っている通りのパイロだった。私とパイロしか知らないはずの約束も知っていたから、……偽物だとは考えづらい。

 …………だが、私たちに襲い掛かって来たのは『黒幕』に操られていた、操作系能力者に操られていたと考えれば説明がつくが……パイロは足が不自由だった。

 自我を残している状態で、ハンデのあった足を健常者以上に動かすことは可能なのか? 体の不備すら無視して操っているのなら、パイロとしての意志すら残っているとは思えない……」

 

 そこまで言って、クラピカは両手で頭を抱え込んで黙ってしまう。

 さすがにこれ以上問い詰めるのはクラピカに対して酷すぎるので、キルアは少し申し訳なさそうな顔をして、「無理すんな」と声を掛けた。

 

「悪い。質問が無神経すぎた」

 

 珍しくキルアは素直に謝るが、おそらくクラピカにはキルアの謝罪が耳に入っていない。

 ただ彼は、出来れば眼を逸らしていたかった事実に、自分の体の傷以上に心が痛みに苛まれながらも向き合おうとする。

 

 クラピカの言う通り、あのパイロが旅団の襲撃から逃れて生き延びたパイロであり、操作系能力者に利用されているにしては、あの足が5年前と変わらぬ姿であること以上に説明がつかない。

 

 まだ5年前と変わらぬ姿なのは、旅団の襲撃によるクルタ族の虐殺という出来事に対する精神的ショックと、そこから生き延びたが満足な栄養等が取れる環境でなかったのなら、未だにゴンやキルア並の体格であることに説明はつく。

 だが、成長していないことに説明がつくような劣悪な環境を仮定すれば、彼の足が完治したという可能性は考えられない。余計に酷くなって、歩くことすらままならぬほどになっている方が自然なはずだ。

 

 操作系能力者によって、体の不備も関係なく無理やり動かされているのなら、あのパイロそのものの表情や言葉が不自然だった。

 体のリミッターを外すだけでも、それは対象の脳を壊しぬいて廃人化させる、イルミや旅団のシャルナークのような強制型でないと無理なのだから、体の不備すらオーラで賄って動かすのならなおさらに多量のオーラが必要だろう。

 

 それほどのオーラを注ぎ込まれて自我を保ったままなんて考えづらいし、そんなことをさせるような人間がわざわざ自我を残してくれるとも思えない。

 

 初めから、クラピカはわかっている。

 本当はここまで考えなくても、ここまで痛みに耐えながら向き合わなくても、本来なら考えるまでもないことであることくらい、わかっている。

 

 あのパイロの正体、彼が何であるかなど想像がついている。

 だからこそ、あの雨の中でクラピカは選んで、切り捨てた。

 

 そして、その想像はソラに尋ねればきっと確証を得る。

 

 彼女は初めから、気付いていた。

 彼がクラピカが何度も話した親友のパイロであることよりも先に、一目見た瞬間から気づいていたからこそ、駆けだしたクラピカの腕を掴んで止めたことくらいわかっている。

 

 だけど、尋ねない。

 尋ねてしまえば、それはソラにクラピカが出すべき答えを委ねるということ。

 そんな他力本願は出来ない。してはならない。望むべきではない。

 そんな惨い引導を、彼女の手で自分に渡してもらう訳にはいかない。

 

 だからクラピカは、頭を抱える自分の両手が自分の頭に爪を立てて皮膚を抉っていることにすら気付かぬまま、自分が出した「答え」を口にする。

 

「………………『あれ』は、あの『パイロ』はおそらく――――」

「ねぇ、クラピカ」

 

 しかし、その「答え」は言い切る前にかき消される。

 キルアの傍らに立っていたはずのソラがいつの間にか移動して、クラピカと同じベッドに腰かけていた。

 しかし腰かけている場所はクラピカの隣ではなく、真後ろ。わざわざ一度ベッドを通り越して後ろに回ってから、クラピカと背中合わせになるように座って彼女は言った。

 

「クラピカ、君は『沼男(スワンプマン)』の思考実験って知ってる?」

 

 * * *

 

 話の出だしが唐突なのはいつものことなので、もはや誰もそのことには突っ込まないが、相変わらず何が言いたいのか、結論がどこに向かうのかがわからない話に、尋ねられたクラピカだけではなく一同で「は?」という声を上げる。

 

 しかしソラの方もそんな反応をされるのは慣れっこなので、気にした様子などなく話を勝手に進める。

 

「哲学系の思考実験の一つなんだけど、知らない? そもそも、思考実験自体わかる?

 哲学系で有名なのは、『水槽の中の脳』かな?」

「……いや、確かに『沼男(スワンプマン)』というものは知らないが、思考実験や『水槽の中の脳』なら知っている」

「……ごめん、ソラ。俺は全部が何のことかさっぱりわからない」

 

 ソラがさらに重ねてきた確認の質問に、クラピカが後ろを振り返って困惑しながら答えるが、残念ながらゴンが申し訳なさそうに手を上げて言ったので、本題に入るのは少し先に延びる。

 

「あー……、ゴンにはいろんな意味で縁がないよね。

 思考実験っていうのは、そのまんまだよ。とあるテーマに沿って、頭の中で想像するだけの実験。数学系だの物理学系だの色々あるけど、私が言ってるのは哲学系。

 で、その哲学系で一番有名なのが『水槽の中の脳』っていう主題(テーマ)

「それって確か、『自分が体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ているバーチャルリアリティなのではないか?』っていう仮定だっけ?」

 

 どうやらキルアの方は『水槽の中の脳』を知っていたらしく、ソラの説明を引き継いで語ると、ゴンは余計に首を傾げる。

 

「え? それってどういうこと? その仮定で何すんの?」

「その仮定が真実かどうかを考えるんだよ。多人数でやるなら肯定派と否定派で別れて、肯定する根拠、否定する根拠を上げて論議もする。

 数学とか物理学の思考実験なら万人が納得する真理である答えにたどり着くときもあるけど、哲学系は本当にただの想像、もしも話をただひたすらに広げるだけだよ」

 

 あまり詳しく説明すると、そもそも「哲学」に関して相当突っ込んだ話になるので、ソラは最低限の説明で済まして、「哲学系思考実験」の説明から「沼男(スワンプマン)」の話に移る。

 

「で、『沼男(スワンプマン)』の話に戻るけど、これは確かアイデンティティーについての思考実験だったな。

 仮定の内容は、『ある男が不運にも沼の近くで雷に打たれて死んでしまった。そしてその男の死の直後、もう一回雷が沼に落ち、その落雷が沼の汚泥と化学反応を引き起こして、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう』」

 

 そこまで語り、ソラを背中にもたれかからせたまま聞いていたクラピカの顔が強張った。

 彼女が何を言いたいかは、まだわかっていない。

 けれど、自分が向き合っているようで目を逸らしていたもの、耳を塞いで考えないようにしていたものを突き付けている事だけはわかった。

 

 ソラは、もたれかかっているクラピカの様子に気付いているのかいないのか、そもそも気にしているのかすら全くわからない淡々とした調子のまま「沼男」の仮定を続ける。

 

「『この落雷によって生まれた新しい存在こそが「沼男(スワンプマン)」。

 沼男は原子レベルで死ぬ直前の男と全く同一の構造、見かけはもちろん脳の状態でさえも、落雷によって死んだ男の生前の脳の状態を完全なるコピーしていることから、記憶も知識も全く同一であるように見える。

 そしてそれが事実である証明に、沼を後にした沼男は死ぬ直前の男の姿で家に帰って、その男が生きていたらするであろう行動を取る』

 

 ……これが『沼男』の仮定。そしてこの過程から考えるべきことは、『この「沼男」は死んだ男の偽物と定義するべきなのか否か』だ」

 

 そこまで語っても、そもそも「思考実験」自体を未だに理解したとは言えないゴンはまた首を傾げるが、彼以外、レオリオとキルアはソラがクラピカに何を問うているかがわかる。

 わかっていないゴンが、自分とクラピカと背中合わせで姿が見えないソラ以外全員の顔が強張っていることに気付き、彼は気まずく思いながらも「どういう事?」と再び尋ねれば、キルアは若干呆れつつも答えてやった。

 

「……ソラの眼を奪った、クラピカの親友の『パイロ』って奴は、ソラが今言った『沼男』に近いもんである可能性が高いってことだよ。

 たぶん、そいつは念で作り出された人形みたいなもんだけど、記憶とか性格は完全に本人再現されてる。……それを、『偽物』って言えるのかどうかを訊いてるんだろ?」

 

 キルアの答えで、ゴンも目を見開いて固まった。

 ソラの問いは、「沼男」に例えてクラピカに突き付けたものは、クラピカが向き合って受け入れて出さなくてはならない答えであることはわかっている。けれど、それでもあまりに残酷な問い。

 

 あのパイロの何もかもが、「念能力で作られた偽物」と決めつけてしまえば、まだクラピカの心は楽だっただろう。

 偽物なのだから、自分を追い詰め、傷つけるために作られた存在ならば、ソラの眼を奪われたことへの憤りは余計に高まるが、「どうして?」と縋ってしまう迷いは消える。

 

 だけど、決してパイロ本人でなくても、彼の心は間違いなくクラピカの知る生前のパイロの完全コピーだとしたら……、彼のクラピカに対する言葉はすべて、彼を作った人間によって「生前のパイロのような言動を演じている」ではなく、「彼自身の意思の言葉」だとしたら……。

 

 あの「パイロ」は、「偽物」と断ずるべきなのか?

 念によって生み出された存在ならば、沼男とは違って体こそは本来のパイロと同一とは言えないだろうが、それでも心が同一なら……それを一概に「偽物」と言っていいものなのか?

 

 ソラの問いはクラピカの迷いをさらに深めるものだったからからこそ、ゴンとレオリオは痛ましげな顔に、キルアは「またこいつは話をさらに面倒くさくしやがって……」という顔をしつつも、何も言わない。

 黙って、強張った顔のまま、見開いた目で自分の膝を見下ろしながらも考え続けるクラピカの答えを待つ。

 

 だが、黙ってくれないものが一人。

 それが誰かは言うまでもない。

 

「え? 違うよ。いや、沼男をあのパイロを例えたのは当たってるけど、別にクラピカに質問なんかしてない。

 聞くまでもないよ。沼男と違って、パイロは『偽物』だ。例え、あの子の心が生前の、本物のパイロそのものであったとしても」

 

 やはり彼らは誰も、ソラの斜め上に追いついてなどいなかったことを思い知らされる。

 彼女はクラピカが出すべき答えを、あっさりと言い放って全員を絶句させた。

 そしてそのまま、彼らの絶句を余計な口出しされずに済んで楽と言わんばかりに、話を続ける。

 

「『偽物』の定義は、誰かを騙そうと思って作られたものじゃない。『本物』と言われるものがあってこそ生まれた、それを基にして作られたものこそが『偽物』だ。

 だから、『沼男』に関しては偽物かどうかは私には決められない。あれは死んだ男を材料にした訳でも、誰かの意思でその男の同一コピーが作られたわけでもない、完全な偶然の産物だからね。

 

 だからこそ、あの子は……パイロは『偽物』なんだ。あの子は確実に、誰かの意思で君の親友である『パイロ』を基にして作り上げられたから……、だからそれこそ沼男みたいに体も原子レベルで同一、DNA鑑定もクリア出来ようが……心が寸分違わずに『パイロ』と言い切れるものだとしても……、それでもあの子は『偽物』だ。

 あの子は『本物』のパイロがあってこそ生まれた存在だから、『偽物』であることは変えられないんだ」

 

 わかっていたが、「沼男」の話よりも直接的にクラピカが目をそむけていたい事実を突きつける言葉に、最初の発言のインパクトから停止していた思考が再起動を果たしたレオリオが、「おい、ソラ!!」と声を荒げる。

 が、ソラの発言を咎める前にクラピカが手でレオリオの方を制した。

 

「やめろ、レオリオ。……ソラは悪くない。悪いのは、わかっているのに、考えるまでもなくそうやって切り捨てるべきなのに、未だ迷い続ける私が――――」

「いや君、何もわかってないよ」

 

 しかしその助け舟を速攻で沈めるのが、助け船を出された本人である。

 

「誰が、切り捨てろって言った?

 クラピカ。何で君はあの子が偽物だからって、あの子の『想い』までまるで偽物の様に否定するんだ?」

 

 クラピカのフォロー発言を、フォローされている側が否定しながらさらにクラピカの背にもたれかかって、ソラは事もなげに言い放ち、またもやクラピカだけではなく男勢全員から言葉を奪う。

 そして彼女は、クラピカの背中にもたれかかったまま語る。

「何でわかんないのかな?」とでも言いたげに、当たり前のことのように語った。

 

「偽物ってだけで、偽物が成したことを無価値に思うのは間違いだ。偽物でも、『本物』を作り出せる。

 芸術品の贋作に感動する人間は、見る目がないバカだと一蹴する方がその作品をちゃんと見てない、作者だとかそういう余計なもので目が曇ってるバカだ。

 偽物イコール劣化品や粗悪品なんかじゃない。偽物が本物に劣るとは限らない。贋作だろうが、偽物だろうが、その作品を見て『素晴らしい』と感動した人の気持ちは誰にも縛られない。誰かに感動を与えたという事実は、その偽物が持つ本物なんだ。

 

『本物』の存在がこの世から失われても、『本物』があったからこそ生まれたのならば、それは一生『偽物』であることは変わらない。けれど、『偽物』として生まれて歩み、築くものはその『偽物』だけが持つ、『偽物』が築き上げた『本物』なんだ。

 クラピカ、あの子は『パイロ』という君の親友を基にした偽物であっても、あの子の出自が偽物なのであって、あの子の『心』はあの子自身のものなんだ。

 パイロが基になっただけであって、あの子の心はパイロの借り物でも、パイロから奪ったものでもない。

 あの子の過去はパイロのものでも、今を生きているのはあの子だ。あの子が想い、願うものは、あの子が生まれてから思ったことは全て、『本物のパイロのもの』じゃない。

『偽物』でも……、今を生きているのはあの子だから、あの子が抱く感情や思いは全部あの子自身の『本物の気持ち』なんだ。

 

 ……ねぇ、クラピカ。それでも君はあの子を……パイロを切り捨てるの?」

 

 何もわかっていなかったことを、思い知らされる。

 例え本物のパイロと同じ心を持っていても、あのパイロは『偽物』と言うべきなのは初めからわかっていた。

 偽物だからこそ、クラピカの迷いは甘えであり、本物のパイロに対する侮辱であり、彼を切り捨てる以外の選択はないと思っていた。

 

 だけど、ソラはパイロが偽物であっても、それでもクラピカが縋ったもの、手放したくない、取り戻したいと思ったものを肯定してくれた。

 

 あの豪雨の中、ソラの眼で泣きながら木刀を掲げてクラピカに告げたパイロが脳裏に蘇る。

 

『今、楽にしてあげる』

 

 雨の中でも泣いているとわかる顔で、彼は言った。

 

『……でも、これだけは信じて。

 ――――クラピカは僕の一番の友達だよ』

 

 泣きながら、それでも彼はクラピカに安心させるように……あの日、外に出る試験の日、あのならず者に絡まれて浮かべていた穏やかな笑顔で言った。

「パイロではない」と切り捨てたクラピカを、友達だと、親友だと言ってくれた。

 

 だから、もう答えは決まった。

 初めからそれしかなかったのに、またしても期待を裏切られる絶望を恐れて、その絶望が訪れない予防線ばかりを張って、一番大切な自分の願いを蔑ろにしていたことを自嘲しながら、クラピカは俯き続けていた顔を上げる。

 

 今度は天井を仰ぎ見て、背中合わせのソラに寄りかかり返して答えた。

 

「……そうだな。私は、本当に何もわかってなかった」

 

 予防線を張る必要などない事もわかっていなかった自分に対して、本当に笑うしかない心境のクラピカは、笑いながら語る。

 自嘲にしては、あまりに穏やかに笑いながら。

 

「……私は、あのパイロを救いたい。

 あのパイロが奇跡的に本物であった場合はもちろん……私は彼が偽物でも、誰かの手で私や君を傷つけるために創り出された偽物でも……、それでも彼が私を親友だと思ってくれるのなら、その思いに嘘がないのなら、その思いが本物であるのなら……私は彼を切り捨てることなどできない。

 

 ……だから、…………身勝手な話だとは分かっているが……、頼む。

 ソラの眼を取り戻す為、そしてパイロを『黒幕』から解放するために、力を貸してくれ」

 

 クラピカの本音。捨てることなど出来なかった本当の願いを口にして、そして彼はソラと自分の為に来てくれた「仲間」と向き直って、頼んだ。

 もう誰も失いたくないがあまりに、自分一人で何でも背負い込んで傷つき続ける彼が、おそらく初めて素直に助力を求めた。

 

 その懇願の答えは、即座に返される。

 

「そんなの、当たり前じゃん!!」

 

 まずはゴンが前のめりになって、言い切った。

 

「っていうか、今の流れでまだ切り捨てる気だったら、こっちがキレるっつーの」

「……どいつもこいつも甘いな……って言いたいとこだけど、ま、しょーがねーか。……友達のことだもんな」

 

 ゴンに続いて、クラピカの吹っ切れた様子に安堵したように笑ってレオリオは言い返し、キルアは相変わらずの生意気さを見せつつ、最後に本音をわずかに零した。

 

 そんな彼らの答えに、クラピカはまだ完全に水臭さは消えてないからか少し困ったように笑いながら、「ありがとう」と答える。

 それから、首を動かして後ろを向くと同じように振り返っていたソラと目が合う。

 

 いや、合うはずの眼は自分が「救いたい」と言ったパイロによって奪われており、そこにあるのは白い包帯だ。

 その事実が、答えを得たはずなのにまた「本当にこれでいいのか?」という迷いを生み出すが、その迷いは即座に殺された。

 

 何かを封じるように分厚く包帯を巻かれている所為で、顔の大部分が隠れているにも拘らず、晴天のようにあまりにも晴れ晴れしく笑ったから。

 晴々しく笑っているとわかったから。

 

 クラピカの出した答えに、ソラがそんな風に笑ってくれたから。

 

 だからクラピカは自分の迷いを自分で殺して、選び取る。

 

 背中合わせのソラの手を握り、決める。

 自分の手は2本あるのだから、どちらか一方を切り捨てるのではなく、彼女を守り、パイロを救おうと。

 

 たとえそれがどれほど困難な道であっても、クラピカは選び取った。

 

 * * *

 

「……クラピカ、お前さぁ俺らに頼ることを遠慮するより、いい加減マジで隙あらばイチャつくことを遠慮しろよ」

「! い、イチャついてなどいない!!」

 

 ソラとの無言のやり取りを見て、「やっぱ協力すんのやめようかな」という黒い考えが過ったレオリオは、割と本気で死んだ目になりつつ言うと、クラピカは赤い顔で説得力皆無なことを言い出し、レオリオや病室に入ってきた時と同じくらい不機嫌になりだしたキルアだけではなく、ゴンからも「こいつは何を言っているんだろう?」という目で見られた。

 

 そして未だにソラから手を離していない自分に説得力がない自覚はあったのか、わざとらしく咳き込んで彼は無理やり話を変える。

 

「……私の身体がまだ本調子ではない以上、申し訳ないがお前達の力が必要だ。

 だが、無理だけはしないでくれ。もしもお前達の誰かが、私やソラと同じような状態になったら私は耐えられない」

「へいへい。こっちも無茶する気はねーよ。

 ……けど、『黒幕』の正体どころかパイロがどこに行ったのかもわかってねーのが痛いな」

 

 クラピカの強引な話題の転換に、こっちも長々引っ張っても自分が虚しくなるだけだとわかっているレオリオが乗って答えるが、しかし改めて今現在の自分達は相手の情報を何も持ってなさすぎることに気付き舌を打つ。

 

「そうだな。今、わかってるだけの情報だと動きようが何もないな」

「ソラが建物壊して騒ぎを大きくしたのなら、パイロを目撃した人もいるんじゃない? 聞き込みでまずは目撃者を探したら?」

「いや、あのパイロが“念”で生み出されたものならそもそも一般人には見えてなかった可能性もある。見えていたとしても、能力者が“陰”を使うか、能力解除してしまえば目撃者に期待は出来ないだろう。

 地図を用意してくれ。私の『導く薬指の鎖(ダウジングチェーン)』を使えば場所を特定できるかもしれない」

 

 レオリオの言葉に続いてキルアも腕を組んで、現状の動きようのなさに嘆き、ゴンは前向きに提案する。

 しかしゴンの提案は、吹っ切れていつもの冷静さを取り戻したクラピカによって残念ながら期待できないと却下され、代わりにクラピカ自身がパイロと出来れば彼を生み出した『黒幕』の場所特定の方法を提案する。

 

「ダメだよ。君の傷はまだ全然ふさがってないし、私も治癒用の宝石はほとんどないんだから、君のオーラはまだ回復に専念して使うべきだ」

 

 だがクラピカの提案も、後ろからもたれかかるのをやめてベッドに上がったソラが、彼の顔を覗き込んで止める。

 レオリオもソラの意見に賛成するが、吹っ切れたら今度は本来の彼の性格である意地っ張りな部分が出てきたのか、クラピカも「人に頼っておいて、呑気に寝ているだけなど出来る訳ないだろ」と言って引かない。

 

 そんな彼に、ソラが「クラピカ、無理するっていうんならもう一回……」とまたクラピカとキルアにマジギレされ、レオリオどころかゴンにすら「爆発しろ」と言われかねない事を言い出そうとしたソラだが、最後まで言い切ることはなかった。

 

 しかしそれを幸いと言っていいのかどうかは、わからない。

 

「……え?」

 

 戸惑った声が上げる。

 厚い包帯越しに、触れる。

 今は何もない、空っぽであるはず眼窩にソラは触れていきなりその場に停止した。

 

「やめろ、馬鹿者」という言葉を準備していたクラピカが、ソラの様子のおかしさに気付いて戸惑いつつも「ソラ?」と声を掛ければ、ソラはクラピカや他の3人以上に戸惑った声で言った。

 

「……目が、見える」

 

 分厚い包帯越しに、触らなくてもそこに何もないことはわかっているのに、なのにソラの視界は急に「死」以外の映像を取り戻す。

 

 目の前にあるのは、扉。

 

 まずそれで、ソラはこの視界が自分の物ではないと確信できた。

 暗くてわかりづらいが、ソラが今見ているもの、どう見ても病院ではない廃屋の一室らしき部屋の中に「線」や「点」が何も見当たらないからだ。

 

 しかしだからと言ってこれが、リアルすぎる幻覚だとは思わない。

 ソラは自分なら、特に眼球という枷を失くしている今の自分なら、幻覚ですら殺せると確信しているのだから。

 

 だからこの視界が、誰のものなのかはほとんど消去法で理解する。

 

「……待って、……多分、今、パイロが見てるものを私も見てる!」

 

 ソラの言葉に一同は一瞬絶句してから、「どういうことだ!?」とクラピカは肩を掴んで訊き返し、キルアやゴンは座っていたベッドから降りて駆け寄り、眼が戻ったのかとソラに尋ねて、レオリオが何とかその3人を宥めていたが、ソラは男勢の様子にすら気付いていないように、ベッドの上に座り込んで真っ直ぐに前を見据えながら言った。

 

 どういう理屈で今、パイロの視界と自分の視界が共有されているのかはわからないが、そんなのどうでも良かった。

 これが本当にパイロの視界ならば、彼の居場所のヒントが、運が良ければ『黒幕』の姿も見えるかもしれないという期待の方がはるかに強く、ソラは見えるものを何一つとして取り逃さぬよう、包帯の奥から瞼をこじ開け、空っぽの目でその光景を脳に焼き付ける。

 

 パイロが辺りを見渡したりしないからか、視界は初めから変わらない。見えるのは扉だけ。

 その扉が開かれ、光と共に誰かが部屋の中に入って来る。

 奇妙な外套を着た、病人じみているほど細身で顔色も悪いが、その割には線や点の数は少ない長髪の男。間違いなく、会ったことなどない、知らない相手だと断言出来た。

 

 男は、目の前で何かを語り掛ける。

 音は、声は聞こえない。共有しているのは完全に視界だけのようだ。

 だからソラはないはずの眼に力を入れて、男の言葉を一言一句見逃さぬように凝視する。

 

 そうやって読み取った唇の動きからして、おそらく男はこう言っていた。

 

 

 

『――お目覚めだよ。私の天使』

 

 

 

「!!?? 何こいつ気持ち悪っっっっ!!!!!」

『お前には何が見えてるんだ!?』

 

 思わずとっさに率直かつ全力で叫んだソラは悪くない。

 

 * * *

 

 思わず全力で率直な感想をソラが叫んだ所為で、病室内の緊迫した空気が一気に緩む。

 

「お前はいきなり何を言い出しているんだ!?」

「いやだって、なんかこいつ『私の天使』とか言ってるんだもん!」

 

 当然、いつものごとくエアブレイクして来たソラにクラピカはキレるが、今回はソラの所為だが本当にソラは何も悪くなかった。

 涙声で誰もいない自分の前方を指さして、「気持ち悪っっっっ!!!!!」と叫んだ理由を語れば、誰が言ったかわからないクラピカ達でもその発言にドン引いた。

 

「す、すまない……。それは確かに、叫んでも仕方がないな」

「っていうか、今のソラの視界がパイロって奴のものなら……」

「え? ……パイロ……大丈夫?」

「キルア! ゴン!! よりにもよって一番心配したくない方向に心配させないでくれ!!」

 

 とりあえずクラピカがソラに怒鳴ったのを謝るが、キルアとゴンがいらない所に気付いて、本当にしたくないクラピカの心配を悪気なく煽ってしまう。

 それを「落ち着け」と宥めつつ、周りが先にテンパったせいで比較的冷静なレオリオが、「キモイのはわかるが、そのままなんか情報ねーか探ってくれ」とソラに指示を出す。

 

 ソラの方も腕に出た鳥肌をさすって宥めつつ、せっかくのチャンスを逃す気はない。

「気色悪い」と嫌がりつつも、包帯の奥で目を見開き、目の前の男の唇を読む。

 

 そしてまた、男は何やら言葉を紡ぐ。

 銀のピアスをした唇の動きで、ソラは男の言葉を何とか解読する。

 

『――君の美しさには興奮するよ。吐きそうなぐらいにね』

 

「こっちの台詞だよ!!」

「今度は何を言われたんだよ、おい!!」

 

 その結果、もう一回ブチ切れた。

 空気を壊しまくっているのはソラだが、本当にソラは何も悪くない。

 何で頑張って読唇した結果、こんなにも気持ち悪い独白を聞かねばならないのか本気でわからないし、ついでに男に直接言われているパイロに心底同情した。

 

 しかし幸いながら、男の気色悪い独白はここで一旦終わってくれた。

 視界から男が消えて、代わりに視界が急に高くなる。そしてそのまま男が入って来た扉から部屋を出ていく。

 立ち上がったにしては、パイロの背丈より明らかに高い視界と、歩いているにしては視界がやけに上下に揺れることからして、おそらく今のパイロは男に抱きかかえられて移動しているようだ。

 

 そのことを告げて周りの仲間達に静かにしてもらい、そのままソラは自分の目を通してパイロが見ているものを、忘れないように言葉にしてゆく。

 

「今……部屋を出てバルコニーみたいなところに出た。……もっかい椅子に座らされたのかな? 視界が低くなった。

 見えてるのは……夕陽。変な岩山……岩の中腹に繰り抜いたみたいな丸い穴が開いてる山があって、あと……右側に川が……! 男が出てきた!!」

 

 なるべく忠実に見える光景を口にしていた時、再び男が目の前に現れる。

 先程は暗い部屋の中だったのと、何を言っているのか読み取る為に唇を集中して見ていたため、ちゃんとは確認できなかった顔がようやく拝めるとソラは期待したが、すぐに彼女は悔し気に、忌々しげに舌を打った。

 

 部屋よりマシだが、夕陽の逆光の所為で男の顔には深い影がかかり、やはりはっきりと顔が見えなかったからだ。

 それでも、やはり見覚えのない相手であることだけはわかった。

 

「……ごめん、夕陽の逆光で顔はよくわからない。でも、私の知ってる奴じゃない。

 誰か、心当たりある? 背はかなり高いけどガリガリで、唇にピアスをつけた20~30代くらいの男なんだけど……。あと、着てる外套がかなり変わったデザインだな。独特すぎて、どう説明したらいいかわからないくらいに」

 

 ソラがおそらく「黒幕」と思わしき男の特徴を口に出してみるが、全員が悔し気に首を振る。

 しかし、彼らの反応は今のソラには見えていない。

 それよりも、見逃してはならないものが見えた。

 

『――太陽は眼に良くなかったね。……さあ、眠りなさい』

 

 先程よりはちゃんと見ていないので確証はないが、恐らくそう言って男はソラに……ソラの眼を持つパイロに手を伸ばし、掌で彼の両目を覆い隠してしまう。

 その際、はっきりと見えた。

 

 男の掌に刻まれていたもの。それは――

 

「……12本足の……蜘蛛の……刺青!? ……ナンバーは……4?」

 

 胴部に「4」という数字が刻まれた大蜘蛛がその掌にあった。

 

 そこで、ソラの視界は再び元に戻る。

「死」だけに満たされた視界。

「視線」が生き物に限らず物でも毛細血管のように張り巡らされており、「死点」が至る所で青白く輝いている。

 視力を失っているのに、そうやって「死」を見ることで周りの様子をある程度把握できる視界で、ソラは周りの者達の反応を窺った。

 

「ええっ!? それって、幻影旅団の証だよね?」

「旅団がリベンジに来たってことか!?」

 

 ゴンがソラからもたらされた情報に驚き、レオリオもやや及び腰でソラの眼を奪った犯人が旅団だとしたら、一番高い可能性を上げる。

 が、その可能性はクラピカによって否定された。

 

「いや、それはない。少なくとも、かなり低い。

 私がクロロに掛けた“念”は、除念されたら私がそのことを知ることができるように保険を掛けてある。未だに解けていないのは確かだから、……百歩譲って私だけならともかく、ソラにまで手出しするのは考えづらい」

「え? 私、クロロの念能力を封じた君より旅団(あいつら)に警戒されてるの?」

 

 クラピカの反論に、その根拠であるソラが意外そうに言い出してまたちょっと空気が緩む。

 しかしこれもソラはあまり悪くない。旅団の騒動の後半はソラではなく「空」が出て動いていたので、旅団が警戒しているであろう存在は「彼女」の方であることを、この当の本人が何も知らないし、おそらく一生知ることがないのだから、ソラからしたらそりゃ訳がわからないだろう。

 

 そしてそういう事情なので、説明する訳にもいかないクラピカは「そうだ、お前の斜め上っぷりにな」とある意味本当のことで誤魔化し、ついでにキルアが話を軌道修正する為に口を出す。

 

「つーか4番ってヒソカの番号だったよな? あいつが抜けた後に入ってきた奴なら、そいつの単独犯って可能性が高いんじゃね?」

「そうだね。そいつが眼球フェチの人体蒐集家なら、団員からヨークシンでのことを聞いて私とクラピカを知ったから、旅団としての方針を無視して勝手にやらかしてるのかも」

 

 キルアが思い出した「旅団の4番は偽装入団していたヒソカだった」という情報から、一番筋の通る推測をソラが立てる。

 そして、その推測通りならまたしても旅団が敵に回る可能性は低いので、そうであってほしいと願う。

 

 旅団は仲間意識が思ったよりかなり強いが、強いからこそあの「4番」の味方には回らない事が確信できた。

 クロロの命を握っている状態のクラピカと、「彼女」が目覚めていてもいなくても旅団(クモ)の天敵と言っていいソラに、クロロの除念が果たされていない内に独断、それも旅団の為ではなく自分の欲望を優先して手を出すような輩は、クロロと戦いたいがあまりに偽装入団したヒソカと同等か、下手したらそれ以上に許せない、仲間として認められない相手なはず。

 

 なので、こちら側の仲間になる期待まではしてないし誰も求めていないが、「クラピカが死者の念になって、クロロの除念が絶望的になる可能性」と「空の女神が再び目覚めること」という問題がクリアされていない限り、旅団がその「4番」に便乗してくることもないと考えられた。

 

 その意見には全員から賛成をもらい、だからこそ今は「あの『4番』は本当に旅団(クモ)なのか?」という疑問は横に置き、代わりに探るのはソラが見たという風景。

 

「近くに川があり、中腹に丸い穴のある岩山、か……。夕陽が見えていたということは、ここから時差もそうない場所だろう」

 

 ソラが見た風景の特徴を反復し、そのまま立ち上がろうとしたクラピカの首に、後ろからにゅっと二本の腕が伸びてきてそのままがしりとしがみつく。

 首に腕だけではなく、胴部に長い足もがしっとクロスしてしがみつき、そのままクラピカは後ろにベッドへ倒れた。

 

「!? お前はまた何をしている!?」

「それはこっちの台詞だーーっ!! 安静にしてろって何度言ったらわかるんだ!?

 ゴン! キルア! レオリオ!! 私が押さえつけている間に、ネカフェで情報収集お願い!! 相手は眼球フェチの変態だから、私やクラピカみたいな目じゃない限り興味ないと思うけど、本当に無理はすんなよ!! ぶっちゃけ、私が見た光景そのものがわざとで罠の可能性もあるし!!」

 

 またしても「安静にしてろ」という全員からの指示を無視して、自分から情報収取に動き出そうとしたクラピカの背中にしがみつき、ソラはそのままクラピカをベッドの上で抑えつけて3人に指示を出す。

 

 その様子にレオリオはもう何度目かわからない、「爆発しろ」という呟きを零し、ゴンは苦笑しながらもキルアの機嫌がまた悪くなるのを案じて、横目で親友の様子を窺った。

 しかし、ゴンの予測に反してキルアはむくれてはいなかった。

 

 痛みに耐えるような目をして、彼は言った。

 

「こっちの台詞だっつーの。……無理すんな。そんで、無理させんじゃねーよ」

 

 そう言って、キルアは座っていたベッドから降りてそのまま病室から出ていく。

 ポカンとゴンとレオリオはそれを見送ってから、慌てて彼の後を追った。

 

「どうしたんだ、キルア。珍しいな。もう嫉妬すんのも馬鹿らしくなったのか?」とキルアに追いついたレオリオが余計なことを言うと、顔を赤くしたキルアから割と遠慮なしのローキックをもらう。“纏”をマスターしていなかったら、確実に折れていたであろう威力だった。

 しかしその様子はゴンが知るいつものキルアだったので、レオリオには悪いが少しほっとしつつも、ゴンは尋ねる。

 

「……ねぇ、キルア。どうしたの?

 何かちょっとだけだけどキルアの様子、いつもと違うよ?」

 

 具体的にはわからない。それはすぐに忘れてしまいそうな程、かすかな違和感。

 だけど、確かにその違和感はあるからゴンが心配そうに尋ねると、キルアは歩を止めて、病院の廊下を俯いて睨み付けながら答えた。

 

「……震えてたんだ。あいつの手」

 

 何を言っているのか、何のことを言っているのか、ゴンとレオリオにはわからなかった。

 けれど、続いた言葉で理解する。

 理解したからこそ、彼らは胸の奥に気付けなかった、理解していなかったことに対する深い悔恨が生まれ、強く唇を噛みしめた。

 

「……あいつは、……ソラは、俺に抱き着いて来たくせに、抱き着くのが……触るのが怖いって言わんばかりに震えてた。

 ……俺を、壊れ物みたいに震える手で触れて、抱きしめたんだよ、あいつは」

 

 自分の心配が、どれほど独りよがりなものだったかを思い知らされた。

 ソラの眼が奪われたことで、彼女の視界は「死」以外を失ったことを知っていたのに、わかっていたのに、キルアはあの時、ソラに抱きしめてもらうまで何もわかってなどいなかった。

 

 普段の視界、健康な人間なら全身で10本前後の「線」と数個の「点」程度しかないのなら、よほどの不注意と不幸な事故が起きない限り、触れ合うことに問題などない。

 だが、「死」以外が見えないはずなのに、ある程度こちらの動きを把握できるような視界……暗闇の中、毛細血管のような「死線」が青白く輝いて形を作っているような視界ならば、それこそ誰かに、何かに触れることは細心の注意が必要だ。

 

 どれほど、怖かったのかは想像がつかない。

 自分が触れるだけで、触れた指先があまりに細やかな「線」を無数の「点」を突き刺してしまう事で起こる「終わり」が、どれほど怖かったのかを、あの震える手が、いつもとは全く違う怯えるような力加減が告げていた。

 

 それでも――、彼女は触れてくれた。

 抱きしめてくれた。

 

 だから、キルアは引けない。

 

「――――1秒でも早く、あのバカの眼を取り戻すぞ」

 

 助けてとは言わない、地獄の中にいても誰かの為に笑う彼女の為に、引かないと決めた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 キルア達に出ていかれた病室で、クラピカはソラにしがみつかれたままベッドの上に横になっていた。

 かなり恥ずかしい状態だがソラがしがみついて離さないので、クラピカは回診の看護師などが来ない事を祈りながら、ベッドの上で背中のソラに言う。

 

「……ソラ。わかった。私が悪かったから、そろそろ離してくれ。完治もしてないのに出歩かないと約束するから」

「…………ごめんね、クラピカ」

 

 クラピカが下手に出るべき状況なのに、何故かソラはクラピカにしがみついたまま彼に謝った。

 

「……弱くて、ごめん」

 

 その言葉に、クラピカは深い溜息をついてから自分にしがみつくソラの手足を、横たわったまま外す。

 本当はすぐにはずせるような力加減だった。今も、キルア達が病室に入って来た時の馬乗りも。

 あの日から、目をパイロの奪われてからずっとソラは、誰かに触れることを恐れていることを知っていた。

 

 あの車の中、震える手で自分の頭をあやすように撫でてくれた時からずっとずっとわかっていたこと。

 

 何に恐れているかを知っている。

 だから、クラピカは手足を外されてホッとしているようにも、傷ついたようにも見えるソラを今度はクラピカ自身が抱きしめる。

 

 横たわったまま体を反転させて、向き合ってそのままソラを抱きしめた。

 

「……触れるのが怖いのなら、君から触れなくていい。君はただ、こうやって私の体温や鼓動を感じ取っていてくれ」

 

 ソラが恐れるものを「しなくていい」と許し、ソラが欲するものを与える。

『死』しか見えなく世界の中でも、確かに存在している、生きているという証を彼女に与える。

 

「……ソラ、謝るな。弱くていいんだ。『死』を恐れ、『殺人』を厭う君だからこそ……、そんな『弱さ』を持つ君だからこそ、私は救われたし、何度だって救われ続けている。

 弱くていい……。君が、私の弱さをいつも許してくれたように……、私は君よりずっと弱いけれど……それでも君の弱さが何かを取りこぼしてしまうのなら、私がそれを補って、拾い上げてみせるから」

 

 あの三日前のように、震えながらもクラピカをあやすように……クラピカに縋るように頭を撫でていたソラのように、クラピカはソラの背を自分の腕の中に何かに怯えるような小さくてか細い、自分以上の怪我人にしか見えないほど弱々しいソラを撫で、抱きしめた。

 

 その腕の中で、ソラは言った。

 

「……ありがとう」

 

 その言葉ごと閉じ込めるように、クラピカはさらに強くソラを抱きしめながら決心する。

 一秒でも早く、彼女の眼を取り戻すことを。

 

 そのために支払う対価は、もう決めている。

 

 クラピカはソラの背中越しに、具現化した親指の鎖を見た。

 あと一日ほど体力が回復したら、それは十全に使えると自分のオーラ量を見繕う。

 

(……私の眼が奪われなかったのは、僥倖だな)

 

 ジワリと赤みが増した視界の中で思う。

 ソラの代わりにこの眼を奪われていたら、その所為で「絶対時間(エンペラータイム)」が使えなかった場合、その所為で治癒系能力である「癒す親指の鎖(ホーリーチェーン)」が使えない可能性があったことに思い至り、今はまだ幸運な部類だと判断する。

 

 ……自分の寿命を削っても、ソラの苦しみを短くできるのならそれは、クラピカにとって幸運な部類だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「性格が悪い」

 

 パイロを元の椅子に戻すと、背後で辛辣な声を掛けられた。

 

「何のことだか?」

「恍けないで。話が進まない」

 

 振り返った男……オモカゲが薄ら笑いを浮かべながら答えると、彼を辛辣に批判した「少女」は不愉快そうに言い捨てる。

 

「わざわざ特徴的な山、時間もわかりやすく夕陽を見せて、『あの子』たちをここにおびき寄せるつもりなんでしょ?」

 

 ドアの前に立つ、緑の黒髪が実に美しい少女の言葉にオモカゲは笑みを深めて、少女に近寄る。

 そして少女の傍らに膝をつき、彼女の黒髪を指先に絡めてながら語る。

 

「何を怒っているんだい? 君だって、『彼女』と早く会いたいだろう?」

 

 その言葉に、椅子に座らされたパイロは悲し気に目を伏せる。

 だが次の瞬間、思わず伏せていた眼を開いてオモカゲと少女の方に目を向けてしまう。

 

「だからこそ、怒ってるのよ。

 あなた、幼児性愛者(ペドフィリア)? あんな気色悪いこと言ってたら、あの子今頃『気色悪い!!』って叫んでむしろ徹底的にこちらを避けそうなのよ」

 

 容赦が一切ない言葉に思わずオモカゲはフリーズし、パイロは固まってしまったオモカゲの背中を気まずげに、茫然と見ていた。

 そんな男二人の反応を無視して、少女はオモカゲの指に絡んだ自分の髪を引き抜き、掻き上げて凛然とさらに言い放つ。

 

「それから、私が何を思っているかをあなたが勝手に決めないで。

 私はあなたに作られ、あなたに逆らえなくても、私は『あの子』の心から生まれた存在であっても……、それでも私という存在は、私の思考は、私の心は私だけのもの。

 

 私はあなたの所有物であっても、あなたではない。そのことを、忘れないでくださる? 『神の人形師』さん」

 

 オモカゲの自称を何とも皮肉たっぷりに言い放つ少女に、パイロは眼を丸くしてただ見ていた。

 自分と同じ存在でありながら、自分と同じくオモカゲの命令に逆らえないはずなのに、確固たる「自分」を一分たりとも失わない少女が、パイロにはあまりにも眩かった。

 

 そしてどういう訳か、オモカゲも彼女に対して「減らず口を叩くな!」と命令して黙らせない。

 悔し気に口元を歪ませながら、彼も精一杯の皮肉を口にするだけだ。

 

「………………あぁ、そうだな。

 忘れていないよ。君は、私の人形。だが、君の知識は重要だ。私の人形をより完璧に、完全な存在にするためには君の世界の知識がね……」

 

 言外に「その為に、使い潰すまで今は生意気な言動を許してやっている」とオモカゲは語るが、少女は涼しい顔でオモカゲの言葉など聞き流している。

 

 そのことに気付いているのかいないのか、オモカゲは少女の顎を掴んで顔を上げさせて、吐き捨てるように言った。

 その言葉で、パイロの顔は少女に対する敬意や彼女に対しての期待による希望から、それは幻想にすぎない事を思い知らされた絶望に変化して、また静かに目を伏せる。

 

 

 

「それまで、よろしく頼むよ。『――――――――』」

 

 

 

 

 少女の「名」は、それほど絶望的だった。







映画を視聴した当時、一緒に見に行った友達に視聴後、「オモカゲの『お目覚めだよ、私の天使』発言に『キモッッ!!』と叫ばなかった私は偉い」と言ってみたら、友達は「映画館にいた客皆偉いよ」と正論をぶっ込んできたのはいい思い出。
私はあの時、「キモッッ!!」と映画館でソウルシャウトした客がいても、たぶん怒らない。むしろ心から「よく言った!」と思って拍手したかもしれない。


そんな「私の天使」発言からソラの率直な感想で今回は切ろうかと思ったのですが、次回予定だった話が思った以上に短くなってしまったので、今回にくっつけました。
ラストの「少女」は誰かバレバレだと思いますが、次回ですぐに判明しますから感想欄でネタバレ的な展開予測は出来ればご遠慮してほしいです。

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