宵を越して休み明け。
たまにはちょっとくらい早く来てみようかなーなんて太陽の畑に向かってみたら、店が無くなっていた。
「は?」
瞬き三回。前方を確認。店舗無し。
目を擦る三回。再度前方を確認。やはり無し。
頬を叩く三回。念のためもう一度確認。どう足掻いても無し。
…………。
………………?
……………………!?
「え――ええええええええええええええええっ!?」
無い。無い! 無い!!
お店がどこにも見当たらない!!
雪に覆われた太陽の畑を脱兎の如く走り抜け、お店があった敷地内へと突撃した。
キキーッと雪の上でブレーキを掛ける。案外滑らないもので、狙いすました所へ見事に止まった。
穴が空きそうになるほど見渡す。辺り一面銀世界のせいで感覚狂いそうだけど間違いない。私が立っている場所は、紛れも無くお店があった場所だ。
ああやっぱり消えている。
幻覚でも幻術でもなんでもなく、正真正銘物理的にお店が消えている!
「うそぉ!? うっそぉ!? 本当に無くなってるじゃん!?」
一昨日屋台で覚悟を決めた矢先、まさかのひまわり喫茶完全消滅。あまりの急展開に脳ミソは一気にスパークして、驚愕をふんだんに乗せた絶叫を張り上げた。
無我夢中で雪を払い除ける。実は熊が冬眠するみたいにどこかへ埋まってるんじゃないかなきっとそうだと懸命に懸命に捜索した。
でも無い。やっぱり無い。どこもかしこも見当たらない。
手が痛くなるくらい雪を払ったけれど見つからない。あるのは店が立っていた事実を匂わせる、整地された地面の名残だけだ。
建物どころかその残骸すら、影も形も無くなっている。
ということは、この二日間、
「そ、そんなぁ~……流石にこんな早く無くなっちゃうとは思ってなかったよぉ」
へなへなと萎れた青菜のように崩れ落ちた。触覚なんかくたびれたキノコみたいになってしまう。少しだけ積もった雪の重さに負けているのがよく分かるほど曲がっている。
けれど雪原に沈んだ下半身を刺す冷感はちっとも感じなかった。感じる余裕なんて皆無だった。
「うう……まるで嵐にでも遭ったかのように突然であっけない幕切れだなぁ」
独り言ちる。終わってしまったことへの嘆きを。疾風迅雷の展開への感想を。
思えば急に休んで欲しいと言われた時から怪しかったんだ。きっとあの時点で飽きていたのかもしれない。2日も期限を設けてきたのは、お店を綺麗さっぱり解体するためだったんだろう。
儚い。あまりにも儚い。しんしんと降り注ぐ雪の結晶よりも儚いとは。
覚悟は固めたつもりだった。明日の朝お店が無くなっちゃっててもいいさと、ばっちり決めたつもりだった。
けれどいざ直面すると、なかなかキツいものが込み上げてくる。
冷たいような、痛いような、鮮烈な感覚が私の心臓を容赦なく穿つ。胸を氷柱で刺されたみたいだ。ぽっかりと空いた喪失感が、じわじわ亀裂を広げていくのがはっきりと分かった。
あー、ちくしょう。塩辛い水の味がする。
「せ、せめて。せめて一言欲しかったなんてのは、贅沢なのかな」
「蛍さん?」
「っ。……幽香、さん?」
聞き馴染んだ声がして、パッと振り返る。
雪の中心に彼女は立っていた。いつもの赤いチェックを基調とした淑やかな洋服と傘を携え、寒さ対策か、スカートと同じ柄のマフラーを巻いている幽香さんが。
ぐしぐしと目元を拭う。腫れぼったくなってるだろうから見られたくなかったけれど、隠す余裕なんて無かった。
いや、隠さなくてもいい。この寒さだ、きっと霜焼けの赤面に紛れてて分からない。
「どうしたの、そんなに目を腫らして。誰かにいじめられたの?」
「い、いや。違います」
「そう? なら良いのだけれど」
スタスタと立ち寄って来た彼女はポケットから柔らかなハンカチを取り出すと、残っていたらしい私の涙を拭い去った。全然バレてるじゃないかと気恥ずかしくなって、思わず眼を逸らしてしまう。
羞恥と困惑の焔が、話の舵を変えようと動く。
「それより! それよりですよ! お店が! ないんです! もう畳んじゃったんですか!?」
「ああ……それについてなんだけど、お店ね、移転したの」
「いてん」
予期せぬ答えに、思わず無意識のオウム返し。
私はぱちくりと瞼を瞬かせた。きっとすごい間抜け面を披露していることだろう。
そんな私を前に、いつも通り変わらぬ様子で彼女は言う。
いや、違う。ちょっとだけしょんぼりしていた。
「ごめんね、本当はサプライズのはずだったんだけど計算を誤っちゃって。まさか蛍さんが私より早く来てるとは思わなかったの」
申し訳なさそうに眉を曲げて、事の真相を説明してくれる幽香さん。
察するに、もしかすると二日間の用事とはお店の解体ではなく、店を移す作業に当てられた時間だったんだろうか?
で、休み明けに待機して、やってきた私にサプライズというのが当初の予定。ところが私が早く来てしまったものだから、食い違いで予期せぬトラブルが起こってしまったと。
「な、なんだぁ~~、そうだったのか。よかったぁ」
想像とは違う結末だった安堵のせいか、へにゃんと脱力の極地に至る私。
途端に感覚が戻ってくる。纏わりつく雪の冷たさが全身を撫でまわして、小さなくしゃみが飛び出した。
すかさずハンカチをくれる幽香さん。優しい。今度洗って返そう。
「それで、どこに移転したんです?」
ずびずび鼻を鳴らしながら、肝心要な部分を聞いてみる。
太陽の畑はアクセスこそ良くはないものの、妖怪の店という意味ではとても良い立地だったんじゃないかと思う。景色は綺麗だし、幻想的で優しい雰囲気は絵になるくらいマッチしていた。
そんな場所から店ごと移したってことは、太陽の畑以上に良い立地を見つけたということなのだろうか。
……ん? よく考えたら、痕跡を見る限り店ごと移してるんだよね。中身を持って行ったんじゃなくて、外枠ごとごっそりと。
どうやったんだ。まさか担いで行ったわけじゃあるまいな。幽香さんならやりかねないけど。
「ふふ、それは行ってからのお楽しみ」
久しぶりのだいようかいパワーに戦慄していると、含みのある微笑みが咲いた。
久しぶりに見た笑顔だ。薔薇に棘ありを体現したかのような表情で、こういう時は私の驚愕メーターがカンストして破壊されると相場が決まっている。
幽香さんは踵を返すと、そのまま何も言わずにスタスタ歩き始めてしまった。
どうやら着いてきなさいという意味らしい。私は慌てて後を追わんと駆け出した。
ざくざくと降り積もった雪の原を抜け、今は水も無く眠りに就いた田園広がる農道に出る。けれど別段、お店らしきものは見当たらない。
どこまで行くつもりなんだろう。このまま行くと人間の里に着きそうなんだけど。
「あのー、どこまで行くつもりなんですか?」
「もうすぐよー」
と言いながら、遂に里へ入ってしまった。
慌てて触覚を隠す。一応何もしなければ里の中でも大丈夫なんだけど、念には念だ。特に私は虫の妖怪だから巫女に通報されちゃたまらない。問答無用で退治されそうだし。
やはりというべきか、物珍しそうな視線が私たちに集中する。特に幽香さんは目を惹いていた。何割かはデレデレとした男だったけど。妖怪に見惚れる人間とは奇特な人たちだ。
そんな視線も意に介さず、幽香さんは止まることなくどんどんどんどん突き進み、里を横断するように歩いていく。
うーん、一向にゴールが見えない。歩きながら周辺家屋を逐一確認してるけど、お店の姿はどこにもない。
幽香さんは気紛れだ。当ての無いぶらり旅のような気軽さで、気に入った事なら即座に実行に移す行動力とパワーがる。
そんな背景があってか、時折とんでもない真似をしでかす大妖怪だ。どこにお店を構えててもおかしくない。
ないんだけれど、だからこそ全く想像がつかない。
そうこう思考している内に、人間の里を抜けてしまった。どうも里の中では無かったらしい。
「よいしょ、よいしょ」
冬の幻想郷は中々歩き辛いことで有名だ。というか雪が降り積もって歩けない日もある。雪の妖精や冬の妖怪にとっては天国かもしれないが、虫の妖怪にとってはかなりの艱難行脚である。
だというのに、次にやってきたのは坂だった。こりゃたまらん。ひぃひぃ下品な声が出てしまう。相変わらず幽香さんは鼻歌混じりで余裕だけれど。
「って、えと、幽香さんこの先は……!?」
「あら、気がついた?」
クスクスと、前方で妖しい笑みを零す幽香さん。
そりゃそうだ。一面銀景色に覆われていても気付かないわけがない。ここだけは間違えようがない。
だって、だってこの先は。
「お察しの通り、移転したのはここの上」
妖怪の天敵にして幻想郷の調停者。楽園の平和を愛する、のんびり巫女さんが住む根城。
東の果てのファンタジアの要にして、どの勢力や領域にも属さない、曖昧模糊な境界の杜。
「博麗神社。しばらくはここで営業するわ」
純白のアクセサリーに飾られ、紅白と化した鳥居をバックに、幽香さんはいたって平然とそう言った。
〇
「――とまぁそういう経緯で、一時的な営業許可を出したってわけ」
涼し気な表情で丁寧に説明してくれたのは、我らが素敵な巫女こと博麗霊夢だった。
彼女が話してくれた内容はこうだ。
ある日幽香さんは白銀に染まってしまった太陽の畑を見て、『これはこれで風情があるけど、やっぱり向日葵は夏の元気な姿が一番ね』と感じた。その時、お店の窓から眺められる景色が一番良い状態の太陽の畑ではなくなっていると気付いたらしい。
出来れば最高峰の景色を眺めながら過ごして欲しい――そんな風に考えた幽香さんは、幻想郷だと一番良い風景が眺められるのはどこだろうと模索した。
そうして辿り着いたのが博麗神社だった。ここは幻想郷を一望できる場所にあるから、銀世界を肴にするには丁度良いだろうと。
が、狙いを定めたからと言ってそうは巫女が卸さない。当然幽香さんの相談は突っぱねられた。
まぁ当然だろう。いきなり境内に妖怪の店を置かせろと言われてはいどうぞと頷く巫女はいない。時々河童やらなんやらが屋台やってる気がするけど。
ともかく、そこで二人は交渉し合った。
まずは弾幕。幻想郷の正統な決闘方式である。
結果は丸一日かけて1勝1敗、引き分けだ。それはもう常軌を逸した
で、一時休戦したところを、二人は言葉で交渉したのだそうな。
『あのね、そもそも神社で店やりたいとか期間限定でも良いからさせてくれだとか、駄目に決まってるでしょそんなの。博麗神社をいったいなんだと思ってるの』
『もちろんタダとは言わないわ。お菓子食べ放題券あげる。どう?』
『お菓子食べ放題……い、いや、そんな安い買収になんか乗らないからね。食べ物で釣ろうったってそうは――』
『じゃあご飯もオッケー。どう?』
『ぐっ……ご飯……お菓子……毎日おいしいものが家の傍でタダ……いえ、いえ! 私は博麗霊夢よ! そんな甘い誘惑になんか屈したりしない!』
『今ならなんと、霊夢のリクエストに何でも応えちゃう券かっこドリンク付きまでついてきます』
『のった』
実に平和的な話し合いだったそうな。
「昔、霖之助さんとこでチラッと見た外来の書物に気になる食べ物が載ってたのよね……うへへ……何でも食べれるうへへ……。あれ一回食べたい、ぴざ? ぴっつあ? たくさん具が乗ったやつ。円くて贅沢そうなの」
「ん、今度作ってあげる」
よしゃー! とガッツポーズする博麗さん。初来店から割とちょこちょこ来ててお菓子食べてたけど、洋食に手を出したことは無かったからこその反応なのかもしれない。
「ただし、冬の間までよ。春からは花見とか色々あって忙しくなるんだから、桜が咲く前には撤去しなさいよね」
「分かってる。さ、行きましょ」
言って、幽香さんは私の手を取るとお店へ向かい始めていった。
肝心の建物はといえば……敷地面積こそ狭まってるんだけれど、なんか、縦に伸びていた。境内をあまり侵略しないよう配慮した結果なのかもしれない。
階層で言えば二階建て。全体的にシャープなフォルムになっていて、神社と雰囲気を合わせるためか和風っぽい出で立ちだ。
「随分雰囲気変わりましたね。幻想郷寄りのデザインになってる」
「でしょ? 流石に南蛮風のお店を神社にドーンじゃ景観も何もないと思って、少し改造したの」
そんな玩具みたいに家屋を建て替えられるのかって疑問は今更だ。彼女はたった一日で家を建てた大妖怪だし。うん。大丈夫なんだろうきっと。
とにかく、花を愛でるのが好きな彼女にとって、やはり景観とのバランスは大事らしい。これは私も同感だ。
「ささ、中に入ってちょうだい。新装記念の第一号は貴女だって決めてたの」
「へ? 私ですか?」
「うん」
あたりの雪が解けてしまいそうな、春風を匂わせる笑顔で彼女は言う。
そのまま手を引いて、小さな木造の階段を上がっていく。木の戸を開けば、カランカランと鈴がなった。
石造りから木造建築へ変わった店の中へ、私たちは足を踏み入れる。
一言で表すなら、暖かみに溢れた場所だった。
オレンジの光が内装を照らす、木造特有の安心感と居心地の良さに満ちた店内だ。控え目ながらも雰囲気と調和した家具の数々が揃えられている。
一番目を惹いたのは、厨房を一望できるようになったカウンターだ。幽香さんとも気軽に談笑しつつ、軽食を楽しめる構造になっていた。
私は浮足立つように駆けた。お店の中心へ行ってくるくる見渡す。全貌を一身に感じ取るように。柔らかな木々の香りを受け取るように。
「うわぁ、凄い凄い! 素敵ですよこれ!」
「そう言ってもらえて嬉しいわ。さ、こっちへ来て。折角だからお茶にしましょ」
パチンと指が弾かれる。星のような光が舞った。
細やかな魔法が染み渡る。どこからか宙を飛んでやってきたクロスがテーブルを覆い、椅子が独りでに動いて用意されていく。
促されるままに腰かける。幽香さんは一人キッチンへ消え、ティータイムセットを一通り揃えて戻って来た。
あらかじめ分身を置いて備えていたのだろうか。いい塩梅に蒸れてそうな紅茶の瓶と、見たことの無い不思議なお菓子がタワーのように積まれたお皿がやってくる。
一口サイズの、丸くてカラフルな焼き菓子たちだ。明るい桃色、薄緑、焦げ茶色、檸檬色、空色――本当にたくさん種類があって、それが塔のように積まれていた。まるでお菓子のアートみたいで、何だか見てるだけで楽しくなってくる。
「なんですか、これ?」
「これね、マカロンって言うの」
「まかろん?」
「マカロン」
まかろん。まかろん。ポップな響きだ。見た目も名前も可愛いなんて卑怯じゃないか?
ほへーっと見惚れていたら、幽香さんが紅茶を注いで渡してくれた。冬の寒さで冷え切った体には沁みるようなミルクティーだ。
カップを受け取り、口を着ける。ふわりと薫る紅茶の気品とミルクの柔らかな舌触りのコラボレーションに思わず笑顔になった。
ああ、良い。とても良い。お腹の中からぽかぽかしてくる。冬のカフェと言ったら「これだ!」と唸りたくなるような至極の一品で間違いない。
まかろんも食べてみる。サクッと小気味良い音がした。お砂糖の滑らかな甘みが活発に広がっていく。
見た目や食感のクッキーっぽさに反してけっこう甘いお菓子だ。お砂糖の泡を上品に固めて作ったような感じとでも言うべきか。純度の高い甘味に苺や抹茶、チョコレートのフレーバーが合わさってて和やかになる。
これ、思った以上に紅茶と相性抜群だ。少し強めな甘みをミルクティーが良い感じに中和してくれている。
本当はたくさん食べるタイプのお菓子じゃないのだろうけれど、サクサクいくのを止められない。魔力に似た魅力が確かにあった。
「美味しい?」
「凄く、凄く!」
「良かった。あんまり馴染みのないお菓子だから、口に合わなかったらどうしようって思ってたの」
「確かに体験したことのない不思議な味ですね。でもなんだろう、どこか馴染むような風味が……?」
「あっ気付いた? 実はね。これ蛍さんの蜂蜜使ってみたのよ」
にこにこと微笑みながら、一緒にまかろんを齧る幽香さん。
昔は心底怖かった彼女の笑顔も、最近は何だか純粋に美しく感じてしまう。まるで絵画を眺めるような心地になる。
「ほら、見て」
幽香さんの言葉に誘われ、私は窓の外を見た。
そうして一望した風景に、意図せず心を盗まれてしまう。
雪と命が彩る世界があった。
しんしんと降り注ぐ雪花の結晶が、綿毛のように降り積もる純白の世界。
けれど寂しさはどこにもない。外れに見える里の明かりや空を舞う妖精たちの舞踏会が、眠る幻想郷に命を与えている。
静かで、賑やかな、不思議な光景。私たちが愛してやまない郷の一描写。
それを瞳で堪能しながら味わうお茶の、なんと安らぐことだろう。
「綺麗ですね」
「ええ、そうね」
「……私、幽香さんとお店やれて良かったです」
脈絡も無い言葉が飛び出した。
けれど今こそ必要だって確信できる言葉が、雪解け水のように流れ出た。
「最初、正直すごく不安でした。あの大妖怪の幽香さんといきなりお店やるだなんて、正気の沙汰じゃないって思いました。これからどうなるんだろうって」
言葉が意志を持ったかのようにやってくる。次から次へと、羽を生やしては飛んでいく。
幽香さんは微笑みを抱いた沈黙のまま、そっと耳を傾けていた。
「でも、なんだかんだ楽しくて。おやつも美味しいし、普段経験しないことばかりで新鮮だし。幽香さん、とっても優しいし。気付かない内に、どんどん充実していって……心から、良かったと思ってます。本当に、心から」
言葉の流れが嘘のようにぴたりと止まる。せわしなく動いていた唇がしんと静かになった。
不器用で、不格好な、語彙力なんてない拙い感謝。私はそこまでストレートな性格じゃあないから、面と向かって言うとどうしても突っかかってしまう。
ああ。けれど。私は今、綺麗に笑えているだろうか。
「……ぶっちゃけるとね、私自身、ここまで続くと思ってなかったわ」
紅茶のカップを煽りながら、幽香さんは独り言ちた。
かつての出会いを想起しているかのような、追憶を帯びた瞳をカップの中に落としている。けれど揺らぐ水面は、赤い瞳を映さない。
「せいぜいもって3日だと思ってた。気紛れに思いついた暇つぶしだったし。少し遊んで、満足したら終わりでいいかって。……それでもここまで続いたのは、間違いなく貴女がいてくれたからよ」
コトリ、と。カップの座る音が咲く。
「だから、うん。余計なことは言わない。ただ――ありがとう、リグル」
――私は、確かにこの眼で目撃した。
世界で一番綺麗な花が、私に向かって微笑みかけてくれたのを。
「な、まえ」
名前。名前。私の名前。
リグルと初めて呼んでくれた。はっきりと、私の耳に届けてくれた。
今までずっと蛍さんと呼んでいた。頑なに名前を呼ばなかった。
それは、根本的なところで私に興味が無いからだと思っていた。
得てして大妖怪とはそういうものだ。特に幽香さんは、例え身近に在るものであっても心の底から興味を抱かない限り、絶対に名を呼ぶような人ではないと思っていた。
けれど今、彼女は私の名前を口にした。
霊夢や魔理沙と、同じように。
「っ」
ああ、ああ、ああ。
どうしよう。顔が熱い。というか多分、今凄い顔になってるんじゃなかろうか。
恥ずかしい。見られたくない。でも俯いたままなんて失礼だし、どうしたらいいのだろう。
「……わたしのほうこそ、ありがとう、ございます」
苦肉の策で窓際を向き、むずむずする胸をどうにか鎮めながら、絞り出すように私は言う。
フフッと小さな笑みが返ってきて、あー耳まで真っ赤なの見られてるんだろうなーそうだろうなーと、自分勝手に自爆した。
熱い。熱い。自分の熱で火傷してしまいそうなほどに。
私は熱を逃がすように、雪を眺めながら言葉を零す。
「……このまま、ずっと続くと良いですね」
「ええ。私もそう思う」
ちらりと視線を遣ってみれば、ほんの少しだけ気恥ずかしそうにはにかむ幽香さんの姿があった。
だぁ、ちくしょう。やっぱり一生かかっても、風見幽香には敵いそうにないや。
〇
始まりはほんの些細な出会いだった。
ある妖怪の悪戯が、ある大妖怪の興味を惹いた――本当に、たったそれだけの小さな出会い。
そんな泡沫のような切っ掛けは、何時しか二人の想像を遥かに超えて広がった。
太陽のように輝く花々に埋もれるお店が生まれた。
天狗の瓦版が世俗を惹いて人が来た。
それまで特に接点も無かった妖怪と大妖怪のドタバタコンビは、来る人来る人をもてなした。すると不思議なもので、幻想郷の住人たちが次から次へとやって来て、まるで夏の向日葵のように、二人はどんどん明るくなった。
しかし楽しいからこそ、ちょっぴり曇りも訪れた。いつか訪れる洛陽を惜しむ心が、野に育つ苗のように芽吹いてしまった。
妖怪は心の生き物だ。だから終わりがとても怖い。楽しい日々がシャボン玉のように消えてしまうのが、とてもとても大嫌いだ。
けれど蛍の妖怪は果てに洛陽の意味を識る。終わりの一幕とは落花ではなく、また新しい日々という種の産声で、それでも決して消えることのない、魂と記憶の一輪なのだと。
甘く、優しく、柔らかくて弾けるような、美しい日々の一弾子。
終わって欲しくない毎日だけれど、去り行く一欠けらで良いじゃないかと、リグル・ナイトバグは微笑みを映す。
この日々が気紛れに吹き散らされる花弁のように終わっても、眺め続けた花の色を、彼女は決して忘れないから。
だから、この物語はここでおしまい。
「幽香さん、掃除終わりましたよ!」
「あら、ありがとう。こっちも準備終わったわ」
「じゃあ看板を開店に変えてきますからねー!」
店長お手製の帽子を被り、新緑色のスカートを靡かせながら、蛍の少女は元気に駆ける。
カランコロンとドアを開いて、掛けられた看板を「閉店中」から「開店中」へとひっくり返した。
そんな時、不意に人影が現れて。
気づいたリグルは、100万ワットの笑顔を浮かべながら迎えるのだ。
「いらっしゃいませ!」
――それは太陽の畑であったかもしれない、ただそれだけの物語。