8月28日、午前12時25分。
26歳の彼は会社内、時刻は昼休みの時間になろうとしている時、ホットタオルを目の上に被せて、3時間くらいぶっ通しでブルーライトの光を浴びていた目の保養をしていた。
この時間にこうして休み、昔を懐かしむ。そんなことが彼の毎日の日課となったのは、入社して1年ほど経った時からだ。その時の上司に勧められるがまま、内心なんでこんなことやらなきゃいけねぇんだ。と思いながらやった結果、思いのほか気に入ってしまったのが、そもそもの元凶である。それ以来、この部署に配属された者はみな、こうすることが暗黙の了解になっている……という状態ができていたらいいのだが、実際にやっているのは上司と彼の二人だけである。
そして彼は今日も過去を振り返る。
ああ、それはもう何度も後悔していることだ。
今となっては、取り戻すことのできない。遠い遠い昔の記憶。
少女は唐突に言った。
『私ね、好きな人がいるんだ』
それは彼の幼なじみで、密かに思っていた女の子だった。
そんな子からそれを言われたのは彼らがまだ小学三年生で、まだ彼が自分の気持ちに気づいてなかった頃、そして彼の家だったという記憶がある。
だからそんなことを言われた時に彼が感じたことは、静かに自分の鼓動が跳ねあがることくらいだった。
「えー、マジで? だれだれ?」
「うーーん。じゃあ『さ』で始まって……『ご』で終わる人」
そう言うと、彼女はいたずらな笑みを浮かべた。心なしか、少し頬が紅潮したような気がする。
「『さ』で始まって『ご』ぉ?」
「うん。さで始まってごで終わる人」
彼は頭をポリポリ掻いた。
「えー、全然わからん。誰なのか教えて」
彼女はそう言われて困ったように人差し指で唇を触った後に、少し悩んでからちょっと寂しそうな表情をした。しかしそれは一瞬のことで、当時の彼にはわからなかった。すぐに彼女は笑ってこう言う。
「二組の佐伯一護君」
「えぇッ!? あの頭坊主の!?」
彼は目を見開いてそう言った。
「いやぁ、ちょっとびっくりしたな。お前があいつのこと好きなんて」
彼は目を丸くしてそう言った。彼女は困ったような顔を、笑って強引に打ち消した。
たぶん、それが彼が今まで歩んできた人生の中で最も後悔していることだ。
彼は大きくため息を吐く。
今となってはあの時の自分がバカみたいに思えてくる。あの時の彼女の反応はわかりづらかったが、よく考えれば……もしかしたら1パーセントくらいは……だって俺もさで始まってごで終わるし。この間同窓会で会ったら相変わらずめちゃくちゃ美人だったし。
その時、彼のポケットに入れてあったケータイが振動した。仕事中だからマナーモードに設定してあるのだ。
無視してもよかったのだが、なぜだか彼の手は自然とポケットの中のケータイを掴み、そしてホットタオルを目の上に乗っけたまま電話に出た。
「へいへ~い。もしもし」
気だるそうな声で電話に出たその声は、普通に彼の人間性を表すものだ。普段は真面目なくせにどこかいい加減というか、めんどくさがりやというか……。
『あ、もしもし。……えっと、楠だけど……』
それは自分と腐れ縁の仲の奴からの電話だった。確か仕事は自衛官。
彼はホットタオルを机の上にポイすると、そのまま立ち上がり、廊下へと出る。
「おぉ~、どした? 今仕事中なんだが……てかお前も仕事中なんじゃねぇの?」
ちなみに仕事中(笑)である。本人もそれは認めていることだろう。
『いや、今日は休みもらったんだ。……それでお願いなんだけど、今からスタバ来てくれない?』
スタバ? 俺コーヒー飲めないんだよなぁ。などと思いつつも、腐れ縁の仲からのお願いということもあって、彼はしぶしぶOKを出した。するとスタバがどこのスタバなのかを言われ、電話はすぐにきられた。
彼は廊下から部署に少し顔を覗かせて「昼飯行ってきまーす」とだけ言うと、明らかに同じ部署の奴らが不満そうな表情をしてこっちを睨んできたが、そんなこと今さら気にすることではない。
彼は足早に近場のエレベーターのボタンを押した。
この先に待ち受ける運命を知らずに。
8月28日、午前12時36分。
楠は、スタバに着くとすぐにショルダーバッグの中身を確認した。
――よし、ちゃんと入ってる。
彼の視界の中に映ったそれは、見る人が見れば子どもの玩具にしか見えないひどく子ども染みたものにしか見えないだろう。しかし一見して玩具の銃のようなそれは、どこか神秘的というか、力を感じる。
これは彼が最も信頼する親友に託す、これからに備えて彼のできる限界で用意した物だ。
果たしてこれが自分以外に使えるかなんてわからないが、あいつならきっと大丈夫だ。
彼はそう思って、ショルダーバッグのチャックを閉めた。すると、今日までずっと働き続けた疲れがどばっと沸いてきて、意識を刈り取ろうとする。
寝てはいけないと思っていた。これから最悪がこの町を襲う。いざというときに寝てましたでは洒落にならない出来事が起こってしまうんだ。
寝てはいけない。
しかし、彼の思いも空しく、眠気は相当強くて彼の意識は第二次大戦中に沈みゆく艦艇のように、止まることなく、深い深い海の底へと沈んでいった。
※この作品はフィクションです。実在する人物、団体とは一切関係ありません