電話を切った後、ソラは少し疲れたような息を吐いて立ち上がる。
しかしベッドから離れる前に、そのベットの住人が左手でソラの手首を掴んで引き留めた。
「どこに行く気だ?」
クラピカが睨み付けながら問うと、ソラは包帯に覆われた顔を彼に向けて困ったように淡い笑みを浮かべて答える。
「私の責任じゃないって君たちは言ってくれるけど、でもあのアホ姉が敵に回った原因が私なのは確かだから、私も行くべきだろう?
君と違って私は怪我を負った訳じゃない。動けない訳でも、戦えない訳でもないんだから、あの子たちに任せっぱなしは出来ないよ」
ソラの言葉に、レオリオがでかい溜息を吐いてから彼女の頭を一発小突く。
「お前は本当に、俺らの話を何にもわかってないな。
自分に関係あることを自分より年下のガキに全部任せっぱなしにしてるのが情けなくなるのはわかるけどな、お前はクラピカみてーに怪我してる方がマシな惨状だろうが!
俺らに本当に申し訳ないって思ってるんなら、マジでおめーは自分で何とかするんじゃなくんて大人しくすることをいい加減覚えやがれ!!」
自分の言いたかったことを全て先に言われたのをクラピカは少し悔しく思うが、けれど珍しくソラが人に言いくるめられ、言い負けて悔しげに唇を尖らせているのを見ると少し、いつもの彼女に懐く苛立ちの溜飲が下がったので、クラピカは少しだけ笑ってレオリオの言葉に同意する。
「その通りだな。……だが、ソラ。一つだけ答えてくれ。この答え次第では、お前がゴン達の所に向かうのを許してもいい」
同意しつつも、クラピカはソラの手首を強く、離さないという意志を込めて掴んだまま言った。
その発言にソラは包帯に覆われていてもきょとんとしていると丸わかりな様子で彼を窺い、レオリオも一瞬ポカンと絶句してから、「おいおい! お前は何言ってやがるんだ!?」と突っ込むが、クラピカはレオリオを無視して話を進めた。
「ソラ。……お前は姉に、会いたいか?」
「会いたくないよ」
その問いに、ソラは即答した。
きょとんとした顔ではなくなったことだけはわかる。だが、包帯に大部分が覆われて隠れている所為で、ソラがどんな顔をしてそう答えたのかはわからない。
何とも思っていない無表情なのか、怒っているような悲しんでいるような顔なのか、それとも彼女の「体の人格」である女神によく似た、諦観に満ちた笑顔なのかもわからない。
だけど、確かに彼女は言った。
「会いたくないよ。私は、海とは会わなくて済むのなら会いたくない」
はっきりと、否定する。
姉に、自分を庇って自分を生かした姉に、永遠に解けない疑問を投げかけた姉に会いたくないと言い切る。
「クラピカ。私が行かなくちゃって思っているのは、海に会いたいからでも、会わなくちゃいけないと思ってるからでもないよ。さっきも言った通り、キルアやゴンに私が元凶で厄介な目に遭ってるんのなら、二人に全部任せてここで大人しくしてるってことが出来ないから、したくないから行くだけ。
……海になんか、会いたくないよ」
「……何故だ?」
姉に会いにいく訳ではない、姉など関係ないと言い切るソラに、クラピカは姉に会いたくない理由を問う。
だが、問いつつクラピカは絶句しているレオリオとは対照に、何故かさほど疑問には思っていなかった。
ソラが「会いたくない」と答えるのを、心のどこかで予測していた気がする。
この問いは、何故そんな予測が出来たのかを知る為の問いに過ぎない。
「……臆病者だからかな?
私は一昨日、君にあんなことを言ったのに……あのパイロは偽物であっても、パイロが君を思う気持ちは本物だって言ったくせに、私は海の気持ちが本物であることが怖いんだ。本当の、海の気持ちを知るのが怖いんだ」
どんな表情をしているのかわからなかった顔が、少しだけどんな顔をしているのかやっとわかる表情を浮かべる。
寂しげに、何かを惜しむようにソラは笑って語る。
「キルアに海がどんな人だったかを偉そうに語ったけどさ、私はたぶん海の事なんか全然わかってないよ。
親が私なんかと関わるのは時間の無駄だって言って、私と関わる暇なんて全部、魔術の修業に詰め込んでいたし、海自身もそう思ってたんじゃないかな? 明らかに避けられてた記憶があるし、褒めたつもりだったのに首を絞められた記憶もある。
……でも、優しくしてもらった記憶もあるから、余計に訳わかんないんだよ。今じゃ信じられないけど、私だって『お姉ちゃん、遊んで』とかねだった覚えもあるし、海も親に隠れておままごとに付き合ってくれたことだってあるんだよ。
…………まぁ、そのおままごとで何故か私が子供役のつもりで持ってたぬいぐるみをまさかの食材役と勘違いしてて、躊躇なく鍋に放り込みやがったけどな。うん、昔から歪みなくアホだったわあの姉は」
「「オチをつけるな!!」」
寂しげに姉のことを知らない、姉のことがわからない理由を語っていたかと思ったら、何故か数少ないほのぼのとした思い出にこの姉妹らしいオチがつき、何とも言えない痛々しげな顔で聞いていた二人が思わず反射的に突っ込みを入れる。
しかしソラは、包帯をつけていても眼球がなくても酷く遠い目をしているとわかる様子で、「いや、言わせろ。そしておままごとから何故かいきなりウサギの解体講座を始められて引いた私に同情して」と言い出し、それは確かに同情するしかない状況だった為、二人は「お、おぉう……」とだけ言っておいた。
ちなみに、このトラウマ級おままごとはソラが5歳、海が6歳の頃の話だったりする。初歩の黒魔術の一環で小動物の解体を学んでいたとはいえ、嫌すぎる6歳児である。
「もうこの頃から私の事を嫌ってたんじゃないか? って思うようなことやらかしてるけどさー、私が泣きそうになりながら『それ……子供』って言ったら素直に『ごめん』って土下座で謝ってくれたから、あれはマジで悪気なかったんだと思う。
そんな感じで、方向性は違うけど実に私の姉らしい訳わかんない人だからさー……、答えは得たつもりだけど未だにその答えに自信なんか何もないんだよ」
もはやどうコメントしたらいいかわからないオチがついても、それでもソラにとって良い思い出の部類なのか、困ったように、けれど慈しむように笑って一応程度の姉のフォローをしてから、また寂しげに笑う。
そんな思い出があるからこそ、出しても迷いが生まれる答えを、だからこそ「会いたくない」という答えを出したと、寂しげに笑って語った。
「そもそも、その出した答えだってそれは永遠に出ないとわかっているからこそ、私が自分の都合の良いように出した答えだからさ、今更になってやっぱり私は海に何とも思われてなかった、助けたつもりも生かしたつもりもなかったとか言われるのが怖いし……、私が出した通りの答えだとしても聞きたくない。
だってそれは……ちゃんと海と向き合った私が得るべき答えだったのに、今更そんな答えをもらう資格なんか私にはない。そんな答えは……余計な後悔になるだけだよ」
ソラにしては珍しい弱音だった。
クラピカもパイロに対して懐く、「偽物にして本物」だからこそ懐く本音だったからこそ、クラピカはソラの「会いたくない」と言う答えを予測できたと理解する。
同じ弱音だった。ソラらしくないと思える、不安だった。
けれど、続いた言葉は実にいつもの彼女らしかった。
「会いたくないよ。でも、そんなの私が動かない理由にはならない。
たとえ私が出した答えが間違いだって思い知っても、私の答えが正しかったからこそ、余計な後悔を抱えこんでも、それでも私はキルアとゴン達の元に行きたいんだ。
そんな事を恐れて何もしなかった所為で、二人が海の手で傷つくなんて私にはもっと耐えられない。例え君たちが大人しくしてほしいって望んでも、私には無理なんだ。そんなの、生きているなんて言えない。死んでないだけになるから……だから、ごめん。いかせて」
死にたくないから、生きていたいから。
この世界に墜ちてきた時から、クラピカと出会った瞬間から抱え込んだ狂気に動かされているだけだと言い切る。
そんな彼女に、クラピカはソラの手首をまだつかんだまま俯いて呟いた。
「…………どこが、臆病者なのだ?」
ソラの自己評価を否定する。
自分と同じように、もういない人だとわかっていても過去の後悔が有り得ないやり直しを求めて、その所為で判断を間違って余計に傷つくことを恐れて、だからこそ止めて、そして尋ねたが、ソラはオモカゲの人形が「偽物にして本物」だとわかっていても揺るがなかった。
彼女は臆病なのではなく、自分と同じ
彼女は魔法使いの弟子となるきっかけから、魔法使いに八つ当たりで殴りに行った時からずっと変わらない答えを懐いている。
「姉が自分をどう思っていたかの答えは、ちゃんと向き合った世界の自分だけが得ていいもの」という答えを手離さないから、その答えゆえに「魔法」という奇跡さえもあの終焉に繋がる眼を得る前から否定して殺したからこそ魔法使いは、「多くを認める」
臆病なんかではない。
「会いたくない」という意志でさえ、情けない弱音ではなく、自分の過去と向き合って受け入れている強さだと思えた。
ないとわかっていても、「もしかして……」という、期待とはもう言えない妄想に等しい未練を捨てられなかったから、過去と向き合えず、本心では受け入れていなかったからこそ、大切な人を傷つけ、仲間を危険な目に遭わせている自分とは全く違う強さが、眩くて仕方がなかった。
だからこそ、クラピカは顔を上げて答える。
「あぁ、嫌になるほどお前の気持ちはわかる。大人しくしていろと言いたいが、本当に大人しくしていられるお前はお前じゃないことをわかっているよ。
……だが、お前も私がここで納得して手を離し、お前一人で行くことを許せる人間ではないことはわかっているだろう?」
答えは決まっている。
この手を掴む前から、どんなに強く握っても、行かないで欲しいと泣いて縋っても、彼女はとてつもなく辛そうに、悲しそうに、けれど、それでもこちらを思って「心配なんかしなくていい」と言うように笑って、この手から離れて行ってしまう事くらい初めからわかっている。
それでも、まだ手離せない。
「ソラ。行かせない。お前一人でなど、絶対に行かせない」
ソラの望んだ答えはやれないクラピカを、ソラはやはりクラピカが初めからわかっていた通りの笑顔を浮かべて見下ろす。
クラピカの手の中の手首がかすかに震えている。
彼の手を離すために起こす行動が、自分の視界の「線」や「点」に触れることを恐れているのはわかっている。
それでも、クラピカは手離さない。
クラピカの答えに対してソラがどのような行動を取るのか多少は想像ついているレオリオが、ソラを羽交い絞めても止めるべきか、それともいっそクラピカの手をソラの手首から捥ぎ取って行かせてやるべきかなのを迷っている。
そんなどちらの望みも理解しているからこそ、どちらの味方にもなれないレオリオにクラピカは少し申し訳ないと思いつつも、彼を無視して話を続けた。
ソラの手を離さない代わりに、空いている右手から鎖を一本具現化させて言った。
「――だから、私も行こう」
「「え?」」
ソラだけではなくレオリオも呆けた声を上げる。
レオリオはどちらの味方にもなる必要はない。
きっと自分にソラを叱る資格はないし、ソラに叱られる筋合いもないけれど、レオリオにだけは自分たちを叱る資格があるから、叱られても仕方がないとわかっているから、クラピカはひっそり叱られる覚悟を決めていた。
望んだ答えはやれない。この手を離してはやれない。
会いたくないのに、答えなどもう手に入らないという答えを得ていたのに、どのような答えでも傷つかなくてはいけない人に、一人で向かわせやしない。
いつも、いつだって、自分が一番助けて欲しいときに助けてくれる人だから。
彼女のように、タイミングよく現れて助ける自信なんてないから。
だから、初めからせめてずっと一緒にいる。
座り込みたくないのなら、立っていられるように支えてやりたいから、傷ついても足を止めたくないのなら、抱えて歩いてゆくことくらいできるから。
それぐらいは、したいから。
その為に必要だから。
その為に、クラピカは選んだ。
「……私たちを悲しませて怒らせているとわかっていても、行くという選択肢しかないのだろう?
なら、私にだって文句を言われる筋合いなどないぞ」
少しだけ誤魔化すように笑って、ポカンとしているソラに言い訳する。
どうか悲しまないで欲しいと、叶わないとわかっている願いを懐きながらクラピカは具現化した親指の鎖を、自身の体に巻きつけた。
緋色の眼で、「
自分の
* * *
(俺は裏切らない……! 絶対に友達を裏切らない!)
ペンダントトップを握りしめて、キルアは自分の頭の中の兄に啖呵を切るが、脳裏の兄は現実の兄と同じようにキルアの言葉を歯牙にもかけない。
言葉とも認識しているのかどうも怪しい、犬猫の鳴き声程度にしか思っていなさそうな顔が余計にキルアの苛立ちを掻きたてる。
「キルア」
そんなキルアにやや怯えた様子で、それでもいつの間にか店から出てきたレツが果敢にも話しかける。
「僕のこと、信じてくれないか?」
悲しげな眼でそう訊かれたら、キルアは言葉に詰まる。
疑わしい所ばかりな相手だが、決定打は未だに何もない。本当にレツはオモカゲとは無関係ならば、キルアは失礼極まりないことしかしていないのはわかっている。
それでもレツがどうして自分たちに、昨日の時点ならともかく昨夜の海との戦闘を見て、助かったとはいえ自分のすぐ目の前で建物が腐食するように溶け崩れて大穴が開くという光景を目にしておいて、未だに自分たちにこだわってついて回ろうとする理由が理解出来なかった。
だがその疑問は、キルアが尋ねるまでもなくレツが自ら訴えかけるように答えてきた。
「ゴンとキルアは友達の眼を奪い返すために頑張ってるんだろ?
ボクも手助けがしたいんだ。ゴンとキルアの
「友達として」という言葉に、キルアは完全に何も言えなくなる。
自分たちだってそもそも、関係なかったはずなのにソラの眼を取り戻そうとしているのは、キルアとしてはやや複雑だがレツの言い分と同じ、「友達として」放っておけないから、出来ることがあるのなら何かしたいからだ。理由としては十分すぎる。
それに、相手の意見を聞かないで自分の考えをひたすらに押し付けるのは、自分がイルミにされたことと変わらないのではないかとも思ってしまい、キルアは何も答えることが出来ない。
レツを信用できないのなら、それこそハンター試験の時の自分などもっと信用できない存在だったという自覚はあるから。
それでも、ゴンもソラも自分がゾルディックの跡取りだと知っても、知る前から変わらずに側にいてくれた、変わらず笑いかけてくれた人だから、この手を掴んでくれた人だから、だからキルアだって信じるべきだと思った。
思うのだが……
(友達だと思ってくれているのなら、信用しなくちゃならない……とは思う。
けど、なんかこいつは――)
ゴンだけではなく、自分も友達だと言ってくれたことは嬉しく思う。自分に向けてくれた好意と同じものを返したいとも確かに思っているのに、キルアはどうしてもレツを信用しきれない。
ゴンと一緒にいる時のように、ジークと戦っていた時のようにワクワクするよりも、疑いがまず先に来る。
それは出会いの経緯と現在の状況が悪いからなのか、それとも他に「何か」があるのかはどうしてもキルアにはわからなかった。
「……案内したら、僕はすぐに立ち去るよ。それなら問題ないだろ?」
「うん、そうしてくれると俺達も安心するよ。
ねぇ、キルア。他に手がかりもないし、とりあえずレツの言う場所に行ってみようよ」
いくらレツが信じてと訴えても、キルアは眉間にしわを寄せたまま何も答えてはくれないので、レツは諦めたのか妥協案を出すと、ゴンもレツを危ない事に巻き込みたくないと思っていたからか、その妥協案に賛成してからキルアも妥協するように声を掛ける。
「……わかったよ」
さすがにキルアも、それすらも嫌だ、無理だ、信用できないとは言えなかったし、言う理由もなかったので、眉間のしわはそのままに賛成して歩き出す。
キルアが賛同してくれたことにレツはホッとしたように笑いながら、スカートをふわりと翻して「じゃあ、行こう。こっちだ」と、まるで秘密基地にでも案内するように先に進んでゆく。
その様子を見ていたら、完全に普通の子供。ただの女の子にしか見えず、やはり自分の考えすぎなのか? 危ない目に遭っても自分たちに付きまとうのは、ゴン並に懲りないタイプなだけかとキルアは少しだけ思いながらも、それでも胸の内にモヤモヤするものは消えずに残留し続ける。
「あ、そういえばソラからの電話は何だったの?」
「あぁ、そうそう。なんか昨日の夜、病院にヒソカの奴が忍び込んで来たらしいんだよ」
「えっ!? ヒソカが!?」
「何々? 何の話?」
モヤモヤとしたものを抱えながらも、歩きながら語っていたらそれはいつしか気にならないものとなってゆく。
ゴンが今更だがソラからの着信を思い出してキルアに尋ね、キルアもソラたちと交換した情報をゴンにも伝え、レツが無邪気に二人の話に興味を持つが、キルアが「お前には関係ねーよ」と蚊帳の外にしようとするから軽く喧嘩になって、ゴンが二人を宥める。
そんな傍から見たら、普通の友達同士にしか見えないやり取りをしながら進む。
あまりに自然だったから、気付けなかった。昨日とではレツの格好が何もかもが違っていたからと、昨日も背負っていた箱の中に入れており、常に抱きかかえていた訳ではなかったので、その違和感に気付けなかったことをのちのキルアとゴンは後悔する。
レツの着ていたパジャマ以外に唯一無事だった荷物である、ピエロのマリオネット。それをもうレツが抱きかかえていないことに、二人は気付かなかった。
そして、キルアの影が……レツの人形が沈んだ彼の影がゴンやレツの影と違い、一人だけ黄昏時の影法師のように長く伸びていることに。
キルアとは違う、背の高い人間の影になっていることに気付けなかった。
* * *
「あれだよ」
レツが指さすのは、町から1時間ほど歩いて辿り着いた、林の中の洋館。
元は豪奢な館だったのだろうが、外壁の大半は蔓や苔に覆われ、窓ガラスは割れているか、外は雨、内側は埃で汚れて中はほとんど見えないほど真っ白に曇っている状態。
すぐ近くには墓地もあるので、まさしく「お化け屋敷」としか言いようがない廃墟である。
「なるほど……。いかにも、って感じだな」
「あの窓なら、ソラが見た風景とも一致するね」
「だな」
ゴンが指摘した二階のバルコニー。
確かにあそこから平野の方を見れば、ソラが言っていた風景とおそらく合致するだろう。
しかし、わざわざこの廃墟に入ってあの二階の窓から風景を確かめる必要はない。
見た目からしてキルアの言う通りベタな程にいかにもだが、“凝”で見てみると廃墟全体にうっすらとしたオーラが見て取れたことで、キルアはここが正解だと確信する。
だが同時に、このうっすらとしたオーラはオモカゲのオーラが廃墟内に残留しているだけならいいのだが、それは楽観的な期待であるのはわかっている。
十中八九、罠であることも理解してキルアはうんざりしながら腕組みし、ひとまず考える。
罠であるのは、わかっている。
だがオモカゲは、「メインディッシュを奪う準備は済んでいない」と言って、昨夜は一旦引いていた。「メインディッシュ」とは、ほぼ間違いなくクラピカの緋の眼の事だろう。
もしもこの罠がクラピカを捕える為のものならば、そしてまだ準備中ならばむしろ好機だ。
クラピカから緋の眼を奪うのなら、間違いなくパイロを利用する。そのパイロを、どうにかして自分たちが確保できたとしたら……状況は逆転する。
相手の能力までもコピーした人形を生み出せるオモカゲの能力は脅威だが、逆に言えばその生み出した人形の元となった人間がさほど強くなければ、その脅威は格段に下がる。
クラピカの話では足が不自由だったパイロが、何のハンデもなく駆け回っていたと話していたから、多少の強化は出来るだろうが、パイロはソラの眼を奪う以外に念能力らしきものを使っていたとは、誰も言っていない。
レオリオやクラピカ、ソラさえもパイロに対してなすすべなく敗走を余儀なくされたのは、彼が強かったのではなくただ単に一番最悪の虚を突かれただけに過ぎない。おそらく、パイロ自身の身体能力は普通より強いが、それでも一般人の範疇に納まる程度のはず。
もちろん、身体能力が一般人レベルでも彼はソラの眼を持っているのが痛すぎる。
ソラ自身が持つ「本物」よりはるかに精度の低い、そもそも「死」を見ている訳ではないらしいので少しはマシかもしれないが、それでも近接戦は絶対に避けるべき相手なので、パイロの確保が念能力者を相手取るのと同じくらい困難であることに変わりない。
だが……可能性はある。
ソラほど非常識に物でも念能力でも殺せる訳ではないのなら、やりようはある。1対1ではなく2対1ならなおの事、こちらが有利に運べる可能性は高まる。
だがこれは、あくまで屋敷の罠が「クラピカを捕える為の罠」であり、なおかつパイロ確保も「パイロが一人でいること」が前提。
パイロ以外の誰か、オモカゲや海がいたらその時点で絶望的であり、この屋敷の罠がクラピカではなく自分たちを捕えるものだとしたら、屋敷に入るのは自殺志願同然だ。
リスクは高いが、パイロの確保に成功すればオモカゲの脅威はソラの姉である海くらいになる。そして割と冗談抜きで、海だけならソラの言う通り放っておけばオモカゲがストレスで自爆するのが期待できそうなので、慎重派のキルアも無謀と思える「このまま廃墟を探索する」という選択肢を捨てきれない。
なのでキルアはひとまず、自分の思いついた可能性、パイロを確保できた時のメリット、パイロだけではなくオモカゲや海ともエンカウントしてしまった時のリスクを話して、ゴンにも意見を求めてみた。
「う~ん……。確かにパイロは確保したいけど、ここにパイロがいる保証もないのに俺達だけで入るのはやっぱりリスクが高すぎるかな?」
「そうだな」
案外冷静なゴンの意見に、キルアは捨てきれなかった未練を捨てて同意する。
彼の言う通り、パイロがこの廃墟内にいることが確定しているのならまだ自分たちが動くだけのメリットはあるが、「いるかもしれない」程度の可能性に賭けるには分が悪すぎる。
そもそも、このトトリア地区に到着したその日の夜に海が襲撃して来たことからして、やはりソラが見た風景はこの廃墟に自分たちやクラピカをおびき寄せる為の罠だったと考えた方が良い。
ならここにいる者の可能性は、パイロより海が格段に高い。
そう判断して、キルアとゴンは廃墟には入らず、レツが他に心当たりがあるのならそこを回り、ないのならソラ達に「十中八九、罠だけどソラが見た風景と一致する場所を見つけた」と報告してから全員で作戦会議という予定を提案して、ゴンも賛成する。
「……あのさ、その前に僕があの廃墟に入ろうか?」
が、レツがおずおずと手を上げてさらなる提案をぶっこんできた。
「はぁ? 何言ってんだよ、お前?」
「いや、だってゴン達を捕まえる為の罠なら逆に無関係の僕が入って来ても、ただの肝試しに来た子供と思われて、よっぽど変なことしない限り見逃してもらえるかもしれないだろ!
あの屋敷の中の部屋割りとかわかるだけでも何もないよりはマシだろうから、僕が行くよ!」
キルアが驚いたというより呆れきってバカにしているような調子で訊き返すので、レツは気に障ったのかややムキになって、自分の提案した理由とその行動によるメリットを語る。
が、所詮は子供の浅知恵とキルアは自分自身も子供であることを棚に上げて、鼻で笑って彼女の提案を切り捨てる。
「バーカ。俺達との接点に向こうが気付いていなけりゃ使えたかもしんねーけど、ここまで一緒に来たのに無関係な子供だと思われる訳ねーだろ?」
「うっ……」
「キルア! レツは俺たちの役に立とうと思って言ってくれたのに、そんな言い方は酷いよ!」
キルアの指摘は正論だった為、レツは悔しそうに彼を睨みながらも黙り込み、ゴンがさすがにキルアの棘ばかりな言葉に憤慨して彼を叱責した。
だがゴンの方も意見としてはキルアに賛成な為、叱責されて拗ねたキルアを自業自得と思って後回しにして、レツと向き合って語る。
「でも、レツ。気持ちはありがたいけどキルアの言う通り、ここまで一緒に来ちゃったら俺達とレツが無関係じゃないことには気付いていると思うし、仮に気付いてなくてもやっぱり、無関係だから見逃してくれるとも限らないから、それは賛成できない。
ここまで案内してくれただけでも、俺はレツにすごく感謝してるよ! だから、お願いだから俺たちの為に危ない真似だけはしないで欲しいんだ」
「……うん。ごめん。僕が浅はかでバカだった」
ゴンの説得には、レツはやや赤くなった顔を俯かせて素直に自分の提案を引っ込める。
それから、はにかんだように笑う。
「……なんか、いいもんだな」
「え?」
キルアより気を遣った言葉で説得したとはいえ、足手まとい扱いしていると言われたら否定できない自覚があるゴンは、レツが何故うれしそうに笑ってそんなことを言うのかがわからず、呆けた声を上げる。
そんな彼をレツはちょっとだけ拗ねたように、それでもやはり楽しそうに、嬉しそうに笑いながら、何故自分がこんな事を言い出した理由を教える。
「ずっと男のフリをしてたから、こんな風に優しくされるの初めてで……」
その言葉にゴンは更にきょとんとしてから、彼もやや頬を赤らめてはにかんだ。
そんな二人を「何してんだこいつら……」という目でキルアは眺めていた。
「もう行くぞ」とでも横やりを入れても良かったが、レツの言葉に、はにかんだ笑顔にキルアは別の誰かの面影を……、天空闘技場で「髪を下ろしていた方が似合う」と告げた時のソラを見て、何も言えなくなる。
(……やっぱり、俺の気の所為なのかな?)
レツに見出した彼女の面影に、彼女と同じく照れくさそうで、けれど嬉しそうな無邪気な笑顔にそんなことをぼんやりと思ったと同時に、聞こえた声。
「そう。なら、もっと優しくしてもらったら? お姫様」
『え?』
全員が戸惑った声を上げる。状況も、その発言の意味もわからなかった。
レツはともかく、ゴンとキルアはその発言者を声でわかっていたのに、それなのに何も出来なかった。
予測できても良かったのに、そのくらいは予測して警戒しておくべきだったのに、ゴンもキルアもまだ彼女を……海という「魔術師」を甘く見ていた。
絶対にしないと思い込んでいた。
そんな事をするような人ではないと、ほとんど彼女のことを知らなくても確信していた。
そんな事をする自分を、彼女自身が許せないと思っていた。
けれどソラは、妹は言った。
彼女は、海は、「魔術師」だと。
選民思想に染まり、本来の目的を忘れて奢り、名誉や権威に溺れた者たちと違って「本物」だからこそ、高い純度でその「業」を背負い、目的の為にはその気高い誇りを自分の足で踏みにじることも厭わない者であることを教えられたのに、キルアもゴンも忘れていた。
だから何もかもが、何が起こったのかを理解した時には既に手遅れ。
「!?」
「!? レツ!!」
レツの背後の空間が陽炎のように揺らぐと同時に、嫋やかな少女の腕がその空間から生えてレツの首を掴み、揺らぐ空間に、おそらくは廃墟のどこかに繋がる空間に引き寄せられ、レツの半身が飲み込まれてやっと理解して、体が動く。
ゴンは、助けを求めるように伸ばしたレツの手を、掴もうとした。
そしてキルアは――
「! ゴンっ!!」
叱責するように名を呼び、彼の首根っこを掴んで後ろに引いた。
レツの手を掴まないように、彼女ごとゴンも引きずり込まれないように、もしくはゴンに力負けしてレツを引きずり込んだ彼女が……海がこちらに現れないように、キルアはレツを切り捨ててゴンを止めた。
それを見て、レツは眼を見開く。
何も言わなかった。
ただ、大きく見開いた眼の中の瞳を悲しげに揺らしたまま、彼女は海によって置換された空間の中に引きずり込まれた。
「レツ! レツ!!
キルア! 何で止めたんだよ!?」
「わ……悪い……。とっさに……体が動いて……」
レツが引きずり込まれた空間は、彼女を飲み込んですぐに陽炎のごとき揺らぎは納まり、ただの何の変哲もない空間となる。
その空間に悪足掻きでゴンは駆け寄ってレツの名を叫び、キルアに問い詰める。
キルアも、ゴンの怒声に等しい問いに顔面を蒼白にさせて答えた。
その答えに嘘はない。だからこそ、彼は自分の選択の残酷さを思い知る。
あの時、ゴンを止めた時には「レツが疑わしい」という考えはなかった。
レツもオモカゲの仲間で、これも作戦。海に攫われたと見せかけて、廃墟内に入ろうとしなかった自分たちにレツを人質に取っておびき寄せるという罠だと思った訳じゃない。
だからあれは、本当にとっさの行動。キルアの本性であり本心。
レツよりも、例え彼女が本当にオモカゲに何の関係もない、自分たちが巻き添えにした被害者であっても、キルアはゴンを選んだというのは変えようのない事実だと思い知らされた。
いや、それならまだいい。レツよりもゴンを選んだのなら、褒められたことではない、責められるべきことであってもまだ最低ではない。
(俺は……怖かったから……。ゴンがレツを助けようとしてあいつを引っぱったら、海がレツを引きずり込むのを諦めて、逆に自分からこちらに来るのが怖かったから……止めただけなのか?)
自分でも自分の本心は、レツよりゴンが大事だから止めたのか、それともただキルア自身の保身しか考えてなかったのかがわからない。
ただ、自分の行動に頭の奥で嘲るように、わかりきっていた失敗を犯したことに失望するような声音が響く。
『お前は友達を裏切る』
イルミの呪縛が何度も何度も、キルアの頭の中にこだまする。
「……ううん、俺の方こそごめんキルア、怒鳴っちゃって。キルアは無鉄砲な俺を助けてくれたのに、勝手なこと言ってごめん」
キルアは自分の行動の意味を誰よりも理解して、だからこそショックを受けていることに気付いたら、ゴンの中のカッとなった怒りが引いて、彼は痛ましげな顔でキルアをフォローする。
しかしもちろん、ゴンはレツを見捨てる気はない。キルアが自分の行動を悔やんでいるのならなおの事、罠だとわかっていても退くことなど出来ないから、ゴンは何かに怯えるような弱々しく見えるキルアに説得する。
「キルア。レツを助けに行こう。
海さんの言ってたことからして、レツは俺たちをおびき寄せる人質だろうから俺たちが要望通り廃墟に入れば、大丈夫だよ。海さん、年下を苛める趣味なんかないって言ってたし」
「……あぁ。そうだな。わかった」
海らしくないと思える行動に嫌な予感を懐きつつ、それでも昨夜の発言を根拠に「レツは無事」だとキルアに言い聞かせて提案すると、キルアはまだ顔色は悪いままだが賛成してくれた。
そして、二人が覚悟を決めて廃墟を睨み付けると同時に、玄関の扉が錆びた蝶番の軋む音を立てながら開く。
どこまでも出来過ぎた演出に、自分たちは遊ばれていると感じながらも、ゴンとキルアはその玄関に足を踏み入れるしかなかった。
「……どこから回る? 二手に分かれる?」
「……いや、海だけじゃなくてパイロとオモカゲもいるかもしれないから、離れるな。……ひとまず、二階に行くぞ」
ゴンの言葉に、だいぶいつもの冷静さを取り戻したキルアが答えて行き先を決める。
パイロならともかく、自分たちが二人がかりでも海とオモカゲに太刀打ちできる自信はないが、最悪3対1になるよりはマシだと考え、そして手当たり次第に歩き回るよりはと思ってキルアは二階の、ソラがパイロを通して見たであろう風景が見える部屋を目指す。
幸いながらその部屋に行くまでの道のりに、ホラーゲーム並のデストラップはない。ただひたすらに不気味な廃墟でしかなかった。
だが、外から見てバルコニーがあった部屋。ソラが見た風景と一致するであろう部屋の扉を開いた瞬間、ゴンとキルアは絶句する。
その部屋の中心に置かれた、元は豪奢だったのだろうが、今は埃と蜘蛛の巣にまみれ、クッションは破れてボロボロな椅子に自分たちを出迎えるように座る人物を見て、絶句から絞り出した声。
ゴンは「何で……?」と呟いた。
キルアは、海によって引きずり込まれたレツと……、ゴンを選んで彼女を見捨てた時のレツと同じ目をして、唇を戦慄かせる。
「どうして?」と、何に縋ればいいのかもわからない希望に縋る、絶望の眼で彼はその名を呼ぶ。
「――――ソラ?」
* * *
部屋の真ん中で、眠っているようにややうつむいて座っているのは、老人のように真白の髪、顔の造形はもちろん、手足の長さや爪の色艶や形に至るまで、何もかもが男性美と女性美、少女と可憐さ少年のあどけなさを極地まで極めつつ絶妙なバランスで混じりあって配置された、両性にして無性の美貌を持つ女性。
ソラとしか思えぬ人間が、眠っているように眼を閉ざしてそこに座っていた。
けれど、眠っていないのはわかっている。
彼女は一人きりだと眠れないことはないが極端に眠りが浅くなって、誰かが部屋に入ってきたら確実に起きるという事は知っているが、今はそんなソラに関する知識は必要ない。
眠っていないと判断出来た理由は、もっと単純な話。
呼吸をしてないのだ。
座っているし自分たちは真正面から見ており、ソラの服装だっていつも通りのダボダボとしたツナギなのでわかりにくいのは確かだが、どんなに眼を凝らして見てもソラの胸も腹部も上下には動かない。
呼吸をしている様子が、全くない。
それがなおさら、キルアの中の「どうして?」と思いを掻き立て、彼は回復していたはずの顔色を再び蒼白にさせて、あまりにも弱々しい足取りで一歩、部屋の中に足を踏み入れる。
「な、んで……ソラ……どう……し……」
「キルア、落ち着いて! あれは人形だよ!」
しかし今度はゴンがキルアの腕を掴んで引き留める。
ゴンの言葉で「どうして?」だけを繰り返していた頭が、ハッと覚める。
いるはずのないソラが、飾られるようにここにいること。そして呼吸を全くしていないことから最悪の可能性を考えてしまい、それを否定したいのにそれ以外考えられなくなるほどのショックを受けてしまったが、ゴンから「人形」という答えをもらえばキルアの思考は正常に働き出す。
そもそも、数時間ほど前にキルアは本人と電話をしていたのにどうやったら彼女本人がここに来れるのだ? と、まず最初に疑問に思うべきだった。
昨夜、オモカゲや自分を逃がした海の空間置換を使えば可能かもしれないが、ソラが言うにあれはそこまで便利な魔術ではない、便利に使えているように見えるのならそれは、事前に膨大な時間と労力をかけて準備していた結果だと言っていたし、現に出来るのならここで待ち伏せするのではなく自ら出向いているだろうと、冷静になった自分の頭が自分の先ほどまでの不安に突っ込みを入れる。
おそらくこれは、パイロと同じくクラピカの心から生み出した人形なのだろう。
オモカゲは相手の「一番」の執心を人形にすると言っていたので、生み出せる人形は一人一体だと思っていたが、もしかしたら同率1位で執着している人間が複数いるのならば、それら全員を人形化出来るのかもしれない。
クラピカがパイロと同等に、ソラを大切にしているし執着しているのはわかりきっている。
むしろ完全に捨てきることは出来なかったが、それでもソラの眼を奪われた時にパイロを切り捨てようとしたのだから、下手すれば同率ではなくソラの方を「一番」と言い切れるほど執着しているはず。
そして人体蒐集家でなくとも、そのような悍ましい趣味嗜好などない真っ当な人間でも何かの間違いで、「この女性は剥製にして後世にも残しておくべきではないのか?」と思ってしまいそうなほど稀有な容姿をしているのだから、オモカゲが眼ほどではなくても「人形」に……人の形にも執着しているのなら、ソラの人形を作り出さない訳がないとキルアは結論付けた。
「……あ、あぁ……。悪い、ゴン、ちょっとパニくった……。
……って、オモカゲの人形なら人形でやべぇよ! あいつが敵に回るって、どんな悪夢……」
ゴンのおかげで通常通りに思考が働くが、働いたら働いたで嫌すぎる可能性に気付き、キルアはゴンに謝罪してから突っ込んでもう一度、人形の方へ視線を向け、そしてそのままもう一度絶句。
ゴンもキルアの突っ込みに顔色を若干悪くさせて構えながらソラの人形と向き合った時、今度は若干どころではなく一気に顔から血の気が引いてゆく。
ソラ人形は、相変わらず椅子に座っている。
椅子に座って、両眼を固く閉ざして、
ややうつむいていたはずの顔が、音もなく真っ直ぐにゴンとキルアの方にいつの間にか向いていることに気付き、二人は思わず固まってしまう。
ただの人形ではなく、オモカゲの人形なら動いてもおかしくないのはわかっているが、そのソラの人形は未だに呼吸をしていない。
ソラの容姿が整い過ぎているのも合わさって、眠っているように、死んでいるようにも見える無表情なその人形はまさしく不気味の谷そのもの、美しく整い過ぎているからこそ酷い生理的嫌悪と恐怖心を与えてくるので、音もなく、わずかに眼を離した隙に動いたという事実が、ゴン達の思考を真っ白に染める。
そんな彼らの真っ白な思考を、人形は恐怖一色に染め上げる。
「……………………………………き…………」
ゆっくりと、今度は二人が見ている前で人形の唇が蠢いた。
形の良い艶やかな唇が戦慄き、かすかに声が漏れ出るが、その声はソラのものではない。
妙に硬質で無機質な、声と言うよりただの音にしか聞こえない声をその唇から紡ぎ、彼女は椅子の手すりに置いていた腕をぎこちなく上げる。
「…………き……る…………あ…………。ご…………ん…………。
ど…………う…………した…………の? こっちに…………おい……で……」
手招きするように腕は上がり、二人を呼び掛けるが、その腕は関節が錆びついたロボットのようにぎごちなく不自然で、声もやはりソラのものではなく、たまたま言葉に聞こえる音にしか聞こえない声を絞り出す。
何より、眼を閉ざしたままのソラの顔が浮かべる笑顔が、間違いなくソラの顔であるのに、ソラのものではないと確信できるほど歪んでいる。
それはソラの名にふさわしい晴れ晴れしさどころか、彼女の優しく柔らかな慈しみもなければ、彼らに少しでも心配を掛けないように浮かべる痛々しい笑みでも、敵に対して挑発するような凄絶な笑みですらない。
他者の不幸を喜び、他者を食い物にする餓鬼のような醜悪な欲望をそのまま形にしたような、歪みきった笑みを浮かべて彼女は、人形は関節が固まっているようなぎこちなさでありながら、関節が緩すぎて本来なら曲がらない方向にまで手足を曲げながら、椅子から立ち上がる。
「な、何……これ?」
「わ、わかんねぇよ! 俺だって!!」
ソラの人形だと気付いたら、パイロや海のように彼女の人形を使って自分たちと戦わせることを予想したが、想像と違って、話に訊いていたパイロや自分たちと直接対峙した海と違って、ソラの姿でありながら、ソラの人形でありながら、ソラらしさどころか人間らしさすらない言動にゴンが顔面蒼白で戸惑いながらキルアに尋ね、同じく顔色最悪のキルアが逆ギレで言い返す。
そんな二人に、ソラの人形と言って良いのかも怪しい「それ」は、子供が無茶苦茶に操るマリオネットのようにぎこちなく、人間として不自然な動きで立ち上がりながら、硬く閉ざしていた眼を開けた。
空っぽの、伽藍洞の、闇だけが詰まった眼窩が開き、わかっていたがその空っぽの眼にキルアとゴンが息をのむ。
そんな彼らを何もない眼で見て、人形は更に歪んだ笑みを深めて声とは言えぬ音で語る。
「わたし……のめは…………や……みしか…………うつささささない。だかかから…………きみ…………たちの……めををををうばええええええええええええええええええええっ!!」
完全に壊れた人工音声のような、かろうじて言葉になっている音を発しながら、両手両足が折れていながら無理やり動かしているとしか言いようがない動きで近寄り始めたそれは、ゴンですらレツの事を頭から忘れ去って逃げ出してしまいそうなほどホラーな光景だった。
だが二人が恐怖とパニックで絶叫する直前、人形の言葉が突然止む。
ソラの人形の胸に、いきなり何かが生えるように突き刺さり、その勢いに押されてソラの人形は歪んだ笑みのまま前のめりに床へと倒れる。
倒れたソラの背中に突き刺さっているものを見て、キルアとゴンは余計に訳がわからなくなる。
その背に突き刺さり、胸まで貫通して倒れた人形を床に縫い留めたそれは、柄には色とりどりの宝石が埋め込まれ、刀身は硝子のように透き通る短剣。
昨夜も見た、「彼女」曰く「失敗作」の短剣がこの人形にどうやって突き刺さったのかは考えるまでもないが、どうして「彼女」がこんなことをしたのかがわからない。
しかし、その答えはあっさり本人から回答が与えられる。
「まったく……。人格はともかく人形の外観さえも置換魔術に頼ってる、人形師としては三流の分際で思い上がるんじゃないわよ。
………………誰の心を使ったって、あの子は再現できないわ。あの子は、世界のバグ。空っぽであるはずなのに、『 』に直通していながら
蔑むように、憐れむように、吐き捨てるような声音が背後で聞こえ、ゴンとキルアは飛び上がりながら振り返る。
自分たちの背後の廊下に、海がいた。
相変わらず、敵意も悪意もない。この廃墟ですら彼女がいるだけで朽ちた雰囲気が消えて元の荘厳で豪奢な屋敷に蘇りそうな気がする程、凛然とした女王のような佇まいの少女が堅く目を閉ざしたまま、ゴンとキルアを素通りして部屋の中を眺めている。
敵意も悪意もない。
だけどまた彼女は怒っているのを、二人はその肌に感じるピリピリとした疼痛で理解する。
相変わらずその怒りの起因はわからないが、今度は誰を怒っているかだけは二人にはなんとなく察することが出来た。
だからこそ、海は明らかに様子も何もかもがおかしいとはいえ、一応は味方と言えたソラの人形に昨夜のガラス片乱舞と同じ要領で、あの宝石剣の亜種らしき短剣を後ろから突き刺したのだろう。
だけど、そこまでした理由がわからない。
明らかにソラの人格を再現できていなかったので、作った本人であるオモカゲが癇癪を起して壊すのはわかるが、今このタイミングで海があの人形を気に入らず、壊す理由がゴンとキルアには思い浮かばない。
いや、思い浮かぶ仮定はあるが、それを口には出せない。
出せるほどの根拠がまだ足りないから、キルアはもちろんゴンも何かを言いかけて結局言葉にならなかった。
だから代わりにか、ソラの人形とその人形の悪趣味すぎるホラー演出で申し訳ないが忘れかけていた、この罠だとわかっている廃墟に入った理由をゴンは尋ねる。
「……海さん。レツはどこ?」
「この廃墟の裏庭」
「「え?」」
海の機嫌の悪さや、彼女らしくないと思えるレツの誘拐の動機からして簡単には答えてくれないだろうと思ったら、海はしれっと即答する。しかもその答えが事実だとしたら、レツは初めから廃墟に入れてもいなかったという答えに、ゴンとキルアの反応を困らせる。
しかし困らせている当の本人は、ゴン達が何に困っているのかを理解できていないのか、実に可憐に小首を傾げながら言う。
「何? 昨夜も言ったでしょ。年下を苛める趣味なんてないのよ。何もできない無力な子を利用する気はもっとないわ。
あの変態が、あなた達が来たら逃がすななんて言ってなかったら何もする気はなかったし、正直言って邪魔でしかなかったから、ご退場を願っただけよ」
海の補足で、ゴンとキルアが思った「海らしくない」という部分が腑に落ちた。
人質という意図はオモカゲによるものであり、海としてはレツを巻き添えにしないという配慮の意味合いで自分たちから彼女を引き離しただけのようだ。
そのことにゴンは安堵して、キルアもあの空間の揺らぎに飲み込まれる間際のレツの顔による罪悪感がやや薄れるが、そうなると彼は「失敗した」という思いが強くなる。
レツの心配をしなくていいのなら、キルアは思考を全て「海から逃げる手段」に費やす。
海によって部屋の中の人形は動きを止められたのでまだ逃げ場はあるのが幸いだが、しかしそもそも海の置換魔術を考慮すれば後ろを取られた、取られてないは関係ないことに気付き、舌打ちしながらそれでも悪あがきで背後の部屋の様子を探った時……
「――――めめめめめをををうばうばうばうばえっててててて、めをををををうばえばばばばば」
「「!?」」
海の攻撃によって起動停止したかと思っていた人形は、その停止は一時的だったものらしく、背中から突き刺さった短剣によって床に縫いとめられた状態でありながら両手を動かし、手を伸ばして壊れた言葉らしき音を発して蠢き、ゴンとキルアの心臓を不意打ちによる驚愕と、典型的すぎるホラー演出による恐怖で止めにかかる。
しかしその宙を掻いてもがく、ソラと全く同じ形の繊手は「ちっ!」という舌打ちの直後に、踏みつぶされて粉砕された。
またしても置換魔術で廊下から部屋の中に移動してきた海が、何の躊躇もなくその可憐な足で妹の人形の手を踏み潰したのを見て、思わずゴンとキルアは硬直。
見えていないからこそできたのかもしれないが、あそこまで「ソラではない」とわかる言動しかしていなかった人形でも、ゴンとキルアならおそらく壊すことはおろか傷つけるのも躊躇ったであろう程、姿だけは完璧にソラだった人形の手を踏み潰す海は、ソラの人形とは別の意味でホラーな光景だった。
そんな昨夜も昨夜でドン引きしていたが、昨夜とは別の意味合いで更に子供二人をドン引かせている自覚はあるのかないのかさっぱりわからない涼やかな美貌をこちらに向け、海は呑気にマイペースに話し始める。
「驚かせてごめんなさいね。まったく……芸術家気取りならこんな明らかな失敗作なんて利用しようとせず、さっさと処分したらいいのに……。
こんな失敗作も恥ずかしげもなく置いておける厚顔さだけは、ある意味では羨ましいわ」
「な……なんで……ソラの人形はそんなことになってるの?」
謝っているのか、ただ単にオモカゲをディスりたかっただけなのか不明なことを言い出す海に、ゴンが恐怖と困惑とドン引きが入り混じった顔でだが、何とか取り戻した言葉で思わず訊いた。
キルアも、このまま逃げ出したらこのソラの人形とその行動が今夜の夢に出てきそうなので、ひとまずどうやって海から逃げるかは置いといて、彼女からの答えを待つ。
そして海はやはり、出し惜しみをせずにあっさり答えてくれた。
「『空っぽ』だからよ。ただでさえ人形とは『形代』。空っぽの中身に、人間が負うはずだった穢れや業を代わりに詰め込んで背負わせる為のものなのに、あの子自身が本来なら
だからこそ、そんなあの子に忠実に作れば作る程、あの子の人形は形だけの空っぽになって、人格なんて宿りはしない。疑似人格を代わりに入れても無駄。それも底なしの
まぁ、あの三流は三流だからこそ、この人形は底なしではないのだけどね。けれど半端に再現できているからこそ、やっぱりあの子の人格は再現できないわよ。
だって体を完成させた端から生き返りたい、その為に体を望む死霊どもが、器にぴったりな無色のこの体に寄ってきて、あの子の人格を概念置換で再現する前にこの人形の中身を満たしてしまうのだもの」
「空っぽ」という表現に、ヨークシンで現れた女神を思い出してゴンとキルアは複雑そうな顔をするが、ある意味その女神のおかげで、海の説明をなんとなく理解出来た。
同時に、海に片手を踏み潰されて粉砕されても、未だに蠢いて、もがいて、ゴンとキルアの眼を求めるソラの人形を見て思い出す。
天空闘技場のカストロの死体に取り憑き、操りながらソラやキルアを求めた死者の念を。
言ってみればこの人形の状態は、あの時のカストロゾンビと同じ状態なのだと理解出来た。
「まぁ、オモカゲにも同情の余地はあるけど。私たちみたいに死者ならば、生者の思いを媒体に人格置換すればいいのだけど、生者の場合は本人の捕えない限り人格置換は出来ないから、概念置換に頼らなくっちゃならないもの。
……バカみたい。我は無駄に強いのに、他者に与えてばっかりのあの子の人格を、そう簡単に概念で作り出せると思っているのかしら? 諦めたらいいのに。
ふふっ……。知ってる? あの子は昔から幽霊ホイホイだったから幽霊そのものは怖くないくせに、
ゴンとキルアが無言で納得していると、海はおそらく初めてまともにオモカゲの名を呼んで、そして本心から同情しているような口調で語る。
しかしその同情は一瞬で投げ捨てられ、話は急激に変わる。いや、海からしたらちゃんと繋がりのある話なのだろう。
オモカゲに対して「諦めたらいいのに」と同情する根拠である、「いかに自分の妹は理解出来ない人格をしているか」というエピソードを語る。
ソラよりもキルアの兄であるイルミ似た、硬質で冷たい雰囲気だったのが、ソラに似た柔らかで年相応に無邪気に、けれどやはり見た目の年齢よりもはるかに大人びた、姉と言うより母親のような包容力が、その言葉から垣間見えた。
初めて、海は妹に対して「可愛い」と好意的、愛情が見える言葉を口にした。
ソラの人形の背中から、床に縫い付けていた短剣を抜き取って、その短剣で思いっきりソラの、妹の人形の頭を粉々に叩き潰しながら。
ちなみに原作映画&ノベルスだと、ゴンとキルアは普通に、自発的に廃墟内に入ってます。レツが人質にされたとかないです。
「廃墟内にオーラが残留している」事に気付いたうえで、警戒せず罠だと思わず普通に入って探索してます。
……映画ではうっかりスルーしてしまったけど、ノベルス読み返して、「え? ちょっ、ゴンはともかくキルアも警戒しないで行っちゃうの!?」って突っ込んでしまった。これは私がキルアを過大評価してる訳じゃないですよね?
あと、海に関しては「キャラの描写が出る程、真意がわからなくなる」をコンセプトにしてます。
私としては一本筋の通ってる人だけど、現段階だと矛盾だらけの人に思えるでしょうが、終盤でちゃんと真意は判明させますので、気長にお待ちいただけたらありがたいです。