死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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29:プライド

「結局、今日の収穫はこの天から降ってきたプレートだけかぁー。いや、ものすごくラッキーなんだけど、ラッキーすぎてなんか落とし穴がありそうで怖い」

 

 日が沈みきった森の中、自分が乗ってもびくともしない木の枝をベッドにして、ソラは足をブラブラ揺らしながら独り言を語る。

 小声とはいえ自分の居場所を知らせるような真似は、この試験では愚か極まりない行為だが、「一人」と「闇」を嫌うソラにとってこれは、唯一の拠り所。

 

 ここは、あの自分の声さえも聞こえない「最果て」ではないと自分に言い聞かせている行為だと、自覚があるのかどうかは謎だが、ソラは降ってきたプレートを指で弄りながら、眠くなるまでただひたすら自分の思考を語り続ける。

 

「うーん……。落ちてきた時、結構な勢いがあったから誰かがブン投げたんだろうけど、私を狙ったわけじゃないのは確かだよね。殺気も敵意も何にも感じなかったし。

 だとしたら誰が投げたんだよ? 奪われるくらいならって感じで、最後の意地で本人が投げた? それとも、ターゲットじゃないから腹いせにブン投げた? いや、ターゲットじゃなくても1点になるんだから、そんな奴はいない……ことないか。キルアあたりがやりそうだな」

 

 何気に犯人を見事に当てていることになど気付かず、グダグダと意味などないとっ散らかった思考を言葉にしていたら、さすがに少しウトウトしてきた。

 初日はクラピカとのやり取りと針男との交戦で自己嫌悪に沈みきって、ただでさえ寝つきが悪いというのに、その自己嫌悪とまた針男の襲撃や他の受験生に狙われる可能性に、いつも以上の警戒してしまって一睡も出来なかった。その疲れがようやく今、睡魔として出ていた。

 

「……今日は、……比較的……すぐに……眠れそう……」

 まだそんな独り言を呟きながら、ソラは眼を閉じる。

 今度は瞼の裏の暗闇から目をそらす為に、ただひたすら耳を凝らし、周囲の音を聞く。

 

 風で木の葉が揺れる音。

 梟の鳴き声。虫の羽音。

 そんな音を子守唄にし、ソラの意識が夢の端に触れかけたタイミングで、「それ」は起きた。

 

「!?」

 

 ソラが眼を見開くと同時に、ある方向から一斉に鳥が飛び立った。

「鳥目」という言葉があるくらい、たいていの鳥は闇に非常に弱い。こんな星や月明かり以外に光源が一切ない無人島の鳥が、夜中にいきなり飛び立つのは、非常事態以外の何物でもない。

 

 そう。例え全く前が見えていなくても、それでも「ここから離れなければならない」という本能の警鐘が鳴り響いた時以外、ありえないのだ。

 

 そしてソラも、同じ。

 鳥以上に、野生の獣以上に、命の危機に対して過敏なソラは、無意識のうちに両目にオーラを集めて、自分の眼の精度を上げる。

 闇夜の中、空色の瞳を瞬かせて彼女は、鳥が逃げ去る方とは逆方向を見て呟いた。

 

「…………ヒソカ」

 

 * * *

 

 悪意も敵意もない。

 獣が生きるために発するものとも大きく違う。

 

 それは、人間が持つ悪徳の頂点。

 

 愉悦による殺意そのものを肌に感じ、ソラの思考が「逃げろ!」一色に染まる。

 

 あの男は狂人だと言い切っていいが、自ら自覚して望んで狂った者であるため、性質は非常に悪いが会話や意思疎通はそれなりに成立していたのが唯一の救いだったが、今はあんなわずかな救いなど消え失せているだろう。

 確実にあの奇術師(クラウン)は今、自分の欲求のみで獲物を求めている。そこに人としての理知を求めるのは、愚か以前に自殺志願同然だ。

 

 そんな奴の前に自分が現れたら、いや、ソラの存在を感知されただけでもあの男は確実に、その毒牙をソラに向ける。

 なんだかんだでヒソカとは1次試験で渡り合ったが、ソラは自分の実力に全く自信などない。

 完全に殺す気しかないヒソカ相手に逃げ切れる自信も、この眼を使って殺せる自信も、ソラにはなかった。

 

 だから、本能が、原初の願いが、世界を超えてまでして逃げ出した、壊れ果てても失えなかった悪あがきが叫ぶ。

「逃げろ!!」と。

 

「……うるせぇよ!」

 その願いに、ソラは震える声で言い返した。

 

 ソラの本能が、全身が、この場から逃げろ、いっそ島から脱出しろ、何としても、何を、誰を犠牲にしても逃げ切れと叫ぶ中、たったの一欠片、ちっぽけでわずかな、それでも確かに存在する自分が訴えかける。

 

「ゴンは?」と訴えかけた自分の声を、ソラは確かに聞いた。

 

 ゼビル島に着くまでの船で、ゴンとキルアから3次試験のことを互いに少し話し、そしてお互いのターゲットを見せ合った。

 ソラの「404番」に二人は絶句したが、ソラもゴンのターゲットを知って思わず、「ご愁傷様」と言ってしまった。

 

 ゴンのターゲットは、44番。ヒソカだった。

 そして彼は、そのことを嘆くどころか若干喜びさえもしていた。

 

 真っ向勝負だと確実に、手も足も出ないことはわかっている。けど、プレートを奪うだけなら何とかなるかもしれないと、彼は言っていた。

 ヒソカ以外の誰かを3人狩るという方法は、眼中になかった。

 

 だから、ヒソカの側にゴンが潜んでいる可能性は極めて高かった。

 もしかしたらこの殺意の原因は、ゴンであることさえ別に不思議ではない。

 

 ヒソカの凶行の餌食になる可能性が、あまりにも高かった。

 

「……大丈夫。まだ、大丈夫。このハードルは、まだきっと越えられる!」

 怖気づく躰に叱咤して、ソラは“絶”で気配を消しながら向かった。

 

 おぞましいほどの殺意が滾る場所へ。

 

 一歩近づくだけで、全身から冷や汗が噴き出てくる。

 心が、嫌だ、怖い、行きたくない、逃げたいと泣き喚く。

 それでも、ソラの中のもう一つ、自分を突き動かす願いのままに、狂気のままにソラは夜の森を走り抜ける。

 

 3次試験では、逃げ出した。

 あの場でいきなり自分が逃げれば、あの殺気を飛ばしていた針男と彼らが取り残されるというのに、それなのに体は思考より先に動いて逃げ出した。

 

 約束は出来なかった。してやりたかったのに、少しでも彼を安心させてあげたかったのに、守りきれる自信などなくて、そして実際その通り、1時間もしないうちに自分の全身を血で染め上げた。

 ただ殺すだけではなく、自分が生き延びるために道具として利用した。

 

「人が人を殺せるのは、一回きり。人は自分の最期の瞬間に、自分を殺してあげて初めて、『人』として死ねるんだ。

 自分以外の誰かを殺した奴は、もう『人』としては死ねない。独りきりで寂しく、空っぽにとけていかなくちゃいけないんだ」

 

 友人の母親、「魔術師」としてではなく「人」としての価値観を教えてくれた人の言葉が蘇る。

 もう自分が、罪で汚れきっていることなどわかっている。

 彼女が言った、自分を殺す権利などとっくの昔に使い切って、借金を背負っていることなどわかっている。

 今、ソラが生き延びたところでいつか必ず、あの最果てに、終焉に、「 」に融けてしまうしかないことなど、眼を閉ざしていても思い知らされている。

 

 それでも、……それでも、今を生きているのなら、確かにここに存在しているのなら、手放せないものがあった。

 例えそれは、余計に自分を壊して狂わせるものでしかないとしても。

 それに意味を、価値を見出したから。

 

 意味を、価値を見出してくれた人がいたから。

 

 だからソラは、足掻く。

 

 逃げ出した卑怯者だけど。

 自信なんて何もない自分だけど。

 

 それでも、ゴンを助けるためにソラは駆けた。

 

 * * *

 

 見つけた瞬間、「ゴン!」と叫びかけた自分の声を何とか止め、“絶”で気配を消したままソラは、薮の中で身を潜めて様子を窺う。

 

 ゴンは倒れていた。

 しかし、死んでないどころか手を伸ばして何とか這いずって先に進もう、誰かを追おうとさえしていた。

 

 見たところゴンに目立った外傷はなく、体の動きからして痛みでろくに動けないというより、麻痺しているようだったので、ソラはヒソカではなく別の誰か、おそらくはゴンがターゲットだった受験生に襲われたと判断する。

 それなら一刻も早く、彼を抱えてこの場から逃げ出すべきだという考えと、その方が危険だという考えが一瞬争って、勝ったのは後者の考えだった。

 

 あのおぞましい殺気は、ソラがゴンを見つける数秒前に治まったことには気付いていた。それは安堵すべき情報ではなく、間に合わなかったという最悪の可能性の示唆でしかなかったから探した。

 そして見つけたのは良いが、ソラは近くにヒソカがいること、しかもこちらに向かっていることにも気付いていた。

 

 殺気が治まっているのなら、手負いのゴンを見つけてもヒソカは十中八九、手出しはしないだろう。せっかく自分好みの玩具に育ちそうな逸材を、こんな形で壊すほど後先が見えていない狂人ではないことを、不本意ながらソラは理解している。

 

 が、ヒソカの自分に対しての執着も知っているため、ここで自分が出てきて鉢合わせては、どう転ぶかがわからないので、ソラはヒソカが立ち去るまでゴンに近づかないと決めた。

 奴は、ソラに何を言ってどうすれば、かろうじて取り繕っている正気が崩れ落ち、暴走するかを学習してしまっている。

 ゴンを「ソラと本気で戦えるのなら、今壊しても惜しくない」と判断したら、躊躇なく殺しにかかるのが目に見えたから、ソラは適当な木の枝を手に、いつでも飛び出せるように準備だけをして、息をひそめて前に進もうと、自分のプレートを奪った相手を追おうとするゴンをただ見ていた。

 

(ごめん! ごめんね、ゴン! あいつが去ったら、すぐに助けるし治すから!! プレートを取り戻すのも手伝うから!!)

 自分の判断は間違っていないと思いつつ、逃げに入った判断であることも自覚しているソラは、心の中でゴンに謝罪をしながら待った。

 

 そして、予想外のものを見る。

 

「驚いたよ♦」

 

 やって来たヒソカは、蝶をまとわりつかせていた。

 このゼビル島に生息する、花の蜜よりも動物の血を好む、その名のとおり「好血蝶」が、何匹も彼の周囲をひらりひらりと浮遊するように羽ばたいている。

 

 トリックタワーで怪我をしていたが、ここまでまとわりつくほどだったか? と一瞬ソラは不思議に思うが、自分の位置からでは死角になっていた手が掴んでいる物を見て、納得した。

 奴は、まず間違いなく奴自身が掻っ切った人間の首をぶら下げていた。

 

 それが誰なのか、ソラには初めはわからなかった。あのおぞましい殺意の捌け口になった犠牲者かな? と思っていた。

 だが、倒れ伏すゴンに対しての言葉で、事情を察する。

 

「ずっと気配を絶ってチャンスを窺っていたのかい? ボクが誰かを攻撃する一瞬のスキを?」

 ヒソカのセリフの内容と、そこに含まれた称賛と感心という感情に、ソラは軽く目を見開いた。

 ゴンは本当にヒソカを狙って、そしてどうやったら格下の自分でも格上であるヒソカのプレートを奪えるか、考え抜いて実行したのだ。

 

「タイミングも完璧だった……。ボクが攻撃する際の殺気。その殺気に自分の殺気を紛れ込ませた♣ 見事だった♦」

 まるで愛弟子を見るように、本気で嬉しそうに笑って惜しみない称賛を口にしながら、ヒソカはゴンの手元に何かを投げ渡す。

 それは、二つのプレート。

 

 ゴンのプレートと、ヒソカ自身のプレートだった。

 

 ゴンは理解できないと言わんばかりに目を見開くが、ソラは「あー、これは大丈夫そうだな」と安堵する。

 どうやら、彼にとって誰かを殺したことよりも、自分が目を付けた獲物が自分の予想通り、もしくは自分の予想以上に美味しく育っていることが嬉しいらしく、非常に機嫌良さそうに彼は言葉を続ける。

 

「吹き矢にぬられた毒は筋弛緩系だそうだ♠ 通常なら回復に十日くらいかかるらしい♣

 残り四日、キミならまぁ、動けるようになるだろう」

 

 それだけ言って、ヒソカはゴンから背を向ける。

 その行為を、今度は信じられないと言わんばかりに目を剥いて、ゴンは回らないはずの舌を無理やり動かして言葉を紡いだ。

 

「待てよ……。プレートを……取り返しに……きたんじゃないのか?」

「ううん、ほめにきただけ♥」

 

 ゴンの問いに、ヒソカは即答。

 自分のプレートの代わりにつけた384番のプレートを指さし、ヒソカはこの上なく機嫌良さそうに答える。

 

「彼がボクの獲物だったから、それはもういらない♥」

 

 持っていた男の首を掲げてみて笑うヒソカを、ゴンは倒れ伏したまま睨みつけて言った。

「俺も……いらない……」

 

 幸運この上ない状況に、ゴンは甘えなかった。

 自分も狩られる立場だということを失念して、7千回も吹き矢で仕留めるチャンスがあったと言われた挙句、ヒソカからの恩情で合格なんて、彼のプライドが許さなかった。

 

 こんな状況で褒められても、それはゴンにとっては皮肉以外の何物でもなかったのだろう。

 

「そう言うなよ♠ それは貸しだ♣ いつか返してくれればいい♥」

 

 しかしヒソカは、ゴンの幼くとも確かなプライドなど気にも留めず、飄々と貸しを押しつけた。

 

「それじゃねー♦」

 相変わらず、この上なく楽しそうな声で別れを告げて、ヒソカは背を向けて去っていく。

 ソラは、まだ出て行かない。

 

 気配を消して、ただ様子を窺う。

 見届ける。

 

 していることは同じだが、今はもう理由が違う。

 気配を消しているのは、ヒソカではなくゴンに気付かれない為。

 今、出て行ってゴンを回収しないのは、ヒソカを刺激しない為ではない。

 

 ソラはゴンのプライドを守るために、「何もしない」ことを選んだ。

 

 ゴンが、入らないはずの力を全身に入れて、今にも膝から崩れ落ちそうな体で立ち上がるのを、見届ける。

 

「借りなんか……まっぴらだ……。今……返す」

 

 今、言葉を話せているだけでも驚異的だというのに、ゴンは立ち上がって突き出す。

 ヒソカのプレートを握りしめ、彼につき返す。

 

 その様をヒソカは、驚愕とも感嘆とも取れる顔で見て…………嗤った。

 眼や口が糸のように細まる、彼の独特な笑みはいつ見ても気色悪いものだったが、この時ゴンやソラが背筋に感じた悪寒は、ただその形に嫌悪したものではない。

 見たことのない、それでも存在するならば間違いなく同じ形をしていると確信できる、悪魔の笑みに含まれた喜悦が、生存本能に警鐘を鳴らす。

 

「くくく……断る♠」

 

 今度は、ゴンのプライドを正しく理解しただろう。

 した上で、ヒソカは嗤いながら踏みにじった。

 

 ヒソカは、持っていた生首を投げ捨ててゴンに告げる。

 

「今のキミは、ボクに生かされている♣

 キミがもっと殺しがいのある使い手に育つまで、キミはずっとボクに生かされているんだよ♠」

 

 ヒソカはゴンを称賛した、成長を喜んだ。

 けれど彼は、ゴンを自分と同じ生き物とはやはり認識していない。

 玩具であり、生殺与奪権を握っているのは自分だと、覚えの悪い子供に教えるように告げると同時、ヒソカの左手がゴンの右頬にめり込んだ。

 

 左フックが見事に決まり、毒で体の自由がきかないことなど関係なしに思いっきり、受け身も取れずに吹っ飛んだゴンを見もせず、そのまま歩き去りながらヒソカは言った。

 

「今みたく、ボクの顔に一発ぶち込むことができたら受け取ろう♦」

 

 圧倒的な力量差を見せつけて、ゴンのプライドを粉々に壊して踏みにじって、それでも戦うことを、強くなることを、自分という目標を諦めさせない、見えない鎖をその首にしっかりと結び付けた。

 

「それまで、そのプレートはキミに預ける♣」

 

 ゴンは、6点分のプレートを手に入れた。

 なのに、試験に落ちた方がマシなほどの敗北感を植え付けられた。

 

 この上ない負けず嫌いだと自覚しているのに、今すぐに立ち上がって、ヒソカの言葉通り、奴の顔に拳をぶち込みたいという気持ちは湧き上がらない。

 数分前のヒソカのプレートを奪えた高揚感と達成感が、自分の敗北を、弱さを際立たせて、粉々に壊されたプライドがさらに砂になるように崩れてゆく。

 

 敗北感が無力感に変わり、何もする気に起きずただその場に倒れ伏す。

 倒れ伏していた。

 

「ゴン」

 

 優しい声に、呼びかけられるまで。

 

「何してるんだよ?」

 

 白い髪に、夜空色の眼。

 男にも女にも見える外見に、子供にも大人にも聞こえる声。

 誰にも似ていないのに、誰かに似ている人が名前のとおり、晴れやかな笑顔で自分を見下ろしていることに気が付いた。

 

 その笑顔が何故かいつも安心できたのに、今はどうしようもなく会いたくなかったなと、ゴンは少し八つ当たりで思った。

 

 * * *

 

「……ソ……ラ……」

「はーい。ソラさんだよー。にしてもひっどい顔だな。誰にやられちゃったの?」

 

 とぎれとぎれに名を呼べば、いつものようにおどけて笑いながら、その場にしゃがみ込む。

 ヒソカに殴られた頬にソラの手が触れるが、受けた毒の所為か、それとも精神的なショックの所為か、痛みは全く感じない。

 視界もひどく歪んで、どこもかしこも現実感がないというのに、何故か頭は比較的クリアだ。

 だから、気付いてしまった。

 

「痛そうだね。とりあえず、移動する?」

 いつものように笑いながらこんな風に尋ねるソラは、つい今さっきやって来たばっかりではないと、気付いてしまう。

 おそらくはヒソカとのやり取りを全部見て、知ったうえでソラは、知らないふりをしてくれていることくらい、まだほとんどクラピカとキルア越しでしか彼女のことを知らないゴンでもわかった。

 

 本当に事情を知らなければ、ソラは間違いなくもっと狼狽える。自分のことのように痛がって、泣きそうな顔で心配する人であることを、ゴンは知っている。

 クラピカを守るために、自分に襲いかかってきたことを何度も土下座しながら、気にしていないと言ってもずっと涙目で謝り続けたことを、覚えているから。

 

 ソラは自分とヒソカとのやり取りを全部見ていたからこそ、ゴンのプライドを尊重して気を遣ってくれていることなんて、わかっている。

 だからこそゴンは、指先ひとつ動かない倦怠感の中、投げやりに言った。

 

「……放って……おいて……」

 

 気を遣ってくれていることはわかっていた。

 けれど今は、その優しささえも自分の弱さを憐れに思われて、同情されているようにしか思えなかった。

 自分の考えがひねくれた被害妄想であることだってわかっていたけど、もうこれだけしかない。

 

 プライドは砕かれて踏みにじられたから、もうゴンに残されているのは、幼くて意味などない意地しかない。

 

「やだ」

 しかしそんな子供の意地は、あっさり却下される。

「君は一人になりたいのかもしれないけど、私が嫌なんだ。だから、運が悪かったと思って私に付き合え」

 

 胸を張ってドヤ顔で言い放ち、ソラはそのまま地面にぺたんと座って、自分の膝の上にゴンの頭を乗せた。

 そして、ゴンの殴られた頬をいきなり摘まんだ。

 

「いっ!」

 さすがに短い悲鳴をあげて、脊髄反射で一瞬体も跳ねたゴンを、本気でおかしげにソラは笑う。

 そして少しだけ恨めし気に下から睨み付けるゴンを、まだおかしそうに笑ったまま彼女は言う。

 

「それにしても、ものの見事にやられたね。これぞない完敗って感じ。

 どうせ君のことだから、自分も狩られる立場だってこと、完全に頭から抜け落ちてたんだろ? あ、そうだとしたらまだ君は完敗ではないか。最悪、君は死んでても何もおかしくはなかったんだから」

 

 顔はまだ笑っている。しかし、最後の言葉は目が笑っていなかった。

 夜空色の眼が、ゴンを射抜くように真っ直ぐに見据える。

 

 その眼に、見覚えがあった。

 全然似ていない二人なのに、たった一つだけそっくりな所があった。

 そんな二人とソラも何故かよく似ていると、初めて会った時からずっと思っていた。

 

「ゴン。この試験はプレートを奪われても奪い返すチャンスが与えられている。だから、それを防ぐのに一番手っ取り早いのは、相手を殺すことだ。そうしたら、少なくともそいつはもう奪い返しにはこれない。

 ……ゴン、君は自分がどれだけ運が良かったか、わかっているか?」

 

 今度はもう、ソラは笑ってはいなかった。

 怒っていた。

 自分も狩られる立場だということを完全に失念して、ヒソカからプレートを奪うことだけに専念していたことを怒っている。

 その怒りを、ゴンはようやく理解した。

 

 あの時、自分を吹き矢で仕留めた受験生が言った「7千回」は、ゴンからプレートを奪うチャンスの数ではなく、ゴンを殺すチャンスの数であったことに今更になって気付く。

 どれだけ、自分の命を無防備に晒していたかということに気付いた。

 

「君はバカだ」

 

 真っ直ぐに見据えて、ソラに反論のしようがない断言をされる。

 

「ただでさえ毒で動きを止める程度で済まされていたのに、ヒソカに喧嘩を売って、せっかく助かった命を投げ捨てるような真似をするほど、君のプライドは大事なものだったのか?

 しなければ良かった余計なことをして、君が死んで誰かを泣かせてまでして、それは守らなければならないプライドだったのか?」

 

 言い返したいことはあった。

 けれどその反論も、「君が死んで誰かを泣かせてまでして、それは守らなければならないプライドだったのか?」という言葉で、声になることなく霧消する。

 

 言われて真っ先に思い浮かんだのは、自分を育ててくれた義母。

 自分はあの人の胎から生まれていないというだけで、間違いなく母親だと思っている大事な人の泣き顔が鮮明に浮かび上がり、何も言えなくなった。

 

「……ゴン」

 また、ソラの手がゴンの頬に触れる。

 今度はつまんだりはせず、そっとあたたかくて柔らかい手で、殴られた傷を覆うようにして撫でてくれた。

 そしてやはり、夜空の眼はまっすぐにゴンを見ている。

 ミトの泣き顔を想像して、後悔で泣きそうになっているゴンをその眼は映して、ソラの方も泣きそうな顔で言った。

 

「プライドは大事だ。それがなくちゃ、人は死んでいないだけの生き物になり下がる。

 生きていたいのなら、例え意味なんてなくても、価値なんてなくても、それでも貫き通さなくちゃいけないものを誰だって抱えてる。だから、君の気持ちは、君の悔しさは想像できる。

 でも、それはやはり生きているからこそのものなんだ。死んだ後じゃそのプライドは、ただ遺された人を悲しませる以外のものになりはしない」

 

 ゴンのしたことを叱りながらも、ソラはゴンの守りたかったプライドを肯定してくれた。

 否定など、ソラにできるわけなどなかった。

 ソラこそ、何の意味もなくても、価値がなくても、その「プライド」に縋って仮そめの正気を、薄っぺらい人間性を保っているのだから。

 

 だから、ソラは手を出さなかった。

 あの時、ヒソカはゴンに殴るくらいはしても殺しはしないと確信していたのもあったが、それ以上にソラがゴンを助けに跳び出さなかったわけは、あそこで助けたらゴンを生かしているのが、ヒソカではなくソラにすり替わるだけ。

 ゴンは結局、自分は誰かの気まぐれと恩情で生かされているだけだと思い込む。

 

 だから、ソラは言ってやる。

 ゴンの左手を取って、彼の左胸に、心臓の位置にその手をやって教えてやる。

 一度、プライドが粉々に壊されて空っぽになってしまった子供に、もう一度歩き出せる力を与えてやる。

 

「ゴン。君はヒソカになんか生かされてない。あいつが出来ることは、生かすことじゃなくて殺すことだけだ。そして、それは誰だって同じ。誰だって、生かせるのは自分自身だけだ。自分の力でこの心臓を動かして、息をして、考えて、生きていくんだ。

 

 ……だから、生き抜け。君の命は間違いなく、君のものだ。あんなエセ道化の戯言なんか無視していい。

 君のプライドは、君が死んだら無意味や無価値どころか、『こんなものさえなければ』と、遺された人に思わせる呪物になり下がるけど、生き抜いた先ならそれは、何らかの意味を見いだせるかもしれない。何らかの価値を得ているかもしれない。

 ……君自身が意味や価値を見出せなくても、意味はあると、価値はあると言ってくれる人がいるかもしれない。

 だから、生きなさい。今、生き延びたことを呪うんじゃなくて、幸運に思いなさい」

 

 厳しく叱りながら、どこまでもゴンのことを考えて、心配してくれる人の言葉と瞳。

 それは、本当によく似ていた。

 

 ゴンに人として大事なもの全てを教えてくれた(ミト)に。

 ゴンの命を救い、父を教え、夢を与えてくれた恩人(カイト)に。

 

 ゴンという少年を形作った人の面影を色濃く持つ人に、叱られ、肯定され、そして不安だったものを否定されたことで、ゴンの涙腺はついに決壊した。

 

 ボロボロと涙をあふれさせ、ヒックヒックとしゃくりあげながら、力が入らなかったはずの体を反転させ、ソラの膝に顔をうずめてゴンは泣きじゃくって語る。

 意味も価値もない、幼い意地を。

 それでも手放せない、生きる上で必要なプライドを。

 

「……ソラ…………悔しいよ……。……俺、……死にたく……ないけど…………それでも……悔しいよ」

「うん」

「殺さなくても……いいやって……思われたのが…………悔しい」

「うん」

「7千回も……チャンスがあったのに…………ヒソカの……プレートを……取るまで……見逃されてたのが…………悔しい」

「うん」

「…………ヒソカに……生かされてるって……言われたのを…………違うって……言えなかったのが…………すぐに……殴り返せなかったのが…………悔しいよ!

 悔しくて、悔しくて、悔しくて……………………」

「うん」

 

 泣きじゃくるゴンの背を、優しい一定のリズムで軽く叩きながら、ソラはゴンの言葉を一つずつ聞いた。

 その手の感触に心地よい安堵を感じながら、ゴンは弱音を吐きだす。

 

「…………弱いのは……嫌だ。…………強く……なりたい」

「なればいいさ」

 

 なれるとは、言ってくれなかった。

 それは突き放していながら、「弱くてもいい」という肯定だということを、ゴンは知っている。

 そうやって何でもかんでも受け入れて、決して選択肢を狭めるようなことをしない人だということを、二人からさんざん聞かされたから。

 

「ゴン。君は、なりたい自分になればいい。ヒソカの言ったことなんか、覚えておきたいところ以外忘れなさい」

「…………それ、全部忘れるより難しいよ」

 

 ソラの言葉に、少しだけいつものように笑えた。

 そのことをゴン自身よりもソラが嬉しそうに笑いながら、やはり彼女はゴンの背をあやすように軽く叩き続けた。

 

「忘れたい部分は、夢だと思えばいい。ちょうどいい。悪夢を見ないおまじないをしてあげるよ」

「……おまじない?」

 

 少しだけ、子供っぽくてやだなぁと思ったが、ソラが「そう。恐怖心を無くして、落ち着けるおまじないだ。魔術師の私がするおまじないだぞ? そこらの子供だましと一緒にするなよ」と言われて、その反感は消える。

 これだけであっさり反感が消えること自体が、自分は子供であるという証明だとわかっている。けれどそこは甘えたい子供の自分と、それを素直に表したくない、大人になりたい自分との折り合いで無視しておく。

 

 もう一度、ゴンがソラの膝に顔をうずめると、ソラがゴンの固い髪を撫でながら詠う。

 

「——空気のおもり(かるく、よわく)胸のふるえ(うまく、はやく)

 ひかりは先立つ(チクタクチクタク)かげは遅れる(いそげやいそげ)

 

 淡々とした、同じようなリズムの繰り返し。意味があるようでよくわからない歌詞。

 

鳥は空に(とぶ)魚は海に(およぐ)貴方は彼方に(かけぬける)

 疑問も不安も鞄の底に(チクタクチクタク)旅路の一歩は曙に(きてきをならせ)

 

 子守唄のように柔らかな声音で詠われた、おまじない。

 もしかしたら、やっぱりおまじないというのは方便で、本当にただの子守歌なのかもしれない。

 

輝く星はするりと落ちて(ほしはいつでもきたのそら)今は貴方の心の内に(どこまでも、いつまでも)

 

 それでも、良かった。

 ゴンだって本当におまじないかどうかなんて、どうでも良かったから。

 ただ、このあたたかな、あまりにも安心できる優しい場所から離れたくなかったから、聞いていたいだけだったから。

 

 繰り返される単調な詠唱に、すでに限界近かった瞼と一緒にゴンの意識は、あっさり夢の中に落っこちる。

 安らかな寝息が聞こえ始め、ソラはゴンの頭を撫でるのは止まず、詠唱だけやめる。

 

 そして、ちょっと気まずそうに呟いた。

 

「……呪文、間違えた」

 

 どこか物語性を感じさせて好きな呪文だが、これだとむしろ落ち着かなくなる失敗作の暗示の魔術であることに途中で気づいていたが、元々、本当に魔術を使う気はなく子守唄代わりに使っていたので、ソラは「ま、いいや」と開き直って、そのままゴンの頭を母親のように撫でつづけた。




ラストの「おまじない」の呪文は「魔法使いの夜」で青子が唱えていたもの。
間違えているのも、その通り(笑)
っていうか、すみません。正解を知らないんです。

初めは型月の魔術の呪文らしいものを作って、それでちゃんとおまじないさせるつもりが、ちょっとシリアス続きに疲れて、どうしてもオチを付けたかった結果がこれ。

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