死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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77:救済

 額に十字の刺青。

 艶やかな黒髪に、思った以上に若いどころか幼さすら感じられる容姿。

 

 何もかも、彼女が語った通りの男がそこに()()()

 

「こいつが頭か」

「若造じゃねーか」

 

 クラピカは、幻影旅団のリーダー、クロロ=ルシルフルの死体の前でただ立ち呆けた。

 

 旅団のリーダーをゾルディックが殺したと報告されても、信じられなかった。

 目の当たりにしたキルアの父と祖父らしき人物が、他に集められた暗殺者はもちろん、自分とは比べ物にならぬほどの手練れであることくらいは理解していたが、それでもクラピカは理屈など関係なく信じられなかった。

 

 諦める覚悟も、諦めない覚悟も決められないまま、ただ見苦しく未練がましく時間稼ぎをしていたら、自分の手を汚さず最も憎い相手が死んだのならば、クラピカにとって幸運と言っていいはずなのに、それを現実とも幸運とも認められずにいた。

 

 認められない。信じられない。信じたくない。

 

 だってこれを現実だと認めてしまえば、それこそ意味をなくす。

 

 こんなにもあっさり、自分が何もしなくても旅団のリーダーと他のメンバー……、旅団の総員でいえば半数が死んで、おそらく幻影旅団は組織として壊滅したのなら……。

 自分が何もする必要などなかった、関わる意味などなかったというのなら、ならば、ならば――

 

(――ならば彼女は、いったい何の為にあの手を汚したんだ!?)

 

 クラピカに誰も殺してほしくないという一心で、あんなに傷ついて、今も苦しんでいるであろう彼女は。

 永遠に消えぬ罪悪感を抱えて、いつか必ずあそこまで壊れても逃げ出した空っぽの深淵にまで落ちて消えてゆくしかない彼女は。

 

 ソラは、いったい何のために殺人という罪を犯したというのか。

 

 ソラのしたことはおそらく、決して無意味などではない。

 予め戦力としては最強と思しきウボォーギンを殺しておいたからこそ、この結果だとはクラピカだって本当は理解できている。

 きっと結果としては、これがソラが一番望んだ通りの結末であることくらいわかっている。

 

 だけど、クラピカは納得が出来ない。

 意味のない「もしも」を仮定してしまう。

 

 こんなにもあっさりとリーダーが死んだのなら、ウボォーギンを殺さなくてもゾルディックに任せていれば同じ結末を迎えたのではないかという、魔法使いしかそのような世界線があるのかどうかも分からない、何の意味もない仮定を夢想して、現実を拒絶する。

 

 あったとしてもそれは自分のものにはなり得ない、その世界で生きるクラピカのものなのに、それを羨んで、妬んで、そしてもうぶつけどころがなくなった憎しみを、意味はないと知りながら目の前の死体にぶつける。

 

(……こんなにもあっさりと死ぬような奴らに、こんなにも簡単に終わる出来事の為に、彼女は永遠に許されない罪を負ったのか?

 

 こんな……こんな奴らの所為で、そしてこんな奴らへの憎しみをオレが抱え続けてきた所為で、オレはソラに人を殺させたのか!?)

 

 どれほどクラピカが憎悪を込めて睨み付けても、クロロの死体は何の反応もしない。マフィアたちによって、ただ報復と見せしめの「物」として扱われ、回収されていった。

 

 最も信じたくない、認めたくない現実を主張するものが視界から消えたことで、現実逃避の憎悪は完全にぶつけどころを見失う。

 誰も、何も自分が答えを出すのを待ってはくれないことを痛感しながら、クラピカはその憎悪を抱えこんだまま走り出す。

 

 このままただ立ち呆けていることこそ、なおさらに彼女のしてきたこと、してくれたことで自分にくれた未来をすべて無駄にして無意味にすることだけはわかっていたから。

 だから彼は駆け出して、そして再会する。

 

《さあ皆様、いヨいよ本日最後!! ラストの品となってシマイなシタ!!

 世界七大美色の一つ!! 『緋の眼』でございまス!!》

 

 それはこの5年間、最も会いたくて、同時に誰よりも何よりも会いたくなかった誰か。

 

《クルタ族が滅亡した今、現存すルのはわずか36対!! こちラはその中デも強い緋の発色を残す絶品!!》

 

 死してなお、あらゆる尊厳を奪われ、踏みにじられて、凌辱され続ける同胞。

 

《それでハ、1億ジェニーからスタート!!》

 

 誰も、それはたったの5年ほど前まで自分たちと同じように生きていた人間の一部であるとは思っていない。

 認識していない。

 あの眼がどのような経緯で今ここにあるのかを、あの緋色はどれほどの苦痛と憎悪と絶望で染め上げられたのかも知らないはずないのに、誰もがそれをただの「物」として扱い、値をつける。

 

 クロロの死体以上に見ていたくない、否定したい現実の中、今すぐ駆けだしてあの眼を奪い取って抱えてせめて故郷の土に還してやりたいという衝動を抑え込んで、クラピカはケータイを取り出して、ライト=ノストラードと連絡を取る。

 

組長(ボス)ですか? クラピカです。申し訳ありません。私の読み違いで旅団(クモ)のリーダーが()られ……競売が予定通り行われています」

《何!?》

 

 自分の失態を素直に報告し、彼の娘の目的である緋の眼が競りにかけられていると報告すれば、わずかに安堵してライトは予算に上限はない、何としてでも競り落とすようにクラピカは命じる。

 その答えに、クラピカもわずかに安堵した。

 

 まだあの眼は故郷に還すことなどできない。けれど、自分の手が届くところに帰って来てくれることだけが、唯一の救いだった。

 

《3億1000が出まシタ!! さぁー、後なイデすか!?》

「3億5000!!」

 

 クラピカは言われた通り、金に糸目をつけず一気に値段を吊り上げる。

 旅団と並ぶ、最も憎い者達と同じように、同胞に値をつけた。

 

 * * *

 

 わかりきっていたが、間近で見てもその眼は誰のものであるかなどわからなかった。

 父のものか、母のものか、長老のものなのか、友人のものなのか、さほど親しくなかった者のものなのか、そもそもこの二つの眼球が同一人物のものである保証すらない。

 見栄えの関係で、別人の眼を対のようにホルマリン漬けにしている可能性すらあった。

 

 ……それでも、これは確かに同胞の亡骸で、最悪の形見であることに変わりはない。

 

「ノストラード(ファミリー)様ですね。落札オめでトウござイまス。

 品物はコちらでヨろうしいデすね?」

「………………ああ」

 

 クラピカが緋の眼以外を見ていたら、周りを少しでも気に掛ける余裕があれば、オークショニアの発音に違和感を覚えるなり、その後ろで梱包作業をしているスタッフの中にヒソカがいると気付けたかもしれないが、クラピカは何も見えてなどいなかった。

 

 落札した緋の眼すら、ちゃんとは見ていない。

 見られなかった。

 

『どうして、お前はまだ生きている?』

『こんな辱めを受けるくらいなら、今すぐに踏みつぶしてくれ』

『お前は自分の同胞を「物」として値をつけ、誰かに捧げるのか?』

 

 そんな風に自分を責め立てているように見えて、見ることなど出来なかった。

 そんな言葉を吐くような人たちではない。だからこそ喪失感は決して埋まらず、痛みは消えないことくらいわかっている。

 

 この責め立てる言葉は、クラピカを恨み、憎む緋色の眼は自分自身の眼であることなどわかっている。

 

 だから、本当に見ていられなくて逃げ出した理由は、その眼は何も語ってくれなかったから、生きている者の眼とは違う、何の感情も思いも言葉の代わりに告げてくれない、ただの「もの」と化した眼球に過ぎないと思い知らされるのが嫌で、また時間稼ぎに目を逸らしているだけかもしれないと、顔を洗ってコンタクトを外した自分の顔を、眼を見てクラピカは思う。

 

 クロロが死んだと知って、その死体を目の当たりにした時と同じように、緋の眼を落札してようやく自分の手に同胞が一人戻ってきても、何も感じることはなかった。

 満足感も達成感もない。

 

 それは本当の意味で取り戻したわけではないからかもしれないが、自分の目的に一歩近づいたとすら思えなかった。

 

 同胞である自分ですら、その眼が誰のものかもわからないということを目の当たりにして、この眼は、クルタ族はもう誰も「人間」として扱っていないことを思い知らされたクラピカは、また同じ疑問がぐるぐると頭の中を回り続ける。

 

(……私は、何のためにハンターになったのだ? 同胞をこのように値をつけ買い取って、そしてまた更に尊厳を踏みにじる相手に捧げる為に、私はハンターになったのか?

 …………私は…………オレは……一体何の為に、何をしてるんだ? ……ただ一人生き延びて、仇も討つ覚悟も、復讐を諦めて幸せになる覚悟も決められず……守り抜きたい人をずっとずっと傷つけて…………オレは何をしてるんだ?

 

 ――ソラから何もかも奪っておきながら、オレは何をしてるんだ!?)

 

 梱包された緋の眼のホルマリン漬けを抱えて、帰路につきながらただひたすらに自分に問う。

 

 長年の目的が達成されたことによって、支えにしてきたそれを失ったことでできた心の虚無に問いかけるが、(うろ)はただクラピカの何もかもを飲み込んで溶かすだけ。

 何も生み出してはくれない。

 

 何も生み出さず、何もかもを飲み込む虚無はじわじわと広がって行き、クラピカの問いだけではなく他のものも飲み干してゆく。

 

「……………てめぇ、このまま帰れると思ってんのか」

 

 目の前に現れた、最後まで競り争っていた男に対して八つ当たりで殴りつけた罪悪感も、自分を侮辱した言葉に対する怒りもとうに虚無の中に消えていた。

 相手が、何者であるかすら覚えていなかった。

 

「止まれ。頭、ふっとばすぞ」

(………………もう、いい)

 

 何もかもが、虚無に、深淵に、最果てに落ちて沈んで溶けて消えてゆく。

 

 人としての倫理観も、罪悪感も。

 ハンターになりたかった本当の理由も。親友との約束も。

 どれほど苦しんでも、後悔しても、例え呪いに成り果てても諦められなかった、手離せなかったものさえも、飲み込まれた。

 

「――――もう、どうでもいい」

 

 ぽつりと呟いたクラピカの言葉に、スキンヘッドの男、ゼンジはクラピカに殴られた顔の傷が開くのも厭わず頭に血を昇らせて、怒鳴りつける。

 

「ふざけっ………………」

 

 しかし、その言葉は途中で止まる。

 止められた。

 

 ぶわりと一気に噴き出した、「それ」によって上がっていた血は一気に限界まで下がり、拳銃を構えていた腕は震えが止まらないのに、足はいくら「逃げろ!」と本能が訴えかけてもピクリとも動かない。

 

 それは「殺気」や「殺意」ではなかった。

 そんな可愛らしいものではない。

 

 上げられた顔、その双眸の紅蓮は目の前の相手を「人」として認識していない。

 獲物でもない、何でもない、何の意味も価値も見出していない。それらは全て、虚無が飲み込んで溶かしつくした。

 

 それはただ、虚無の前にある何か。

 虚無に飲み込まれるだけのもの。

 

 クラピカにとって、クラピカ「だった」ものにとって、特別であっても特別でなくても、善人であっても悪人であっても、生物も無機物も形のない概念にすら、いつか必ず平等に訪れる終焉そのものにとってそれは、ただそれだけでしかない。

 

 もう彼は、自分が何だったのかすらわからない。そんな情報に意味を見出せない。

 何にも意味を見出せない。

 

 自分がしてきたことにも、自分にあったはずのあらゆる未来も。

 

 何もしなかったからこそ目的を果たしてしまった自分になど何の意味も価値も見出せず、胸の内に抱えた虚無そのものに成り代わりながら、彼は手を伸ばす。

 

(……もう、どうでもいい。誰でもいい)

 

 何の意味も見出せていないのなら、そんなものは放っておけばいいのに、目の前の「それ」を破壊しようと、壊しつくそうとした。

 

(何の意味もなかった。オレは何もできなかった。ただ、彼女に自分が負うべき罪を全部押し付けて背負わせただけだ)

 

 どうでもいいはずなのに、何もかも意味も価値もなくしたはずなのに、虚無に成り代われていないわずかな「クラピカ」がそこに意味を求めた。

 

(ならばせめて、彼女と同じ『  (場所)』に堕ちよう)

 

 その「意味」を果たしてしまえば、それこそ自分はもう「クラピカ」でなくなることを知っているからこそ、求めた。

 完全に虚無に、深淵に、最果てに、……彼女と同じものになる為にそれを――――

 

 

 

 

 

「クラピカ」

 

 

 

 

 

 虚無から、掬い上げられる。

 

 形を無くし、意味を無くし、溶けて消えたはずのものが蘇る。

 

 意味などない、意味など見出せなかった、そこに確かにあったはずの意味を、自分の弱さと迷いですべて失ったはずのもの。

 あの日、確かに夢見た幸福。

 たどり着きたかった、未来。

 

「良かった。無事で」

 

 緊張感のない声。

 柔らかく細められた、青い目。

 晴れやかな、安堵したような笑顔。

 風になびく……白い、長い髪。

 

 見たいと思ったもの。見たかった、手に入れたかった未来。

 幸福の形そのもの。

 

 それは虚無に溶けたはずの、消えたはずの、意味など無くしたはずの

 

 

 

「……………………ソラ?」

 

 

 

 掬い上げられて復活した思考が「どうしてここに?」と問うが、その答えは同じく取り戻した記憶が語る。

 彼女が今、ここに現れるのは、来てくれるのは当然だとさえ思った。

 

 だって彼女は、ソラはいつだって、いつもいつも一番助けて欲しい時に来てくれるから。

 

 だから、夢でも幻でも良かった。

 

 虚無に飲み込まれて、落ちて、溶けてしまわない限り手離せなかった、諦められなかったものだから。

 それを失うくらいなら、抱え込んで自分ごと虚無に落ちていくことを選ぶほど、失えないものだから。

 

 彼女がいる限り、それは決して失われることがないものだから。

 

 彼女さえいれば、自分は、クラピカは――

 

「…………っっああぁぁっっ!!」

「!?」

 

 クラピカが広がった虚に飲み込まれたものを取り戻すことで、殺意ですらない、破壊衝動と言うにも生ぬるい「終焉」を目の当たりにして金縛り状態だったゼンジは、クラピカが人間性を、自我を、失えないものを取り戻したことで、極度の緊張状態が解ける。

 しかし、金縛り状態のときは麻痺していたものが、自分には理解できない、生物としてどころか存在そのものの終わりを本能で感じ取ったものを、緊張が解けたことでその得体のしれない「終わり」に「恐怖」を感じてしまい、突発的にパニックとヒステリーを起こして、構えていた拳銃をがたがたと盛大に腕を震わせたままクラピカに向ける。

 

 照準など関係なく、もしかしたらただの指の痙攣であって発砲する意志などなかったのかもしれない。

 そんなことは、何も関係ない。その引き金は引かれたという事実に変化など起こらない。

 

 乾いた音だけが、オークションも終わって静けさを取り戻したヨークシンの夜闇に消える。

 

 苦痛に呻く声は聞こえない。

 クラピカはもちろん、「ソラ」によって発砲の直前に引き倒されて押さえつけられた男すら、何の声も上げない。

 ゼンジというスキンヘッドの男は、一瞬で気を失っていた。

 

 それを、その光景をクラピカは緋色以外の色を取り戻した視界でただ見ていた。

 

 引き金が引かれ、自分に向けられた拳銃から銃弾が飛び出す前にその拳銃を持つ腕を掴んで上空に向かって撃ち出させて、そしてそのままその腕を背中に回して拘束し、引き倒した挙句に延髄に手刀を決めて意識を刈り取るという光景を、見ていた。

 

 そしてその光景が、クラピカの頭の中をただ一つの疑問に染め上げる。

 

()()()()()()!?)

 

 ソラだと思った、ソラにしか見えない「誰か」が目の前にいることに気付く。

 行動からして自分を助けてくれたのだろうが、そのことを認識する以前にありとあらゆる違和感がクラピカに襲い掛かり、もしも緋の眼を抱えていなければクラピカはその目の前の「誰か」に掴みかかっていただろう。

 

 それは、ソラにしか見えない姿でありながら、クラピカからしたら何もかもがおかしすぎた。

 

 彼女は確かに強いが、ここまで圧倒的に、そして静かに一瞬で相手を制圧して無力化出来るほどではなかった。

 人を殺したがらないが、敵認定をした相手には容赦がない彼女が、特に逆鱗である「クラピカに攻撃」をしでかした相手にキレもしてなければ、最小限のダメージで済ませられるはずがない。意図的に痛めつけることはなくとも、手加減が絶対にできやしないはず。

 無力化しても、彼女なら即座に「クラピカ! 大丈夫!? 怪我はない!?」と騒ぐはずなのに、相手は何も訊かない。

 

 そして何より、右手の甲に太陽と星と月がモチーフらしき刺青などなかった。

 

 何より、何より、何より……自分を見上げるこの、蒼緋の眼はいったい何なのかをクラピカは理解できなかった。

 

 そして相手が口を開いたことで、さらにクラピカの疑問は膨れ上がる。

 

「唐突だが、自己紹介をしたいと思う。許されるだろうか?」

「………………はい?」

 

 膨れ上がったが、同時に力が抜けた。

 ソラの顔で、ソラとは違う眼で、ソラとは全く違う雰囲気の凛然とした真顔で、ソラとは全く違う明らかに男の声で相手が言い放った言葉は確かにクラピカが今一番知りたいことだったが……なんか、違う。

 

 相手が真顔で、現状に合っているようで一番空気が読めていないセリフを言い放った所為で、クラピカは用意していた「貴様は誰だ!?」という言葉が吹っ飛んで、思わず脱力しながらほとんど意味のない声を上げたが、その言葉を何故か相手は了承と取り、そしてそのまま本当に自己紹介を始めた。

 

「オレはソラと契約しているランサーのサーヴァント。真名をカルナという」

「…………………………待て、今なんて言った!?」

 

 ……のちのクラピカはこう語る。

ソラ(あいつ)はよくカルナ(あれ)と意思疎通が出来るな!!」と。

 

 * * *

 

「大丈夫だ。こちらで合流して車に乗せた」

 

 駐車場に止めてあった車の中でクラピカは護衛メンバーに連絡を取り、ソラを回収したことを伝える。

 ソラが脱走したことをクラピカに連絡しなかったことに対して少し不満があるが、旅団暗殺という仕事の真っ最中であるということを引き抜いても、その当時のクラピカの精神状態からして伝えられる訳がないのもわかりきっているので、クラピカは謝るヴェーゼ達に、とにかくもう心配はいらないと宥めた。

 

 実際、腹を立てるなら脱走されたことに気付かなかった彼らよりも、脱走した張本人だと思っているので、クラピカはバックミラー越しにその「本人」を睨み付ける。

 

 しかしクラピカのケープを羽織って後部座席に行儀よく座っている相手は、何故クラピカが睨んでいるのかわかっておらず、鏡越しに彼は小首を傾げていた。

 何もかもがソラとは違うくせに、その動作だけはソラとよく似ていることがまたクラピカを苛立たせた。

 

「あぁ、わかった。緋の眼を渡したら、私は彼女を連れてホテルに戻るからボスを頼む。……すまない。恩に着る」

 

 とりあえず、脱走した彼女をボスにどう誤魔化してホテルに連れ戻すかの簡単な打合せを終わらせて通話を切ったクラピカが、やはりバックミラー越しに相手を……「カルナ」を睨み付けて訊いた。

 

「……もう一度訊く。ソラは無事なんだな」

 

 初めにあの脱力物の自己紹介で生まれた困惑と混乱を何とかねじ伏せてから、真っ先に尋ねたことをもう一度確認する。

 

「あぁ。もう心配はない。

 マスターに代わればまた熱は出すだろうが、それは単純に疲労と魔力(オーラ)の消費が激しかったからだ。前ほど熱は上がらない。十分な休息を取りさえすれば問題なく回復するだろう」

 

 答えてから、カルナは心の底から悔やむような顔で「……しかし、マスターの負担を少しでも減らしたくてこの体を使わせてもらったのに、結局は何かしら負担をかけているオレはサーヴァント失格だな」と自嘲した。

 その自嘲に、クラピカは即答する。

 

「負担をかけたことを悔やむより、まず先にそんな恰好で出歩いたことを悔やんで反省しろ!!」

「言われるまでもなくしている」

「私が言わなければ気づかなかった奴が何を言う!?」

 

 車の中でキレて叫びながら、クラピカは思い出してしまったソラの格好、ホテルの備え付けだった薄くて白い……つまりは色々と透けるパジャマ姿を頭から追い払う為に一度ハンドルに額を打ち付けるように突っ伏し、顔の熱が下がるまでしばしそのまま突っ伏し続ける。

 

 冷静に考えたら、「男」の人格であるカルナにそこらへんの気づかいを求めるのは贅沢なのかもしれないが、それでもたとえここに来るまで“絶”で誰も気付いていない、認識できていなかったとしても、カルナはソラに土下座すべき恰好で出歩いたことをクラピカは許すつもりはなかった。

 

 一応、クラピカが気付いてとっさに自分が着ていたケープを羽織らせて指摘したら、彼は顔を真っ青にさせて「……マスターに申し訳ないことをした。どう償うべきだろうか?」と言っていたので、彼女が語っていたカルナという人物像からして反省は嘘ではないことくらい信用している。

 

 だが、「何故気付かなかった?」と尋ねれば、真顔で「マスターの胸がささやかで、女性の体を使っているとはあまり思えなかったからだろうな」と言い出した時は、頭痛がしてきた頭を抱えて「殴りたい」と心底思った。というか、彼はソラに殴られるべきだ。

 

 まだほとんど会話など交わしていないので、ソラが言っていた通り善人どころか聖人じみた相手かどうかまでは今のところはまだわからないが、しかしもう一つソラが言っていたカルナという英霊の人物像、訳の分からない天然であることだけは、その短くて少ない会話で知りたくなかったのに嫌になる程理解してしまった。

 

 クラピカは本気で、よくソラは彼相手にコミュニケーションが取れたなと感心しながら車を発進させる。

 車を走らせながら、カルナから話を聞いた。

 

「……色々訊きたいことはあるのだが、いいか?」

「構わん。お前にはその権利がある」

 

 断られても引く気はなかったが、カルナはあっさりと了承する。

 そういえば、「頼まれたことはマスター以外から言われたことでも基本的に断らない」と、ソラがまさしく「施しの英雄」と呼ばれる所以を語っていたことを思い出し、クラピカは頭の中で自分が知るべき情報を整理してから、まずは根本的なことを尋ねた。

 

「そもそも、サーヴァントであるお前が何故まだソラと契約してるんだ?

 英霊、特にお前のような半神という位の高い者は聖杯のバックアップがなければ、到底呼び出せも維持も出来るものではないと聞いたが?」

「それは答えられん」

「……私には知る権利があるのではなかったのか?」

「あぁ。だが、オレ自身も何故このような状態になっているのかはほとんどわかっていない。

 だからお前に知る権利があり、オレに語る義務があっても、申し訳ないが答える事が出来ん」

「それを最初に言え!!」

 

 が、相手は「施しの英雄」である以前にコミュ障すぎた。

 ソラは「言葉が足りない」と彼を語っていたが、クラピカの印象としてはそもそもカルナは言葉のチョイスがおかしい。何故、「悪いがオレもわかっていない」がまず先に出てこないんだ? と激しく脳内で突っ込みながらも、時間が惜しいので「……なるほど。期待させると悪いと思ってまずは無理だと語ったが、確かにそちらの方がスマートだったな」と今更な学習をしているカルナに頭を痛ませながら、次の質問に移る。

 

「……もういい。次の質問だ。

 ……カルナ。お前の人格が表層に出て、お前がソラの体を使うことに何かデメリットやリスクはあるのか?」

「ある」

 

 どこまでも質問された事柄に対してストレートに、シンプルに答えるカルナにクラピカはさらに苛立つ。

 この苛立ちに関しては八つ当たりのようなものであることを自覚しながら、それでもこらえきれない感情はハンドルを強く握ることで何とか発露して、「具体的には?」とさらに答えを促した。

 

 クラピカに促され、カルナは淡々とヒソカやイルミに語ったように、「自分(カルナ)の人格がソラを食いつぶす」というリスクを語る。

 

 カルナが語れば語るほど、クラピカがそのリスクを理解するほどさらに苛立ちが募った。

 わかっている。カルナは悪くない。

 カルナは自分の意志でソラに取り憑いているのではない。むしろ彼は、ソラのことばかり心配している。確かな自我を持ちながら、その自我をずっとソラの中で眠らせておかねばならないことに不満など懐いていない。ソラの体を奪い取ろうなんて思惑はどこにもないことが、その淡々としていながらバックミラー越しだがあまりに真っ直ぐに見据える二色の眼が真摯に伝えている。

 

 この苛立ちは、完全に理不尽な八つ当たりであることなんてわかっている。

 そのリスクが、カルナの所為ではなく自分の所為であることだって、本当はわかっている。

 

「……それだけリスクを理解していながら、何故、今お前は『ここ』にいるんだ?」

「……問いかけに疑問で返して悪いが、その問いに何の意味がある? お前がオレに求めている答えは、振り上げた拳のぶつけどころか? それとも、お前自身を罰する言葉か?」

 

 自分を見る真っ直ぐな眼が、節穴なんかじゃないことを思い知らされる。

 嘘発見器に使えるくらいに洞察力があり、人の心を見透かしているともソラが語っていたことを思い出し、クラピカは舌打ちしてやや乱暴にハンドルを切る。

 

 相手の心を、本音を見透かしていながら、なのにクラピカが何故苛立っているのかはわかっていないのか、わかった上でそれを無視しているのか、ソラの顔でありながら別人に見えるほど涼やかな無表情からは、何も読み取れなかった。

 無表情でカルナは、クラピカの答えを待たずに彼からの問いに答える。

 

「悪いが、オレが与えられるのはただの事実だ。

 オレがマスターへのリスクを承知でここにいるのは、オレが表に出た方がよほどマシな状態にマスターが陥っていたからだ。マスターは『直死の魔眼』の精度を、限界近く……もしくは限界を超えていたかのかもしれんな。とにかく精度を上げ過ぎて、『死』に触れすぎたせいで、この身に通ずる『 』へとマスターが沈みかけていた。

 

 マスターは必死で抵抗して浮上しようとしていたんだがな、同時に彼女は力を欲していた。今すぐに動き、そしてあらゆる敵が現れようが打ち勝てるような力を。

 だから、彼女は何よりも恐れているからこそ逃げ出そうと浮上しようと足掻いていながら、同時にあの『 』からそんな自分が求める力を欲して得ようとしていた。浮上しようともがきながら、さらに深く沈もうという矛盾をずっと続けていたからこそ、あの高熱だ。

 

 精神(ソフトウェア)に合わぬスペックを肉体(ハードウェア)に求め、無理に起動させようとした結果、ショートを起こしていたという所だな。

 ゆえにオレが、マスターが望むハードを動かすためのソフトの役割を請け負った。マスターが真に望んだほど有能ではないが、少なくともあのまま自らの精神も肉体も焼き尽くしかねない、無謀どころか自殺志願であった方が、よほど救われるあがきをし続けるよりはマシだと判断した」

 

 わかっていたが口下手なカルナの説明では、ヒソカやイルミと違って魔術等に関しての知識がそれなりにあるクラピカでも、大半が意味不明だった。

 しかし多少はある知識が、「 」に通ずる体だの何だのという、意味は分からないがかなり不穏な言葉であることだけは感じ取って、眉間に深い皺を寄せる。

 

 どういう意味だとさらに問いただしたい。

 が、言葉は出てこなかった。

 ほとんど意味は分からなかったのに、たった一つだけわかった意味が、またクラピカを責め立てたから、何も言えやしなかった。

 

 だから、クラピカは逃げた。

 直視できぬものから逃げるように、彼は「……もういい」と話を打ち切った。

 

「……もういい。もう、何も訊きたいことはない。だから、カルナ。お前は戻ってその体をソラに返せ」

 

 訊きたいことがもうないなど、カルナでなくともわかるあまりに白々しい欺瞞。

 どうやってここまで来たのか、ここに来るまで何かあったのか、聞きたいことなどむしろ山のようにあったが、その何もかもから耳を塞ぐことをクラピカは選ぶ。

 

 暗殺チームに入れと言われた時と同じ、意味のない時間稼ぎでしかないこともわかっている。

 だけど、まだ今は聞きたくなかった。覚悟を決められなかった。

 

「それは出来ん」

 

 しかし、そんなクラピカのあまりに身勝手で情けない弱音は当然、誇り高き戦士(クシャトリヤ)が許さない。

 カルナは、相変わらず鏡越しでまっすぐにクラピカを見据えて言った。

 

「オレはまだ、お前を助けるというマスターの『願い』を叶えていない」

 

 カルナは許しはしなかった。

 しかしそれは戦士(クシャトリヤ)としてはなく、ソラのサーヴァントとしてだった。

 

 * * *

 

 一番、今は聞きたくなかった言葉をはっきりと、その眼と同じくらい真っ直ぐに言い放たれて、クラピカは刺されたような悲痛な顔になる。

 

 わかっていた。

 カルナがどうしてここに、ホテルから脱走して自分の前に現れたのかなんて聞くまでもない。

 

 ……ソラがどうして、逃げ出したはずの「 」から何かを、力を欲したのかなど、初めから考えるまでもなかったこと。

 

 全部、自分の所為であることなんて初めからわかっていた。

 

 彼女があそこまで、いつ呼吸が途絶えてもおかしくない程に苦しんでいたのも。

 それよりはマシとはいえ、あまりに危ういリスクを負ってここにやって来たのかも。

 

 何もしないで、何も選ばないで、何の覚悟も決められなかった自分の代わりに彼女が、どれほど傷ついてもクラピカに未来を、幸福を与えようとしてくれていたことなんて、わかっている。

 

 だからこそ、クラピカはそれを直視することは出来ない。

 何も出来ていない、罪悪感ばかりを抱え込んだクラピカにとって、ソラの狂気であり同時に最後の拠り所である人間性はあまりに眩くて、尊すぎた。

 

 ソラのしていることが、してくれることが、与えてくれるものがいつだって、クラピカにとって心から望んでいたものばかりだからこそ、与えられてばかりで何も返せない自分に罪悪感と劣等感、そして無力感を懐かせて余計に卑屈になる。

 そしてそれは自分の弱さの言い訳にソラを使っているだけであることもわかっているからこそ、自己嫌悪はループし続けるのに、同時に今のクラピカにはさらに理不尽で、そして汚い負の感情が胸の内にわだかまっている。

 

(……私は結局、ソラに『助けて』と言ってもらえる立場ではなく、いつまでも『助ける』存在でしかないのか)

 

 それは、嫉妬。

 誰よりも何よりも守りたい人を守れないという現実を突き付けられたクラピカにとって、カルナの存在はリスクのあるなしなど関係なく忌々しくて、妬ましい存在。

 

 英霊、それも半神という規格外の存在なのだから比べる方がおかしいというのも、理屈では分かっている。だから、話に聞いていた時は「ちょっと気に入らない」程度で済んだ。

 ……話に聞いていた時で既に「ちょっと気に入らない」のなら、目の当りにしたら感情が押さえつけないのは当然の成り行き。

 

 理屈では努力や才能以前の問題で比べられるものではないとわかっていても、感情が逆恨みを吐き散らす。

 

 ソラに守られてばかりで頼りにされていない自分に、ソラに頼りにされて、ソラを助ける立場であることを見せつけているように思うのは、被害妄想どころかただのいちゃもん付けであることも自覚している。

 だからこそ、クラピカは逃げるしかない。

 

 これ以上、みじめな思いをしたくなかった。

 自分がなりたい理想そのものの位置にいる、ソラの信頼を勝ち取っているカルナが妬ましくて羨ましくて憎いという感情を爆発させないためにも、クラピカはその事実から目を逸らす。

 

「……もう十分に助けられた。お前が現れていなけれが私は自棄を起こして、あの男を殺していただろうし、あの男の銃弾からもお前は守ってくれただろう。

 それに、正直言ってソラではなくお前を連れ帰ると面倒事しか起こらなくて、悪いが迷惑だ。今のうちにソラに替わってくれ」

「面倒なのも迷惑なのも事実だろうが、それはオレに消えて欲しい理由の真意ではないな」

 

 しかしいくらクラピカが目を逸らしても、カルナはクラピカの眼前にその逃げ出したいもの、見たくないものを突き付ける。

 自分の抱えるカルナに対する負の感情は全て、逆恨みや嫉妬といったカルナには非が一切ないものであることをわかっているからこそ、彼にぶつけたくないというクラピカの精一杯の誠意を、相手はとことん無駄にして、クラピカの神経を逆撫でする。

 

 苛立ちは治まるどころか激しくなってゆき、自棄になってクラピカはどんどん運転を荒くさせながら「じゃあ、一体お前は私をどう助けてくれるというんだ!!」と怒鳴りつけた。

 

 しかしノストラード組所有の高級車なので平均よりかなり広いが、それでも車内という狭い密室の中で怒鳴られてもカルナは一切動じず、彼は中空を猫のように眺めてから顎に手をやって、思案しながら言い出した。

 

「あぁ。実はそれが一番の問題だ。マスターに申し訳ないが、オレにはお前を救う手立ては全く思い浮かばない」

 

 その返答で爆発しかけていた怒気が一気に抜けたと同時に、余計にイラッときた。

 どこまでもマイペースを崩さないこの精神性は割と本気で羨ましいと思いながら、「……なら、諦めて帰れ」と脱力し切った声で言う。

 

 しかしこのサーヴァント、「施しの英雄」と呼ばれるだけあり、基本的に自分の不利益になっても他者の為に行動する聖人そのものだが、それでもやはり相反する頼みごとをされた場合、どちらの乞われた頼みを聞くかという優先順位くらいはある。

 そしてもちろん、サーヴァントという立場から彼の優先順位第一位は、絶対に揺るぎはしない。

 

「だから、それは出来んと言っているだろう」

 

 クラピカの要望を一切考慮する気はなく、カルナは後部座席で即答する。

 相手の本音を見透かすくせに、心境や心労に全く気付いてくれないカルナに、また先ほどまでとは別の意味で苛々してくるが、今度はクラピカの逆恨みでも嫉妬でもなく、カルナの自業自得による負の感情と印象なので、変な話だが先ほどまでより気は楽だった。

 

 けれどこのサーヴァントはソラに「死因はぐう聖すぎたのと、あとコミュ障も要因としてかなりでかい」と言われるだけあって、本当にどこまでも空気を読まないマイペースだ。

 

「しかし、確かにこのままではマスターやお前に迷惑をかけるだけだな。

 ……仕方がない。マスターの願いを少し妥協させてもらうとするか」

 

 部分的には意味不明な頑固さを見せるが、基本はむしろ我欲がなさすぎて心配になるほど他者を優先する性格な為、クラピカの先ほどの言葉は真意を隠すための言い訳と気付きながらも、人格が自分のまま戻れば説明が面倒であることを正しく理解しているカルナは、何やら独り言を呟いて結論を出した。

 

 そしてこのソラよりもはるかに言動が斜め上にかっ飛んでいるカルナの結論が、色んな意味でクラピカには恐ろしすぎたので、クラピカはバックミラー越しに若干青ざめた顔色で、「お前は私に何をする気だ?」と尋ねる。

 

「そうだな。まずは、ただの確認だ」

 

 相手の問いに相変わらずシンプルに答えてカルナは、少しだけ後部座席から身を乗り出してクラピカにその「確認」をする。

 

「クラピカ。お前はソラ(マスター)の死を望んでいるか?」

 

 * * *

 

 事故らなかったのは奇跡的だ。

 カルナの言葉を聞いて、彼が何を言ったのかを理解した瞬間、ハンドルから手を離してシートベルトも引きちぎって振り返って身を乗り出し、相手に掴みかからなかったのは、それを言い放ったのは別人でもその体は、誰よりも何よりも、無力であっても、結果として傷つけてばかりであっても、それでも心から守りたい人だったから。

 

 カルナの言葉とは、対極の望みを懐く人だから。

 

 だから、かろうじて残った冷静さとは違う、ただ彼女を危険な目に合わせられないの一心で車線変更して車の流れから抜け出し、路上の端に一端止める。

 それから何とか、怒りのあまりに乱れた呼吸を整えようと、胸を押さえて深呼吸をクラピカは繰り返すが、相変わらず行儀よく後部座席に座っているカルナがのうのうと、「大丈夫か?」と尋ねてきたことで、それは無意味だと悟る。

 

 シートベルトを外して向き直り、カルナに着せた自分のケープの首元を掴んで引き寄せて、クラピカは緋色に染まった両目で、ようやくカルナの眼を真正面から見返して言った。

 

「……貴様は、本気でそれを訊いているのか? それは、今更確認すべきことなのか?

 貴様にはオレが彼女の死を望んでいるように見えているのか!? あんなに壊れて、何もかも失って、今も傷ついて失い続けているのに、それでも生きる彼女の死を!?」

 

 体がソラのものであることを忘れているような剣幕と力加減で引き寄せたが、殴らないだけクラピカはちゃんとその体の持ち主には責任がないことはわかっている。

 だからこそ、許せなかった。

 

「それとも、それは貴様の望みか!?

 彼女にこんなにも辛い、いつかは逃げられずに落ちるしかないとわかりきった生など諦めて、死んで楽になれと言いたいのか!? オレにそう言わせたいから訊いたのか!?」

 

 彼女が頼るという自分が一番なりたい人間に、いたい場所にいながら、彼女の望みを叶えてやろうとしない発言にしか聞こえなかった。

 自分を助けることなんかどうでもいい。だけど、ソラのその願いだけは誰であっても見捨てることを、諦めることをクラピカは許さない。

 

 だって、その願いが、その悪あがきが彼女と自分を引き合わせたものだから。

 だから絶対に、許さない。

 

「……すまん、クラピカ。俺は本当に言葉が足りないようだな。

 この問いでは、そう返す以外何もないに決まっているな。お前が怒るのは当然だ。言い直そう」

 

 しかし、クラピカの憤怒も胸倉を掴まれていることもカルナは全く気にした様子を見せず、わかりきったことを謝りだし、そして相変わらずマイペースに彼はクラピカの怒りで燃え盛る業火のような眼を見返し、もう一度問う。

 

「クラピカ。お前はもし仮にマスターが死を望んだ場合、お前も望むのか?」

 

 何かを言いかけたクラピカの口から、声は出なかった。

 緋色の眼を見開き、言葉を失っている。

 

「……これは、彼女を知っていれば有り得ぬ仮定の話だ。

 だが、彼女の境遇を考えれば、決してありえない仮定ではない。むしろ今のマスター自身の方が、有り得ぬ存在であることくらい理解できるだろう?」

 

 カルナに何を言われても、ソラの死をクラピカが望める訳がない。

 だから、どんな言葉を足されようが修正されようが、「ソラの死を望むか?」という問いが根本になるのなら、結局答えは変わらない。

 

「マスターの眼は、眼そのものに異能が宿っているのではなく、脳が『死』を知覚して視覚情報として捉えている。だから、オレが肉体の主導権を得ると魔眼は効能をなくす。オレはマスター程、『死』を知覚出来てないからだ。

 ……わかるか? 戦士(クシャトリヤ)として戦い続け、数多の命を奪い、死を見てきた、そして死んだオレでも、死を経験したオレですら知覚できていない『死』を常日頃、彼女はその視界に突き付けられている。

 自分自身も、愛する者も、世界ですら彼女は『いつか終わる』ということを忘れさせてはもらえず、時間稼ぎに足掻き抜くしか出来ていない生を、幸福だと言えるか? 幸福だと語る彼女の笑みを、痛々しいと思わないか?

 

 けれど、それはいい。どれほど痛々しくとも、彼女本人が心から幸せだと言えるのであれば、そこに余人が口出しするのは無粋だ。

 ……だが、本人が幸せだと言わなくなれば、マスターが自分の意志で死を望み、終わらせることを望んだ場合、クラピカ、お前はどうする?」

 

 幸か不幸かなど、人それぞれだ。けれど、どう見ても幸福だとは言えない生き方だってある。

 カルナ自身の生も、彼自身は生前もサーヴァントになってからも絶え間ない幸運に恵まれていると言い切る、ドン引くレベルでハイパーポジティブだが、傍から見れば与えるだけ与えたのに、奪われるだけ奪われて、そして何も残らなかった、何も報われなかった悲劇でしかない。

 

 カルナのように、本人が満足しているのであればそれでいいだろう。

 心から相手を想っての行動であっても、その行動による結果を幸福に思えないのなら、それは無駄な努力、独りよがりな愛情でしかないのだから。

 

 けれど、……本人もその今まで幸福だと感じていた現状を何かの間違いで、もしくは正しさを取り戻してしまった所為で、それが不幸だと反転してしまったら。

 

 ソラがもしも、「死にたい」と望んだら。

 終わることを望んだら。悪あがきを続けること、諦めてしまったら。

 

 その時、クラピカが望むことは――

 

「…………お……れ……は……………………」

 

 カルナの首元を掴んでいた手は、もう縋り付くと言った方が正確なほど力が抜けている。

 両目の赫以外、顔色からは血の気が引いている。

 

 絞り出すように声を出したが、後が続かない。

 答えが出ないのではない。

 答えは決まっている。それ以外にない。ありはしない。だからこそ、クラピカは――

 

「……そこまで己を責めるな。案ずるな。その答えが罪深いのなら、オレも同罪だ」

 

 答えなど、言う必要がなかった。

 カルナは自分で言ったように、クラピカがどう答えるかなどわかっていた。これは本当に、今更な確認の言葉。

 これから語る話の、ただの前提。

 

 答えなど、決まりきっている。

 

「オレも、同じだ。

 例えマスターが望んでも、それしかもうマスターが楽になることも、幸福になる手段がなかったとしても、オレはマスターの死など望めない。サーヴァントとしてあるまじき、傲慢な願いだとはわかっているが、それでもオレはどれほど傷ついても、苦しんでも、マスターには生きていて欲しいとしか思えない」

 

 クラピカの代わりに、カルナが答える。

 

 そう。

 ソラ自身が望んでいようがいまいが関係なく、決して変わらない、変えることが出来ない願い。

 あれほど苦しんでいる所を見ても、死んだ方がいっそ楽ではないかと思っても、絶対に「それだけは嫌だ」と拒絶したもの。

 

 あまりにも身勝手な、願い。

 誰よりも何よりも大切な人だからこそ願ってしまう、その大切な人を一番ないがしろにする最低な望み。

 

 そんな望みが、願いが、クラピカの胸の内に常にある。

 

 だから、クラピカは

 

 決して、なれない。

 

「……クラピカ。オレでは、マスターの願いは叶えられない。オレでは、お前を救えない」

 

 縋り付くようなクラピカの手に、令呪が刻まれた右手を重ねて握り、カルナは告げる。

 自分が、ソラの願いを叶えられない理由。

 クラピカが決して救われない理由を、静かに語る。

 

 ……それも、今更な話だが。

 クラピカは、言われなくても知っている。

 

 自分は救われない。

 カルナが自分を救うなんて、有り得ない。

 

 だってクラピカは、彼女さえいれば、ソラさえいればクラピカは……

 

 

 

 

 

「お前は初めから救われている。

 お前は、マスターが生きてさえいればそれだけで幸せなのだから、オレの救う余地などどこにもない。

 

 そして同時に、その救済がお前を不幸にしている。

 お前が救われないのは、己を救うソラ(マスター)がどれほど傷ついても生きている限り、彼女が不幸になっても生きてさえいれば幸福だと思える自分自身に対する嫌悪感と、自分だけが幸福である罪悪感によって、お前はマスターに与えられたものと同等の幸福を返すことが出来ないのならば、せめて同等に不幸になるべきだと思っているからこそ、お前は救われないのだ。クラピカ」


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