リリアンでも一二を争うほどに背が高い、まるで少年のような容姿をした少女。
彼女と同じか、それ以上に背が高い生徒は片手の指で数えられるほどしかいないし、何より彼女自身が構内では非常な有名人であることもあって、遠目であっても姿を目にすれば誰であるのか簡単に見分けがつくだろう。
黄薔薇の妹である令は、授業を終えるといつものように薔薇の館に足を踏み入れる。
普段ならば一緒に来ることの多い彼女の妹の由乃は今日は家の事情で先に帰っており、彼女は珍しく一人でここを訪れていた。
ほとんどのリリアン生にとって、三薔薇さまがおわせられる薔薇の館は恐れ多くておいそれとは近寄りがたい場所だったけれど、姉からロザリオを受け取って一年以上も過ぎればもう慣れたもの。
躊躇せずに足を踏み入れることができるのも、日常的にここを訪れる山百合会の一員としての特権のようなものだろう。
同じ量なら脂肪より筋肉の方が重さが多いので、剣道で鍛えられた筋肉質の身体の彼女は山百合会の面々の中で一番体重が多い。
他の住人の時と比べて心なしか大きな音が立ってしまうことを年頃の少女らしく気にしながらも令は階段を上り、その先にある茶色の扉を開け、中に入る。
すると、室内では彼女の姉である江利子が椅子に座り、両腕を枕のようにしながら机に上半身を預けて眠っていた。
他の面々の姿はない。
紅薔薇である蓉子や、白薔薇である聖と同じように、江利子もまた人並み外れた美少女である。
物憂げな表情を浮かべていることの多い普段とは違う、大好きなお姉さまの無防備で穏やかな寝顔。
あまり真面目ではない聖はともかく、生真面目な性格である蓉子や祥子がまだ来ていないことは珍しい。
令は、久々に姉と二人きりであることに少しどきりとしながら、部屋に入ると隣の席に腰を下ろした。
室内には令と江利子しかおらず、その江利子は眠っているので、自分が何か飲みたいのでなければ湯を沸かしに行く必要はない。
いつもの席についた彼女は、座ったことによってより近くで姉の寝顔を目にすることになった。
染み一つない白い肌と、カチューシャをつけたまま眠ったせいでいつも通り露わにされている額。
微笑みかけられる度に見惚れてしまうくらい整った顔立ちは、けれど強い好奇心を宿した瞳が瞼で隠れているだけで、令にいつもと全く違う印象を与えてくる。
もちろん、令が江利子のこんな無防備な姿を目にするのは初めてだ。
見ようとして見られるものではないし、下手をするともう二度と目にすることができないかもしれない光景から、彼女は目が離せなくなる。
「ん……。令、大好きよ……」
「なっ」
令が吸い寄せられるように視線を釘付けにして寝顔を眺めていると、不意に江利子が寝言をこぼす。
彼女は、自分が江利子から妹として大切に思われていることは分かっているが、それを言葉ではっきりと伝えられたことはあまり無い。
寝言であるが、だからこそその内容は意識的による作為のない姉の本音だと捉えることが出来る。
江利子から好きだと言われ、思わず驚きの声を発した令の頬は頭の中でその言葉を反芻するにつれて赤く染まっていく。
もちろん嬉しいのだけれど、普段言われ慣れていない分、いざこうして直接的に伝えられると気恥ずかしさも覚えてしまうのである。
そして、そこでふと彼女は思い至る。
眠っているお姉さまは無防備であり、そしてここには今他に誰もいない。
今なら、思うままどんなこともできてしまうのではないか、と。
「……お姉さま」
令は上側に向いた姉の右耳に顔を近付けて小さく囁いてみるが、それに江利子は反応を見せない。
姉が確かに眠っていることを確認してごくりと息を飲んだ令は、そのまま首を動かして顔を江利子の頬へと近付け、そこにそっと唇を触れさせた。
すぐに唇を離した彼女だが、柔らかな感触はまだ鮮明に残っていて、胸はどきどきと高鳴っていく。
もう、令自身にさえ湧き上がる想いを止めることは不可能だった。
まだ温もりと感触が色濃く残っている唇を、再び江利子の方に近付ける。
今度は薄く開かれた、血色のいい紅い唇に自らの唇を近付けていくと、そっと触れさせるだけだった先ほどとは違い、それなりの強さで押し当てた。
キス。口づけ。接吻。
ただ柔らかいだけだった頬とは違い、柔らかくも弾力のある感触が伝わり、普段読んでいるコスモス文庫の本の中でそういった言葉で表現されている特別な意味を持った行為を自分がしていることを自覚して、既に真っ赤だった令の顔は更なる熱を帯びる。
一方で、かろうじて残っている理性は頭の中で彼女へと警鐘を鳴らす。
眠っている相手にこんなことをしてはいけない。
それも、相手はお姉さまなのに。
お姉さまに勝手にこんなことをする妹は、妹失格だろう。
頭ではそう考え、懸命に自分を抑えようとするが、薄く開いた唇の間から零れる大好きな姉の吐息を感じる度、剣道で培ったはずの彼女の強固な理性はたやすく溶かされていった。
「お姉さま、私も、お慕いしています」
唇をようやく離した彼女は、姉の寝顔を見つめながら呟いた。
令の剣道で鍛えられた女性としてはかなり筋肉質な腕が、江利子の肩に向けて伸ばされていく。
誰か、この腕を止めて。
もしもこの腕がお姉さまの身体に届いてしまったら。
高校生の少女としてかなり長身であり、かつ筋肉質な令が本気で力を込めれば、リリアンに通う少女ではそれに抗うことなどできないだろう。
そして、姉の身体に触れてしまったら、きっともう理性を保つことなどできなくなる。
自らのことをそう客観的に観察しながら、けれども腕を自分では止めることのできない令は、誰かが腕を掴んで止めてくれることを願った。
――その願いが叶えられたかのように、誰かの手が令の手首を掴む。
「おはよう、令」
江利子と令の姉妹以外に誰もいない部屋。
彼女の手首を掴んだのは、眠っていたはずの江利子だった。
「お、お姉さま」
いつの間にか瞼を開けている姉が、令の顔を見上げながら手首を掴んでいる。
二人の目線が正面から重なり合う。
江利子の手にはほとんど力が込められていないにもかかわらず、その気になれば簡単に振り解けるはずの令は腕をそれ以上動かすことができなかった。
黄薔薇さまの貫禄か、彼女を射抜く姉の視線にはそれだけの力があったのである。
深く眠っていると思っていた姉がいきなり起き出したことに、令は動揺を隠せない。
じっと見つめられて、先ほどまでの行為が全て知られているのではないかと、不安と疑念に襲われる。
「私に何をするつもりだったのかしら」
一見穏やかな微笑みを浮かべている江利子。
だが、彼女の鋭い眼光に射抜かれた令は、咄嗟に二の句を返せない。
「ねえ、令。私に口付けをして、身体に触れて、何をするつもりだったの?」
「お、起きていらっしゃったのですか」
「あなたが、この部屋に入ってきた音でね」
それを聞いて、令の心を絶望が支配した。
私が入ってきた時から起きていたということは、私がお姉さまにキスをしたりそれ以上の行為をしようとしたことも知られているということ。
嫌われてしまって当然であるどころか、先生に訴えられてリリアンを退学にされても文句は言えない。
だが、それは道ならぬ感情を抱いてしまった自分が悪いのだ。
令は心中で覚悟を決める。
「申し訳ありません、お姉さま。――いえ、江利子さま。今から退学届けを出してきます。ですから、こんなことをお願いするのは筋違いですが……あの子のことは」
「ちょ、ちょっと待ちなさい、令。あなた、何を言っているの?」
だが、それに慌てたのは江利子である。
妹は蒼ざめた顔で狼狽していたと思うと、突然何かを決意したように顔を上げて椅子から立ち上がり、そう言い出したのだ。
普段余裕たっぷりな彼女が慌ててしまうのも無理はなかった。
「江利子さまはこんなことをする妹などお嫌でしょうし、けじめは自分で着けなくてはいけませんから」
「待ちなさいと言っているでしょう」
踵を返して部屋を退出しようとした令の手首を、追いかけた江利子の手が掴む。
その手を振り解く訳にもいかず、立ち止まった令は振り返る。
「誰が不快だなんて言ったの? 勝手に先走るのはやめなさい」
「も、申し訳ありません」
普段から押しに弱い令は、姉からの叱責に半ば反射的に頭を下げる。
彼女が姉の言葉の意味を理解したのは、その数秒後のこと。
はっと顔を上げた妹に、江利子はなおも言葉を続ける。
「嫌だったなら、キスされる前に振り払っているに決まっているでしょう。寝たふりをして、あなたから来てくれるのを待っていたのよ」
「お、お姉さま。それは」
「……姉である私から迫る訳にはいかないじゃない」
偶然とはいえせっかく二人きりになれたのだから令と触れ合いたいと思っていたが、自分から迫ることは姉としての見栄が許さなかった。
頬を赤く染めて顔を背けた江利子が、僅かに言い淀みながらもそう口にする。
どこか達観した性格であり、常に一歩引いた場所から物事を眺めている彼女が、こうして動揺を露わにさせることはかなり珍しい。
しかも、想いをこうしてはっきりと言葉で伝えられるのは今日が初めてであると言ってもいい。
大好きなお姉さまからの言葉に、令もまた顔を熱くする。
暴走しかけた妹に振り回される形になった江利子だが、彼女は自分が誰かを振り回すことはよくあるものの、される側に回るのは好きではない。
場の主導権を取り戻すために、彼女は自分の目線の位置とそう変わらない高さにある妹の肩に手を置き、そのまま身体を寄せる。
「私にここまで言わせたのだから、今日は一緒にいてもらうわよ。夜が明けるまで離さないから、覚悟していなさい」
「望むところです」
少し背伸びをして令の耳元に唇を近付けると、わざと吐息を吹きかけるようにしながらそう囁きかける。
しかし、こうすれば恥ずかしさで動揺を見せるだろうという江利子の予想とは違い、彼女は慌てふためくことなく、嬉しそうな微笑みを浮かべて言葉を返す。
姉から甘い言葉を掛けてもらったことへの嬉しさが、彼女の中で羞恥を上回っているのだ。
そんな予想外の反応に、まあいいかと考える江利子。
予想とは異なった反応を見せてくれるのも楽しいし、何よりも、いつもは孫とべたべたしている可愛い妹を今日だけは独り占めすることができるのだから。
「行きましょうか。今日は泊まっていくのよ」
「はい、お姉さま」
家に令を連れて行くと、私の妹が遊びに来たということで過保護な父や兄たちが今夜は赤飯だなどと言いかねないので面倒だ。
家族の醜態を令に見せるのは恥ずかしいし、何よりせっかくの機会なのに二人きりでゆっくりと過ごせないのはもったいない。
偶然にも明日は日曜日だし、令と二人で過ごすと言えば両親に咎められたりすることはないだろうから、どこかのホテルに部屋を取って泊まろうか。
いっそ、何も言わずにラブホテルに連れ込んでしまうのもいいかもしれない。
行ったことはないが、ラブホテルの部屋には『そういう』設備などもあると聞くので、それらを見た令はさぞ可愛い反応を見せてくれるだろう。
そんなことを考えながら、妹の手を引く江利子。
それに逆らうことなく、令も歩調を合わせて隣に並ぶ。
部屋を出て階段を下りると、二人分の軋む足音が響く。
手を繋いだ姉妹は、互いの温もりを感じながら、二人きりの時間を過ごすために歩き出した。