死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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27:選んでよ

 クラピカは4次試験の舞台であるゼビル島に入ってすぐ、繁みをかき分けながらあたりを、特に背後を警戒しながら先に進む。

 

 トリックタワー攻略順に下船して上陸というルールだったため、数秒とはいえターゲットのトンパより先に1階に降りたクラピカは、ターゲットより先に島に入ることが出来た。

 自分のターゲットがわかっていないのならともかく、わかっていてしかもさほど間を置かず入ってくるのなら、入江近くで隠れてターゲットを尾行すればいいのはわかっている。

 だからこそ、クラピカはトンパの尾行をひとまず諦めた。

 

 トンパの性質の悪さを考えたら、尾行の最中に襲撃されてトンパに逃げられるのはまだいい方。

 あの誰かを失意や絶望の底に叩きつけることに対して、30年以上執着している歪んだ小賢しい男なら、その襲撃に便乗して何かちょっかいをかけてくる可能性も十分に有り得たので、クラピカは身を隠しながらせめて見通しのいい開けた場所を探す。

 

 彼女の宝石は、障害物が多ければ視認しにくくてこちらが不利になる。

 障害物でこちらが身を隠そうにも、あの眼を使われたら木々はもちろん岩さえも切り払われてしまう。それなら、初めから見通しのいい場所で戦った方がまだマシだと判断したから。

 

 気配は感じられない。それでも、確実にいることはわかっている。

 間違いなく、自分がしようと思っていたことと同じことを彼女が実行していると、クラピカは確信している。

 確信しているが、同時に未練がましく「どうして?」という思いが頭から離れない。

 

 その未練から、クラピカは懐にしまっていた番号札をもう一度確認する。

 何度見ても、その数字は見間違えではないし数字が変化することもないとはわかっていても、それでも何かの間違いだと思いたかった。

 

 自分のターゲットを示すものではなく、船の上でソラから渡された番号札。

 それはやはり何度見てもクラピカの受験番号、404と書かれていた。

 

 * * *

 

 試験なのだから誰であってもライバルだと思うべきであり、「どうして?」だの「有り得ない」と思うのは甘えであることはわかっている。

 それでも、クラピカはソラが敵に回る事態を想定していなかった。

 

 彼女はそもそも、何らかの目的があってハンターになりたい訳ではない。完全にあの女は運転免許くらいのノリでライセンスを欲しがっている。

 なのでこういう試験ならばクラピカに限らず、キルアなど自分と親しくしていた者がターゲットになってしまったのなら、ターゲット以外の人間3人を狩るか、もしくは「面倒くさい」と言って最初から諦めるのどちらかだと信じて疑わなかった。

 むしろ「諦めるな! 少しはターゲットが私だろうが誰だろうが蹴落として勝ち取ろうとする気概を見せろ!!」と説教しなければならない事態を心配していたくらいだ。

 

 それが実際、実行されたらこんなにも狼狽えている自分に自嘲しながら、それでもクラピカはまた「どうして?」と自問する。

 

『クラピカ。私は言われるまでもなく君のだよ』

 

 4日前、飛行船でクラピカの背にすがるように抱き着いて宣言した、ソラの言葉を思い出す。

 狂的な献身。

 誰かのために何かをしていないと、不安で仕方がない死にたくない彼女。

 そんな彼女だからこそ、甘えでも自惚れでもなく淡々とクラピカはソラが敵に回ることはないと確信して、信じて疑わなかった。

 

 ソラはハンターになりたい理由も、ならなくてはいけない理由もない。

 だからこそ、特に目的もないのに明確な目的を持つ者の邪魔など彼女には出来ない。

 ただ生きていたいがために、それを邪魔するものは自分の正気でさえも排除してしまったソラだからこそ、彼女は自分の「死にたくない」の一線を越えない限り、大概のものに執着しない。

 

 それどころか特に自分と親しくしている、自分をただ単に生きているだけの生き物にさせない、人間であることを踏みとどまらせる相手を、いつだって自分の事よりも優先して大切にする。

 ソラの「自己犠牲」は、彼女自身をさらに壊す狂気でありながら、ソラに残された最後の人間性であることを、そうさせてしまったクラピカが誰よりもよく知っている。

 

 だから、ソラがクラピカよりも自分を優先して、クラピカを蹴落としてまでハンターになりたいという目的が生まれたのなら、クラピカとしては今までの恩返しに自分のプレートを差し出してもいいくらいに喜ばしいことだ。

 

 だが、そうでないとしたら?

 ソラが「自己犠牲」以外の人間性を手に入れ、取り戻したのなら、何らかの目的を手に入れたのならそれでいい。

 けれどそうでないのなら……、やはりソラを動かすものが「死にたくない」という生物としての原初の願いと、それと矛盾する「自己犠牲」だというのなら……、ソラの目的が何なのかがクラピカにはわからない。

 

『クラピカ。頑張ってね』

 

 いつもの、クラピカがいつまでもあって欲しいと願う晴れやかな笑みで、何を思って彼女はそう言って、あの番号札を押し付けて去って行ったのかが、クラピカにはわからない。

 

 クラピカを狩る気がないのなら、ソラはその場で正直に言っただろう。

 だからあれは間違いなく、厄介なターゲットに当たったことに対しての激励ではなく、自分との戦いを頑張れという意味だということまで、クラピカは理解している。

 

 しかしその先が、その奥が、ソラの真意が、ソラが何を思って自分自身を「君が好きに使い捨てたらいい」とまで言ったクラピカの敵に回るのかが、わからなかった。

 

 ……ソラの真意を理解しても彼女と迷いなく戦えるわけなどないくせに、クラピカは答えの出ない自問を何度も何度も繰り返す。

 

「クラピカ。『前』がお留守だよ」

「!?」

 

 答えの出ない、意味のない自問を繰り返していたが、決して警戒を怠っていたわけではない。

 しかし、クラピカが完全に想定していなかったところから気配も殺気もなく、言葉通り降ってきたソラに奇襲される。

 

 まさかの前方にいきなり逆さ吊り状態のソラが現れて、クラピカの首に軽くだが痛みが走る。

 とっさに飛びのいて距離を置き、右手で木刀を構えながら空いている左手は自分の首にやる。

 血が出るどころか、おそらく痣にすらなっていない。強めに棒か何かを押し付けてなぞった程度の痛みしかなかったが、クラピカの呼吸は全力疾走した後のように荒く、全身からは冷や汗が噴き出している。

 

「あー、大丈夫大丈夫。これでちょっとなぞっただけだし、クラピカの喉には『線』も『点』もないよ」

 木の枝に猿のようにぶら下がって逆さ吊り状態だったソラが地面に下りながら、いつものようにあっけらかんと笑い、クラピカに何で攻撃したかを見せる。

 安っぽいキャップ付きのボールペン。

 それを突き付けて、ソラは言う。

 

「でも、どんだけ危ないことしてたかわかっただろう? 確かに人間は後ろに目がないんだから、奇襲するなら背後からが普通。一番警戒すべきところはそこだけど、だからと言って前をお留守にしてどうするんだ?

 背後を警戒してるんなら、他に警戒してなさそうな方向から攻めるのが当然だろう? 罠じゃないんなら、全方位を警戒しなさい。私じゃなきゃ死んでたよ」

「……むしろお前でさえなければ、避けれた可能性が高いんだが」

 

 ソラの説教なのかアドバイスなのかよくわからない言葉に、かすれた声でクラピカは返す。

 負け惜しみではなく、割と本音である。

 ソラの言葉は正論で、確かにクラピカは後方に警戒して意識の大半をそちらにやっていたが、ソラの言う通り目は前にあるのだからさすがに前方に対して意識がゼロだったわけじゃない。

 

 クラピカが反応できず、真正面から不意打ちで首をボールペンで攻撃されたのは、ソラは気配どころか殺気も敵意も一切なかったからだ。

 気配はともかく、おそらく殺気や敵意に関しては初めから持ち合わせていないのだろう。攻撃とは言えないことしかしなかったのが、良い証拠だ。

 

 しかしそれは同時に、クラピカの懸念が的中している証明でもあった。

 

「……ソラ」

 喉から手を離し、両手で木刀を構え、そしてまだ治まらない乱れた呼吸の合間に、クラピカは問うた。

 

「何故、……本気で攻撃を仕掛けなかった?」

「君にそんなこと出来る訳ないじゃん」

 

 クラピカが危惧した通り、即答された。

 やはりソラは、クラピカを蹴落としてハンターになりたい訳ではない。この女は相変わらず、相反する狂気でかろうじて人間性を保ち、生きている。

 

 それでも、クラピカは尋ねる。

 縋るように、悪あがきのように、ありえないとわかっていながら懇願するように言葉を重ねる。

 

「……ソラ。これは……試験だ。……私だからと言って、気を遣って手を抜かれた方が私は……不満だ」

 嘘ではないが、本音でもない言葉を重ねる。

 この言葉でいっそ、自分を本当に「ターゲット」として見て欲しかった。人間らしく、目的のために自分より弱くて未熟なものを蹴落としてほしかった。

 

 生きていたいくせに、自分の何もかもを削り落としていく生き方なんて、して欲しくなかった。

 

 しかし、ソラは夜空色の眼でクラピカをまっすぐに見据えて、尋ね返す。

「クラピカ。じゃあ君は、お望み通り私が本気で君のプレートを奪いに来たのならどうする気?」

 

 クラピカはその問いに即答できなかった。

 答え自体は初めから出ている。けれどその答えは、ソラの望む答えではない事もわかっている。

 望まないどころか、彼女の逆鱗であることすら理解している。

 

 しかし、嘘だってつけない。

 ソラがいつだって、自分に対して誠実に「嘘はつかない、約束は守る」を実行してくれているのに、その誠意に対して不誠実を返したくなどなかった。

 例え彼女にとって一番聞きたくない答えでも、それでもソラが望むのは彼女が聞きたい虚偽の答えではなく真実であることでさえ、クラピカは理解している。

 

 だから、かすれた声で答えた。

 

「…………無抵抗で……プレートを渡す」

 

 クラピカの答えに、ソラは目を伏せて一度ため息をついた。

 呆れているようにも、残念がっているようにも見えるその仕草は、クラピカの答えを予想していたのだろう。

 

「クラピカ」

 ソラは、一歩前に出る。

 前に出て、自分のすぐ脇に生えている木に殴りつける勢いでボールペンを深々と突き刺して言った。

 

「怒るよ」

 空色の瞳で、クラピカを見た。

 

 * * *

 

 スカイブルーに変幻した目に見据えられ、クラピカは動けない。

 呼吸さえも、一瞬停止した。

 本人が言ったように、クラピカに本気で攻撃を仕掛けるつもりなど毛頭ないのはわかっている。

 わかっているのに、生物の本能が警報を告げて今すぐに逃げろと訴えかける。

 

 ただ見られるだけで、自分の「死」を表層に引きずり出されるその眼から逃げろと本能は声高に叫ぶのに、クラピカの体そのものはまるで諦めて「死」を受け入れるように指先すらピクリとも動かない。

 

 そんなクラピカに、ソラは唇をとがらせて言った。

 

「君だって人のこと言えないじゃん。

 それ、勝ち目のない相手だからじゃなくて、『私』だからでしょう? ヒソカ相手でも君は、無抵抗でプレートを渡すなんてしない。絶対、出来る限りの抵抗をすることくらい、私はわかってるんだよ」

 

 口調もテンションも先ほど「前が留守」という指摘をした時と同じくらいなので、怒っているようには見えない。

 が、ソラはスカイブルーの瞳のまま、完全に蛇に睨まれた蛙状態のクラピカから目を離さず、話を続ける。

 明らかに怯え、畏縮してしまっているクラピカを見ても、そのことに何のフォローも入れない辺り、クラピカでなくともソラが本気で怒っていることを察することが出来るだろう。

 

「……クラピカ。君の『したいこと』は何?」

 

 尋ねておきながら、ソラはクラピカの答えを待たずボールペンをクルクル回しながら言う。

 

「君、3次試験で偽物の旅団(クモ)と戦ったんだろう? キルアとゴンから少し聞いたよ。

 別に偽物だってわかってたけどキレて、殺す勢いで殴っちゃったことに関して言うことは何もないよ。未だ虫の蜘蛛を見てキレるのだって、仕方がないさ。それだけ、君の心の傷が深いってだけの話だ。

 

 けどさ、君はその偽物を殴った後に後悔したんだろう? 負けをすでに認めてた相手に、手加減せずに殺す気で殴ったことを。

 そして、落ち込んだんだろ? 偽物だってわかってても頭に血が昇るくらいのクモへの憎悪を忘れていないことが喜ばしいとか口で言いながら、冷静さを保てず相手を殺してしまいそうになった自分に嫌悪したんだろう?」

 

 どこまで二人から聞いたのか、ソラは見てきたかのように3次試験、幻影旅団のメンバーだと名乗った囚人を殴りつけてしまったクラピカの心境を言い当てる。

 そしてもう一度、呆れているような残念がるような溜息をついた。

 

「クラピカ。私が言ったこと、覚えてる?

 私は君に、選択肢をあげる。君が選ぶのなら、復讐も否定しない。君が幸せになるうえで奴らが生きているという事実が邪魔なら、私は復讐を肯定するよ。

 けどな、クラピカ。私が肯定するのは、私が君に選択肢をあげるのは、君に幸せになって欲しいからだ。君の結末が幸福であってほしいからだ。

 途中経過がどんなに悲惨で血にまみれていても、君が最後に笑ってくれるのなら、私は何だって受け入れて肯定するさ。

 

 ……でもね、君が罪悪感で幸せになってはいけないと思っているのなら、ただ一時の感情を抑えきれず、その場に流されて暴走して後悔ばかりするのなら、…………君が幸せになる選択肢を選んでくれないんなら、私だってもう選択肢はあげないし、肯定してあげない」

 

 そこまで一気に言って、ソラはボールペンを突き刺した木をいきなり蹴り飛ばす。

「死点」を突かれていた木は、見た目こそは枯れた訳でもない、ただドリルで綺麗に開けたような穴が穿たれただけの木に見えていたが、ソラの蹴りで折れるのではなくボロリと幹は崩れて木っ端となり、葉はまだ青々しいのにボロボロと雨のように舞い落ちる。

 

 唐突な行動だが木の葉と木くずとなった幹でソラの姿が、死神そのものの眼が隠れたことでクラピカの金縛りが解け、とっさに彼は後ろに跳ぶ。

 このまま背を向けて逃げ出したいという自分の声と、背を向けてはいけない、彼女を見失った時こそ終わりだと訴える声。もうどちらがクラピカの生存本能による声かなんてわからない。

 

「……君に似た人を、……『正義の味方』に憧れた人を、私は知ってるんだ」

 

 蹴り砕いて目くらましにした木くずと木の葉の中から、空色の死神が飛び出てきた。

 目くらましにした意味は、自分が他の木の影や茂みに身を隠して奇襲をするためではなく、クラピカの金縛りを解く為でしかない。

 

 相変わらずソラに殺気も敵意もない。怒気ももうだいぶ薄れてしまって、ソラが語りかけながらでなければ、クラピカはやはり真正面からでも反応が出来なかったと確信する。

 

「その人も、自分が住んでた町を、家族を、全てを火災で失って、しかもそのショックで火災前の記憶を自分の名前さえも忘れたんだ。

 なのに、あの人は自分だけ生き残ったって罪悪感だけはいつまでも忘れられず、忘れずに持ち続けて、生き残ったからにはその分、誰かを助けて守って救わなくっちゃならないって思い込んで、善人通り越してそういうふうにプログラミングされて、そして自分を人間だと思い込んで、人間になりたがってるロボットみたいな、面倒くさいバカな人がいたんだ」

 

 ボールペンと木刀。

 間合いといい、強度といい、対等に戦える武器ではないというのに、ソラの振り回すボールペンは受け止めればクラピカの手がジンジンとしびれ、そしてソラ自身はするりとペンを傾けて、力を受け流して捌く。

 これでもクラピカの木刀が豆腐でも切るようにさっくり真っ二つになっていない時点で、ソラは何一つ本気を出していない。

 

 歯を食いしばってソラからの攻撃とは言えない攻撃を防ぎ、捌くクラピカを見据えながら、彼女は遠くのここにはいない誰かを見るように語り続ける。

 

「けどな、その人と君は決定的に違う。

 だってあの人は、最初から選んでた。『正義の味方』っていう未来を選んで、それ以外の選択肢を自分で潰して壊して全部捨ててた。

 

 私、あの人が『正義の味方』を目指してるって聞いて、本人に『バカですね』って言っちゃったよ。っていうか、今でも思ってるよ。

 そして本人もわかってたんだろうね。あの人、『正義は巨悪が生まれて、誰かが傷ついて不幸になることで初めて存在意義を得る』っていう最大の矛盾に悩み苦しんでたもん。

 

 ……でも、……それでも、私はあの人をバカだって思っているけど、あの人が『正義の味方になりたい』って思ったのは間違いじゃないって思ってる。目指したのは、その選択肢を選んだのは間違いなんかじゃない。

 あの人は今も昔もこれからもずっと、失敗と間違いにまみれて、その所為で負わなくていい傷ばかりを負って、夢を結局かなえることなく失意の底に沈んで死んでいくって私も、誰だってわかってる事だけどさ……、それでも、間違いじゃない。

 

 ……何でか、わかるか? クラピカ」

 

 木刀を交差させて、安っぽいボールペンを間一髪で受け止めたクラピカに、ソラは微笑みながら問う。

 今度はギリギリと鍔迫り合いをしながら、彼の答えを待ってくれた。

 

 クラピカとさほど変わらない細腕のどこから出しているのかわからない、一瞬でも気を抜けば直死など関係なく木刀を折られそうな力に耐えながらも、クラピカは答える。

 

「…………誰かを、救い、守りたいという願いが、間違いなわけないだろう」

 

 クラピカもその人物は間違いなく歪んでいるし、あまりに愚かな選択をしてしまったと思う。

 けれど、やはりクラピカも間違いだとは思わない。

 

 誰も傷つかず、悲しまず、泣かない世界が欲しい。

 理不尽や不条理で傷つき、泣かされる人を救って守りたい。

 

 そんな望みが、間違いであるはずはない。

 

 クラピカの答えに、ソラは微笑みを深める。

 

「そうだね。けどな、クラピカ。それは前提だ」

 微笑みながら、それは正しくても答えではないと言った。

 

 ビキリとボールペンの軸にひびが入る音がする。さすがにクラピカの木刀によるダメージを器用に受け流していたが、所詮はワンコインショップの品物。強度は限界らしい。

 しかし、ソラのように木刀で上手くソラの攻撃の威力を受け流すことは出来なかったクラピカの腕の方も、限界に近い。

 

 ビキビキと音を立てるボールペンが砕け散るのが先か、ジンジンと痺れる指が木刀を掴めなくなるのが先か。

 

 どちらも引かず、戦いのさなかとは思えない程ソラは柔らかく微笑みながら、クラピカに答えを教える。

 

「あの人は自分の夢が叶わない事、その夢が、理想が重荷になって枷になって、いつしか溺死することを知っても、『間違いなんかじゃない』って答えたんだ。

 あの人は、その選択肢以外じゃ自分が幸せになれないことをよく知ってたんだ。たとえ結末が、万人に裏切られて『正義の味方』からほど遠い死に様でも、そこで救えたものに価値はある、そこで生きていた自分は幸福だって自信を持って言える。そんな選択を、彼はしたんだ。

 

 それが、あの人が選んだものが間違いなんかじゃない理由。

 そして、君との決定的な違いだよ。クラピカ」

 

 パキッと軽い音がしたと同時にソラの足が跳ね上がり、ソラのごついエンジニアブーツのつま先がクラピカの手首に決まったことで、痺れていた指はあっさり反射で開いて木刀を一つ手放す。

 もう一つの方は何とか渾身の力を込めて手放すのを防いだが、折れたペンを即座に捨てたソラが空いた右手で木刀の切っ先を掴んで、ぐるっとひねられたことでやはり痺れていた手はいとも簡単に武器を手放した。

 

 武器を奪われたからには、もうクラピカには撤退しか残されていない。そもそも、初めからクラピカは撤退することしか考えていない。

 だから、武器を奪い返そうとはせず即座にソラの間合いから逃れようと後ろに跳ぶが、同時にソラが左手を伸ばしてクラピカの胸を掌で突き飛ばす。

 

 逃げようとしていた方向に勢いよく突かれたことで、バランスを崩して背中から地面に叩き付けられたクラピカの首の真横左右に突き刺さったのは、彼の木刀。

 

 クラピカの木刀を交差させて地面に突き刺し、マウントを完全に取ったソラはスカイブルーの眼で見下ろしていた。

 もう、笑ってはいなかった。

 

「クラピカ。君は、あの人と違って何も選べてない」

 

 憐れみも失望もない、ただ純粋に悲しげな顔をしてソラは言った。

 

***

 

 クラピカのマウントを取ったソラが、彼の武器を彼の首に突き付け、見下ろしながら語る。

 

「偽物だとわかっていても、虫であっても、4年前の悲劇を想起して逆上しちゃうのに、君は殺しかけた相手を『A級賞金首の名を騙った奴なんか同罪だ』って開き直りも出来ないんだろう? 偽物であっても許せないのに、それ以上に君は自分を許せないくらいに暴力なんか嫌ってるじゃん。

 

 仲間の眼を取り戻す為に、小金目当ての契約ハンターになるんだろう? でも、君の口から出る『ハンター』は君が親友と暗唱できそうなぐらい読み込んだ物語の主人公みたいに、誇り高い人たちばかりじゃん。

 

 選べないのは仕方がないよ。君はあの人とは違う。なんだかんだで平和な日本で生まれ育ったあの人と違って君は、今日ここまで生き延びるだけでもいっぱいいっぱいだったことはわかるよ。そんなこと考える余裕なんかなかったことくらい、わかってるよ!

 でも……、でもね、クラピカ……」

 

 終始、不気味なくらい穏やかだったソラが初めて声を荒らげた。

 唇を一度強く、血がにじむほどに噛みしめて、酷く何かを悔やみながら彼女は、悲鳴のような声を上げる。

 

「クラピカ。私は……待ってあげるよ。

 君がどの道を選んだら幸せになれるのかわからないのなら……、どうしても自分は幸せになってはいけないと罪悪感が苛むのなら……、その所為で選べないって言うのなら……、私はいくらでも待つよ! 待ってあげるよ! 待ってあげたいよ!!

 

 でも私以外は誰も、何も待ってあげられないんだ!

 ……時は誰にでも平等に流れて、君にあったはずの選択肢を奪っていく。時が流れたおかげで新しい選択肢が生まれることもあるけど、流れたら流れた分だけ失う数の方が多いんだ。

 ……待ってあげたいよ。君の選択肢を全部、君が選ぶまで守っていきたいよ!

 でも、無理なんだ! 君は、選ばなくちゃいけないんだ!」

 

 相手の生殺与奪権を握っているのは明らかにソラの方なのに、彼女の方がまるで命乞いをするかのように、懇願するように叫ぶ。

 情けなく、何もできないまま動きも封じられたのはクラピカの方なのに、自分の無力さを嘆きながら、ソラはクラピカに選択を強いる。

 

「……もう、ハンター試験は第4次だ。あと1つか2つの試験をクリアすれば、クラピカは『ハンター』になる。

 

 それは君の選択肢を広げるだろうけど、……君はバカ真面目だから絶対に、変な責任感を発揮するのが私には目に見えてるんだよ。

 ただでさえ生き残ったことへの罪悪感と、最後のクルタ族として誇り高くっていう使命感で自縄自縛なのに、君は絶対に『ハンターとしての責任感』を勝手に背負うだろう?

 

 なぁ、クラピカ。君はそんなものに縛られて、背負って、本当に混じりけのない、揺るぎのない、君自身の意志で君が幸せになれる選択肢を、選べるの?」

 

 ソラの瞳に映る今にも泣きだしそうな自分を見て、あまりに情けない顔をしているなと場違いなことをクラピカは考えた。

 そんなどうでもいいものを見て考えてないと、もっと情けない顔をしてしまいそうだから、現実逃避で考えた。

 

 ソラの泣いていないのが不思議なくらい辛そうな顔を直視したら、それこそ泣く資格などないのに、彼女にこんな顔をさせているのは、3年前に彼女が与えてくれた多くの選択肢を無駄にして、今も無駄にし続けている自分なのに、図々しくも泣いてしまいそうだから。

 

 だからクラピカは、あんなにも恐れた空色の瞳だけを見ていた。

 

「ねぇ。選んでよ、クラピカ」

 

 木刀を突き付けているソラの手が、カタカタと小さく震えている。

 自分で「クラピカの首に『線』も『点』もない」と言ったのに、それでも何かの間違いが起きることを恐れるように。

 拒絶反応のようにか細く震わせながらも、ソラは手を離さない。

 

「選んでよ! 復讐でも、仲間の眼を取り戻すでも、君の親友と約束したような冒険でも、全部でもいい! 別の何かでもいい!

 君が間違いなく、君の親友に『楽しかった?』って訊かれて、『うん』って答えられる結末になる道を選んでよ!!

 

 君の意思であっても君の本意じゃないものなんかに振り回されて、流されて、君が後悔しかしない道なんか選ばないでよ!

 君の意志で、贖罪なんかじゃない、君が幸せになる未来を選んでよ!」

 

 選択を強いり、求めながらも、ソラはやはりソラ自身がどうして欲しいかを口にしない。

 クラピカの幸せを求めることすら罪深く思っているように、また唇を噛みしめて彼女は叫び、懇願する。

 

「……どんな選択肢だっていい。君が幸せになるのなら、私はなんだって手伝うよ。君の幸せの邪魔になるものなら、君の幸福を奪うのならどんなものだって、罪悪感も憎悪も、君にこんな運命しかくれない神様だって殺してやる。

 だから……、だから、選んでよ」

 

 今にも泣きだしそうなのに、澄み切った(そら)の瞳は、淀みきった(から)の眼は、渇いていた。

 涙などとうの昔に枯らしつくしたような渇いた目で、ソラは泣き顔によく似た笑みを浮かべてクラピカに希った。

 

「――それでも、君が選んでくれないのなら、君が幸せになってくれないんなら、私は私が選んだ君に生きて欲しい道以外を全部殺す。

 それが嫌なら、……殺されたく、死にたくないのなら、足掻いてよ」

 

 もうクラピカは選択から逃げることも、目をそらすことも許されない。

「……そ、ら……わた、しは…………」

 

 未だ怯えて怖気づく自分の本能をねじ伏せ、かすれきった声で切れ切れに、それでもクラピカは答えた。

 初めから出ていた、答えを。

 

 

 

 

「君と……戦いたく……ない……」

 

 

 

 

 

 * * *

 

 ソラの言う通り、クラピカは何も選べていない。

 

 旅団への復讐を優先して、奴らをこの手で殺してもきっと自分は満足感も達成感も抱けず、ただ「人を殺した」という罪悪感を背負うだけであることは想像がついているのに、野放しには絶対にできない。

 奴らがのうのうと生きているというだけで、視界が緋色に染まるほどの憎悪は決して消えないから、殺さずに捕えるという手段を選んでも間違いなく、旅団と対面したら逆上して忘れ去ることさえも想像がついている。

 

 仲間の苦しみや無念の前では、自分の夢や誇りなど些細なことだと言い聞かせながらも、目的のために同胞の眼を慰みものにしている輩に媚を売る自分なんか想像したくない。

 だからと言って、復讐も眼の奪還も諦めてパイロと夢見た冒険などできない。

 虐殺された同胞に何もしなかった自分を責めぬいて、たとえどんな冒険をしてもパイロとの約束は果たされない。

 

 どんな道を選んでも、クラピカは後悔する自分しか見えない。そこから先がいつも行き止まりで、その先は何も思い浮かばない。

 どうしたら自分が幸せになれるかが、自分のことなのに何もわからずにいた。

 

 それは今だって同じ。

 ソラにここまでさせて、こんな顔をさせてもまだ選べない自分の愚かさと情けなさにまた死にたくなるが、それでも、たった一つだけ選んだものがある。

 混じりけのない、揺るぎのない、それ以外の選択肢など端から目を向けず切り捨てて、そして決して後悔はしない、手放さないと決めた選択肢。

 

「君と……戦いたく……ない……」

 

 「どうして?」と見苦しく足掻いて、意味のない自問をして、本当に敵に回ったとしたならば無抵抗でプレートを渡す以外考え付かなかったくらい、クラピカにとって退けない、妥協できない、選び取った選択を口にする。

 腕を伸ばし、自分の木刀を握るソラの手にクラピカが手を重ねると、彼女は怯えるように一度震えた。

 

 どうして、ソラがここでクラピカからプレートを奪う気もないのに、ここまでして選択を強いるのか、今更になってようやくクラピカは理解した。

 ソラはクラピカに「いつも通り綺麗な手だ」と言われて、嬉しそうに笑ってくれた。「ありがとう」とも言ってくれた。

 けれど、やはり彼女は自分自身のことを許してはいなかった。

 

 彼女はきっと、トリックタワーで直死を使って囚人を殺してしまった。

 選びたくなかった選択を、一時の感情に流されて、自分の意思だが自分の本意ではない選択をしてしまった。

 そしてゴンとキルアからあのマジタニという囚人との戦いを、偽物だとわかっていながらも逆上したクラピカのことを知った。

 クラピカはまだ、何も選べていないことを知ってしまった。

 

 だから彼女は、自分と同じ間違いを犯さないように、クラピカの敵に回っても選択を強いる。

 

 だからこそ、クラピカはまだ選べなかった。

 復讐も、眼の奪還も、幼い夢も、今はまだどれを選んでも後悔で自分から行き止まりに立ち尽くす未来しか見えないから、選ぶことは出来ない。

 

 だから、答えた。

 たった一つ、この選択を選ばなければそれこそ今ここで、クラピカはどこにも行けなくなる、後悔で動けなくなって、幸せになどなれなくなるからこそ選んだたった一つを。

 

「……ソラ。……私は……君とは……君だけは……何があっても、……敵になりたくない。……君を、傷つけたく……ない。傷ついて……欲しく、ない。……誰も……何も、殺して……ほしく、ない。

 

 ソラ……、私は……オレは…………君と、同じ道を歩いて……生きてゆきたい」

 

 雲一つない蒼天から、大粒の雨が落ちてクラピカの顔を濡らす。

 

「……酷いなぁ。クラピカ、それは反則だ」

 

 ソラはクラピカの答えに、そんな言葉を返す。

 渇いていたソラの眼から涙があふれて零れ落ち、それでも彼女は笑う。

 泣き顔の方がましな笑顔ではなく、どこか困っているように眉を八の字しながら、それでもくしゃくしゃに笑って泣きながら、ソラは答える。 

 

「そんなの、私だって同じだよ」

 

 * * *

 

「ごめんね、クラピカ」

 言いながらソラは涙を拳で拭って、クラピカの上から降りた。

 

「ソラッ!!」

 自由になった身を起こしてクラピカは彼女の名を呼ぶが、その後は続かない。

 泣きながらも、少し困りながらも、それでも嬉しそうに、救われたように笑いながらも、どこかまだ寂しげだった笑顔を見たら、何を言えばいいのかがわからない。

 自分の答えがあれで良かったのか、他に何かあったのではないかという後悔や不安が早速胸によぎるが、それでもやはりクラピカに答えられるのは、選び取れるものはあれだけだ。

 

 ソラは何も言えなくなったクラピカに、涙を拭って少し赤くなった目でまた笑う。

 今度はいつもの晴れやかな笑顔だった。

 晴々とした笑顔に、ミッドナイトブルーの眼。いつものソラがいつも通り明るく言った。

 

「ごめんね。何か色々勝手に心配して暴走しちゃった。

 でも良かった。クラピカが選んでくれて」

 

 クラピカの結局は先延ばしでしかない選択を是として、ソラは笑う。

 本当にクラピカが自分の意志で選んだものなら、彼女は肯定してくれるらしい。

 

 けれど、眉尻を少しだけ困ったように細めて彼女は言葉を続けた。

 

「けど、どうか覚えておいて。今日、私が言った事をどうか忘れないで。

 

 私は待ってあげれるけど、君はいつか必ず選択をしなくちゃいけなくなるけど、その時に残されている選択肢は何なのかはわからないってことを。

 でも、私はクラピカが選んだ道なら、君が幸せになってくれるのなら何だって、喜んで手伝うってことを。

 

それから……」

 

 忠告と、一人で何でも背負い込むなという念押し、そして……

 

 

 

 

 

「大好きだよ、クラピカ」

 

 

 

 

 

 ソラの言葉に、クラピカは一言だけ返した。

「……知ってる」

 

 答えて、笑う。

 きっと今の自分はソラと同じ笑顔をしている事を、自分の滲んだ視界でクラピカは知る。

 

 どうしてソラが、あんな顔をしたのか今はよくわかる。

 泣きたくなるほどに、嬉しすぎて少し困るくらいに、その一言だけで何もかもが報われたような気がして、けれど同時に突き付けられる不安が胸を掻き毟る。

 

 幸福になりたいのに、幸福にしたいのに、答えは見つかったのに、そこに至る道はまだ何も見つけられていないことが、今が幸せだからこそ怖くて仕方がなかった。




「殺人考察(前)」をオマージュした話。
「殺人考察(前)」の、「僕は死にたくない」「私はお前を(ころ)したい」のシーンが好きです。

「足掻いてよ」のシーンのソラの表情は、完全に式の「(ころ)したい」と言った時と同じ顔をイメージしてます。

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