My Fate In Ramayana   作:てんぞー

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Prologue

 ―――私は冬木という片田舎で生まれ、そして育った。

 

 だがついぞ、この故郷に対して愛執を抱くような事はなかった。

 

 その原因はおそらく、冬木の抱く血と殺戮の歴史にあるのだろうと思う。時折ガス爆発が起き、失踪事件が発生し、そしてそれをまるで日常のように受け入れて人々は生きている。ある時、大規模な災害によって壊滅に近い被害が発生しても、それをほとんど気にすることもなく復興し、冬木は元の形を取り戻した。私にはその歴史があまりにも奇妙で、そして気持ち悪く感じたのだ。この冬木という土地は何かが間違っている。何かが決定的におかしいのだと。

 

 それはまるで何か、いけないものに触れてしまうような、無垢な幼い子供がポルノ雑誌に手を伸ばしているような、そんな感覚だった。

 

 そんな感覚を覚えた私は高校を卒業した直後、早々に冬木から逃れるように首都圏の大学に受験、合格した。なんでもいいからあの土地から離れたい。そういう願いから一人暮らしを始め、アルバイトをしながらの苦学生生活を始めた。幸い、私の頭はそこまで悪くなく、興味のある学科も存在した。頑張って勉強すればある程度の奨学金は取れたことだし、両親も一人暮らしに関しては文句をいう事はなかった。だから私はそうやって大学生生活を始めた。

 

 大学生となった私はソシオロジーとアンソロポロジー、つまりは社会学や人類学を専攻し、それを通して歴史や宗教に関する勉強に勤しんだ。将来的には教職の類をとるのも悪くはないなんて考えも頭には浮かんでいた。実際、専攻している分野に関して友人達と話し合ったり、教えあったりするのは楽しい経験だった。スライドショーやプレゼンテーションで前に立つのも楽しかった。そうやって人に何かを教える職業というものに自分は適正はあるのかもしれない。おぼろげながら未来の、将来のビジョンというものが出来つつあった。

 

 そんな大学生活の二年目、カリキュラムの一部として宗教と歴史と社会の結びつきに関する勉強が始まる。それはいやでもあの閉鎖された冬木という土地を思い出させ、それから逃れるようにのめりこんだ。

 

 この時、教材として利用されたのはインドだった。

 

 インドという国は非常に面白く、日本と良く似ているというのだ。日本人の生活にごく自然に神道が広がって混じっているように、インドでもヒンドゥー教が生活レベルで混ざっており、酷いところでは神の乗り物として聖典に出てくる牛が州単位で食べることを禁じられているという事がある。それほどまでに国家の根幹と歴史に宗教というものが混ざっている。

 

 それが非常に面白く感じられ、大学のサークル仲間と夏の休みの間、友人達でインド旅行なんかしてみないか? という話へとつながる結果となった。

 

 休みの日の間にインドという国を調べ、授業で話題に出たラーマヤーナやマハバラータをネットで注文し、益々話に聞くインドという国に対する興味を深め、アルバイトでお金をためながら私を含めた数人の友人達と共に、

 

 夏、最も熱い時期である時に私たちはインドへと向かった。

 

 初めての国外旅行であるがゆえに、何度も何度もネットで注意を確認し、英語と簡単なヒンドゥー語の勉強もして、これで何とかなるだろうという希望を抱きながら日本、成田空港から安いエコノミークラスの飛行機に乗り、数時間のフライトを経て、私たちはインド、ニューデリーへと到着した。

 

 インド、ニューデリーに到着した深夜、私達が一番最初に感じ取ったのは()()だった。

 

 ニューデリーの空港はインドの空気と特色を持っていても、成田空港とほぼ変わりのない大きな空港であり、空港の外へと出れば大量のエアポートバスとタクシーが存在し、排気ガスなどが原因で霧が視界を完全に包んでいた。インドという神秘の国へと到着したつもりで、私たちは未だに都会から出る事は出来ていなかった。落胆を感じつつも、インドであっても首都圏ならこんなものだろう、と携帯電話の電波が三本立っているのを確認しながら私たちはその日、あらかじめ予約していたホテルへと向かった。

 

 ―――そうやって、短く、そして長く感じるインドでの旅行が始まる。

 

 始まりはニューデリー。インドの都会をスタート地点、ゴールもニューデリー。他に予約したのは帰りのチケットだけ。あとは完全にノープラン。バックパッカーと呼ばれる旅キチガイの様な連中のように、大きなバックパックの中に必要なものを詰め込めるだけ詰め込んで、それだけを荷物にバスと徒歩とヒッチハイクを武器に、インドを知る短い夏が始まった。

 

 インドは英語圏だ―――つまり英語を喋る事が出来るのなら大体歩き回ることが出来る。とはいえ、低所得層になってくるとそうでもなく、バスドライバー等は普通に英語がしゃべれなかったりする為、拙いヒンドゥー語だと大いに困った。それでも来る前にある程度習ったのが功を奏して、完全に迷子になるようなことはなかった。バスやヒッチハイクでなるべくコストを落としながらまずはニューデリーを出て、都会から、文明から逃れることから私たちは始めた。

 

 ガンジス川で有名なバラナシを目指してバスに乗り継ぎながら少しずつ、現地の言葉と風習を肌で感じながら移動をする。憧れと思いつきで始めた企画故に、すぐに疲れを感じることもあったが―――だがそれ以上に旅行そのものが楽しく、気が付けば愚痴や文句以上にアレが楽しい、これが楽しい、そういうことばかりを口にしていた。

 

 ガンジス川のあまりのドス黒さに夢を壊されたり、偶然見つけた小汚い中華料理屋がインド風のアレンジが施されていたキツイ辛さを見せながらも美味しかったり、予想外の連続に見舞われながらも、それでも楽しいと断言でいる時間が過ぎてゆく。インドの主要都市よりも文化的に重要な、都或いは物語の舞台とされた市への旅は仲間内での共通の目的だった。

 

 最初は興味だった―――だけど私達は徐々にこのインドという不便ながら不思議な国に魅了され始めていたのだ。

 

 通りを歩けば大量の野良犬が歩いている。

 

 道路を牛が閉ざし、誰もそれを押し退けようとせず立ち去るのを待っている。

 

 バイクタクシーが数キロ単位であれば百円程度で運んでくれるし、

 

 結婚式に騒いで夜通し爆竹を鳴らし続けたりもする。

 

 日本とは全く違う国の神秘に触れながら、国を旅して行く。そうやって私達は少しずつ、少しずつ古都へと向かって旅を進めてゆき、あっという間に旅に慣れてゆく。最初はくさい、汚い、気持ち悪いなんて言葉を口にすることもあった。だけど汚いベッドの上に寝袋を敷いて眠ることには慣れたし、トイレットペーパーが存在せず指で尻を拭くのにも慣れた。

 

 そうやって旅慣れてたくましくなってきた頃に―――私達は、いや、私は到着したのだ。

 

 かのラーマヤーナで語られるコサラの国の都市へと。それはインドという国の文化を理解する上では是非とも行ってみたい場所の一つだった。なにせ、()()()と呼ばれる王、ラーマはインドにおける理想君主として描かれた人物であり、それでいて現代に至るまで信仰を一切失っていないビッグネームなのだから。日本のヤマトタケルノミコト、或いはスサノオ。童話でたとえるならモモタロウ―――インドにおけるラーマの知名度とはそういうレベルの存在であり、知らない人物はいないとも言える。

 

 それこそラーマの強さにあやかる為に子の名前に今でもラーマの名を加えるほど、彼は有名でありインド人に慕われている。

 

 そんな彼がかつて支配していたとされる都市は開発が進み、古い都の姿を見せながらも整備された道路、公園、そして建築物の見せる準近代の姿を見せていた。落胆だった。落胆するしかなかった。しかしまぁ、それはそうだよな、という苦笑いが仲間内では流れた。昔の儘残っているわけがなかったのだ……それでもかつてラーマが住んでいたとされる宮殿が、王城は残っているとされており、そこを観光しながら私達は裏通りに入ったところの安宿に泊まる事にした。

 

 こういう安宿探しも割と慣れたもので、軽く聞き込みをして値段を比べ、評判を調べればそれで大体は終わる。安宿で一泊し、さらに一日観光してから移動しようと決めていた私達は割とハードスケジュールであることもあり、特に夜更かしもする事無く、

 

 いつも通り、

 

 安宿の汚いベッドの上に寝袋を敷き、

 

 その中に入り込んで、

 

 一日中歩き回った疲れを溶かすように眠りについた―――。

 

 そして、

 

 ―――これがおそらく始まりだった。

 

 そう、ここが分岐点、私の運命(fate)の始まりだった。

 

 旅の間、慣れたスタイルで眠り、そして朝、目覚めの時は騒がしい声と共にだった。耳に響くように何者かの咆哮が耳に入り、それでいやでも意識を覚醒させられた。まだ頭にかかる眠気を何とか振り払いながらも目を開き、自分が泊まった部屋は数人部屋だ。シャワーやトイレの類は存在せず、複数のベッドが用意されており、そこで自分の荷物を自分で管理しながら適当に眠るという部屋だ。

 

 軽く確認したところ、そこにはサークル仲間の姿も、荷物もなかった。

 

 薄情な奴らだ、先に起きて歩き回っているのだろう。あらかじめどこで合流するか等の話も決めてあるし、子供ではないのだから別に別行動は悪くはないのだが―――それでもちょっと寂しくはあった。すでに大変なことになっていると、その時の私は一切理解できることもなく、身内の薄情さに呆れつつ寝袋から脱出し、着替え等の朝の支度を行うために荷物を開けたりして終える。洗面所なんて便利なものは部屋になく、共同の洗面所が安宿にはある。歯ブラシ、歯磨き粉、コップを片手に部屋を出れば、

 

 そこには古い建築を思わせる吹き抜けの二階、廊下の姿があった。

 

 首をかしげる。はたしてここはそんな光景だったか、と。ただ自問しても即座に答えが返ってこないあたり、昨晩の記憶はあいまいになっているのかもしれない。そう簡単に思い込もうとして、二階から一階へ、受付へと向かう。そこには暇そうに果物をかじる店主の姿が見えた。歯を磨きたいのだが洗面所はどこか、と拙いヒンドゥー語で聞けば、裏手にある井戸を使えと言われた。

 

 ―――妙な胸騒ぎを既に感じ始めていた。ただ私は無意識的に考えようとはしていなかったのだ。もう少しすれば直視しなければならないと解っていても、それでも今、この時私は見ない、見たくはないという選択肢を無意識的に選択していたのだ。

 

 故に井戸から水をくみ上げて、軽く顔を洗い、歯を磨き終わり、部屋に戻ったところで、完全に足を止めてしまったのだ。荷物を纏めてから観光の為に歩き回る。それが目的だった。だが本能的に外に出ることを忌避していたのだ。なんだか良く解らないが()()()()()()()()。そんな妙な感覚が私にはあった。

 

 そう、それは冬木にいたころ感じていたものだ。

 

 かかわると自分の根本とも言える部分を脅かす。そういう感覚だった。だから踏み出すことを恐れていた。しかしそれを否定するように自分に馬鹿な、と呟いた。ミステリーや二流の小説ではあるまいし、いきなりみんなが消えて場所が変わるような、そんなことはありえないだろう。浮かび上がった答えを小さくつぶやいた言葉で即座に否定した。馬鹿な考えはやめよう、と。

 

 バックパックに荷物を詰め、それを背負い、そして安宿を出るために部屋から出て一階へと降りる。眠気のなくなった頭で考えれば安宿の様子が昨晩とかなり違うというのは解りきったことだ。ただそれを飲み込むこともせず、白痴のまま、安宿の主がいつの間にかいなくなっていることにさえ気づかず、

 

 私は外へと通じる扉を開いた。

 

 照りつける太陽の光と熱。旅の間に大分慣れてきたそれもより一層強く感じられた。光の強さに軽く瞬きながら目を開けば、自分の視界に飛び込んでくるのは砂と砂利によって敷かれた大通りの姿だった。古風な街並みは一切コンクリートのような近代の技術を使っておらず、一切の排気ガスの臭さを感じさせない、

 

 古都ではない古都の姿があった。

 

 そう、古都であるはずなのに新しく、そして美しいという圧倒的な矛盾した光景が広がっていた。

 

 街並み事態は既知感を覚える程度には似ている。ただありえないほどに建築物が綺麗で、美しく、そして新しかった。黄金時代を生きるニューヨークの様な、街に()()()()が溢れていた。それは自分が知っている街の姿は全く違う光景だった。

 

 何よりも、絶望的に違うのは歩いている人々だった。

 

 時代をさかのぼったかのように布を身に纏い、馬の代わりに牛を使って荷を引く姿、

 

 そして()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()というどう考えてもあり得ない、そんな光景が目の前で繰り広げられていた。そんな生物、現実には存在しない。アニメや漫画じゃないのだから。だけど現実として、リアルな姿が目の前、まるでそれが日常であるかのように歩き、笑い、そして欠片ほどしか理解できない高度なヒンドゥー語で喋っている。その場で思わず背負っていたバックパックを落としてしまった。

 

 ありえない。そんな言葉を口から零す余裕さえなかった。ただ左を見て、右を見て、それで世界が変わらないのを確認し、振り替える。

 

 だがそこに安宿の姿はなく、ぼろぼろの廃墟が美しい街の景観と会わず、鎮座していた。まるでそこだけが別の世界から押し込まれたかのような、そんなぼろぼろさだった。

 

 完全に言葉を失い、夢だと思おうとして頬を叩くが、変化は一切なかった。

 

 呆然と、迷子になった子供の心で立ち尽くした。なにか、何かを呟こうとするが、その前に言葉が霧散してしまう。まるで言葉そのものが世界からはじかれているような、そんな恐怖だった。だけど何かを、何かをしなくてはならない。必死に、焦りを感じながら焦燥感が心を焦がしてゆく中で動こうとしたところ、

 

 ―――異国の言葉が耳に入った。

 

 それは古く、自分が聞き取るには難しいヒンドゥー語だった。ゆっくりしゃべってもらえばある程度は解るかもしれない。だがそれを理解する前に私が見たのは心配そうに此方へと視線を向け、首をかしげる猿人―――後に私がヴァナラ、と理解する種族の者であった。だがその時、私には彼らがまるで恐怖の大王の様に映った。だから心配してくれるヴァナラの姿を他所に、恐怖が心を侵食して行く感覚を得た私はバックパックを拾い上げ、

 

 押し退けるように逃げ出した。

 

 幸い、街の構造は大きく変わっていたわけでもなく、大通りを一気に突き抜けて行けば入口へ―――出口へと到達できる。ここから出ればきっと夢から覚めるに違いない。それこそ夢のような戯言だと頭の中で直感的に理解しつつも、馬鹿になる事でそれを忘れ、全力で逃げ出した。

 

 はしり、美しい風景の中に混じる人非ざる者の姿を見るたびに正気が削れて行く感触と恐怖が胸を犯す感触を得て、冬木から逃げようとして、結局は冬木から逃げようとした恐怖から逃げきれていないという事に気づきそうになり、考えるのをやめる。

 

 人にぶつかり、牛にぶつかり、猿にぶつかり、転びそうになりながらもなんとか体制を整えて、走り続けて、

 

 そして到着する。

 

 本来であれば隣の街までつながる緑に囲まれた道路。

 

 そこには自然と、そして砂と砂利で出来た道が出来ていた。整備された道路なんて存在せず、あ足り前の様に車も走っていない。なかった。

 

 ()()が見える世界にはなかった。

 

 吐き気を覚えた。胃、そのものが裏返りそうな感触と共に、体から力が抜けて行く。ここにきて、ようやく恐怖が心臓を完全に塗りつぶしたのだ。体が震え、力が抜けて行く。足元の大地が崩れたかのように体が落下して行く。いや、正しくは力を失っただけだ。世界に否定されているような、そんな感覚と共に膝から大地に倒れ、酸素を求めるように荒く息を吐き出していた。

 

 何が起きているのか、直感的に理解していた。

 

 しかしそれを本能が理解してはならないと叫んでいる。

 

 直感と本能が正反対のことを押し付けるせいか、頭が痛みを訴え、吐き気が激しくなってくる。玉の様な汗を零しつつ大地に倒れそうになる。周りから視線が向けられ、おそらく何かを言われているが、それが耳に届くようなことはなかった。もはや外界を気にするだけの余裕はなく、自身の存在を支えようとする、それだけで手一杯だった。

 

 だがそれでも限界というものはあまりにもあっさりと、あっけなくやってくる。

 

 耳鳴りと共に視界が黒く染まって行く。意識を失いそうになって行く中、ひたすら感じたのは怖気と恐怖だけだった。

 

 ―――そして完全に意識は消えた。

 

 

                           ◆

 

 

 暗転した視界が再び世界を認識する様になるにはしばし時間を必要とした。

 

 目覚めは安宿と比べ物にならないほどに爽快だった。まず目覚めと共に感じたものは甘く、しかし爽やかな眠気を晴らすような花の匂いだった。不思議だった。私は花に対してそんな知識もなく、興味もなかった。だが不思議とその匂いが花の者であると理解できたし、そしてそれが私の心をわずかながら癒してくれたのだと、そう理解できた。

 

 ()()()()()()()()だった。

 

 ただ、それでも頭の中は鐘楼を鳴らしたかのように響いている状態であり、理解と否定を繰り返す中で頭痛を与え、思考能力を奪っていた。目に入ってくるベッドの天蓋、それを黙視しながらもしばらく体を動かす事もなく、ただ無言で天蓋を眺め続けた。無気力、と言われれば違う。現実感がなかったのだ。自分が感じる全てに。アリスがワンダーランドに迷い込んでしまった時、彼女が感じた夢の国に対するドキドキやワクワクは私にはなく、ガリバーが感じた冒険心の疼きもない。あったのは傍観と混乱だった。それが一定のラインを越え、ただ動くことが出来ない。それだけの状態だった。

 

 だけどそれでも時間は過ぎ去って行く。

 

 そして生きているのだから、自然と生理現象として空腹を感じ始める。

 

 それが生きている、現実であるという感覚を与え、嫌でも体を動かす。倦怠感を何とか押し退けながら上半身を持ち上げれば、大きく開かれた部屋の外から太陽の日差しが射し込んでくるのが見えるが、不思議と部屋はひんやりと冷えており、インドらしい乾いた暑さを感じない不思議があった。ただそれよりも身体は食欲に飢えていた。

 

 部屋の中を確認すれば、二面が吹き抜けになっており、それが庭園へと繋がっているのが見える。ゲストルーム、或いは離れの様な場所のように見える―――しかも、かなり高級な。だが深く考えればそれだけ、もっと嫌なことにも思考を絡めとられる。それが嫌だったから、

 

 食べ物を求め、部屋の中へと視線を巡らせる。自分が寝かされていた天蓋付ベッドのすぐ横に小さなテーブルがあり、そこに黄金のボウルの中に盛られるように大量の果物が存在しているのが見えた。見たことのある果物もあれば、まるで見たことのない、不可思議な形をした果物もあった。一貫してそれらが甘い匂いを発しており、誘惑するように空腹を刺激している事は共通点だった。その魅力に私はその時、一切抗うことが出来ずに、

 

 果物の一つに手を伸ばし、その皮を剥いて口の中へと放り込んだ。

 

 私はその時、その果物を口にして非常に後悔した。

 

 ―――美味しかった。

 

 噛めば果汁が口の中へと溢れ、甘さが喉を通って行きながら意外と食べ出があり、今まで食べたことのあるどんな果物よりも美味しかったのだ。こんなものを食べてしまえば普通のはもう―――そんなことを思いながらも食欲は素直で、本能には抗えなかった。一つ手に取れば今度は二つ、三つ、四つ、と、まるで絶食していた乞食の様な食欲で一気に食べ進め、気が付けばいつの間にか器の中には果物の皮と種しか残されていなかった。

 

 もったいない、もっと味わって食べればよかった―――そんな後悔を抱きながらも、食欲を見たし、幸せな思いをしたせいか、私はここで漸くある程度の冷静さを取り戻すことに成功したのだ。私は部屋へと視線を向け直し、ここが一体どこで、自分がどうしてこんな場所にいるのか、それが怖くなり始めた。記憶を遡り始めれば、再び街中を走り、現実から逃げようとしたことを思い出してしまう。あぁ、そうだ、自分は何を間違えたのか、意味不明なファンタジー体験をしているのだ、と恐怖を感じつつ思い出してしまった。

 

 これがアリスの経験したワンダーランドの様な話であればよかったが、昼寝から覚める様な気配はない。

 

 覚めない。これは夢じゃないから覚める事はできない。

 

 何かを書き込むように脳の中へと現われた言葉は強制的に自身の状況にリアリティを与えた。

 

 どうするべきか、認めるべきか、ここはどこだ。情報と考えが再び頭の中でぐるぐるとまわり始める。頭痛と吐き気が再び自分を支配し、意識を失いそうになる恐怖がまた心を蝕み始める。また意識を失うのか。情けなさを私は感じつつも、現実を否定したいという考えから逆らおうとは考えもしなかった。

 

 その時、

 

 ―――足音が聞こえた。

 

 足音。それはつまり誰が近づいてくるという事に他ならない。暗転しそうだった意識が一瞬で持ち直す。足音の主はおそらく自分をここまで運んだ人物の筈だ。それを耳にすると、急にどうにかしないと、という焦りを感じ始めた。目の前には貪った果実の残骸。許可もなく勝手に食べたのはあまり良い事だとは言えない。嫌な汗が背中を伝わり始めるのを感じながらも、なぜか()()()()()を心は抱いていた。

 

 絶対的存在の庇護下にあるような、そんな安心感だった。

 

 そんな感覚を私は抱き、動きを止めてがらベッドの正面、扉を抜けてやってくる姿を見た。

 

 扉を抜けてきたのは美少年か、或いは美少女か判断のしづらい中性的な顔立ちの者だった。頂点が金の、美しい赤髪の少年だ―――当時の私に判別はつかなかったが。その少年は出会うものに対して圧倒的安心感を与える()というものを持っていた。未だ二十代でしかなかった私でも、()()という事を理解させてしまうほど強大で、そして―――優しい存在だった。

 

 部屋に入ってきた美少年はこちらの姿を見ると柔和な笑みを浮かべ、そしてこちらの理解のできない言語で心配するかのように言葉を向けてくる。最初から言葉が通じないと理解していたのか、その言葉は伝えるようにジェスチャーを混ぜており、言葉が通じずともその意図は理解できた。そう、彼は優しい―――本来は優しい存在なのだ。

 

 今は見えない未来が、そして決められたシナリオがこれから彼を鋼へと鍛えあげるのだ。

 

 そんな美少年の笑みに私は安堵を覚えた。焦燥感は少しずつ薄れ、そして恐怖が去り始める。自身の状況は何も変わっておらず、解ってもいない。だけど()()()()()()()()()という無根拠な安心感が心を救っていたのだ。そしてそれは自分にとって必要なことでもあった。私の心は凡人のそれであり、そこらにいるものと全く変わりはない。衝撃的すぎる事があれば当然のようにふさぎ込むし、認められない現実の前では砕けるかもしれない。

 

 だから、この時、私は彼に対して返しきれない恩を受けてしまったのだ。彼は私の心を―――すなわち命を救ったのだ。この時、まだこの時、私にその自覚はなかった。安心感を覚え、そして自分という存在に対する肯定だけで精一杯だったのだから。だから私が恩に気づくのはもっと後の話になる。

 

 だがおそらく、この時点ですでに物語は回りだしていたのだろう―――否、物語はすでに回っていたのだ。それを理解する術が私にはなかった。だがすべてが終わってから理解する事は、これもまた必然の流れだったのだろう、という事だ。ブラフマー神か、或いはシヴァ神か、もしくはヴィシュヌ神か。どの神の思惑かまでを理解しようとは思わない。ただそれでも私が存在した意味は、

 

 必然性はあったのだ。全てが終わって、物語の終焉を迎えた私はそう思い、ここに書き綴る。

 

 こうやって、私の―――いや、彼の物語が始まるのだ。徹頭徹尾、物語の主人公は私ではなく彼だった。武神に己の才能を超えるといわれ、そして歴史に理想君主としてその名を刻んだ王。今、その時、私の前にいたのはまだその片鱗しか見せない王子の姿でもあった。しかし、私は助けられ、出会い、

 

 そして縁が生まれたのだ。

 

 見えず、

 

 血よりも濃く、

 

 そして断つ事のできない縁が。

 

 ―――これは私が関わったとある物語の話だ。

 

 後世にラーマヤーナという名で残される一人の男の物語。神の化身として生まれる運命を背負い、神々の期待を背負い、妻を奪われる運命を背負い―――そしてそのうえで報われないという運命を背負った理想にして悲劇の王の物語。

 

 その物語の名をラーマヤーナという。

 

 これが私の物語への導入。

 

 これが私とラーマの出会い。

 

 なるべくして、そしてあるべくして始まった物語。

 

 ―――おそらくは、私が冬木に背を向けて出て行ったあの日から、始まる事がずっと決まっていた、逃れることのできない物語―――。




 次話の更新は大体3~4日後を想定しています。
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