真・恋姫†無双 一刀立身伝(改定版)   作:DICEK

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第051話 并州旅情編①

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一刀団の滞在していた宿屋は、洛陽南部、南門にほど近い場所にある。大体が相部屋であったとは言え、四百を超える人員が全て宿泊できる洛陽でも大きな宿だ。おおよそ一月滞在したその場所を、一刀たちは今日出立する。

 

 周囲には大勢の人が詰め掛けていた。その中には洛陽の住民で良くしてくれた人たちもいればただの見物人もいる。最前列で号泣しているのは、洛陽で就職の決まった元団員たちだ。

 

 洛陽は帝国の首都らしく広大であり、周辺を城壁で囲まれている。一周するだけでも一苦労なその都市から出る際には、向かう方向に一番近い門を選ぶのが普通であるが、近年、そこに例外が生まれるようになった。

 

 立身出世の糸口を掴み洛陽から旅立つ者がこぞって北門から出立するようになったのである。任地が南の方であってもおかまいなしだ。かつて北部尉であった曹操が乱世に名を馳せたことに由来しているという風習に一刀たちは乗ることになってしまった。

 

 曹操にあやかってという訳ではない。単に任地が北にあるというのが理由である。どうせゲンを担ぐのであれば曹操への必勝を願いたいものであるが、現時点では彼女の方が大分上の立場であるので文句を言うと恰好が悪い。早く彼女に対しても恰好付けられるくらいの身分になりたいものだと強く思う。

 

「それじゃあね悪ガキども! 大将に迷惑かけるんじゃないよ!」

「長生きしろよ女将さん!」

 

 世話になった宿の女将さんはそれはもう『女将さん』という感じの恰幅の良い初老のご婦人である。強面揃いの団員たちにも物怖じなど全くせず廊下で邪魔であれば蹴り飛ばす程の威勢の良さだ。

 

「お世話になりました。この御恩はいずれ」

「私の方こそ。良い機会をありがとうございました。長生きする理由ができました」

 

 団員たち相手だと雑な口調であるが、一刀たち幹部が相手だと女将さんの口調はとても丁寧になる。聞いた話では割と上流の生まれだそうで一刀団が宿を占拠するまでは金持ちやら官僚やらの客が入っていたという話だ。

 

「これ程立身出世の楽しみな方は貴方が初めてです。この方はどこまで行くのだろうと考えたら、病になどかかってはいられませんし死ぬことなど考えられません」

「ご期待に応えられるよう精進し、次に顔を見せる時には女将さんをあっと言わせてみせます」

「再会を楽しみにしております」

 

 おかみさんの笑みに見送られ、一刀は脇に抱えていた()()を大きく翻した。

 

「顔をあげろ! 胸を張れ! 百年先、千年先の人間が俺たちを見ているぞ!」

 

 先頭に立った一刀が羽織った衣を見て、野次馬たちにどよめきが広がる。その衣は太陽の光を受けて白く輝いていた。洛陽と言えば帝国で最も人と物が集まる都市、その一つ。その洛陽の民たちでさえ誰一人見たことのない輝きに彼らは目を奪われていた。

 

 この時が後の世の数々の演目で愛剣『銀木犀』と共に北郷の代名詞になる『白く光輝く衣』が衆目に晒された最初のことである――と、洛陽での記録には残っている。

 

 一刀がこの服を着るのは常にここ一番のことで戦の際には兵たちと同じように鎧を着こんでいたのであるが、後年どころか当時上演された舞台でさえ一刀を演じる役者は常に白く光り輝くようになり本人は頭を抱えることになる。当時でさえそれなので、後年作られた創作物は合戦場で敵味方全てが鎧姿でも、一刀一人が白く光り輝いているという有様だ。

 

 その衣はそれだけ当時の人たちには衝撃的で、鮮烈な印象として残ったのだ。

 

 光を纏った一刀を先頭に彼の仲間たちは堂々と洛陽の大路を行進する。許可など取っていないし示しを合わせてもいない。関係者に今日洛陽を出ると告げただけであるが、一刀が今日旅立つということは洛陽中の人間が知っていた。

 

 彼らを一目見ようという人間はしかし、彼らを邪魔するようなことはなく彼らのために道を空け、その威容に息を飲み目を奪われた。行進する一刀たちは洛陽北部で呂布の一団と合流。彼女の家族らを連れた一行は皇帝に演目を披露する曲馬団のような大所帯となった。

 

 北門につくまでも、その現象は続いた。洛陽に入る人間も出る人間も皆北門の前で足を止め、北門の役人が勢ぞろいで出迎える始末である。道を空けられるだけでも気が引けていた一刀も、ここまで特別対応が続くと気が滅入る。

 

 できればやめてほしいというのが本音でも、それを顔に出すことはできない。そういう役割を求められていないというのが、今は肌で感じる。気おくれし無難な対応をする北郷一刀など、民衆は誰一人求めていないのだ。英雄キャラなどするものではないなと心中でだけ嘆息し、一刀は努めて英雄っぽい顔を作って声をあげた。

 

「北郷一刀並びにその一党四百三十二名、皇帝陛下より命を受け任地へ向かう由。お通し願う」

「君命、聞き及んでございます。どうぞお通りください」

 

 簡単なやり取りの後、一刀は背筋を伸ばしたまま行進する。無手の人間がそれに続くが恋の家族を乗せた馬車は荷駄については門衛たちが素早くチェックしていく。彼らの普段の仕事ぶりを疑う訳ではないが、これだけ人の目があれば粗相もできない。

 

 まして下手なことをすれば舞台で末代までの恥さらしになるかもと思えば、普段真剣にやっている仕事でも更に身が入るというものだ。持ち出しを禁止されているようなものは何一つないので、ほどなく運搬組も北門を通過する。

 

 北門を抜けると、同じ景色が確かに違って見えた。仕事で街の外には何度も出たものだ。用事で北門から出たことも何度かあるが、気持ち一つ立場一つでこうも感じ方が違うものかとおかしく思う。道行く人の声援に応えつつ足取り軽くなる一刀の元に、馬車から降りてきたセキトが合流する。

 

 たたっと身体を上ったセキトが一刀の腕に収まる。最近の彼女はそこがお気に入りの場所なのだ。くんくん鳴き顔を鼻を擦り付けてくるセキトをあやしていると風が吹き抜ける。

 

 声が聞こえた気がして、一刀は振り返った。

 

 城壁の上に黒髪の美少女が立っていた。白い外套を羽織った彼女は供も連れずに一人立っている。見送りに来てくれたのだ。流石洛陽で一番の友達と少女に向けて大きく腕を振ると、少女はぴょんぴょん飛び跳ね、大きく両手を振って返してくれた。

 

 一刀が手を振るのを止めると少女もそれを止め、外套を翻して足早に去って行った。北門の城壁の上まで、本当に手を振るためだけに来てくれたらしい。少女の振る舞いに気持ちの温かくなった一刀は、次に洛陽に来た時にはもう少し彼女のために時間を取ることに決めた。

 

 行き交う人々の声援に見送られながら、しばらくは街道沿いを歩くことになる。大人数なので任地までおよそ二週間の行程であるが、それはまっすぐ行った場合の話だ。

 

 おそらく『向こう』から申し入れがあるだろうというのが一刀たちの見立てである。

 

 そしてその見立ては洛陽の城壁が見えなくなってすぐに正しいものになった。

 

 空を舞った鳥がまっすぐ恋の肩に止まる。主に仲間との文のやり取りをしてもらっている恋の家族だ。雌の文鳥の足に括りつけられた文を一読した恋は、それを一刀に渡してきた。

 

「董卓殿が俺たちに会談を求めるようだ」

「敗軍の将が今更同盟でも結ぶつもりでしょうか」

「俺は良いと思うけど」

 

 声音に不満がにじみ出ている稟に一刀は付け加える。最終的な決定権こそ一刀にあるが、そこに至るまでには皆自由に意見を言うのが一刀団の方針である。軍師の中でも一際弁が立つ稟が発言する機会が最も多く、最初に稟が意見するのが馴染になりつつあった。

 

「もはや解体された連合に義理立てをする必要はなく、洛陽で見聞きした限りでは董卓の治世は悪くないものでした。皇帝陛下の覚えも恋ほどではないようですが良かったようですしね。涼州兵の撤退も上手くいったようですから、長い目でみれば同盟相手としては悪くないでしょう」

 

 洛陽に入り馬超たちが撤退してから知った話であるが、洛陽から撤退する涼州兵の家族については涼州に戻る馬超たちが引き受けることで話がついていたらしい。百が数千になったら目立ちもするが、元々万を超える大所帯に数千増えたところで大衆は気にもとめない。後から涼州兵も合流すればその護衛も万全である。

 

「元々、馬超殿の母君の馬騰殿と董家は昵懇です。董卓軍は目減りしたとは言え多くが健在で馬騰軍は言わずもがな。董卓軍との同盟は一重にこの同盟に加わらないかという提案に他なりません」

「今同盟を組んだら席次が三番になるということだな」

 

 州全体に網を広げている土着の勢力と最近県令になりましたまだ赴任もしていませんな一刀たちでは扱いに差が出るのは当然のことだ。それなりに敬意を払ってくれている孫呉の方が異例なのである。

 

 普通に考えれば董卓からそういう提案があるのは悪い話ではない。席次が三番になるという点に目を瞑れば、彼女らの後ろ盾を得られるというのは中々魅力的だ。粒ぞろいとは言え大勢力と比べれば吹けば飛ぶような人数であるのだから大勢力の庇護と言うのは普通は喉から手が出るほど欲しいものなのだ。

 

 董卓本人も悪い話ではないと思って提案しているものと思われる。洛陽での治世やら恋から聞いた話では董卓というのはとても心優しい美少女のようだ。魔王と噂されていたのは単にやっかみなのだろうと思えるがいずれ頂点に立ちたいと思っている一刀からすると、そろそろ飛躍しようかという時に頭を押さえられるのは面白くない。

 

「一度は地元に帰るつもりなのかな」

「そうだとは思いますが最低限見通しが立ってからということなのでしょう。涼州までは長旅ですからね。董卓殿の立場では供回りだけでは心もとないと思われます」

 

 誰もが孫堅ほどに腕が立つ訳ではないし、孫堅くらい腕が立っても千二千の兵に囲まれれば窮地にもなる。恋という一騎当千の武人がいるのといないのとでは、勘定も大きく変わる。文のやり取りから恋の決意が堅いことは理解しているだろうが、その去就を確定させてから方針を決めるということか。

 

 加えてまとまった人数が洛陽周辺にいたらいくらなんでも目立つ以上、現在董卓が連れている兵の数は決して大軍団とは言い難い一刀団を下回っていると思われる。動員できる兵の数はそのまま集団の発言力に匹敵するのだ。董卓軍は確かに大軍団であるが、その大部分が今この地にいないのならこの地における発言力というのは本来の物よりも目減りせざるを得ない。

 

 再起するにしても隠居するにしても、早急に地元に戻らなければと考えるのも当然だろう。

 

「今後は俺と一緒に行くっていうのは董卓殿には伝えたのかな?」

「手紙では伝えた。会って一度お話もする」

「それが良いだろうな」

 

 大勝負に負けたのは事実で、時流を見て人間が離れるのも世の常だ。董卓とていつまでも誰もが従ってくれているとは思っていないだろうが、このタイミングで最強の武人がしかも弱小の勢力に引き抜かれるというのは思ってもみなかったに違いない。

 

「連携はしたいな。でも恨まれたくはない」

「恋の話では陳宮殿はほぼ確定、張遼殿も展開次第ではということでした。華雄殿が既に公孫賛殿の元に降っている訳ですから、これ以上の戦力低下は避けたい所でしょう。彼女ら以外にも有能な人材はいるかと思いますが、人手はあって困るものでもありませんしね」

「恨まれるのはほぼ確定ってことかな」

「それ以外のことで良好な関係を築くべきかと。再起を図るにしても時間はかかるのですからそれまでのことで援助をしてみるのも悪くはありません。加えて再起については董卓殿本人と側近の賈詡殿の間で温度差があるものと思われます」

「そこを突くというのも何だか悪い奴な感じがするが……」

 

 仕方ないな、と一刀は思い直した。恋を引き入れると決めた以上、それを理由に元の陣営と揉めることは想像できたことだ。それでも受け入れると決めたのは自分だし、今の恋は団の大事な仲間である。本人が向こうに帰りたいと言っているのならばまだしも、団に残ると言ってくれているのだから、それを守るのが団長の仕事である。

 

「まぁ誠心誠意行くとしようか。それにしても、恋がいるからという理由でこっちに来ても良いっていうのも仲良しだよな。二人とは付き合い長いの?」

「霞と澪とは割と長い。ねねとは洛陽に来てからだけど仲良し」

「ごめん、張遼殿じゃない方は誰かな?」

「高順。恋の騎馬隊で副長をやってた。虎牢関では恋の後ろを走ってたから、かずとも顔は見てると思う」

「虎牢関で恋の前に出た後は目を回してたから顔は見てないんだ。どんな娘?」

「優しくてかわいい。恋のことを大姉さんと呼ぶ」

 

 呼称以外に何も解らない恋の評価に苦笑する。好印象を持っている存在の恋の評価は大体こんなもので、それは人間以外でも変わらない。恋の家族には様々な動物がいるが、彼ら彼女らの評価も大体こんな風である。やさしいかわいいかっこいいが定番の三種だ。

 

「じゃあ張遼殿が小姉さんかな」

「そう」

 

 思ってたより付き合いが長いことに少し驚く。所謂『地元が同じ』ということなのだろうが、一刀の感覚よりも大分距離が近く絆が強いように思う。団の面々もグループごとに分かれる時は出身地別で固まっていることが多い。帝国では現代日本人が思うよりもずっと『地元が同じ』ということは特別なのだろう。

 

 昔なじみというものは良いものだ。そんな思いで視線を前に向けると、旅装の二人組の姿が一刀の目にとまった。街道から完全に退いて道を譲り、小さく頭を下げる。他のすれ違う人々と対応は同じだったが、その片方の女性が向ける視線が気になった。

 

 白く長い髪を丁寧に巻いた、眼鏡をかけた知的な雰囲気の女性である。頭を下げる前、彼女は温和な笑みを浮かべていたのだが、その笑みを浮かべる直前、一刀に向けた視線には全身に絡みつくようなねっとりとした雰囲気があった。

 

 この手の視線はよく知っている。軍師他知識人特有の、相手を値踏みする時の目だ。荀彧は刺すような、稟は締め付けるような、など視線から感じるものにも違いはあるが、女性の視線は風のものに近い。

 

 どこぞの誰それに仕えているまでは解らないが、知識階級の人物なのは間違いないと当たりを付けた。

 

 知り人かと思って記憶を探ってみるが覚えはない。これだけの美人で大きく開いた胸元ならば記憶に残っているはずだ。こういった美人と縁ができるなら有名になるのも悪くないと思うのは男の悲しいサガであるが、美人局やら刺客の可能性を考えると、たとえ凄まじく好みの女性であったとしてもおいそれと踏み込むことはできない。さっさと女遊びは済ませておくべきでしたな、と洛陽で存分に女遊びを堪能してきた面々にからかわれたばかりだ。

 

「北郷一刀殿のご一行とお見受けします」

 

 予想の通りに、その眼鏡美人は声をかけてきた。本人は泰然としているが、隣に立つ少女はがちがちに緊張している。力関係の解る佇まいだ。親子ほどに年齢は離れているだろうが親子ではなさそうだ。どちらも武芸をやっているという風ではないから、私塾の先生とその生徒かなと一刀は当たりを付けた。

 

「如何にも。そちらは?」

 

 任地に向かう人間の行列を止めるなど、普通あることではない。城壁が見えなくなるほど離れはしたが、ここはまだ洛陽の近くで街道沿いである。彼女ら以外の道を譲った通行人たちも何事かと視線を向けてくる。

 

「申し遅れました。私は盧植。戦火を逃れ洛陽を離れておりましたが、此度戻ることとなりました。北郷殿を始め、連合軍のご活躍にはいくら感謝をしても足りません。御礼申し上げます」

「念願のご帰還とあれば、私も微力を尽くした甲斐があったもの。南部で火が出た故戦の前と同じとはいかないかもしれませんが、皆々の尽力もあり治安も回復しました。安心して過ごされますよう」

「ありがとうございます。ところで」

 

 来たな、と一刀は心中で身構えた。眼鏡の奥の碧色の瞳が一刀を真っすぐに見据える。笑顔ではあるが笑ってはいない。一目で信用するのは難しいタイプの表情に、むしろ一刀は心を踊らせた。

 

「私はしがない私塾を開いております。こちらの者は生徒でして、初めて洛陽に足を踏み入れます。師匠贔屓ではありますが中々見どころのある少女です。希代の英傑様とこうして見えましたのも何かのご縁。よろしければ何か、お言葉をかけてはいただけませんか?」

 

 背中で稟のあきれ返った気配が伝わってくる。眼鏡巨乳美人が男に対するお願い、ということを差し引いても厚かましいことだと一刀でも思う。稟以外からも歓迎していない空気がひしひしと伝わってきた。眼前の少女などはその空気に完全に腰が引けており、眼鏡美人の袖をぐいぐいと引いていたが眼鏡美人は小動もしない。中々根性の太い女性であると感心しつつ、一刀は笑みを浮かべて腰を降ろした。

 

 まさか笑顔で乗ってくるとは思ってもみなかったのだろう。少女は目をまんまるにして驚いていた。赤毛に差された花飾りから、微かに桃の香りが漂ってくる。今でも十分美少女だが、将来はとびきりの美少女になること間違いなしと感じた。男ならばどんな状況でも美少女相手というのは悪い気はしないものである。

 

 眼鏡美人に乗せられたと感じるし、このことで稟たちから長いお小言をもらうのは確定だろうが、今更後には引けるはずもない。たまには北郷一刀だって見知らぬ美少女相手に賢い所を見せたいのだ。

 

 こういう時のために時間をかけてかみ砕き温めておいた、中学の時、社会の授業で暗記させらせた知識が役に立つ時が来たのである。一刀はわざとらしく咳払いをすると、最初の一文だけは誰もが知っている一説を語り始めた。

 

 

「『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり――』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お眼鏡には適いましたか?」

 

 一刀団の面々さえしんと静まり返った中、覚えている範囲を淀みなく言い切った一刀は喜色に富んだ声で問うたが、盧植から返ってきたのは固い声だった。

 

「…………はい。御見それしました」

「何より。そして貴女の仰る通り、これも何かの縁です。よろしければこれを受け取っていただけますか?」

 

 制服の第二ボタンをはずし、盧植の手に乗せる。白く輝く衣は彼女の目も引いていた。その装飾品の一部を躊躇いなく千切った段で小さく悲鳴を挙げていたが、一刀は構わずボタンを押し付けた。

 

「何かお困りの時は、それを持って私を訪ねてきてください。お力になりますので」

 

 それでは、と巨乳美人に何かを言われる前に退散する。聞きかじった知識なので質問されても答えることはできない。何よりお前覚悟しておけよ、という稟と風の視線が痛すぎる程に痛い。小言がどうにも小言で済まない気配に怯えつつも、先のことを振り返ってみるに中々痛快だったとも思う。

 

 この時世に天子のお膝元で言う言葉ではなかろうが、土台、自分の望むものは志尊の地位なのだ。言葉にしたのは決意表明のようなもの。道々、これから大きくなろうという矢先にそれだけの言葉を口にしたのだから、進んだ先には良いことがあるに違いない。

 

 だがまぁ一先ずは、軍師先生たちの機嫌をとる方法を考えよう。胸を張り、無駄に堂々と歩きながら、白く光り輝く衣を纏った男は、酷く後ろ向きなことを考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「素敵な方でしたね!」

 

 目をキラキラ輝かせた弟子の横で、風鈴は頭を抱えて蹲った。

 

 穴があったら入りたい。時間を戻せるなら、時の人の器を見てやるなどと思いあがっていた自分を殴り飛ばしてでも止めたい。全く大恥をかいた。やり取りをきちんと聞いていた人間は彼と彼の一党以外はいるまいが、何より自分がそれをはっきりと記憶している。

 

 彼の目にはどんな女に映っただろうか。思いあがった愚かな女と少しでも思われていたら、死んでも死にきれない。

 

 救いがあるとすれば、先の教育に対しての深い理解から生み出された言葉が、彼の心中から生み出されたものではないことくらいだろうか。言葉の内容に語り口が見合っていない。文言は記憶しているが、内容への理解はまだまだといった所だろう。

 

 それでも、自分が何を言っているかくらいは理解しているはずだ。後ろに立っていた軍師たちの驚愕の表情を見れば、あの言葉が彼女らの仕込みでないことも理解できる。どこで聞きかじったかに興味がないではないが、それ以上にあの男はこの時世に、天子の命を受けて任地へ向かう道すがら、洛陽からそう離れていないこの場所であんなことを宣ったのだ。

 

 正気とは思えない。自分とは異なる感性で生きているようにしか思えない。あれは傑物だ。目を離して良い生き物ではないと、培った経験が激しく主張している。

 

 余裕を持った日程にしなければ良かった。早めに洛陽に入り、旧知の人間のツテを借りて知己を得ていれば、もっと深く懐に入りこめたかもしれない。あの男に傅く自分を想像して、風鈴の顔に強張った笑みが浮かぶ。

 

 私塾の長で終わるつもりなど毛頭なかったが、仕える相手としてあれは申し分ない。手の中のボタンを強く握りしめる。彼の言った通り、縁はできたのだ。まずは目先のこと。かわいい弟子を一人前にしてやらなければ。

 

「予定を変更するわ。元より厳しめに行くつもりでいたけれど、更に厳しくいきます。あの方が洛陽に戻るのがいつかは解らないけど、そう遠いことではないでしょう。あの方にお仕えしたいですか?」

「はい! 仕えるならば、あんな素敵な方にお仕えしたいです!!」

「結構。ならばその気持ちを忘れないようにしましょう。再びまみえる時に恥ずかしくない貴女でいられるように、師として私も全力を尽くすわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「では行きましょうか、桃香ちゃん」

「はい、風鈴先生! ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い致します!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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