夏の日差しを跨ぎ、秋の紅葉を越して、気付けば冬景色に包まれていた幻想郷。
時間の流れは早いもんだと、両手に白煙の息を吐きかけながら朧に想う。
ひょんなことから幽香さんに目をつけられて、なし崩し的に始めたお店も、今日でちょうど五つの月を乗り越えた頃合いだ。
あの時はまさか冬までお店が続くなんて露程も思っていなかったなぁ。我ながらよく続いたもんだと感心する。
「さむさむ」
今日と明日は珍しくお休みな私である。何でも幽香さんに用事があって出られないらしい。
そんなわけで、私は絶賛暇を持て余していた。それはもうたっぷりと持て余していた。
久しぶりの休日だから何をしようかと考えたけれど、特に思い当たる遊びもない。外で何かするにしても蛍の私にゃこの寒さは堪える。
だったらミスティアのお店で温まればいいじゃない。こんな雪の日に屋台で呑む熱燗と八目鰻は格別なこと間違いなしである。
そう思い至った私は、さっそく足を運ぶことにした。
ざくざく雪原を突き進む。途中から寒すぎて飛んだ。もうちょっと厚着すればよかったかな。
ひぃひぃ言いながら飛んでいると、遠目に赤提灯の明かりが見えてきて、私は飛び込むように訪れた。
「ふぅぅ~寒い寒い。ミスティア、こんばんはー。お店やってるー?」
「およ? 珍しいじゃんリグル、こんな早くに来るなんて」
「今日と明日は休み。今大丈夫?」
「うん。丁度仕込み終わったとこだから。ご注文は何にする?」
「鰻の串焼き。あと熱燗」
「あいよ!」
頭巾を結び、袖を巻くって調理に取り掛かるミスティア。
すぐに魚の焼ける香りが漂ってきて、たまらず唾が溢れてくる。鰻に着けられたたっぷりの甘ダレが炭の上で弾け回り、じゅわじゅわと粋な奏楽を演出した。
うーん、美味しそう。何度来てもこの香りと音のデュエットは飽きないなぁ。焚火を堪能する時みたいに、ずっと味わっていられる自信がある。
「へいお待ち、八目の串焼きと熱燗ね」
「待ってました」
薄緑色の焼きもの皿に乗せられた三本の串焼き、仄かな湯気をほぅっと揺らめかせる徳利が満を持してやって来た。
串をとり、一切れ齧る。
あち、あちち。……うん、うん。やっぱり美味しい。熟練の甘辛ダレは優しく絡みつくように王道の旨味を届けてくれる。ホクホクで弾力に富んだ八目鰻独特の魅力は健在だ。病みつきになる。
徳利を傾け、お猪口に注ぐ。
清々しい酒精がふわりと舞って、そのまま鼻腔を突き抜けた。
ああ、良い香り。これだけでも十分楽しめそう。
でも冷めてしまってはもったいない。私は透き通ったお酒を一息に飲み干した。
喉を伝い、胃袋へ落ちていく日本酒の熱が鮮明に広がっていく。芯まで凍えそうだった体がみるみる暖まってきた。
「ッかぁ~! 効くぅ~!」
「ふふ。おっさん臭いよリグル」
「いやぁ、こればかりは仕方ないって。冬空の下で飲む熱燗に唸らないやつなんていないもん」
これは浮世の真理のひとつだと思う。満天の星、踊る雪の精、肌を刺す冬将軍のお膝元、提灯の明かりに当てられながら呑むお酒は格別だ。男も女も関係ないさ。
美味し。嗚呼、美味し美味し。
酒も進めば食も進む。無限ループが止まらない。
「ミスティア、おでん適当にちょーだい。あともう一合追加で」
「えっ、ペース早。大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。明日も休みだから」
自分で言っておいて何だけど、妖怪のくせに休日を計算して酒を飲むだなんて変な話だ。まるで人間みたいじゃないか。
私はこれでも妖怪だ。人間とは比較にならないくらいお酒に強い。例え明日が休みじゃなくても、ほんの少し飲んだくらいじゃ二日酔いにもならない。多分。
「はい、スジとこんにゃくと餅巾着、あと大根ね」
「おー。いいねえ、すっごく味染みてそう」
「そりゃしっかり仕込みしましたから。自慢のおでんよ」
自信満々のミスティアに誘われるがまま、まず大根に箸を伸ばした。
お出汁をたっぷり吸いこんで茶色に染まった輪切り大根を、ゆっくり箸で寸断していく。
旨みの湯煙が躍り出る。温かいお出汁がしたたる主賓を、私は丁寧に迎え入れる。
しっとりとしながら、重厚感ある大根と出汁の深い味わいが爆発した。
噛み締める度にじゅわわっと内から溢れ出すつゆの甘み、大根独特の野性感ある風味……至福だ。たまらない。
冬と言えばやっぱりおでんだよね。よく煮込まれてトロトロモチモチになった牛スジ肉も、味の染み込んだこんにゃくも餅巾着も、どれもこれも絶品に感じる。冬季限定の特権だ。
箸と一緒にお酒も進む。どんどん進む。止まらない
気付いた時には、もう雪の寒さを感じなくなっていた。
勢い余って一升くらい開けたせいかな、頭が蕩んとしてきてる。きっと私の顔は朱色に染まってるに違いない。
「みすちー、おかわりー」
「ちょっとちょっと、いくらなんでも早すぎじゃない? もう少し抑えた方がいいよ」
「大丈夫よ。妖怪だもん」
「だからこそでしょー。お酒が原因で退治された話なんていくらでもあるじゃない」
「巫女いない今、リグルさんは無敵だぞ」
「だーめ。飲むなとは言わないけどペース落としなさい」
「けちー」
サービスするから、と追加でおでんと水を差し入れてくれるミスティア。椎茸とお芋、にんじんの煮込み野菜三点セットだった。
でも今はお酒が飲みたい気分なんだ。これで誤魔化されるリグルさんじゃないぞ美味しい許した。いくらでもイケちゃう。
「なんだか珍しく深酒しようとするじゃん。何かあったの?」
訝しみながら顔色を伺ってくるミスティア。流石女将、飲食店を営んでるだけあって機微に鋭い。
……でもなぁ。何かあったかと聞かれても、別に何も無いんだよね。
勝手に想像して落ち込んでるだけで、今現実に何かが起こってる訳じゃあ無い。
ただ、そうだなぁ。
お酒に頼りたくなるくらいには、悩んでるってことなんだろうな。きっと。
「……馬鹿な話、してもいい?」
お酒のせいか、勝手に口が動いていた。
「いいよぉ。お酒扱ってるんだもの、愚痴くらい器で受け止めてやるわ」
「はは、流石みすちー頼りになる」
どんっと胸を叩くミスティア。
力強いその姿勢に、なんだか背中を押されたような気がして。
ぽつり、ぽつりと、この降りしきる雪の結晶のように、私は言の葉を紡いでいった。
最初はお店なんてやっていけるワケがないと混乱したこと。幽香さんの大妖怪ぶりに心底ビビりまくって気が気じゃなかったこと。
でも本当は、想像していたよりずっとずっと優しい人だと知ったこと。心から楽しそうにお店を営んでいるんだと気付いたこと。
いつしか私もあのお店に惹かれていたこと。だんだん楽しく感じるようになってきたこと。
そして、そんな日々がある日突然、気紛れな泡沫のように消えちゃうんじゃないかと、ふとした拍子に思ってしまったこと。
だから本当は、この休みだって怖く感じているということ。
「うん、うん。そっかぁ」
ミスティアは柔らかく微笑みながら、私の話を聞いてくれた。
そこに同情や共感は無い。聞き手として、私の膿流しを手伝ってくれているだけだ。
けれどそれが、今はとても心地良い。
「まぁ、そう思っちゃうのも無理ないよ。妖怪なんだし」
「え?」
「ほら、妖怪って忘れられたらそこで終了じゃない? そのせいなのかは知らないけど、私たちにとって
……終わりが、視える。
言葉の響きだけでも、どこか薄ら寒い空気すら感じる。お酒で温まった熱を奪われるようだった。
むしろ寒いというよりこれは、そう、冷たい。終わりって、とても冷たい言葉に感じる。
「実はね、妖怪が新しいことを始めるのってとても難しいことなの」
冷感を我慢するようにきゅっと下唇を噛んでいると、ミスティアは柔らかくはにかんで。
「だって、裏を返せばいつか来る終わりを作っちゃうってことなんだから。人間はそこに美しさを見出すし、サイクルが早いから終わりを迎えても誰かが受け継いでくれる。けれど悠久を生きる
……ああ。何となくだけど分かるなぁ、その感覚。
というより、私の中で言語化できなかったものをミスティアが代弁してくれたような感覚だった。
言われてみれば確かにそうだ。私はお店が終わってしまうのが怖い。今の楽しみが消えるのが怖い。いつしかそれを忘れてしまうのが――忘れ去られてしまうのが怖いんだ。
私たちは永い時を生きる。でも記憶は永遠不滅じゃない。
自分でも意図しない内に自分だったピースは必ず欠ける。どんなに頑張っても過去の風化は止まらない。咲いた花がいずれ散ってしまうように、形があった事実さえも消えていく。
失われていく形を実感する恐怖というものは、長く生きれば生きるほど顕著になる。だから妖怪は新しいことが苦手なんだ。
私も例に漏れず怖い。
これが、私の胸に燻っていた靄の正体だったんだ。
「……ミスティアはさ。それが分かってて、どうしてお店を続けられるの?」
無意識のうちに口が動いていた。どうして、ミスティアはそれでも平気なのだろうかと。
彼女は一瞬、きょとんとした顔になって。
「そうねえ。もし屋台が出来なくなったとしても、消えて無くなることはないって思ったからかな」
照れ臭そうにはにかみながら、そう言った。
「最初は焼き鳥撲滅を掲げて始めたんだけどさ、続けていく内にどんどん常連さんが増えていってね。『いつもの』って注文されることが多くなったの。これって素敵なことじゃない? 『いつもの』って言葉がその人の中に生まれるくらい、この屋台が当たり前の存在になってるってことだもん。その人はきっと、私が店を畳んでも、ある日ふとした拍子に『昔は夜雀の屋台があって、そこで八目鰻を食べながら仲間と馬鹿話で賑わったなぁ』って思い出してくれると思うんだ」
――内側から、心が胸を強く叩いた気がした。
「そう思った時から怖くなくなった。私自身も忘れっぽいから、いつか屋台のことすら忘れちゃうのかもしれないけれど、でもそれと同じように、誰かがずっと覚えていてくれるかもしれない。凄く人間臭い考え方だけど、私にはそれだけで十分」
照れくさそうに苦笑するミスティア。
けれど彼女の笑顔には、欠片も陰りなんて見当たらなかった。
果てに必ず終着が待っているとしても。また翌年の冬を迎えられる保証なんて、どこにも有りはしないとしても。それでも消えちゃうことはないと思えるから、彼女は笑う。
強く、強く、焦がれる太陽のような輝さで。
「それにねそれにね! 私の常連さんが増えるってことは焼き鳥撲滅に向かって大きく前進してるってことだもんね! これだけでもやりがいはとっても感じるわ!」
「はは。ミスティアは強いなぁ」
腕まくりしながらニッと白い歯を見せるミスティアに、私も精一杯の笑顔で返す。
きっと、幽香さんとお店を始める前の私だったら、ミスティアの言葉は分からなかったかもしれない。
でも今ならわかる。魂で共感できる。ひまわり喫茶が閉店しても、それは曖昧模糊な夢幻へ溶け消えていくわけじゃないんだと。
射命丸さんが来て。レミリアさんが来て。妖怪バスターズが来て。お姫様も来て。『外』からの超能力者や、あの古道具屋さんまでやってきて。みんなみんな満足してお家へ帰っていった。
なにより幽香さんは、とてもとても楽しそうだった。
始めた時と同じくらい、気紛れに興味を失ってしまったとしても、彼女はこの花弁が散るような幽かな時間の出来事を、いつまでも忘れずにいてくれるだろう。
お猪口を煽る。今度は逃げるためじゃなく、お酒で靄を洗い流すための一杯だ。
……うん。美味しい。スッキリした。
きっともう大丈夫。恐怖は消えた。
「よーっす、みすちー。やってるー?」
話が一段落したその時だ。タイミングよく、ルーミアの声が聞こえてきた。
夜のせいかテンション高めな声色だ。リボンと同じ柄のマフラーを巻いて現れた宵闇妖怪は、暖簾をくぐると私に向かって「ぐっどいぶにん」とサムズアップしながら隣にお尻をぽすっと置いた。
「久しぶりじゃんルーミア。元気してた?」
「いやー、最近雪しか食べれてないからしんどかったかな。人間全然いなくてさぁ、狩りにもなりゃしない」
「絶対めんどくさがって引き籠ってただけでしょ」
「なんでバレるの」
「そんなこったろうと思ったわ」
ししし、と悪戯っ子のように笑いながらおでんを注文していくルーミア。
やってきた牛スジをホクホク笑顔で平らげていく。
「うまうまうまま。……んん? おやぁリグルさん、憑き物が消えた良ーいお顔になってるじゃあないですかぁ」
「どうしたその癖の強い中年みたいな口調。一口も飲んでないのに酔っ払い染みてるぞ」
「リグルちゃんが酔狂な顔つきじゃなくなったからよーん」
不敵な笑みを浮かべながら大根を『むしっ』と齧る宵闇少女。どういうこっちゃ。さては素面で酔ってるなこいつ。
「ミスティアのお陰で気持ちが晴れたのさ。ありがとミスティア」
「ローレライ大将と呼べい」
「その設定まだ引っ張ってるんだ……」
いつの間にかサングラスまで掛けてるし。でも湯気で曇って見えなくなったらしく、すぐに外していた。
ふと、何かに気づいたようにミスティアはポンッと手を叩くと、
「ああそういえばルーミアちゃん。今日はお代金あるんでしょうね?」
「……おだいきん?」
「前回と前々回分のツケも含めてね」
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
冷や汗ダクダク流しながら梅干しみたいな顔してこっちを見るんじゃない。ビタ一文奢らないぞ。
「へへへ、へへへへ、そこをなんとか出来やせんかナイトバグ様。頼みよ後生だから助けてリグルの姉貴!!」
「窮地に陥った悪代官みたいに胡麻擦っても駄目ですってええいやめろズボンを引っ張るな! 捨てられた子犬みたいな顔をするなぁーっ!」
「因果応報よ、きっちり働きなさい宵闇の」
「ちきしょー!!」
ルーミアの悲鳴が轟き奔る。哀れ宵闇妖怪、抵抗も虚しく客人から店員へとジョブチェンジを遂げさせられた。
そんなこんなで、静かだった真冬の夜も、わいわいと喧騒を引き連れながら更けていく。
深雪は既に、晴れていた。