あまりの言葉と雰囲気からかけ離れた行動のギャップに、ゴンとキルアは完全に言葉を失って固まった。
ソラの人形は、人間そのものの見た目でありながら、人間の頭が粉砕されたというより陶器が割れたように粉々となり、辺りに散らばる。
しかしそれらの欠片は床に散らばった途端、カタカタとかすかに震えてから髪の毛は生えてくる映像を逆再生しているように短くなってゆき、鼻や唇の隆起はなくなり、肌は徐々に色褪せ、欠片そのものが縮んでゆき、数秒ほどで爪先程の灰色の欠片となる。
海の足元に残る体も同じく、頭が粉々に粉砕されると頭の欠片より派手に、悶えるようにガタガタと蠢き、震えながら正体を現してゆく。
指先から人間の肌らしい瑞々しさはなくなる代わりに関節が強調されて、肌色はくすんで灰色になってゆき、その変化が全身に徐々に及びながら体は縮み、動かなくなった時にそこに残されていたのは、おそらくはマリオネットの素体と思える、首のない人形が床に転がっていた。
これもこれで悪夢じみたホラーな光景なのだが、ゴンもキルアもないとはわかっていながらもやはり外見だけは完璧だったからこそ懐いていた不安、「これは本当にオモカゲの人形なのか? 本物のソラではないのか?」という不安が杞憂だったことを証明されたので、むしろ安堵する。
だが、もちろんその程度の安堵は何の救いにもならない。
「……さぁ、目障りなゴミは処分したわ。そろそろ、始めましょうか?」
彼女にとって不愉快の種だった人形が完全に壊れたからか怒りは消えており、むしろ人形を自分の手で粉砕したことで少しはすっきりしたのか機嫌良さそうに、人形から引き抜き、物理的に粉砕した短剣をバトンのようにクルクルと優雅に回しながら、海は言う。
だけど、まだ始められない。何も始められない。始めるには、わからないことが多すぎる。
だからゴンは、海の行動に慄きつつも尋ねた。
「……なん……で……? いくら……見えてないからって……、妹……ソラとそっくりなのに……あんなこと……」
往生際の悪いゴンに対して海は呆れたように眉を歪めるが、それでも案外付き合いが良いのかゴンの悪足掻きの問いを無視せず答えてくれた。
「あら? 気付いてなかったの?
「「!?」」
しかし、その答えはゴンの「何であんなことが出来るの?」という問いに対しての答えではない。ただの訂正。
海は固く閉ざしていた瞼を開き、空っぽの眼窩を見せつけながら語る。
「魔術回路や魔術そのものの副作用で五感のうちのどれかを失ってる、初めから機能してない魔術師は多いわよ。そのハンデを補うために、眼球そのものがなくても視界情報を直接脳に送り込む魔術ぐらいあるわ。
訂正して、そして語る。
微笑みながら、ソラの事を「可愛いでしょ?」と同意を求めて語った時とは全く違う、幼さも母親のような包容力もない、どこまでも硬質的に冷たく、何もかもを嘲るように、けれどもどこまでも美しく海は笑って語る。
人形を破壊したことで消えていたはずの怒気が、蘇っている。
しかし、その怒気はソラの人形を躊躇なく破壊したことを非難したゴンに向いていない。
彼女の怒りという地雷を踏んだのは、ゴンではない。
海は空っぽの眼窩を、怯えながらも足掻いて求めたゴンから移す。
真っ白な顔色で何も語らず固まっているキルアにその虚ろの眼を向けて、美しい唇は小鳥のように囀り語る。
「わからない? 想像できない? ……でしょうね。あなた達は……
……私は魔術師としてかなり優秀な部類かもしれないけど、時計塔の魔術師たちと比べても飛び抜けていたかもしれないけど、それでも私は手段を選べるほどではなかった。あの子と違って、突き抜けてなんかいなかった。どんなに深くても底が、果てがある、いつか必ず魔法使いでも魔術師でもない、普通の人間に神秘を剥ぎ取られるであろう『
そんな妹を持った私が、あの子をどう思っているかなんてあなた達にはわからないし、上っ面だけの理解なんて不快なだけよ」
キルアに対して囀るような声音で吐き捨て、海はくるりと優雅にターンして背を向ける。
バルコニーに向かう無防備な背中を見ても、キルアは動けない。
今がチャンスだ、逃げなくてはと思いながらも、足が動かない。頭がしびれたように、思考を麻痺させる。
キルアには、わからなかった。
ソラの人形の頭が粉砕された時、海を恐れたのは本物の彼女もあのように容赦なく残酷に殺されるかもしれないと思ったからか、それとももっともっと単純に自分があんな風に死にたくなかっただけなのかがわからない。
ただ、頭の中で鳴り響く兄の声がうるさすぎて、何も考えられない。
『勝ち目のない敵とは戦うな』
その声に逆らえない自分に、海は眼球のない顔で、今のソラと同じような状態の顔で、ソラによく似た顔で、失望の視線を向ける。
「偽物でも、人形でも、あの子が壊されても何も言えない程度なのに、執着しているの?」
「――え?」
その視線にか、それとも言葉にか、キルアはようやく反応する。
しかしその反応も、もはや今更。
海から失ったものは戻ってはこない。彼女は静かに瞼を伏せてから語ってくれたのは、おそらくはただの憐み。
「あの人形、クラピカっていう子の執心じゃないわよ。そんなの、とっくの昔に失敗作だと判断されて、オモカゲが捨てて私が壊したわ。
あれは、二代目。オモカゲが懲りずに、他の人間の執心ならと期待して作ってみたもの。
あれは、『あなたの
海の言葉に、キルアはもう戸惑いの声すら出せなかった。
彼女の言葉が聞こえているのかどうかも怪しい。
キルアの視線は、海を素通りしてバルコニーから現れた人物しか見えていない。
「キルア!」
隣で叫んでいるゴンの声すらも酷く遠い。
「大丈夫! あれも人形だよ!!」とゴンは言う。恐れる必要などないと言ってくれているのに、わかっているのに、キルアは願わずにはいられない。
夢であってほしい。夢なら覚めてくれ、と。
「どうしたの?
海の皮肉に、何も答えられない。
代わりに答えたのは、バルコニーから室内に入ってきた人形。
「うるさい」
艶やかな黒髪がボロボロのカーテンと同じように風に揺れる。
硬質で冷淡な声音が、海の言葉を切り捨てる。
第一印象では、こちらの方がソラよりもずっとずっと血縁関係があるように見える。
だけど、違う。「彼」は海ともソラとも関係ない。
「自分の妹もろくに躾けられなかったくせに、他人の家庭に口出しするな」
「あら、ごめんなさい。ついつい、羨ましくって」
「彼」の不愉快そうな言葉に、海はいけしゃあしゃあと答える。その「羨ましい」は皮肉なのか本心なのかはわからない。そんなことを考えていられる余裕などない。
なのに、海はどこまでも容赦なくキルアに突き付ける。
その人形は、そこにいるのは誰なのかを。
「――私と違って、弟思いでいいお兄さんね」
反論の言葉も浮かばない。
ただ、操られたように血の気を失った唇が戦慄き、呟いた。
「…………あ、……兄……貴」
イルミ=ゾルディックの人形を前にしてキルアが出来ることなんて、それだけだった。
* * *
ソラの人形は、人形だとわかれば冷静になれた。
けれどそれは、オモカゲの能力が人形となった元の人間の記憶を持ち、人格を正確に再現しているからこそ。
彼女ならオモカゲに逆らえなくても、姉と同じように本当に逆らえないのか? と疑う言動をやらかすのが目に見えていたし、なんならこちらが逃げるチャンスを与えてくれる期待も出来た。
だからこそ、キルアは動けない。
本人を正確に再現しているからこそ、何の期待も出来ない。
言葉はカラカラに乾いた喉の奥から出てこない。
足はその場に縫いとめられたように、動かない。
頭の中で、何度も何度も繰り返された言葉がこだまする。
『勝ち目のない敵とは戦うな』
キルアにとって、それは目の前にいる。
戦うことはおろか、逃げることも出来ない。だからこそずっとずっと逃げるしかない。
向き合わなかった傷を教えられても、向き合えない。だって相手の方こそ、自分と向き合ってくれない。
だから逃げるしかない、けれど逃げられない、いつもいつだって、これからだってずっと自分の言動を、心を縛り、支配するキルアにとって最悪の敵にして絶対の守護者。
たとえそれは本物ではなく人形だとわかっていても、実兄のイルミを前にしたらキルアは蛇に睨まれた蛙同然だった。
「キルア! キルアっ!!」
ゴンに呼びかけられて、肩を掴まれて揺すぶられても、キルアは紙色の顔に冷や汗を流すだけで動かない。動けない。視線さえも隣りのゴンに向かいはしない。
ただ、「信じたくない」「夢であってほしい」という願望を痛々しいほど表す目で、海の傍らに立つ兄を見ている。
そんなキルアの様子に思考さえも働いているかどうか怪しいと感じ取ったのか、ゴンは彼を抱えて逃げ出そうと算段し始めた時、イルミはゴンの思考を読み取ったかの如く口と、海と同じく固く閉ざしていた瞼を開く。
「俺の眼は闇しか映さない」
海と同じく空っぽの眼窩をさらして、空っぽなのにそこにはあの底など見えない闇色の、キルアの一挙一動を見張っていた眼などないのに、キルアはその伽藍洞の双眸に見据えられて息をのみ、自分を抱えて逃げ出そうとするゴンに抵抗するようにその場に踏ん張ってしまう。
海と同じように、イルミはキルアにもゴンにも悪意や殺意をぶつけてこない。そんなものは懐いていない。
だが、海とは違って悪意や殺意でもないのに、ただただ純粋に禍々しいオーラを放ち、纏い、威圧する。
逃げ場などないと、知らしめる。
逃げたいのに、逃げ出したいのに、逃げられない。
逃げられないことをわかっているから、せめて自分が受ける被害を最小限に、兄の機嫌をこれ以上損ねぬようにキルアはその場に留まってしまう。
それは自分を助けようとしてくれた人たちの努力を踏みにじり、イルミに媚を売っている卑怯な行為だという認識すらできない。
「そうであれ」としか、教えられてこなかったから。
「だからキル、お前の眼をもらえってさ」
キルアは逃げられない。動けない。
ソラとは違って自分の意思ではない。本意であるはずがないのに、それでもまるで差し出すように、その場に立ち尽くしてイルミが近づくのをただ待っている。
そんな弟に、空っぽの眼を向けたままイルミの人形はやはり人形らしく、そして本人らしく無機質な無表情で話しかける。
「そう、いい子だキル。お前は俺に逆らえない。……そのままじっとしているんだ」
「そんなことさせるか!」
キルアは何もできない。
だから代わりに、ゴンがイルミと向き直って啖呵を切る。
立ち向かいもしなければ逃げようともしないキルアにしびれを切らして、自棄を起こした訳ではない。それはゴンにとって当たり前の行動。
そもそも、ゴンにとって先ほどまで実行しようとしていた「キルアを抱えて逃げる」という行動すら、正確に言えば「逃げる」だと認識していない。
彼の行動は、したいことは、やろうとしていることは最初から一貫している。
ただゴンは、友達を守る為だけに行動する。
そんな彼を、眩いと思った。
見ているのが辛いくらいに眩くて、辛くたって見ていたいと思ったから、彼みたいになりたかったから、彼がくれたものと同じものを自分を与えたかったから、だから「一緒にいたい」と思ったはずなのに。一緒にいるはずなのに。
なのに、キルアは動けなかった。
また、昨夜のように彼はゴンに守られているだけで自分は何もしない。
そんなキルアを、海は瞼を固く閉ざしたまま魔術で視覚情報を脳に直接送りつけることで眺めている。
何も言わず、その表情からは何も読み取れない。
もう、失望すらも彼女はしてくれなかった。
イルミと向き合ったゴンは、先手必勝と言わんばかりにオーラを練り上げてイルミに向かって行くが、イルミはやはり人形なのか本人なのか全く見分けがつかない無表情のまま、予備動作なしで流れるように自分の体に突き刺さっている針を数本引き抜き、ゴンに向かって投げつける。
それを横手に転がるように避けつつ、ゴンの足は止まらない。
まだ遠距離攻撃である「パー」も、斬撃の「チョキ」も完成していないから、そのまま距離を詰めて唯一形になっている「グー」でイルミの人形に殴りかかるつもりだった。
「!!」
そんな友達の背中に、キルアは何も言えなかった。
指先どころか瞬きすら出来なかった彼が、何かを叫ぶように口を開いただけでもそれは、家にいた頃の、父親や長兄の教えが絶対だと思っていた頃のキルアからしたら快挙に等しいが、それでも彼の開いた口から声は出てこなかった。
「後ろだ!」と叫びたかった忠告の声は、言葉になる前に目の前の
「うわっ!」
キルアが何かを叫ぼうとしたことすら知らないゴンは、避けたはずの針が自分の背後の空間の揺らぎ……海の置換魔術によって飲み込まれ、そして死角から再び飛び出してきたことによって、ソラの人形と同じく床に倒れ伏して、虫の標本のように無様に床へと縫いとめられた。
不幸中の幸いは、ソラの人形とは違ってイルミの針が突き刺さったのはゴンの背中ではなく、彼のズボンや上着の裾や袖の端であり、ゴン自身は無傷であること。
イルミはゴンがどのような状態かなど見えていないはずだが、暗殺者として鍛え上げて研ぎ澄まされた感覚が察しているのか、自分のフォローをした海に礼も言わず、むしろ小さく鼻を鳴らして皮肉をぶつける。
「妹そっくりで甘いな」
「脳を破壊してその子の眼を濁らせたら、あの変態が絶対にうるさいのよ。余計な仕事を増やさないで」
しかし海は即座に「甘さではない」とイルミの皮肉を否定しつつ、辛辣に言い返して二人の間に冷たい空気が流れる。
イルミの投擲から海の置換魔術の追い打ちはあまりに息が合っていたので、容姿や雰囲気が似ているのもあって相性が良さそうだとゴンは思っていたが、全然まったくそんなことはないらしい。
ちょっと呑気にそんなことを思ってしまったが、そんな分析をしている余裕などない。
イルミと海は互いに相性の悪い相手だと認識しつつも、オモカゲからの命令だからか、それとも二人の素の性格が余計な口を叩き合うのは時間の無駄だと思ったのか、それ以上不毛な言い争いはせずに海はゴン、イルミは再びキルアの方へ近づいてくる。
「やめろ……! ゴンには手を出すな!」
それでも、わずかばかりイルミの関心が自分から海に逸れた為か、キルアはようやく握りつぶされ続けた言葉を発することが出来た。
もしかしたら、それはイルミに対してではなく海に対しての言葉だから言えたのかもしれない。
そのことを突き付けるように、海はキルアに対しても辛辣に、容赦なく返答する。
「出してほしくないのなら、自分で行動しなさい。この子と違って拘束されている訳でもないのに、図々しく要求だけして恥ずかしくないの?」
口先だけでキルアは何もしていない事を指摘され、取り戻したはずの言葉がまた失われる。
そして海の言葉に同感だったのか、彼女の言動に対して不愉快そうだったイルミは海に何も言い返さないどころか、その無表情は何らかの感情を隠しているのではなく本当に何も思うことなどないことを、彼の無表情に慣れている
この反論に関しては、イルミも文句などない。彼も同感に思っていることを、キルアはその無表情から読み取ってしまった。
「俺の忠告を破って友達を作ったんだね、キル。
……あれほど言ったのに。友達を作れば裏切られるだけだって」
イルミの言葉に、声は出ない。出せない。先ほどの叫びはやはり、相手がイルミではなかったから出せただけだと思い知らされる。
(そんなことない! ゴンは絶対に俺を裏切るなんてことはない!)
そう主張したいのに、そう言ってやるべきなのに、それぐらいしか自分に出来ることなど無いのに、キルアの口からはかすれた吐息しか出てこない。
呼吸だけで精一杯な弟に、イルミは伽藍洞の眼で見降ろしながら問う。
「それとも、お前が裏切るつもりで友達を作ったのかい?」
「ち、違う!」
今度は、否定できた。
けれどそれは、目の前のイルミが発するオーラが少しだけ納まったからこそ発することが出来た言葉。
兄の恩情で許された発言であることなど、知っている。
(今すぐ、こいつの口を黙らせないと――)
頭の中ではわかっている。イルミを黙らせないと自分はまた、1年前と、去年のハンター試験と同じ間違いを犯してしまう。
たとえ「本性」ではない言ってくれても、「本能」だから仕方がないと許してくれても、それでもキルア自身が絶対に自分を許せなくなる、父親に誓った約束を破ることになる。
なのに……
「お前は俺には逆らえない。口を酸っぱくして教えたからね。
――勝ち目のない敵とは戦うなって」
キルアの足は、動いた。
ただし、ゴンのようにイルミや海に向かうのではなく、彼らから背を向けて廊下に、階段へと向かう。
オーラは纏っているが、それは自分の身を守る為のもの。戦うために練り上げるのではなく、今にもグチャグチャに掻き乱れそうなオーラを寄せ集めて掻き集めて、悪あがきで身に纏っているだけのもの。
(確かに、今の俺じゃイルミには勝てない……! そうだ、一旦
自分が何をしているのか、キルアは気付けなかった。思考よりも先に行動に移して、その行動に後付けで意味を見出していることに、気付けなかった。
けれど、そんな真似は許されない。
だから、その小さな背中に兄は突き付けた。
「
* * *
突き付けられ、足は止まる。
言い訳が剥がれ落ち、キルアは自分のしたことを、あの時、海がレツを攫った時の自分の行動の「意味」を理解してしまう。
「でも、それでいいんだよ。大切な友達を置いて逃げるなんて最低な行為だけど……それが正解」
約束など、とっくの昔に破っていたことを思い知る。
去年のハンター試験と同じように、自分とゴンを天秤にかけてゴンを切り捨てた。
しかも今度は、ゴンの目の前で。
本性でなくとも、本能であっても、それでも最低な行為をした。誰が何と慰めてくれても、キルアの良心が永遠に許さない罪をまた犯した。
なのに……、それなのに…………
「やっぱり、俺の言う通りだったね。お前に友達を作る資格はない」
「うるさい! やめろ!」
否定する。
追い打ちをかけるイルミの言葉に、背後から否定の言葉が聞こえる。
キルア自身もイルミが正しいとしか思えないのに、間違いなく、どんな理由で言い繕っても自分が彼を見捨てたという事実は変わらないのに、友達を作る資格なんて、友達だと名乗る資格なんてないことを思い知ったのに、この行為はイルミの所為ではなく自分の弱さの所為、自業自得であるはずなのに……。
なのに……それなのに……、ゴンは床に縫いとめられた自分の服の裾を無理やり破って拘束から逃れ、その針を引き抜いて駄々をこねる子供のようにイルミに向かって投げつけ、叫ぶ。
傍らの、自分の眼を奪いに来ている海など眼中になく、ただイルミを怒りで赤くなった顔で睨み付けて、叫んだ。
「キルアに謝れ!」
キルアは悪くない、と。
見捨てられても、ゴンはキルアを庇う。
いや、きっと彼はキルアに見捨てられたとはそもそも思っていない。
言い訳に過ぎなかった、後付けの、ただの罪悪感から目を背ける為に付けた言い訳に過ぎなかった、「一旦退いて、態勢を整える」為の行為だとゴンは信じて疑わない。
下手したら、それさえわかっているかどうか怪しい。
彼からしたらそれはただの反射に過ぎないのかもしれない。
イルミの言葉に、指摘に、立ち止まって、立ち呆けたキルアの背中があまりに儚げで痛々しくて小さく見えたから、だからゴンはキルアが何をしたのか、自分は何をされたかなど頭から吹っ飛んで、ただ単純に「許せない」と思ったから怒って癇癪を起しただけ。
……友達が傷ついたという事実だけで、怒る理由は十分だった。
友達を傷つけたというだけで、許せる訳がなかった。
「……どの口が余計な仕事増やすなって言うんだ? 何、のうのうと拘束が解かれてるんだよ?」
「悪いけど、私は念能力者じゃなくて魔術師なのよ。
肉体は見た目通りの性能しかない私に、そこまで期待されても困るのだけど?」
ゴンに投げつけられた針は、ゴンの方を見もせずにやすやすと受け止められたが、それでもゴンの行動か言葉か両方かが酷く不愉快だったのか、イルミは無表情だった顔をわずかに歪めつつ、ゴンを無視して彼の眼を奪うはずだった海の方に怒りの矛先を向ける。
しかし海は全く悪びれず、昨夜は“絶”状態とはいえ素の肉体でゾルディックの「試しの門」をクリアしたゴンを掌底で吹っ飛ばしたくせにいけしゃあしゃあと、か弱いアピールしてくる。
互いにピリピリした皮肉の応酬を繰り広げつつも、やはりこの二人は手駒として、仕事人としては優秀。
言い合いながらも、海はイルミに再び向かって行ったゴンに向かって……正確に言えば彼の影に向かって持っていた短剣を投げつけ、その影を床に縫いとめる。
するとゴンの動きも同時に止まる。影を縫いとめられたことによって、自分の体の動きも封じられたと気付ける余裕はなかった。
「動けない!?」と思った瞬間には、海が動きを止めてなくてもおそらくは避けれなかったと確信できる、凄まじい蹴りを無防備な腹に受け、その衝撃には耐えられなかったのか床に刺さっていた短剣が抜けたことで、ゴンはそのままバルコニーのガラスをぶち割って廃墟の外に放り出された。
「ゴン!」
険悪に言い合っておきながら、自分たちの個人的感情を命令に、仕事に何の影響も与えないプロ意識の連携で吹っ飛ばされたゴンの名を呼び、キルアはもう一度階段に向かうが、その背中にイルミはもう一度言葉を投げかける。
「どこへ行くんだい? まさか友達を助けに……とか言わないよね?」
その問いに、「そうだ!」と啖呵は切れなかった。
わかっている。自分のしていることは、全部が全部今更であることくらい。
この足がゴンの元に向かうのは、本心なのか打算なのかもわからない。
また自分の最低な行為を、本心を突き付けられて思い知らされるくらいならいっそここで逃げ出してしまいたいとすら思っている。
だが、もちろんそんな逃避も許されない。
「あら、いいじゃない。行かせてあげたら?」
イルミの問いかけの体を装った、キルアの弱さと罪を突き付ける言葉に、海はしれっとキルアを味方するようなことを言い出す。
だが、彼女は決して味方ではない。オモカゲの人形である以前に、それは有り得ない。
その証拠にキルアの踏み出した足元に置換魔術を発動させて、ゴンの元にショートカットさせてくれたと言えば聞こえはいいが、彼女が繋げた空間はゴンのほぼ真上。
廃墟の廊下の床が蹴り出されたゴンとほぼ同じ高さの空間に繋げられ、そこから落とし穴の要領で落とされたキルアはとっさだったのと精神的に一杯一杯だった為、受け身を取る余裕がなく無様に地面に叩きつけられた。
「うぐっ!!」
「! キ……ルアっ!」
しかしそれでも、自分ははるかにマシだとかろうじて真上に落ちなかったゴンを見て思い知る。
“纏”でガードしていたはずなのに、ゴンは腹を押さえて苦しげに浅い呼吸を繰り返していた。オーラの鎧も貫通して、アバラが折れているのかもしれないほど、彼の額には痛みによる脂汗が浮いている。
それでも、彼は唐突に落ちてきたキルアを案じて名を呼んだ。
その事実は、キルアに喜びを生む前にあまりに重い罪悪感になっていることを、おそらく彼は知らない。
(俺は……何て弱いんだ!)
自分の弱さを思い知ることで死にたい気分に陥りながらも、それでもキルアは呼びかける。
この思いは、ゴンを心配する、彼が傷ついたことを悲しむ気持ちだけは本物であることを証明するように、イルミでも海でもゴンにでもなく、自分自身に知らしめるようにキルアもゴンの安否を尋ねた。
「大丈夫か!? ゴン!」
「蹴りが……全然見えなかった……」
答えつつ咳き込むゴンの口から血が混じった唾液が吐き出され、イルミの蹴りの威力を物語る。
だけど、これでも相当手加減されていたことをキルアは知っている。
ゴンを張り付けにした海の言葉からして、死体の眼を抉るより生きたままの方が都合がいいのか、おそらくイルミもオモカゲの命令で死なない程度の手加減をしていたのだろう。
だからまだ、チャンスはある。本気ではない。命令によって本気は出せていない、手加減されている。
それならまだ、自分たちにもチャンスはあるとキルアは自分に言い聞かせる。
「茶番だね……。どうせお前は友達を裏切るのに」
だけど、それは全てイルミの言う通りの茶番。キルアの自分に言い聞かせた希望など、兄の一言で儚く、泡のように消え失せる。
バルコニーから飛び降りてやってきたイルミは、キルアがゴンを担いで逃げる事すら考慮していない。そんな事が出来る訳ないの言わんばかりに、焦ることなくゆったりとした足取りで近づいてくる。
海は、バルコニーの柵の上に優雅に腰かけて、瞼を閉ざしたまま二人を見下ろしている。ゴンが手負いになったのなら、わざわざ自分まで向かう必要などないと言わんばかりに。
どちらも、キルアがゴンのように勝ち目がなくても歯向かって来ることなど考えていない。そんなこと、出来る訳がないと思っている。
そう判断させたのは、キルア自身。
「――そして、キル。お前はいつかその友達を……殺す」
イルミは断言する。
そう思われても仕方がないと、何もかも諦めた自分が言う。
1年前も、そう思ったから。だからせめて、やはり身勝手な保身で選んでしまった。
せめて友達を殺すのは自分自身ではなく、例え自分の所為であっても、自分が原因で元凶であっても、それでも自分の手を汚したくない。自分の手で殺したくはない。
ただそれだけの、あまりに身勝手でみじめで憐れな「せめて」という思いが、キルアの精一杯だった。
だけど……、だけど今は…………
『君は、大丈夫』
そう言ってくれた人がいるから。
魔法をかけてくれたから。
「そんなこと……ない!」
約束なんてとうに破っていた。ゴンは自分を助けてくれたのに、キルアは自分の保身ばかりを考えていた。
けれど、ゴンに傷ついて欲しくない、失いたくない、自分だってゴンのように誰かを守りたいのは本当だから。何度も何度も、自分自身が裏切り続けても、それでも捨てられないから。捨てたくないから。手離せないから。
だから、今度こそキルアはイルミと向き直って兄の言葉を否定する。
自分が「どこにだって行ける」という願いを込められた、赤い宝石を握りしめて。
けれど、キルアの精一杯は1年前よりはるかに成長していたとしても、イルミにとっては変わりない、か弱くてか細い、無意味な悪あがきに過ぎなかった。
「じゃあ、俺を殺せ。殺さないと俺がそいつを殺すよ」
「え…………?」
1年前のハンター試験の時と同じように、イルミは無表情で言った。
戦わないと、自分を殺さないと、ゴンが死ぬと宣告する。
(ビビるな、こいつはただの人形だ。勝てる……)
その宣告にキルアは自分に言い聞かせる。
可能性の魔法使いの弟子がくれたカーネリアンを、数多の、無限の可能性から自分が望む未来を選んで言い聞かせる。
彼女のように、「絶対に、大丈夫」と。
だけど、キルアは魔法使いにはなれなかった。
(でも、ノブナガが言ってた通りの能力なら、人形は兄貴と同じ強さ……。
それでも……勝てるのか? 俺が兄貴に……?)
無限の可能性の中にある見たくない可能性から、眼を逸らすことさえもキルアは出来ない。そしてその可能性が一番大きい事も、理解してしまっている。
その可能性が、キルアが選び取った可能性を、未来を食い潰す。
彼女がくれた「魔法」さえも、イルミの「呪縛」によって塗りつぶされる。
「ほら……早く……俺を殺しなよ」
イルミは無防備に、自分に近づいてくる。
オーラもほとんど纏っていない。体にはいつも通り針が刺さっているが、手には何も持っていない。海も、相変わらずバルコニーに腰掛けて眺めているだけ。
自分が舐められているから、甘く見られているからこそ、屈辱的だがそれは最大のチャンス。
(これだけ近ければ、いつでも
しかし、キルアの脳裏に浮かんだ地に伏せる死体はイルミではなく自分のもの。
(いや、俺が殺られるのか……!?)
イルミがキルアの傍らにまで辿り着く。
そして未だ座り込んだままの弟と視線を合わせるように、彼も膝をついて空っぽの眼窩を弟に突き付ける。
「キル」
その声が、魔法使いの弟子がくれた「魔法」を、彼女がくれた言葉を掻き消した。
(――ダメだ。勝てない……)
「正解だ。勝てない敵とは戦うな」
弟の思考など手に取るようにわかっていたのか、イルミは静かにそう言って、キルアのあごを掴んで自分の伽藍洞の眼と彼の眼を合わせてからオーラを増幅させる。
「“
「やめろおおぉぉぉっ!!」
イルミの眼窩から、黒い糸のような触手がキルアの眼に受かって伸びてきた瞬間、すく横でイルミの蹴りによって悶絶していたはずのゴンがキルアにタックルをかまして、彼を横手に転がす。
そしてそのまま、キルアのいた位置に自分が納まり、彼はよりにもよってその顔を、眼を、イルミの方に向ける。
何を考えてそんなことをしたのかは、わからない。
きっと、ゴン本人もわからない。彼は何も考えずにやった。
あのまま眼をイルミの方に向けなければ良かったのではないかとか、むしろ自分が身代わりになればキルアにタックルした意味もないのではないかなんて、考えていない。
ただ単に、彼は許せなかったから。非難の言葉さえも思い浮かばないけど、自分の怒りだけでも相手に知らしめたくて、相手が自分の怒りも眼中になくても、それでも許せなかったから。
だから、睨み付けただけなのだろう。
「!? ゴンっ!!」
その結果、イルミの眼窩から伸びてきた触手がゴンの眼球に絡み付き、抉り出し、代わりにイルミの眼窩に初めから彼のものであったかの如く嵌り込んだのを、キルアはただ見ているしか出来なかった。
* * *
「あら、そっちの眼にしちゃったの?」
ふわりと軽やかに海はバルコニーから飛び降りて海がイルミ言う。
別にこれは皮肉や嫌味のニュアンスはなかったからか、イルミも「うん。指示とは違うけど、これもいいね。世界が輝いて見える」と、案外普通に返答した。
そのまま海とイルミは「そんな風に思える感性があったのね」「そうだな。俺も驚いてる」などと、今度は皮肉の応酬ではなく天然同士のずれてるのに奇跡的に噛み合った会話を呑気に交わしているが、そんな会話に注目できる余裕は会話している二人にしかない。
「うぅ……」
眼球を奪われたゴンは、そのまま再び倒れ伏す。
眼球を抉られたこと自体にダメージもあるのだろうが、彼が纏うオーラの量も明らかに減っている。おそらくあの『
そのことに気付いてキルアは起き上がり、ゴンの傍らに駆け寄ろうとした。
「ゴン!?」
だけど、自分より遠くにいたのに自分より先に駆け寄ってきた少女……レツを見て、キルアは動けなくなる。
「ゴン! しっかりして!」
海に自分たちから引き離された後、自分たちを探していたのか、それともどこかに隠れて様子見をしていたのかはわからないが、何にせよレツは明らかに不穏なこの状況にも拘らず、何の躊躇もなく倒れ伏しゴンを心配して駆け寄り、泣きそうな顔と声でゴンを呼びかけ続ける。
(俺、何やってんだ……)
どう見ても、何度も何度もゴンに助けてもらったくせに、何度も何度も裏切って見捨てた自分よりもはるかに、レツの方がゴンの友達らしかった。
そう思える光景を目にしたら、もうキルアはゴンの傍には寄れない。近づけない。
『お前には友達を作る資格がない』
何度も何度も、イルミの声が、言葉が、呪縛が頭の中で反響する。
けれど、まだ諦めたくないから。
捨てられないから。手離せないから。イルミの呪縛に塗りつぶされても、彼女が「魔法」をくれたことは覚えているから。
だから、キルアは立ち上がる。
(せめて……ゴンの眼を取り返すんだ……!)
けれど、現実はどこまでもキルアにとって残酷だった。
立ち上がって向き直ったのに、肝心のイルミはもうキルアを見ていない。
「指示が変わった。オモカゲがこの眼を持ち帰れってさ。あと、お前もこのまま帰って来いって」
「あら、私はあの失敗作を壊す以外してないのにいいのかしら? 無能を責められそうで怖いわ」
キルアに見向きもしないで呑気に会話を交わしていた二人の言葉に、キルアは眼を見開く。
そしてそのまま口を開いて何かを叫びかけたが、ゴンの眼を得たイルミが海の空間置換ではなく一足飛びで距離を詰めて、そのまま弟を蹴り飛ばす。
ボールのように蹴り転がされたキルアの口から出たのは、血が混じった咳だけ。
「待て」とも、「逃げるな」とも、「返せ」とも言えなかった。言う事すら出来なかった。
「じゃ」
蹴り転がして苦しげに咳き込む弟など、イルミにとっては見慣れたもの。
だから彼は全く気にした様子もなく、いつも通りのマイペースさで片手を上げてキルアに別れを告げ、海が作り出した空間の揺らぎ、おそらくは本当のオモカゲのアジトに繋がった空間にそのまま躊躇なく飲み込まれていった。
それを咳き込みながら、見送ることしかキルアは出来なかった。
兄が消えたことを見送ってから、キルアは視線をゴンとレツに移す。
「ゴン! ねえ、大丈夫!? ゴン!!」
蹴り転がされて呻くキルアに見向きもせず、レツはぐったりしているゴンにひたすら呼びかけ続ける。
そのことを不服に思う気持ちなどない。自分なんて無視されて当然だとしかキルアは思えない。
『あんまりレツを信用するな』
『裏切られるのがオチだぞ』
自分がゴンに告げた言葉を思い出すと、笑えてきた。
どの口がそんなことを言ってるんだ? と、自分自身を何もわかっていない自分の発言の馬鹿らしさはもはや笑うしかなかった。
(裏切ったのは俺の方じゃねぇか……。昨日も、兄貴に目を奪われそうになった時も、ゴンは俺を庇ってくれたのに……! 俺は……!)
「いつまで寝ているつもり?」
後悔ばかりが湧き上がり、頭の中で埋め尽くされる思考の中に割り込んだ、凛とした声音。
イルミと一緒に帰ったと思っていたのに、いつのまにか海はキルアの傍らにまで近づき、瞼を閉ざしたまま立っている。
命令か独断か、キルアがあまりに無防備なのでやはり自分の眼も奪っておこうとでも思ったのだろうとキルアは判断したが、何もしなかった。
奪うのなら、奪って欲しかった。もう何も見たくなんてなかったから。
自分の愚かさを、醜さを、弱さばかりを見せつける世界なんてもう、見たくなかったから。
けれど、海はそんなキルアの身勝手な願望をもちろん叶えてはくれない。
むしろ彼女はキルアが見たくないものを、トドメと言わんばかりに突き付けた。
「……器からこぼれた水は、もう元には戻らないのよ」
それだけを言って、海は再び陽炎のような空間の揺らぎをを生み出し、その中に飲み込まれて消えてゆく。
もうキルアのしたこと、しなかったことは取り返しのつかない事態になっていると突き付けて、彼女は去って行った。
そんな残酷な宣告に対しても、もうキルアには海を「鬼」と思える余裕などない。
ただ、蹴られた腹を押さえながらゆっくり起き上がり、立ち上がって思ったことは納得。
(……あぁ。……その通りだよ)
海の言葉に全面的に肯定して、納得して、そのままキルアは歩き出す。
ゴンとレツの元ではなく、反対方向にそのままフラフラと力なく歩いて離れて行った。
「! キルア! どこに行くの!?」
そのことに気付いたレツが、戸惑いながら呼び掛け、叫ぶ。
その声音に非難や彼がいなくなることを喜ぶような色はない。
キルアはレツに無視されていたと思っていたが、どうやら彼女にそんなつもりはない、悪気などなかった、ただ単にひたすらゴンが心配だったからキルアの事は後回しになっていただけだと知らしめる。
キルアを責めてなどいなかった。
だからこそ、キルアは走り出す。逃げ出した。
自分を責めてなどいなかったから、ゴンより優先度は低くても自分の事も気にかけてくれていたからこそ、キルアはもうそこにはいられなかった。
(俺には……ゴンの友達でいる資格がない……!!)
* * *
器からこぼれた水は、もう元には戻らない。
過去は変えられない。自分のしたこと、しなかったことが生み出した結果は既に出てしまった。
自分は掛け替えのないものを、守りたかったものを、目先の保身を優先して失った。
そんなこと、わかっている。わかっている。
けれど、キルアは走って走って、何度も転んで、もう走る力も尽きて、けれどまだ少しでも離れたくて、立ち止まってしまうのが怖くて惰性で歩き続けながら、思い返す。
零れてしまったはずの水を、自分の愚かさ故に失ったものを、輝かしい、あって当たり前だといつしか思い込んでいた日々を、ただの未練だとわかっていながらも手離せずに思い返し続けた。
ちょうど1年前の今頃、初めて出会って同い年という事で興味を懐いた友達。
あのハンター試験の時は、正直言ってキルアはゴンを下に見ていた。
一次試験のマラソンで自分について来れたことを「やるじゃん」と完全に上から目線で評価していた。最終試験でゴンが自分よりチャンスが多い、期待値が高いことに関して不満を懐いていた。
けれど、本当は自分の方がずっと弱かったことを今更になって思い知る。
戦闘能力などはおそらく今でも、キルアの方がわずかばかりだろうが上のはず。けれど、それを生かす心根の部分はゴンの方がはるかに、ずっとずっと前から強かった。
そんな彼に、キルアは1年前のハンター試験の時から助けられてきた。
その頃から自分は全く成長できていないことを、キルアは思い知る。
(……これだけあいつと一緒にいて、あいつに助けられて、それなのに全然成長していないってことは……俺には成長の余地なんかないってことなのかな?
俺は……どんなに願っても、望んでも……、あいつが『魔法』をかけてくれても……それでも俺は、ゴンみたいにはなれない、そんな可能性はないって事なんじゃねぇのか?
………………俺に必要なのは、『変えることが出来ることを変える勇気』じゃなくて、『変えれないことを受け入れる理性』なんじゃねぇのか?)
思い返す日々があまりに眩く、愛おしく、手離しがたいからこそ、自分のしたこと、出来なかった事の罪深さを突き付けられ、キルアが欲した未来が、可能性が深淵に落ちて沈み溶かされ意味を無くしてゆく。
海が昨夜語った言葉を思い出し、皮肉げに、自嘲の笑みを力なく浮かべる。
自分は兄の言う通り、熱を持たない闇人形であること、それはどんな勇気をもってしても変えられないことだと受け入れるべきではないのかという思いが浮かび上がり、代わりにキルアの中から一つの言葉を沈める。
何が沈んでしまったのかは、もうキルアにすらわからない。
その言葉も、手離しがたい言葉だったはずなのに、全ての始まりにして終わりの深淵に沈んでしまえば、そこには何もかもあるからこそ無意味になり下がってもう取り戻せない。
だから……、もうキルアには「それ」も好都合としか思えなかった。
「ヒック……! おいこら、てめぇ! ぶつかっておいて何の挨拶もなしかコラ!」
一体どれほど歩いて来たのか、廃墟から町に戻って来てしまったのはまだいいが、あの廃墟にたどり着いた時刻は昼前だったにも拘らず、すでに辺りは薄暗い。
それは日は沈み始めているからか、それとも日の光を完全に遮るほど雲が厚いのかもキルアはわからない。彼は、いつから雨が降り出したのかすら気付いていなかったのだから。
キルアは千鳥足でうろつく酔っ払いに絡まれて、ようやく辺りの暗さと雨に気付き、ぼんやりとした目で一度だけ酔っ払いを見上げたがすぐにまた俯いた。
そして酔っぱらいは、軽く肩がぶつかった程度のキルアに大人げなく怒鳴りながらも、顔は赤らんでいるがそれは明らかに酒精によるもので怒りではない。
ニヤニヤと愉しげに嗤っていた。
見るからにチンピラで、酔ってなくても金銭を巻き上げる、鬱憤晴らしの暴力を振るえる口実があるのなら子供相手でも絡んでいるのだろう。彼にとって、それは娯楽に過ぎなかった。
だが、それはキルアの方も同じ。
酔っぱらいは、俯いて黙りこんでいるキルアの口角がわずかに上がっている事、自分よりもはるかに凄惨な笑みを浮かべていることに気付いていなかった。
(結局、兄貴の言う通り、俺はこっち側の人間なんだよな)
酔っぱらいの、チンピラが喚いている言葉など聞こえていない。
だけど自分に因縁づけて絡んでいることだけは、理解していた。
……殺したって自分の家に迷惑をかけるような奴でない事だけは、計算できていた。
だからキルアの手はビキビキと音を立てて、変形する。
指先の筋肉を収縮させて、猫の爪のように爪だけが飛び出したような、オーラを纏っていなくても下手な刃物よりはるかに鋭い爪を使いやすいように慣れた調子で変形させながら、キルアは誰に聞かせるでもなく呟いた。
「…………俺にはもう、守るものなんてないから」
恩情のつもりなどなかったが、それはチャンスだった。
酔っぱらいが逃げ出すチャンスだった。さすがに逃げ出した相手を追ってまで殺すほどの気力など今のキルアにはなかったから、彼は逃げるべきだった。
だが酔っぱらいのチンピラは、自分に全く恐れた様子もなく黙り込んでいたキルアに苛立っていた。何を言ったのかは聞き取れなかったが、自分の対して媚びて許しを乞う発言ではなかった事だけはわかっていたようだ。
「あぁ!? 何言ってんだ、ガキ! オラっ! 社会のルール教えてやるよ!!」
だから、酔っぱらいは、チンピラは、男は、手に持っていた飲みかけの酒瓶を高く掲げる。
そしてそのまま、キルアの頭めがけて躊躇なく振り降ろす。
(だったら――)
キルアも、同時に顔を上げて他人の命を刈り取る凶爪と化した腕を一旦引く。
引いて、勢いづけて男の胸に突き刺すはずだった。
男の胸を突き破って、心臓を抉り出して、握りつぶす。
自分が今まで散々してきたことを、もう一度繰り返すだけのはず。
その行為で、自分が何者か、自分の居場所はどこかを改めて確認するはずだった。
諦めて、受け入れて、切り捨てようとした。
自分が夢見た夢を。
陽だまりの中で、自分の好きな人達と生きるという夢を相手の心臓と一緒に、自分の手で握りつぶすつもりだった。
けれど、その手を突きだすことなど出来なかった。
「キルアッッ!!」
「!?」
自分と男の間に割り込み、自分を何の躊躇もなく包み込んでくれる人がいたから。
自分の手を突きだしてしまえば、抉り出す心臓は男のものではなくその人のものになってしまうから。
その人に手出しできなかったのは、「勝ち目のない敵とは戦うな」という兄の呪縛か。
それとも…………、それとも――――――
「キルア! 怪我はないか!?」
抱きしめた腕を少し緩めて、顔を上げて問う。
それはキルアのセリフだ。
自分と男の間に割って入った所為で、男が振り下ろした酒瓶はキルアではなくその人の頭に直撃して割れ、残っていた酒を頭から被った。
なのに、その人は……
雨だけではなく、きついアルコールの匂いがする琥珀色の雫も白い髪から滴り、顔に巻いた包帯にも染み込ませて、それでもその人は、彼女は、自分が殴られたことにすら気づいていないのか、眼を包帯で覆われているのに、顔の大部分が隠れているのに、泣き出しそうな顔でキルアの安否を問う。
震える手で、自分の手が何に触れてしまうのかを、取り返しのつかない事態を、器からこぼれる水を何よりも恐れながら、それでも彼女はキルアを抱きしめてくれた。
だから、キルアは言った。
言うべき言葉は、彼女を安堵させる為に「ない」と言うべきだったというのはわかっている。
だけど、キルアの中から、器からこぼれて深淵に沈んだはずの言葉が浮かび上がる。
意味などなくしたはずなのに、それなのにあの深淵の中でも足掻き続けた人が掴み取り、掬い上げられた。
「――――助けて」
キルアの声に、ソラは応じる。
「いいよ」