死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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55:幸せになりなさい

《ごめん、キルア。仕事は終わったけど、一カ月近くそっちには行けないかも》

「………………は?」

 

 ソラが挨拶もそこそこにいきなり言い放ったセリフで、キルアの不機嫌オーラが一気に膨れ上がったことにゴンは苦笑しつつも、ソラのいつも通りの奔放さにホッとする。

 

 昨日は会話を終わらせて間もなくまたキルアのケータイに電話をかけてきたかと思ったら、「ゴンに換わって!」と言った直後に通話が切れて、その後は音信不通になっていた。

 だからゴンはもちろんキルアも相当心配していたが、ちょうど昨日電話で話していた時と同じくらいの時刻にまたソラから電話がかかってきたと思ったら、この第一声である。

 

 かなり厄介な仕事だとソラは言っていたので、その仕事の関係で何かあったのか、自分に電話をかけてきたのが何だったのかと色々不安でゴンはろくに眠れなかったので、電話越しのいつも通り元気そうでソラの声を聞けば不安や心配が吹っ飛んで安心したのだが、ろくに眠れないどころか一睡も出来無かったキルアはそういう訳にはいかないらしい。

 

 いきなり音信不通になったことを心配して、ソラがどこにいるかも知らないくせに今日になっても連絡が取れなかったらクラピカやレオリオにも連絡を取って、いざとなれば家を出て早々だが実家にも連絡を入れて探そうとまで思いつめていたキルアは、ソラの無事がわかれば心配は八つ当たり気味の怒りに反転する。

 

 まぁそんな不安を煽るトラブルがなくとも、早くソラに会いたがっているキルアにこんなことを言えば同じように不機嫌になるだろうとゴンは思っているので、特にキルアを宥めたりせずに放っておくことにした。

 

 ゴンの予想通り、ソラの方もキルアの反応は予測していたのか、昨日と同じように苦笑しているのが鮮明に脳裏浮かぶ声音で「ごめんごめん」ともう一度謝ってから、仕事が終わっても天空競技場に行ってやれないことを説明された。

 

《えーと、どこまで言ったらいいんだろう?

 仕事そのものは終わったんだけどね、ややこしい後片付けが色々と残ってるんだよ。とりあえず、私はしばらく赤ん坊の面倒見なきゃいけないからそっちに行けないわ》

 

 守秘義務に引っかかりそうなのか、それとも他の思惑があるのか、どこまで説明すればいいか悩むような声を上げてからかなり最低限な説明をされた。

 しかしその説明では前半はともかく後半がかなり意味不明だったので、ゴンが「赤ん坊?」と尋ね返そうとしたら、その前にキルアが何故かすっとんきょうな声を上げて訊き返す。

 

「!? は!? 赤ん坊!? 誰の子だよ!?」

《え? アトラムとキヨヒメの》

「誰だよ!?」

 

 キルアがだいぶパニくって尋ねた問いに、ソラもやや困惑しながら思わず普通に答えると、キルアが逆ギレ風味で突っ込んだ。

 

「……むしろキルアは誰の子供だと思ったの?」

 

 キルアの訳のわからない言動に対して素でゴンが尋ねると、キルアは腰かけていたベッドにうつ伏せになって、枕に顔を埋めたまま「……何でもねぇよ」と答えた。

 耳まで真っ赤になったキルアが回復するにはしばらくかかると判断して、ゴンはキルアの手からケータイを抜き取って代わりにソラと会話する。

 

《おーい。もっしもーし。キルア、どーしたの?》

「ごめん、ソラ。キルアなんか拗ね? 照れちゃった? みたい。

 それで? どうしてソラがしばらく赤ちゃんの世話をすることになったの?」

 

 ゴンの背後で枕に顔をうずめたまま、「拗ねても照れてもねぇよ!」と説得力のないことを言ってキルアは軽くゴンの背中を蹴る。

 そんな照れ隠しと八つ当たりを甘んじて受けながらゴンがソラに尋ねると、ソラの方もどこまで話すかの整理は頭の中でついたらしく、サラッと教えてくれた。

 

《依頼人のえげつない幼児虐待が判明したから、私はとりあえずその被害者である子供のケアや乳児院への手続きしなきゃいけないんだよ。

 戸籍も与えられていない子で、それ以外にも色々心配な所があるから、警察とかに任せてハイさよならにするわけにはいかないから時間が掛かりそうなんだよね》

 

 何ともコメントに困る説明に、さすがにゴンも数秒間を置いて「……大変そうだね。お疲れ様」とまずは言った。

 虐待されていた子供に関して、その子は大丈夫なのかと訊きそうになったが、大丈夫じゃないのならソラはそもそも自分たちにこんな話題を上げない、きっと自分の胸の中にしまいこむことが想像ついたので、話に出す時点でその子は大丈夫なのだろうとごく自然と納得してしまい、逆に何も言うことが無くなって困ってしまう。

 

 そんなゴンを助けるように、ソラは話をさっさと変える。

 

《そうそう。ゴン、君の父親と会ったよ》

「えぇ!?」

 

 しかし変わった話の内容がシンプルだが衝撃的すぎてあまり助け舟にはなっていなかった。

 ソラは衝撃的すぎて今度は何を言えばいいのかわからなくなっているゴンに対して、一方的にジン=フリークスに関して話し続けた。

 

《今はもういないけどね。赤ん坊関連は私に任せて、あっちは依頼人を社会的に殺しにかかる手続きをしてもらうから、ついさっき別れたところ。

 何か仕事の助っ人で来てくれたというか、きやがったというか……。あぁ、あと君の恩人のカイトも一緒だった。

 

 カイトは良い奴だね。君が言ってた通りの人で、イメージ通り過ぎてびっくりしたよ。

 ジンは、……なんというか君にそっくりだった。主に悪い所が。

 ゴン。君はジンと再会してもジンを見習っちゃダメだよ。あれは多分、行き着くとこまで行ったらうちのジジイそっくりの行動倫理破綻のクソジジイになるから》

 

 なんだかゴンごと失礼な言い方をされている父親だが、反論できるほど父親のことを知らないというのを抜いても、ゴンから何も言う気は起こらなかった。

 それはソラの声には、ヒソカやイルミを相手にした時と種類は違うが、度合いは同じくらいの疲労感を感じ取れたから。

 

「……ソラ。もしかして昨日俺に連絡取ろうとしたのも、それから全然連絡が取れなくなってたのって、俺の親父の所為?」

《うん。ケータイ没収されてた》

「……なんか、ごめんなさい」

 

 ジンに会ったということでだいたい予想出来ていた、昨日の音信不通の理由を肯定されて思わずゴンは謝る。

 自分が謝る必要はないとわかっているが、キルア程ではないとはいえゴンも内心で少しだけ「何で心配かけるの!」とソラに対して怒っていた部分があったので、その心配かけた原因が自分の父親だとわかれば普通に申し訳がなかったようだ。

 

 その謝罪をソラは「別にいいよ」と簡単に流してから、脈絡があるのかないのかよくわからないことを言い放つ。

 

《それにしても、ゴン。君は愛されてるね》

「え?」

 

 誰に? と思った。

 

《あのおっさん、君に会いたがってなかったけどその理由が『親の資格や責任を捨てた自分がどの面下げて会えばいいかわからないから』だよ。そのくせ、ゴンの近況聞きたがるし。

 どの面下げてって、ゴンの話聞いてた時にしてた『さすが俺の息子』って言わんばかりのドヤ顔で会えばいいのにね》

 

 誰のことを言っているのか、わからなかった。

 

《まぁ、そもそもあのおっさんは君を孤児院や養子に出さずに、自分が生まれ育った島の自分の親戚に預ける時点で、本気で会いたがってない訳じゃないのは丸わかりだけどね。カイトがいなくても、いつか絶対に生きてることもハンターやってることも誰かが口を滑らせるような環境だもん。

 っていうか、ミトさんだっけ? 君の養母さん。その人に裁判で親権奪われたってことは、自分の手で育てる気なかったくせに、親の資格は自分から手放そうとはしなかったってことだよね。本当にゴンと悪い所がそっくりだな。最終試験の時の君みたい》

 

 そんな自信がないどころか、そんなことを考えたことが無いくらい、遠い人だった。

 

《会いたくないも本音っちゃ本音だろうけど、その理由は恥ずかしいだけだよ。

『向こうが会いに来たから、仕方なく会ってやっただけだ』って言い張りたいだけの、全く萌えないツンデレだったわ》

 

 実は、「親父」と呼ぶことに違和感を覚えているくらいの人だった。

 それでも、会いたい人だった。

 

《ジンは君を溺愛してるよ。あいつ、相当な親バカだ》

 

 だから、嬉しかった。

 

 * * *

 

《……そう、なんだ……》

 

 ソラの言葉に、ゴンは嬉しさよりも戸惑いの割合が多い声音で答える。

 命をかけて意地を貫き通した「理由」に「愛されてる」と断言されたというのにこの反応が、ゴンとジンという親子の距離感を如実に表しており、ソラは少し困ったような息を吐く。

 

「うん。けど、あのおっさんは親バカだけどそれ以上にダメ親父だし、それ以前に人としてもダメだから、本当にゴンはあれを見習っちゃダメだよ。

 むしろ、再会したら出会い頭にドロップキックでもぶちかましなさい」

《そんな再会したくないよ!》

 

 本気でゴンにとってジンは「親」という感覚が皆無同然なため、どれほどソラがボロクソに言っても思うことはないに等しかったが、さすがにジンとの再会に涙や感動はゴンも求めていないが、だからといって笑いも求めていないのでソラの提案は却下される。

 しかしもちろん、ゴンに却下されたからと言って早々この女も諦める訳がない。

 

「えー、それぐらい決めたって罰は当たらないよ。むしろあいつに罰を当てた方が良い。っていうか、私の鬱憤を代わりに果してよ。

 別れ際にジャーマンかましておいたけど、まだちょっとムカついてるから」

《親父はソラに何をやったの!?》

 

 とんでもない提案をしてきた女は、既にとんでもないことをやらかしていた。

 そのことを知らされても、ジャーマンスープレックスを決められた父親ではなくソラの方を心配しているゴンが親不孝者なのか、ジンの自業自得なのか微妙な所である。

 

「……まぁ、別にあれはジンが悪いって訳では……いや、やっぱりおっさんが悪い」

 

 ゴンのツッコミ兼疑問にソラが答えようとして、途中で前言を思いっきりひっくり返して唇を尖らせてふてくされる。

 ソラ自身、冷静かつ客観的に考えればジンにかましたジャーマンはほとんど八つ当たりであったことは自覚している。

 が、反省する気はサラサラない。

 

 それぐらい、ジンがソラに言い放ったセリフは、ソラにとっては地雷だった。

 

 

 

『お前、むしろ死にたがってるだろ』

 

 

 

 彼は、ソラにそう言った。

 死にたくなくて、ただその一心だけで心の大半を壊して狂い果てて、それでも無様に悪あがいて生きているソラに向かって、彼は言ったのだ。

 

 初めは他愛ない話だった。

 いや、アトラムやアルバ、キヨヒメの娘についての今後のことや、ソラはすっかり存在を忘れていたがこの仕事を持って来たパリストンのこと、そしてパリストンがソラに興味を懐いた理由であろう、彼の「共犯者」と「暗黒大陸」の存在という、かなりヘビーな話題が続いていたが、ソラからしたらキヨヒメの娘のこと以外に関してはどうでもいいことだった。

 

「暗黒大陸」に関しての話題は、カイトも大陸の存在は知っていたがジンが本気でその大陸に渡ることを企んでいること、そしてそんな英雄と大馬鹿者が紙一重どころか紙そのものな野望を懐く者が他にも多数いるというでかすぎる話に困惑しきった顔をしていたが、ソラは「この星の自転はどうなってるんだろう?」と、真っ当なのかずれているのかよくわからないことを気にしていた。

 ついでに、文明が自分の世界とさほど変わらないレベルなのに、地球儀の存在がなかったことに納得していた。

 

 ソラの興味はその程度。

 ジンから「五大厄災」の存在を知らされて、どうして自分がそんな人外魔境探索メンバーとして目をつけられた理由は説明されるまでもなく理解したが、理解したのならソラの答えはただ一つ。

 

『ま、そーゆー訳だからお前はいつかそのうちに絶対またパリストンか、もしくはビヨンド本人がスカウトに来るぜ。その前に俺としては俺の仲間に……』

『絶対に、嫌です』

 

 ジンが最後まで言い切る前に、腹が立つくらいいい笑顔&両手サムズアップで即答。割と関係ないカイトもイラッとする、実にムカつく断り方だった。

 もちろん懇切丁寧に断っていたとしてもゴンと同じく超絶わがままな所がそっくりなジンが納得するわけもなく、「はぁーっ! 何でだよ!? っていうか、お前の眼はマジで何なんだよ!? 何で死者の念の集合体を言葉通り一撃で殲滅出来るんだよ!?」と、文句なのかスカウトを諦めていないのか、それともただ単に自分の好奇心を満たしたいだけなのか、ソラにしがみついて駄々をこね続けた。

 

 ちなみ師匠が子供のようなどころか子供同然の駄々をこねている間、弟子は慣れ切った様子で他人のフリをしていた。お前の師匠だろ、何とかしろよ。

 

『あーもー! ゴンのわがままは微笑ましく思えるけど、おっさんのわがままは殺意が芽生えるだけだからやめろ! っていうか、ゴンの方がよっぽど聞き分けは良いぞ! 見習えおっさん!!

 嫌です嫌です嫌です! そんなアラヤの抑止力が機能するかも怪しい、水晶渓谷の大蜘蛛レベルがゴロゴロいそうなところに誰が行くかー!! 私は! 死にたくないんだよ!!』

 

 何とかできないのをわかりきって諦めているからこそ、弟子に他人のフリをされていたジンのわがままにソラがキレて振り払いながら叫んだ。

 その叫びに、言葉に、ジンは息子そっくりのきょとん顔になって言ったのだ。

 

『……死にたくない?』

 

 ソラの誇りも理由も意味もなく、それでも手放せなかった原初の願いを反復し、急に駄々をこねるのをやめたジンに困惑する彼女の顔を、改めてじっと見据えて言った。

 

『お前、むしろ死にたがってるだろ』

 

 何の迷いもなく、確信を持って彼は言い放った。

 その言葉にソラは反応できなかった。彼女もまた、きょとんとした顔になって固まってしまう。

 きょとんと見開いた夜空色の眼を、ジン=フリークスは太陽のような輝きを灯す己の眼で見据えて言葉を続けた。

 

『んー、まぁ、正確に言えば死にたがってると言うよりは生き急いでる……いや、やっぱり死に場所というか自分が死んでいい理由探してるってところか』

 

 ソラの眼から繋がる深淵さえも、その輝きで照らし出して底に沈むものを見極めようとするような、真っ直ぐな眼は息子の生き写し。

 

 だが、彼は違う。彼はゴンではない。

 その証拠に、ゴンならばそうやって自分で照らし出して見つけてしまった、ソラが抱える深淵、それによって生み出された傷や歪みに気付いてしまったら、彼は戸惑い、そして自分自身のように傷ついた顔になる。

 少しでもソラが背負うものを軽くさせるために、彼自身もそれらを抱え込もうとするだろう。

 

 ジンは違った。

 そんな愚かなほどの幼い純粋さなど、とっくの昔になくしている。

 だから彼は、暴力的なまでにその光で深淵を照らし出して覗き見てさらけ出したくせに、突き放した。

 

『ま、それはお前自身の問題だから別にどうでもいいけどな』

 

 あまりにも無責任なことを言いながら笑うその顔は、良く似ていた。

 彼の息子ではなく、悪に義憤し正義を嘲笑う、こちらもこちらで可愛げなど皆無な究極のツンデレクソジジイに。

 

 魔法使いによく似た笑顔で、ソラを突き放しながら言った。

 

『けど、さすがにそれだけを探して生きるのはもったいないと思うぜ。

 人生なんて目覚めてるだけで面白おかしいもんなんだから、楽しまないと損じゃねーか?』

 

 魔法使いとは対極の、むしろ魔法使いの天敵と言える「星の開拓」を目論んでいる男は、魔法使いと同じ笑みで同じことを言った。

 

 生きているということは、目覚めているだけで楽しいのだ、と。

 

 言うだけ言って一人スッキリしたジンは、ついさっきまで大人げが皆無なわがままを続けていたとは思えぬほど、ソラの勧誘もソラの能力への追究もやめて、ジンの話について行けずポカンとしていたカイトにアトラムやアルバのことに関しての指示を出す。

 

 ソラの「死にたくない」という答えを聞いて、そこから改めて彼女を「見て」、そして出したジンにとっての「ソラ」という人物像と自分の目的を照らし合わせた結果、彼女を仲間に引き込むのを諦めたのかもしれない。

 

 死ぬ理由を探している彼女を仲間にしても、意味はない。

 その「理由」を見つけてしまったら、もう彼女はそこで自分の人生を終わらせる。

 

 そう思ったから、興味をなくした訳ではないだろうがあらゆる意味で貪欲なジンにとって、ソラという人物は相性が悪い、無理に仲間にしたら反発しあって悪い方向にばかり向かうとでも思ったのかもしれない。

 

 そうだとしたら、最後の忠告は完全に老婆心による余計なお世話という奴だろう。

 結局のところ、ジンはゴンのような純粋さは失われても、それでも根本はゴンと変わらない人物だった。

 

 だからこそ……、だからこそ、余計にムカついた。

 

『だらっしゃーっ!!』

『ごふっ!?』

『ジンさん!?』

 

 気が付いたら、自分に背を向けてカイトと割と真面目な話をしていたジンの腰に後ろからしがみつき、そのまま勢いをつけてブリッジの体勢になり、ジンの頭を床に叩きつけた。

 ルヴィアがいたら絶賛するであろう程、見事なジャーマンスープレックスだった。

 

 * * *

 

 もちろん、この唐突過ぎるプロレスの大技による八つ当たりは速攻で怒られた。

 

『いきなり何してんだ、お前はー!?

 というか、女がいきなり決める技かそれは!?』

 

 ソラも無意識で行動に移した完全に予測不可能なタイミングと行動だったので、さすがのジンもオーラでガードはほとんど出来ず、床に打ち付けられた頭を押さえて悶絶していたので、代わりに弟子がソラを叱りつける。

 が、ソラは「ジャーマンは淑女の嗜みだ!」とルヴィアしか意味がわからない逆ギレで返し、悶絶するジンの前にヤンキー座りでしゃがみこんで、えらくやさぐれながら言った。

 

『勝手に納得して、勝手に決めつけてんじゃねぇよ。おっさん』

 

 今度は、ジンの方がきょとんと眼を見開いた。

 その眼を、彼がしたようにソラも真っ直ぐに見据えて言う。

 

 どんなに澄み切っていても、決して底が見えない、果てなき青空そのものの眼でジンを睨み付けて語る。

 

『……そうだよ。私は、死にたくない。死ぬのが怖い。死んだ先に落ちて、墜ちて、堕ちる先の深淵が怖くて怖くてたまらないから逃げ出したんだ。

 ……だからこそ、私は死んでしまいたい。生きている限り、どんなに逃げたってそれは時間稼ぎでしかないことを思い知らされるんだから、いつかはあそこに行き着くしかないのをわかっているからこそ、もういっそ死んでそこに溶けてしまった方が楽なことくらいわかってる。

 

 この世の誰よりも、そんなことはわかってるんだよ』

 

 ジンの肩を片手で、これも八つ当たりなのかそれとも自分が抱える恐怖から逃れるために縋り付いているのか、力いっぱいに掴む。

 オーラは込めていないが、それでも試しの門を2つくらいまで開けられるソラに掴まれたら、こちらも鍛えているとはいえ余裕で骨が軋むような音を立てる。

 

 それでもジンは、顔色を変えず眉も動かさず、ソラの手をはがそうとしないでただ聞いていた。

 自分が語った「死にたがっている」「死ぬ理由を探してる」ことを肯定する、酷く苛立ちながらもあまりに弱々しい声音で語るソラの話を、黙って聞き続ける。

 

『わかってる……。わかってるからこそ、あんたに言われるまでもなくわかってるんだよ。

 そうじゃなけりゃ、私は今、生きてない。とっくの昔に適当な理由を見つけて死んでるか、それとも死んでないだけで生きてもいない、ただの動く死人に成り果ててる。

 

 あんたなんかに言われるまでもなく、知ってるよ。生きて、眼を開けていればそれだけで泣きたくなるくらいに幸福であることくらい、知ってるからこそ私は『死ぬ理由』がいるんだ』

 

 ジンの言葉をすべて肯定する。

 決して彼の言葉は、的外れではない。むしろ何もかもが正しすぎた。

 

 だからこそ、ソラは許せなかった。

 八つ当たりであるとわかっていても、止められなかった。八つ当たりでも、主張しなくてはいけないことだった。

 

 ジンの言葉通り、死にたくないからこそ死にたがっているという狂った矛盾を抱えて、それでも生きている理由だってジンが言った通り。

 忠告されるまでもなく、とっくの昔に……4年前に知っている。

 

 ソラに助けられたからではなく、ソラの眼に同胞の面影を見たからこそ、泣いて縋りついた彼。

 

 ソラが欲して得た訳ではない、むしろ今ここで生きているということはいつかの終わりまでの時間稼ぎでしかないと思い知らされる呪いそのものの眼を見て、ソラを求めた少年。

 

 ソラの時間稼ぎを、悪あがきを肯定してくれた瞬間。

 

「直死の魔眼」に、「死」以外の意味を見つけてくれた人に出会えたことは、間違いなく死んでしまいたいくせに生きようと足掻いた結果、見たくもないツギハギの世界でも眼を開け続けた結果だからこそ、ソラは死にたくなくて死んでしまいたくて、本当はこんな時間稼ぎなどやめて諦めて終わらせてしまいたいのに、生きて行ける理由。

 

 生きてゆきたいと思う理由。

 

 だからこそ、ソラは何もかもわかったように語った癖に、一番肝心な所を何もわかっていない、勘違いしているジンにムカついた。

 理解できるわけがないことなど百も承知の上で、それでもムカついたので不機嫌を全開にソラは語る。

 

『死んでしまいたいから、テキトーな理由でフラッと死んでしまわないように、その理由がない限り私は絶対に死にたくないから、死ねないから、生きていたいから私は『死ぬ理由』を探すんだ。

 

 生きていたいから、生きるために、生き抜くために、生きることを諦めない為に私には『死ぬ理由』が必要なんだ。

 生きる理由だけじゃダメなんだ。それだけじゃ、それを失ったら私は死ぬしかなくなる。失った喪失感に耐えてまた生きた先に、その失ったものとは違うけど掛け替えのない幸福を見つけられるってわかっていても私は死ぬしかなくなるから……、だから私は『生きる理由』と『死ぬ理由』の両方が必要なんだ』

 

 生きる理由はある。

 眼が覚めているだけで幸福だということを教えてくれた最愛に、同じだけの幸福を与えることこそが、ソラにとっての生きる理由だからこそ、それとは別に「死ぬ理由」がいる。

 

 生きる理由を……、クラピカを失ってソラが死んでしまえば、それは正気を失って目的と手段が本末転倒を起こしていたキヨヒメと同じく、一番大切で守りたかった者に自分の罪を押し付ける結果となる。

 

 彼がいたから生きていけたということは、彼の所為で死ぬということに他ならなくなるから、だから彼がいなくても生きていけるように、自分が死ぬ理由に彼を関わらせない為に「死ぬ理由」をソラは必要とした。

 

 だからこの主張も、八つ当たりも、ソラの「生きる理由」の一部分。

 

 例え彼が……クラピカが一生知ることが無い、彼の関係がない所で起こったやり取りであったとしても、ソラはジンの言葉を否定しなくてはいけなかった。

 勘違いを正さなくては、生きてはいけなかった。

 

 誰にも、「本当は死にたがっているのに無理やり生きている」と思ってほしくなかった。

 そう思われるということは、ソラは「クラピカの所為で死ねない」ということになるから。

 

 それはソラの自意識過剰なぐらいの被害妄想であったとしても、それでも彼女の「生きる理由」を、自分の「幸福」を穢すものだからこそ、誰にもそんな勘違いはさせない。

 自分の「生きる理由」と「死ぬ理由」をイコールで結ばせはしない。

 

 幸福に気付けていないとは、思われたくなかった。

 

 ソラと出会った彼と同じく、ソラもあの赤い瞳の少年と出逢ったことで、救われたのだから。

 彼の所為で不幸だとは絶対に言いたくないし、誰にもそう思われたくなかったのと同じくらい、「君のおかげで幸せだよ」と言い続けたいし、彼以外の人間にも思ってほしかった。

 

 だから、ソラは太陽すら飲み込みそうなほど深い瞳で見据え、ジンに言った。

 

『勝手に納得して、勝手に決めつけるな』

 

 長いソラの主張は、ジャーマンを決めた直後のセリフに結局舞い戻る。

 しかし、今度は「訳が分からない」と言いたげなきょとん顔にはならなかった。

 

 勝手に納得するなと言われたのに、深く納得したような笑みを浮かべてジンは、「降参」というように両手を上げて答える。

 

『……あぁ、そりゃムカつくわな。

 見つかるといいな。お前の『死ぬ理由』が』

 

 やっぱり訳知り顔で語るジンの余裕が大っ嫌いな自分の師をまた彷彿させたので、もう一度ソラは八つ当たりに、しかも今度は頭部にオーラを集めてのけぞってジンの頭に頭突きを決めた。

 

 が、今度は予測できていたのでジンも頭部を“凝”状態にしていた為、今度の結果は両者悶絶の痛み分けで終わる。

 

『……アホだ』

 

 若干、展開の置いてきぼりをくらっていたカイトがしみじみと呟いた感想が、もはや二人のやり取りの全てを言い表していた。

 

 * * *

 

《……ソラ?》

《お前マジでゴンの親父と何があったんだよ?》

 

 一連の逆ギレ八つ当たりを思い出して一人勝手に苛立っていたソラの思考が、電話越しの声で呼び戻される。

 いつの間にかキルアも訳の分からない自爆で悶えていたのが回復し、怪訝そうに尋ねてきたのでソラは「何でもないよ」と答えた。

 

 さすがに、自分のあまりに矛盾した歪みや願望をこの二人に打ち明ける気はなれなかった。

 

「ただ単に、私とジンは気が合わないってことを思い知らされただけ。気が合わないというか、私が一方的に嫌いというか、苦手意識があるだけなんだけどね。

 あのおっさん、うちのクソジジイに本当に良く似てるから、特に何もしてなくても後頭部にハイキックかましたくなるんだよ」

《……どんなおっさんだよ》

《……ソラ、せめて親父が何もしてないのなら八つ当たりはやめてあげて。何かしたのなら、別に遠慮しなくてもいいけど》

 

 話を誤魔化すつもりで上げた話題だが、混じりけのない本音をぶちまけるとキルアは心底呆れているような、呆れが一周回って感嘆しているような声で呟き、ゴンに至ってはジンに怒られそうな発言をする。

 これは父親よりもソラの方が精神的な距離感が近いから優先度もソラの方が上なだけか、それとも自分はともかくミトを悲しませたという恨みが地味にあるからかはわからない。どちらにしろ、ジンはゴンとミトに謝った方が良い。

 

「……う~、あー」

 

 ソラがゴンの言葉に「善処する」と笑いながら答えた直後、自分が座るソファーの前の机に置いてあったバスケットの中からむずかるような声が上がる。

 

「あ、起きちゃった」

 

 ベビーカーではなく古典的にフカフカの毛布が敷き詰められたバスケットに寝かされていた赤子……、キヨヒメの娘が目を覚まして、何かを求めるように宙に手ををさまよわせる。

 ソラはバスケットごと持ち上げて、自分の膝の上に乗せて宙にさまよわせていた手を握ってやると、赤子はきょとんとしてから嬉しそうに笑った。

 

「あー、あうー」

《あ、もしかしてさっき言ってた赤ちゃん?》

《……マジで子連れかよ。何らかの手続きはそりゃお前がしなくちゃいけないだろうけど、面倒みる必要まではないんじゃね?》

 

 電話越しに赤子のきゃっきゃっと無邪気に喜ぶ声が聞こえたのか、ゴンは見えてもいないのに可愛いものを見て和むような声を上げ、キルアの方は再び少し拗ねたような声で言う。

 キルアの言葉を窘めるようにゴンは「キルア!」と少しきつめに言ったが、ソラがそれを「いいよ、ゴン。キルアの言う通り、する必要ないことを私がしたいからしてるんだよ」と、ゴンを止めてキルアの方をフォローした。

 

 実際、ソラはキルアの言葉がむしろ嬉しかった。

 彼は、今さっき声を聞いた赤子が昨日まで飢え死に手前の虐待をされていたと知っていたら、絶対に「そんなの専門の施設に任せてさっさと来ればいいのに」という意味合いのことを言う訳がないことくらい、ソラはよく知っている。

 

 キルアは赤子の楽しげに笑う声を聞いたからこそ、わざわざソラがしばらく面倒を見る必要などないと思ったから、素直に拗ねたのだろう。

 そう思わせるくらいに、虐待されていたとは信じられないくらいに無邪気に笑う子供に、ソラは安心したように笑いかける。

 

 きっと、ゴンやキルアが実際にその赤子を見ていたら、この電話越しと同じ反応はしなかっただろう。

 見ていなくても、この赤子の歳が2歳だということを知れば、反応は間違いなく大きく変わる。

 

 2歳ならある程度の会話が成立するはずなのに、意味のある単語さえまったくしゃべれないと知れば、「赤ちゃんは可愛いなぁ」と言わんばかりに和むことも、その赤子に幼い嫉妬を懐くことなどできる訳がない。

 そもそも、ベビーカーならともかくバスケットの中に2歳児が納まるはずがない。

 

 半年前までは普通どころか過保護なくらい大事に育てられていたとはいえ、外どころか部屋からもおそらくは出さなかった所為か、赤子の肌はアルビノ手前なほど白く、体も小さかった。

 そんな歪な環境にプラスして半年間の飢え死にさせるための虐待で、子供の体は未だにほとんど骨と皮の餓鬼同然という姿であり、道行く人にはあからさまにぎょっとされたし、この飛行船内のロビーではさっきから不気味そうにチラチラこちらを見る者も少なくない。

 

 それでも、赤子は笑っていた。

 ソラがあやすように子供の目の前で指を振れば、眼をまん丸くしてその指の動きを目で追って、猫のようにソラの指を捕まえようと、木の枝のように痩せ細った手を振り回す。

 

 その異様に痩せ細った体は虐待ではなく病気か何かの影響であり、子供の心は体と違って健やかに成長していると思わせるほど、赤子に虐待の陰りはない。

 この世全てが自分を苦しませると思い込み、怨嗟と呪詛を喚きたてていたのが嘘のように、彼女はただただ無邪気に笑う。

 

 ……狂う程に守り抜くために愛した母親が、全てをかけて全てを分け与えて救った命は、母親が望んだとおりの「未来」を得た。

 

 この世は、自分を苦しめる為だけに存在しているのではない。

 自分の為に全てを与えてくれる、あまりに優しくてあたたかなものを知って、彼女は憎悪に狂った獣から人間の赤子に戻ってこれた。

 

 それが嬉しくてたまらないと言わんばかりに、ソラは笑う赤子の頬を撫でて笑う。

 

「じゃ、とりあえず私はこの子を病院に連れて行くわ。またすぐに連絡するから、二人は無理せず天空闘技場を勝ち進んでいきなよ」

《うん、わかった。ソラも、また別の面倒な仕事が入らないといいね》

《とっとと来ねーと、最上階まで行ってそのままお前に連絡入れずに帰るぞ》

 

 赤子が起きたことをきっかけに、とりあえずソラの方は話しておかなくてはいけない話題がもうなかったのもあって話を終わらせようとし、二人も同じく電話を続ける意味も特になかったので、ゴンは普通にソラに気を遣って、キルアはいつものようにふてくされた憎まれ口を叩いて通話は切られた。

 

 自分で話を終わらせておきながら、ソラは通話が切られた電話を少し名残惜しげに見てからツナギのポケットにしまい込む。

 その電話を自分に渡してほしがっていた赤子が、拗ねたように「う~」と唸るので、ソラは「ごめんごめん」と言いながら赤子の頭を撫でて、そして呟く。

 

「……始めは嫌になるくらいそっくりだったのに、全然違う結末になっちゃったなぁ」

「う?」

 

 ソラの言葉を当然理解できず、赤子はまん丸い目でソラを見上げて首を傾げる。

 それでも、ソラは赤子特有のあまりに細くて柔らかすぎる髪を指に絡めて撫でながら、言葉を続けた。

 

「初めはね、君のお母さんの復讐かと思ってたんだ。もう何をしても手遅れで、余計に傷つくしなかないってわかってるのに、復讐を果たしたら気持ちが晴れて自由になれるんじゃないかって期待してるんじゃないかって、思ってたんだ」

 

 8年前に自分が関わった「犬神遣い」がそうだったから。

 何度も何度も脳裏に浮かんだ「彼女」がそうだったから、これは8年前と同じ「復讐劇」だと思い込んでいた。

 

「けど、違って良かったよ。

 何もかもを傷つけて壊して失って終わるようなものじゃなくて、君を守って救う終わりで心底ホッとした」

 

 上澄みが似ていただけで、本質は何もかも違う。

 奪うためではなく、壊すためではなく、守るために、救うために、与える為だったことに心の底から安堵して、満足した。

 

 だからこそ、一つの思いが水底からあぶくが上がるように浮かび上がった。

 

 8年前と違って、「もっと早くに行動していれば」という後悔は何もない。悪い後味などない。

 ソラが出来る限り最速で、一番いい結果を得れたからこそ、満足しているからこそ、それは隠しようもごまかしようもなく、どうしようもなく浮かび上がって弾けた。

 

「――クラピカ。私は…………」

 

 これが復讐劇だと思って、「彼女」と同時に脳裏に何度も浮かんだ最愛。

 生きる理由にして、決して死ぬ理由にはしたくない人。

 

 復讐に囚われ続けている弟に対して、ソラは何度も「君が幸せになる為なら復讐も否定しない」と言った。

 その言葉に嘘はない。彼が復讐を果たさなければ自分が幸福になることを許せないと思うのならば、いくらでも復讐すべきだと思っているのは真実だ。

 

 だけど、それでもソラは思う。

 

 死にたくないから、死ぬのが怖くて怖くてたまらないからこそ、さっさと死んでしまいたいという矛盾した願いと同じくらい、矛盾した願望。

 

「――――――」

 

 言葉にはしなかった。

 

 声に出してしまえば、言葉にしてしまえば歯止めが効かなくなりそうだから、ソラは浮かび上がったその願望を再び自分の胸の内の奥底に鍵をかけて沈める。

 

 傍から見たら不幸以外には見えなくても、本人からしたらそれ以外に幸せになる術などないことくらい、いくらでもあることをソラは良く知っている。

 自分自身も、傍から見たら幸せそうというより不幸にしか見えないことも自覚している。

 

 何が幸福で何が不幸であるかを決めるのは、他者ではなくその人本人だ。

 

 だから、決してこの願いは口にしないと決める。

 

 ソラの願望をクラピカが叶えたとしても、彼が幸福になれないのならばソラにとってその願望は無意味どころか、自分を殺してやりたいほどの罪でしかなくなる。

 ソラの願望など、クラピカが幸せになるという前提条件が必須なのだから、彼に対して伝えるべき言葉は「幸せになって」以外必要ない。

 

 そんなことを考えながら、ソラは自分の願望を深く深く沈めた。

 

 代わりに、ソラの話しかけているのか独り言なのかよくわからない言葉を、不思議そうに見上げていた赤子をバスケットから出して、抱き上げて今度こそ彼女に向かって語る。

 

 あまりに軽い、生きる上でギリギリの体重しかないであろう子供。

 それでも確かに生きている、幸せそうな子供の重さをその手で知って、あやすように掲げながら言った。

 

「……君はこれから、他人(ひと)より多くの苦労をするんだろうね」

 

 犬神の呪いから解放されたが、生まれてすぐに母親から犬神を継承したせいで、この赤子はすでに“纏”ならマスターしている念能力者だ。

 だから、ソラはこの子供をそこらの普通の病院に預けるということが出来なかった。

 

「犬神」という厄介極まりない能力は失われたが、念能力そのものは失われていない為、その手の知識がない者に預けたら幼さゆえにまた何らかの形で能力が暴走しかねないし、その被害を真っ先に受ける。

 

 幼い子供は具体的な「能力」のイメージが出来ないが、漠然とした「力」としてなら自らのオーラを駆使して能力行使を可能とする。

 子供のいる家でポルターガイストやら自然発火現象が起こるというのは、子供が無自覚な念能力者だという場合がほとんどだ。

 

 だからこの赤子は医学系ハンターが経営する病院に預けるべきだとジンやカイトに言われたし、ソラもそう思った。

 そして、この子は回復しても普通の乳児院や孤児院には同じ理由で入れられない。

 

 同じく念能力というものを知るハンターが経営するか、何らかの形でハンターが携わってるか関わる孤児院に入れないと、やはり暴走の危険が非常に高まる。当然、そう簡単に養子にだって出せやしない。

 

 ただでさえ実年齢は2歳だが、精神や知能はまだ1歳未満ではないかというのが酷いハンデだというのに、犬神から解放されても無色透明な「念能力」そのものが、彼女の幸せへの選択肢を減らし続ける。

 何もこの子には罪がない、道具として利用されるために作られて生まれて母親を殺されて奪われて、死んだ方がマシなほどの苦しみを与えられた挙句に、あまりに少ない幸福の選択肢は憐れとしか言いようがない。

 

 だけど、赤子は笑う。

 己の未来に関する選択肢の少なさを、幸福になることがどれだけ理不尽な理由で困難だということを知らないからこその笑顔であるが、それでも、笑えるというのことは今は間違いなく幸福だという証だ。

 

 自分を抱き上げる手は、自分を守ってくれる手だということを信じて疑わない笑みを浮かべる赤子に、ソラも笑って伝える。

 

 言葉を知らなくても、意味が伝わらなくても、それでも伝えておくべき言葉を、伝えておかなくてはいけない言葉を与えた。

 

 

 

「それでも……、君は幸せになりなさい」

 

 

 

 どれほど選択肢が少なくとも、いつか自分は母の命そのものを喰らうことで生き延びたという事実を知っても、幸福になることを諦めるなと伝える。

 彼女の幸福を望んでいると、伝える。

 

 この世は、目が覚めているだけで幸福なのだから。

 

 そんなソラの祈りのような言葉に、やせ細った子供はこの上なく楽しそうに、無邪気に、幸せそうに答えた。

 

「あいっ!」





次回は一話か、長くて前後編の短編予定です。
この短編が終わったら、天空競技場編に入ります。

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