「外食がしたい」
そよ風に揺られる竹の幹が、カランコロンと和を奏楽する永遠亭。正真正銘不死身の姫君こと蓬莱山輝夜は広間のちゃぶ台でだらしなく顔を押し潰しながら、ぼんやりとした調子で呟いた。
かつて都中の男を虜にした絶世の美貌もむにゅーっと潰れては形無しである。しかしそんな些細なことは今の姫にとってどうでも良く、きゅるると可愛らしい鳴き声を上げる胃袋の命令に呻くばかり。
「えーりーん。外食がしたいよー。ご飯食べに行って来て良ーい?」
「駄目です」
「なんでや」
哀れ蓬莱山。渾身のお願いはコンマ一秒も持たずに切り捨てられてしまった。
無慈悲に両断した張本人、八意永琳は、もはや手の動きを超越した速さで書き殴り続けている書類から一切目を離さぬまま、言葉の照準だけを輝夜へ向けて、
「あなたが藤原妹紅としょーもないタケノコ掘り合戦を起こしたせいで、永遠亭のお食事事情がタケノコ一色に汚染されたのをお忘れですか」
「うぐっ」
「アレをすべて消費しきるまでは駄目ですよ。いくら姫様の力で劣化しないとはいえ、勿体ない事この上ない」
事の始まりは三ヶ月ほど前に遡る。当時いつもの如く喧嘩をしていた輝夜と妹紅は、弾幕ごっこや殺し合いが若干マンネリ化していた事もあって、少し指向を変えてみようかと話し合った。その結果、年中問わず竹が生えては消えを繰り返す迷いの竹林のタケノコをどれだけ掘れるか競争しようと言う話になったのだ。
そして蓬莱人二人はヒートアップして掘り過ぎた。一朝一夕で食べきれる量ではない。永琳が思わず目を覆い、空を仰いだほどだった。
「いや、うん。それはもちろん分かってるわよ? 食べ物を粗末にするのは駄目だもんね、うん。でも永琳。私、たまには自分の舌に頑張ってるご褒美を上げることも、必要だと思うナー……?」
ここまで輝夜が必死になるのには相応のワケがある。この三ヶ月間、おやつを含めて三食全ての食事がタケノコで埋め尽くされてしまっているのだ。つまるところ飽きを通り越してグロッキーになっていた。
調子に乗って掘り過ぎたと思ってはいたものの、永遠亭には素兎たちがそれなりに居るし、全員でかかれば案外すぐに片付くだろうと初めは高を括っていた。
だがそれが甘かった。初期はタケノコ祭りに喜んでいた食卓が食事を経るごとに暗雲を帯び始め、祭りが二ヶ月目に突入した時にとうとう鈴仙が発狂した。終わらないタケノコ地獄が彼女の兵役時の記憶を刺激したのか、据わった眼で「欲しがりません勝つまでは」だとか末期戦時中の愛国者の様な台詞を口走り始めたのである。
このままでは永遠亭の栄養バランスだとかその他色々なものが危ないと悟った永琳は、急遽タケノコ地獄対策処理係を立ち上げた。その係として任命されたのが、偏り過ぎた食生活でもさして問題が無く、全ての元凶でもある輝夜なのである。
まぁつまるところ、全部自業自得なワケなのだが。
「なりません。甘やかしたら罰になりませんからね」
「そこをなんとか! お願いもう本当に限界なの最近は竹を見るだけで胃袋永夜返ししそうなってきてるのよこのままじゃ私のお姫様としての威厳を保つ事が新しい難題になるのも須臾の問題だわお願い助けてえーりん!」
「……」
「一回! 一回だけでいいから別のもの食べに行かせて! 反省してるし、ちゃんとタケノコは残さず完食するからさっ!」
ガチ泣きである。永遠を生きることを義務付けられ、それなりにハードな人生を送ってきたであろう輝夜も、永劫を思わせるタケノコには勝てなかったようだ。
えぐえぐと、顔を真っ赤にしながら涙目で縋りついてくる輝夜の姿に永琳は謎の罪悪感を抱いてしまった。こういう姫の表情にはめっぽう弱い永琳である。
暫しの間を空けて、ハァ、とため息をつき、
「仕方ないですね。一回だけですよ」
「やったああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ永琳大好きいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」
「静かに」
「ハイ」
嗜められて正座する輝夜。だが滲み出る嬉しさのせいでそわそわが止まらない。黒曜石のような瞳は、三ヶ月ぶりに何を食べようかと期待や希望に満ち、輝いていた。
「でも外食って言ったって、どこか宛てはあるんですか?」
「もちろん! 伊達にここ最近食のゾンビと化していた訳じゃあないわ!」
嬉々とした様子で、輝夜は懐から紙を取り出した。最近の『文々。新聞』のスクラップらしい。
輝夜は床にそれを広げると、「これ!」と元気よく指さして、
「最近妖怪が喫茶店を開いたらしいのよねー。ここに行きたいと思ってるの」
「なるほど」
肝心の記事を見る。別段不自然な内容ではなく、むしろ非の打ちどころの無いレポートになっていた。
店の景観や代表的なメニューが写真付きで取り上げられていて、自身の感想がつらつらと綴られている。お客様の声コーナーというインタビュー記事では、紅魔館の吸血鬼や守矢神社の風祝に普通の魔法使い、白玉楼の庭師に加えて、なんと博麗の巫女からも好評なコメントが書かれていた。あの名だたる人間たちや傍若無人な吸血鬼がこぞって良い所だと言うのだから、本当に質の良い店なのだろう。
ただ一つ懸念があるとすれば店主の名前なのだが……妖怪の悪事絶対許さないウーマンとして名高い博麗霊夢が太鼓判を押しているので、事実上無問題だと捉えた。
「分かりました。では優曇華に案内させましょうか」
「あっ、それは必要ないわ」
輝夜はひらひらと手を振りながら、
「私一人で行ってくるから!」
元気に答える輝夜の姿に、永琳は謎の不安感を抱いてしまった。
何せこのお姫様、叡智の化身であり森羅万象を見続けてきた八意永琳が知る中で、最も世俗に疎い箱入り娘なのである。
ざっくりと言い換えれば、初めてのお使いに行く娘を見る母の様な心境だったそうな。
〇
「ふふ、ふふふ。うふふふふふふっ。ふひひひひっ」
時は流れ、例のひまわり喫茶前。蓬莱山輝夜は遂に待ち望んだ瞬間を前に不気味な笑いを零さずにはいられなかった。
苦節三ヶ月。一日三食プラスおやつで考えると、単純計算で三百六十食ぶりにタケノコから解放された食事へありつけるのだ。意地汚いと揶揄されたとしても、輝夜は一向に構わない心持ちでいた。
可愛らしいボードを下げた入り口の前に立ち、輝夜はまず深呼吸をする。
思い返せば、外の店へ入った記憶は数えるほどしかない。いや、外食をする時は他人と一緒だったから一人は実質初めてかもしれない。それ故だろうか、輝夜は珍しく緊張状態に陥っていた。
まるで見慣れない物を怪しむ猫の様な手つきで、コンコンコンッとドアをノック。
「ご、ごめんくださぁい」
今回、輝夜はもし致命的な間違いを犯しても恥をかかないよう、鈴仙が人里へ薬売りに赴く際の衣装を借りている。即ち変装だ。いつもの和を取り入れた華美なドレスは置いてきた上、自慢の黒髪は束ねて頭巾に仕舞ってあるので、まず初見で気付かれることは無いだろう。
が、しかし。頭で分かっていてもやはり割り切るのは難しいか、どこか落ち着かない輝夜だった。
「はーい」と少女の声が聞こえてきて、カランカランと鈴の音を立てながらドアが開く。
輝夜を迎えたのは、新緑の髪が特徴的な虫の妖怪だった。清楚ながらも可愛らしさを忘れていない制服を身に纏っていて、思わずてゐや鈴仙に着せたらどうなるだろうと想像を駆り立てられてしまう。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「はいっ一人です」
「どうぞ、ご案内いたします」
川を流れる木の葉のように、輝夜は店内へと足を踏み入れた。
洋風を基調としながら植物の穏やかさや暖かさを融合させた内装は、新しい和洋折衷のスタイルを輝夜へ教授し、感動を与える。店内の至る所に花や草木が咲いているのだが、それら一つ一つが茶室に添えられた一輪の花の様で、欠片も邪魔だと感じないのだ。
輝夜は昔から数多の美術品や芸術に関心を持ち、またコレクションし続けてきた生粋の収集家である。故に審美眼に関しては八意永琳すら上回るのだが、この店の完璧に調和されたレイアウトはそんな輝夜でも唸らざるを得ない、一種の匠技すら感じるほどの出来栄えを誇っていた。
思わぬ面白さの発見に、輝夜の機嫌は向上していく。ご飯を食べるだけの筈が、まさか最初に店内の風景を楽しむ事となるとは、全く想像していなかったのだ。
「こちら、メニュー表になります」
待ってましたと表を受け取る。初めてファミレスに来た子供の様な心境で、輝夜はうきうきとページを捲り続けた。
「……」
読み終えて、しまったと輝夜は顔を青冷めた。
理由は簡単。蓬莱山輝夜は洋食をほとんど食べたことのない和食育ちの和食派だった。そしてこのメニューには、解説は載っていても料理の写真や絵画が無い。
幻想郷なので当然と言えば当然の仕様なのだが、つまるところ、「ぼんごれ」やら「ぶるすけった」だとか言う珍妙な名前から、肝心の料理がいまいち想像出来ない事態へ陥ってしまったのである。
さて困った。輝夜にとって今回の食事は、タケノコ梁山泊を攻略するまで二度と迎える事の叶わない貴重で特別な一飯である。故に失敗は是が非でも許されないし、ましてやよく分からないままフワフワした調子で頼んで出てきた料理を口にして「なんか想像してたのと違う」と靄々を抱えるハメになるなんてもっての外だ。
絶対に絶対に、選択ミスは許されない。
となると、輝夜にも分かる和食がメインになってくるのだが。
「…………」
いかんせん、今までずっと和食タケノコ塗れだったのだ。折角西の料理を扱っている店へ来たのだから、洋食を食してみたいと思うのが正常な好奇心である。
しかし同時に、未知に対する不安もある。ずっと山菜や魚や桃などの精進料理を口にしてきた輝夜が初めて地上の牛肉を口にした時、慣れていない味覚のせいかあまり美味しいと感じられなかった記憶が、さっぱり全貌の見えない洋食への進出を妨げたのである。
「むむ、むむむむぅ、むむむむぁぁ~~~~~」
メニュー表と睨めっこを続けること早数分。あまりに真剣な顔で悩む輝夜が気になったのか、先ほどの店員がやってきて、
「あの、どうかされましたか?」
「ぇっ? あ、いえ。何でもないわ」
「そうですか。ご用がありましたらお声がけくださいねー」
ニコッと微笑む店員さん。釣られるように輝夜も笑みを返した。
改めてメニューを見る。
アユカケと季節の山菜天麩羅定食。うん、定番だが揚げ物は好きだ。安定して美味しいと思う。
川海老の唐揚げ定食。これもまた同じだ。しかも川海老は甘みも強く香りも良い。間違いなく美味しいと思う。
山の幸の炊き込みご飯。ああ、野菜と茸の優しく豊かな味が染み込んだご飯は、思い浮かべるだけで掻き込みたくなってくる。絶対美味しいと思う。
……………。
「き、決まらない」
和食であれば大体知っている。なので想像は容易なのだが、それが逆に仇となり、何を選べばいいのかも分からなくなってしまっていた。
このまま私は何も食べられないのかもしれない、なんて泥沼に沈みかける輝夜。考えすぎて濁り始めた瞳は、ぼーっとお品書きを映すのみだ。
ふと。
「……たまごかけごはん?」
一品料理の項で目が留まった。
枝豆の塩茹でや茶碗蒸し、おひたしなど、定食のサイドにつく小物を単品で選べるようにしてあるらしい。そんな中に、卵かけご飯の名前が鎮座していたのである。
「卵かけご飯……卵かけご飯か。良いわね、手頃だし」
昔は生卵を食すこと自体がタブーだったが、最近は衛生管理の技術が向上し、生食も十分可能となってきている。輝夜も初めて卵かけご飯を食べたときは、なんとも表し難い魅力に溢れた味わいに舌鼓を打ったものだ。
あれは特別美味しいと感じる料理ではない。しかしどこか逃れられない魔の魅力があるのだ。常日頃から率先して食べようとは思わないのだが、絶対に食べられない環境に置かれてしまうと、まるで水銀灯に吸い寄せられる羽虫の様に、ふらふらと求めてしまう不思議な一杯だと言える。
タケノコの蟻地獄に喉元まで飲み込まれている輝夜は、まさにそんな心境だった。久しぶりに、あの蕩ける甘みと白米の旨味が絶妙に嚙み合った一品を食べてみたいと、胃袋がコールを鳴らすのである。
「すみませーん」
卵かけご飯はお店によって味が大きく変わるなんて事はまず無いだろうし、量もたかが知れている。別にこれを頼んだからと言って他のメニューが食べられなくなる、などと言う事態にはならないだろう。輝夜は迷わず踏み切った。
注文をして、寸刻。漆の艶が映えるお盆に乗って、それは運ばれてきた。
「お待たせ。卵かけご飯よ」
持ってきたのは笑顔の可愛らしい店員ではなく、薔薇のような妖艶さと向日葵のような朗らかさを合わせた微笑みを浮かべる、花の大妖怪だった。
あんまり妖怪には興味のない輝夜も知っている。その名は風見幽香。この喫茶店を立ち上げた店長さんだ。
コトリ、と心地いい音と共に、白米の湯気がほうっと舞い上がる。和人であれば誰しもが愛してやまない米の匂いが鼻腔を突き、それだけで輝夜のお腹はきゅるっと鳴った。
さぁ実食だ、と備え付けられた卵へ手を伸ばす。
しかし、卵は無情にも幽香の手によって攫われてしまった。
「ちょっと、卵返してよ」
「まぁまぁ」
有無を言わせず幽香は卵をパクリと割った。溢れる卵白を一切散らすことなく、見事な手捌きでお椀へ移し、黄身と白身が綺麗サッパリ分けられる。
次いで幽香は別のお箸を取り出すと、今度はお米茶碗を取り上げた。予期せぬ店長の行動に輝夜は「えっ、えっ?」と狼狽えるばかりだが、しかし、幽香は気にせず行動を続ける。
卵白のお椀を取り、それをお米へ染み渡らせるように流していくと、間髪入れずに搔き混ぜた。カカカカカッ! と、目にも止まらぬ速さで白米と箸が躍る、踊る。しかし不思議な事に一粒の米も白身も飛び散らず、どころか流線を描きながら舞うそれは、一種の技芸なのではと錯覚させられる程だった。
混ぜる速度が徐々に静まりを見せていく。かと思えば、二つの箸がせっせとお米の壁を築き始めた。ちょうど、月の表面にあるクレーターのような感じである。
暫くして建設仕事を終えた箸たちは、銀の糸を引きながら退場していった。
余った卵黄を、ライスポケットへと投入する。
再び箸の舞踊が始まった。しかし今度は舞台のクライマックスの様な激しさは無く、さながら湖面で踊る白鳥の様に静かに、丁寧に、黄身と米が混ぜ合わせられていく。
やがて、時は来た。
眩い輝きを放ちながら降臨したそれは、比喩表現でもなんでもなく、黄金で出来た一杯だった。
ドロドロとした余分な粘り気がなく、卵黄で完璧にコーティングされた米粒たちはまさに砂金の一言に尽きる。米の持つ輝きと卵黄の持つ照りが絶妙に噛み合って、この芸術を生み出しているのだろう。
立ち昇る香りもまた、なんとも食欲を擽られる。優しい穀物のフレグランスにどこか野性的な卵の芳ばしさが加わったそれは、穏和でありながら暴力的なまでに胃袋を誘惑してくるのだ。
「な、なんか思ってたより凄く美味しそうなんだけど」
「ふふ。あともう少し待ってね」
しかし、幽香曰くこれでも完成していないのだという。ただ卵を割って掻き混ぜるだけだと思っていた輝夜は、気付けばこの一杯の行く末に釘付けとなっていた。まるで親に初めて高級料理店へ連れられた子供が、次々にやってくるコースメニューに期待を膨らませるかのように。
次に幽香がとった行動は、案外シンプルなものだった。
言っても、卵を混ぜ終えたご飯に対して出来ることなど限られている。トッピングだ。個人的な好みにマッチするよう、気分で薬味を添えるのみだろう。
案の定、幽香は黒い液体をさっと一周り振りかけ、次いで乾燥した緑色のチップを撒いたのみで事を終えた。
「お待たせ。ゆっくりしていって頂戴」
召し上がれ、と差し出された一杯。何か隠し芸があるのかと期待していた輝夜は、シンプルな終わりに少しばかり拍子抜けしてしまう。
なんとなく流されるまま、輝夜は手を合わせて感謝の言葉を述べる。
「頂きますっ」
一塊を掬い上げ、そのまま一口。
「……!? !!? !!??」
唇が米を迎え、包み込み、舌がそれを受け入れると、輝夜の口はまるで接着されたかのように開かなくなってしまった。
術を掛けられたわけではない。ましてや何らかの毒を盛られたわけでもない。至極単純になことだ。輝夜は、咀嚼を止められなくなったのである。
ほどよく絡み合った卵黄と卵白、白米たちが織り成す絶妙な粘っこさ、甘みと旨味の三重奏が輝夜の舌を包み込み、優しく、容赦なく蹂躙していく。愛撫のようなこそばゆい快感が味蕾を突き抜け、脳髄に電気を走らせる。輝夜はその甘美な快楽へ細やかな抵抗を示すかのように、ただひたすら噛み続けた。
「んっ んっ ぷぁっ」
一体何度この小さな塊を磨り潰したか分からない。息をすることも忘れた幾億の咀嚼の果てに、漸く輝夜は一口目の米を飲み込んだ。
トロリとした喉越しが食道を這うように伝わってきて、輝夜は思わず身動ぎする。想像の何倍も美味を感じさせるこの卵かけごはんは、もはや『美味しい』を通り越して『気持ちいい』の領域にすら片足を突っ込んでいた。
噛むことに集中しすぎて乱れた呼吸の調子を整えながら、輝夜は第二陣へと突入していく。
今度は透明感のある黒いソースが沢山掛かった場所をほんの少し掻き混ぜて、一気に掬い上げた。黒と黄金が入り混じり照明を照り返す米粒たちは、難題の至宝に匹敵する魅力さえ感じるほどだ。
恐る恐る、ぱくり。
(んぁっ)
爆ぜた。
そう表現せざるを得ないほどに、味の奔流が巻き起こった。
ただの醤油かと思っていたが、違う。圧倒的に甘い。しかし味の不調和からくるクドさは微塵も無く、どころか西瓜へかける塩の逆ヴァージョンとでも言うかの様な、甘みが持つ慈愛に似た深みがソースの塩味を引き立てるのだ。
しかもそれだけではない。どうやらこのソースには、魚介の出汁が配合されているようだった。
古来より和の人々が愛してきた魚独特の旨み成分が、ソースに蹂躙された口内へ追い打ちをかけるように弄ぶ。舌がたまらず幸せのラブコールを連発して、脳が痺れるような快感すら覚えるほどだ。
ここまでたったの二口。そう、たった二度しか口を着けていないのである。実際の時間も、ものの二分も経っていないだろう
なのにこの堪能具合ときた。いくらタケノコ地獄で舌と胃袋が干からびていたとはいえ、卵かけごはんを侮っていたと、考えを改めざるを得ない。
(はぁっ、はっ、はぁっ これ、ちょっとヤバいかも……っ)
食事に集中し過ぎたが故の酸欠のせいか、予想以上のクオリティに昂り過ぎたが故の興奮か。吐息がどんどん熱を帯び、荒くなっていく。
それでも食べるのを止められない。止めるなんて出来っこない。
気が付けば、輝夜は茶碗を手にとり、戦闘態勢へと入っていた。
(いただき、ますっ)
魅惑のアツアツご飯を一気に掻き込む。先ほどの二口とは比べ物にならない量の砂金たちが、口いっぱいに雪崩れ込んできた。
それでも掻き込む箸は留まることを知らない。傍から見れば頬がリスの様になっているかもしれないし、口元に米粒が着いているかもしれないが、知ったことではなかった。今はただ、この食欲中枢を直に殴りつけてくるご飯を味わう事だけに集中したいと、輝夜は瞳を閉じて選択したのだ。
(お、美味しい! なにこれメチャクチャ美味しいっ! 最初はそれぞれ個性を主張しているお汁とご飯が噛むたびに程よく調和されて、絶えず旨みの嵐がやってくる! おまけに、なんだろう? 仄かに海の香りがする振りかけの深みが一層味を引き立ててくれるから、飽きがまったくやってこない! 一杯だけしか食べられないのが、とっても惜しい!)
無限に出されても食べられると錯覚させられる、洗練された旨み成分の圧倒的猛攻。それは新鮮な霜降り肉がじゅうじゅうと焼ける香りの様に抗いがたく、採れたての野菜が孕む瑞々しさの様に扇情的で、茸や魚介が秘める濃厚な味わいの様に堪らない。
(あっ あっ これやばいっ 美味しいっ。美味しいに終わりがないだなんてこんなっ 噛むのをやめられないっ やめられるわけない……っっ!)
唇が、歯が、舌が、食道が、胃袋が、歓喜の声を上げ続ける。咀嚼も、嚥下も、食べる行い全てが圧倒的に幸福で、これが永遠に続けばいいのにとすら思えてしまう。
この激動がたった一杯のご飯でもたらされているだなんて、昨日までの輝夜には想像すら出来なかっただろう。
(ああっ 最っっっ高~~~ッ!)
卵かけごはん、おそるべし。
〇
けれど食事とはいつしか終わりが来るものだ。
ほんの須臾の一時だった。お茶碗一杯に広がっていた金の夢はあっという間に無くなって、空っぽの食器だけが虚しく残る。
まぁ、当然ながら満腹には届かない。どころかこの強烈な前菜が輝夜の乾ききっていた食欲へほど良いながらも少し満たされない潤いを与えたことで、ますます物足りない感が強まってしまった。
追加のメニューを頼むのはもはや当たり前だが、ひとまずそれは置いておく。
「店長さん。この卵かけごはん、信じられないくらい美味しかったわ」
「そう? ふふ、嬉しいわ」
「素材はもちろん良いものを使ってるんだろうけれど、これってそれだけじゃないわよね? よければトリックのタネを聞かせてもらえるかしら」
輝夜が気になったのは、何故ここまで卵かけごはんに引き込まれてしまったのか、という事だ。
この料理、いや、料理と言うよりは一品とでも言い換えるべきか。とにかく卵かけごはんは調理がシンプルの一言に尽きる食べ物だ。故に自分好みへアレンジし易くても、ただ美味しさを増す改良は実のところ大変難しい。そこに輝夜は目を付けたのだ。
「まず、卵白と卵黄は直接混ぜないようにしているの。最初にやったあれね。卵白を始めにお米と絡ませてから卵黄を加えると、一層風味が濃厚になるの」
後はこれ、と幽香は二つのアイテムを取り出した。
「特製お出汁と海苔。キーアイテムね」
「お、お出汁……? それって醤油じゃないの――あっ」
言いかけて、ソースに含まれていた甘みと香りを思い出す。
確かに、あの風味は出汁のそれだ。魚介類の美味しい所を全部濃縮還元したような味は、それが一番表現するのにふさわしい。
加えて、振りかけの正体が海苔だったのも納得だ。陸封の地に永住してから海産物はほとんど口にしなかったので忘れていたが、あの独特な磯の香り高さは焼き海苔のそれだった。
「お出汁は醤油をベースに、砂糖、みりん、お魚の出汁と、あとほんの少し隠し味を使ってるわ。普通の醤油より、こっちの方が一段と合うのよね」
激しく首肯。異論は無い。あの甘い出汁醤油が効いていたからこそ、卵のクドさを軽減し、どころかそれを長所へと仕立て上げられたのだから。
「他にあるとすれば……」
「まだあるの? 隠し味」
普段は物語を語り聞かせる側の輝夜が、すっかり聞き手へと回っていた。
幽香はそんな姫君に人差し指を立てながら、月下美人のような微笑みを零して、
「ほら、空腹は最高の調味料って言うじゃない?」
まさしく、ぐうの音も出ないアンサーだった。
〇
「永琳永琳」
「はいはい、なんでしょう?」
「もう一回あの喫茶店行ってきても」
「駄目です」
「うわあああああん!!」
店を堪能してから、約一週間後の姫様である。