鈴色紅葉   作:足の裏の歌

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人間は考える葦である
~1~


 特別な願いを抱いたわけではなかった。

 ただ当たり前の、穏やかな日常を願っただけだった。

 絆を育て歩んでゆく次世代の未来を見つめていたかっただけだった。

 

 だが人生とはかくあるべきと決まったものではない。

 

 それが運命だった。言葉にしてしまえば単純で、抗いがたく、認めきれず――それでも受け入れなければならないことだった。

 それで良かった。己の目で見て肌で感じることはできなくとも、あらゆる生物がそうしてきたように――彼らはきっとより良い未来へと進んでいったはずだから。

 

 

 

 

 

 

 随分長い間受けていなかったかのように思えるが、またたきのように一瞬であったとも錯覚させられる。俺が久方ぶりに目にした陽光に抱いた印象はそのようなものだった。

 

「…………」

 

 それを与えてきた人物は、ほっそりとした指を俺にかけて小さな身体を持ち上げてくる。赤い葉をつけた紅葉の枝木を背景に、硝子玉のような瞳でこちらを見つめてきていた。

 

「…………」

 

 男か、女か、判断のつかないような歳の頃の子供。こけた頬には汚れが目立ち、汗を幾重にも重ねた臭いが俺の鼻に飛び込んでくる。風呂になど入っていないのだろう。黒い髪は脂でべたついていた。

 

「…………」

 

 表情はなかった。無機質で、機敏を見せず、だがどこか無垢に見えるその子供は、僅かばかりの興味を多大な無関心で覆っているような目で、まっすぐこちらを見ていた。

 両の手のひらについた痩せこけた親指が、その傷ついた爪が俺の首にかかる。きりきりと、真綿で首を締めるような脆弱な力で、されどはっきりとした意思を持った力で、呼吸を止めるように力が込められてゆく。

 

「…………」

 

 生き物が生き物を殺し食らう。原初の法をそのままに、目の前の子供は俺にそれを実践しようとしているのだ。

 

 風が吹く。砂埃が舞う。紅葉が揺れる。一枚の葉が枝から離れ、ひらひらと飛ぶようにどこかへ消えてゆく――鈴の音が、聞こえた気がした。

 

「……なん、や。俺、食われるんか」

 

 意思とは無関係に言葉がこぼれていた。

 

 ひくり、形の良い眉毛がほんのり動く。初めて見せた子供の感情の揺らぎに、そう言えば俺は、と自分の境遇を思い出して言葉を紡ぐ。今度は自分自身の意思を伴って。

 

「殺されたら俺、困るんやけどな」

 

「…………あ…………」

 

 返された言葉は言葉とは呼べないほどのつぶやきで、小さくかすれ、そこには薄い動揺が見えた。身体をよじり、食い込む爪を引き剥がし、俺は小さな身体を小さな子供の手のひらの上に逃がしてやる。

 棒立ちの子供は先とは変わらず無機質な目で俺を見ていた。

 

「酷いもんやな」

 

 けほりと咳払い。かすかに痛む首をさすりながらぐるり辺りを見渡してみれば、俺の視界に収まったのは悠然と広がる荒野。へこみ盛り上がった砂と岩だらけのそこに一本だけ立った紅葉の木。その下に、人形のような子供の手のひらの上に、俺はいた。

 

「なんやしっかりしとると思うても、あの坊主もまだ子供やったってことか」

 

「…………」

 

「にしてもなんでお前はここを見つけられたんやろな?」

 

 独白するような俺の言葉に子供は答えない。ただ広がる荒野と同じように、さみしい瞳で俺を見ているだけだった。

 

 

 

 

 

 

 故郷では秋になると山は赤と黄と茶に鮮やかな化粧をしていた。俺はその光景が、夏の生き生きとした緑から冬の寒々とした白の間に僅か訪れるその季節が好きだった。

 

 はじめは三人だった。妹が生まれてからは、父と母と俺とを合わせて四人になった。そして二人になった。父と母が死んでから、後に妻となった幼馴染をひとり加えて三人になった。丸いお盆に乗った緑茶と菓子が酒と肴に変わる頃、また一人増えて四人になり、いつの間にか五人になっていた。

 時折訪れる慣れない仕事に疲れている様子の上司を、その娘を、妻の妹を、義理の弟を加えて、無駄に広い実家の縁側で飽きることなく山々を見ているのが好きだった。

 

 そしてそこにもう一人増えるのだと思っていた。それが人の営みだと。

 

「紅葉は好きか?」

 

 手のひらに余る大きさの葉を握り、同じように紅葉の葉を見つめてその木に背を預けて座る子供に問いかける。するとうっすらと開いた目で傍らに座る俺を見下ろしてきた。耳を傾けるように、先とは変わらず無機質な、しかし先とは違い僅かだった興味を広げた目で。

 

「…………」

 

「綺麗やろ。俺の実家やったらもっと綺麗に見れるんやで」

 

 昔を思い出したのはだだっ広く単一色に、地平線の彼方まで何もない荒野に不釣り合いに生え不釣り合いに葉を色に染めた紅葉のせいだろう。これにも花言葉があるのだと教えてくれたのは妹だったか、妻だったか。確かそれは『節制』、『遠慮』、『自制』、そして『大切な思い出』。

 

 思い出すのも仕方がない話だなと納得しつつ、その木の下で俺は口を開く。白い毛の生えた小さな口で。

 

「ひとりか?」

 

 子供は答えない。ただ俺を見ているだけだ。

 

「名前は……っと、俺も名乗っ取らんかったな。俺は……せやな、カラクレ・ウジマーチャや」

 

「……から、くね」

 

「せや。てかなんやねん、喋れるやんけ」

 

「…………」

 

「まただんまりかいな。そら構わんのんやけどな、名前だけでも聞いとかんと話もしずらいやろ。せやから教えてくれるか?」

 

 ふるふると横に首を振る。それが返答だった。みたところ五つか六つほどの歳の子供に名前がないとはと眉をひそめながら、そう言えばアイツもうちに来た頃はこの子供のように無口だったと昔を懐かしみながら額に寄ったしわを元に戻す。まぁもう一方は最初からおしゃべりでやんちゃな腕白小僧だった訳だが。

 

 子供の姿をもう一度確認する。薄汚れた外套を羽織り、その下にはところどころ破れてはいるがぴっちりと肌にフィットしている水着のようなスーツを着ていた。股間に膨らみはないし、どうやら女の子らしい。

 

「あー……名前無いんやったら俺が付けてもええか?」

 

 紡いだ言葉にはやはり未練があったからなのだろうか。頬をかきつつ少女を見てやれば、不思議そうな表情をしていた。感情がない訳でもないようだ。安心しながら彼女を観察していれば胸元には文字が書かれているのを発見した。

 

「超……雄? えらいけったいな服着とるなぁ」

 

 もとは何か文章が書かれていたのだろう。今確認できるのはその二文字だけ。女の子だとわかったこの子に『雄』などという名前を付ける訳にはいかない。となれば『超』の文字を使う訳だが――

 

「日本人で『超』なんか使わんしなぁ……どないしょっか?」

 

「……ちょう……にほんじん……」

 

「人種もわからんし、それ以前にここ地球やないし……ええか、フィーリングで」

 

「なまえ……わたしの……?」

 

「せやで」

 

「さんばん」

 

 零れた声に短い尻尾が膨れ上がるのを感じた。

 『さんばん』、そう彼女は言った。相変わらず不可思議そうな光をたたえる彼女の瞳に感情の揺らぎは見受けられず、それが事実を浮かび上がらせる。この少女がずっとそう呼ばれていたという事実を。

 

「……ほうか。やけどな、女の子のことさんばんなんて呼んでしもうたら俺が叱られてしまうんや。せやから名前付けてええか?」

 

 膨れ上がりそうになる感情を抑えながら、穏やかな口調を心がけて話しかけてやれば少女は小さく頷いた。

 

 殺風景な荒野の中、薄汚れた格好で年端もいかない少女がたった一人なのだ。考えれば浮かぶ悪い予感――純粋だった赤毛の少年は―――いや、他でもない俺自身のせいで間違いが起こってしまったのだろう。

 

 ずきりと、脳髄が痛むのを感じた。

 

 かぶりを振るい、痛みを振り払うように言葉を出してゆく。ずきずきと追いすがってくる痛みを無視するように。

 

「超もあれやな、中国人やったら使うやろ。そうなったらチャオ読むんやったか」

 

「チャオ……?」

 

「ほな下は――」

 

 そこまで言って、やはりという思いが胸の内から染み出てくる。

 

 やはり俺は未練だったのだ。名前を付けるという行為が、ずっと心残りだったのだ。

 

「女の子やし、かわいい名前がええわな」

 

 気づけば目じりは下がり、俺は笑顔を浮かべていた。

 

 風が吹く。砂埃が舞う。紅葉が揺れる。一枚の葉が俺の手の中から離れ、ひらひらと飛ぶようにどこかへ消えてゆく――鈴の音が、聞こえた気がした。

 

「……鈴音」

 

「……す、ずね?」

 

「おお、お前のことは今日から鈴音て呼ぶで。……やけどそしたら超が浮くんか……リンイン? いや、鈴の音やからリンシェンやな」

 

 にっぱりと微笑んでやれば繰り返すように少女は――超鈴音は呟く。

 

「チャオ、リンシェン……リンシェン……すずのおと……」

 

 風が吹く。砂埃が舞う。紅葉が揺れて霧のように掻き消えてゆく。

 

 こてりと荒野に背中を預けた少女の上に飛び乗って、俺は自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

 

「袖振り合うも他生の縁、ってやつや。女の子ひとりほっといたら叱られるからな、オコジョの身やけどよろしゅう頼むわ」

 

 それが俺、カラクレ・ウジマーチャと超鈴音の最初の出会いだった。

 

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