死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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38:イルミの呪縛

 嘘であってほしかった。幻であってほしかった。何かの間違いであってほしかった。

 

「や」

 

 しかし、キルアの期待は容易く裏切られる。

 

 慄く弟とは対照的に、イルミは相変わらず人形のようなというより人形ではないのがおかしいレベルの無表情で、軽く再会の挨拶を一方的に交わす。

 キルアの方は、久しぶりとはいえ実兄との対面だとは思えない程に緊張しているが、その気の抜けた挨拶があの異常な変装とその解き方の衝撃をわずかに薄れさせたのか、レオリオが引きつつも呟いた。

 

「キルアの兄貴……?」

 

 もちろん、そんな呟きに「うん、そうだよ。弟がお世話になりました」など、平和に話しかけるようなサービス精神を、ゼノならともかくイルミは持ち合わせてはいない。

 聞こえていない訳もないのにイルミはレオリオの言葉を無視して、明らかに畏縮している弟に話しかける。

 

「母さんと次男(ミルキ)を刺したんだって?」

「まぁね」

「母さん泣いてたよ」

「そりゃそうだろうな。息子にそんなひでー目にあわされちゃ」

 

 多少はトリックタワーで家出の経緯を聞いていたレオリオも、改めて「母親の顔面と次兄の脇腹を刺した」なんて、家庭内暴力では済まない惨劇を聞かされてツッコミを入れるが、やはりイルミは無視して続きを棒読みで語る。

 

「感激してた。

『あのコが立派に成長してくれててうれしい』ってさ」

 

 レオリオはずっこけ、その他の人間はレオリオほど派手なリアクションは取らなかったが、ほとんどの人間が脱力、もしくは困惑した。

 キルアも「うちの母親は何言ってるんだ?」くらいの反応をするかと思えば、彼の緊張が全く解けていない。どうも、キルアにとっても母親の反応は予想通りの通常運転、良くも悪くも緊張が解ける類いの発言ではないらしい。

 そして兄の方も、別にキルアの緊張を解いてやるつもりなどサラサラなく、淡々と母親からの伝言を続行する。

 

「『でも、やっぱりまだ、外に出すのは心配だから』って、それとなく様子を見てくるように頼まれたんだけど……奇遇だね。まさかキルがハンターになりたいと思ってたなんてね。

 実は俺も次の仕事の関係上資格がとりたくてさ」

「別に、なりたかった訳じゃないよ。ただ、なんとなく受けてみただけさ」

 

 録音していた音声、それも人工音声を流すように語っていたイルミの一方的な話に、ようやくキルアが割り込んだが、その声音はポックルとの試合を棄権した時と打って変わって、あまりに弱々しい。

 かろうじていつもの小生意気さは残っているが、誰が見てもそれは虚勢だった。

 

 もちろん誰が見てもわかるのだから、実の兄であるイルミがわからないはずはない。

 

「……そうか。安心したよ。心おきなく忠告できる」

 どこにも言葉通りの安堵など見せず、間違いなくキルアが「ハンターになりたい」と言っても躊躇いなく言ったであろう、無機質な声音で彼は断言した。

 

「お前はハンターに向かないよ」

 

 その言葉で、蘇る。

 

『でも、「ハンター」としての資質ならこの中ではゴンが一番上で、君は逆に極端に低い』

 

 イルミのように人工音声じみた声音でも、感情が全く見当たらない話し方でもなかったが、呆れたように言ったソラの言葉が、鮮明に蘇る。

 そして、その言葉に被せるようにもう一つ、イルミは断言する。

 

「お前の天職は、殺し屋なんだから」

 

 違うと、反論することは出来なかった。

 ソラは言ってくれた。ハンターに向いてないとは言ったが、決してハンターになること自体を否定はしなかった。

 キルアを否定するのではなく、キルア自身が厭う部分でさえも受け入れてくれたのに、たくさんの抱えきれないくらいに言われて嬉しかったこと、今まで考えつかなかった考え方を与えてくれたのに、イルミの声がそれらを全て食い潰し、塗り潰す。

 

「お前は熱をもたない闇人形。

 自身は何も欲しがらず、何も望まない。影を糧に動くお前が唯一、喜びを抱くのは人の死に触れとき。お前は親父と俺にそう育て(つく)られた。

 そんなお前が、何を求めてハンターになると?」

 

 ソラとは違って一方的にキルアを一つの決まりきった「型」に当てはめて、強要する言葉を連ねて、ようやくイルミはキルアに尋ねる体裁を取って、少しだけ答えを待つ。

 これが本当に、自分の意見を聞いてくれている訳ではないことくらい、キルアはわかっている。

 何を言っても自分の言葉はすべて否定されるか、イルミやゾルディック家そのものにとって都合がいいように捻じ曲げられる。

 

 それでも、キルアは言った。

 反論した。

 それしか、自分にはできないことを知っているから。

 

 自分が人形ではないと否定する方法など、12年間生きてきてこれだけしか見つけられなかったから。

 

「確かに……、ハンターにはなりたいと思ってる訳じゃない。

 だけど、俺にだって欲しいものくらいある」

「ないね」

 

 しかし、イルミは即座に否定した。

 自分の言葉こそ、キルアの本意であると疑いもせず。

 

 そしてキルアも、もうその答えに怒りを覚えることなどなかった。

 そんなことしても、この長兄は何も聞いてはくれない、何も響かないことだって、この12年間で学びつくして諦め続けてきたから。

 

 それでも、キルアは叫んだ。

 イルミに伝わらなくても、イルミに届かなくても、叫ぶ。

 

 その行為さえもやめてしまえば、それこそ自分が人形になってしまう気がしたから、惰性に過ぎないと思いつつも、それでも彼は叫ぶ。

 

「ある! 今、望んでることだってある!」

「ふーん」

 

 興味がないどころかキルアの叫びを言葉として認識しているかも怪しく思えるほど、気の抜けた相槌を打たれたが、珍しくイルミは続きを促した。

「言ってごらん。何が望みか?」

 

 促され、言葉に詰まる。その様子を見てとって、イルミは早々に結論を出す。

 

「どうした? 本当は望みなんてないんだろう?」

「違う!」

 

 望みはあった。切望するものがあったからこそ、言えなかった。

 それを否定されたら、もうキルアは生きていけなくなるのがわかっていたから。

 そしてそれは、絶対に完膚なきまでに否定され、踏みにじられ、壊されることもわかっていた。

 

 それでも……、それでも、キルアは望みを、願いを、……夢を口にした。

 

「……ゴンと……友達になりたい。……ソラと……一緒にいたい」

 

 あまりにささやかで、ありきたりでありふれた、だからこそ痛々しいぐらいに真摯な「夢」を口にする。

 

「もう……人殺しなんてうんざりだ。

 ……普通に、ゴンと友達になって、……普通に遊びたい。……ソラみたいに、……誰かを守れるような奴に……なりたい」

 

 自分の今までを、12年間全てを否定して、捨て去っても叶えたい「夢」だった。

 叶わなくても、きっと見ているだけで幸せな「夢」だった。

 

「無理だね」

 

 見ることさえも許されない、「夢」だった。

 

 * * *

 

「お前に友達なんて出来っこないし、……『あれ』と一緒にいることも、『あれ』みたいになるのも無理だよ」

 

 初めからずっと一定の音程とテンポで話していたイルミが、わずかに不快感を露わにする。

 自分の口から名前を出すのも嫌なのか、ソラを「あれ」と呼んで、彼は一瞬だけ垣間見せた人間性を消し去って、相変わらず淡々とキルアの「夢」を壊し尽くす。

 

「お前は人というものを殺せるか殺せないかでしか判断できない。そう教えこまれたからね。

『あれ』と一緒にいたいのは、『あれ』は自分じゃ殺せないと判断したから。敵に回したくないから、敵に回ると勝ち目がないから、味方と思わせたい、思い込みたいだけだ。『あれ』のことが好きだとか『あれ』に憧れてるとか、本当にそう思ってるわけじゃない。

 

 ……そしてそもそも、『あれ』はお前のことなんか守らない。あの偽善者は、自分が一番大切だ。いざという時は、お前を第一に見捨てて犠牲にする」

「黙れ!!」

 

 イルミの言葉に反論したのは、対峙しているキルアではなくクラピカだった。

 

「黙れ! ……貴様に何がわかる?

 偽善者? 自分が一番大事? ……本当にそうであるならば、彼女がどれだけ救われたかも、先ほどの死闘を見てもわからない奴がソラを語るな!!」

 かろうじて瞳は緋色に染まっていないが、それでも普段よりだいぶ赤みの増した目で、拳を握りしめて反論するクラピカに一瞬だけイルミは光が見えない、光さえも飲み込むブラックホールじみた目を向ける。

 そして、初めてキルア以外の人間に対して反応した。

 

「どうでもいいよ」

 

 クラピカの反論も、それこそ先ほどまでの死闘も一蹴したイルミに、クラピカは武器の木刀を手にしたのを、慌ててレオリオと試験官たちが止める。

 そして本当にクラピカの言い分も行動もどうでも良かったのか、イルミはそのまま無視して再びキルアに語りかける。

 

「まぁ、余裕があれば守るかもしれないのは認めるけど。『あれ』は本当に、反吐が出る程の偽善者だから。……けど、キルア。お前の方はどうなんだ?

『あれ』みたいになりたい? なれるわけないよ。お前は『あれ』とは違って偽善者にすらなれないのだから」

 

 イルミの言葉にキルアは目を見開いた。

 見開いたまま、瞬きもせずにキルアは自分の足元を見続ける。見ているのは自分の爪先なんかじゃない。あの光景が、頭の中で何度も繰り返される。

 

 つい数十分前のクラピカを庇って、背中にトランプが突き刺さったソラ。

 試験前に、ヒソカがかけてきたちょっかいであるトランプを全て、回避して捌いたソラ。

 

 そのどちらも、真っ先に逃げて安全圏で離れて見ているだけだった自分を思い出す。

 

 助けになど行けなかった。

 ヒソカとの死闘では、やめろ、とまれ、逃げろと叫ぶことはかろうじて出来たが、あれはソラの殺気に怯えて竦む足を隠す虚勢にすぎなかった。

 

 クラピカのように、ヒソカに向かって殺しに行ったソラの、あの殺気そのもので触れた瞬間に敵認定され始末されかねなかったあの背中に手を伸ばすことなど、出来やしなかった。

 例え、助けられたのが、守られたのが自分であっても、止めないとソラはもう自分を守ってくれた、自分が一緒にいたいと望むソラでなくなってしまうとわかっていても、キルアにはそんな勇気がないことくらい自覚している。

 

「認めるのは業腹だけど、『自分自身の生存を最優先する』って所だけは、うちと『あれ』の共通点だ。けど、『あれ』は狂ってる。壊れてる。だから平気で、『自分の身を犠牲にしても誰かを守る』なんて矛盾を冒せる。

『あれ』みたいになりたいなんて、お前には無理だよ、キル。お前にそんな人間性(バグ)はない。

 

 だから、ゴンと友達になるってのも無理。お前には彼がまぶしすぎて、測り切れないだけでいるだけだ。友達になりたいわけじゃない」

「違う……」

 

 その否定は、ソラの話に対してか、ゴンの話に対してか、それとも両方なのかもキルアにはわからない。

 ただ彼は、崩壊しかけの自分の心を何とか保つためだけに反射で反論し、否定しているだけ。

 そのことをイルミはよく理解しているのだろう。キルアから論理的な反論が出ないのをいいことに、彼は畳み掛けるように断言する。

 

「彼の側にいれば、いつかお前は彼を殺したくなるよ。殺せるか、殺せないか試したくなる。

 なぜなら、お前は根っからの人殺しだから」

 

 キルアは答えない。ただ黙って、拳を固く強く握りしめる。その痛みで、自分が人形でないことを確かめるように。

 けれど痛みは何故か感じられない。それは極度の緊張ゆえの麻痺にすぎないが、冷静さを失っているキルアからしたら、今ここで感じられる唯一の人間性の喪失だった。

 

 そのことに絶望する中で、耳に届いた足音。

 

「先程も申し上げましたが」

「ああ、わかってるよ! 手は出さねェ!」

 

 レオリオがまた、前に出てきた。

 イルミのソラを侮辱する発言にキレて、試験官に止められているクラピカに「俺に任せろ」と言わんばかりに前に出る。

 もちろん、二人の兄弟に近づく前にハンゾーとゴンの試合の時と同じように試験官にレオリオは止められるが、その時より冷静なのかそれ以上前には出ない。

 

 だが、代わりにイルミも無視できないように声を張り上げて叫んだ。

 

「キルア!! お前の兄貴か何か知らねーが、言わせてもらうぜ! そいつはバカ野郎でクソ野郎だ! 聞く耳持つな!

 いつもの調子でさっさとぶっとばして、合格しちまえ!!」

 

 キルアが弱々しく顔を上げ、イルミがレオリオの方に顔を向ける。

 レオリオの言葉に不愉快さも怒りも感じられない、からくり人形がこちらに顔を向けたような動作と無表情っぷりにホラーじみた不気味さを感じるが、それでもレオリオは声を張り上げて言う。

 

「ゴンと友達になりたい!? ソラと一緒にいたい!? 寝ぼけんな!!

 とっくにお前ら友達(ダチ)同士で、ソラはお前が好きで好きでたまらねーブラコンだろーがよ!!」

「!」

 

 キルアの訴えた願いが、望みが、夢がどれだけバカらしいものだったかを教えてやる。

 例え本当に、キルアが根っからの人殺しであっても、例えキルアがソラのように誰かを守ることなどできなくても、そんなこと関係なく二人は彼が痛々しいほどに、狂おしいほどに希った夢をもうすでに、当たり前のように、そうであることが当然のように叶えているということを、レオリオはキレながら教えてやった。

 

「少なくともゴンもソラもそう思ってるはずだぜ!!」

「え?」

 

 レオリオの主張に、イルミが不思議そうな声を上げる。不思議そうであるが、同時に演技にしか見えない棒読みっぷりのまま、キルアよりどこか子供じみた口調で「そうなの?」と尋ね返す。

 

「たりめーだ、バーカ!!」

 もちろんレオリオは即答で肯定する。彼からしたら、キルアが何を不安がっているのかわからないくらい、誰が見ても一目瞭然の事実であるから。

 しかしそのことを本気で気づいていなかったのか、それともわかっているうえで言っているのか、イルミは顎に手をやって考えるそぶりを見せる。

 

「そうか、まいったな。『あれ』の姉気取りは知ってたけど、ゴンの方ももう友達のつもりか」

 どう見ても、口ほど困って見えない棒読みと無表情で彼は呟く。表情や口調のわりに、動作がやや大げさなので、演技じみているというよりはやはり人形じみている。

 決められたシナリオ通りに動かされる人形、もしくはプログラム通りに動くロボットのように、人差し指をピンと立て「ひらめいた!」とわざとらしいリアクションを取りながら言った。

 

「よし、ゴンと『あれ』を殺そう」

 

 * * *

 

 絶句するキルアや受験生、試験官達をよそに、イルミは相変わらず舞台上で演技をするように言葉を続ける。

 

「殺し屋に友達なんていらない。『誰かを守りたい』なんて考えする奴は、もっといらない。邪魔なだけだから」

 

 周囲(観客)の反応など、舞台役者には関係ない、シナリオが終わるまでただ一方的に話を進めるイルミは、武器である針を取り出して、踵を返す。

 

「二人はどこにいるの?」

「ちょ、待ってください。まだ試験は……」

 

 会場の出入り口方向へ向かいながら、一番近くにいた試験官に尋ねるが、イルミは相手を見ていない。

 もちろん、まだ試験中だという言葉をかけられてもイルミは無反応。

「あ」

 

 ほとんど彼は反射で、針を試験官の顔面に投げつけた。

 彼自身の顔にも刺さっていた、脳に達するほど長い針が額に3本刺さっても、イルミと同じく試験官は死にはしなかった。

 それどころか、「ギタラクル」から「イルミ」の顔に戻った時の様に、試験官の顔も骨格そのものがアメーバのように蠕動して不可思議な動きで変形する。

 

「あ……? アイハハ……」

 違いは、試験官の顔面が変形するたびに奇妙な笑い声をあげることと、その不気味に蠢く顔の変形がいつまでたっても納まらないこと。

 

「どこ?」

「とナリの控え室ト、奥の救護室ニ」

 

 試験官の方を見向きもせずにもう一度イルミが尋ねると、ぎこちなく奇妙なイントネーションで彼は答えて、その直後ガクガクと膝をつく。

「どうも」と言いつつ、イルミは相手の針を抜いてやることも一思いに殺してやることもせず、そのまま歩を進める。

 が、さすがに入り口前で立ち止まる。

 

 イルミの前に立ちはだかるのは、審査委員会のハンターたちだけではなかったから。

 レオリオ、ハンゾー、クラピカが何の躊躇も迷いもなく、イルミの前に立ちはだかる。

 

 そんな彼らを見て、またキルアの心の内側がひどく傷んだ。

『お前の方はどうなんだ?』と、兄の声が再び耳元で囁かれる。

 どうして自分は今、イルミを止めない? と自分自身が尋ねる。

 

 そんな答え、考えるまでもなくもう出ているというのに、答えから目をそらしてキルアは、兄の声も自分の声からも耳を塞ぐ。

 

「まいったなぁ……。仕事の関係上、俺は資格が必要なんだけどな。ここで彼らを殺しちゃったら、俺が落ちて自動的にキルが合格しちゃうね」

 

 イルミの方はといえば、立ちはだかる受験生たちを見てやはり棒読みで言った。

 そしてもう演技にしては白々しすぎて、大根役者と言うにも酷いくらいわざとらしく続ける。

 

「あ、いけない。それは、二人を()ってもいっしょか。うーん……そうだ!」

 

 わざとらしくて当たり前。わざとやっているのだから。

 彼にとってこの茶番は、予定調和。

 

「まずは合格してから、二人を殺そう!」

 

 キルアの芽生えた独立心や反抗心と言った自我を、完膚なきまでに壊すための必要な茶番にすぎない。

 だから茶番らしく、イルミはいけしゃあしゃあとネテロに確認を取る。

 

「それなら仮にここの全員を殺しても、俺の合格が取り消されることはないね」

「うむ。ルール上は問題ない」

 

 倫理上大問題な発言も、ネテロは眠そうな覇気のない目で淡々と肯定する。

 他の受験生や試験官、そしてキルアの、ルール上は問題なくとも止めてくれることを、一縷の望みにかけて縋るように向けた視線も、彼には何の意味もなかった。

 

「聞いたかい、キル」

 ネテロの肯定が、茶番の終わりを告げる。

 イルミはゆっくりと振り返り、諭すように現状をキルアに教える。

 

「俺と戦って勝たないと、ゴンも『あれ』も助けられない」

 

 言われるまでもない。

 ゴンどころか、今までイルミから逃げ切り続けてるソラだって、ヒソカとの死闘で重傷を負っている。そんな状態で今まで通り逃げ切れる保証などない。

 

 そしてゴンやソラだけではない。間違いなくイルミは、二人だけではなく止めようとしたレオリオやクラピカ、ハンゾーも殺すことが容易く想像がついた。

 もし仮に、彼らとプロハンターである試験官のおかげで、ゴンとソラは助かっても、受験生である3人はイルミに敵わず確実に殺される。

 

 そして、彼らが殺された場合、二人はどんな反応をするのかが怖かった。

 ハンゾーは100歩譲って何も言われないかもしれないが、レオリオとクラピカが死んで、二人が死んだのにキルアが生きていたらゴンとソラは何を言うか、どんな顔をするか、何を思うかが怖くて仕方がない。

 

「友達のために俺と戦えるかい? できないね」

 

 なのに、体が動かない。

 この中の誰かが死ぬのが嫌ならば、イルミの言う通り自分が戦わなければならないのに、キルアは兄の言葉を肯定するように、「やめろ」の一言すら言えずにいた。

 

 ゴンのように、拷問をされたことすら忘れて望んだ先を、悲願を、「夢」を見続けることも、ソラのように守りたい人の為にその身を盾にして守ることも、出来ない。

 

 イルミはあまりに深い闇色の眼で、弟を見据えて告げる。

 彼自身が眼をそらし続ける、逃げ続ける「答え」を突き付けた。

 

「なぜならお前は友達なんかより、今、この場で俺を倒せるか倒せないかの方が大事だから」

 

「違う!!」という言葉は、喉の奥に張り付いて出てこない。

 あの二人が大事なのは本当。

 冷たく暗い闇の中から、泣きたくなるほどあたたかな陽だまりに強引なぐらいに勢いよく連れ出してくれた二人が、殺し屋であることを知っても何一つ態度を変えず、受け入れてくれた二人が大好きで大切で、何よりも愛しい「夢」そのものなのは確かなのに、キルアは言えなかった。

 

「そしてもう、お前の中で答えは出てる。『俺の力では、兄貴を倒せない』」

 

 今のキルアの頭の中に浮かぶのは、二人の笑顔ではない。

 イルミによって息の根を止められる自分自身だけ。

 

 二人の声が聞こえない。

 どこまでも真っ直ぐにうるさく馴れ馴れしく、けれどこちらが心配になるほど無邪気に自分を呼ぶゴンの声も。

 腹が立つくらいにいつでも余裕たっぷりで柔らかく優しげに、慈しむように呼んでくれたソラの声も聞こえない。

 

 聞こえるのは、自分の心を手折る兄の呪縛(こえ)だけ。

 

「『勝ち目のない敵とは戦うな』 俺が口をすっぱくして教えたよね?」

 

 その呪縛が、キルアの思考を逃避一色に染め上げる。

 緊張のあまり強張って硬直していたはずの体が、無意識に半歩下がろうとする。

 

「動くな」

 

 しかし、その本能による行動もイルミの一言でねじ伏せられた。

 イルミが真っ直ぐに左手を伸ばして、ゆっくりと近づいてくる。

 たったそれだけの動作。武器である針を持っていないにも拘らず、キルアは今すぐに逃げ出したい恐怖に駆られる。

 

「少しでも動いたら戦いの合図とみなす。同じく、お前と俺の体が触れた瞬間から、戦い開始とする。止める方法は一つだけ。わかるな?

 だが……忘れるな。お前が俺と戦わなければ、大事な二人が死ぬことになるよ」

 

 自分の命か、大切な誰かの命か。

 常にソラがあまりに危ういバランスで抱えて、手離せないでいる二つの「願い」を、選択肢として突きつけられる。

 

「やっちまえ、キルア!! どっちにしろお前もゴンもソラも殺させやしねぇ!!

 そいつはなにがあっても俺達が止める!! お前のやりたい様にしろ!!」

 

 レオリオが後ろで何かを叫んでいることはわかっているが、もうそれが言葉だと認識することさえも出来ない。

 ただ、甚振るように徐々に近づいてくるイルミの手しか、指先しかもう見えていない。

 爆発しそうな自分の心臓の鼓動しか、聞こえない。

 

 ……その心臓の鼓動の合間に、かすかに聞こえた声があった。

 

『キルアは、逃げたことを気にしてるの?』

 

 試験前に、ヒソカにちょっかいをかけられた時、何もせず、何もできずにただ逃げたキルアにソラは訊いた。

 そして「逃げてもいいよ。つーかむしろ逃げて」と言ったことを、覚えている。

 確かに、覚えている。

 

 なのに、思い出せなかった。

 

 彼女がどうして、逃げたことを気にしなくていいと言ってくれたのか、逃げて欲しいと言ったのかを、思い出せない。

 死にたくないと叫ぶ心臓がうるさすぎて、邪魔をする。

 死にたくないという願いの所為で、思い出せない。

 

『君は確実に私より××なるよ』

 

 生きていくに必要な言葉が、思い出せない。

 

 

 

 

 

「…………まいった」

 

 

 

 

 

 思い出す前に、折れた。

 

「俺の……負けだよ」

 

 イルミの指先がキルアの額に触れる寸前、イルミ以上に人間性を無くした、無機質で無気力な声で宣言した。

 

 それは敗北宣言と言うよりも、人間であることを諦めると言っているようだった。

 

 * * *

 

「……あー、よかった。これで戦闘解除だね」

 

 キルアの宣言から数秒の間をおいて、やはりやや大げさにイルミは手を叩いて笑う。

 はじめて彼は表情らしい表情を見せたが、どう見ても笑ったというより笑顔の仮面に付け替えたと言った方が正確なほど、無表情と変わらぬほどそれは感情などどこにもなく張り付いた、ただの笑みの形をしているに過ぎないもの。

 

「はっはっは、ウソだよ、キル。ゴンを殺すなんてウソさ。お前をちょっと試してみたのだよ。『あれ』は、お前のこと関係なくいつか絶対に殺すけど。

 ……でも、これではっきりした」

 

 ポンポンとフレンドリーにキルアの肩を軽く叩きながら、張り付いた笑顔で語る。

 キルアの頭に手を置いて、弟に目線を合わせるようにして腰を屈めたイルミは諭すように言う。

 その時にはすでに、仮面のような笑みはもう消え失せていた。

 

「お前に友達を作る資格はない。必要もない」

 

 俯いて、虚ろな目のキルア以上に無感情で無機質な生き人形ははっきりと告げる。

 友達も、一緒にいたいと願った人も裏切って見捨てたキルアに対する「罰」を宣告した。

 

「今まで通り、親父や俺のいうことを聞いて、ただ仕事をこなしていればそれでいい。

 ハンター試験も必要な時期がくれば俺が指示する。今は、必要ない」

 

 もう二度と間違いを起こさないように、誤作動を起こさないように、自分の立場を、自分が何であるかを言い聞かせた。

 

 しかし、キルアにはもうイルミの声など聞こえていなかった。

 聞こえていてもいなくても、無意味だった。

 もう何も考えられない。ただ体に染み込んだ、条件反射に等しい兄の呪縛のみで動く。ただそれだけの存在になってしまったことだけはわかっていた。

 

 あんなにうるさかった心臓の鼓動でさえも、もう聞こえない。

 死にたくないと叫んだ願いは叶えられたのに、生きている証はもうどこにもなかった。

 

 何も聞こえない。何も見えない。どうしたらいいかもわからない。

 キルアにはもう、自分の頭の中に浮かぶ言葉の意味さえも、分からなかった。

 

「助けて」という声は、キルア自身でさえも気付かず、(うろ)に溶けていくしかなかった。

 

 

 

 

 ――何も聞こえていなかった。

 けれど、これは聞こえた。

 無視できずに、顔を上げた。

 

 

 

 

 

「はいはーい! ソラさんふっかーつ!! ただいま止血して輸血してもらって戻ってきました! 余分に入れてもらったおかげかな? 何か元気が余剰に有り余ってるわ!! ハイテンションでごめんね!

 で、今誰の試合? キルアは終わった? 勝った? 私の試合相手誰だっけ? っていうか、なんでこんな今、みんなのテンションがお通夜なの?」

『…………………………』

 

 会場の入り口を勢いよく開けて登場した端から、やたらとハイテンションでしゃべり倒したソラに全員の視線が集まった。

 そして全員が思った。

 

 仕方がないのはわかっている。怪我をして別室で治療していたのだから、こちらの事情や様子がわかるわけないのはわかってる。

 だがそれでも、無茶ぶりだとわかっていても全員が、思考停止していたキルアでさえも思った。

 

 

 

 

 

 お前、マジで空気読め……と。





テンションの高低差で風邪ひきそうです。

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