欧米の外資系の会社にとって、それは悪夢の始まりだった。
謎の敵性体群による電波障害、航空機船舶の撃墜拿捕など。
突然、海外との輸出入がまともに出来なくなってしまった。
軍隊が出動したようだが、どうなったのかよくわからない。
体力のある大企業では即時倒産までいく会社が殆ど無かったけれども、個人輸入事業者で破産近くまで追い込まれたところは少なくなかった。
私が勤める商業施設内の珈琲店はアメリカに本拠を置く外資系だから、混乱はかなり激しかった。
他店からも、当店へ電話がかかってくる。
しかしながら、なんとも答えようがない。
東京本店統括部へ何度も何度も何度も何度も電話をかける店長。
繋がらない。
メールやファックスもじゃんじゃん流していたが、返事は全然返ってこなかった。
本店は我々に輪をかけて滅茶苦茶な状況なのだろう。
都会の個人事業主の中には、輸入品を早速値上げしている人もいるようだ。
流石、したたかな人は考え方が違う。
店への問い合わせが殺到した。
年輩のお客さんが随分沢山買ったのでいぶかしく思ったら、店で一番よい豆中心に高いものをごっそり買った彼はこう言った。
「お嬢ちゃん、これから大変な時代が来るよ。満州を思い出すねえ。大陸の人はね、戦争が近づくと地面に穴を掘って米を埋めるんだ。」
ハイカラなお爺ちゃんはそう言いつつ、矍鑠(かくしゃく)とした歩きぶりで店を出ていった。
これから舶来品の高級万年筆を買うのさ、と言いながら。
不意に、万年筆でも買っておこうかという気分になった。
その日の午後。
年輩のお客さんが多く訪れ、高い豆からどんどん売れる。
その日の夕方頃に、豆を求めて殺到するお客さんの群れ。
在庫がヤバい。
店長に在庫の件について聞いてみたが、売れるものは兎に角売れとの指示で私たちはあるものを売っていった。
売り渋りは絶対するなと厳命を受ける。
ただし、数量限定で対応するようにと。
こないだはもっと買えたのにと怒るお客さんたちをなんとか宥めた。
以前から店長の方針で比較的在庫が多かったのだが、心細くなる程珈琲豆の量が減ってゆく。
本店は混乱から立ち直りつつあるようで、朝令暮改ながらも毎日指令を送ってきた。
他の店舗では悲鳴を上げているところもあり、私も他店の友人から回してもらえないかと懇願された。
店長に訳を話し、渋る彼を説得してなんとか在庫を融通する。
新しい豆はまだ入ってこないのであった。
日本全国各地の店舗で同様の事態らしい。
既に無期限休業に突入した店舗さえある。
全国一二〇〇店舗近くある外資系珈琲店。
鳥取県と島根県を制覇したら全国統一だ。
その目標に向かって邁進していたのにな。
無理な経営が祟り、傾く同業他社もある。
嗚呼、こんな時に郭嘉がいてくれたなら。
海外との交易が停止し、連絡が取れなくなってからおよそ三ヵ月。
都内約三〇〇店舗の内、半数以上が無期限休業に入った。
東京本店統括部では倉庫にあった備蓄豆を大型店舗限定で回したが、それでも逼迫する状況に対する有効打とは成り得ない。
よその会社と折衝してオリジナルブレンドにして販売する方策が立てられ、僅かな期間の限定商品として販売したが即時完売した。
お一人様一点限定だったが、それでもあっという間に売り切れる。
窮余の一策として、東京本店統括部は日本の店舗限定で日本製マグカップや代用珈琲や日本紅茶などの販売開始を決定した。
印象商法によって日本製を強く打ち出し、いずれ回復してもらいたい海外交易復活までの繋ぎにするつもりだそうだ。
海外産の珈琲など、現在はどこかの目敏い企業が秘匿しているか家庭の冷凍庫に眠っているくらいだろう。
私の勤め先も既に在庫切れだった。
缶コーヒーなどはネット上にて高額で取り引きされ、マックスコーヒーも例外ではなかった。
莫大な量が世界的に流通していたのだと改めて知る。
幸い、代用珈琲は文句を言われつつも多くのお客さんに受け入れられ、段々定着してゆくのだった。
それにしても、駐車場に停まる車が少なくなった。
商業施設内の店舗が幾つも変わり、勤め先の珈琲店の経営が微妙に怪しくなった頃、艦娘と呼ばれる女の子たちが颯爽と現れた。
それはまるで、正義の味方のようだ。
彼女たちならば、敵性体にも対抗出来るそうだ。
私の住む、この港町でも彼女たちの存在は噂になる。
敵性体勢力は正式に深海棲艦と名付けられ、首相が熱弁を振るった。
これで輸入が順次再開出来るようになると。
彼女たちの勢いは強く、出現した次の年には台湾やヴェトナムやインドネシアなどとの交易が途切れ途切れながらもそれなりに復活した。
ちなみに、珈琲豆の買い付けはまさに戦争状態だったようだ。
売りたい側と買いたい側の攻防戦は熾烈を極め、合意に達するまでが激戦だったらしい。
店でもようやく、高いながらも海外産珈琲を扱えるようになった。
扱う珈琲が代用品になっても通ってくれている常連のお爺ちゃんが、久々の珈琲を飲んでこう言った。
「日本人はね、贅沢になり過ぎたんだよ。代用珈琲だって、慣れたらそんなに悪くはないさ。欧米にも代用珈琲を進んで飲む人は一定数いるしね。」
一杯一〇八〇円で販売された珈琲は存外普通に受け入れられ売れた。
二回目五四〇円でも、お客さんたちは喜んで水筒を差し出してきた。
なんだか戦後の風景みたいだなあ、とお爺ちゃんは何気なく呟いた。
……戦後に早くなるといいなあ。
今は戦争中なの?
…………。
戦争中なんだね。
実感が伴わないのはなんとなくこわい。
私たちは今どこにいて、どこへ向かっているんだろう?
平和に見えるセカイが実は仮初めのセカイであって、本当は……。
この港町に鎮守府が出来ると聞いたのは、まだ肌寒い春先のことだった。
北の国ではまだまだ暖房がいるくらいの天気だ。
札幌や旭川などではまだ雪が降っている。
商業施設内の暖炉は飾りだけでなく、実用品も兼ねていた。
苦難の時期を共に乗りきった若手の女の子と、休憩時間にどんな提督が来るのかを想像しあう。
威勢のいい彼女は面倒見もよく、判断力も確かだ。
それに意外と艦娘関係では事情通っぽい。
マニアなのかな?
「冴えないおっさんが店長……じゃない、提督になるって聞いたよ、姉御。」
ま、確かにうちの店長はあまり冴えない外見だ。それなりにやり手なんだけどね。
何故か私を『姉御』扱いする彼女のせいで、私のあだ名は今や『姉御』だ。
最近は、店長まで私を『姉御』呼びする。
「とんでもない女たらしだともっぱらの噂って聞いたけどさ、艦娘にちょっかい出してすぐに辞めさせられるんじゃないの? あはは。」
豪快に笑う彼女。
ショートカットの髪と豊かな胸が揺れる。
大きいなあ。
少しくれ。
「しっかし、客もあたしの胸ばっか見てんじゃなくてメニューを見ろって感じですよ、姉御。」
「まあ、そうなるな。」
「それ、知り合いの口癖っす。」
もう少ししたら、暖かくなるだろう。
珈琲豆の流通もましになるだろうな。
艦娘の子たちが店に来てくれるといいなあ、と思いつつ黒いエプロンを再装備して店頭で笑顔を振りまく準備に入った。