死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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24:安らかな夢を見よう

「…………クラピカ、疲れすぎて熱でも出た?」

「何のことだ?」

 

 クラピカの珍しい素直な言葉に、小鳥のような声を上げて真っ赤になって固まっていたソラが十数秒後、謎の結論を出して心配し始めた。

 

「だって美人とかイケメンとかは言われ慣れてるし、私も生まれた時から知ってるけど、可愛いなんて疲れて目が霞んでるとしか……」

「お前は自虐的なのか自信満々なのかどっちかにしろ」

 

 やはり真顔で心配したまま、その結論に達した理由を語りだすソラに突っ込みを入れて、クラピカはため息をついた。

 可愛げがあったかと思ったらやはりぶち壊すソラの歪みのなさに呆れ果てるが、いつものシリアスブレイクより長く保っただけマシだと思うクラピカも、相当ソラに毒されている。

 

「自信過剰じゃなくて自信満々って言うあたり、クラピカも私のこと美人とかカッコいいは素で思ってくれてるんだね?」

 もういつもの調子に戻ったソラがニヤニヤ笑いながら訊いてくるのを、クラピカは聞こえないふりをして無視する。

 いつもの調子に戻られたら、自分に勝ち目などなく振り回されるしかないことくらいわかっているから。

 

 クラピカに無視されて、ソラは唇を尖らせる。

「……ほーんと、男の子はすぐに成長しちゃうなぁ。昔ならすぐ照れて真っ赤になって狼狽えて面白かったのに」

「私で遊ぶな」

 やはりからかう気満々だったソラに、クラピカは不愉快そうに顔をしかめて言うが、無視よりどんなに辛辣でも反応してくれた方が嬉しいのか、ソラは笑ってクラピカの頭に手を伸ばす。

 

「あはは、ごめんごめん。でも、本当にクラピカは成長したね。背も伸びたし」

 髪をくしゃくしゃかき混ぜるように撫でられてながらそんなことを言われたら、もうクラピカは「子ども扱いするな」と文句を言うことすらできない。

 ほんのり頬を赤くしたまま、黙ってソラのされるがままになりながら、自分とほとんど同じ高さの眼をじっと見た。

 

 3年前もクラピカは別に小柄な方ではなかったが、ソラが女性にしては背が高いので見上げていた顔が同じ高さにあるということが嬉しいと同時に、まだ大きく追い越せてはいないのが男として少し悔しい。

 まだ自分の身長は伸びるだろうか? と少し考えながら、「……そういうお前も、変わった」と言ってソラの髪に手を伸ばす。

 

 自分と同じくらいの長さの、自分より細くて柔らかい白い髪を指先でつまみながら、クラピカは訊く。

「これは、どうしたんだ? ブリーチをつけたまま一晩寝たのか?」

「それやったら、色より先に毛根がつるっパゲるよね?」

 クラピカのソラなら有り得そうな可能性に、できればこんなバカらしい理由であってほしいという願いを、彼女はおどけて笑いながら否定する。

 

「気にする必要はないよ。これ、『あそこ』から逃げ出して『こっち』に来た代償みたいなもんだから。クラピカと別れるころには、もう髪の根元が既に真っ白だったし」

 笑顔も口ぶりも「大したことがない」と言い表して、やはりクラピカにソラは何も渡してはくれない。

 烏の濡れ羽や緑の黒髪という形容の見本だった、つややかな黒髪が対極の純白になるほどの恐怖を絶対に彼女は、話してはくれない。

 

 それはただ今更だから話す気がないのか、3年の月日がたっても語ることが出来ないトラウマなのか。

 それとも、自分が語るには足りない、頼りないと思われているのか。

 そんな風に自分で勝手にネガティブスパイラルにはまっていたら、ソラは頭を撫でていた手を離して、自分の髪に触れるクラピカの手を取った。

 

 そしてそのまま、自分の手と重ねて大きさを確かめて、嬉しそうに笑う。

「本当、私はこの髪くらいしか変わったところがないのに、クラピカはいっぱい変わったね。

 背も伸びた、手も私の方が小さくなった。友達も仲間も出来て、よく笑うようになった。そして、私を助けてくれるくらい強くもなった。

 本当に、君は強くなったんだね。さすがは男の子だ」

 

 ソラの知らなかった一面を見て、まるで同い年くらいの少女のように思えたが、それはやはり錯覚、もしくはその一面に限ることをクラピカは思い知らされる。

 全然、強くなどなれていないと思っていた。昔と同じく、ソラに庇われて守られて頼って助けられてばかりだと、ハンター試験中に何度も思い知らされて、自己嫌悪していた。

 それなのに彼女は、笑って言った。

 

 クラピカのたまたま運良く、少しだけ冷静になれたから3年前よりはマシな対応が出来た程度でしかない行動を、「助けてくれた」と。

 未だ一人で戦い抜く力などない、ソラや仲間に頼るしかない非力な自分を、「強くなった」と。

 心を読んだかのように、クラピカは自分が望む言葉を唐突にもらったことで思わず涙腺が緩んだが、なんとかプライドがその緩んだ涙腺を固く締め直して、相変わらず素直ではない言葉を返す。

 

「……その割には、私を妹だと思ったのはどこのどいつだ?」

「それはクラピカが、相変わらず美人過ぎるのが悪い!」

 

 クラピカの皮肉に胸を張ってドヤ顔で言い返すソラの頭を一回軽く叩いて、「悪かったな」と言って背を向ける。怒っても拗ねてもいない。ただ少しそう思わせていたいだけで、クラピカ自身もこのやり取りに少し笑っている。

 

 レオリオと話していて生まれた苛立ちは、……ソラをキルアやゴン達に取られた気がしてずっと胸の内でモヤモヤと溜まっていた幼い嫉妬は、もう完全に消えてなくなっていた。

 本当に自分は、ソラに構ってほしかった、3年前のように話したかっただけなんだと、自分の単純さに少し呆れつつ、そろそろ飛行船内に戻って休むことを提案しようとしたタイミングで、ソラは言い出した。

 

「あ、もう一つクラピカが変わってないところあった」

 言いながら、クラピカの背中に躊躇なく抱き着いてきた。

 

「!? 何をしている!? 女性の自覚と警戒心を持てと言っただろうが!」

 抱き着かれて自分の肩に顎を乗せるソラに、また少し頬を赤くさせながらクラピカが説教を開始するが、今度は神妙になど聞いてはくれなかった。

 ソラは超至近距離で実に嬉しそうで楽しそうで、彼がずっと見ていたい、与えたいと願ってやまない輝く笑顔で言い放つ。

 

「クラピカが相変わらず私のこと大好きなのが当たり前で、私も嬉しいよ」

「なっ!?」

 

 気にしないでほしい、忘れて欲しいと思って既に自分が忘れていた話題を蒸し返されて、クラピカの顔が真っ赤に染まる。

 今、この時ばかりはソラの輝く笑顔が見ていられなかった。

 

 * * *

 

「いやー、あの変態クラウンは本気で死んでほしいけど、クラピカの珍しいデレが見れたことだけはマジ感謝」

「忘れろ! 今すぐにその記憶を殺せ!」

 

 今すぐ逃げ出して毛布をかぶってのたうちまわりたい羞恥に襲われているが、ソラにガッチリ後ろから抱きしめられてそれもかなわず、クラピカは無駄な抵抗をしながら無茶を言う。

 

「あはは~、それはいくら君の頼みでも絶対にお断り。私の心に永久保存した」

「消せ!!」

「じゃあ、君もさっきの私の色々を脳内から削除してくれるのか?」

「………………」

 

 結局のところお互い様ということにして、クラピカは抵抗を諦めた。

 これから確実に何年たっても今日のことをからかわれるのが確定したが、ソラの性格からしてむやみやたらと人前で自分の発言を暴露することは確実にないことだけは救いだと自分に言い聞かせていたら、まだ抱きついたままのソラが言う。

 

「クラピカ。私は言われるまでもなく君のだよ」

「……ソラ?」

 

 一番忘れて欲しい発言を掘り返されたが、クラピカは照れ隠しで怒ることが出来ず、戸惑う。

 自分の肩に顎を乗せたソラは俯いていて、表情がよく見えない。

 ただ、自分を抱く腕の力が少し強くなった気がした。

 

 ソラはうつむいたまま、クラピカに自分の顔を、表情を見せずに語る。

 

「私は君のものだから、君が好きに使い捨てればいい。道具は壊れて、修理とかのしようもなければ捨てればいい。

 そこに『使いやすかったのに、お気に入りだったのに、惜しいなぁ』以上の気持ちなんか必要ない。道具なんか、使われて使いこまれて捨てられるのが本望なんだから。

 けど、これだけは忘れるな。私は君のもので、君が好きに使っていい道具だけど、そうなると決めたのは、そうであろうとしたのは私の意思だ。そこに、君はどうあろうが介入なんかできない。純然たる私だけの意思で、私は君のものなんだ。

 

 わかるか、クラピカ。つまり、君はいつ私を捨てても構わない。でも、私は君が捨てたってずっと私がそうであると思い続けている限り、君のものなんだ。

 壊れても、捨てたって、私は君のだよ」

 

 依存や執着と言い換えてもいい、異常な献身。

 おそらくはそうやって他者の為に生きていないと、生きる目的が明確にないとただ生きるために何もかもを犠牲にしてしまいそうな不安が、彼女をこの異常に掻き立てる。

 どんなに普段は支障なく生きて、まともに見えても決して消えず失われない、ソラを構成する狂気を目の当たりにしても、クラピカは動じない。

 

 その献身が異常であり狂っていると正しく認識していながらも、思うことは「自分はそこまでしてもらえるような人間ではない」という自虐。

 例え狂っていても傍にいて欲しくて、傍にいたくて、この狂気が彼女を生かすのならそれも受け入れたのはクラピカ自身だから。

 

「……バカか。お前は」

 クラピカは自分の首に腕を回して抱きしめるソラの手に、自分の手を重ねる。

「……捨てるわけが、あるか。壊れたって、何があっても私は君を捨てやしない。捨てられるわけが……ないだろうが」

 

 共依存という泥沼そのものであることは、互いにわかっている。

 それでも、自分たちはもう互いしかいないことを知っているから、手放せない。

 

 ゴンやレオリオのことを、クラピカはソラと同じくらい信頼している。

 ソラだってキルアのことを、クラピカと同じくらい大切に思っているだろう。

 それでも……、クラピカが試験前に出会った老婆のクイズのように、選ばなくてはならない時が来たのなら、きっとクラピカはソラを選ぶ。

 

 誰を犠牲にしても、ソラだけを選ぶ。

 

 ソラも同じだろうと、漠然とだが確信していた。自惚れだとは、みじんも思わなかった。

 だからこそ、あの言葉だ。

 狂的なまでの、献身だ。

 

 クラピカと違って、ソラと違って、ゴンにもレオリオにも、本人は嫌がって逃げ出したけどキルアにだって、帰る家が、帰りを待つ家族がいる。

 共依存だとわかっていても、どちらかがいなければ、出会えていなければ、何もなくて誰もいない、独りきりの二人なのだから、互いに手放せるわけなどなかった。

 

 独りきりで生きて、独りきりで後悔にまみれて死んでいくしかないより、二人で傷を舐め合いながら、人並みに後悔して死んでいきたかった。

 

 だから、手放せないのはソラだけの責任なんかじゃないことを伝え、そして訂正する。

「それに……ソラは道具なんかじゃない」

 

 かろうじて、今はつけられる名前。

 愛情の、関係の名前。

 

「……『家族』になろうと言ったのは、お前の方だろうが。……忘れるな。馬鹿者」

 

 まだ、どちらがどんな役柄であるかは名付けられない。

 それでも、ずっと一緒にいられる、離れたって繋がっていられる、誰にも脅かされないために必要な、ふさわしい関係の名はきっとこれしかない。

 

「……うん。そうだね。ごめん。そうだよね」

 

 ソラのクラピカに抱き着く腕の力が、少しだけ緩む。

 安心したように、こうやって抱き着いて縋り付かなくてもいいとようやく理解したように緩く、それでもまだしばらくソラは、クラピカを抱擁し続けた。

 

 クラピカも大人しくソラに抱きしめられながら、自分の不安が溶けていくのを感じる。

 眠ってしまうのが怖かった。ソラと再会した現在が夢で、次に目が覚めたらまた彼女がいないことが怖くて仕方がなかったが、もう夢だとは思わない。

 

 彼女は確かに、現実に、ここにいると思えた。

 夢の中で出会うソラもリアルだったが、本物はやはりクラピカの記憶と想像で作られたソラなんかよりもずっとずっと型破りで、めちゃくちゃで、予想外で、そしてクラピカにも知らなかった一面があって、壊れ果てていても自分を選んでくれる。

 

「……ソラ」

 自分の平凡な想像力なんかでは生み出されることのないソラの言動で、ようやくクラピカの懐いていた不安が消えてなくなり、3年前に預かり、そして縋っていたものを返す気になれた。

 

「すまない。長く預かりすぎたな」

 自分の左耳にぶら下がる、小さいが一目で上質な宝石だとわかるイヤリングを外して、ソラの目の前にかざして揺らす。

 3年前、クラピカのもぎ取られた腕を接合という大掛かりな治癒魔術に使用して、魔力が空っぽになったソラの姉の形見。

 おそらくはソラが向こうの世界から持ってきたものの中で、残っているものは彼女自身とこれのみだろう。

 

 それを見て、ソラはクラピカの肩に顎を乗せたまま言った。

 

「え? 何それ?」

「………………おい……」

 

 クラピカの低くなった声でようやく思い出したのか、ソラは慌てた様子で「え? あっ! 海のか! 姉さんのイヤリングか!」と言い出すが、遅すぎる。

 むしろその反応はいつもの空気を読まないがわざとやってるボケではなく、完全に素で忘れていたという証明である。

 

「姉の形見だろう! 何故忘れる!? 私にもやれないくらい大事だから預かっておいてくれと言ったのはどこのどいつだーっ!!」

 思わずソラの腕を振り払って向き直り、クラピカがキレた。

 あげられないから預かっておいてくれは、クラピカをあの場から逃がすための方便であったことは初めからわかっていたが、どうやらクラピカが思う以上に口実でしかなかったらしい。

 

 しかし、どんなに正論をかざしても、やはりクラピカはソラには勝てない。

 さすがにすっかり姉の形見をクラピカに渡していたことを忘れていたのは少々気まずそうだったが、クラピカにキレられたソラは開き直って胸を張って言いきった。

 

「君にもやれないくらい大切だけど、君以上に大事なわけないから、クラピカに会った瞬間存在を忘れて何が悪い!!」

 

 開き直りの詭弁であることはわかっていたが、詭弁でも先ほどからの言動と、自分に対して「嘘はつかない」という約束から言ってる内容そのものは本音であることはわかってしまい、クラピカは顔をまた赤くして言葉を失う。

 

 やはり、何年たってもソラの方が何枚も上手だった。

 

 * * *

 

 汗と少しだけ浴びた血をシャワーで流して、まだ髪が濡れたままのキルアは舌を打った。

 

「……何、だよ……。お前……」

 何を言いたかったのか、何に文句をつけたかったのかはキルア自身もわからない。

 ただ、無性にイラついた。右手と左足を使わずに自分をおちょくり続けたハンター協会会長以上に、今は目の前の光景が、二人が気に入らなくてしょうがなかった。

 

 毛布にくるまって眠る、ソラとクラピカ。

 それだけなら、いい。

 

 ただ二人はたまたま隣に座って眠っているのではなく、互いに寄り添って、ソラはクラピカの肩に頭を乗せて、クラピカもソラの頭に寄りかかるようにして眠っている。

 どちらも手を固く、しっかりと握って。

 

 誰かが一緒にいるのなら、その人の体温や感触を感じながら眠りたいとソラは言っていた。

 その体温が、誰じゃないといけないなど一言も言っていなかった。

 初めから、わかっていた。

 昔からそうであるのなら、3年前にたったの一月ほどとはいえ、自分より先に出会って自分より長く一緒にいたこの男が、クラピカが彼女のそんな弱さを知らない訳がない。

 

 ……歳に不相応なキルアの洞察力が察してしまう。

 きっと、ソラの「一人で眠るのが怖い」を解消してやったのは、クラピカが最初であることを察してしまう。

 少なくともソラは自分に対しては手を繋ぐだけで、同じベッドに入ることすらなかった。机で居眠りでもする体勢で、手を繋ぐことだけを求めていた。

 

 こんなにも近くで、眠ってはくれなかった。

 自分から相手の肩に頭を預けるなんて、しなかった。

 自分より、キルアよりはるかにソラはクラピカに心を許している証明のような光景に、胸が掻き毟られるように苛立ち、泣きたくなるくらいに気に入らなかった。

 

 つい先ほど廊下ですれ違いざまにぶつかった、ネテロに手も足も出なかった腹いせでバラバラにした受験生のように、無防備に眠っているクラピカも同じようにしてやりたいと思いながら、キルアは動けない。

 

 それをした時、ソラがどんな反応をするのか、どんな顔をしてどんなことを言われるのかが、想像できなかった。

 想像したくなかった。

 

 ……どう考えても、自分を許してくれるとは思えなかった。

 ソラの優先順位を見せつけられて、キルアは舌を打ってその場から離れようと背を向けたタイミングで、声を掛けられた。

 

「……キルア?」

 

 まだ眠たげな半眼で、それでも確かにソラはキルアを見た。

 

「何だ、まだ起きてたのか。夜更かししてたら身長が伸びないぞ」

「……うるせぇよ」

 

 寝起きだからか少しかすれた声で、隣のクラピカを起こさないように小声で言うソラに対し、キルアは不機嫌さを隠しきれず、振り返ることも出来ずつっけんどんに言い返す。

 そしてそのまま当てもなく、とにかくこの二人から離れたくて足を動かすが、たった一歩踏み出した時点で止められる。

 

「待ちなさい」

 背後のソラの声を無視してさらに歩を進めようとするが、キルアの足は動かない。動かそうとした瞬間、身が竦んだ。

 

「キルア。待て」

 自分の長兄やヒソカが放つ、気味の悪い正体不明の嫌な感じ。それよりはずっと悪意も殺気も威圧感もないが、妙な強制力を持つものを発せられて、キルアはほとんど条件反射で動けなくなる。

 

 その背中を眺めながらソラはため息を一度ついて、クラピカを起こさないように器用に彼の肩と頭に挟まる形だった自分の頭を抜き出して、逆にクラピカの頭を自分の肩にもたれかからせてから、振り返らないキルアの背中に言葉をかける。

 

「キルア。血の匂いがする」

 キルアは何も答えない。

 ソラは数秒だけキルアの返答を待つが、早々に諦めてまたため息をつく。

 

「もっと念入りにシャワーを浴びて体を洗っておきなさい。私はほとんど勘だけど、ゴンなら本当に匂いを嗅ぎとれる」

 叱りもせず、ただゴンに対してのことだけを心配して忠告する、相変わらずのドライっぷりにホッとする自分にイラついた。

 

 まだ、彼女に嫌われたくない、失望されたくないと思っている、女々しい自分が嫌で仕方がなかった。

 

 ソラの優先順位を見せつけられて、自分よりはるかに心を許していると思い知らされたのに、それでもキルアに諦めさせてくれない女は、何も答えないキルアに言う。

 

「キルア。そういえば昼間、結局説明しなかったな」

「……何のことだよ?」

 振り返らないままぶっきらぼうにキルアは返すが、疑問は素だった。

 その疑問に、ソラは答える。

 

「君とヒソカが違う訳。殺人と殺戮の違いだよ」

 

 その言葉に、キルアは振り返った。

 自分へと真っ直ぐに向けられた夜空色の瞳と、目が合う。

 キルアを見て、ソラは笑ってくれた。

 

 傍らのクラピカから手を離さないけど、確かにキルアだけを見て。

 

 * * *

 

「殺人は人が人を殺すという事だ。

 そして、殺戮は相手を自分と同じ人間だと認識せず、もしくは自分を人間だと思わず殺すこと。

 殺戮はな、豚や牛の屠殺や子供が虫の足を捥ぐのと同じ。同じ生き物だと認識せず、罪悪感が伴わない行為なんだよ」

 

 夜空色の瞳を細めて、ソラは語る。

 キルアからしたらイコールで結ばれてた、せいぜい人数くらいしか違わなかった言葉の違いを。

 

「キルアは、ヒソカとは違う。

 君は確かに倫理も常識も良識も罪悪感も薄いけど、ないわけじゃない。生まれ育った環境がそうさせただけで、君含めてゾルディック家は殺戮なんかしていない。

 君たちの家は、『罪悪感』を持っている。命を奪う代償を知ってる」

 

 十数分前に、腹いせと八つ当たりで人を殺してきたばかりのキルアを、違うと言った。

 ヒソカとは違うと、自分だけではなく自分の家を含めてあの狂人と同類ではなく、別物だと。

 

「『罪悪感』は『良心』だ。そして『良心』は『罰』なんだよ。

 その人が犯した罪に応じて、その人の価値観が自らに負わせる重荷。それが、『罰』だ」

 

 ソラの言葉に、キルアは本心から思ったことを言い返す。

 

「アホらしい。俺の家に……俺にそんな殊勝なもんがあるかよ」

 

 心からの本音でありながら、キルアの声は震えていた。

 論破などされようもない、どこにも穴も傷もない当たり前の前提であるはずなのに、容易くそれが崩されそうな気がした。

 自分の何かが根本から、組み替えられるような気がしていた。

 

 なのに、それから逃げようとは思えなかった。

 きっと、この当たり前だと思っていた前提が崩されたら、自分を構成していた何かを組み替えられたら、もう元には戻れないことはわかっていた。

 それでも……、それでもキルアは、ソラの言葉を待った。

 

「あるさ」

 キルアの想像通り、彼女は即答した。

 

「『良心』は、『幸福』と言い換えてもいい。

 人はな、幸福を知れば知るほど、感じれば感じるほどに自分の『罪』を目の当たりにして、それが重荷となって苦しむんだ。

 

『親の因果が子に報い』という言葉を知ってるか? 私の国のことわざなんだけどな。自分のしたことの罪を償わされるのは、自分自身だとは限らないって意味だ。

 キルアなら仕事柄、実例をよく見るだろう? 見せしめに、より苦しませるための復讐に、何か罪を犯した本人ではなくて、ただその人にとって大事な人というだけの、罪のない人間を殺せと依頼される。

 キルア。どうしてそれが、君自身にも適用されないと思っているんだ?」

 

 最後の問いかけで、キルアの脳裏に浮かんだのは今まで殺した人間の最期の顔。

 自分より幼い子供を、親の目の前で手にかけたこともあった。そういう依頼だった。

 親を、真のターゲットを絶望させてから殺してくれという依頼だった。

 そのターゲットが恨まれる所以に、子供は関連どころかその恨みが生じた当時、その子供の母親とターゲットは出会ってすらいなかったのに、子供は殺された。

 

 子供を殺されたターゲットの顔は、「絶望」以外に言い表すことなどできない顔をしていたことを、思い出してしまった。

 

「ゾルディックの教育方針とかは私もツッコミどころ満載だと思うけど、仕方がない面も多いよ。少なくとも、愛情は本物だ。

 あの家は、自分たちの犯した罪を知っている。自分たちの因果が、いつどこで誰に返ってくるかわからないことをよく知っている。

 

 だから、友達を作るな、仕事以外で家から出るなって言うのさ。仮に君が暗殺に何も携わっていなくても、もう『ゾルディック』というだけで君は、誰かから恨まれて憎まれているのだから。

 自分の因果が自分に返るのならまだしも、大切な家族に返って欲しくないって願ってるんだよ。

 キキョウさんも、イルミも」

 

 自分を縛る、自分の自由を奪う人間の名前を出されて、キルアは舌を打った。

 そんなことは初めから、昔からわかっている。わかっているのに、愛されていることを知っているのに、その愛情を不満に思うわがままな自分からずっと目をそらしていたのに、それもソラによって向き直らせられる。

 

「幸福であればあるほど、その幸福を壊されるのが怖くなって、普通ならしなくていい警戒して、普通に友達を作ったり外で遊んだり出来ないことが、『罰』でない訳ないだろう?

 

 だから、キルアやゾルディックは普通とは確かにずれてるし、なんか色々危ないのは事実だけど、君とヒソカは全然別。

 あれは自分以外に興味がないから、他人に因果が返ってくることなんかない。っていうか、なんとも思わない。自分に直接返ってきてもそれはそれで喜ぶドMだから、あれに因果応報を期待するのは無駄もいい所」

 

 最後の方はまたヒソカと何かがあったのか、やたらと嫌そうな顔で吐き捨てるようにソラが言ったが、ヒソカの話が終わればソラは、柔らかくまた笑った。

 

「キルア。あれなんかと同じなんて言い訳するな。無駄に罪を重ねて罰を背負うな。

 人を殺すななんて、私は言えない。私の手は既に汚れているし、誰もが平等に尊い命だなんて思っていない。死ぬことでしか社会貢献できない人間はいると私は思ってる。

 

 でも、君はどうやっても『殺戮』は犯せない。君は必ず、どんなに小さくても、薄っぺらくても、誰かを殺すたびに罪悪感を背負う。その罪悪感が、君から幸せの選択肢を奪って減らす。

 君が何を代償にしてそれを行っているのかを、理解したうえでやるんならもう私が口出しをする権利はない。

 でも、……知らないままにどこにも行けなくなるのを見ているだけは……、私には出来ない」

 

 結局、ソラはやはりキルアの「殺人」は責めも咎めもしなかった。

「殺人」を許容するくせに、他人であるキルアの未来を案じるソラに、キルアは一言だけ返す。

 

「お人よし」

「よく言われる」

 

 家族のことも家業も否定をしないで、それでも自分をヒソカのような闇ではなくゴンのような光と一緒だと言ってくれた人に返せたのは、素直じゃないただそれだけだったが、その言葉もソラはあっけらかんと笑って受け入れて流す。

 キルアの選択肢を、暗殺者以外のものを示しながら暗殺者を続けていくことすらも決して捨てずに残してくれたのが、今までキルアがしてきたことを否定しなかったことが嬉しかったけど、その喜びはやはり素直に表せられない。

 

 それはキルア自身の性格と、ソラの傍らで無防備に眠る男の所為。

 ここまで言われても、心配されても、欲しいものを与えられても、それでもキルアが欲しい「ソラの隣」を得ることが出来ないのが悔しくて、独占するクラピカが妬ましかった。

 

 だから、キルアはまたどこかに行こうとする。これ以上、みじめな思いなどしたくなかった。

 

「キルア。シャワー室はそっちじゃないぞ」

 

 なのに、心を読んだかのように欲しい言葉をくれるくせに、こういう時は本当に空気を読まない女である。

 

「……もう眠いから、また朝浴びるんだよ」

 呼び止めたソラに適当な言い訳をして、キルアはさっさとその場から離れようとするのに、ソラはクラピカの頭が肩から落ちないように器用に首を傾げた。

 

「? なら、ここで寝ればいいじゃん?」

 その言葉に、血が一気に頭に昇った。

 

 誰の所為で、ここにいられないと思っているんだ。

 誰の所為で自分はこんなにみじめな思いをしているんだ。

 

 とっさにそう怒鳴りつけそうになったが、振り返ってみた光景で一気に昇っていた血が下がって呆気に取られる。

 

 ソラは、所謂女の子座りしている自分の膝をポンポンと叩いて、「おいで」と言った。

 あまりにも自然に、キルアがいることは出来ない、奪われた、初めから自分の居場所じゃなかったと思い知らされた場所に、当たり前のように誘い、戸惑うキルアを逆に不思議そうに見る。

 

「どうした、キルア。自分で言うのも何だが、私の太ももはなかなか寝心地がいいと評判だぞ」

「誰にでもやってんのかよ!」

 

 いつもの逆セクハラに思わず反射で突っ込むが、幸いながら昼間の試験で疲れ果てているからか、割と大声が出たがクラピカや周囲の受験生たちは起きることがなかった。

 そしてソラも、キルアの突っ込みに悪びれた様子もなく、堂々と言い放つ。

 

「失礼な。そこまで私の膝枕は安くない。これは私が、一緒にいたい奴専用だ」

 

 この女、本当に人の心が読めてるんじゃないかとキルアは本気で疑った。

 しかしそんなキルアの疑いを露にも思っていないと言わんばかりにソラは、また首を傾げる。

 そんな彼女の様子を見て、さすがにバカらしくなってきた。

 

 奪われたような気がして、初めから自分のではないと思い知らされたと思い込んで、勝手に落ち込んで苛立っていた自分に自嘲する。

 

「……それ、たぶんめちゃくちゃ安いだろ」

 小馬鹿にするように笑いながら、キルアはソラの傍らまで歩み寄り、ゴロンと転がった。

 ソラの膝の上に、自分の頭を無防備に乗せる。

 

「……ちょっと高えよ。首が痛ぇ」

「すまんな。今、カンナは持ってない」

「削る気か自分の太ももを! そこまでされたらこっちが困るわ!」

 

 小声で言い合いながら、キルアはソラの膝を枕にして眼を閉じる。

 隣が奪われたのなら、初めからクラピカのものならば、逆隣を陣取ればいい。

 彼女から来てくれないのなら、自分から歩み寄ればいい。

 

 ただ、それだけで良かったことにキルアはようやく気が付いた。

 それだけで、胸の内の苛立ちは全部消えてなくなった。

 

 * * *

 

 翌朝、目覚めたレオリオが最初に見たものは、右肩に寄り掛かったクラピカの頭、膝の上にキルアの頭を乗せている所為で起きているのに身動きが取れないソラだった。

 

「……モテモテだな」

「いいだろう。羨ましいか?」

「いや、別に」

 

 やや寝ぼけた頭でそういうとソラはドヤ顔で言い放ち、レオリオは正直に答えておいた。

 ついでにあくびをしてから、普通に気になったことも尋ねる。

 

「お前、それで眠れたのか?」

 いつから左右をこんなにがっちり固められているのかは知らないが、どう考えてもソラ一人が重くて寝にくい体勢なのは確かだろう。

 しかしソラはその体勢を今も維持しながら、さわやかに笑って答えた。

 

「実はあんまり寝ていない」

 きっぱりと先ほど以上のドヤ顔で言い切ってから、ソラは柔らかく笑って自分の唇の前に指を一本立ててレオリオに言う。

 

「だから、このことは二人には内緒な」

「お前、良い奴だな」

 

 そんなわかりきったことを言って、とりあえずレオリオはソラから離れない二人に「朝だぞ」と声をかけた。





「痛覚残留」で幹也が語った「罰」の話が好きです。

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