無印編はプロローグ的なものなので、あと数話で終わる予定です。
どこかふわふわと、まるで身体が水の中を彷徨っているような感覚の中、此処とは違うどこからか声が届く。それはまるで誰かを呼んでいるような……そしてどこが寂しげな……。
「んぉ……?」
「フェイトっ!」
やけに重たい瞼を開くと、暗い部屋の知らない天井が目に入った。そして女性の悲しげな声と柔らかな衝撃が身体に伝わる。
ああ、俺寝てたのか。寝るなんて幽霊になって初めてだな……。
久しぶりに体験した睡眠に少々感動していると、幽霊の自分が何故寝ていたのかと疑問に思う。自分は確かクロノに頼まれて一仕事をしていたはずだと。
思い出していく過程で寝ていた理由に検討がついた。確か金髪の魔導師に憑依した直後、緑色の魔力弾をくらったのだ。つまり気絶していたということになる。
ソファーに寝かされていた俺は、縋りついて泣いている女性を軽くどかし、やや固くなって重い身体を起こした。その際に身体に走った痛みに思わず顔を顰める。
「フェイトっ、まだ無理しちゃいけないよっ」
額に宝石を付けた女性はソファーに座り直した俺の正面で、目尻を下げて涙を浮かべる。その悲痛そうな声と表情を見るだけで、この身体の持ち主――フェイトちゃんとやらがどれだけ愛されているのかを窺える。そしてその女性のオレンジ色の髪から出ている耳に、俺の目は釘付けだった。
なんで耳が?もしかして使い魔?じゃああの時の魔獣?狼?耳可愛いな、おい。などと思考が頭の中を洗濯機のように渦巻いていると、女性が俺の肩を軽く掴む。
「だめだよぉ。時空管理局まで出てきたんじゃ、もうどうにもならないよ……」
確かにこの女性が言う通り、もうどうにもならないだろう。クロノは優秀だし、何より俺がここに居るし。
身体を震わせながら俯いて喋り続ける女性を横目に、俺は周囲の確認を始めた。
まともな家具もなく生活感のない広めの部屋。窓から見える外の様子は、所々天に向かって人工的な光が射している。おそらく高層ビルかマンションの一室なのだろう。
場所は特定できないが、とりあえずクロノに連絡を取る方法を探そうと考えた時、俺の耳に無視できない言葉が飛び込んできた。
「あの鬼ババ……あんたの母さんだって、訳わかんないことばっか言うし、フェイトにひどいことばっかするしっ……」
「マジで?」
「マジでもなにも、フェイトが一番よく知ってるじゃないかっ」
女性から新たな情報を聞いた俺は、溜息を吐いて頭を掻く。この身体の持ち主は母親から虐待を受けている可能性があり、もしかするとあの白い魔導師と戦っていたのも母親からの命令だったのかもしれない。そうなるとこの子を捕まえて事件終わりって訳にもいかない。
俺はいつかクロノのが言っていた言葉を思い出す。「管理局は逮捕することだけが仕事じゃない。事情を聞いて動いてやるのも仕事なんだ」と、立派に語っていた。それに従うならば、俺も彼女の話を聞いた方が良いのだろう。何より、自分自身が気になるというのもある。
俺は小さな覚悟を胸に、目の前で跪く彼女へと声を掛けた。
「あの、驚かないで聞いてほしい」
「……フェイト?」
男っぽい口調で違和感があるのだろう、彼女は訝しげな視線を向けてくる。俺は少し嘘を混ぜて、現在のこの身体の状況を説明する。
「実は俺は……いや、今君が話しているのは、君の知っているフェイトちゃんとやらじゃないんだ。君が今話している俺は、フェイトちゃんに憑依した幽霊で、フェイトちゃんは今はこの身体の奥底で眠ってる。おっと、だからと言って危ない者じゃない。実はフェイトちゃんが魔導師に攻撃を受けそうなところを目撃してね。それで少女に激痛を味あわせるのもあれだから、俺が瞬時に憑依して痛みを代わりに受けたんだ。そして気絶したフェイトちゃんin俺が今ここに居るわけだ。敵意はない。むしろ善意しかない。おーけー?」
「…………は?」
口を挟めないようにマシンガントークをしたのだが、それが逆に理解が追いつかない原因を作ってしまったらしい。
数秒ほどフリーズしていた女性は、突然目つきを鋭くして一歩後ろへと下がった。
「つまり……どういうことだいっ!?」
「俺がアンタの主の痛みを一時的に引き受けた」
嘘は言っていない。正直、気を失うほど痛かったし。
やはり幽霊など突拍子もない話を聞かされて警戒したのか、彼女はジリジリと下がり臨戦態勢へと入った。
「管理局の関係者かい?それとフェイトの身体から直ぐに出て行きな!!」
「局員に知っている奴はいるけど、俺は局員じゃないよ。あと直ぐに出て行くから、ひとつ聞いて欲しい」
「……なんだい?」
「フェイトちゃんが起きたら、俺を見て暴れるかもしれないから、そこに居るのはただの幽霊ってフォローしといて」
「え?」という言葉を耳に残しながら俺は憑依を解除する。一瞬の暗闇の後、視界に広がったのはソファーに座るフェイトちゃんの後ろ姿だった。
憑依を解除してフェイトちゃんの意識も戻り、周囲を確認するように首を振っている。
「アルフ?私たしか……」
「フェイトぉ!」
背後からでは確認できないが、おそらく自身の状況が把握できず驚いているであろうフェイトちゃんに、アルフと呼ばれた女性は勢いよく抱きつく。
「フェイトぉ!心配したんだよ!あんた、目を覚ましたと思ったら『俺は君の知っているフェイトちゃんじゃない』とか言い出すしっ、変な幽霊が乗り移ってるし」
変な幽霊とは心外な。ちょっと人に憑依するのが好きなだけの幽霊だ。
アルフの言葉を理解できていない様子のフェイトちゃんは、「え?幽霊?え?」と首を傾げている。そして背後に立つ俺の存在に未だ気づかないフェイトちゃんは、抱きつくアルフの背を撫でる。俺自身そろそろ気づいて欲しいところもあるので、さりげなく声をかけるタイミングを図る。
「えっと、とりあえず落ち着いて、ね? それにねアルフ。幽霊なんてどこにもいないよ?」
「背後にいます」
「うん。背後にいる……ぇ」
ビクっと、フェイトちゃんの肩が揺れる。それに気づいたアルフがフェイトちゃんから身体を離し、「どうしたんだい?」と首を傾げる。
アルフには俺の声と姿が確認できないため、目の前に居る俺にも気づかない。フェイトちゃんは背中からでもわかるほど体を強ばらせ、アルフへとやや上擦った声で聞く。
「ア、アルフ。私の後ろ……誰か、いる?」
「ん?誰も居やしないよ?」
アルフの疑問を含んだ言葉を聞いたフェイトちゃんは胸をなでおろすと、気楽に確認するように背後へと振り向き、目と目が合って固まった。それも当然だろう。先程アルフが人の存在を否定した場所に、半透明の人が立っているのだから。
フェイトちゃんは口元を引きつらせながら微動だにせず固まりつづける。アルフはそんなフェイトちゃんの様子に混乱している。
フェイトちゃんは目に見えて話ができる状態ではなく、どうするかと考えたところ、先程言葉を交わしたアルフなら大丈夫だろうという結果に至った俺は、アルフに憑依すべくソファーを飛び越えた。
「ひゃッ、うぇ、あ、アルフゥゥゥ!!」
憑依する寸前、銅像のように固まっていたフェイトちゃんの叫び声が俺の耳を貫いた。
「まあ、俺は人間じゃないけど、危ない幽霊でもないから安心して」
アルフへの憑依もパパッと済ませ、今は奇妙なものでも見たかのような顔をする二人を前に、俺は自身の無害さを説明している。アルフに憑依経験をさせて俺の姿が確認できるようになったのは良かったが、その後のひと悶着は面倒極まりなかった。
今は二人揃っておとなしく話を聞いてくれているが、やはりどこか警戒が取れていない様子。
「あんたが無害ってのはまだ信じられないけど……とりあえずはフェイトの代わりに痛みを受けてくれたことは礼を言うよ」
「うん、それに関しては私からもありがとう」
フェイトは礼を告げると、金色の尻尾を揺らしながら頭を軽く下げる。その姿を見て、俺はますますこの子が戦っていた理由に興味が沸いた。こんな礼儀正しく、どこか儚げな女の子が必死になって戦っていた理由に。
「どういたしまして。それで聞きたいんだけどさ、どうして魔導師なんかと戦ったりしてたの?」
その質問に、フェイトちゃんは目を逸らして細々と呟く。
「それは……ジュエルシードを……」
「フェイト、こいつのことはまだ信用できないから、それ以上は言わない方がいいよ」
「……うん、そうだね。ごめん」
アルフによってそれ以上の情報は聞き出せなかったが……ジュエルシード、おそらくマジックアイテムか何か名前だろう。あの場に浮かんでいた青い宝石ってのも考えられる。
それに先程の戦闘にはフェイトちゃんの母親が関係しているみたいだし、ただの喧嘩じゃないとすると、これは思ったより大事なのかもしれない。
俺は胸に溜まった疑問やら何やらを吐き出すかのように、大きく溜息を吐く。
「まあ、俺も無理やり聞き出すつもりはないよ。たださ、あんまり女の子が無茶するもんじゃないよ。フェイトちゃんの身体に乗り移った時感じたけどさ、君相当疲れがたまってるでしょ」
「あなたには、関係ない……」
そう言って再び視線を外すフェイトちゃんに、俺は悪いと分かりながらもなぜかコミュ障というイメージを抱いてしまった。もしかして友達とか、他人とかとあまり関わらない性格なのかもしれない。
「で?あんたはいつまで此処にいる気だい?」
「特に予定もないからしばらく住み着こうと思ってる」
遠まわしに出てけとも聞き取れる発言に、俺は即座に返す。予想外だったのかアルフとフェイトは一瞬にして表情が強ばった。
俺としては早く親友の元に戻り、新作のゲームを今回の報酬として頂きたいところなのだが、如何せん俺はアースラと連絡が取れず帰る方法がない。唯一ある方法と言えば、フェイトちゃんの側に居てクロノが接触するのを待つ方法だけだ。
「幽霊って結構やることないんだよね。それに俺と話せる人なんて珍しいからさ、少しの間相手してよ」
「ど、どーするよ? フェイトぉ」
「私はあんまり……。けど、断ったら呪われるかも……」
こそこそと俺に背を向けて話す二人に俺は、どこかクラスのグループに勇気を持って話しかけた根暗君の気持ちを味わった。これは結構心にくる。
二人による数分の話し合いの末、結論が出たのか真剣な面持ちでこちら振り向いた。
「とりあえずあんたが此処に住み着くことは許可してやる。けど、こっちの条件を一つ飲んでもらうよ」
「おけおけ。料理洗濯掃除何でも引き受けます」
「条件は、あたし達の仕事を手伝ってフェイトの負担を減らすこと。あんたに出来ることなら何でもやってもらうよ」
何でも、ね。おそらく俺の憑依による足止めとかを期待しているんだろうな。まあ、クロノに合流出来たら寝返るつもりだし、今は断る必要もないか。
俺は条件とやらの内容に納得して頷くと、アルフは額を抑えて長い溜息を吐いた。
「はあぁぁ~。管理局が介入してきたと思ったら、今度は変な幽霊が住み着くし……今日は散々だね、まったく……」
「ホントよね」
「半分はあんたのせいだろっ!」
耳をピンと立て吠える犬のように怒鳴るアルフに、フェイトちゃんは苦笑いをする。
これでこの子の側に居ることはクリアしたから、後は時間が過ぎるのを待つだけだな。あと出来たらこの子の戦闘行為の理由と事情も聞けたら良いけど。
そこで俺は、ふとあることに気づいた。それはこの部屋に来てから問題の母親の姿を一度も見ていないことだ。この生活感がない部屋も、一時的に借りている仮住まいのように見えるし……もしかして育児放棄なのかも。……だめだ。一度悪い方向に考えたら、考えたこと全部をそっちに繋げてしまう。
「アルフ、ご飯にしよ?」
嫌なことばかり考えて気分が重たくなっていると、不意にフェイトちゃんが言った。そしてそのフェイトちゃんが手に持っているのは、ドッグフードと菓子パン。俺の考えていた嫌なことが現実になった瞬間である。
「フェイトちゃん?それは何?」
「え?ごはんだけど……あ、食べる?」
「いや、俺幽霊だから食べないけど。ていうか、毎日そういうごはん食べてるの?」
「うん。おかしいかな?」
さも当然のように頷く少女に、俺の胸辺りが締め付けられるように痛み、鼻と目の置くがツンとした。
かつてミッドを放浪していた時、俺は興味本位で孤児院の夕食にお邪魔したことがある。そこには不幸な事情を抱えている子供達が、皆で暖かな夕食を囲んで笑顔を振りまいていた。そんな不幸な事情を抱えた子供達でさえ、夕食は暖かなものを囲んでいる。しかしこの少女は言った。毎日菓子パンを食べていると。こんな殺風景な部屋に。使い魔とふたりきりで。
幽霊なのに俺の目からはボタボタと水が溢れてくる。そんな俺を戸惑うように見るフェイトちゃんと目があった時、俺は我慢していたものが勢いよく切れ、フェイトちゃんを抱きしめようとした。しかしフェイトちゃんの身体をすり抜けて、空を切る俺の身体。そのまま床へと手を着くと、寂しい女の子さえ抱きしめてやれない役立たずな俺は叫ぶ。
「どうしてッ、どうして俺は幽霊なんだぁああッ!!」
「そんなの知らないよ。フェイト、早くごはんにしよっ」
「う、うん」
跪く俺の隣にそっと菓子パンが置かれた時、俺は一刻も早くこの子を管理局で保護してもらおうと決意した。
二人が夕食を終えて休憩をとっている静かな時間。胡座をかいて宙に浮かぶ俺は、自己紹介すらしていないことに気づき二人に声をかける。ソファーに座るフェイトちゃんとアルフが此方に視線を移したことを確認すると、俺は深呼吸をして言った。
「そういえば自己紹介がまだだったね。俺は見ての通り幽霊。肉体があった時の名前は忘れたので、今は幽霊の幽って名乗ってます。よろぴこ」
「フェイト・テスタロッサ、です。よろしく。……あ、この子は使い魔のアルフ」
「よろしくするかどうかは、あんた次第だよ」
ややトゲのある物言いに思わず苦笑いを浮かべる。先程から俺が話しかける以外は、あまり喋ってくれないところを見ると、やはり俺がまだ信用ならないんだろう。しかし俺としては折角クロノ以外にまともに話せる人が出来たので、出来ればもっとトークを楽しみたいところだ。それに少しでも仲良くなれれば、自分から管理局に保護を求めるよう説得もできると考えている。
俺は宙から床へと降りると、床を勢いよく数回ほど叩いた。
「激レア!!なんでも答えちゃよっ!普通では経験できない幽霊への質問ターイムっ!!」
突然の行動に目を丸くする二人だが、やがて二人で顔を見合わせるとフェイトちゃんが控えめに手を上げた。
「はいっ、フェイトちゃん!」
「えっと……なんで幽霊?」
こくんと首を傾げる姿に、俺は言葉を詰まらせた。
そもそも質問がおかしい。なんで幽霊なのかと問われても、俺自身なんでこうなったのかさえわかっていない。気がついたら幽霊になっていたのだ。それ故、俺はフェイトちゃんから視線を外して呟いた。
「なんでだろ……わからない」
「そっか……」
再び訪れる沈黙。質問タイムが逆に空気を悪くしたようだ。静かな空間に気まずさが漂った時、今まで無口だったアルフさんが手を上げた。
「あたしから質問。この管理外世界に住む幽霊のあんたが、どうして魔導師の事や魔法について知っているんだい?」
「あ~、それはね。実はミッドからこの世界に流れ着いた幽霊だから」
「ん?じゃあ元々ミッドに住んでたってこと?」
「うん。ミッドで気がついたら幽霊になってたから。容姿もミッド育ちの爽やか系のイケメンでしょ?」
「別に」
真顔で答えられるのが一番辛いことを、この狼女に教えてやりたい。確かにこの二人はミッドでも稀に見る美少女と美女だ。それは俺自身否定もしない。しかしだからと言って人の容姿を褒めるくらいの世辞は身につけて欲しいものだ。事実真顔で否定された俺はちょっと心が痛めている。これでも肉体年齢+幽霊になってからの年月を足すと思春期真っ只中なのだ。ちょっとは容姿に気を使う年頃だというのを理解して欲しい。
その後は幽霊としてミッドで過ごした一年間を、少し興味を持ってくれたフェイトちゃんに語り続けた。
語り始めてからどれほど経っただろう、フェイトちゃんはいつしか小さな寝息を立てていた。アルフは肩へと寄りかかっているフェイトちゃんの髪をやさしく撫でる。その光景は遊び疲れ寝てしまった妹を見守る姉のようで、見ていると心に暖かいものが湧いてくる。
「なあ、幽霊」
「なんだ犬?」
ピクっとアルフの眉が動き、俺を一瞬睨むと軽く息を吐いた。そしてフェイトちゃんの頭を再び撫でるアルフは憂いを帯びた表情をする。
「フェイトのこと、泣かせたら承知しないよ」
「……おう。自分より年下の子の泣き顔なんて、俺もあんまり見たくないしね。そこらへんは信用してもらっていいぞ」
「年下ねぇ。あたしにはフェイトと同い年くらいに見えるんだけど」
確かに俺はアルフの言うように、見た目だけはフェイトちゃんと同い年くらいの子供だ。けれど幽霊になってからの年月も足すと、精神年齢的に年上。故に俺は子供ではなく、大人。
だから年上の大人として俺は、この子の今の生活を変えてあげたいと思う。こんな他から見ても寂しいとわかるような生活ではなく、もっと普通の、せめて人と共に暖かい夕食を囲えるくらいの生活を。
大して役に立たない幽霊だけど、少しなら力になれるかもしれない……。
俺は小さな決意を胸に、使い魔に寄り添って眠る少女を見続けた。