探していた人物を見つけたので、クラピカは声を掛ける。
「ゴン」
呼ばれて振り返ったゴンは、一見いつもと何ら変わらない。穏やかで真っ直ぐで、底抜けに明るい少年だ。
しかし、クラピカはどうしても少し気になっていた。
プレートを集めたのかと尋ねた瞬間、わずかだが確かに空いた間。
レオリオに対して協力的というより義務的に思える程、ポンズの捜索に熱心だったこと。
昨日、自分達と合流した時に覚えた違和感が、その時ほどではないが未だに纏わりついていた。
「ここまで来れたのもゴンのおかげだ」
「そんなことないよ」
少しだけ雑談を交わしてから告げた感謝の言葉にも、やはり同じ種類の違和感があった。
返されたセリフは予想通りのものだが、クラピカの知る彼ならばそのセリフに宿る感情は、照れくささと子供らしい自分が認められた喜びや誇らしさだった。
しかし、今のゴンに宿る感情はどこか自虐的、謙遜や照れ隠しではなく言葉通り「そんなことない」と思っているような自信のなさが見てとれた。
触れるべきか、そっとしておくべきか。
クラピカは少しだけ考えた。
「……ゴン」
「ん?」
「4次試験中に何かあったのか?」
考えた結果、訊いた。
「合流した時の様子が少しおかしかったのが、気になってな」
以前までの自分なら何も語らないということは言いたくないということだ、相手が子供でもプライドはあるのだからそれは尊重すべきだと思い、何も聞かずにそっとしていただろう。
しかし自分自身を思い返してみたら、何も言わないのは、言いたくないのは、誰かに知られてその弱さをバカにされたり、弱さに失望されたくないからだ。
誰にも話さないで独りきりで自分の弱さを嫌って傷つき続けるより、バカにしないで、失望しないで、弱さを認めながら、受け入れながら、「君は強いよ」と言ってもらえた方がずっとずっと嬉しいことをもうクラピカは知っている。
自分より適役がいることも知っているが、ゴンに対しての感謝は本当だから、自分で気付いたのなら少しは自分でそういう役割を担ってやりたかった。
だから、クラピカは待った。
ゴンから答えを、ただ静かに待ち続ける。
「……俺の
「!」
少し長い間を空けてからゴンは答え、予想外な人物の名が上げられたことにクラピカは驚く。
が、同時にその名前だけでゴンの様子がおかしかった理由を察することができた。
今、ここに彼がいるという事は、ゴンは見事ヒソカからプレートを奪ったという事だが、良い意味で子供らしいゴンならそれこそ合流した時にでも自慢のようなイヤミさなど一切なく、親に今日あった一番誇らしかったことを報告するように話したはず。
それをしなかったということは、ゴンはヒソカのプレートを得ることは出来たが、彼自身が満足できる経緯で得たものではないということだろう。
「……スキをみて一度はプレート奪ったんだけど、俺も他のヤツに尾けられててさ、毒矢でやられてあっさりそいつにプレート取られちゃった。
結局その後、ヒソカがそいつから奪い返した自分のプレートを、俺に置いてったんだ。貸しだとか言って」
ゴンの語る話は、まさしくクラピカの想像していた通りだった。
「……いらないって言ったらぶっとばされて、『ボクを殴ることができたら受け取ってやる』ってさ。……やり返せなかった自分自身が、すごくくやしくて……」
今までしてきた失敗や挫折とは全く別の、自分の根幹を否定され、踏みにじられるような屈辱を思い出したのか、ゴンの声が涙で滲む。
が、彼は泣き出さなかった。
唇を噛みしめて、今にも零れ落ちそうなぐらいに涙を溜めつつも、ゴンは泣かなかった。
泣かずに、彼は言葉を続ける。
「……しかも、ヒソカにぶっ飛ばされるところ、ソラに見られちゃってたんだ」
「ソラに?」
自分がゴンにわざわざ傷を抉りかねないと理解しつつもこうやって尋ね、話を聞く原因である人物がいきなり出て来て、思わず話し終わるまで口を挟む気がなかったクラピカも声を上げる。
しかしこれも言われてみれば……と、4次試験終了後に彼女と再会した時の反応を思い返せば納得した。
ソラは再会した時、ゴンが全身傷だらけであることに驚き、「君の辞書、『反省』もしくは『学習』が落丁してるだろ?」と若干怒った声のトーンで彼女にしては珍しい皮肉を言っていた。
その時は意味不明で何のことか尋ねようと思っていたが、集まった4次試験合格者の中でどう見てもソラが渾身のビンタをかましたと思われる手形を顔面につけた者を直後に見つけてしまい、そちらの方が気になってゴンに言っていた言葉はすっかり忘れてしまっていたことを思い出す。
ゴンは目に溜まった涙を拭い、ソラに皮肉を言われた時と同じように気まずげに笑いながら、経緯を説明する。
「うん。……それで俺、ソラに叱られちゃったんだ。
俺が俺を狙ってたヤツに、それからヒソカに殺されなかったのは運が良かったからで、俺の意地とかプライドは生きてるから意味があるもので、死んじゃったら誰かを悲しませるものでしかないって言われて、すっごく怒られちゃった。
……でも、同時にソラはヒソカが言ったことも否定してくれたんだ。ヒソカは俺に、『キミはボクに生かされてる』って言ったんだけど、ソラは誰だって生かせるのは自分自身だけで、自分の力で自分の心臓を動かして、息をして、考えて、生きていくんだって言ってくれて、ヒソカの言ったことなんか覚えておきたいところ以外忘れろって言ってくれたんだ。
……嫌なことは夢だったと思って忘れろって言ってくれて、俺が眠るまで俺の愚痴も弱音も聞いてくれたし、ずっとそばにいてくれたんだ。
でも、朝起きたらいなくなってた」
前半はやや落ち込んだ様子で語っていたが、後半は嬉しそうに、クラピカが知るいつものゴンらしく笑っていたので、やはり彼女は自分より適役だったと思い知りながらクラピカはゴンの話を聞いていたが、最後でまたゴンの様子が変化した。
クラピカが「彼らしくない」と思う、空元気で笑いながらゴンは続きを語る。
「…………ソラはたぶん、気を遣ってくれたんだと思う。初めは、俺がヒソカにぶっとばされたのも、その理由も知ってたのに知らないふりをして俺の意地とかプライドを尊重してくれてたから、たぶんソラに会って叱られたことも、忘れたければ夢だと思って忘れられるように、俺が起きる前にどっか行っちゃったんだと思う。
……でも、俺はソラがそばにいて欲しかったんだ」
どこか寂しげに、彼は言った。
「甘えてるってのはわかってる。でも、俺はソラと一緒にいたかった。『強くなりたい』って言ったら、『なればいい』って言ってくれたから……。俺が弱いままでもいい、俺がなりたい俺になればいいって言ってくれたから、……だから、そばにいたかったんだけど……でも同時に、そうやってソラに甘える、弱いままの自分も嫌だった。
はは……。そんな風に俺、したいこととしたくないことがごっちゃ混ぜになって、自分のわがままさとか弱さが本当に嫌になって、なんか無性に情けなくて、淋しくなってさ、あまりにも自分の力が不足してるような気がして……だから、ソラのそばじゃなくて、ソラに甘えるんじゃなくて、他の誰かのそばにいて、誰かの役に立ちたくなった……のかな。
それで、2人を探しまわってたんだ」
ゴンの話を一通り聞いて、クラピカは一度ため息をついてまず言った。
「相変わらず、あの女は人の心の機微に敏いのか鈍いのか、他人に対して甘いのか厳しいのかがよくわからんな」
「あ、クラピカに対してもやっぱそうなんだ」
クラピカの言葉に、ゴンは少しだけいつものように笑った。
ソラが何を思って、ゴンのそばにいてやらなかったのかはわからない。
ゴンの想像通りゴンに気を遣った結果かもしれないし、ゴンが甘えないように突き放したのかもしれない。
もしくは自分たちがとても想像できない、理解不能な考えや理由があるのかもしれない。あのどこまでも斜め上に突っ切る思考回路なら、十分あり得た。
だが、これだけはわかる。
彼女はゴンが自信を喪失して、そのことを表に表わすことも出来ず空元気でいつもの自分を取り繕うことなど望んでいないことくらい、わかる。
だからこそ、ゴンと再会した時の皮肉だ。
反省も学習も出来ないのなら、己の辞書に書き込んでも肝心な時にその部分が抜け落ちてしまうのなら、初めから書かれていなかったいつものゴンの方がマシだという意味合いで、彼女は「落丁」と言ったのだろう。
もちろん、これはクラピカが勝手に想像したことにすぎない。
それでも、そういう人だと思わせるだけの彼女を今までずっとずっと見てきたから、だから信じている。
「ゴン」
だからこそ、クラピカがゴンに贈る言葉など決まっていた。
「私もレオリオも、そしてソラだってお前がいたからここまでこれたんだぞ」
同じ思いを懐いたから。
自分の弱さがどうしようもなく嫌で、誰かに自分の存在価値を認めて欲しかったから。
だから、クラピカはレオリオに協力すると申し入れた。
申し入れながら、他人を自分の自己満足に利用していると思って結局自己嫌悪したが、自分がそういう「利用される立場」になって知る。
「君に価値はある」と言ってほしい人だと思われたことは、決して悪い気分にはならない。
むしろこちらも誇らしいと思えることを知ったから、だから彼は伝える。
ゴンがこの言葉を望んでいるからではない。
心からの本音をクラピカは穏やかに笑いながら、真っ直ぐに彼の眼を見て伝えた。
「本当に感謝している」
クラピカの言葉に数秒間、ゴンはポカンとしていたが、彼は頬を指先で掻きながら答えた。
「……俺の方こそ、ありがとう」
照れくさそうに。けれど、どこか誇らしげに。
それはクラピカがよく知る、いつものゴンだった。
ようやくゴンがいつもの調子を取り戻したことでクラピカが安堵したと同時に、飛行船内に放送が流れた。
《えーー、これより会長が面談を行います。番号を呼ばれた方は、2階の第1応接室までおこし下さい。
受験番号44番の方。44番の方、おこし下さい》
放送を聞き、クラピカとゴンは顔を見合わせて同時に呟く。
「「面談……?」」
* * *
「まぁ、すわりなされ」
面談トップバッターにして今年度ハンター試験で一番の問題児が、座る前にまず訊いた。
「まさかこれが、最終試験かい?」
「全く関係がないとは言わんが、まぁ参考までにちょいと質問する程度のことじゃよ」
ヒソカが最も望まない、戦闘が全くない試験ではないことにとりあえず納得したのか、大人しく彼は座り、面談は開始される。
「まず、なぜハンターになりたいのかな?」
最初の質問は、まるで就職の面接じみた志望動機だった。
もちろんヒソカの志望動機が平凡なものであるはずもなく、当り障りのない動機を取り繕う訳もない。
「別になりたくはないけど、資格を持ってると色々便利だから♥ 例えば人を殺しても、免責になる場合が多いし♠」
何の美点にもならない正直さを発揮して答えるが、ネテロはヒソカの危なすぎる思考に何の興味も示さず、さらさらと言われたことそのままメモしながら、さっさと次の質問に移った。
「なるほど。
では、おぬし以外の9人の中で一番注目しているのは?」
ネテロの次の問いに表情は変えぬまま、ヒソカは数秒の間を置いて答えた。
「100番。
99番と405番も捨てがたいけど、やっぱり彼女は別格♥ この二人はいつかだけど、彼女とは今すぐにでも手合わせしたいなぁ♦」
今にも鼻歌を歌いそうなぐらい機嫌よく彼は答えて、低く笑う。
それをネテロは冷めた目で眺めながら、次の質問に移った。
「ふむ……。では、最後の質問じゃ。
9人の中で今、一番戦いたくないのは?」
「それは、405番……だね♣」
顎に手をやり、100番を上げた時より真剣みを増した表情だが、ヒソカの答えはほぼ即答だった。
「99番もそうだけど……今はまだ戦いたくない……という意味では、405番が一番かな♦」
単純に「戦いたくない相手」を答えるのではなく、ネテロが言った「今」という部分を重視して彼は答える。
そしてやはり、「今」という部分を重視してヒソカはまた彼独特の不気味な笑みを浮かべ、粘着質な殺気を増幅させて遠慮なくネテロにぶつけながら言った。
「ちなみに今、さっきあげた100番以上に一番戦ってみたいのは、あんたなんだけどね♠」
無礼・不躾が過ぎた尊大すぎる発言だが、ネテロはサラサラとヒソカの答えをメモして、そのメモを眺めながらしれっと言った。
「うむ、御苦労じゃった。さがってよいぞよ」
「…………」
お前はどこの殿だと突っ込みを入れたくなる口調は、素だったのかヒソカをおちょくっていたのかはわからない。
それぐらい、プロハンターのメンチも冷静さを失う程、気色の悪い殺気をぶつけられてもこの老人は一貫していた。
無視や無反応というより、風に揺れる柳のように何もかもを受け流すその態度に、ヒソカは少し不満気だが素直に部屋から出て思う。
(くえないジイサンだな♠ まるでスキだらけで毒気ぬかれちゃったよ♣)
そんなことを思いながら、自分相手にそんな態度を取れたこと自体があの老人の実力を物語っているのはわかっている。
ネテロからしたらヒソカの挑発なんて、蟻に喧嘩を売られたようなものとしか思っていなかったのだろう。
しかし、ネテロがヒソカの挑発を気にしなかったように、ヒソカもネテロに相手にされなかったことはさほど気にしていない。
相手の実力が計れないほど愚かではないが、それでもこの男は自分が最強だと知っている。
その自信はきっと死んでも揺るがないからこそ、いつか相手にせざるを得ないその日を楽しみにしながら、今は青い果実が熟すのを待つことにした。
* * *
受験番号53番、ポックルは答えた。
「注目しているのは404番だな。見る限り一番、バランスがいい」
「44番とは戦いたくないな。正直、戦闘ではかなわないだろう」
* * *
受験番号99番、キルアは答えた。
「ゴンと……まぁ一応ソラかな。405番と100番のことな。
ゴンは同い年だからなんか自然と、ソラは……あらゆる意味で無視できねーしあいつ」
「53番かな。戦ってもあんまし面白そうじゃないし」
* * *
受験番号191番、ボドロは答えた。
「44番だな。いやでも目につく」
「405番と99番だ。子供と戦うなど考えられぬ。
100番? 彼は男だろう? 404番も初めは少し悩んだが……何!? 女性!?
……失礼した。100番も追加してもらいたい」
* * *
受験番号301番、ギタラクルは答えた。
「99番」
「44番」
* * *
受験番号405番、ゴンは答えた。
「44番のヒソカが一番気になってる。色々あって」
「う~ん……99・100・403・404番の4人は選べないや」
* * *
受験番号294番、ハンゾーは答えた。
「44番だな。こいつがとにかく一番ヤバイしな」
「もちろん、44番だ。……あと100番とも、もう二度と戦いたくねぇ」
* * *
受験番号404番、クラピカは答えた。
「いい意味で405番。悪い意味で44番」
「……100番だ。彼女とは戦いたくないし、戦えない。戦わないと決めている。
彼女以外の相手ならば、理由があれば誰とでも戦うし、なければ誰とも争いたくはない」
* * *
受験番号403番、レオリオは答えた。
「405番だな。恩もあるし合格してほしいと思うぜ」
「そんなわけで405番とは戦いたくねーな」
* * *
受験番号100番、ソラが応接室に入る。
「まぁ、すわりなされ」
他の受験生たちと同じように声を掛けるが、ソラは他の受験生より妙にうさんくさそうな顔をして、面倒くさそうに座布団の上に行儀悪く胡坐で座る。
警戒というには大げさだが、どうも彼女は「ただの面談」だとは思っていないようだ。
「で、なんなんすか? つーか、最後の方は受験番号わりとバラバラだったのはもしかして、私を最後に回すのを不自然にしない為?」
ネテロが口を開く前に、ローテーブルに肘をついてまず彼女は言い出し、その警戒心の高さと勘の良さは直弟子から聞かされてはいたが、ネテロは素直に感心すると同時に4次試験の報告を思い出して軽く頭痛がした。
協会側はギタラクルが偽名であること、正体がゾルディックの長男であることはすでに把握している。
本人も本気で協会を騙すつもりはなく、一応表向きはゾルディック家とハンターという職は関係ないということにしたかっただけの偽装にすぎないので、協会にばれていることもわかっているだろう。
そんな感じで割とおざなりな偽装かつ、イルミと直接の面識があるのに未だ本気で彼の正体に気付いていない目の前の娘に、「その勘の良さをもっと他にも生かしてやれ」と言いたいのを何とか堪えて、ネテロは話し始めた。
「すまんすまん。だが、そんなに警戒せんでくれんかのう。最後に回したのは、わしの個人的な事情じゃ。
直弟子がやたらと惚気る孫弟子と、ちょっと話がしたかっただけじゃ」
「直弟子」と「孫弟子」という単語で、ソラは目を丸くして、ネテロに指をさして驚いたように声を上げる。
「会長がババアの師匠か!」
「おぬしは死にたくないのか自殺志願なのか、どっちだ?」
師である自分でも恐ろしくてとても言えない呼称を平然と使う孫弟子に、ネテロが素で訊いた。
訊かれた本人はケラケラ笑って、「大丈夫。師匠はクソババアだけど優しいから」と、慕ってるのか舐めているのか不明な発言をする。
とりあえずのこの発言は直弟子に伝えようと、こちらもまた嫌がらせなのか余計すぎるお世話なのか不明なことをメモしながら、ネテロは気を取り直して話を進める。
「まぁ、とにかくわしとおぬしはそういう関係でな、個人的に興味があったから時間が取れるように最後に回しただけじゃ。だから警戒せんでくれ」
「りょーかい。疑ってごめんなさーい」
言葉は目上に対するものではないが素直に謝る所には好感を持ち、ネテロはまずは他の受験生と同じ質問をする。
「個人的な話は後にするとして、まずは試験官としての質問じゃ。
何故、ハンターになりたいのかな?」
「師匠から話を聞いてるなら知ってるだろうけど、戸籍がないから身分証明に」
ソラの言う通りビスケからそこらの話、彼女が「異世界」出身だということも聞いているネテロにとっては、この質問は本当に形式上のものでしかなかった。
予想通りの答えだったのでネテロはメモすら取らず、さっさと次の質問に移る。
「ふむ。では、おぬし以外の9人の中で一番注目しているのは?」
正直、この質問も今までの試験の報告を見れば、予想出来ていた。親しくしていた4人か、付け狙う2人の内の誰か。もしくはその両方の6人全員を上げると思っていた。
が、ネテロは思い知る。この孫弟子は直弟子が言っていた通り、どこまでも斜め上にぶっちぎる女だということを。
「別に誰もいない」
即答だった。
あまりの即答ぶりにネテロは「なるほど」と呟いてメモに「別に」まで書いてようやくソラが何と答えたかを理解し、目を丸くして顔を上げる。
その様子を向かいで相変わらず行儀悪く座ってるソラが、首を傾げて眺めていた。
「何んすか?」と逆に尋ね返すソラに、ネテロが珍しく若干困惑しながら、「……99番や403~405番も、気にしておらんのか?」と、彼女の問いの答えかつ自分の疑問を口にする。
そしてソラは、ネテロの疑問に頬杖をつきながら、やはりしれっと答える。
「ん……。つーか私、ほどほどの当たり障りのない関係や距離感ってのが苦手なんです。好きな相手は近すぎて見えないぐらい傍に置きたいし、嫌いな相手は見たくない。だから、注目してる相手なんかいない」
「おぬしの人間関係は、0か100しかないのか」
ソラの答えに、ネテロは頭を抱える。
彼女にとって大切な相手は、「注目している」という意味には入らず、「このハンター試験でしいて言えば」という前提すら意味がないほどに、注目していなくても守って当然らしい。
直弟子のビスケが困り果てた顔で、「あの子は思考回路がおかしいというより視点が普通の人間とは根本から違う。俯瞰から多角的に見てるくせに、変な所は頑固で『これ!』って決めた道以外は眼中にないから、時々というか10回に3回くらいは話が噛み合わない」と言っていたことを思い出す。
初めに聞いた時は意味不明だったが、今、その批評がいかに正確だったかを理解した。
会話は成立してるし意思疎通も可能だが、立っている場所がそもそも違うので見ているものが違い、どうしても話が半端にすれ違うとネテロは感じる。
その説明と理屈なら、ネテロが上げると予測していた内の悪い意味で注目してそうな相手は「嫌いだから見ないようにしている」に入るのだろうと考え、その二人は話題にあげずにそのまま次の質問に移ることにした。
「ふむ……。では次に、9人の中で今、一番戦いたくないのは?」
「全員。つーかババアから私のこと訊いてるんなら、戸籍がない以上に知ってんだろ!
私は、死にたくないの!! 二次試験の料理とかならいくらでも誰とでも勝負してやるけど、ガチンコの殺し合いは絶っっっ対に誰が相手でもしたくないの!!」
ソラの言う通り知っていたしこの答えも予想していたが、ネテロの想像以上に素早く即答して、怒涛の勢いでいかに自分が死にたくないかを熱弁しだす。
「……本当におぬしは、心の底から死にたくないのじゃな」
「当たり前だ!」
やや呆れたようにネテロがいうと、これまた力いっぱいに即答・断言された。
その断言にネテロは苦笑しながら、「それほど、『平行世界の移動』という『魔法』はリスクがでかいものなのかのう?」と尋ねてこられ、ソラのテンションがやや落ちて、きょとんとした顔でネテロを見返す。
さすがにビスケがそこまで話していることは意外だったのだろう。
だが、別に本人も隠してはいないので、ソラは「何で知ってる?」という意味のない質問どころか「信じてるの?」とすら訊かずに、またテーブルに頬杖をついて語り始める。
「正確に言うと、私は『平行世界の移動』はしてませんよ。だってこの世界、平行どころじゃないくらいに私の世界と違うし。
平行世界というか、ねじれの位置の世界に間違えてたどり着いちゃった感じだから、ジジイの『魔法』をなんかの間違いで習得できても、元の世界に戻るのは絶望的ですね」
信じられても妄想だと思われていてもソラからしたら支障などほとんどないので、面倒くさいやり取りは抜いて素直に質問に答える。
ネテロの方も確証が得られないのなら、面白いこと自分が信じたいものを信じる人間なので、ソラの対応に満足げに笑いながら湯呑の茶を啜る。
彼の手はすでに筆記用具から離れている。おそらくこの話題が、わざわざソラを面談最後に回してまでしたかった私情の雑談だろう。
「ふむ。そもそも、『平行世界』と『異世界』とは違うものなのか?」
年齢的にSFの類を好まないからか、「平行世界」という言葉の意味すらよく分かっていないネテロに、ソラは両手の人差し指をネテロの目の前に並べて立てて説明する。
「平行世界って言うのは、文字通り交わらない平行の線のように隣り合うけど関わらない別の世界のことですよ。だから、『異世界』と=で結んでもいいんだけど、私が言う『平行世界』っていうのは便宜上で正確には違う。
平行線より、一本の木を想像してもらった方がわかりやすいかな?」
「木?」
立てた指を世界に見立てて説明されて、納得したところで全否定され、ネテロは子供のように首を傾げてオウム返しする。
ソラは、「そう。木」と答えてから、今度は左掌を広げて見せてまた説明を始めた。
「木の幹が『世界の始まり』。根源とも真理とも深淵とも最果てとも原初とも呼ばれる場所だとしたら、そこから派生した枝が『平行世界』。
タイムパラドックスって知ってます?
SFだと良くネタにされてるけど、タイムスリップして自分の親を自分が生まれる前に自分の手で殺しちゃったら自分は生まれないはずだけど、自分が生まれないならタイムスリップして親を殺した自分も存在しないのだから、そもそも親殺しって出来事が起こらないって矛盾が起きるんですけど、これは過去から未来への流れが一本の道しかないという考えだから起こる矛盾で、『世界が可能性の分岐によって派生して増え続ける』と考えたら、別に矛盾はしないんですよ。
自分が生まれないって木の枝が一つ生えるだけで、親を殺した自分は存在するし、元の時代に戻っても親は普通に生きてるから。
ジジイの魔法は、そういう『派生した世界』を移動すること、観測すること、干渉してどの世界の出来事を一番太い枝にして、『正史』にしてしまうかっていうこと。
これだけ言えばもはや神様の領域だけど、やっぱり人間の身でやることには限界がある。あのクソジジイ、比喩抜きで人間じゃないけど。
世界線……『枝』が遠すぎるとさすがに観測はギリできても、移動と干渉はほとんどできない、もしくは手間暇がすっごいかかるらしい。
さっき言ったみたいに、誰かが生まれてない・生まれてるとか、戦勝国と戦敗国が逆転した程度なら行き来は簡単だけど、ここは私の世界と共通点も多いけどかすってもいない所の方が多い。というか、大陸の数や形が違う時点でだいぶ世界線は遠いんですよ。共通点がそこそこ多いのが奇跡的なぐらい。
……私は一度、『木の幹』にかなり近い所まで落ちちゃって、そのままがむしゃらにどこでもいいから逃げ出したからたまたまたどり着いただけ。
だから、私がなんかの奇跡で『魔法』を会得しても、この世界にジジイと同じ『魔法使い』がいても、元の世界に帰るのは絶望的なんです」
自分の掌を「幹」、指を「枝」に例えて説明し、最後は遠くを見るように眼を細めてソラは締めくくる。
その説明で全て納得した訳でも理解した訳でもないが、思った以上にソラが元の世界に戻るというのは絶望的な状況であることだけはわかってしまい、さすがにネテロもソラに対して痛ましそうな視線を向ける。
別に孫弟子だからと言って、ビスケのように彼女を元の世界に帰してやろうというボランティア精神旺盛なことなど考えていなかった。
むしろ、ちょっと彼女の元の世界の師が使っていた「魔法」に興味を持ち、彼女の世界ならもうこちらの世界……メビウス湖の中ではもういない、暗黒大陸に存在したものとは違う、ネテロが求める「強者」がいるのではないかという期待をして、ソラの話が本当ならば自分も使えないかと尋ねようかと思っていたくらいだ。
だが、さすがに故郷を失ったわけでもないのに帰れない、いっそ何もかも違えば諦めがつくかもしれないのに半端に似通った世界に取り残された娘に同情して、そんな娘に望もうとしていた自分の願望を恥じていた。
しかし、やはりソラはどこまでも斜め上だった。
「ま、帰る気ないから別にいいんだけどね」
「ないんかい。わしの感傷を返せ」
遠くにやっていた眼をしれっと元に戻して言ったセリフに、素でネテロは突っ込んだ。
ヒソカでも崩せなかったネテロのペースを狂わせまくっているという、誇れるのかどうか微妙すぎる快挙をやらかしている女は、そんなこと自覚せず相変わらず何でもないように言う。
「だって帰るにはもうここに愛着持ち過ぎちゃってますしー。別に元の世界が嫌いだったとか、帰りたくない訳でもないけど、私としては『こっちで元気にやってるから心配しないでねー』って伝言さえ伝わったら、もう後悔はないなー。
……それに――」
ソラはどこまでも斜め上だった。
どこまでも、常人には理解できない、予想外なことばかり言っていた。
それは彼女の素の性格も多大にある。
が、彼女が元々暮らしていた世界の住人は、彼女が「 」から逃げ出してこちらにやってくる前の「式織 空」という人物を知る者なら理解できる。
彼女は以前とは違う、別人とまでは言わないがそれまでの「空」とは変質して「ソラ」という人物になっていることぐらい一目瞭然だ。
「――元の世界に戻るために、『あそこ』にもう一度いかなくちゃならないなら、私は絶対に帰りたくない」
頭痛を堪えるように、片目ごと頭を押さえてソラは言った。
彼女が常人には理解できないのは、常人では行き着けない最果てに沈んで、そこで壊され、作り変えられたからだ。
隠されていないもう片方の目を、ネテロは見る。
その眼は、燦爛と空色に輝いていた。
* * *
「……『あそこ』だけには、かえりたくない」
覚えていることは、ほとんどない。
それは一欠片でも覚えていたら、それこそ仮初の人間性だって取り繕うことが出来ないから、防衛本能によって決して開かれることがない記憶の扉に鍵をかけて閉じ込めて、浮かび上がることがない記憶の底に重りを付けて沈められたから。
「例えいつかは行き着く場所であっても、例え何もかもが生まれた万物の海であっても、恐れるべきものじゃないなんて嘘だ。
あんな所に私は行き着きたくない」
覚えていることは、ただひたすらに怖かったことだけ。
自分を守ってくれた金色さえも分解され、融かしつくされて、自分が融けて、溶けていくのが怖くてたまらなかったことしか覚えていない。
「あんな所、いけなくて当然だ。いって帰ってこれるわけがない。
あそこに行き着いて『魔法使い』以外が帰ってこれないのは、人間をやめてないとあんなの見て帰ってこれるわけがないからだ」
どうやってあの根源から、最果てから、原初から、「 」から逃げ出せたかなど覚えていない。
「あんなの、人間のまま行き着けるわけがないし、人間のまま帰れるわけがない」
融けて分解されていく自分を構成する何かを、がむしゃらに掻き集めて、自分のものではない他の何かが混じっていてもいいから自分の形を、肉体を、精神を取り繕って逃げ出したということしかわかっていない。
覚えているのではなく、結果を見てそうなんだろうと推測するしかない。
精神だけではなく、体ごとそこに行き着いてしまい、そして逃げ出した代償か、自分の体が以前と違うことは初めからわかっていた。
姿に変化はない。
それでも、この体は繋がってしまった。
八卦より以前の四象。
四象より以前の両義。
そして両義より前の、原初の、原始の――
「あんな所に私は……私は――――」
「もうよい」
どこを見ているのかわからない、はるかかなたを見ているようで近すぎるものを見るような、目の焦点が合い過ぎているからこそ虚ろだった目が、目の前の老人に焦点を合わせる。
同時に、あまりにも明るく澄み切って美しすぎるがゆえに、底のない穴のように虚無的だった青い瞳の明度が下がり、黒に近い藍に落ち着く。
ミッドナイトブルーの眼に戻って、ソラは「……すみません。ちょっとバッドトリップしてました」と謝り、ネテロも「いや、こちらも無神経じゃった」と答える。
「すまんのう。興味深い経歴じゃから、ついつい根掘り葉掘り訊いてしまったし、聞き入ってしまった。
おぬしも、話したくないことは話したくないと拒絶してもいいんじゃぞ?」
言うほどネテロに非はなかったが、そこは半世紀以上年上の立場から泥を被って謝り、ネテロは話を終わらせてソラを退室させる。
孫弟子を退室させて、それからネテロはようやく自由に呼吸をすることが許されたかのように深く息をついて、額に浮かび上がっていた冷や汗をぬぐった。
どこか人間味の薄い、視点が人間のものではない孫弟子が、全身を小刻みに震わせて顔面蒼白になるほどの恐怖を感じていることに、人間味を見出して安心する余裕などなかった。
ネテロがあの眼を見て感じていたものは、若い頃にたったの一度だけ訪れた暗黒大陸そのもの。
人間としての強さなど何の意味も価値もなしていない圧倒的な「死」そのものが去ったことに、ネテロは一人で愚痴る。
「まったく……。寿命が百年縮まったわい」
軽口を言える程度には、余裕だった。