真・恋姫†無双 一刀立身伝(改定版)   作:DICEK

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第055話 并州動乱編③

 

 

 

 

 

 

「璃々はですね。筋は良いのですがもうへっぽこでして……」

 

 懇々とした女性の声音が室内に響く。ねねの計らいで移動した商会の一室。資料やら何やらを持ち込みさて会議となった段で、お手製の指揮棒を弄んだ声の主――孫乾は陰鬱な声で呟いた。

 

「今回のことも正直に言えば不安でした。ですが灯里だけでなく紫苑まで璃々を推すものですから大丈夫なのだろうと不安を押し殺していたのですが――」

 

 ぎろりと孫乾の視線が黄叙に向く。声は女性のものだが姿は変わらず男性のまま。姿と声音の違和感は凄まじいものがありねねなどは心底嫌そうな顔をして視線を向けようともしていなかった。

 

 感覚的に彼女が女性であるということを理解している一刀は男性の姿で声が女性という事実をそんなものかと受け入れられているのだが、実際にはねねのように嫌悪感さえ覚える人間もいるのだと実感する。女の守備範囲が広いと言われる所以はこういうところなんだろうなと思いながら一刀は黙って孫乾の話に耳を傾けた。

 

「あの程度の追手五人を撒けなかったどころか一刀様と合流するまで二人も残っていたというではありませんか。師匠の一人としてもう恥ずかしくて仕方ありません。貴女は私に恥をかかせるために一刀様の所まで行ったんですか?」

 

 孫乾の小言を黄叙は始終神妙な顔で受け止めていた。一刀の黄叙の印象は利発で快活な美少女であるのだが、厳しい先生の前ではそれも形無しである。孫乾の方も黄叙が嫌いという訳ではなく期待しているからこそ言葉が強くなっているというのは一刀にも解った。

 

 だがそれはそれとして言葉責めするのは非常に楽しいらしく、間違っても傷をつけないように先端を念入りにやすり掛けして丸くした指揮棒でぐりぐりとお腹を突つく様は嗜虐的でありながらどこか愛情を感じさせた。黄叙の方もげんなりした顔をしつつも受け入れているのは、普段から二人の関係はこうなのだろうということを伺わせている。

 

 男としては何とも感慨深い光景だった。美しい女性が戯れる光景というのは心と血液を綺麗にしてくれるもの。一刀としてはいつまでも見ていたいのは山々だったのだが、予定が遅れれば女性の身が危険に晒されるのも事実なのだ。美しい女性に目を奪われるのが男の本能ならば美しい女性を助けるのは男の義務である。

 

「黄叙はよくやってくれたよ。その辺にしておいてくれると嬉しい」

「そのように。一刀様に感謝しなさいね、璃々」

「はい美花先生。一刀さん、ほんとうに、ほんとうにありがとうございます!」

 

 やけに熱のこもった黄叙の礼に苦笑を返すと一刀は円卓の上の地図に目を向けた。黄忠の郡のある西部を左に、一刀たちの根拠地である東部を右側に捉えた地図の上に人員を示す駒が幾つも置かれている。声を男性のものに戻した孫乾は指揮棒で州都の東部を示した。

 

「さて。そこのへっぽこを追って州牧の手勢が州東部に展開しました。私の指示で璃々の進路は北郷様の所まで一直線となっていましたがあちらはそれを知りません。璃々にかけられた五人の他にも人員が東部全体に散っています。汚れ仕事担当の人間がほぼ出払っている状況ですね」

「ここに来る途中で更に三人殺した」

「結構なことです。情報の共有ができたとしても即時戻ってくるのは難しいでしょう。今回の局面においてこれは無視しても構わない戦力です」

 

 文明の利器の偉大さを感じる瞬間である。情報の伝達だけならば恋のように鳥を使うという手段もあるが人間は自分の足で走るか馬に乗るしか移動の手段がない。一人の少女を東部全体で探せと言われて出て行ったのであれば少なくとも一日二日では戻ってこないだろうということは一刀にも想像がついた。

 

「次。紫苑以外の人間を全て捕捉し損ねたことでコトが大問題に発展しつつあります。もはや事態を穏便に収拾することは不可能ですが、あちらは問題を先送りにする方針のようで郡に戻ったと思しき灯里に対応するために郡と州都の間に州軍を展開させました。州都周辺で動員できるほぼ全ての戦力がこちらに集結しています」

「元直が押し切られる可能性は?」

「ないでしょう。そもそも州軍は紫苑よりの立場なので州牧との関係は最悪です。一応州牧の命令に従う形で展開こそしましたがそのまま灯里の方に寝返っても不思議ではありません」

「それでよくコトを起こす気になったもんだ」

 

 数は力でありこれを覆すのは恋のような存在でもなければ難しい。要するに大抵の場合は不可能ということであるが、にも関わらず州牧は逐電よりも先に達成が不明瞭な実力行使を始めた。見上げた向こう見ずであるのか何も考えていないだけか。

 

「助けが来るアテがあるか、かな」

 

 今の州牧は袁紹の一族であるという。冀州や司隷からの早急な援軍が見込めるのであれば無茶な行動にも納得が行くが、一刀の言動に孫乾は首を横に振った。

 

「司隷や冀州の州境の監視班からは何も報告はありません。東部はほぼ一刀様が、西部は紫苑が押さえています。中央の有力者にも今の所動きはなく州牧に逐電の気配もありません。私には意味のない悪あがきをしているようにしか見えませんが、一刀様の仰る通り何か別のものが見えている可能性も否定はできません」

「そういう時はバカヤローの一言で片付くですよ」

 

 ねねの冗談に室内に笑い声が響く。孫乾も本気で州牧に腹案があるとは思っていなかったのだろう。さっさと気を取り直して指揮棒で地図を示す。

 

「最後に州都に残った戦力ですが警備の正規兵とは別に州牧の私兵が屋敷とその周辺に展開しています。譜代の家臣もこちらにいますね。警備の正規兵も州軍同様紫苑の到来を心待ちにしていた勢力なので、これも無視して構いません」

「つまり屋敷周辺の兵を何とかできればそれで解決ってことだな」

 

 味方は自分の近くにいる者ばかりでその外側にいるのは敵ばかりだ。好き放題やった結果として今の状況があるのであれば同情の余地はないが、自分の後に来るのが実績があり人気者の黄忠であれば身の危険を覚えるのも無理はない。報復される覚えは山のようにあるだろう。州牧という地位が生存の最後の砦であるとすれば、なりふり構わず固執するのも頷ける。

 

「仰る通りです。譜代の家臣は十名。いずれも家柄と装備が取り柄というあの一族にはありがちな連中です。腕は大したことありません。私兵の方は金で雇われた破落戸ども。これがおよそ百名です。頭と顔が悪く教養のない連中ですが五人ほどそこそこに腕の立つ人間がいます」

「そこそこと言うとどの程度なんだ?」

「一対一なら璃々でも勝てるくらいですね。五人まとめて相手にして勝ってようやく及第点ですからね璃々」

 

 指揮棒を向けられた黄叙の緊張が走った。皆で襲撃という流れに今回はそこまで大変ではないと楽観視していたのだが、孫乾の言にまた厳しい指示が振られるのだと悟る。

 

「対してこちらの戦力は事前に潜り込ませておいた私の手の者が十名。紫苑の部下が二十名。現地の協力者が三十名と合計六十名です」

「今ここにいる面々を入れてざっくり七十名というところか」

「結論を申し上げますと楽勝です。ついでに奴とその周囲の悪行についても漏らすところなく調べ上げ洛陽の方に訴状を送りました。仮にこの場で逃げおおせたとしても罪人です。我々としてはもはや勝ち方を選べる状況にあります」

 

 数は揃えた。兵の質も勝っている。敵の戦力は分散しておりすぐに戻ってくることはない。住民たちの支持は比べるべくもなく誘拐された黄忠を助け出すという大義名分もある。事前に設定できる状況としては最高のものだろう。手を尽くした孫乾や元直の手腕もあるのだろうが、よくもまぁここまで不利な状況を呼び込めたものだと、顔も知らない州牧の手腕にも逆の意味で感心していた。

 

「黄忠殿が拘束されている以上早めに助けて差し上げたい。ここは一気呵成に行きたいと思うんだけど孫乾の方はそれで問題ないか」

「今日これからというのでも十分対応可能です。一時間もいただければ全員揃います」

「なら決行は一時間後だ。朱里と雛里は悪いんだけど安全な所に。ねねはどうする?」

「ねねも雛里たちと一緒にいるですよ。何かあった時のために五人回してもらえるですか?」

「廖化、五人選んでくれ。その五人には今回のことが終わった後に休暇と臨時の俸給と妓楼の紹介状を出す」

 

 団の面々にざわめきが広がった。賊徒出身が多いために一刀団の面々は荒事を好む傾向にある。加えて最近は一刀の名前が売れに売れ活躍が講談にまでなっている。後世にまで名前を残す大チャンスである。仮に名前が出なくとも俺はあの場にいたんだぜと嘯くだけでご近所の有名人になることは容易い。雛里たちの護衛が必要なことだと解っていても、居残り組にされることは不満も残るだろう。

 

 なので団長としてその不満を吹っ飛ばすだけのメリットを先に提示しておくことも忘れない。荒事大好きな彼らであるが、それと同じくらいに刹那的な娯楽が大好きなのだ。飲む打つ買うはいつの時代も普遍的な娯楽なのである。話し合いで決まらなかった居残り組は結局、責任者である廖化を除いた全員でジャンケンで決められた。

 

「一刀様は妓楼の紹介状など書けるのですね」

「いつの間にか上手くなったんだよ。俺自身は使ったことないのに」

 

 このスケベという孫乾の言葉に早々に否という返答をする。武装集団の親玉は性豪というのが定番なのかどこに行っても当たり前のようにそういう扱いをされるのである。違うんですよと何度も説明はするのだが、幹部全員が女性では説得力もない。加えて稟以下幹部全員が愛人扱いをされても否定をしないものだがら、性豪イメージは留まる所を知らない。

 

 トドメになったのが思春との一件だ。あれから地元の有力者はうちの娘を妾にと売り込みにくるし、妓楼は新人が入る度に営業をかけてくる。娘さんの方はどうにか断っているが妓楼の方は商いならば断わり続けるのも不味いと思い、手空きで遊びに行きたい団員を見つけては紹介状を書いてあげていたのだ。

 

「それは何よりです」

 

 女遊びをしていないらしいと雰囲気で察した孫乾は安堵のため息を漏らした。安堵? と一刀が疑問を口にするよりも先に、それよりもと孫乾は話題を変える。

 

「襲撃について何か妙案はおありですか?」

「実は俺は有名人らしい。それを使わない手はない」

 

 おそらく襲撃になると解ってから一刀の中でやり方は決まっていた。部屋にいる全員を見回しこれしかないと、力強く宣言する。

 

 

 

「全員で、正面から、堂々と行こう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大通りは州都で最も賑わう場所である。日の出ている間は人の流れが途切れることはないし、喧噪やたまには怒号も聞こえてくるような場所は、静かなざわめきに支配されていた。

 

 大通りに面した一等地。とある商会の前に道を塞ぐ形で武装した人間が整列している。誰が見ても往来の邪魔なその集団であるが、その只ならぬ雰囲気に誰も声をかけられないでいた。如何にも何かが始まりそうな気配に周囲の人間の耳目は増え続ける。

 

 そんな中、店の中から男が現れた。并州では知らぬ者のいない呂布を従えたその男は、武装集団の前に立つと声を張り上げる。

 

「これより正道を成す。出撃!」

 

 声を張り上げこれに返す一同を見回して、男は抱えた上着を大仰な仕草で羽織る。太陽の光に白く輝くそれはもはやその男の代名詞であった。男が誰かを理解した見物人たちが歓声をあげる中、男を先頭にした集団は整然と隊伍を組んで大路を行く。

 

 誰もその道行を邪魔したりはしなかった。誰が声をかけるまでもなく人々は左右に割れ集団を見送っていく。中には自然と跪く者や、手を合わせて拝みだす者さえもいた。

 

 一刀だ。北郷一刀だ。集団の先頭を行く男の名前が人々に浸透していく中、彼らの行先はどこかとは誰も考えもしなかった。彼は正道を成すと言ったのである。ならばこの州都で最も誅されるべきはただ一人だ。

 

 州牧の屋敷の前で集団は足を止めた。間違っても流れ矢が届かないような遠巻きに見物人たちも押し寄せている。塀で囲まれた広大な敷地にしつらえられた大門の前に立つと一刀は殊更大声を張り上げた。

 

「北郷一刀である! 拐かされた黄忠殿を救出しに参った!」

 

 すわ討ち入りである。門衛たちは武器を手に色めき立ったが、一刀は彼らにちらと視線だけを向けると一歩下がった。代わりに前に出てきたのは恋である。国士無双と名高い彼女はこれ見よがしに常人では持ち上げるのは不可能な大きさの槌を振り上げている。

 

 呂布が何をするつもりなのか瞬時に理解した門衛たちは、自分の仕事のことなど忘れて我先に逃げ出した。彼らが逃げるのを一応待って、恋は槌を放り投げる。軽い動作に反して耳に残る轟音を発した槌は高速で宙を飛び、轟音を立てて大門を粉砕する。

 

「失礼。お邪魔するよ」

 

 土煙の舞う中呆然とする門衛たちに気取った仕草で一礼した一刀は、仲間たちを引き連れて屋敷に押し入った。大門を破壊した轟音が響くまでもなく、一刀たちの襲来を察知していた州牧が手下を連れて屋敷から現れる。大門から屋敷まで続く広いスペースの中、真っすぐ続く道の端と端で一刀は州牧と対峙した。

 

「貴様、私が誰かを知っての狼藉か!?」

「先の宣言の通り、拐かされた黄忠殿を助けに参上した。また貴様には公金の横領から大小様々な犯罪とその幇助と表沙汰になっていない悪事の数々があることが解っている。これについては洛陽に奏上奉った故、皇帝陛下より厳しき沙汰があるものと覚悟せよ」

 

 ぐぬ、と州牧の顔が憤怒に歪む。仮にこの襲撃を切り抜けたとしても、自分の人生はロクなものにならないと理解した彼の人生で最も迅速な決断は彼の人生の幕を引くものだった。

 

「県令風情が偉そうに! 者ども! この男は恐れ多くも皇帝陛下の威光を笠に狼藉を働く不届きものである! 構わん! 斬り捨てぃ!!」

 

 応、と州牧の周辺に展開した悪人面が一斉に抜剣する。州牧も含めて揃いも揃った悪党面。誂えたような状況に時代がかった言い回し。出来過ぎた状況に一刀の顔にも苦笑が浮かぶが、ここがまさに正念場だ。悪役がその本分を全うしているのだ。ならば主役は主役らしく振舞おう。

 

「歯向かうならば是非もない。ここに、天に替わって道を行う! 存分に懲らしめてやれ!!」

 

 誰にも恥じ入ることのない人間の声はどこまでも通るものである。天よ割けよというほどの一刀たちの気合の前に悪党たちの腰が一瞬引けた。その隙を見逃さず、一番槍は私だとばかりに孫乾が数条の銀閃と共に滑り込んでいく。一度の踏み込みで軽く十メートルは移動した彼女は低い姿勢から二刀を振るい、瞬く間に二人を切り殺す。近くでは喉に短刀を生やした悪党たちがばたばたと倒れる。瞬く間に五人も殺されて硬直する中に今度は弟子の黄叙が飛び込んだ。

 

 短刀を後ろに放り投げながら――師匠の真似をしようとして失敗したのだ――同じく二刀を振り回しての大立ち回りだ。孫乾があまりにもへっぽこというものだからどこまでへっぽこなのかと若干不安だったのだが、ちょっと身内に風当たりが強かっただけのようである。これなら現時点でも団の中でも上位。具体的にはシャンの次くらいには強いはずである。

 

「ほらほら、あの二人に集中してる今が攻め時だぞー。二人一組で襲い掛かって安全に皆殺しにしてこい」

「そいつぁ講談の話としてよろしいので?」

「どうせ俺か恋がかっこいい口上と共に斬った張ったやるように改変されるさ。かっこいい分はもうやったから後は慎重に行こう。怪我しないように頑張ってこい」

 

 了解、と一刀団を先頭にそろそろと残りが散っていく。一度流れができあがり戦う意思が挫かれてしまうと、これを覆すのは難しいものだ。一刀団も悪党どもも最初から全員を現場に投入していたので後はどちらが先に音を上げるかの勝負でしかない。悪党側には当然逃げるという選択肢もあるが、それは団員たちが潰している。

 

 賊徒あがりの廖化を中心に、弱気の敵を追い込むことが得意な連中がそうされないように目を光らせていた。一人また一人と悪党が倒れていく中、こんなものかと一刀は考える。

 

 講談の一場面のような盛り上がりを自分も心のどこかで期待していたらしい。時代劇が最後の場面で手に汗握るのは、臨場感のある音楽と演者たちの熱演。それに緩急のきいた殺陣があるからなのだろうと実感する。

 

 現実の立ち回りには音楽もなければ効果音もない。狙いすましたように現れる敵の援軍もなければ、それを阻止する風車も壁を砕いて現れるマッチョもいないのだ。そりゃあ順当に数が多いか強い方が勝つよなとぼんやり眺めていると、悪党を盾に逃げ回っていた州牧が最後の一人となっていた。

 

 最後くらい決めるかと一刀は州牧を指さし――

 

「成敗!」

 

 と声をあげる。攻撃可能な位置にいたのは孫乾と黄叙の二人。声を聴いたのは同時だったが動き出しは黄叙の方が早かった。右の一刀を引き絞り、すれ違いざまに一閃! 血しぶきが舞い州牧の悲鳴があがる。それは決まった……と思わず本人が感じ入るくらいに会心の一撃だった。

 

「小娘がっ!!」

 

 そしてそれは命のやり取りをしている時には悪手だった。死ぬまでの僅かな間。最後の力を振り絞った州牧が渾身の力を込めて剣を振り下ろす。動きを完全に止めていた黄叙は動き出すのが遅れる。だが、

 

「最後は自分で決めろってことなのかも、な!」

 

 人間は胴体を真っ二つにされても気合で生き残るものだと知っていた一刀は黄叙の停滞を見抜いて動き出していた。最後の一太刀を銀木犀で受け渾身の力を込めて州牧を蹴り飛ばす。万策尽きた州牧の身体は力なく地面に倒れて行き――地面に崩れ落ちるよりも先に孫乾の剣がその首を刎ね飛ばした。

 

 首を刎ねられて生きている人間などいない。それでも首をなくした胴体を前に一呼吸、残心をしてようやく孫乾は剣を納めた。振り返った彼女の視線を受けて、黄叙の身体に緊張が走る。

 

「怪我は?」

「……ありません」

「そう。良かった」

 

 穏やかな声と安堵のため息は、どんな怒号よりも黄叙の心に深く刺さった。膝をつき両手で顔を覆った黄叙は声をあげて泣き始めた。まさか泣くと思っていなかった孫乾は弟子の涙に苦笑を浮かべる。

 

「だから貴女はへっぽこなんですよ。女がこんな時に泣いてどうしますか」

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 

 わー! と泣く様は大人びて見えた黄叙を年相応に見せてくれた。まだ小学校に行っている年齢だと考えると現代人の感覚としてはこちらの方が正しいように思える。こうして少女は大人になるんだなと詮無いことを考えながら、黄叙と外の対応を孫乾に任せた一刀は恋と廖化を連れて屋敷に踏み込んだ。

 

 外の数が少なくなっていた時点で余った人員は屋敷に押し入り制圧を進めていた。ロビーには使用人他妻子と見られる者たちもいる。これから殺されるのかと全員が悲壮な顔をしていたが別に彼らに用はない一刀は彼らを見渡して声をあげた。

 

「貴方たちに危害を加えるつもりは全くない。私は黄忠殿を助けに参っただけだが制圧した以上この屋敷と家財一式はいただく。身一つで逃げる分には追わないから、逃げたいものは逃げてよし」

 

 一刀の声に妻子とそのお付の人間らしき者たちが脱兎のごとく駆けだしていく。全員が逃げると思っていたのだが、半分以上がその場に残った。首を傾げる一刀に廖化がぽつりと呟く。

 

「他に行く場所がないんでしょう。よくある話です」

「それは悪いことをしたな。この屋敷で続けて雇う……というのは約束できないが押し入った手前当面の生活の世話は約束しよう。対応が決まったら知らせるから別室で待機していてくれ」

 

 拝み倒すような勢いで礼を言って去っていく家人たちを横目に、一刀は恋と廖化を伴って地下へと歩き出した。洛陽で見た貸し牢もこんな感じだったなと思いながら廖化に鍵を開けてもらった扉に手をかけると、その手を恋が掴んだ。

 

「そのままだと危ない。狙われてる」

「牢屋に入ってる人間が……いや、そういうこともあるよな」

 

 牢屋に入れておくこともできないだろう恋の助言だ。素直に従うのが吉である。気持ちを切り替えた一刀はその場で大声をあげた。

 

「私は北郷一刀と申します。ご息女の黄叙殿、お仲間の孫乾殿の手引きで黄忠殿、貴女を助けに参りました。そちらに伺ってもよろしいでしょうか」

「小中高。対応する数字を答えてください」

「六、三、三。お察しの通り徐元直殿とも知己であります」

「ご無礼をしました。どうぞお入りください」

 

 失礼します、と牢に続く廊下の扉を開けると、牢の扉は既に開いていた。入口を塞ぐように移動させた寝台に足をかけ弓を構えていた美女は、一刀の姿を認めると弓を降ろした。弓も矢も牢の中にあって良いはずの物ではないのだが一体どういう手品なのか。

 

 寝台を乗り越え牢を出たのは、確かに美女だった。不健康なほどに白い肌。床に届きそうなほどに長い髪が歩くたびにさらりと揺れる。全体の印象は牢に相まった薄着に合わせて不健康な病人のようであるが、全身から漂う色香がただ事ではない。

 

 女一人に全てを賭けたような州牧をどこか小馬鹿にしていた一刀であるが、いざ本人を目の前にしてみると人生決め打ちをするのも解る気がした。この女性を好きにできるのなら、とその気になった男はどこまでも突っ走るに違いないのだ。

 

「黄忠。字を漢升と申します」

「北郷一刀。姓が北郷で名が一刀です。字と真名はありません。遅参お詫びいたします。見たところお加減が優れない様子。委細は日を改めてということでも構いませんが如何か」

「拐かされ助けていただいた身です。差し当たってできることは今やってしまいましょう。美花は外に?」

「ええ。ご息女と一緒です。お二人とも大変優秀で助かりました」

「ご謙遜を。ですがそう言っていただけると二人も喜びますわ」

 

 ほほ、と小さく上品に微笑む黄忠は色香はともかく覇気がない。加減が優れないというのは半分くらいは気を使った言い回しであったのだが、本当に具合が悪い可能性も否定できなくなってきた。

 

 やると言わせてしまった手前やらない訳には行かないが、なるべく早く片付けて今日はゆっくり休んでもらおう。そう決めた一刀は顔の右半分を覆った眼帯をただのアクセサリーにする美貌を正面から見据え、手を差し出した。

 

「お手をどうぞ。美しいお方」

 

 黄忠は左目をきょとんとさせると、差し出された手と一刀の顔を交互に見返した。気障な台詞回しにも抵抗がなくなってきた身である。先のノリでここはカッコよく決めようという欲をかいてのことだったのだが悪ノリが過ぎただろうか。

 

 手を差し出したまま心中で悶えていると黄忠はくすくすと笑いだした。今さきほどの儚い微笑とは違う、面白いものをただ笑う少女のような笑みを見せた美女は、一頻り笑った後、一刀の手を取った。

 

「喜んで、輝くお方。道中よろしくお願いいたします」

 

 

 

 

 

 

 

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