并州黄家には開祖より代々伝わる家宝がある。
材質不明の長大な強弓。とても人間が引ける大きさではないことから巨人が引いたとも言われる大きな弓だ。黄家に生まれた人間はこの弓とその台座に刻まれた文言を見て育つ。
『声が聞こえた時、この弓を取るべし』
素晴らしい武器は武器の方が使い手を選ぶとも伝え聞く。そういう与太話の類なのだろうと幼い頃から紫苑はそう解釈していた。とはいえ紫苑も弓の覚えのある武人の端くれである。声など聞こえなくともいつかはこの弓を引けるくらいに。そんな気持ちを励みにして勤めを果たしていた折、国境の情勢がいよいよ厳しくなってきた。
黄家軍ともいうべき国境警備の軍は群雄と比べても遜色のない精兵であるが国境を侵そうという異民族の軍団はそれを凌ぐ勢いだった。その度紫苑も兵を率いて出陣しこれを撃退していたのであるが、戦況の天秤が膠着状態を維持しつつもゆっくりと相手の方に傾き始める気配を感じていた。
最終的には撃退できるだろう。それだけの地力がこの地にはある。しかしそうなる前にこの地と住む民に甚大な被害が出る。命を懸けてでもここを凌がねばならない。父祖から受け継いだこの地を守るという役目に気持ちが定まった時、生まれて初めて紫苑は家宝の弓の声を聴いた。
ここで命を使い切ると決めた紫苑の決断は早かった。突貫工事で弓を射るための楼を作らせ家宝の弓には特注の弦を二十人がかりで張らせた。用意させた専用の矢は三百本。従来の矢ではなく短槍を加工した代物である。後は普通の弓に普通の矢。楼に詰め込めるだけ詰め込む指示を出した紫苑は、その日に向けて気息を整えることにした。
いつ、どこから、どの程度の戦力が来るか布告があった訳ではないが、この日、この場所に精兵たちが来るということに紫苑は確信があった。全て弓が教えてくれたのである。
決戦の日。共に戦うという兵たちを国境線まで下がらせ国境線より奥まった位置に作らせた楼の前で紫苑は地平線を眺めていた。眼前には草原が広がっている。見通しの良い場所だ。射線を遮るものは何もない。
この地を通って騎馬が押し寄せてくる。それを全て討ち果たすのが自分の最後の仕事だ。
気息は身体に満ちた。今この時が自分の頂であると自覚する。
地平に騎馬が見えた。その数ちょうど三百。人生最後の相手として不足はない。楼の縁に足をかけ弦に矢をつがえる。人間の引くものではない。この弓を引いたのは巨人である。それでも自分もいつかは。他人の言葉、過去の自分の思い。弦を引く直前様々なものが紫苑の胸に去来し――。
そうして、何でもないことのように弦を引き、矢を放つ。地平の彼方まで飛んだ矢は狙い違わず群れの端にいた騎兵の身体を馬の首ごと吹き飛ばした。我らこそは最強なり。そんな集団の気勢が削がれたのを好機と見た紫苑はそれから休まずに矢を射続けた。
一矢確殺。矢が放たれること即ち命一つ刈り取ると同義である。戦士の身体を、あるいは馬ごと。紫苑の手から放たれた矢は轟音と共に平原を駆け抜け、騎兵を一人、また一人と屠っていく。眼の中が切れて真っ赤に染まった視界の中で、しかし、全てがいつもよりはっきりと見えた。
命を削って放ち続けた矢が十を切った時、騎兵たちは楼から声が届くくらいの距離まで迫っていた。兵の大半が草原に散っても彼らの戦意が萎えることはない。ここで死ぬのだとしてもここで引くことはできない。国境を抜けて帝国に入る。そこに勝利や栄光などなくともそれは彼らの意地でもあった。
九、八、七、六。
先頭の男がこちらを指さすのが見えた。長い弓を背負った男が馬上で弦を引き絞る。一瞬、男と視線が交錯した。矢を放ったのは同時である。男は腰から上を失い、放たれた矢は紫苑のこめかみを掠めた。
五、四、三。
先頭の男を守るように残りの二騎が前に出る。
二、一。
その前に出た二騎を射殺し、最後の一射。男が気合の声を挙げた。矢が放たれるのと大槍が振りぬかれるのは同時。鈍い音を立て矢は粉々になり、また槍も砕けた。男も馬も健在である。不敵に笑う男の左腕はあらぬ方向に曲がっていた。獰猛な笑みを浮かべた男は腰の剣を抜き、楼の横を駆け抜ける――。
その直前、家宝の弓を手放し、使い慣れた自分の弓と矢を三本掴むと、紫苑は楼から身体を躍らせた。上下逆さまになった視界の中、紫苑は冷静に矢をつがえた。
一矢。剣を振るう腕を射る。
二矢、気合を発する喉を射る。
三矢。全てを司る額を射る。
力を失い、馬上から崩れ落ちる男は満足そうに笑っていた。
殺すべきは全て殺し、自分は使命を果たした。弓の声はもう聞こえない。意識を手放した紫苑はそのまま地へと墜落した。
「――とまぁ、このような経緯で事なきを得ました」
墜落した場所には大量の藁を敷き詰めておきました、というオチで話を結んだ紫苑は一刀の顔をみた。すげーと目を輝かせているその様は青年へと羽化する途中の少年という風である。
『紫苑! 理想が! 私の理想が服を着て目の前に!!』
過日仕事で行った荊州から戻ってきた姉貴分がそんな寝言と共に狂喜乱舞していたのを思い出す。殿方に仕えるならばこんな方。できれば筆おろしもしたい! というのが彼女の昔からの夢で身体的特徴なども聞いてもいないのに散々聞かされたものだが、眼前の少年はそれらのほとんどに合致していた。地下で最初に顔を見た時には姉貴分の執念がついに現実に像を結んだのかと疑ったほどだ。
強いて挙げるなら姉貴分が言っていたよりも若干年かさであるが――彼女の希望はまさに少年そのものだった――あの浮かれっぷりを見るに妥協したというよりも宗旨替えしたのだと想像できる。それ以外全てが揃っているという事実の前には多少の年齢のズレなど些細な問題だろう。
こうして自分の武勇伝をひけらかし若人の気を引いているのも、浮かれぽんちがお茶を用意してくるという建前で色直しのために姿を消したからだ。得意技は早着替えと豪語する女のくせに随分時間がかかっているように思えるのは気のせいだろうか。
せめて璃々を置いていってくれれば話も広げやすかったのだが、彼女は姉貴分に引きずられるようにして連れていかれた。着替える自分の代わりにお茶の準備をさせる腹積もりだろう。またぞろ姉貴分に泣かされたようであるが、一仕事終えて一回り大きくなったように見える。
これでもう少し気を配れるようになれば安心もできるのだが。そろそろ成人するのだからと思うと同時にまだまだ子供でいてほしいと思う自分に心中で呆れてしまう。親というのは何とも身勝手なものだ。
「その目は後遺症、ということでしょうか」
子供の成長にしみじみ思いを馳せていると一刀が問うてくる。
育ちの良さは感じるのに富裕層特有の自然な傲慢さがない。ほどよく庶民的というよりは背伸びした庶民という風である。地方の商家の次男三男というのがしっくりくるだろう。真面目そうな好青年だ。これでまだ十代というのだから昨今の飛躍がなくても引く手数多だろうが、その飛躍が彼の立ち位置を複雑なものにしているというのは皮肉な話である。
「確かに一時よりも目は遠くなりましたが生活に支障があるというほどではありません。これをつけていたのは別の理由です」
眼帯を外す。真っ赤に染まって一時は完全に失明していた右目は二週間もすると少しずつ視力を取り戻し今ではほぼ完全に回復していた。あの時のように地平の彼方を見通すようなことはもうなかろうが、地平の彼方を見通し雷で敵を薙ぎ払った代償と思えば安いものだ。
「身体検査と称して何度も身体を触られたものですが、そういう手合いでさえこれには手を付けないという確信がありました。眼帯の形をした道具入れとでもお考えください」
気持ち厚めの眼帯は物を挟めるようになっていてそこに小さめの鏃を四つ。次いで髪留めだ。これは姉貴分のお手製の便利道具で、特定の手順を加えると小刀やら鍵開け道具やらに変形する便利道具である。髪飾りは分解すれば矢羽根になった。
以上で牢の寝台を加工して作ったのが地下で使った弓と矢である。普段使いに比べれば粗悪品も良い所であるがとりあえず撃てれば良いのであればそれでも十分だった。用意した矢を撃ち切るまでに一人二人殺しその人間から武器を奪えば後はどうとでもなると、自身の身の安全に関してはこれっぽっちも心配していなかったのだが、むしろ相手に疑われないように自然に襲われることに苦労したものだ。あの弱兵でよくもまぁ州牧など務まったものだと感心する。
「――後は髪に編み込んでいた糸を寄り合わせて弦を作りました。ですがこれではありあわせも良いところ、聊か腕に自信はありますが、立ち回りに不安があった所に一刀様が来てくださった次第です。命の恩人ですわね」
「俺の力など。全てご息女が奮起してくださったおかげです」
「過分なご評価痛み入ります」
さて、と紫苑は一息入れた。姉貴分はまだ戻ってこない。自分語りを続けるのは厚かましい女だと思われそうで嫌なのだが、一刀のことをより知れる機会を得たと、無理やり良い方法に考えることにした紫苑は別の話題を切り出すべく思考を巡らせ――。
「お待たせ!!」
入口側の扉から勢いよく乱入した知り人がその思考を遮った。知り人――灯里は卓を挟んだ向かい合う面々を見やると、肩を竦めて大仰にため息を吐く。
「佳境には間に合うように超特急で段取りを整えてきたのにもう終わってるとはね……どうやら日頃の行いが悪かったらしい」
「元気そうで何よりだ、元直」
「君もね一刀。ああ、これからは灯里と呼んでくれたまえよ。僕らもそろそろそういう時期だろう?」
ぱちりと一刀に向けてウィンクをした灯里は椅子を引き、紫苑の隣に腰を降ろした。二つの陣営で唯一の二つの陣営に顔が利く軍師は居並んだ友人知人の中で知らない顔の有名人に向けてひらひらと手を振る。
「徐庶、字は元直だ。飛将軍呂布にその軍師陳宮。お会いできて光栄だ」
「よろしく」
「よろしくですよ」
「優秀な娘たちだからそこまで心配はしてないんだけども、董卓軍で軍師をやっていた人から見てうちの後輩たちはどうかな」
「毎日助かってるですよ。洛陽じゃ毎日怒鳴りっぱなしでしたが、こっちに来てからはそれもなくなったのです。最低限の言葉で話が通じるってのはいーもんですね」
軍師たちには共通の思いなのかうむうむと大きく頷いている。反面、頭の回転の鈍さを自覚している一刀からすると最低限が少し高すぎやしないかと思う。説明を求めれば会話のレベルを下げてはくれるが、ちっちゃかわいい雛里などにそれをやられると雛里がとても賢い美少女だというのを自覚していても、自分がとんでもないアホのように思えてならないのだ。それが悪い気分ではないと思えるのが一刀は自分の長所であると考えている。
「静里とかほら、結構ずけずけ物を言う奴だから衝突でもしやしないかと心配してたんだけど彼女はどう?」
「むしろあいつが一番話が合うですね。弁が立って気が回せる。流石に水鏡先生に弁論で勝ったというだけのことはあるのです」
「それを聞いて安心したよ。でも水鏡先生に会うことがあったらその話題はしないでやってね。へそ曲げて引きこもるから。さて……見た所美花待ちかな?」
「ええ。珍しく段取りに手間取っているようです」
「ほほう……それなら友人として話を引っ張ることに協力しようか。学院のこれからにも関わることもあるしね。一刀は我らが水鏡女学院についてどの程度知っているかな?」
「君らの母校、ということくらいだな」
行ったことは勿論ないし卒業生以外の関係者に会ったこともない。それ以外の情報と言えば荊州にあるということくらいだ。現代で言えば少し広めの過疎地にある小学校というのが一刀のイメージである。
「なら最初から説明しよう。現在の名前になったのは水鏡先生がその先生から私塾を受け継いだ時だ。元々広さだけはあった施設を学院としてより広く開放した訳だね」
「だからあんなにぼろっちいんですね!」
やけに強い合いの手が朱里から漏れると、雛里と灯里の笑いを誘った。あまり強い言葉を使いたがらない朱里がそれでもボロいと表現する辺り、施設の普請は悪いようである。
「で、私塾を引き継ぐ時に水鏡先生と別にもう一人後継として候補に挙がっていた方がいた。それがこちらの紫苑の母君だ。水鏡先生から見ると姉弟子に当たる非常に優秀な方だったそうだが地元に戻って家督を継ぐということで特に争うこともなく後継は水鏡先生に決まった」
「母は并州に戻って来てからは一族係累の中で見所のある人間に学問を教えました。私も一応その生徒でして、美花が姉弟子に当たります」
「水鏡女学院から見ると分家筋ということになる訳だね。その縁で交流が始まり学院からも卒業生が仕官した。母君がなくなってからもその縁が続いているのさ」
「おば様には足を向けて寝られませんわ」
おば様という単語に卒業生たちの顔に苦笑が浮かぶ。呼称一つで距離の近さが多分に感じられる。自分たちがそれを口にしたらくどくど半日はお説教から逃げられないだろう。教育熱心な人で心の底から尊敬はしてはいるのだが、非常に負けず嫌いで面倒くさい。弟子と遊戯に興じても平気でイカサマをしてねじ伏せてくる。それでいて遊戯に交ざりたがるのだから始末に負えない。雛里たちが卒業するまでは雛里たちを庇う意味で静里が遊戯の相手を一人で請け負っていたが今はどうなっているのか。間違っても関わり合いになりたくはないから、遠い地で後輩たちの無事を祈ることしかできない。
「先代先生の最後の弟子の陳珪殿を自分の弟子として引き取って生徒一人から始めた学院は今では帝国に名を轟かす名門となった。でもまだまだ歴史は浅くてね……洛陽でも幅を利かせるほどではない。各勢力の関係強化は継続して行わなければならない仕事であり、ここ久しくは僕がそれに従事していたんだが、それもこれでようやく終了という訳だ」
「別の仕事を始めるのかな」
「まあね。仕官先が見つかるまでって約束だったから。そんな訳で一刀。これからお世話になるよ。後輩たち共々よろしくね」
「俺は良いけどさ……」
いずれ仕官するつもりでいるとは理解していたが、こうも簡単に言われても困る。雰囲気からして臨時雇いやら水鏡女学院からの派遣という風であるが今黄忠の所にいるのは事実である。これから州牧になろうという地元の人間と、名前が売れたばかりの他所からきた県令。どちらが社会的影響力があるのかは考えるまでもないことだ。
「黄忠殿はよろしいのですか? 灯里が優秀であることは俺も良く知っています。これから州牧となるのでは、人手があって困ることはありませんでしょう」
「そういう契約ですからね。それに、これからの話です。もう、いい加減に戻ってきてくれると良いのですが――」
「失礼します。お茶をお持ちしました」
物憂げに首を傾げる黄忠のその言葉を待っていたように、扉の外から孫乾の声がかかる。ほどなく、開いた扉からお茶のカートと共に入ってきたのは、一分の隙もないエロメイドだった。
真っ白に輝く
一刀側の配膳をする孫乾に驚いているのは一刀たちだけで、何やら陰気な顔をしている黄叙に配膳をされている黄忠たちは澄ました顔だ。一刀は男装した彼女しか見たことがなかったが、普段の孫乾というのがこれなのだろう。
男装している状態からして美人だとは思っていたが、本性がエロメイドだとは思ってもみなかった。男としてとても嬉しい誤算である、とは顔に出ないようにしたい。
そういう感情は女には筒抜けなのですよと稟には良く言われるが、反射的ににやけそうになる顔を誤魔化そうとしたせいで笑いをこらえているような顔になった一刀の姿は、確かに周囲の女性たちには内心などお見通しだった。
企みが成功したことを確信した孫乾は一刀には飛び切りの笑顔を振りまくと、黄忠の右後ろに控えた。逆側に、こちらも配膳を終えた黄叙が並ぶと孫乾がスカートの片方を摘まんで優雅に一礼する。
「改めて。孫乾、字を公祐。真名を美花と申します。ようやくこの姿でお会いできました」
「心底驚いたよ。その……想像していたよりもずっと綺麗だ」
笑顔の質が少し変わる。それまでも笑顔だったがその言葉を受けた美花は、その真名に相応しい花咲くような笑顔を浮かべた。
「お気に召していただけたようで何よりです。これからも、全身全霊をかけてお仕えいたします。末永くよろしくお願い致します、ご主人様」
喜んでと即答しなかったのは日頃の鍛錬の賜物だろう。小さな稟が肩にでも乗っていたのか口から出かかっていた肯定の言葉を飲みこんだ一刀は、その言葉をうっかり口にしないよう気を落ち着かせるために深々とため息を吐いた。
その心情の変化を見透かしていたらしい灯里のにやにやとした笑みを見ないようにしながら、黄忠に向き直る。
「詳しい話をお聞かせ願えますか?」
この場で一番偉いのは黄忠であり、灯里も美花も今現在は彼女の仲間である。ここまでの段取りを知らないということはなかろうと説明を求めた一刀に、黄忠はお茶を一口飲むと。
「単刀直入に申し上げましょう。州牧を代わっていただきたいのです」
何でもないことのように爆弾を放り投げてきた。流石に予想外だったのか、軍師たちの表情も驚きに染まっている。平常運転なのはぼーっとしている恋だけだ。
「口幅ったい言い方をしますが、私はもう十分国家に貢献をしました。長年の懸念も解消されましたし後は穏やかな余生をと思っていたのですが、貢献に報いるということで洛陽からは辞令が届きました」
さもありなんと一刀は小さく頷いた。
侵攻をなくしただけでなく黄忠は并州国境線近くに存在する諸部族の全てと友好関係を築き、出稼ぎなども受け入れ交易も増やし、何と共同で軍馬を生産するという一大事業まで始めてしまった。州牧の椅子でも足りないくらいだと稟などは分析している。
「体調不良を理由に逃げようと画策しましたが見抜かれていたのか釘を刺されまして。辞退しても良いがその時はこれはと思う代理を用意せよとのこと」
「憚りながら最近名こそ売れて行きましたが実績という点において黄忠殿には遠く及びません。お話は嬉しいのですが、力不足ではないかと考えます」
当然の流れとして断りの言葉を口にした一刀は、卓下で両軍師の蹴りが飛んで来るのではないかとひっそりと身構えた。蹴りはこない。ちらと雛里を見れば小さい軍師殿は小さく拳を握って是のサインを送ってきた。
荷が重いと断ったけれども是非にと頼まれたので仕方なく、という流れを作るためには必要なこと。ここで断るという選択肢はないし断れる雰囲気でもない。ならば吹っ掛けるだけ吹っ掛けるのですよというのが財務担当の考えそうなことである。
正面では灯里が母性溢れる笑みを浮かべている。成長したねぇという心の声が聞こえてきそうだ。
「不足など。貴方しかいないと私は考えています。武名、天意を得たかのような飛躍の勢いに何より民の信頼です。貴方ならば洛陽も文句は言いませんでしょう。と言うよりもそのために貴方を派遣したのではと考えています」
まさか、とは言えなかった。并州への赴任を命じたのは他ならぬ黄忠とやり取りをした帝室である。功績ある者に上にという思いがあれば、できる範囲でその意に沿いたいというのも自然な流れだ。
相手が皇帝ということ。帝室の力に陰りが見えていることを考えれば前者で行きたいのだろうが、より都合が良い人間が他にいるのであればその限りではない。大功ある地元の有力者をいずれ中央にというのと比べれば元々根無し草であった若造の方が遥かに使いやすいのは事実だ。
(そこまで好かれる覚えはないんだけどな……)
州牧へのお膳立てがこうして目の前に現れたのだ。并州に来てからも話はとんとん拍子で進んでいる。幸運も勿論あるのだろうが、いざ現実に相対してみるといと貴きお方の格別な配慮を感じざるを得ない。
荊州で廖化たちを引き入れてからこっちまだ三年も経っていないのだ。何者でもなかった男が州牧になろうとしている。飛ぶ鳥を落とす勢いというのはこのことだな、と自嘲しながら一刀は姿勢を正し、頭を下げた。
「黄忠殿ほどのお方にそこまで仰っていただけるのであれば是非もありません。お話、謹んでお受けしたく存じます」