死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

64 / 185
54:私の愛は生きている

 + + +

 

 

 

 嘘が嫌いでした。

 

『貴女が私の命で、世界で、幸せそのものよ。

 貴女さえいれば私は何だって出来るし、どんな痛みや苦しみにも耐えられるわ』

 

 母のその言葉を信じてました。

 けれどある日、母は「ここで大人しく待ってて」と私に言いつけ、そのまま帰っては来ませんでした。

 

 母の言いつけを守って、ゴミの掃き溜めの真ん中で飲まず食わずで待ち続けて死にかけても母の言葉を信じていました。

 死にかけた私を介抱してくれた友人から、母が男と一緒に流星街(ここ)ここから出て行くのを見たと聞いても、私は母を信じました。

 母は、悪い人に攫われたのだと思っていました。

 

 しかし、次第にそれは違うということに気が付きました。

 何故なら誰も、母を連れて行った男に報復しようとは言わなかったから。

 

 流星街で生まれ育った私は、外の常識や法律の類は何も知らないに等しかったけれど、ここで生まれ育ったからこそ、これだけは絶対だと知っていました。

 

「我々は何ものも拒まない。だから、我々から何も奪うな」

 

 それが流星街(ここ)の絶対的であり、ほぼ唯一の(ルール)

 だから、本当に母が自分の意思ではなく無理やり攫われて奪われたのならば、その男は間違いなく「報復」の対象になるはずなのに、全く議題にされなかったということは、母は自らの意思で出て行ったに他ならなかったのです。

 

 傷つきました。悲しみました。

 でも、私にはどうしようもありませんでした。

 

 この時から、私は嘘が大嫌いになりました。

 同時に、私に欲しいものが出来ました。

 

 母に嘘をつかれて捨てられたと知るまで、真の意味で母を失うまで私にとっても母が命であり、世界であり、幸せそのものだったから、全てを失った私が求めたものは「家族」でした。

 

 ただ、家族が欲しかった。

 

 + + +

 

 私は何も知りませんでした。

 母が何故、遠いジャポンという国からこの流星街に流れ着いた理由も、母と私がどれほどおぞましい一族の末裔かなんて、何も知りませんでした。

 

 知ったのは、母がいなくなってから10年ほどたった頃でしょうか?

 おそらくは、それまで母はどこかで生きていたのでしょう。

 

 私は人を殺しました。

 正確に言えば、母から継承された、継承してしまった「犬神」が、まだ流星街に来て日が浅い男たちを食い殺しました。

 

 ここに来て日が浅い奴らは、ここをルールなどない無法地帯だと勘違いしている人が多く、そんなバカに私は襲われ、力づくで組み敷かれた時……、私が「殺してやりたい」と思った瞬間、私の体をまさぐっていた奴らの手の肉が大きく抉れました。

 

 奴らには見えていなかったようですが、私にははっきりと見えました。

 私に襲いかかった男どもは、首だけで浮遊する狂った獣に生きながらに食い殺されているのが、はっきりと。

 

 悪夢の方がよほどましな光景でしたが、怖くはありませんでした。

 何故ならその獣は、当時の私ではぼんやりとしか見えませんでしたが、母が引き連れていたのを何度か見たことがあったからです。

 

 ……私は、「犬神」というかなり特殊な念能力を女系で継承する一族の末裔だったのです。

 おそらく、母が真っ当な人間社会から離れて流星街に流れ着いた理由はそこにあるのでしょう。

 

 同時に、私が何を捨てても受け入れるはずの流星街から追放される理由にもなりました。

 

「我々は何ものも拒まない。だから、我々から何も奪うな」

 

 それが唯一で絶対のルールですから、当然私だって例外ではありません。

 外の者が流星街の住人に不当な危害を加えたら報復するように、仲間内であれ不当に「何か」を奪うことは重罪です。

 

 ただ、さすがに私が襲われかけていたこと、先に不当に奪われかけていたのは私であること、そして決して私がわざと殺したわけではない、あれはおそらく母が死んだことによって知らぬうちに継承された念能力が暴走した事故のようなものであるということは、幸いながら理解してもらえたので、私への罰は死ではなく追放にとどまりました。

 

 このことに関しては、友人たちにいくら感謝してもし足りません。

 当時の私では念能力すらよくわかっていなかったので、どうやって殺したのかを長老たちにいくら問い詰められても答えられずにいましたが、友人たちはどういう訳か早くから念能力に目覚めていたので、私に念能力とは何なのかを教えると同時に私の弁護をしてくれました。

 

 友人たちの弁護のおかげで処刑は免れましたが、いくら先に不当な略奪行為をしていたのは向こうでも、私がしたことは過剰防衛であり、彼らの命を奪ったことに変わりはなかった為、私は流星街から追放されました。

 たぶん、追放の理由は罪を犯しただけではなく、私の「犬神」が私のちょっとした気まぐれ程度の殺意に反応して、誰かに襲いかかって食い殺しかねないほど凶悪な能力であったことも大きかったのでしょう。

 

 長老は言いました。

 

『いつかまた、能力が暴走してここの者を傷つけたら、今度こそお前を刑に処さねばならない。

 そうせぬためにも、そうならぬためにも、出て行くがいい』

 

 長老の言葉の全てを嘘だとは思ってはいません。

 でも、あれが本音ではないことくらい私はわかっていました。

 だって、そう言っていた長老の眼は、私が殺した男どもが犬神に襲われながら私に命乞いしていた時と同じ眼をしていましたから。

 

 私はまた、嘘が嫌いになりました。

 

 + + +

 

 流星街で生まれ育った私が、流星街以外で生きるためには手段は選べませんでした。

 

 いいえ、少しくらいの選択の余地はありました。

 私が追放されると同時に、私の友人たちも流星街から出てゆきました。

 彼らは私と違って、良くも悪くも多くのものを欲しがって向上心がある貪欲な人たちだったので、前々から言っていた「盗賊」に本格的になるために出て行ったそうです。

 

 友人は私にも「仲間になって一緒に来い」と誘ってくれました。

 私に、一人きりで出て行かなくていいと言ってくれました。

 

 それを断ったのは、私です。

 

 友人たちの誘いは嬉しいものでした。

 

 マチとパクノダはあそこでは数少ない歳の近い女友達で、あれ以来会うことは出来ませんでしたが、今でも親友だと思っています。

 

 フランクリンはいつも、私のくだらない相談事を真摯に聞いて色々アドバイスをくれた、私にとって兄のような一番信頼できる人でした。

 

 フェイタンとはろくに話した覚えもありませんが、新入りの男に絡まれている私を見かけたら助けてくれました。……たぶん彼の趣味の一環だっただけで、私を助けたつもりはなかったと思いますけど。

 

 ウボーやノブナガは乱暴で何度か泣かされたこともありますが、彼らは決して嘘をつかなかったので好きでした。

 

 フィンクスはくだらない嘘をよくついていたのであまり好きにはなれませんでしたが、私が怒るとぶっきらぼうですがちゃんと謝ってくれたので、なんだかんだで嫌いにはなれませんでした。

 

 逆にシャルはいつも優しくしてくれましたし、私を傷つけるような嘘はつきませんでしたが、それでも嘘ばかりついていたので嫌いではありませんが、好きにもなりませんでした。

 

 クロロには本当に、本当に感謝しています。

 私も良くわかっていなかった「犬神」という能力がどのようなものなのかを、私のつたない説明で私以上に理解して、長老たちに弁明してくれたのは彼でした。

 友人たちが自分たちのリーダーに彼を選ぶのは当然です。私だって、彼以外は有り得ないと思っています。

 

 ……ですが、私は彼らの仲間にはなりませんでした。

 私は彼らと違ってほしいものがただ一つだったことと、その「欲しいもの」と彼ら「蜘蛛」としての考え方が決して相容れなかった為、私は彼らに感謝しながらも断りました。

 

 私が求めた「家族」は、お互いがお互いのために守り抜いて守り合う一心同体です。

 彼らの「蜘蛛」もある意味では一心同体かもしれませんが、彼らは「蜘蛛」という存在を生かすために手足はもちろん、頭すら切り捨てろという絶対のルールを作り上げました。

 

 それだけは、私には許容できません。

 私は友人たちが大事だからこそ、彼らが一人でも欠けるくらいならば逆に「蜘蛛」という存在を殺すことを選ぶのが目に見えていましたから……だからこそ、私は彼らから離れました。

 

 彼らが自分自身でさえも犠牲にして守り抜きたいものを、私は許容できませんが否定もしたくありませんでした。

 だから、私なりに彼らを、「蜘蛛」を尊重するのならば、私は関わらないように離れるしかなかったのです。

 ……まぁ、何にせよ私が彼らの仲間にはたぶんなることなんてなかったでしょうけど。

 

 だってクロロには感謝してますが、あの人が仲間内で一番どころか息をするように嘘をつくので、多分一緒にいたら遅かれ早かれ私の犬神の犠牲になってそうでしたから。

 

 + + +

 

 流星街から追放されてから「彼」と出会うまで、生きてこれたのが我ながら不思議です。

 

 生き方を選べるほど私は何かを持っていたわけでなかったのに、むしろ何もなかったのに、私は友人からの誘いも、そして一番私に向いている生き方も拒んで、生きてきました。

 

 私は「犬神」を使って生きてゆきたくなどなかった。

 それが愚かな私の意地に過ぎないことはよくわかっていました。

 それでも、私は嫌だったのです。

 

 私は「家族」が欲しかったから。

 だから、その「家族」に「人殺し」だとは思われたくない。

 

 そんな一心で私は「犬神」の存在を拒み続けました。

 

 けれど、私の願いは初めから叶うわけなどなかったのです。

 当たり前です。そもそも流星街から追放された理由が、犬神で新入りとはいえ同胞を殺したことなのですから。

 

 きちんと修行をして手に入れた訳でも、必要だから生まれた能力でもなく、自動的に継承されたものである為、そもそも能力の系統が私の本来の系統と違うだけでも最悪なのに、犬神そのものが死者の念というかなり特殊すぎる操作系能力なので制御は難しく、私の些細な苛立ちや不満に反応してその対象に襲い掛かることも、その人が死に至ることも珍しくない事でした。

 

 だから、私の周りには誰もいませんでした。

 私の「家族」になってくれそうな人はいつも、私の犬神を恐れてか、それとも私の苛立ちをぶつけられて犬神に襲われて、私の元から去ってゆきました。

 

 犬神がいつもいつも、私の些細な幸福の芽さえも残らず食い散らしていく現実に疲れ果ててきた頃、私は出会いました。

 

『貴女との子が欲しい。貴女によく似た可愛い娘が欲しい』

 

 そう言ってくれる人にようやく出会えた時は、うれし涙がいくつもいくつも止めどなく溢れ出ました。

 

 私の犬神の危険性を知りながら、それでも傍にいてくれた人。

 私の苛立ちや不満に反応するのならば、ずっと幸せにしてみせると言ってくれた人。

 

 私に「家族」をくれると言ってくれた人だったから、私は彼の、アトラムのプロポーズを受けました。

 

 私は疲れ果てていました。

 私は自惚れていました。

 私の眼は、曇っていました。

 

 嘘が大嫌いなため嘘を見抜くのが得意だった私は、自惚れていました。

 自分の張った意地に縛られて身動きが出来なくなった生き方に疲れて、その生き方をやめるきっかけに縋り付いただけでした。

 

 私は気が付きませんでした。

 アトラムの言葉の真意に気付かず、私はあれほど最後の一線として守っていた「人殺し」に手を染めたのです。

 

 ……彼が邪魔だと言った人間を殺し続けました。

 何の罪悪感もありませんでした。

 その頃の私にとって、世界は私と彼しかおりませんでした。

 後は、彼と私の幸せを邪魔する害虫か、私と彼の幸せに彩りを加える背景くらいにしか思っていませんでした。

 

 母に嘘をつかれ、母に捨てられ、母親を大っ嫌いになったのに、間違いなくこの頃の私は私を捨てた母と同じでした。

 あまりに愚かで醜い、「女」そのものでした。

 

 私はあまりに愚かでした。

 彼は確かに、「嘘」など何もついていませんでした。私との子供を、私の娘を心から望んでいました。

 

 ……彼が望んで欲していたのは私の娘という「人間」ではなく、「犬神」という人殺しの為の「道具」であったことに、私は気付けませんでした。

 

 + + +

 

 私は愚かでした。

 私は何も、気付けませんでした。

 

 妊娠がわかってから私を屋敷から一歩も出させてもらえないことも、あまりに限られた人間としか関わらせてもらえなかったことも、奇妙な念能力者の男が施した結界も、アトラムの「すべてはお前とお腹の子の為だ」という空々しい言葉を鵜呑みにしていました。

 

 出産のときでも、私はまだ気づきませんでした。

 産婆に「これを飲めばお産が楽になる」という言葉を信じて怪しげな薬を飲みました。子供が絶対に必要だったから毒ではなく、おそらくは睡眠薬か何かだったのでしょう。

 その薬を飲んですぐ私の意識は朦朧となり、気が付いたら私は私の死骸と生まれたばかりの娘を見下ろしていました。

 

 産んだ記憶がないからか、それとも蛙の子は蛙、あんな母の娘である私だからか、私は自分の娘を見ても特にかわいいとは思えませんでした。

 それよりも自分が死んで、夫がすぐ傍にいるのに私に気付いてくれないことの方が悲しくて悲しくて仕方がありませんでした。

 

 私はあんなにも「家族」が欲しかったくせに、血を分けた我が子など眼中になく、アトラムが何とか私に気付いてくれないか、どうしたら気付いてくれるかばかり考えて、私は何も気づきませんでした。

 アトラムも、あんなに欲しがっていた自分の子供に……、「娘」に触れるどころか会おうともしなかったこと。

 ……名前さえ付けてくれなかったことに、私は気付きませんでした。

 

 気付いたのは、一年もたってからです。

 私が妊娠していた頃、屋敷を奇妙な結界で覆った男がやってきて、娘が生まれて一年だということをアトラムと話してようやく、私が死んでもうそんなに経ったのかと思ったくらいで、娘への関心はいっそアトラムの方がよっぽど持っていたくらいです。

 

 私は彼らの会話で、アトラムの真の目的を知りました。

 アトラムは自分の邪魔者を排除する道具として私に目をつけ、「犬神」が強制的に女系遺伝する特殊な念能力と知り、それなら私よりも娘を初めから自分の都合のいい道具として育てた方が良いから私に子供を産ませたということ、あの結界は私が死ぬまで私の存在を認識できないようにするためだったもの、そしてその結界使いの男は自分の系統が操作系なのを利用して、娘の「犬神」をさらに扱いやすくするために協力関係を結んでいることを知りました。

 

 ……そのことを知っても、私は娘のために怒ってやるということが出来ませんでした。

 うわべしか見ていなかった自分の愚かさを棚に上げて、私を裏切ったことに対する報復以外何も考えられませんでした。

 挙句の果てに、その報復の矛先を私はアトラムやアルバではなく、娘に向けたのです。

 

 娘が憎かったわけではありません。私の娘への関心はゼロでしたから。

 ただアトラムが一番大事にしているものを壊して、悔しがらせたかったというあまりにくだらない子供の八つ当たり以下の考えでしかありません。

 

 私は母親ではありませんでした。

 人間でも幽霊でもない、悪鬼羅刹の方がよほど慈悲深く思えるほど、その時の私はまさに般若そのものだったと思います。

 そんな私が「母」になれたのは……、娘のおかげでした。

 

 娘には私が見えていたようです。

 娘は私を見て……笑ってくれたのです。

 

 アトラムが娘を道具として求めたように、私にとっても娘は夫の愛を獲得するための道具でしかありませんでした。

 ……アトラムと結婚した第一の理由が「子供を、家族を、娘を望んでくれたから」でしたのに、いつしか優先順位が逆転していたことに私は何も気づいていませんでした。

 

 娘は、ただの八つ当たりで物を壊すように、自分を殺そうとしていた「女」という鬼であった私なんかを見て、この上なく嬉しそうに笑って喜んでくれたのです。

 その笑顔に、嘘などありません。

 あの笑顔を見たら、アトラムが私に向けていた笑顔はあまりにも薄っぺらいうわべだけの、醜い笑顔だったことを思い知らせるような純粋な笑顔。

 

 私が求め続けた、家族であり本当。

 

 私の命。私の世界。私の幸せそのもの。

 

 その笑顔が、愛しくて、守りたくて、愛しくて守りたくて守りたくて守りたくて守りたくて守りたくて守りたくて守りたくて守りたくて守りたくて守りたくて守りたくて守りたくて…………

 

 だから、決めました。

 愚かな「女」であった私を「母」にしてくれたあの子を、私が求めたものを与えてくれたあの子のために、私は全てを捨ててでもあの子を守ると決めたのです。

 

 + + +

 

 私は間違えました。

 

 犬神は母親が死ねば自動的に娘に継承されるもので、既に娘は「犬神遣い」でした。

 だから、ちょっとしたことでいつ「犬神」が暴走してもおかしくはなかったのですが、そこらはアトラムもリスクを良く知っていたのでしょう。

 

 自分が娘と関わらなかったのも娘のターゲットになり得ない為でしたが、そもそも能力が暴走しないように、娘が大きな不満を懐かないように細心の注意を払って育てていることを私は1年たってようやく知りました。

 ある意味では文字通り、乳母日傘の箱入り娘として大事に大事に育てられていることを知ってしまったことで、私は判断を、選択を間違えました。

 

 私がすべきだったのは、一刻も早く娘をアトラムとアルバから引き離すことでした。

 けれど、私は期待してしまったのです。

 あんなにも醜い鬼そのものだった私でさえ、娘の笑顔でその鬼が浄化されて母になれたのだから、アトラムも娘と向き合えば父親になれるのではないかと思ってしまいました。

 

 私は「犬神」が操作系なため「犬神遣い」となってからは操作系の修業をしていましたが、私の本来の系統は変化系寄りの具現化系です。

 だから、自分が死者の念となることでパワーアップしても半年かかってしまいましたが、私は本来の系統である具現化系と変化系を生かして、まずはオーラそのものとなった自分の体を「犬」に変化させて、娘の「犬神」としての能力の一部になりました。

 

 娘の能力の一部となったことで、娘からオーラが供給されるので私はさらに能力を向上させて、自由に自分の姿を犬から人へ戻ることが可能でした。

 そうやって娘の能力の一部となって、犬神のコントロール権を私が握って、そして私は人間の姿でアトラムの前に現れて忠告しました。

 

 娘は犬神を使えない。私が代わりに支配している。

 娘をちゃんと人間としての人生を与えてくれるのならば、私は何もしない。娘の為になるのなら、また犬神で誰かを殺してやってもいい。

 だけど、これ以上娘を道具として扱うのなら、私が犬神でこの家を滅ぼしてやる。

 

 ……もしかしたら、この時点で犬の姿で現れていれば、アトラムは怯えて屈して娘は解放されたのかもしれませんね。

 私はまだ、母になりきっていなかった。まだ私はアトラムに縋り付く、愚かな女でした。

 

 そんな私のプライドが、大きな間違いでした。

 

 アトラムが私の忠告を素直に聞かないのも、アルバの能力で屋敷から追い出されるのも想定内でした。

 

 忠告を聞かないのなら、わかりやすく私は見せつけました。

 娘がどんな扱いかを知っていながら何もしなかった奴ら、娘を早く利用したいのに利用できないことに苛立って、「役立たず」と言った奴ら、娘が成長したら「犬神遣い」としてではなく別の使い道もあると厭らしく嗤った奴らを私は見せしめで殺しました。

 

 奴の目的である犬神は、未だに私のものであることを見せつけました。

 私の忠告を聞かなければどうなるかという結果を見せつけました。

 

 私は愚かでした。私は間違えました。

 

 まさか、まさか……いくら娘を道具としか思っていなかったとはいえ、あいつは……、あいつ自身の娘でもあるのに、自分の血を分けた娘に、まだ1歳半のあの子に、あいつはあいつはあいつはあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!

 

「犬神」という能力の一部となり、娘からのオーラが供給される為、嫌でも私は娘があの外道どもに、鬼畜にも劣るあいつらにどんな目に遭わされているかがわかってしまうのです。

 

 私の所為で、私が犬神をすべて引き連れた状態で屋敷から追い出されたから、あの外道どもが屋敷に引きこもっている限り私はあいつらを殺せない。娘を助けられない。

 

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

 私がバカだったせいで、私が無意味な自分のプライドを優先したせいで、私の見る目がなかったせいで、私がすぐにあなたを連れて逃げ出さなかったせいであの子は、いっそ殺された方がマシな目に遭っています。

 

 いいえ、本来ならとうの昔にあの子は死んでました。

 私が、あの子の能力の一部となった私が逆にあの子にオーラを供給することで、あの子は生きながらえています。

 あの子の苦しみを、最も惨く長引かせているのは私です。

 

 ごめんなさい。でも、生きていて欲しいの。

 あなたは生きて、生きて、幸せになって欲しいの。

 

 必ず助けるから……。絶対に守り抜くから……。だからお願い。もう少しだけ、待ってて。

 

 ……あの子にオーラを供給していることと、あの子の憎悪と殺意が日に日に増している所為で、犬神たちがどんどん凶暴になって行く。

 もう私は、人間の姿に戻れない。そんなところに能力のメモリをさく余裕なんかない。

 

 犬そのものにならなければ、犬神を制御しきれない。

 

 ……でも、人間を完全には捨てられない。

 だって、人間の腕がないとあの子を抱きしめられない。

 だって、人間の声がないとあの子に子守歌も歌ってあげられない。

 

 あの子のためなら何でも捨てられるのに、何を捨てても惜しくないのに、あの子の為にしてあげたいことがありすぎて、手放せない。捨てられない。

 

 でも、ダメ。

 もう私には余裕なんかない。

 選ばなくちゃいけない。何を捨てて、守り抜きたいものだけを選ばなくっちゃいけない。

 

 大丈夫。それはちゃんとわかってる。

 守りたいものは、守らなくてはならないものは、失えないものはわかってる。わかってる。わかってる……

 

 ……けど、変ね。

 何も惜しくないのに、私が守りたいものは、私が残しておきたいものなんかそれしかないのに、それだけを守るために私はそれ以外をすべて捨ててきたはずなのに……私はあの子の笑顔をもう思い出せない。

 

 私を「母」にしてくれた、一番尊い私の宝物だったはずなのに……。

 

 どう、して……かしら……。

 それだけを……守る為に……捨てて……来たのに……

 最、近……自分が……何をしてるのか……わからなく……なる……

 殺さなくっちゃ……いけないこと……だけは……わかってる……のに……

 

 …………私、……何で……あいつらを……殺さなくっちゃ……いけないん……だっけ……

 

 

 

 ……………………わた、し……

 

 …………なんの……ために……

 

 ………………なにが……した、かったん……だっ……け……

 

 

 

 

 

「これが、『死』だ」

 

 

 

 

 

 * * *

 

 ソラが硝子にボールペンを突き刺せば、様々な人々から恨みを買っていることを自覚しているからか、防弾とまではいかなくても相当丈夫な硝子だったらしく、安っぽいボールペンの方が負けて砕け折れた。

 

 物理法則(常識)には負けたが、念能力(非常識)には相変わらずの死神っぷりを発揮する。

 

「なっ……」

 

 アルバは、脳に血が巡っているのか心配になるほどに血の気を引かせて絶望した。

 屋敷に張り巡らせた結界が、ソラの一撃によって掻き消えてゆく。

 ソラの宣言通り、死んでいく。

 

 アルバの能力である、「一定範囲内の人間の認識を狂わせる」という能力は、ごく一般的な操作系能力と比べて効果が酷く薄い分、アルバ本人をどうにかしない限り解除は不可能に等しかった。

 

 正統派操作系が人や物を操作する際、思い入れの深い愛用品を使用したり、誰かを操作する場合は命令を受信するアンテナを相手に取りつけなければならないからこそ、その愛用品やアンテナを壊せば終わりという弱点を抱えるが、アルバの能力は基本的に物質を媒体にしていない。

 

 彼自身のオーラが他者の認識を狂わせる暗示効果をもたらしているので、一番簡単な力の使い道はアルバのオーラで隠したいもの全体を包むことだが、当たり前だがこの屋敷内全体を常時包み込むほどの量のオーラなどアルバに限らず人間で持ち得る訳がない。

 

 だからアルバは、屋敷に自分のオーラを「境界線」として引くことで、屋敷全体を自分のオーラで満たすのではなくドーム状に包み込むことでオーラ消費を抑えていた。

 それでも範囲が広くて一瞬たりとも解除出来る暇も隙などなかったので、「神字」で能力の補助をしていたが、その神字はもちろん屋敷のいたるところに隠して書かれており、数文字消した程度では解除されないし、一文字でも消されたらアルバが真っ先に気が付くという保険だって当然掛けている。

 

 その保険が何の反応も示さない。

 神字は消されていないのに、自分は五体満足でまだ生きているというのに、なのに、消された。

 

 死者の念とはいえ、犬神を殺せたことに関してはまだ納得がいく。

 念能力において重要なのは、思い込みや自己暗示、意志の強さだ。

 あまりにもおぞましい存在ではあったが、まだあれは「生きている」と認識することが可能だ。そして「生きている」のなら「殺せる」と思うのも自然。

 

 だがアルバの能力は、“凝”で見ても対象を囲んで包む薄い(もや)のようなもので、しかも能力の効果でその靄が見えてもそれを不自然だと知覚することが出来ず無視してしまうから厄介なのだ。

 

 はっきりとした形を持たずに、対象の意識に干渉するアルバの能力は、もはや「概念」そのものであるというのに、ソラの天上の美色の眼ははっきりとした「死」を捉え、殺しきった。

 

 

 

『■■■■■■■■■■■■■!!』

 

 

 

 ……屋敷を覆い隠していた結界が消え去ったことで、キヨヒメと犬神が吠える。

 それは歓喜の叫びだったのか、極限まで達した憎悪の絶叫だったかわからない。

 

 ただ、飢えた獣も、人間をやめた母親もこのチャンスを逃す気などない。

 

 犬神はすぐには襲いかかってはこなかった。

 いや、結界が消えた瞬間に犬神は涎を溢れ垂らしながらこちらに襲いかかろうとしたが、司令塔であるキヨヒメの吠え声に反応して、憎らしそうながらも空中に浮遊したまま「待て」を大人しく続けている。

 

 けれど、その「待て」も長くは続かない。

 おそらく、キヨヒメ本人も何故犬神を待たせたのかわかっていない。

 

 ……娘がその場にいるのかどうかの確認をするため犬神を止めたことを、もう本人が一番わからなくなってしまっている。

 

 目的を忘れて失いかけているのに止まれなくなっているキヨヒメは、人間の悲鳴にも犬の遠吠えにも聞こえる声を上げる。

 キヨヒメの一吠えで、犬神と彼女自身のオーラがさらに増幅すると同時に、「ひぃっ!?」とアトラムがひきつった悲鳴を上げた。

 念能力者ではない彼でも、犬神が、そして変わり果てたキヨヒメが視認できるほどに増幅されたオーラは、“纏”どころか“錬”状態のジンやカイトでも背筋が凍る殺気を漲らせている。

 

 そんな状態の、止めることなどやはり無謀どころか無意味でしかないと思わせるキヨヒメを見て、ソラは舌を打つ。

 

「バカか!!」

 

 復讐ですらない、目的を見失った手段なんかのために、自分に残されたオーラを使い切ろうとしているキヨヒメを罵倒した直後、キヨヒメが血走った目で屋敷の中の人間たちを見渡し、唸りながら言葉を吐きだした。

 

『コ……ロセ!! 殺セ殺セ殺セ殺セェェッッッッ!!」

「ジン! カイト!! そっちはお願い!!」

 

 やっと「よし」と言われた犬神たちが屋敷内に飛び込むと同時に、ソラは邪魔な硝子戸を硝子どころか枠ごと蹴り破って叫ぶ。

 

「ちょっと待ておい! ふざけんな!!」

「お前もうちょいこっちの話聞くとか作戦立てるとかしてから行動しろよ!!」

 

 ソラのあまりに唐突な、結界破りからの怒涛の展開にジンとカイトが割とマジギレしながらも、彼女の「お願い」が何なのかを訊くまでもなく理解していた。

 

 一直線に、距離で言えばソラや自分たちの方がはるかに近いのに、3人を無視してアトラムへと向かってくる犬神たちを、カイトとジンは先ほどまでと同じように迎撃してゆく。

 

 アトラムを守っているつもりはない。

 ただ、少なくとも今はまだこの男に死んでもらう訳にはいかない。

 目的を見失いかけているキヨヒメに、手段であったアトラム殺害さえも終えて失ってしまえば、彼女の狂気がどこに向かうかがわからないから、時間稼ぎで止めているだけ。

 

 そう、二人のしていることは時間稼ぎに過ぎない。

 文句をつけつつも、何も疑ってなどいないから、ここまでオーラが増幅された死後の念相手でも恐怖はなく、余裕は失われない。

 

 自分達はほんの少し、キヨヒメが「止まる」までの時間を稼げばいいだけであることはわかっているから、それぐらいできる自信はあるから。

 

 ソラがキヨヒメを止めると信じきっていたから、何の躊躇いも迷いも有りはしなかった。

 

 * * *

 

 硝子戸をぶち破って飛び出したソラを、犬神たちは素通りしていく。

 ソラなどすでに眼中になく、彼女自身も歪な犬の体をしならせて屋敷の中に飛び込む。

 

 憎くて憎くてたまらない、何を失っても犠牲にしても殺さなければならない怨敵の元へ。

 何故、そこまでアトラムが憎くてたまらないのか、どうしてアトラムを殺さなくてはならないのか、その理由はもう頭の中によぎらない。

 

 ただただ殺意そのものとなった狂ったキヨヒメは、もう夫であったことすら忘れた怨敵の喉笛に喰らいついて噛み千切ることだけしか考えられなかった。

 

「無視すんなよ。つれないな」

 

 アトラム以外誰も、認識などできなかった。

 屋敷内に飛び込もうとした時、自分の後ろ足が掴まれていると気付くまで。

 

「おらぁっ!!」

 

 素通りされたソラはとっさにキヨヒメの足を掴んで、そのまま腕をぶん回してキヨヒメを地面に叩きつける。

 止めるとはそういう物理的な話だったのだろうか? と思わず見ていたカイトとジンが遠い目になる豪快な足止めだが、とりあえず大分悪い意味でだがキヨヒメの眼中に入ることには成功した。

 

 ソラが手を離すと、獣の形に変貌していながらも元は美しかったであろうとわかる顔を憎悪に歪めて、キヨヒメは向き直って喉の奥から唸りを上げ、人間にしては鋭く、犬にしては平らなあまりにも半端な歯をむき出しにして跳びかかる。

 人間の面影を残した異形が、もはや完全に犬そのものの行動で襲い掛かるという悪夢的な状況でも、ソラの加速し続ける思考は決して止まらない。

 

 同じ「狂人」だとしても、キヨヒメとソラではソラの方が先輩だ。

 この程度で恐れて身が竦むのなら、とっくの昔に彼女は死んで楽になれた。

 

 喉笛狙いで跳びかかって喰らいつくキヨヒメを、腕でガードして防ぐ。

 もちろん腕はオーラでガードしているが、キヨヒメの憎悪はその装甲を突き破って喰らいつく。

 しかし、ソラは自分の腕に喰らいつかれ、肉が抉られて血が噴き出しても止まらない。

 

 キヨヒメが自分の腕に食らいついた瞬間、腕を引くのではなくそのまま押して突っ込んで地面にまたしても叩きつける。

 獣の歯の構造上、食らいつかれたら引くのは悪手。そうすれば、食らいついた部分の肉をそのまま獣に食いちぎられて抉られる。

 だからそのまま押し込んでカウンターを決めた方のは確かに正解だが、キヨヒメの歯を正味の獣と比べたら人間に近いため、傷口は刃物で刺し貫かれたようなものではなく、つぶれるように抉られて余計に痛むはずなのに、ソラはその痛みを後回しと言わんばかりに頭の端に追いやる。

 

 自分の腕に食らいついたキヨヒメを押し倒したまま、自分の腕に食らいつかせて押し込んで、逆に猿轡をかませたような状態となる。

 口をふさがれたことで吠え声でも言葉でも犬神に指令を出せない為、犬神たちは自分たちの司令塔を無視してひたすらにアトラムを狙って、ジンやカイトに叩きのめされている。

 どこまでも自分の邪魔をするソラを、キヨヒメは憎々しげに睨み付けて悪あがきでさらに強くソラの腕に噛みつくが、それでもソラの表情は変わらない。

 

 憐れむような顔でソラはアトラムにしたようにキヨヒメに覆いかぶさって、セレストブルーの目で見降ろして言った。

 

「バカか、お前は」

 

 キヨヒメの「間違い」を指摘する。

 

「どこまで意味がないことしてんだよ。

 わかってるんだろ? あいつらを殺しても終わらない。あいつらを殺しても、『犬神』がある限りお前らの一族は呪われ続ける、手に入れて当たり前だった幸福を取りこぼしていくことくらい、わかってるんだろ!?」

 

 抑え込まれたキヨヒメの目が一瞬、揺れた。

 憎悪に滾って血走った目に、ほんのわずかな理性の光が瞬いた。

 

「あいつらを殺しても終わらないっていうのに、なんで今ここでゴミ掃除の為に自分の(オーラ)を使い潰そうとしてんだ!?

 まだだ! まだ、『生きろ』! 本末転倒起こして忘れてんじゃねぇよ!

 思い出せ! 気合い入れてまだ、正気が残ってるフリくらいしろ!!

 親ならちゃんと生きて子供の手本になりやがれ!!」

 

 ソラの言葉が続くに比例して、ソラの腕に食らいつく顎の力も増してゆく。

 同時に、キヨヒメの目に宿る理性(ひかり)が強くなってゆく。

 

 ソラに向かって憎しみや殺気をぶつけていることに変わりはないが、何故憎いのか、なぜ殺したいのかという根幹がすっぽりと抜けた狂気ではなく、そこに人としての論理を持った感情が宿る。

 塞がれた口の代わりに、その眼が語る。

 

「お前に何がわかる!?」

「お前に何が出来る!?」

 

 キヨヒメの発狂は、娘が生きているのに無事ではないということを身をもって知ってしまうのに助けられないという拷問だけではなく、自分にも娘にも先がないことを理解しているからこその現実逃避でもあった。

 

 アトラムから娘を解放しても、いくら自分が犬神を娘の代わりにコントロールしても、いつかは限界を迎えることはわかりきっている。

 その「限界」が、完全に自分が「犬神」というシステムに取り込まれて自我を失うが、犬神の制御がしやすくなるのであればキヨヒメとしては本望なくらいで、オーラを使い果たしてキヨヒメの存在が消えて、元通りの犬神になってしまうのだってまだ良い方。

 下手すれば犬神の飢餓や憎悪にキヨヒメが呑まれ、彼女自身も本当に「犬神」に変貌してしまってもおかしくはないことくらい、自分自身のことだから良くわかっているだろう。

 

 なんにせよ、キヨヒメの娘はキヨヒメやその母、彼女の一族の女たちと同じように「犬神」を切り離さなければ、結局はどこにも行けない、手に入って当たり前のはずの幸福をすべて取りこぼして奪われて不幸のまま終わっていくことくらい、わかっている。

 

 わかっているのに、わかっていても切り離せず何とか利用するしかないこの「呪い」について指摘され、キヨヒメはボロボロ涙をこぼしてソラを睨み付ける。

 

 泣きながら、目でソラに恨み言を唱えるキヨヒメを見下ろして、ソラは先ほどまでの剣幕とは裏腹に、酷く静かに言った。

 

「キヨヒメ。良く、見てろ」

 

 静かに命じてから、行動は速かった。

 

 キヨヒメの犬のように変形した鼻と上あごを掴んでこじ開け、噛みつかれていた腕を解放する。

 肉が潰れるように抉られたグロテスクな傷から血が溢れ出るが、それを無視してソラはキヨヒメから降りて、そして何の躊躇いもなく掴んで駆けた。

 

 自分が蹴り砕いた硝子戸の、特に大きな硝子の欠片を掴みあげる。

 キヨヒメに噛みつかれた腕で、掌からも血が溢れ出ることにすら気づいているのか怪しいほどに何の迷いもなくその欠片を握りしめ、ソラは屋敷の中に飛び込んで駆け抜けた。

 

 犬神を迎撃しているジンやカイトにも、もはやプライドをかなぐり捨てて腰を抜かして命乞いをしているアトラムも、その眼は映していない。

 

 その眼が捉えるのは

 

 その「 」に繋がる眼が捕える「死」はただ一つ。

 

「逃げてんじゃねぇよ!!」

 

 叫ぶと同時に、一閃で切り払う。

 何もない、廊下の空間。

 何もない、誰もいないはずの、そう全員が思い込んでいた、いつの間にか意識の端から消失して消え失せていた事実が、それを包み込んで隠していたものが切り裂かれ、切り払われ、殺されて露わとなる。

 

「なっ!?」

 

 派手な赤いコートとシルクハットの男が、突如、廊下に現れる。

 いや、違う。初めから彼がここにいたことは誰もがわかっている。

 初めからみんな見えていたが、道に転がる小石程度にしか認識できず、そのまま無視していることすら気づかず無視していたことに気付く。

 ソラが屋敷の結界を破壊してからいつの間にか、アルバは自分自身に念能力をかけていたことに、ようやく気が付く。

 

 誰の意識からも、キヨヒメの憎悪からも外れるほど自分の存在に対する認識を薄めて消して忘れ去らせて認識できないようにさせて、そのままアトラムとソラ達に全てを押し付けて逃げおおせようとしてアルバだが、ソラの眼はその程度の小細工など何の意味もない。

 

 確かに、ソラもアルバの存在を忘れていた。空間を切り払ってアルバが現れるまで、彼の名前どころかアトラムに共犯者がいたという事実も思い出せなかったし、実は自分が切り払ったものは何だったのかもよくわかっていなかった。

 

 だけど、アルバという存在を認識できなくなっても、最高精度に達している今のソラの眼は「アルバを包み隠すもの」をはっきりと捉えていた。

 その「何か」に包み隠れたものが、逃げ去ろうとしているのも、その包み隠したものの「死の線」も。

 

 だから、切り払った。

 正体がわかっていなくても、今更になってこそこそ逃げようとしたものが気に入らなかったのも大きいが、それよりも見せつけたかった。

 だからソラは、もう恐怖や絶望すら底ついたように力なく膝をついたアルバを無視して、キヨヒメに向き直り叫んだ。

 

「見たか!? キヨヒメ!!」

 

 ソラの叫びを無視して、犬神は無防備なアルバに向かって行くが、キヨヒメが一度、大きく叱責するように吠えた。

 キヨヒメの吠え声で、先ほど以上に恨みがましい目でキヨヒメを睨み付けながらも、犬神たちは攻撃をやめる。

 アルバに対してだけではなく、アトラムに対しても。

 

 犬神たちの殺気は変わらず凄まじいが、キヨヒメから湧き上がっていた憎悪や殺意は大分薄れてしまっている。

 心なしか、起き上がってソラに顔を向けるキヨヒメはやや呆けているように見える。

 

そんなキヨヒメの様子を無視して、ソラは言葉を続ける。

 

「ちょっとは頭が冷えたようだね。

 お前は見てきただろ? 私がお前の犬神を殺すところを!

 犬神だけじゃない! こいつの、アルバの実体がないに等しい、概念に近いアルバの念能力も私は殺せる!

 

 これがどういうことか、お前ならわかるだろう!?」

 

 キヨヒメの眼が、見開かれる。

 その眼には、壊れ果てた狂気はもうない。

 

 人間としての理性と、母親としての希望の光が灯る眼に、セレストブルーの眼は伝える。

 

「お前らの、『犬神』の呪いを解いてやる」

 

 キヨヒメの希望を、悲願を、何もかもを捨てても失っても叶えたかったもの。

 

「個人で作り上げた能力だったら難しかったけど、『犬神』は後天的に引き継がされる能力だ。

 私の眼で『殺して』しまえば、繋がってる奴らが連鎖的に死ぬ可能性が高かったけど、さっきまでの庭の混戦を見る限りそれはなさそうだし、あったとしても後付けで犬神にオーラを供給するパスを繋げられたのなら、それを切断することはできる。

 そのパスさえ切ってしまえば、私の眼で『殺して』しまえば、もう犬神は誰にも継承されない。

 

 ……呪いは、ここで途絶えさせることが出来るんだ」

 

 キヨヒメが何としても、娘にあげたかった「未来」を与えられると告げる。

 

『……本……当?』

 

 人間の面影を残しているとはいえ骨格から変わっているのだから、人間の言葉などもうほとんど紡げないはずなのに、キヨヒメは唸るように、絞り出すようにして尋ねる。

 

『……本、当ニ……犬神ガ……コノ……呪イガ……解ケル……ノ?

 アノ……子ハ……、普通ノ……女ノ子ニ……ナレル……ノ?』

「なれるさ」

 

 キヨヒメの悲願を、気が狂う程に希った望みを、ソラは即答する。

 

「ただ、犬神の能力に取り込まれたあなたは、たぶん犬神と一緒に死ぬ」

 

 娘に「未来」が与えられるという希望を告げた口で、代わりにキヨヒメは「未来」を失うということも告げる。

 

 ソラの眼で殺されたのならば、もう天国や地獄といった死後の世界や生まれ変わりという未来まで諦めなくてはいけない。

 この眼は生きているのなら死者も概念も、神様だって殺してしまう終わりの青。

 すべての始まりにして終焉である「 」に突き落す眼なのだから。

 

 そのことを知らされ、キヨヒメは答えた。

 

『イイワ』

 

 ソラと同じように、彼女も即答だった。

 

『イイワ。アゲル。私ニ……マダ未来ガアルノナラ……、ソレハ全部アノ子ニアゲル。

 コンナ私デモ、マダ幸セニナレルノナラ……ソノ幸セハ、全部アノ子ニアゲル。

 ……ダカラ、オ願イ…………』

 

 もうキヨヒメは、アトラムやアルバも見ていない。

 二人が犬神の殺気と恐怖心で心がやられて、もう逃げ出す気力すらないことも関係ない。

 

 失えない、そのためだけに何もかも捨ててきたのに、諦めるしかなかったものを与えられるのならば、もう忘れることなどない。

 ようやく、キヨヒメは思い出した。

 

 自分が何をしたかったのか。

 自分がしなくてはいけないことは何だったのか。

 

『アノ子ヲ……助ケテ……』

 

「いいよ」

 

 

 

 + + +

 

 

 

「いいよ」と、その子は言ってくれました。

 そう言って、笑ってくれた時やっと、私は思い出せたのです。

 

 娘の笑顔を、私は思い出せました。

 

 何故忘れていたのかわからない程、鮮明に、鮮烈に記憶が蘇ると同時に涙と図々しい願いが溢れ出してこぼれ落ちます。

 

 あぁ、早く、早く会いたい。会いたい。会いたい。

 

 きっとあの子は私にもうあの笑顔を向けてはくれないけれど、それでも生きているのなら、助けてもらえるのなら、きっと大丈夫。

 私に向けられることが無くても、きっとあの子はちゃんと笑える。

 

 あの子によく似た笑顔で「助ける」と言ってくれた人が助けてくれるのなら、絶対に大丈夫だと思いました。

 大丈夫にさせると、誓いました。

 

「キヨヒメ、『娘』はどのあたり? 今更だけど屋敷の外には出されてないよね?」

 

 娘を助けると言ってくれた子に尋ねられ、私は身を翻して案内しました。

 大丈夫。娘は間違いなくこの屋敷内にいます。

 私は「犬神」の一部として取り込まれたので、アルバの所為で具体的な場所はわからなくなっていたけれど、大雑把でいいのならちゃんと把握できていますから。

 

 けれど、どうもアルバは屋敷の中で娘を監禁している部屋にも結界を張っているのか、おそらくどこかに扉なり階段なりがあるはずなのに、私には一面何の変哲もない壁にしか見えません。

 

「ちっ! まだ結界が張ってあんのかよ! おい、カイト! あの赤ザコ連れてこい!!」

「必要ないよ」

 

 私がたどたどしくそのことを告げると、無精ひげの人が舌打ちして長髪の人に命じましたが、白髪の子は少しだけ目を細めて壁を見渡したかと思ったら、アルバにしたように今度は素手で何かを切り裂くような動作をしました。

 その直後、私たちの目の前に地下へと続く階段が現れました。

 いえ、現れたというより唐突に、そういえばここにはワインセラーに続く階段があったことを思い出しました。

 

 あぁ……こんな薄暗くて寒い所にあの子は閉じ込められていたのね。

 

 いくらしても足りない後悔と懺悔が私のもうないはずの心臓をひどく痛ませるけれど、そんな痛みなど気に留めている暇もないことは私が良く知っています。

 だから私は駆け降りました。

 

 助けてと縋った相手を置き去りにして、私一人さっさと先に進むのは無礼にもほどがあることはわかっていましたが、そのことを気に掛ける余裕など私にありませんでした。

 階段を駆け下りて、固く閉ざされた扉を幽霊の利点ですり抜けて、娘を探します。

 

 いえ、探す必要はありませんでした。

 ワインセラーだったはずの地下室は、私の記憶ではワインを保管する棚と私には価値がまったくわからない年代物のワインがずらりと並んでいたはずなのに、ワインも棚もなくなっていました。

 

 完全にそこは、あの外道どもの「実験場」で、忌々しい私の一族を真似た「祭壇」とされていました。

 

『ア……アァ……アアアアアアァァァァァァッッッッ!!』

 

 やっと会えたなんて喜びは、この瞬間消え去りました。

 私は娘と再会できて喜ぶ資格などなかったのです。

 

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 

 この子がいっそ殺してほしいと、死にたいと願っていたことは知ってました。

 やっと2歳になったばかりの子を、ここまで苦しませて追いつめたあの外道どもは絶対に許せないけれど、それ以上に許せないのはやはり私自身です。

 

 助けに来れなくてごめんなさい。

 やり方を、選択を間違えてばかりでごめんなさい。

 

 あなたが死を願う程に苦しんでいることを知っておきながら、あなたを助けてもあなたに「未来」をあげる自信もなく、ただ私の自己満足の為にこんなにも苦しみを長引かせてごめんなさい。

 

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい………………

 

「!?」

「……これ、は……」

「……外道でも生ぬるいな」

 

 いつの間にか、私の背後で3人が絶句してました。

 私がひたすら娘に謝り続けることしかできなくなっている間に、扉を壊して入って来て娘を見ました。

 そして、娘の現状であの二人が何をしていたのか、娘を「何」にしようとしていたのかを理解したのでしょう。

 

 ……枯れ木のようにやせ細った両手と両足を必死に動かして、娘は這いずって求めます。

 自分の目の前に犬のえさのように置かれた酷く粗末な、腐りかけの食べ物を。

 

 でも、娘が爪が割れる程に必死で這いずっても、口はもちろん指先も器には届きません。

 ギリギリ、娘の指先が器に触れるかどうかという位置までしか届かない長さの、あまりにも重厚な鎖が娘の首につけられた首輪から壁に繋がっているからです。

 

 娘は、私や彼らに気付くと血走った目で睨み付け、かすれきった声で叫びます。

 

「あ……ああぁぁっ! あああぁぁぁぁっっ!!」

 

 それは助けを求める声ではありません。そんな声はとっくの昔に枯れ果てました。

 この子に今、残っている感情は絶望と憎しみだけ。

 

 自分を極限まで、極限を超えるほどに飢えさせる世界そのものに対する怨嗟と呪詛でした。

 

 無精ひげの男の人は、唇を噛みしめすぎて血を流しながら、叫びました。

 

「あいつら……人間で『犬神』を作ろうとしてやがったのか!?」

 

 そう。

 あいつらは、私が犬神のコントロール権を奪って娘は犬神を使えないと知ってやったことは、娘を真っ当に生かしてやることでも、私をどうにかして娘に犬神を戻すことでも、娘を利用できないとあきらめて殺すことですらなかったのです。

 

 あいつらは、新しく「犬神」を作ろうとしたのです。

 それも、犬を材料とするのではなく娘を使って!!

 

 + + +

 

 私は犬神の製造法を正確には知りません。

 気が付いたらいつの間にか継承していたので、母が私に話さなかったのか、とっくの昔に製造法は失われていたのかすらわかりません。

 

 そもそも、「犬神」という名前すらも友人であるクロロがどこからか拾ってきたのか盗んできたのか、ジャポンの古い文献で私の能力と似たような記述を見たことがあると教えられたので、そこから取ったものです。

 その文献に記述されていたのが私の一族のことか違うのかすら、私にはわかりません。

 

 ただ、犬神の姿や様子からして「極限まで飢えて発狂した後に首をはねる」という点は間違いないと思っています。

 

 アトラムを妄信していた頃の私は、アトラムが犬神について聞きたがっても私の忌まわしい呪いまで理解して愛してくれているとバカなことを考えて、正直に全て話していました。

 その情報がアルバに伝わり、そしてどうやら戦闘能力が皆無なことにコンプレックスを懐いていていた奴は、あまりにおぞましいアトラムの思い付きに飛びついたのです。

 

 私は一番肝心な「首をはねて殺した後の犬の死後の念を、どうやって使役するか」という方法を全く知りませんでした。

 だからアトラムのように念に関しての知識が薄い者ならともかく、念能力者なら思いついた直後に無理だと判断するのが普通なのでしょうが、アルバの系統は犬神と同じ操作系であり、「暗示」という操作系でも少し珍しい能力効果でした。

 

 私が語った方法で「死者の念」を作って、自分の能力で暗示をかけてその「死者の念」が抱く憎悪や殺意、飢餓を他に逸らすことが出来るのではないかと奴は思いました。

 

 もちろん、成功する確率がひどく低いことも理解していたでしょう。

 だからこそあいつらは、犬ではなく娘を実験体として使ったのです。

 

 娘が死んで犬神化が失敗すれば、間違いなく自分たちが殺されることくらいわかってました。

 けれど、娘が死ねば娘が継承されていた犬神は継承者を失ったことで解放され、同じように自分たちを殺した一族の末裔である娘の「死者の念」に襲い掛かることも予測出来ていたのでしょう。

 娘を襲って食い殺せば、犬神の恨みが晴れて永遠に続く飢餓からも解放され、満足して消える可能性がありましたし、消えなかったとしても統率していたものが失われたので、しばらく隠れてさえいれば犬神たちは獲物を求めて散り散りとなっていたと思います。

 

 なんにせよ、あいつらにとって都合のいい結果になる可能性は高いものでした。

 だから、あいつらは実行したのです。

 

 あいつらは、成功したら娘を使って犬神の駆除を、失敗したらアルバの結界を使って隠れて娘だけを放り出して犬神に駆除させようと、どちらにしても娘を使い潰すつもりでこんなにも惨くておぞましい実験をしていたのです。

 

 ですが、「極限まで飢え死にさせて発狂させる」が犬を「死者の念」にさせる絶対条件だった為、水すら飲ませないと発狂する前に死ぬと判断されて、ある程度の水分は娘に取らせていたことと、私が娘にオーラを逆に供給していた為、娘は有り得ない程の長期間生き延びたことで奴らの計画は狂いました。

 

 娘の憎悪と殺意に犬神が呼応していることと、私が娘にオーラを与えているから犬神をコントロールするためのオーラが心もとなくなったこと、そして私自身もアトラムとアルバに気が狂う程の殺意を抱いたことで犬神が凶暴化して、娘の犬神化が成功しても失敗しても犬神を何とかできるとは思えなくなったのでしょう。

 

 だから、他のハンターに助けを求めたのです。

 これだけの犬神を何とか出来るハンターを見つけたら、娘の犬神化が失敗してもまたそのハンターに依頼したらいいと考えた結果が現在へと繋がります。

 

 無精ひげの人と長髪の人は、自分の無力さを悔やむような今にも泣きだしそうな顔で娘に駆け寄りました。

 

「あぁ、くそっ!! 治癒系は苦手なんだよ!!」

気狂いピエロ(クレイジースロット)!!」

 

 無精ひげの人は頭を掻きむしりながらオーラを増幅させます。

 長髪の人は、何か武器を出しては壁にその武器を使って攻撃してはまた武器を出すを繰り返します。きっとランダムで出てくる、治癒効果がある何かを出そうとしてくれているのでしょう。

 

 私も同じように、今までのように娘にオーラを供給しようとしますが、わかっていましたがあまりにもひどい惨状を目にしてしまったせいか、上手くオーラを娘に送れません。

 私の心があまりにグチャグチャに乱れている所為だということはわかりきっていますが、娘を見れば見るほどにどうやっても落ち着くことなどできず、今までどうやって私はこの子にオーラを供給していたのかすら分からなくなりました。

 

 ごめんなさい、ごめんなさい。

 役立たずでごめんなさい。

 

 だから、そんな顔をしないで。悔やまないで。自分を責めないでください。

 あなた方は何も悪くないのです。あなた達のおかげで、娘はあいつらから解放されるのだから、娘はやっと助かることが出来るのだから。

 

 悪いのは私です。

 この子のためなら何でもできると思っていたのに、何もかもが裏目に出てばかりだった愚かな私が悪いのです。

 だから……そんな顔をしないで。

 

「ああぁぁああぁっっ!!」

 

 娘にオーラを与えて、少しでも回復させようとしてくれる二人に、娘は獣のような唸り声を上げて、あまりにか細い手足を振り回して暴れます。

 いえ、暴れると言えるほどの体力はありません。かすかに手足を動かした程度ですが、彼女の拒絶と憎悪はあまりにもはっきりと見てとれました。

 

 お願い。どうか、助けに来てくれた人を拒絶しないで。

 助けようとしてくれる人にまで憎悪を向けないで。

 

 誰も何も信じられないのはわかります。けど、責めるのなら、憎むのなら、恨むのなら私だけにして。

 

 悪いのは私です。私ですから、どうかあなたは与えられた愛や優しさを、幸福を拒絶しないで。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……

 

「何してんだよ、キヨヒメ」

 

 また、ただ謝ることしかできなくなった私の傍らにしゃがみ込み、白い髪の子は……私の「助けて」に即答で「いいよ」と言ってくれた子は、言いました。

 

「あなたが娘に言うことは、『ごめんなさい』じゃないだろ」

 

 言われたことが、理解できませんでした。

 娘に言うべき言葉が、「ごめんなさい」じゃない?

 

 どういうことでしょう? 私には娘に謝る以外何もできないしする資格もないと思ってましたから、そんなことを言われても何も思い浮かびません。

 もしかしたら、もはや謝る資格すらないということかと思いましたが、その白い髪の子は呆れたような溜息を一度ついてから言いました。

 

「……私が言うのもなんだけどさぁ、親が悲しんでて喜ぶ子供はごく少数だと思うんだけど?

 っていうか、いいの? 娘の母親に関しての思い出が、泣きながら『ごめんなさい』って謝り続けたことだけになるかもしれないんだよ?」

 

 ――あぁ。

 

 本当に、私は愚か者です。

 この子の笑顔で母親になれたと思ったのに、全然私はまだ母親ではありませんでした。

 

 ……そうですね。

 私が悪いのは当たり前だけど、ごめんなさいと謝り続けられたらそれはそれで気分が悪いものですよね。

 私がこの子と再会できて喜ぶ資格はないかもしれないけど、この子に私の罪悪感を押し付けるような真似はもっとしてはいけませんわね。

 

 だから、私は「ごめんなさい」ではなく別の言葉を伝えました。

 

 

 

『……アリ……ガ、トウ……』

 

 

 

 娘を助けようとしてくれている二人に、私に言わなくてはならない言葉を教えてくれた子に、そして何よりも娘に伝えます。

 

 ありがとう。

 生まれて来てくれて、ありがとう。

 今までこんなにも頑張って生き延びてくれて、ありがとう。

 

 私に笑いかけてくれて……

 

 私を母親にしてくれて……

 

 私の家族になってくれて、ありがとう。

 

 娘に伝えたかったことを言葉にすると、少しずつ私の心は穏やかになっていきました。

 あぁ、そうです。いくら犬神の一部になってこの子にオーラを供給するパスが繋がっているとはいえ、私の系統では放出と強化系の複合のようなオーラ供給が上手くいくわけないはずです。

 

 だから、私はイメージします。

 

 私はこの子の為なら何を捨てても、何を失ってもいいと思っていましたが、それは間違っていました。

 捨てること、失うことがこの子の為になる訳ないでしょう。

 

 だから、私は捨てるのではなく与えます。

 

 あなたは、私の命です。

 私の世界です。

 私の幸福そのものです。

 

 だから……私の全てをあなたに。

 

 私は自分が溶けていくイメージをして、私自身がこの子の一部になるイメージをして、犬と人間が入り混じったあまりに歪な指先を娘の口に含ませます。

 ……私は本当に母親らしいことなど何もしてやれませんでした。

 この子を抱き上げることも、乳をあげることすら出来なかったけど、今やっと少しは母親らしいことができました。

 

 母乳の原材料は血液だと聞きました。

 私はあなたに私の血肉を分け与えて育てることは出来なかったけど、私の命をあなたにあげることが、私の命があなたの命を繋ぐ糧となるのなら、私にとってこれ以上ない幸福です。

 

 ……だから、どうかこんな私でも、あなたをたくさん苦しませた母でも、あなたがまた会いたいと思ってくれるのならば、どうか生き抜いて幸せになって。

 

 あなたは私の命。

 あなたは私の世界。

 あなたは私の幸福だからこそ、あなたの幸福の中に私はいます。

 

 

 

 あなたが私に幸せをくれたから

 

 私は、あなたが幸せに生き抜けるための命になります。

 

 可愛い可愛い、私の娘。

 

 

 

 愛しています。これからも、ずっと。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 トン、と軽く音がした。

 

 ソラが、見えない何かを断ち切るように地面に手刀を落とした音だ。

 キヨヒメが溶けるように、娘に自分を形成していた、自身の魂そのものであるオーラを全て与えて消え去った直後、断ち切る。

 

 彼女の娘から複数に枝分かれしていたパイプの根源。

 犬神にオーラを供給するパスであり、犬神を使役するための手綱。

 遠い昔の自分の祖先が犯した罪を、そのまま丸投げされ続けてきた「呪い」そのものが、断ち切られた。

 

「……これで、もうこの子は犬神の巻き添えで死ぬことはない」

 

 呟きながら、ソラは手を伸ばす。

 2歳児にしてはあまりに肉がなく、餓鬼のように痩せ細った子供の頬を優しく撫でた。

 頬を撫でられた子供は、そんなことされているとも気付かず安らかに眠っている。

 

 あの、まだ赤子と言っていい子供が抱けるものとは思えない憎悪と殺意を叫んでいた子供は、母親のオーラを全て分け与えられて眠りにおちた。

 

 ……やせ細ってなければごく普通の子供にしか見えぬほど、満足げに、幸せそうに眠る女の子の頬を同じように満足そうに微笑んで撫でてから、立ち上がる。

 

 立ち上がって、振り返った。

 

「カイト。お前は子供を頼む」

 ジンもしゃがみこんだままだが振り返り、弟子に命じる。

 カイトも、言われる前にオーラを込めた手で子供に繋がれた鎖を紙のように引きちぎり、起こさないようになるたけ優しく抱き上げつつ、眉間に皺を寄せて睨み付ける。

 

 地下室に満ちる、生臭い獣の匂い。

 低いうなり声、涎を啜る音。

 

 浮遊する、犬の生首を3人は睨み付ける。

 

 ソラにオーラ供給のパスを断ち切られたことで、引き継がれる「犬神」という呪いが解かれたことで、解放されたのは娘だけではない。

 犬神も自由の身となった。

 

 だが、飢えの果てに発狂した犬神はおそらくそのことを認識できていない。

 ただやっと、一番食い殺したくてたまらないものは誰なのかだけは理解した。

 

 最高の獲物を、食い殺しにやって来た。

 

 元より個ではなく群を優先する種族であることと、全く同じ理由で発狂している為か、犬神は犬神遣いに使役されていた時とはまた違う変貌を遂げていた。

 

 犬の生首は一つだけ。

 まだ数十匹は残っていたはずなのに、ただ一つの首が地下室に浮遊し、涎を垂らしながら唸り声を上げる。

 

 しかしその首は、一つにして一匹にはあらず。

 

 発狂によって自己が曖昧になり、一匹一匹では姿を保てなくなったのか、犬神は全て融合し、犬の頭の原型を残したまま粘土状にして混ぜ合わせて、大人の身長ほどはある巨大な犬の頭を作り上げ、キヨヒメの変質以上におぞましい、怪物としか表現のしようがない姿に成り果てていた。

 

 そんな怪物に向き直って、ソラは訊いた。

 

「死にたくなかった?」

 

 言葉など、犬であることを抜いても通じる要素はどこにもない。

 ただ犬神は、睨み付ける。

 

 自分の最高の獲物の前に立ちふさがる邪魔者を睨み付け、唸り声で威嚇する。

 しかし、全ての犬神が融合したことでオーラが爆発的に膨れ上がり、結界が解けた直後のキヨヒメの殺気以上となった威嚇も無視して、ソラは一人勝手に語り続ける。

 

「死にたい訳、ないよね。生きたかっただろうね。それは、わかるよ」

 

 一匹にまとまったおかげで数の脅威はなくなったが、逃げ場は犬神の背後の階段のみというこの狭い地下室という不利な状況と無尽蔵と思えるほどのオーラに警戒して、ジンもオーラを湧き立たせるが、ソラがそれを手で制して言う。

 

「でも、ごめん」

 

 一人で大丈夫だと行動で伝え、言葉で犬神に伝える。

 

 同じように「死にたくない」の一心で最果てから逃げ出した女は、とっくの昔に狂い果てている彼女は狂った犬の亡霊に告げる。

 

「私は、死にたくないんだ」

 

 死にたくない。

 死んでいないだけにもなりたくない。

 生きていたい。

 

 だから、譲る気はないと宣言する。

 

 蒼天にして虚空。

 

 (そら)にして(から)

 

「 」へと繋がるセレストブルーの眼で、最後の警告を告げる。

 

 もちろん、犬神には通じない。

 

 ソラの憐憫も、謝罪も、最終警告にすら気づける知性どころか本能さえを失った、ただ飢餓の果てに壊れた思考で行動する亡霊は、邪魔ものごと丸のみで食らい尽くそうと牙をむく。

 

 その顎の奥を、貫いた。

 

 

 

 

 

「――――無垢識、開境」

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。