ビスコッティ共和国興亡記・HA Edition   作:中西 矢塚

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策謀編・3

 

 

 ・輝暦2911年・珊瑚の月『十一日目・傍付きメイド隊日報(修正前版)より再現』

 

 既に戦は始まっている。

 

 まどろんでいる場合ではない。

 現実へと帰り、必要な役割を演じきらなければならない。

 自らが定めた、自らの成すべき役割を―――。

 

 ―――だが。

 

 レオンミシェリはそこ(・・)動くことが出来なかった。

 その光景から視線をそらすことが叶わなかった。

 

 これは夢だ。夢以外であって良い筈が無い。

 そう、知っているのに―――それなのに、動けない。目を逸らせない。

 悪い夢だ。夢に違いないのに、それはレオンミシェリに現実を突きつけているかのようだった。

 

 岩山の如き影。

 千里を凍らせるような恐ろしい遠吠え。

 うねる五本の尾は、一振りで森が木っ端の如く砕け散りそうな、巨体を示していた。

 四足の一足すら踏み出せば、それだけで大地は抉れ、街は蹂躙されるに違いないだろう。

 

 そんな岩山の如き影が、レオンミシェリの眼前にあった。

 

 恐ろしい姿だ。

 赤く眼を光らせる、おぞましい化け物の影だ。

 だが、レオンミシェリにとって何より恐ろしかったのは―――。

 

 赤い。

 美しい赤い色。

 赤い色が、ふわりと、風に舞う花びらのように虚空に広がっていく。

 そして、花びらを散らした憐花は、手折れ、落ちる。

 力をなくして、地に崩れ落ちる。

 

 レオンミシェリの眼前で美しい花が手折られる。化け物に蹂躙される。食い散らかされる。

 レオンミシェリの目の前で、ミルヒオーレが崩れ落ちる。

 レオンミシェリが立ち尽くすその目鼻先で、手を伸ばせば直ぐにでも届きそうなその場所で、ミルヒオーレが血を流し地に倒れ付す。

 

 その光景を。

 その光景を受け入れろと。

 

 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。

 

 悪夢は、際限なく繰り返され続ける。

 ―――この光景を、受け入れろと。

 それだけが、現実へと回帰する唯一の方法だと―――認められるはずが、無い。

 レオンミシェリには絶対に認められない、許容できない。

 抗って然るべき―――事実、そのために幾度も行動を行ってきた。

 

 でも、その結果は知っているだろう?

 いやいやむしろ、お前の行動の結果がこのざま(・・・・)だ。

 

 さぁ、だから。

 この現実(ユメ)を受け入れて、現実へと帰ろう―――。

 

 

 ・輝暦2911年・珊瑚の月『十一日目・甲種害獣駆除計画最終報告書より抜粋』

 

「ふざけるなっ!」

「うわっ?」

「―――は? っ!!」

 

 ゴン、と言う鈍い音。

 突然明るくなった視界が、別の意味で真っ暗になる。

 真っ暗の中にチラチラと危険な感じの星が瞬いており、どうやらいい感じに額を何かにぶつけたらしいとレオンミシェリは理解した。

 「何が……」

 起きているのか。

 夢と現の狭間を漂っていたせいで記憶が大分混濁している。

 今の状況が理解できない。

 それでも、とにかく目を覚まさなければ(・・・・・・・・・)ならないと言うことだけは忘れていなかったらしく、レオンミシェリはズキズキと痛む額を押さえながら、ようやっとの動作で瞼を開くことに成功した。

 

 石造りの広い室内、高い天井。僅かに開いた窓。長机。並ぶ椅子の数。広げられた地図。立てかけてあるグランヴェール。

 ―――作戦会議室だ。

 此処は、ビスコッティとの国境に程近い要塞、グラナ浮遊砦の作戦会議室に相違なかった。

 しかし何故こんな場所に一人で―――ああ、そうか。

 レオンミシェリ自身が人払いをしたのだと、今更ながらに思い出した。

 

 ―――戦は既に始まっている。

 始まってしまえば、両軍団は動き出しており、ならば、予め定めた作戦外の事態が発生するまでは、総指揮官たるレオンミシェリが一々全てに口を出す必要も無く―――だから少し、一人になりたかったのだ。

 ある程度状況が動くまでは一人にしておいてくれと、確かにそう告げておいた筈だから―――。

 

 自分以外の、誰かの気配。

 傍に居てもまどろんで居られる程度には、馴染んだ気配。

 ―――はて、誰だろうか?

 

「や」

 

 シュタっと片手を上げる、青い髪の少年。

 見知った顔だった。

「~~~~~~~っ!!」

 故に、レオンミシェリの驚愕の度合いは大きすぎた。

 言葉にならない悲鳴を上げながら、椅子を転がし立ち上がる。

 指を突きつけ、目を見開く―――苦笑してる姿が、実に癪に触った。

 

「何故キサマが此処におるのじゃ、シガレット!!」

 

 言いながら、でも『居るんだから仕方ないか』と思えてしまうのが悔しかった。

 アシガレ・ココットという人間はつまるところそういう存在であり、であるならば

「いや、入るよって言ったら顔パスで入れてくれたけど」

 と、四半分開いたドアの向こうから覗き込んでいる傍仕えのメイド達を指で示しながら応じるのだった。

 そう言う事を聞きたいのではないと解っているだろうに、あからさまにとぼけた態度。

 間違いなく、どう考えてもアシガレ・ココット当人で間違いなかった。

「キサマと言うヤツは……っ」

「ちょっと起き抜けに血圧高すぎじゃないですかレオ様。やっぱり疲れてるんじゃ……」

「誰のせいじゃ、誰のぉ!」

「―――ぉわっと」

 思わずテーブルに立てかけてあったグランヴェールを振り上げてしまうが、シガレットはするりと避けやがってくれた。お陰で石壁に風圧で皹が入る。相変わらず無駄に優れた回避能力だった。

 

 些か暴力的に過ぎるが、しかしこの程度ならばレオンミシェリとシガレットにとっては『何時もどおりのじゃれあい』の範疇で済ませられるはずの出来事なのだが―――しかし。

 

「何故、此処に居る。今がどう言う時か解っておろう!」

 

 レオンミシェリの顔は、声は、瞳の色は。

 それは、真実本気の怒りに染まっていた。

 燃える、否、煮え滾るような瞳の中の炎に曝されながら、しかしシガレットの態度は『あくまで平常』。

 

「どういう時って、そりゃ、戦の最中でしょ。お宅の国とウチの国の、万対万の大軍団同士の大戦の最中ですよ。

―――あ、レオ様が寝てる間にもう先方集団の激突は始まってますよ」

「そうではない! そうではないだろう、シガレット。お前がこんな所に居ては……」

 それで互いに通じる筈であった。

 レオンミシェリとシガレットの間には、それで気持ちは通じ合っている筈だった。

 

 アシガレ・ココットには居るべき場所がある。

 居てくれなければいけない場所がある。

 その場所に居てくれる。

 語らずとも、察してくれて―――だからこそそこに居てくれる。

 

 ―――つまりそれが、その全幅の信頼こそが、レオンミシェリにとっての最後の一線(・・・・・)

 その安心こそを蜘蛛の糸として、彼女は抗うための戦いに挑めている。

 

 だが。

 

「でも今は、だからこそ(・・・・・)って、ね」

「……何?」

 あっさりと、レオンミシェリの想いをないがしろにするかのように、あっさりとした口調だった。

「ああ、一応言っておくけど、この場に参じる手土産に、エクセリードとパラディオンを盗って来たとか言うことも無いから」

 呆然と問い返す声に、不安に揺れる瞳すら意に介さないような朗らかさを秘めていた。

 つまりは、エクセリードは今も変わらずビスコッティ共和国領主たるミルヒオーレの手の中にある筈で。

 パラディオンはイマイチ頼りない感のある勇者の手の中にある筈で。

 

 だからつまり。

 岩山の如き、黒い影が。

 

「シガレットっ!」

「怒鳴らなくても聞こえてますよ。こんな至近距離で」

 鼻面の間近まで踏み込んで怒鳴るレオンミシェリを、シガレットはどうどうといなす様に肩を抑える。

 それでも収まらぬという気配を読み取ってか、それで漸く、シガレットは飄々とした態度を崩して苦笑を浮かべた。

だからこそ(・・・・・)、です。理由も無しにこんな所に来たりはしません。兎も角一度落ち着いて……」

「落ち着いてなど居られるか! お前は、いや、お前が……? お前……」

 額を寄せ合う距離に顔を寄せていたお陰か、レオンミシェリは気づく事があった。

 シガレットの青い髪。

 輝力の色と同じ、鮮やかな青が―――しかし今は。

 

「何故、髪が凍っておるのじゃ?」

 霜の生えた髪。それから良く見れば、頬も少し朱色となっている。

 いかにグラナ浮遊砦が山岳地帯に作られた十数階層に連なる塔状の要塞だったとしても、そこまで冷える筈も無く。

 レオンミシェリの当然の疑問に、シガレットは煤けたような瞳で笑う。

 

「知ってますか? 雲の上って氷点下の気温なんですよ」

 

 当然だが、戦は既に始まっている。

 ビスコッティ軍に属するシガレットが、ガレット軍の本陣たるこのグラナ浮遊砦に騒ぎを起こさず(・・・・・・・)に来るためには、戦場を駆け抜けてと言う方法では不可能に決まっており。

「阿呆か、己は」

「ひどいなぁ」

 天空高くより飛参した少年に、姫君の視線は冷たすぎた。

 馬鹿らしくなってきたと身体を離して椅子に腰掛けるレオンミシェリ。

 ある意味あまりにもシガレットらしい(・・・)行動が、返って彼女の思考の熱を冷ましたらしい。

「この、阿呆が……。理由は確りと聞かせてもらうぞ」

 若干落ち着いた口調で、告げた。

 シガレットは勿論と頷いて示して―――

 

「あ、でもその前にホットワインとか入れてもらえる? いやさ、身体冷えちゃって……。あ、ルージュさん? できればこの前飲ませてもらったリオネの899年モノを……うん、レオ様の分も宜しく~」

 

 むき出しの二の腕を摩りながら、実に間抜けな態度を示すのだった。

 レオンミシェリが額を押さえて呻いたのは言うまでも無い。

 

 

 ・輝暦2911年・珊瑚の月『十一日目・勇者シンクの覚え書きより抜粋』

 

 

 戦争は既に始まっている。

 兵の移動、開始の音頭すらとうに過ぎ去っていたから、ミルヒオーレの成すべきことはシンプルだった。

 彼女は軍団を指揮する才能は無い。

 無論、率いる(・・・)能力に関しては疑うべくも無いが、しかし軍勢同士の激突を自軍に有利なように采配するなどという方面に関しては、残念ながら能力が足りなかった。

 ならば、ミルヒオーレが成すべきことはシンプルだった。

 

 成すべき事(・・・・・)を成す(・・・)

 

 元よりこの戦は、国と国との競合によって発生する両国が授かるメリットを勘案して発生した物ではなく、ただただ、極個人的な事情から極めて個人に対してのみの必要性に基づき発生したものだった。

 言ってしまえば、個人が個人に対するために、国を利用したということである。

 

 その理由が解らない。

 いや、理由は解っている。

 そしてだからこそ、理由が解らない。

 ならば、ミルヒオーレの成すべきことはシンプルだった。

 

 確かめること。

 そして理解することだ。

 何も変わっていないはずの彼の女性が、何を以ってこのような行動を起こしたのかを。

 

「誰も、居ないね」

「このまま突っ切れれば良いのだが……」

 

 地を駆けるセルクルの蹄の音に混じって、前方から会話が聞こえた。

 ビスコッティ、ガレット両国の国境線たるチャパル湖沼地帯をガレット方面に抜けた細い渓谷の中を、騎兵の集団が疾走する。

 ミルヒオーレはその集団の中に居た。

 前方の会話は先頭を併走するシンクとエクレールの物だろう。

 二人の声には、遂に始まった大戦に対する高揚感に、戦場特有の空気に触れたが故の緊張感が混じっているようだった。

 この部隊は、表向きは(・・・・)敵本陣への最速での侵攻の任を負った精兵部隊である。

 無論、真の目的は別にある。

 本来本陣たるスリーズ砦で構えていなければならないミルヒオーレが、集団に混じっていることからして、明らかな話だろうが。

 彼等は、主君たるミルヒオーレを敵本陣へと―――否、敵本陣たるグラナ浮遊砦で待ち構えている筈の敵将レオンミシェリの眼前まで運ぶ役目を背負っていた。

 戦争の勝敗とはある意味何の関係の無い、ミルヒオーレの個人的な目的のために。

 騎兵の集団は渓谷を駆け抜ける。

 

 ―――その最中。

 

 自軍本陣の方向より、花火が打ち上がる。

 

「リコからの合図」

「本当に本陣への急襲があるとは……」

 立ち止まり、振り返ってシンクたちが言う。

「シガレットの思惑が図に乗ったということか」

「無粋な手段を使ってでも勝ちに来る筈、ってヤツ?」

 伏兵として本陣に残ると言い出した副騎士団長の言葉をなぞるように状況は動いていた。

「レオ様、そんなにまでして……」

 右手に嵌めた指輪―――ビスコッティ領主の証たる、聖剣エクセリードを胸に抱えて、ミルヒオーレは呟く。

 

 レオンミシェリは、今もかつてと変わらない。

 ミルヒオーレを実の姉妹の如く愛しく想い、そして守ろうとしている。

 レオンミシェリの行動の理由は全てそこに帰結しており、今回の戦も、なればこそだと然る者は言った。

 しかし、ミルヒオーレを守る事と、そのために宝剣が必要な理由が―――そのために戦争を仕立て上げてまで強引に宝剣を奪おうとする理由が、ミルヒオーレには見えなかった。

 

 だから、確かめるために。

 

「行きましょう、レオ様の元へ!」

 

 ミルヒオーレは進むと決めた。

 

 

 ・輝暦2911年・珊瑚の月『十一日目・レオンミシェリ・ガレット・デ・ロワ著〈戒め〉より抜粋』

 

 

「じゃ、乾杯」

「……フン」

 

 グラナ浮遊砦屋上。

 名物と称される天空闘技場の脇に作られた東屋で、シガレットはレオンミシェリとカップを打ち合わせていた。

 内で揺らめく湯気の立つ液体は、赤色。

 青い空の下、緩い風に乗って酒精が香る。

 レオンミシェリが不機嫌そうな顔でそれを口に含んだことを確認した後で、シガレットも自身のカップを口元に寄せて傾けた。

「それで?」

「それで、って?」 

 とぼけて見せれば、更に不機嫌に眉根を寄せる。

 レオンミシェリは現状を許容している筈が無かったから、当然の結果だった。

 眉を寄せる。つまりは、眉間に皺が、皮膚は連結しているから、一箇所が寄れば、必然、他の部位も。

 

 そこには、隠しようも無い疲弊した少女の素顔が見えた。

 

 苦々しい思いが、シガレットの中で沸きあがる。

 過保護が過ぎれば良くないとは理解していた。

 しかし。しかし、だ。

 やはり直視してしまえば、どうしても考えてしまう。

 自身の行動に決定的な誤りがあったのではないか、と。

 否、行動を成さなかったことこそ、過ちだったのではないかと。

 

 シガレットはレオンミシェリの気持ちを優先したかった。

 ミルヒオーレの懊悩よりも、自分自身の気分よりも。

 だから最後の一線まで、待つことを選んだのだ。

 

 しかし。

 

『私は進むと決めました。例えどのようなことが待ち受けていたとしても。自分の足で進んで、自分の目で見て、自分の心で判断すると、決めました』

 

 ミルヒオーレの決意の表明。

 気まぐれに木陰で休憩を取っていた彼の傍に一人で寄ってきて、ミルヒオーレは決意を述べたのだった。

 幼い頃、よくそこで茶菓子を啄ばんでいた頃と同じ唇から、力のある声で、ミルヒオーレはシガレットに告げたのだ。

 

『レオ様のご意思は存じています。とてもとても、嬉しく思います。ですが私は、私がレオ様の想いにお答えすることで、レオ様ご自身が傷ついていらっしゃることに―――私は、私は我慢できないのです』

 

 我侭な、と賢しい大人は言うだろうか。

 しかしシガレットには、賢しくも先ばかりを考えて今を見過ごしているシガレットには、あまりにもミルヒオーレの姿は眩しすぎた。

 

『貴方はどうですか、シガレット―――いえ、ガレットの勇者さま』

 

 その言葉に、返す言葉が見つけられなかった。

 シガレットはレオンミシェリの想いを優先するために、自身の気分を損ねている。

 それは誰が見ても明らかな事実であり、気付いていないのは彼ばかりだった。

 彼は賢しい男だったから、問われて一瞬で返すべき言葉も見つかったけど―――結果を見れば、どうだろう。

 

 形振りも構わず周りを巻き込み立ち回り、気付けば此処に、立っている。

 レオンミシェリの前に。

 レオンミシェリの意に沿わぬ形で。

 

「疲れてるね、レオ様」

「……なに?」

 眉を跳ね上げるレオンミシェリに、シガレットはカップから立ち上る湯気で表情を隠しながら、淡々と続ける。

 何故だか楽しくて仕方が無い今の気分を、誤魔化すために。

「こんな真似を仕出かしてしまえば、どう言うことになるか―――普段の貴女なら、解っていた筈だ」

「こんな……」

 なにを指しての言葉かすら、理解できていないようなその態度。

 先ばかりを見てしまって、今を置き去りにしてしまっている―――誰かの姿と、重なって見えた。

 

「貴女ばかりが勝手気ままに動き回って、流石のミル姫だって行儀良く黙ってなんて居られないでしょう」

 滑稽だ。

「あの娘は元々、仲間はずれが嫌いな寂しがりやの拗ねっ子で、おまけに負けず嫌いな部分もたっぷりある娘なんですから―――此処まで好き勝手に貴女ばかりがやってしまえば、あの娘は動かざるを得ない」

 道化のようだとすら思えた。

 目を見開き言葉の意味を噛み締めるレオンミシェリの姿が、哀れでならない。

 だから、こそ。

 後が恐いなと思いながら、カップを取り落として身を振るわせるレオンミシェリに、シガレットは轟然と告げた。

「貴女との約束はちゃんと守ります。あの娘の傍で、あの娘を見守る。あの娘が立派な領主になる、その時まで。―――あの娘の傍で……もう直ぐあの娘は此処へ来る。自分の意思で、決断したんです。此処へ来る事を。貴女に会いに来る事を。自分の手で決着をつけることを。それはきっと、立派な領主へと続く第一歩とも言えるでしょう? なら俺は、傍でそれを見守らないといけない。―――貴女との、約束の通りに」

 

 だから此処に居る。

 

 無論嘘だ。ごまかしに過ぎない。

 しかしその事実を、レオンミシェリが気づける筈も無く。

「そんっ……それでは、そんな。ミルヒが……それでは、まるで!」

 ミルヒオーレの存在こそがレオンミシェリを突き動かしたように。

 今まさに、レオンミシェリの存在がミルヒオーレを行動させていた。

 その事実を、レオンミシェリは今更ながらに理解した。

 その意味が含む恐ろしさを。

「それではまるで、ワシが、ワシこそがミルヒを―――っ、っ!?」

 

 震える声で、シガレットに縋りつきながら言葉を並べる途上で、レオンミシェリは自身の体を襲った異変に気付いた。

 身体が重く、視界が暗い。

 急激に、身体の自由が失われていく。

 泥の海に沈んでいくような、抗いがたい夢魔の誘いのようで―――。

 

「シガ、れ……」

「―――ごめんね。ミル姫か貴女かって言ったら、当然貴女を優先します、俺は。でも、貴女か、貴女が大切な(・・・・・・)俺自身《・・・》かと言ってしまえば」

 

 もっと早く気付くべきだった。

 

 その言葉を最後まで聞けぬまま、レオンミシェリの意識は闇へと沈む。

 床に崩れ落ちそうになる彼女を、シガレットはそっと抱きとめた。

 優しく、優しく、労わりを篭めて。

 

「流石ルージュさん、良い仕事だよ」

「恐悦に存じます」

 

 そして、背後にそっと寄ってきた女性に、そんな言葉をかけた。

 

 

 ・輝暦2911年・珊瑚の月『十一日目・甲種害獣駆除計画最終報告書より抜粋』

 

「気象情報は?」

 

 レオンミシェリを抱きかかえた体勢のまま、シガレットは背後に居るルージュに尋ねる。

「明らかに自然的な現象とは異なる形で、この近辺に暗雲が集まり始めています。戦闘区域が曇天に変わるのも、間もなくかと」

 ルージュの返答は、予め用意されていたかのごとき滑らかさを、

「じゃあ、加護力の変動は?」

 そしてシガレットの態度も、全く落ち着いた物だ。

「各観測基地からのデータは、何れも減少傾向にあると示しています。やはりこちらも、危険域への突入まで、それほど時間は残されていません」

「元々国境付近のフロニャ力は減り気味だったからね、此処半年近く……」

 当然だ、とシガレットは一つ頷いて次の質問へと移る。

「じゃ、戦況の方は?」

「はい。チャパル湖沼地帯平原部に於いて発生したバナード将軍とロラン将軍との一騎打ちに引きずられる形で、両軍の大規模激突が開始されました」

「まぁ、ボスキャラ同士が正々堂々ぶつかり始めちゃったら、迂闊に抜け駆けで城攻めとかも始められないだろうしね」

「ビスコッティ側山岳アスレチック、及びガレット側渓谷アスレチックの両エリア内に兵員が侵入した形跡は、現在確認されていません」

「予定通りか―――それは結構。あ、でも、警戒態勢は解かないようにね」

 当然だけど、と付け加えるシガレットに、ルージュも無論だと頷いた。

 

 グラナ浮遊砦屋上の、プールのジャンプ台のように張り出した場所に備えられた東屋から眺める地平線の向こうからは、黒い雲が死人出来るようになってきている。

 視線を下に落とせば、渓谷の向こうに広がる平原で豆粒のような小さな影が大量にうごめいているのが見えた。

 戦争が行われているのだ。

 万単位の人間が、楽しそうに競い合っているに違いない。

 

 何も知らず。

 ―――知る必要も無いだろうと、腕の中の少女はそう思っているに違いない。

 だが。

 

「アッシュ様?」

 黙ってしまったシガレットに、ルージュが声をかけた。

「いや」

 シガレットは気分を切り替えるように首を振る。

 踏み出してしまった以上悩みは禁物だと自分に言い聞かせて、改めて口を開く。

「お客さんたちは?」

「現在、小渓谷狭道を騎兵部隊と共に侵攻中です。間もなく、特設砲兵部隊を視認出来る位置に差し掛かるかと」

「虎の子の砲兵がこと(・・)の前潰れるのもアホらしい。マスケット持たせたヤツだけ適当に散らして―――」

「既に、ゴドウィン将軍がそのように指示を」

「あ、先生もう戻ってきてるんだ。―――ガウルとかも?」

「下階にて、アッシュ様をお待ちです」

 主の疑問に、ルージュは完璧な返答を示す。

 その献身が重たいなと、シガレットは些かばかりのプレッシャーを感じていた。

 しかし今更、弱音なんて見せられるはずも無く、勤めて何時もの態度を心がけて、ぞんざいな言葉を配下に返す。

「番茶でも出して、待たせといて。―――ああ、チビ猫だけは上がってくるように伝えておいて。あとエロウサギは砲兵と弓兵の面倒みさせとくように。あ、砲兵といえば……」

「そちらはビオレお姉さまがお迎えに」

「ビオレさんが? ―――しまった、エミリオ君にサイン貰っておくように伝えとくんだった……」

 三日前(・・・)から代役―――と言うか、早い話『身代わり』としてビスコッティ本陣であるスリーズ砦に置いて来た後輩の預かった幸運を羨ましく思って、シガレットは天を仰いだ。

 多分、この態度だけは本気だろうなーと思いつつも、ルージュはあえて何も言わない。

 目上を立てる、良く出来た従者の姿だった。

 若干視線は厳しいが。

「因みに騎士エミリオからの言伝ですが、『二度と御免です』とのことです」

「ははははは……彼本当に容赦ないよなぁ。―――ええい兎も角、もう準備は大体終わってるってことになる、かな」

「―――はい。ビオレお姉さまたちがご帰還なされば、後は」

 

 後は―――言うまでも無い。

 

「じゃ、雲が太陽に被り始めたら、避難警報出して。バナードさんとロランさんには、お願いしておいた通りスリーズ砦までの全員の避難誘導に全力を尽くすようにお願いしますってもう一度伝えて於いてください」

「かしこまりました。ところで」

「何かな?」

「レオ様はどうなさるのかと……あと、お客様がいらっしゃる前に、アッシュ様のお召し物の方を」

 

 お着替えなさいませんと。

 ルージュとしては戦闘衣、つまりビスコッティの騎士服の上に脚甲を装備しただけのシガレットの姿が、従者根性的な意味でお気に召さないらしい。

 今にもこの屋上にドレッサーを用意しそうな勢いだった。

 

「ええっと、レオ様ね」

 シガレットは聞かなかったことにして腕の中で眠るレオンミシェリに視線を落とす。

 何時かの晩のように、再び睡眠薬の仕込まれたワインによって深い眠りに落ちてしまったレオンミシェリは、そのワインの入っていたカップを落としてしまった影響で、胸元を赤く濡らしていた。

「……む」

 ついでに視界に入った足元は、割れた陶器のカップを中心に赤い液体が広がって居る。

 そして、片手で取っ手を握ったままの、口をつけていない自分の分のワインに視線が移った。

 徐にカップを傾けて、中に注がれていたワインを床に零す。

「アッシュ様?」

 主の突然の行動を不思議に思った従者が目を丸くする。

「ああ、いやね」

 シガレットは微苦笑交じりに赤い液体が大きく広がった床を見下ろして―――、一つ、納得したように頷いた。

 

 そして。

 

「あの、何を……?」

「ちょっとした験担ぎと、後は―――演出みたいな物だよ」

 シガレットは、あろう事かワインのぶちまけられた屋上の床に、直接レオンミシェリを寝そべらせた。

 うつ伏せの体勢で、赤い床に倒れ伏せるレオンミシェリ。

 その光景を、シガレットは満足そうにしばし見つめた後で、大きく息を吐いた。

「こう言う事だったのかもなぁ……」

「今更、という他無いかと」

 弱音のような主の言葉を、ルージュはピシャリと嗜めた。

 シガレットも自嘲気味に笑う。

「そりゃそうだ」

「はい、ですのでそろそろ身支度の程を―――」

「また着るのか、アレ……」

「勿論です。アッシュ様にはお立場に相応しいお姿をしてもらいませんと。傍仕え一同の沽券に関わります」

「何時からあんた等、俺の傍仕えになったんだか……」

「それは勿論、”明日から”」 

 いっそ楽しげな調子のルージュに、シガレットは脱力を覚えた。

 どういう言葉を返そうにも、その先には地雷しか見当たらないのだ。

「今更、か」

「はい」

「笑顔で頷いてくれるのがビオレさんだったらmだ諦めがつくのに……。まぁ、良いや。衣装、衣装ね……おい、衣装だってさ」

 心のそこからどうでも良いやと言う気分で、シガレットは何処かの誰かへ向かって語りかける。

 屋上の人影は、今のところ彼とルージュ以外いない筈だったが―――反応は、別の場所から。

 

 胸元で一瞬、服の内側から青い光が瞬く。

 次の瞬間それは、右手の薬指の位置に転移して、青い宝玉を讃える指輪を形作る。

 そして、指輪を中心に輝力光がシガレットの身体を覆いつくして、それが収まった時には、もう。

 

「凄い物だよね、宝剣ってのは」

 肩から垂れ落ちる青いマントを鬱陶しそうに払いながら、シガレットは息を吐く。

「そのお姿……エクスマキナが?」

「うん。ガレットの勇者の青い衣。―――領主の格好に輪をかけて、これも派手だよなぁ。泉君も、良く来て早々こんなファンタジーな格好に馴染めたもんだよ」

 使っている色は青系が主の寒色系で纏められている筈なのに、細々とした装飾といい、装甲部分の複雑な形状といい、一々手が込んでいて華やかな風合いだった。

「良くお似合いです」

「サイズぴったりだからね。重装甲の割りに、軽いし。ホント、流石宝剣ってトコだよ」

 目を輝かせたルージュの言葉に照れ交じりに返す。

「ついでに、お前もちょっと助けてくれない?」

 東屋の柱に立てかけてあったグランヴェールが目に入ったので、シガレットはそれにも声をかける。

 グランヴェールの中心にはめ込まれた翠緑の宝玉が、応、と頷いたかのごとく煌いた。

「ありがとさん」

 かなりの重量を誇る筈のグランヴェールを、しかしシガレットは全く重さを感じさせない動作で肩に担ぎ上げた。

 それから改めて、仕切りなおすように暗雲の漂い始めた空を見上げる。

 

「戦況は予定通り。空は御覧の天気模様。守護のフロニャ力は順調に減少中。レオ様は御覧の通りでガウルと三馬鹿は既に居るし、ビオレさんたちだって妨害が無いんだから時間が掛からずにこっちに来れるだろう」

「はい。ダルキアン卿たちも、既に迂回路を通って砦近くまで来ているとの連絡が入っています」

 相槌を打つルージュの方を見ずに、シガレットは一つ頷く。

「あんな森の中を良くもまぁ。流石に慣れてるだけあって早いねあの人たち。……あ、お客さんたちとかち合わないように勝手口から入るように伝えておいてね。―――さてと、これで人も武器も、揃えられるだけ揃えた。万端、とは流石に言えないけど……」

 

 現状で、可能な手は全て打った筈だ。

 引き伸ばしは、もう出来ない。だから、もう。

 誰に答えを求めるでもなく、誰の肯定を望みもせず、シガレットは自身にこそ納得を押し付けた。

 そして、漸くの態度でルージュに向き直り、告げる。

 

「それじゃあ、お客様のお出迎えと行こう」

 

 

 ◆◆◇◇◆◆

 

 

 ―――それにしても、アレだよねぇ。

 

 ……いやホラ、あの頃も……いや、ほんの少し前までなんだけども、ホラ。

 ホントに意地を張らずに、こまめに連絡を取り合っていればなって。

 そーすればもうちょっとね……ああ、ゴメン。

 どーせオレは、昔っから何かにつけて引きずりやすい性質だよ。

 悪いね、面倒くさい男で。

 

 ―――…………。

 

 いやいやいやいやいや。

 流石にそれは褒め殺しの領分に……あと、そういう発言をするときはドアのあたりに注意した方がいいと思う。

 多分、出歯亀が聞き耳を立てて―――ヲイそこのアホ虎! ウサギ!

 今すぐそこから離れないと、耳をちょん切るぞ!

 ……ぇえっと、まぁ、こういうドメステッィクでバイオレンスなことに……って、なんか凄い音がしてるけど、そっち、平気?

 

 ―――ん? その鳴き声はチェイニーかな?

 

 ああ、いや、受話器そのままで良いよ、多分そのうち戻ってくるから。

 うん、どうせ通話料はオレ持ちだから。

 あっはっはっはっは、慰めの言葉ありがとう。……きっと、ガレットでキミだけだよね、オレに優しいのって。

 今度、特上の猫缶でも奢る。

 

 え? 自分で地球に買いにいくから、要らない?

 

 ―――キミ、そんな事出来たんだ。

 

 

 ◆◆◇◇◆◆

 

 

 


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