ウボォーギンの胸を貫いた繊手が離れる。
その指先には血の一滴さえも付着しておらず、貫かれたはずのウボォーギンの胸にも傷どころか痣すらない。
なのにウボォーギンは立っていられず、そのまま後ろに地響きを鳴らす勢いで大の字に倒れた。
同時にソラの足も崩れ落ちるようにして膝を屈し、そのまま体を揺らして倒れ込む。
「!! ソラっ!!」
しかし地面に倒れ伏す前にクラピカが駆け寄って、抱きかかえて支えた。
その際、抱きかかえたソラのあまりの高熱と両目から溢れる血液にクラピカは慄き、「勝手にしろ」と突き放した後悔が胸を締め付ける。
だけどソラは、クラピカに抱きかかえられていることに気付いているのかどうかも怪しいくらい、熱の所為で意識が朦朧としているのか酷く虚ろな表情でぼんやりと呟いた。
「………………どう……して……?」
両目から零れ落ちる血の雫は、オーバーヒートを起こした代償による傷か、それとも涙なのか。
真紅の雫とともに、力のない言葉が零れ落ちる。
「……神様だって……殺せるはずなのに……生きているのなら…………、そこに、確かにあるのなら……概念だって私は……なのに……どう……して……?」
「ソラ! もういい! もういいんだ!!」
誰に言っているのかもわからない、支離滅裂な言葉をクラピカが遮るように叫んで抱きしめ、火傷しそうなほどの熱を発する彼女の両目をその手で覆う。
気休めにもならないことはわかっていながら、それでもその眼がもう何も見ないように、何も見ずに済むようにクラピカは自分の手で覆い、もう片方の手はソラの右手を……ウボォーギンを貫いた手を握りしめる。
だけど、その手に力はなく何の反応も返ってこない。
泣いて縋りついた時のように、握り返してはくれなかった。
「…………なに……ぎゃあぎゃあ騒いでんだよ? ……うっせーな」
クラピカの声を、叫びを心の底からうっとうしそうに、片腕が欠けた大の字で倒れたウボォーギンが先ほどまでとは見る影もないほど力のない声で文句をつけた。
覇気はない。途切れ途切れの言葉に、弱々しい声。しかし、恐れも後悔もなく、まるで日常の雑談のように彼は言葉を続ける。
「……騒ぐんなら、……俺に勝ったことを喜んで、騒げよ……。これじゃあ、俺だって負けた甲斐も……死に甲斐もねぇだろうがよ」
「黙れ!!」
クラピカがさらに強くソラを抱きしめ、叫ぶ。
暁の眼が再び憎悪の焔で燃え盛るが、ウボォーギンからしたら何故、この二人はこんな反応をしているのかが本気で理解できなかった。
――
* * *
わかっていた。
ソラが提案してきた方法は本当に賭けでしかなかったこと。
それもあまりにも分が悪いギャンブルであったことなど、初めからわかっていた。
ソラの「直死の魔眼」がどのような理屈で生き物はもちろん、物質も、形のない概念さえも殺しているのかなどクラピカはいくら話を聞いても未だに理解しきれていないが、それでもソラの語った方法で真っ先に思ったのは「無理だ」だった。
ほとんどソラの眼の力を理解できていなくても、それぐらいはわかった。
自分のような具現化系や、他の物質を能力の依り代にする操作系、オーラを体から切り離すのが得意な放出系の能力ならともかく、よりにもよって本人の肉体、身体能力そのものを強化させる強化系能力者の「念能力」のみを殺すことなど、不可能であることくらい誰だってわかるはずだ。
そもそも、オーラは生命エネルギーそのものだ。比較的「能力のみ」を殺しやすい系統の能力であっても、能力者に「念能力を失う」以外の影響がない場合の方が少ない。
その殺された能力そのものが占有していた「
念能力は能力者の精神、「心」そのもの。強い思い入れや感情が、その能力に強く影響されるからこそ、その「心」そのものが殺されても元通りの人格のままである保証がある訳もなく、能力が能力者の体の一部や身体能力に由来するものならば、その由来する一部の機能が殺される可能性は極めて高い。
そして、ソラの眼で殺されてしまったのなら、例え体のほんのわずかな一部であっても、それはもうどれほど医療が発達しても、「死者蘇生」という
ソラの持つ眼は、「直死の魔眼」という異能は決して便利な能力ではない。
あまりに強力で、残酷で、取り返しのつかない結末しか生み出さないものであることなど、自分よりもその眼の持ち主であるソラの方がずっとずっと良く知っていたはずなのに……。
それでも、ソラは縋った。期待した。
自分がここまで壊れ果てる元凶である、呪いそのものである眼を信じたのだ。
この男を……ウボォーギンを殺さないまま無力化する方法。
クラピカの
現に、混沌の泥を使って出来た隙で絡めた鎖は、全身に巻き付いて捕らわれる前に右腕を何の躊躇もなく自分でもぎ取って捨てるという手段で逃れられた。
そもそも、ウボォーギンとの予定外・予想外の戦闘でオーラをかなり消費してしまったクラピカに、奴をまたコミュニティーに引き渡すまで拘束しておける余裕があったかどうかも怪しい。
あったとしても、コミュニティーが情報収集や人質に使うという欲目を出さず即座にウボォーギンを殺すか、クラピカ並の拘束能力を持つ者がいなければ、この男と旅団ならばまたしても助け出して逃げ出して振り出しに戻ることは容易く想像がついた。
いや、振り出しどころか片腕を失っていても治癒系の能力者が仲間にいれば再生・復元は可能であり、こちらの情報は旅団に知れ渡るので、この男を生かすという選択肢を取るのならば最低でも念能力を奪って無力化くらいしておかなければ、こちら側が一方的に不利になる。
だから、ソラはどんなに可能性が低くてもこのギャンブルに賭けたのだ。
もっと自分が強ければ、自分がもっと早くに「答え」を出していれば、最初に拘束した時点でコミュニティーでもどこにでもこいつを突き出していれば……。
そんな自分の不甲斐なさばかりがいくつも頭に浮かび、クラピカは唇を噛みしめる。
そうすれば、彼女は今こんなにも無理をして傷ついた挙句に……賭けに負けることだってなかったという後悔が胸を占める。
わかっていた。初めから。
それでも、期待してしまった。
夢を見てしまった。
ソラの眼が、この戦闘しか頭にないこの男にとって命よりも大事かもしれない「念能力」を殺すことで、こいつを生かしたまま無力化し、何よりも大切なものを奪われるというクラピカの痛みを少しでも知ることが出来るのではないかという期待をしてしまった。
和解も謝罪も求めていない。
だけど、ほんの少しでもクラピカの奪われたものを知って、何よりも大切なものを取り返しがつかなくなっても生きていかなくてはいけない絶望を知って、それで少しでも己がしてきたことの罪を知れば……、この男が死ぬよりも気が晴れるのではないかと思った。
きっとソラも、同じ夢を見てくれた。
だから彼女は、自分との約束を破って、こんなギャンブルに賭けた。
だけど、結末は初めから予想していた通り。
あまりにも残酷な、予定調和だ。
ソラがここまでして眼の精度を上げて、おそらくは人間が持てる性能の限界値まで……もしくはその限界さえも超えて見つけた「死点」を貫いた。
それこそが「念能力」そのものの「死」だったのは確か。
だけど、ウボォーギンの念能力はこれ以上なく正統派でシンプルな強化系の肉体強化。
彼の念能力を殺すということは、彼を生かす体にオーラを巡り渡らすことが出来なくなるということ。
即死はしない。ただ、じわじわと体の機能の一つ一つに
ウボォーギンの様子からして苦痛を感じていないのは、クラピカやソラにとって救いなのかどうかもわからない。
もがき苦しんで死んで欲しいとは思わない。そもそも、死んで欲しくなかったからこのような手段を取ったのだから。
でも、穏やかに死んでいくのもクラピカにとっては腸が煮えくり返る思いだ。
ソラはまた、この手を汚してしまった。
また、自分ではない誰かを殺して、その死の責任を受け持ってしまった。
目の前の死にゆく男の方がはるかに多くの人間を殺し、この男こそ地獄にすらいけず空っぽな深淵に堕ちて沈んで溶けていくしかないのはわかっているからこそ、憎くて仕方がない。
こんな奴と、ソラがいつか同じ場所に堕ちてゆくしかないということが、クラピカには耐えられないくらい許せなくて、泣きながらウボォーギンを睨み付ける。
しかし相手は、やはりどれほどクラピカが怒りや憎悪を滾らせても、そのことに関して罪悪感など懐きはしない。
ただ「ざまあみろ」とでも言いたげに、ほとんど力が入らぬであろう顔面を動かして嗤った。
「……訳、わかんねぇ……奴らだな……。殺す気で……来てたくせに……今更になって……何で後悔なんか……してやがるんだ?」
「……貴様と一緒にするな! 何も考えず! 何も感じず人を殺せるお前に何がわかる!!」
クラピカの怒りにもやはり力なく嗤いながら、「わかんねぇから訊いてんだろうが」と返す。
軽口を叩き、笑いながら訪れる「死」に抵抗する様子も恐れる様子も見せず、ウボォーギンは淡々と、戦闘時とは打って変わって穏やかに言葉を続けた。
「……にしても……マジで何で……お前らが泣いてるんだ? 勝ったのなら、笑えよ……。俺がマジで……死に甲斐ないだろうが……」
「貴様の死など、どうでもいい! 死に甲斐がないのなら、生きろ!! お前なんかの死で、ソラの生を穢すな!!」
もはや駄々をこねる子供のように、ウボォーギンの言葉を遮るように叫ぶクラピカ。
ソラを抱きしめているのも、彼女を支えている、守っているというより、彼女に縋りついているようにしか見えない。
そんなクラピカにウボォーギンは失望したような息を吐いて、彼の言葉を無視して己の言いたいことをただ続けた。
「……何で、……生き残ったお前らが……後悔してんだ? ……後悔……したいのは…………俺の方だ」
納得してしまった。
あまりにも腑に落ちて、「なら仕方ないな」と物分かりよく思ってしまった。
だけど、後悔をしていない訳ではない。
自分が負けたのは相手が、クラピカとソラの方が強かったからであることに納得して受け入れたけれど、同時にウボォーギンは自分の敗因に気付いたことで、この戦いに大きな後悔を生み出してしまった。
最高に楽しい戦いだった。最後の鎖も、横やりを入れられたとは思わない。
どんな手段を使っても勝とうとして、生き抜こうとした彼らの眼が心地よかったから、戦いそのものには満足している。
だけど……敗因に気付いたことで、同時に自分が勝てた可能性にも気づいてしまった。
いや、可能性ではない。勝つという確信があった。
…………自分も誰かと戦えば、腐れ縁のノブナガでも連れてきていれば、この二人がどんな手段を取ろうとも、どれほど強く生きようと足掻いても、自分たちが勝つという自信しかなかった。
ただその場合、勝つ気しかないのに自分一人で戦うより戦いにくいし面白くもない戦いになっていたことも容易く想像がついた。
自分と違ってノブナガの能力はタイマン専用みたいなところがあって、同じ強化系の割には腕力もさほど強くない。2対2という人数は、決して有利には働かない。
……それなのに何故か、そんな足手まといでしかないはずの幼馴染と組んだ時ほど、ヤバいと思えた状況でも相手でも、必ず勝って生還してきたから。
自分一人で戦うよりも、負けるわけにはいかないと思えたから。
――自分一人で戦うより、自分が強くなれたことに今更気づいてしまったから。
だから後悔して悔しいのは自分の方なのに、何故か相手の方が負けた方がマシと言わんばかりに一人は泣いて、もう一人は死んだようにぐったりと無気力にただ抱きかかえられている。
それは、後悔はあるし悔しいけれども確かに楽しかった自分の戦いを穢す、最期の最後でこんなんかよ!! とキレたくなる光景だった。
最後の力を振り絞って挑発して笑ってやっても、クラピカの眼はもう暁の眼には戻らない。
生きたいという意思は消えてなくなり、むしろ死んでしまいたいと言わんばかりの眼で睨まれてうんざりとしてきた。
だから、もう瞼の重さにすら耐えきれなくなってきた体に抵抗せず、このままヤケクソ気味に死んでやろうと思った。
勝手に後悔して、無意味に悔やみ続けろクソッタレ! と、もう声にならなかったので心の中で罵倒して、瞼を閉ざそうとした時……。
「…………あぁ。……そうだな」
もう一度だけ力を振り絞って、閉ざしかけた瞼を無理やり開く。
声の主を、確かめる。
「……ソラ?」
血液が沸騰しているのではないかと思える灼熱の体温が、体を動かすどころか声を紡ぐ気力すら奪っているのではないかと思うくらい、クラピカにされるがまま抱きかかえられていたソラの唇が震え、言葉が零れ落ちた。
「…………お前、……名前……何だっけ?」
死にかけた、もうすぐ死ぬしかないウボォーギンと同じぐらい覇気のない声で彼女は尋ねる。
自分が殺した相手の名を訊いた。
「…………ウボォーギン……だ」
掠れ切った声で告げる。
もう、声は出ない。
虫が鳴くよりも小さくて力のない声だったが、それでもソラは確かに聴きとって、彼女も同じくらい力のない声で言葉を続ける。
「……そう。……ウボォーギン。お前は……そこで死ね」
残酷で容赦のない、そして今更言わなくたって決まりきった、……彼女自身が望まなくても自分で選んで行き着いた結末を告げる。
「お前は……そこで死んで……終われ。……後悔さえも……出来ない終焉に……何もない……最果てに……溶けてしまえ……」
クラピカが右手で覆っている眼からは未だに血が流れ続けている。
喉の奥から焼けているように、苦しげな吐息はやけに熱い。
それでも、今にもこの呼吸が止まってしまいそうだというのに、クラピカが「もういい! もうやめろ!」と叫んで縋って止めても、それでもソラは弱々しく、けれども絶対に言葉を止めやしなかった。
「……私たちは……生きていくから……」
最後まで、言いたいことを全て言いきるまでその唇は言葉を紡ぐのをやめない。
「……私たちは……どれほど……後悔……したって……どれだけ……傷ついたって…………生き抜いて……やる。
……殺せとか……死んでもいいなんて……絶対に言わない。……私たちは……死ぬのが……怖いから……だから……だから…………幸せになるために……死ぬまで……生き抜いて……やる」
ソラの言葉は止まらない。
代わりに、クラピカの嗚咽混じりの懇願が止む。
あまりに儚く離れてゆきそうなほど弱々しくても、その手は握り返されたから。
まだ、ソラは夢を見続けているから。
だからもう、言えなかった。
その夢を諦めてしまおうなんて、言えるわけがない。
クラピカが黙り込んだことに気付いたからか、それともただ単に笑いたかったから笑っただけなのか、ソラがクラピカの腕の中で彼に抱きかかえられたまま口角を上げて、ウボォーギンに最後の言葉をぶつけた。
「……だから、……ウボォーギン。…………お前はここで、死ね」
本当にただ、彼女自身が言いたかったから言っただけの言葉。
自分が選んだ選択肢、自分が作り上げた結末、そしてそれらによって背負った罪を全て受け入れて、後悔しながらでもまだ歩んでゆくという決意宣言ですらない。
ただの、もうそれが絶対にできないウボォーギンに対して自慢したかっただけだと理解して、ウボォーギンはもう声など出せないが、それでも最後の力を振り絞って、唇だけを動かした。
(
幸せになるために選んだ、背負うべき罪としてウボォーギンの名を覚えた女に、自分の死に様をその記憶に刻み、心を墓標とした女への
もう、体のどこも動かない。
最後に残された自由は、思考のみ。それも猶予は数秒ほどであることくらいわかっていた。
だから正真正銘最期の最後に残された自分の時間に、ウボォーギンが費やしたのは――
(……悪ぃな。……明日の仕事、……行けねーわ)
仲間への届かぬ謝罪だった。
* * *
ホテルの一室に集まった、ネオン=ノストラードの護衛たちはお通夜さながらに全員が暗い顔をしていた。
誰かが何かを言いかけて、けれど結局何も言わずに黙り込むのをもう何度繰り返しただろう。
言いたいことは全員、わかっている。
クラピカは無事だろうか? という、ダルツォルネの代理でリーダーになったばかりの、おそらくは最年少の少年の安否だ。
初めの内は、さほど心配していなかった。はっきり言って彼だけが元の取ってあった部屋に残って、逃げられた旅団の男を待ち構えてくれたことに感謝したくらいだ。
自分達のしたことを考えたら、あの旅団の11番は絶対に復讐に来ることは自明の理。
だから護衛としても、そして個人的な生存願望からしても、一番恨まれているであろうクラピカが囮になる形で残って待ち受けて、そして一人で始末付けようと行動してくれたのはありがたかったので、全員が彼は決して組のために動いている訳ではない、間違いなく旅団に何らかの個人的な目的があることを察していながら、好きにさせた。
が、さすがに彼らは自分達さえ巻き込まれなければ、クラピカが死のうがどうなろうがどうでもいいと思ったから好きにさせた訳ではない。
陰獣が4人がかりでも殺せなかった相手を、単独で無力化して捕縛した実績があったからこそ、彼なら大丈夫だと全員が信頼していたから送り出したのだ。
だが、いつまで経っても戻らない事実が、その信頼をどんどん不安に塗り替える。
その不安が、「クラピカは無事だろうか?」という疑問を口に出してしまいそうになるが、出したからといってその疑問に望む答えを与えてくれる者がいないのもわかりきっているので、結局は黙り込む。
そんな、実に意味のない時間もようやく終わりを告げる。
「……! 帰って来たわ!」
日付が変わり、昨夜もどこかに出かけていたクラピカが帰って来たのと同じくらいの時刻になって、センリツが顔を上げて言った。
その声と表情には安堵で満ちており、全員も同じく胸の中に溜め込んでいた不安が安堵にすり替わる。
だがしかし、おそらくはクラピカの心音が聞こえる外を見ているセンリツが、安堵からやけに困惑した表情に変わっていることに気付き、スクワラが「どうした?」と声を掛けた。
「……クラピカが帰って来たのは確かだし、怪我をしてるみたいだけど命に別状とかはなさそうなんだけど……、クラピカ以外にもう一人いるみたい」
『はぁ?』
センリツの言葉に、全員が口をそろえて彼女と同じように首を傾げる。
また旅団の11番の捕縛に成功して連れて帰って来たのだろうかとも一瞬思ったが、この場の全員がクラピカとは全く付き合いは長くないが、それでも昨夜の彼を見ていたらそれは有り得ないと確信できた。
彼は見た目や普段の言動に反して結構気が短くて頭に血が昇りやすい所があるのは、いきなりダルツォルネの命令も「関係ない」と言い切って単独であの11番に挑もうとしたことで、その場にいなかったヴェーゼとリンセン以外の全員が理解しているし、見てなかった二人も報告は受けたのでわかっているだろう。
なので、良くも悪くも邪魔の入らない戦闘になったのならば、生け捕りにした方がメリットがあるとわかっていてもそれが実行できるほどの冷静さなど、クラピカには残っていないと全員が思っていた。
残っていたとしたら、護衛対象がいるこのホテルにその男を連れてくるのはおかしい。
生け捕りのメリットを計算できるくらいの冷静さが残っていたら、彼は間違いなく旅団の仲間がまた助けに来ることも思いつかない訳がないので、少なくともネオンを危険に晒すような真似はしないはずだ。
そんな全員の心の中の自問自答を言葉通り聞き取ったセンリツが、「あの旅団の男じゃないわ」と情報を補足した。
「あの旅団の11番じゃないわよ。全然別人。……それに、クラピカよりもその子の方が重傷ね」
「? なおさらどういうことだ?」
またしてもあの、非常識なほど戦闘特化の能力者である11番を相手にしなくてはいけない訳ではないことにホッとしつつも、センリツの説明で余計にクラピカがどういう事情と状況で、誰かわからないもう一人をここに連れて帰って来たのかが理解できず、スクワラは怪訝な顔で尋ねるが、センリツはそれ以上答えなかった。
彼女は既に、その連れてきた「誰か」が何者であるかを理解していたからこそ答えなかった。
答えることなど出来なかった。
この距離からでもはっきりとわかる、クラピカの心臓が引き裂かれそうなほどの痛みを訴える後悔の
足音からして、クラピカは一人で歩いている。連れてきたもう一人は、歩くことも出来ないから彼が抱きかかえているのだろう。
けれど心音からして、そのもう一人は気を失っている訳ではない。気絶すらできない程の激痛に苛まれている、激しい鼓動。
だけどその鼓動は、苦痛だけを訴えるものではなかった。
心音と、そして抱きかかえているクラピカにすら聞こえているのかどうかも怪しいほどか細い声が何度も何度も繰り返す。
「ごめんなさい」と、謝罪を繰り返し続けていた。
センリツはとっくの昔に、クラピカが誰かもう一人を連れて帰って来たという時点でその「誰か」の正体には察しがついていた。
だからこそ、二人のメロディーがあまりにも痛々しくて、何も言えなくなる。
……おそらく旅団との戦闘は、彼らにとって最悪の結末を迎えたことをセンリツだけが全て理解してしまい、何も言えなくなって黙りこんだ。
「私、ちょっと見てくるわ」
センリツと違って事情を何も理解できていない、出来る訳のないヴェーゼが立ち上がって、部屋を出る。
一人が動き出すと、全員がつられるように部屋を出る。
連れているのが怪我人ということで、警戒する必要があるとは誰も思っていなかったし、クラピカが何の理由もなく無関係な人間を連れ込むとも思ってないが、だからといって放っておくわけにもいかないで、とりあえず誰をどうしてここに連れてきたのかをクラピカに訊くことは、相談するまでもない決定事項。
こうなるのは当然だと理解しつつ、センリツも腰を上げて皆の後を追う。
少しでも、彼が話したくないことを代理で言ってやろうと思った。
彼の懇願に力を貸してやる為に、センリツは部屋を出た。
* * *
人間を一人抱きかかえて廊下を歩くクラピカは、はっきり言って幽霊の類にしか見えなかった。
それは人目をはばかって“絶”で気配を消して、異様に存在感が薄かったのが第一だが、クラピカの姿そのものが十分幽霊じみている。
全身が薄汚れてズタボロ、かすり傷は数え切れず、服には相手のものか自分のものか判別がつかない血で染まっている。
なのに本人の顔色は青を通り越して、死人じみた蒼白。
表情は人形じみた無機質な無表情。
しかし眼だけは、やけに有機的だった。
後悔や罪悪感に無力感といった、自分を責め立てる感情が全て溶け合わさった絶望そのものの眼で、彼は抱きかかえる相手を見下ろしていた。
その抱きかかえる相手もまた、生きているのかが怪しいと思えた。
苦しげな短い呼吸を繰り返し続け、玉のような汗を浮かび上がらせて流しているので、生者であることは明白なはずなのに、その様子はどう見ても高熱に浮かされて苦しんでいる反応であるにもかかわらず、顔色はクラピカと同じく蒼白。
髪も、老人でもここまで綺麗に白いのは珍しいと言えるくらい色素が見当たらないので、その「赤」がやけに際立った。
クラピカが抱き上げている、おそらく女性の顔の大部分が布に覆われていた。
クラピカの服の両袖がないことから、気休め程度の応急処置で彼が包帯代わりに袖を破ってその眼に巻いたのだろう。
本当にそれは、気休めでしかないことが良くわかる。
彼女の髪を束ねるやけに可愛らしいリボンと同じくらい、鮮烈で毒々しい真紅がその眼を覆う布を染め上げているのを見れば、もうその布の奥の眼に視力は期待できない。
全員が思った以上に重傷な人間を、想像以上に何と声をかけたらいいのかわからないほど鬼気迫っているようにも、酷く無気力にも見えるクラピカの様子に言葉を失う。
しかし、絶句していたヴェーゼが彼の抱きかかえる人物の着ているもの、そして使い勝手が良くないとわかっていながらも能力として昇華させた自分が最も執着するものに気付き、声を上げる。
「! クラピカ! その子、私が言ってた『赤コート』よね!?」
「はぁ!? マジか!?」
「間違いないわよ! 髪の色は違うけど、あの唇は見間違えないわ!!」
言われてセンリツ以外の全員が、両目の鮮血に気を取られて気付いていなかった服装に注目する。当然、ヴェーゼ以外見分けがつかない唇は無視した。
言われて見れば確かに、その人物が来ているのはややサイズが大きくて体格を誤魔化すような赤いコートである。
スクワラやリンセンからしたら、何でクラピカが重傷を負った赤コートを連れてきたのか余計に謎が増したが、昨夜の11番が逃げ出す少し前の休憩時間、クラピカとセンリツの会話を聞いていたバショウは大体全てを察したのか、彼は「見ていられねぇ」と言わんばかりに両目を右手で覆って、天井を仰いだ。
そんな彼らの反応を無視というか、そもそも彼らの言葉が耳に届いている様子もなく、クラピカは足音も立てずに本当に幽霊じみた様子のまま無言で近寄ってくる。
彼が何をしたいのか理解できていないスクワラやリンセンは正直言って盛大に引き、ヴェーゼは恩人が今にも死にそうな様子であることに狼狽える。
比較的冷静なバショウは天井を仰ぐのをやめて、横目でセンリツを見る。
彼女は無言で、目を伏せて頷いた。
バショウが察したことは、訂正を入れる必要がない程度に当たっているということだろう。
その証明に自分たちの前にまでやって来たクラピカが、人形のような顔のまま、絶望そのものの眼で腕に抱えた相手を見下ろしたまま、唐突に言った。
「……彼女をここに匿わせて欲しい」
もちろん、いきなりこんなことを言われても誰も良いも悪いも言える訳がない。
だがクラピカはスクワラやリンセンの「どういうことだ?」という問いに答えず、というかその問いを聞いておらず、ただひたすらに頭を下げて懇願する。
「頼む。迷惑などかけない。私が全ての責任を持つ。だからどうか、ここに……私の目と手が届く場所でせめて少しでも回復するまで匿わせてくれ。頼む……。頼む………………」
ぐったりと苦しげな呼吸以外全く動かない人間を、縋りつくように抱きかかえてクラピカは頭を下げてひたすら仲間に懇願する。
どれほど、突拍子がなくて無茶なことを言ってるかくらい、クラピカはわかっている。そんなこともわからぬほど、冷静さを失っている訳ではない。
むしろ、後悔ばかりで意味もなくただずっと泣いていたいという自分の弱音をねじ伏せて、何とか冷静に考えた結果が今だ。
初めは、このままヨークシンから逃げ出そうと考えた。
仕事のことも、旅団のことも何もかも投げ捨てて、ソラだけを連れて、ソラだけを抱え込んで逃げ出してしまいたかった。
しかし、この時期のヨークシンはただでさえ全世界のマフィアが一堂に集まる為、入国や出国の規制はもちろん表向きではかかっておらず、前科も何もない善良な一般人が正規の手続きをすれば簡単に訪れることも出て行くことも可能だが、少しでも怪しい所があれば裏社会のきな臭い部分が顔を出し、即刻拘束されて痛くもない腹の奥底まで探られる。
少しどころではない怪しさしかない今のクラピカとソラでは、マフィアたちの警戒網に引っかかればそれこそ、こちらの言い分など聞く余地もなく殺されるのはまだいい方だ。
自分達に何らかの価値を相手が見出したのなら、間違いなく骨までしゃぶられて人としての尊厳も何もかもを踏みにじられて奪われるのが目に見えていた。
もちろんハンター
実に忌々しいことだが、クラピカが思っていた以上に幻影旅団という集団は仲間意識が強い為、ウボォーギンの死とその犯人を知れば復讐に来る可能性はただでさえ高いのに、奴らのリーダーはソラに執着している。
もはや旅団がソラを狙わない可能性は、思い浮かびなどしなかった。
だから、クラピカはここに戻って来るしかなかった。
どれほど怪しまれても、自分が旅団の一人を捕えたという実績を盾にして自分のわがままを、懇願を押し通すことを選んだ。
……ここに戻る「しか」なかったというのは、酷い欺瞞であることは自覚している。
一番良い方法は、間違いなく訪れているはずのゴン達に連絡を取って、彼らにソラを預けて、彼女を連れて逃げて貰えばいいだけであることくらい、わかっている。
ゴン達ならばマフィアも旅団もノーマークであるはずなので、彼らが表立つ形で行動してくれたら、ソラはマフィアや旅団の情報網にも警戒網も引っかからずに済む。
顔や名前は直接対峙したウボォーギン以外のメンバーには知られてないだろうが、自分がノストラード組に所属していることを旅団が把握していることは、短期間でこのホテルを探し当てたことで確定している。
ウボォーギンが戻らないことを不審に思って、奴の仇討ちで再びその情報を頼りに探し当てられ、自分の前に旅団が現れる可能性は決して低くない。
それにプラスして、自分の一番身近にいた護衛のダルツォルネが死んだと聞いても、競売品のミイラが手に入らなかった不満を口にするだけの、倫理観に期待できない
……だけど、クラピカは手離せなかった。
彼女をこんな目に遭わせたのは自分自身であることをわかっていながらも、それでも自分以外の誰かに彼女を任せるのは嫌だった。
彼女のために出来ることなど何一つとして思い浮かびもしないくせに、子供のようなわがままばかりが声高に叫んで訴える。
そんな弱くて身勝手な自分を殺してやりたい気分になりながらも、それでもクラピカは自分のわがままを押し通す。
ここで引いてしまえば、それこそ自分は何のために今まで生きてきたのかすら分からなくなりそうだから。
自分がいない方がソラは何も傷つかずに済んで、穏やかで優しい幸福に包まれて生きていけたのではないかという考えばかりが頭に浮かぶから。
それを認めてしまえば、その事実はクラピカよりもソラの生を全否定して、ソラの今までをすべて踏みにじって価値を貶めて無意味にさせるものだから。
だからクラピカは自己嫌悪で自分を殺したくなっても、それでも自分が選んだものを貫き通す。
それは幸福になる為の手段なのか、ただの背負った罪を少しでも軽くさせたいだけの贖罪なのかすらわからないままに、クラピカはきつくソラを抱きしめて懇願し続けた。
その懇願に、真っ先に応えてクラピカ側になったのは、当然と言えば当然、ヴェーゼだった。
「わ、私の方からもお願い!
事情は全然分からないけど、この子が私を助けてくれたのは本当よ! この子がいなきゃ、私は間違いなくイワレンコフと同じように頭をかち割られて死んでたわ!
だからお願い。私も仕事には支障がないようにするから、あなた達に迷惑をかけないようにするから……お願い。頼むわ」
他のメンバーに向き合って頼みつつ、断られたら自分の能力で強制的に言質でも取るつもりなのか、この中でも古株で発言力が強いスクワラとリンセンにヴェーゼはジリジリと距離を詰め、二人に全力で警戒されて引かれる。
さすがにそのヴェーゼの行動をセンリツが間に入って止めるが、彼女も立場としてはヴェーゼ側だった。
「ヴェーゼ。落ち着いて。
……でも、あたしからもお願いしたいわ。……たぶん、この子がいたからクラピカは帰ってこれたし、あたしたちはこれからあの大男をもう恐れずに済むと思うから。……だから、オークションが終わってヨークシンに張られたマフィアの警戒網が落ち着くまで匿うのは、あたしたちにとっても損にはならないと思うの」
クラピカは何も語らないが、ウボォーギンが死んだこと、そして殺したのはおそらくはクラピカではなく彼女の方であること、少なくとも大きく関わっていることを確信して、センリツは決してこの女性を匿うことは自分たちにとって損ではないと説得する。
しかしリンセンは、「気持ちはわからなくもないが、ただでさえ想定外のことばかり起こっているのに、正体不明の人物を匿うなんて爆弾を抱え込むようなものだろう。リーダーとはいえ、仕事に何の関係もないのなら命令であっても聞く義務はないし、この仕事の先輩として許可できるわけがない」と、3人の懇願を切って捨てる。
彼の言葉に、女性二人は反論出来ずに黙り込む。リンセンの言葉は正論で、それに彼も「今すぐどこか、自分たちの関わりがない所に捨ててこい」とは言わず、「連れてきて匿ってほしいと言ったことは聞かなかったことにするから、ここに匿うのは諦めて早く何とかしろ」と言うだけ、クラピカの思いを尊重してやってるし優しい方だ。
だが、それでもクラピカは引かない。
「……頼む。迷惑はかけない。絶対にかけない。私が全て何とかする。責任は全て私が取るから……頼む」
リンセンの言葉は聞こえていないのか、同じ言葉を何度も何度も繰り返して相手にドン引きさせても懇願を続ける同僚を見て、バショウは深い溜め息をつく。
「クラピカよ。少しは話、ちゃんと聞け。
ここで匿ったからって、どうしろって言うんだ? こんな重傷の怪我人を、寝かしたまま放置しておく気か?」
誰の言葉も耳に入っているのか怪しかったクラピカだが、バショウの言葉に何度も繰り返していた懇願が止む。
自分が全て何とかすると言いつつも、それは本人が一番そうしたいと願っていることであっても現実的ではないこという事実を突き付けられたことに対して、人形じみた表情が子供のように悔しげに、泣き出す寸前のような顔に歪む。
センリツとの会話で取り澄ました無表情も冷静さもかなぐり捨てて、「赤コートなんか知らない」と駄々をこねる子供のように叫んでいたことをバショウは覚えている。
どれほど大切な相手であるかなど、今更説明されるまでもない。
それをわかっているからこそ、バショウは幼いクラピカのわがままを説得してやる。
「気持ちはな、わかるが話は別なんだ。
こんなろくに治療も出来ない所でただ寝かせとくだけじゃ、間違いなく取り返しがつかなくなるだろうがよ。……病院を探すくらいなら手伝ってやる」
「…………ハンター証も使わず、マフィアの息もかかっていない医者に秘密裡で治療させることが出来るのか? 旅団に目をつけられた彼女を、自分の指先すら動かせないくらいに消耗している彼女を、他に誰が守ってくれるんだ?
そもそも、……この熱も眼もとうの昔に手遅れだ。取り返しなど初めからつかない。おそらくは“念”を使っても回復しない。それこそ『
しかし、バショウの説得にクラピカは唇を噛んで、吐き捨てるように言い返す。
どれほど彼女の容体が絶望的なものなのかを告げ、だからこそ手離せないと彼は答える。
予想以上に絶望的だからこそクラピカが離れがたくなっていることを知って、さすがにバショウは言葉を失う。
しかし、「旅団に目をつけられている」という情報は看過できず、リンセンがもう一度説得しようと口を開きかけるが、それは手で制して止められた。
「あー……面倒くせぇ奴だなお前は。どうせ引く気がねーんなら、頼み込まずそのまま部屋にでも連れ込んじまえよ。手遅れでも取り返しがつかなくても、そんな抱きかかえてんのか縋り付いてんのかわかんねー体勢よりはベッドに寝かせてやった方が楽だろうし、気休めでもちゃんとした包帯を巻いてやる方が良いだろうがよ。
お前の自己満足でも、その子を想ってやってんならその子を優先してやれっつーの」
スクワラが頭をガリガリと掻きながら、リンセンを制止して実に面倒くさそうにそう言った。
彼の言葉に、クラピカの要望を全面的に許してやる発言に、クラピカを止めていたリンセンやバショウはもちろん、クラピカ側だった女性陣やクラピカ本人さえも、眼を見開いてしばし何を言われたのか理解できないと言わんばかりの顔で固まった。
「……スクワラ! 話を聞いてたのか!? その赤コートは幻影旅団に……」
「
こんだけ重傷の怪我人なら、部屋に放り込んで寝かしとけりゃ外には出ないんだから情報も流出しねーし、旅団に見つかって襲われるリスクなんか今更、大して変わんねーよ」
真っ先にリンセンがフリーズから解凍されたが、彼の言葉を遮ってスクワラは飄々とリスクは変わらないと語る。
どうやら彼も彼で、引く気はないらしい。
「それよりも、クラピカがその子を優先してこれからの仕事をボイコットした方が面倒だろうが。旅団に対抗できたのはこいつだけだし、代理とはいえリーダーもこいつだ。
なら、多少のわがままを許して手伝ってやる代わりに、そこらの仕事はちゃんとしてもらった方が良いだろうがよ」
そこまで言って、スクワラはクラピカを睨むように見て改めて尋ねる。
「で、一応聞くが、お前とその子の顔やら名前は旅団に知れ渡ってるのか?」
「……私と彼女の顔や名を知った旅団員は始末した。彼女は、『赤コート』とは認識されているだろうが、何者であるかという確証は得ていないはずだ」
「ならいい。
ほら、話は終わりだ。多数決の3対2で匿う方に決定した。賛成した奴で仕事に支障がない程度に協力してやればいい」
スクワラはクラピカの答えに頷いて、強引に話をまとめて背を向けて部屋に戻る。
別にスクワラは少し自分より先輩というだけで上司でもないので、リンセンは彼の意見を無視して強硬に反対しても良かったのだが、スクワラの言う通り旅団に目をつけられているというリスクは、顔も名前も知られている自分達の方が大きくて説得力がなく、そしてリンセン自身も今にも死にそうな女性を見捨てろと言うのは、いくら裏社会の人間とはいえさすがに後味が悪かった。
なので、「何があってもこっちは知らないからな」とだけ言って、折れた。
バショウの方も心情で言えばクラピカ寄りだったので、何も言わず少しだけ「良かったな」と言いたげに笑った。
センリツとヴェーゼは、「匿うのなら私たちの部屋で寝かせておきましょうか?」と提案してきたので、クラピカはひとまず彼女たちの言葉に甘えてソラを任せることにした。
そして、ようやくソラのこと以外、周囲の声や話がちゃんと耳にも頭にも届く程度に落ち着いたので、彼は部屋に戻るスクワラを追って声を掛ける。
「……スクワラ! ……何があったか、話しておく。どこまで、
…………それと、恩に着る」
「やめろ。気色悪ぃ」
クラピカの最後の謝礼の言葉を、スクワラは部屋の中で愛犬の頭を撫でながら、照れ隠しではなく本気で嫌そうに答えた。
実際、スクワラからしたら恩を着せるつもりなどない。着られても困る。
彼がクラピカのわがままを聞いてやったのは、懇願に応えてやったのは、自分も同類だからに過ぎない。
大切な人は自分の目が届く範囲で、自分の手が届く範囲にいて欲しい。自分の手で守りたい。そんな思いが、スクワラにもある。
スクワラの場合、順序がクラピカとは逆だったから、恋人のエリザはネオンの侍女という惹かれ合う前からすぐ傍にいることが前提の職場恋愛だからこそ、誰にも文句は言われずスムーズにそれが叶っただけ。
クラピカのわがままを、懇願を否定するということは、スクワラ自身の想いを否定するということだから。
味方をしてやった理由は、それだけのこと。
クラピカの味方だったのではなく、スクワラは自分自身を正当化させたかったから口出ししただけだ。
だから、彼は自分より年下でありながら、プロハンターというはるか高みにいると思っていた少年に、……自分よりもよっぽど青臭くて不器用で見ていて危なっかしい同僚に、恩になど着なくていいから一つだけ約束させる。
「そんなことよりも、あの子をちゃんと守ってやれ。男だろ」
クラピカはスクワラの言葉に、唇を噛みしめて、泣き出しそうな顔で答えた。
「――言われるまでもない!」
その言葉に、意地に、スクワラは笑う。
意地を張れるのならば、まだ大丈夫だと安堵しながら彼は笑った。
* * *
スクワラ達に何があったかを話し終えた時には夜中の3時を過ぎていたが、眠る気どころか休む気にすら到底なれなかった。
クラピカは相変わらず蒼白な顔色で部屋を出て、女性陣の部屋に足を運ぶ。
扉をノックする前に、ちょうどセンリツが出てきた。
「あぁ、クラピカ。話は終わった? なら、私達もちょっとスクワラから話を聞きに行くから、彼女を看てあげて」
この完璧なタイミングで扉を開けて迎え入れた時点で、彼女の聴力なら多少部屋が離れていても自分がスクワラ達に話した、ウボォーギンとの戦いがどのような結末を迎えたかなんて聞こえていただろうと確信できる。
部屋を開けてくれたセンリツとヴェーゼが、自分に気を遣っているのは明白だ。
しかしそのことにクラピカは気付きはしても、素直に感謝をすることも、気を遣われる自分に自己嫌悪した八つ当たりの苛立ちすら抱くことも出来ず、ただ無気力に「……あぁ。わかった」とだけ答える。
センリツと入れ替わって部屋に入ると、ヴェーゼが甲斐甲斐しくベッドに寝かされているソラの汗を拭き、少しでも熱を下げる為に置かれた額の濡れタオルを交換してやっていた。
ソラの眼はちゃんとした包帯で巻き直されて、さすがに出血はもう止まっているのかその包帯は純白のままだった。
服装も、少しでも楽になるようにと気を遣ってくれたのか、コートはもちろんその下のツナギも脱がされて、ホテル備え付けのパジャマらしきものに着替えさせてもらっている。
そして、金糸の刺繍が施された真紅のリボンで結われていた髪はほどかれて、彼女の白い髪がベッドの枕やシーツに溶けるように広がっている。
……髪を下ろしたソラが、見たかった。
そんな願いを、あのあまりにも愛おしい瞬間だった、幸福そのものだった喫茶店での一時で願った未来を、クラピカ思い出してしまった。
あの時は、幸福な未来を確かに頭の中に描けたはずなのに。
望みが叶ったはずのに、今では過去の幸福さえも現在の痛みをただ加速させる。
「……クラピカ。もしかしてこれって、あなたがあげたもの?」
部屋に入って来たクラピカに気付いたヴェーゼが、相変わらずあまりにも絶望的な眼をしているクラピカに対して、少しでも気を紛らわせてやるつもりかおどけたように言いながら、ソラの投げ出された腕を掴んで見せた。
その手首に巻かれた、赤いリボンを。
「服を脱がせるのも着せるのもされるがままだったのに、髪をほどくのだけは抵抗してたわよ、この子。腕に巻いてあげたら、安心したように大人しくなったけど」
ヴェーゼの言葉を、クラピカは黙ったまま聞いていた。
その眼は相変わらず、絶望したまま。
ただ人形じみた無表情がまた泣き出しそうな顔になったことで、ヴェーゼは自分の言ったことが逆効果でしかなかったことを察し、彼女は「……ごめん」とだけ伝えて部屋を出て行った。
二人が部屋を出て行ってすぐ、クラピカが呟いた「大馬鹿者」はもちろんヴェーゼに向けた言葉ではない。
起きているのか寝ているのかもわからない、ただ辛うじて苦しげな息を吐くことと、体の灼熱に耐えきれず流す汗で、生きていることだけがわかるソラを見下ろして、彼は語りかける。
「お前は……本当に大馬鹿者だ。
いつものように、自分の文句に気まずそうに笑って誤魔化そうとして茶化す声が聞きたかった。
こんなソラは嘘だと思いたかった。
だけど、これは残酷な現実である証明に苦しげな呼吸だけしかできないはずの唇が戦慄く。
声にはならない。声を出す力さえもない。
だけど、何と言ったかなんて読唇術の心得がなくてもわかった。
『ごめん』と、やはりクラピカのことばかり思って、自分の現状さえも顧みず謝罪していることなど、嫌になるくらいわかっていた。
「謝るくらいなら、初めから言えば良かったんだ」
ソラの贖罪の言葉に唇を噛んで冷たく切り捨て、クラピカはリボンが手首に巻かれたソラの手を取って握る。
この手が汚れてしまったとは思えない。汚れたというのなら、自分も同じくらい汚れている。同じだけの罪を背負っていると言いたいのに、言わせてはくれない手を強く握りしめた。
「初めから……こうなる前に、オレなんかに気を遣わず言えば良かったんだ。元からお前はわがままなのに、どうして肝心なところは一歩引くんだ?」
クラピカの言葉に、ソラは起きて彼の言葉を聞いているからか、それとも夢の中でつい数時間前のやり取りを見ているからか、声にならない声でただ「ごめんなさい」を繰り返す。
何度も何度も、ソラは繰り返した。
ウボォーギンが息を引き取った後、ソラはただひたすらにクラピカに謝り続けた。
『約束を守れなくて、ごめんね』
『嘘つかないって言ったのに、本当は嘘ばかりでごめん』
謝ってばかりだったくせに、泣きながらソラを連れて帰ろうとしたクラピカに、ウボォーギンの死体をせめて埋めるくらいして隠さないと、厄介事しか生まないと冷静な判断をして指示を出していたのが、クラピカは本気で腹を立てている。
眼の治療も、クラピカが「
後になって思えば「何で具現化系の君が強化系並の治癒能力持ってんの?」という「
そしてその怒り以上に、許せないことをソラは言った。
もうどんな後悔をしても貫こうと決めたはずの「答え」がまた酷く揺らぐ弱い自分に対して、自己嫌悪で自殺したい気分に陥っていたクラピカに、彼の精神が今どんな状態かすら、彼女はわからなかったのか。
わかった上でも、言わなければならないと思ったのか。
彼女は口にした。
『ごめん……。嘘ばっかりで……約束守れなかったのに……、君を悲しませて……怒らせてばかりで……ごめん』
今更、言われなくても初めから知っていた。
だけど、彼女が口にしないのをいいことにクラピカは気付かないふりをして、眼を逸らしていことを……、涙にしか見えない血を流しながら、ソラはついにもうクラピカが知らないふりが出来ぬように言葉にした。
『ごめん……。ごめんなさい……。ごめんなさい……。でも……それでも……お願い……クラピカ…………お願い…………。
――君は……誰も殺さないで』
クラピカの生き方に選択肢を与えて、決してその選択肢を狭めはしなかった、彼が幸福になる為に必要ならばどんな罪深い道も肯定してくれた彼女が、血の涙と共に零した
「……ソラ。オレは、幸せになりたい。君の望みを叶えてやりたい。それは、本当だ。
何があっても嘘にはなり得ない、どんなに傷ついても変えられない真実だ」
言われなくても、向き合って、叶えようとしたはずの願い。
もう手離さないと誓ったはずの答え。
例えどれほど傷ついても、立ち上がると決めた。どれほど後悔をしても、彼女がいる限り諦めなどつかないはずの夢だった。
諦められない夢だった。
諦めたくないはずの、夢だった……。
「……だけど、今のオレは『殺したくない』とは思えない。
オレは、君の手を汚させた
なのに今はまた、その夢が酷い重荷と感じてしまっている。
今すぐに放り捨てて、諦めてしまいたい。そうすれば楽になれるのがわかりきっていながら、クラピカは手離せない。
「……なぁ、ソラ。教えてくれ。
オレは、どうしたら幸せになれるんだ?」
ソラの眼や頭と比べたら大分マシだが、それでもやけに熱い手を握りしめて離さない。
もはやその手を握っていることは、刃物の刀身部を抱きしめていることに等しく自分を傷つけるだけであることを理解しながらも、彼女と共に見た「夢」は手離せない。
「…………オレは、どうしたら君を救える?」
手離せない「夢」を現実にするための絶対的な前提にして結末を尋ねるが、ソラは答えてはくれない。
ただ繰り返し、謝罪を、贖罪を繰り返す。
答えたのは、己の中のあまりに冷酷で冷静な自分自身。
ソラをこのような目に遭わせたことを誰よりも何よりも許さない裁定者の自分が、あまりにもシンプルで手遅れな断罪の言葉を口にする。
『出会わなければ良かったんだ。
初めから、
そんな答えは、今更言われなくてもわかっている。
わかっていながら、クラピカは手を離せない。
この「
思いたくなどなくて、ソラの手を右手で握りしめたまま彼はまた、左手で縋るように自分の耳に、自分の耳を飾って揺れる空青色の宝石に触れる。
『クラピカが幸せになれますように』
自分の事のように笑って、願って、祈って、望んでくれたあの幸福そのものの形を手離せないまま、クラピカは答えでも何でもない悪あがきの言葉だけを吐き出した。
「……すまない。ソラ。…………すまない」
答えは出せているのに、選べない。
選べないまま、時は待ってはくれず残酷に流れ続ける。
罪を誰も贖えないまま、夜は明けていった。
ウボォーギンの最期は何故か、ヘルシングのアンデルセン神父の最期をイメージしながら書きました。
「鬼が泣くなよ。泣きたくないから鬼になったんだろ?」はアーカードを言い表す最高の台詞だと思ってます。
あと、地味にバショウの台詞は頑張った。バショウは結構好きだけど、彼の台詞は原作で地味にすごい縛りをしてるから難しい……。