少女の話をしよう。
風見幽香と言う名を耳にした者へ、抱いた印象は何かと尋ねたとする。十中八九返される答えは、『非常に凶悪な妖怪』や『圧倒的な力を持った妖怪』だったり、『弱い者いじめが好きな関わってはいけないタイプの妖怪』など、控えめに捉えてもプラスとは言い難いものではないだろうか。
事実、その答えは正しい。彼女は相手が何者であろうと一切容赦をしない妖怪である。彼女は長い時を生き、人間では到底太刀打ちできない力を持った妖怪である。彼女は力無き者に対して手心を加える事を知らない妖怪である。
傍目から見れば、これ程までに恐ろしい妖怪など存在しないと、心底恐怖を植え付けられる事だろう。
しかし。風見幽香には、誰にも知られていないもう一つの側面が存在した。
彼女は別に凶暴な妖怪ではない。ただほんの少し、色々と規格外なだけなのだ。なにも弱い者いじめが趣味のジェノサイダーと言う訳でも無いのだ。
ならば何故、これらの事実と反して、彼女は周囲に恐れ戦かれているのだろうか。
答えは簡単。風見幽香は非常に気紛れな性分だったのだ。
噛み砕いて言ってしまえば、物凄くマイペースな妖怪さんなのである。
誰の指図であろうとも、気が乗らなければ見向きもしない。反面興味が出れば全力で物事に熱中するが、当然飽きてしまえば驚くほど冷ややかに放り投げてしまう。それは気ままに愛する趣味だろうが、血で血を洗う戦闘だろうが、エキサイティングな弾幕ごっこであろうが変わらない。
心地よければそれを受け入れ、不快であれば何であろうとも拒絶する。要は彼女にとって自分の気持ちと興味の矛先が向いたモノこそが全てであり、それ以外は路傍の石ころ並みに価値が無かった。彼女は、そう言う妖怪だったのだ。
酷く単純で、極端で、だからこそ彼女は他人に推し量りがたい妖怪だった。おまけに周囲の意見に頓着しないものだから、その風評は訂正されること無く広まっていったのである。
これは、そんな気紛れ妖怪と一人の蟲妖怪が織り成す、束の間の優しい物語だ。
○
――私、リグル・ナイトバグは失敗した。
真夏の炎天下の中、辺り一面を向日葵に覆われた植物地獄の中で、私はもう時間の感覚を失うほどに正座させられていた。
そして私の目の前には、薄いピンクを基調とした可愛らしい柄でありながら、絶大な破壊力を持った日傘を片手に仁王立ちし、夏の猛暑を跳ね除ける絶対零度の微笑みを浮かべる女性が、私を高みから冷ややかに見下ろしていた。
風見幽香。幻想郷じゃあその名を知らぬ者はない、残虐非道と名高い大妖怪である。
なんでも縄張りに入った妖精を虐待して遊ぶのが趣味だとか、力の弱い妖怪が苦しむ顔を見るのが好きでよく拷問してるだとか、とにかくサディストを臭わせる噂が絶えない人物だ。
傍目から見ればさぞ異様に思えるこの光景が、どうして出来上がってしまったのか。
答えは、新緑の様な美しさを湛える癖っ毛が特徴的な女性の手にある小さな小瓶にあった。
「あ、あの……っ」
私は触角をぴこぴこと震わせながら、おそるおそる女性の顔を伺った。
もう結構時間が経っている筈なのに、彼女の表情筋は硬直の呪いでも掛けられてるんじゃないかと勘ぐってしまうくらい動かない。石像の如くずっと笑顔のままである。こわい。
見えない圧力に圧倒されそうになった私は、夏の暑さでショートしかけている思考回路に任せるまま、思い切って額を地面に擦り付けた。
「―――ほ、本当に申し訳ありませんっっでしたぁぁぁ!!」
蝉の声を遮るほどの謝罪が響く。私の脳みそが夏の暑さとは違った熱に当てられていく。
「で、出来心だったんです! 向日葵が一杯生えてたから、ちょっと蜂蜜作ってみたら美味しいかなー? って思って、つい蜂さんに頼んで作って貰っただけなんです! まままさかここが幽香さんのテリトリーだと知らなくて―――あっ嘘ですごめなんさい知ってましたでも本当に出来心なんです許してくださいいい――――っ!!」
ここで嘘なんか吐けば本当に頭から踏み潰されかねない――そんな強迫観念から、私は誠心誠意正直に謝り倒し続けた。
事件の顛末はこうだ。数時間前の私はふと、辺り一面を向日葵で覆われた太陽の畑と言う一種の名所で蜂蜜を作れば、一体どんな味になるのかと思い至った。そこはとある花が好きな大妖怪……つまり眼前で微笑む死の女神こと風見幽香さんの縄張りとも呼べる場所であり、妖精ですら向日葵の咲き誇る夏の時期は不用意に近づこうとしない場所なのだが、私はパッとやってサッと帰れば大丈夫だろうと思い切って侵入し、蜂蜜作りを試みた。
結果、蜂蜜がある程度出来た所でさぁ帰ろうと振り返ったらいつの間にか幽香さんが背後に立っていて、あまりの驚きに蜂蜜の小瓶を放り出し、取られて今に至る。
つまるところ、リグル・ナイトバグはミッションに失敗した。
「…………、」
幽香さんは何を思ったのか徐に小瓶を開くと、人形の様にすらりとした指を瓶に入れ、蜂蜜を掬い取ってそのまま口へ運んでしまった。
ちゅぷっ、と唾液が指に吸い付く水音が、嫌に鼓膜を突っついた。
変な沈黙が、やたらと重い。
死ぬほど帰りたかった。むしろ時間を巻き戻して過去の自分を張っ倒してやりたかった。蜂蜜が原因で死ぬのは流石に嫌すぎる。虫だからそんな結末でも良いだろう、なんて思わないで。そもそも私は蛍ベースで蜂の妖怪じゃないんだ。いや、蜂の妖怪だったら蜂蜜の為に死ねるって訳じゃないんだけれども。
幽香さんは指を一舐め、二舐めと念入りに味を確かめる仕草を終えると、何を思ったのか膝を折り、私と視線を交差させてきた。やめて見ないで殺さないで。
「美味しいわ、これ」
「は、はひぃっ! 有難き幸せっ!」
上ずった声が可笑しいのか、それとも常に笑顔でいるスタイルが素面なのか、幽香さんはクスクスと笑う。それはもう、彼女の素性を知らない男が見れば一撃で恋に落ちてしまってもおかしくない、麗しくも妖しい魔性の微笑みだ。
だが今の私には、その笑顔が冗談抜きに牙を剥き出した怒りの般若にしか見えないのである。笑顔はもともと敵意の表れとは誰の弁だっただろうか。お願いおうちに帰して。
「ねぇ」
「ふひっ」
肩が跳ねる。
何だか凄く素敵でおっかないお顔が太陽の如く眩しい。と言うか全体的に大妖怪染みた覇気が凄い。真夏真っ盛りだと言うのに、どんどん体温が下がっていく実感があった。
これは死んだ。もう駄目だ。次の瞬間私は幽香さんに『私の領域で生意気に美味い蜂蜜作ってんじゃないわよ肥料になれオラァ』とか罵倒されながら地面に埋められちゃうんだ。頭を引っ掴まれて、こう、ズボッて感じに。
ああ、危険な冒険なんかせずに家でのんびり過ごしていればよかった。友達と水遊びなんかもよかったなぁ。私は心の底から過去の選択ミスに対して激しい後悔の念を――
「私とお店、開いてみない?」
「――――――――はい?」
一ミリも予想さえしていなかった言葉に私は耳を疑った。実はもう幽香さんに耳を千切られていて、今聞こえたものは幻聴なのではないかとさえ思ってしまった。
おみせ? OMISEってなんだ。もしかしてアレか。大衆の前で腹を掻っ捌いて、妖怪の活け造りショーをお見せしましょうとかいう意味を孕ませた暗喩か。お願い、やめて。許して。そんなことしても絶対楽しくないから。
言うまでも無く半泣きになった。視界が潤む。粗相をしなかったのはせめてもの救いだろうか。反面、幽香さんは私の心情など知る由も無く笑顔のままだ。とっても怖い。
「お店よ、お店。あなたの蜂蜜美味しかったから、お店を開けば売れるんじゃないかなぁって」
「………あの、つかぬ事をお聞きしますが」
「なあに?」
「お店って、アレですか? お客さんに品物を提供する商人の根城の……」
「うん。例えがびみょーに変だけど合ってる」
「…………………………あっ、アレですよね! 妖怪肉屋とかそういう奴ですよね! 顧客が妖怪専門の肉屋では無く妖怪の肉しか売らない肉屋! そして記念すべき開店日の特別商品が蛍妖怪の肉とモツで、そこからお店がスタートって事ですよね! いやだなぁもう下手に希望を持たせないで下さいよ捌かれる覚悟が緩んじゃうじゃないですかぁっはははははははははははは」
「お肉屋さん? 違うわ」
「ははははははは――――――はえ?」
「私、飲食店がやりたい気分なの」
なんて言う名前だったかしら、と幽香さんは顎に手を当てて首を傾げる。それがまた、窓際の麗人のように様になる。
暫くして、幽香さんは軽快に指を鳴らした。同時にびっくりして肩が跳ねた。おまけに何だか少し下着が湿った気がするが、多分それは気のせいだ。だから見なかったことにして。格好のせいで時々男と思われるけどこれでもちゃんとした女の子なんだぞ。いぢめよくない。
「そうそう、喫茶店よ喫茶店。確かパンケーキを焼いたり紅茶やコーヒーを淹れたりするお店よね。私料理好きだし、一度やってみたかったの」
……突っ込みたいところは山々だが、取り敢えず何故急に喫茶店なんだと思った。
私の知識に間違いが無ければ確か、軽食やお菓子、飲み物を主に提供する飲食店だったはずだ。外の世界から来たらしい派手な書物に書かれていた記事を、屋台を営んでいる友人と一緒に見た覚えがある。
この際はっきり言おう。パンチで大地を耕す事の出来る大妖怪様が喫茶店をやってる図なんて、到底想像出来たものじゃない。容姿だけ見れば凄く様になっているんだろうけれど、ポテンシャルが喫茶店のマスターなんかじゃない気がする。柑橘のジュースとか普通に握力だけで量産しそうなんだもの。いや、下手すると視線だけでパンケーキが焼けるのでは?
「な、何で喫茶店なんです?」
「んー? 今思い付いたから」
それとこれが美味しかったの、と幽香さんは蜂蜜の小瓶をアピールした。
大妖怪の思い付きは凄いなと思った。蜂蜜が美味しかったから、なんて理由で店を開こうとする感性と行動力には次元の違いを感じさせられる。
すると彼女は、まるで私を納得させるかのように、
「ほら、太陽の畑って綺麗でしょ?」
「はい」
「蜂蜜美味しいじゃない?」
「はい」
「ここの向日葵を眺めつつ、向日葵蜂蜜を塗ったパンを食べられたら素敵じゃない?」
「まぁ、はい」
「と言う訳でお店を開きましょう」
「はい?」
頭が花畑な乙女かお前は、と喉からいらぬ言葉を吐き出してしまいそうになって、ぐっと唇を噛んだ。日頃仲間内で突っ込みに回るせいか、癖で言い放ってしまいそうになる。
だって、あの風見幽香だ。極悪非道で冷血で、名の知れた妖怪すらも裸足で逃げ出すと悪名高い四季のフラワーマスターだ。それが、何故憧れのパン食いシチュエーションを語りつつ喫茶店を開かないかと提案してきているのだ。正直想像していた風見幽香の像と凄まじい乖離が始まりつつあって、彼女は陽炎が見せた幻惑ではないかとさえ疑ってしまう。
ああ、なんだか大妖怪というものが一気に分からなくなってきた。元より分かるもんかとも思った。そんな事より早く正座を解きたいとも思った。早くおうちに帰りたかった。
「えっと、それって私が蜂蜜担当で幽香さんが店長さん……って感じの奴でって事ですか……?」
「ううん」
「えっ」
「炊事と掃除と接客と仕入れとお勘定があなたの担当よ」
「おかしい! その分担は絶対おかしい!!」
ハッとなった私は思わず滑った口を慌てて閉じたが、もう遅い。口答えは吐き出し終えてしまっているのだ。ならば、ええい、もうヤケクソである。どうせ何をしたって殺されるのだ、言いたいことは取り敢えず全部言ってから死のう。私は腹を括った。もうどうにでもなぁれ状態だった。
「あら、どうして?」
「いやどうしてって、幽香さんは自分のお店を開きたいんですよね? なのに何故私が全部担当する事になるんです!? それ最早私のお店になっちゃってるじゃないですか! そんな状態で幽香さんは何をするつもりなんですか!?」
「そうねぇ、夏の間はお店のパンケーキを食べながら向日葵を眺めたいわ」
「ただのお得意様じゃねーか!!」
ああ大妖怪って分からない。こんな訳の分からないやり取りの後に、自分は力尽きた蝉の様にそこら辺へ転がっているのかと考えると、何だかどんどん血が上ってくるような感覚に見舞われて、気がつけば私は立ち上がっていた。
「再度確認させてください。幽香さんは自分の喫茶店を開きたいと思ったんですよね?」
「うん、そうよ」
「なら幽香さんが店長になるべきですやん!? そうじゃなきゃ幽香さんのお店じゃないですよ! いや、そもそもお店を開くには最低限店舗が必要ですしその他色々な道具や設備だって必要な訳ですがまずそれをどうやって調達すると言うのでせうか!!?」
言葉のマシンガンを乱射し終えて、ぜーぜーと肩で息をしながら私は幽香さんと対峙する。ああやめてそんな獲物を刈るような目で私を見ないで。
しかし幽香さんは、極限の緊張状態に置かれるこの私と反比例するように、炎天下の中でも汗一つ流すことなく、涼しげな笑みを浮かべるだけだ。
やがて彼女は、それもそうねぇ、と相槌を打った。
「分かったわ。じゃあまた明日ね」
硬直。
純粋になに言ってんだお前はと思った。今の会話のどこに解散の流れが発生していたと言うのか。いや、むしろおうちに帰りたい私としては万々歳なのだけれど、流れが謎すぎて完璧に置いてけぼりを食らってしまっていた。
しかしそれでも『また明日ね』と言われた以上、明日会わなければならないのだろうか。冗談じゃない、もう二度と……いや暫くは絶対太陽の畑に近寄るもんかと、そう心に刻み込んでいる真っ最中だ。私から贈る言葉は『さよならだ』の一言である。
気ままな花好きの妖怪は、本当にその言葉だけで踵を返すと、さっさと向日葵畑の奥へ姿を消してしまった。
青天の霹靂にでも遭遇したような心境だった。
本当に何だったんだろう―――何だかミンミン五月蠅い蝉の鳴き声がいやに大きく聞こえてきて、暫くの間呆然と動けずにいてしまう。
やがて我を取り戻した私は、言うまでも無く全速力でその場を走り去った。
あれだけ大妖怪相手に反抗しておいて、何とか下着をほんの少し汚す程度で済んだその幸運を十二分に噛み締めつつ、そうだ明日は太陽の畑からうんと離れた妖怪の山方面に行こう確か麓に湖があった筈だようし友達を呼んで明日は水浴びしようそうしようーっと、明日への期待を膨らませながら、得意の駆け足を全力で行使しつつ、森へ向かって一直線に突き進んでいった。
多分、私は今年一番の爽やかな笑顔を浮かべていたと思う。
ああ、これで私は自由なんだっ! て感じで。
○
「はぁい」
「………………………………………ほ、ほおぁっ」
変な声が出た。それが自分の声だと認めるのにかなりの時間を要した。
思い切り口を開き、およそ少女がして良いようなものではない表情を浮かべているだろう私の前には、居る筈のないあの女が立っている。
四季のフラワーマスターと書いて大魔王と読む、あの風見幽香が。
いや待て、この状況はどう考えてもおかしい。だってあれだ。昨日あんなことがあったから暫くは絶対に太陽の畑へ近づかないと決めて、現に今日は太陽の畑と真反対の方向へ足を運んでいたのだから、笑顔の素敵な撲殺妖怪ゆうかりんと絶対に遭う筈なんてなかったのだ。おまけに万が一発見されてしまうのを警戒してわざわざ飛ぶことも控えたって言うのに、まるで彼女は行動を全て把握していましたと言わんばかりに、帰路へついた私の前へ敵とのエンカウントイベントよろしく立ちはだかってきたのである。
超良い笑顔だった。
次の瞬間、私は直ぐに周囲を見渡した。周りのどこにも向日葵は無い。あるのは鬱蒼とした樹木のみだ。どうやら知らぬ間に太陽の畑へ足を踏み入れていた訳では無いらしい。
ではなんでフラワーマスター様がここにいるの? となってくる。
私の精神エネルギーは、さっき水浴びで充填した筈なのにもう枯渇寸前だった。何だか、博打で大儲けしたお金を全部強奪された気分だ。
「こんにちは」
「コンニチハ」
「待ってても来ないから来ちゃったわ」
そのまま来ないで帰れば良かったのに。そうすれば今日一日幸せだったのに。白目を剥いたら現実から逃げられるかな。無駄ですかそうですか。
「なん、何で幽香さんがここにぃっ」
「お花さんに聞いて回ったの」
そう言って、幽香さんは周囲に花のエフェクトが散りばめられそうなくらい柔らかく微笑んだ。
言動や彼女の容姿『だけ』を切り取ってみると実に美麗で、芸術家がその美しさを表現出来ずに絶望の涙を流しそうではあるが、今の私にとって幽香さんはデスストーカーと変わらない。勿論サソリの方ではなく死のストーカーと言う意味で。周囲に植物があれば奴に見られているってどんな怪談だ。
「あのね、あなたに言われてお店を作ってみたの」
フラワーマスター語を翻訳するのに、私は数秒の時間を必要とした。
「お店って……えっ、店を建築したって事ですか?」
「うん」
「……たった一晩で?」
「頑張ったわ」
頑張ったわじゃあないだろう。幾ら何でも早すぎる。昨日の昼過ぎに別れてから今で丁度、一日と少しが経過した程度だ。私を待っていた時間と捜索していた時間を足して、それを総経過時間から引き算してみると、どう多く見積もっても確実に半日と少し程度で店を建て終えた計算になる。いつの間に建築の匠になったんですか貴女は。もしかしてガテン系女子なんですか。
いや、建てるだけなら百歩譲って認めるとしよう。だって鬼も建築技術凄いって聞くし、同じ大妖怪の幽香さんなら出来て不思議じゃないかもしれない。だがこの短時間で調理に必要な設備や客席等々、運営に必要な物品全てを用意したと言うのか。どんな速さで仕事をすれば成し遂げられるんだ。私は大妖怪のイカれた高スペックさに神経が焼き切れそうになった。
「そ、それで私に、如何なる用がありんして訪ねて来られたでござい申しますか……?」
思考処理が追いつかない今、日本語なんてクソ食らえである。
幽香さんは笑顔を崩さぬまま、ぽんっ、と自身の胸を叩く。豊満な二つの塊が、赤チェックのブラウスを内側から揺らした光景を目撃して、大妖怪との格差を改めて見せつけられた気分になった。いっそ殺せ。
「私、店長さん」
「はい」
「あなた、店員さん」
「ん?」
「何て言うんだっけ? あー、奴れ――――違う、バイトさんね」
「おうちょっと待とうか」
突っ込んでしまった私は悪くない。突っ込んだが故に幽香さんの手によってお陀仏させられる可能性が否めなくもないが、私は悪くない。いや、ちょっと堪えが効かない性格は汚点かもしれないが、今そんな事はどうでも良かった。聞き捨てならない言葉を前に突っ込まざるを得なかったのだ。
「あの、私が協力させて頂くとしても、蜂蜜の調達を手伝うだけじゃなかったんですか? もしかしてお手伝いイコール奴隷とかいう方程式が出来上がっているんです? 違いますよ幽香さん、お手伝いはそんな殺伐としたものじゃないんです勘弁してくださいほんと心の底からお願いします」
「言葉の綾よ。あなたにはお店の運営を手伝ってほしくて」
それまたなんでと言いかけて、幽香さんの方が先に口を開いた。
「あなた、私に色々とアドバイスをくれたじゃない? 私ってどうも、接しづらいみたいなのよね。今まで私に意見を言ってくれる人はあまりいなかったんだけど、あなたはハッキリ言ってくれるし、蜂蜜は美味しいし、丁度いいかなぁって」
―――――つまり、あれか。昨日夏の暑さと死の恐怖からテンションが変な方向に上がって喚きたててしまった事が原因で、私はこんな窮地に立たせられていると言うのか。
気がつけば私はくるりと踵を返していた。大好きなおうちは真反対の方角だが心底どうでも良かった。この大妖怪相手に口で勝てる訳は無い。ましてや腕力なんぞで挑みかかれば右ストレートで粉砕されるのは目に見えている。ここは回れ右から前へ進め、そして全速前進即帰宅が最良の選択肢と言えるだろう。
と言う訳で、
「失礼します」
「待って」
しかし万力の様な力で肩を掴まれてしまった。か弱き乙女のリグル・ナイトバグは逃げられない。さながら食虫植物に捕まった様な絶望感が私を包んだ。要するに死んだ。
幽香さんは花のようにふんわりと、しかし独裁国家の総帥の如き圧力が籠った言葉を私に囁く。
「お願い」
「……………好きにしてくらはい」
ああ、もう駄目だと直感的に感じとった。これが虫の知らせと言う奴なんだな。
逃げられる訳なんてないに決まってる。だって相手はあの風見幽香だ。蛍の妖怪如きが勝てる見込みなんて最初っから無かったんだへっへーん。私は心の内で号泣した。どうして昨日、自分は蜂蜜を作ろうなんて思ってしまったのかと。よりによって何でこんなお方に目を着けられてしまったのかと。いっそのことぶん殴られてお星さまになって、それで終わりの方が良かったのではないかと。
まぁそんな事を嘆いても、後悔先に立たずとはよく言ったもので。
私はこれから訪れるだろう予測もつかない日々を、遠い目で眺めることしか出来なかった。
「ところで、あなたのお名前は?」
「リグル・ナイトバグです」
「蛍さんが良いわ」
「何で聞いた!?」